BATTLE ROYALE 8




 それは、あまりにも単純であり、不可解なこと。
 私―――茂木螢子―――は、不意に思う。
 シャワーを止めると、静寂が訪れる。この静かな瞬間に、私は我に返るような、そんな錯覚を覚えた。
 私は思う。私とは誰なのだろうか、と。
 茂木螢子とは、一体誰なのだろうか、と。
 私が私じゃないような感覚。これって、離なんとか症…って言うんだっけ。
 私は、もしかしたらとんでもないものを抱えているんじゃないだろうか。
 それは恐怖なのだけど…なにか別の感覚が、こみ上げる。
「螢子さん?大丈夫ですか?」
 そんな声が、浴室の外から掛かった。由子とかいう、高校生。
「はい、大丈夫ですよ!」
 私は答える。
 答えた、その明るくて高い声が、妙に不自然だった。
 危険信号が点滅する。
 浴室から出て衣服を身に着ける。
 そんな動作をしている間にも、何か私の中で変化しているような気がする。
 危険信号。
 危険信号。危険信号。

「…螢子、さん…?」
 浴室を出てすぐ、榎本由子と顔をあわせた。
 危険信号。
「…ちがう。」
 ポツリと呟いたのは私。
「え…?」
 不思議そうに聞き返す少女のそばをすり抜け、私は外へ通じるドアへ向かった。
「螢子さん!?」
「え…?ちょっと、どうしたの!?」
 行動を共にした2人が慌てた様子で私に声を掛ける。
 ふと、忘れ物に気づいた。
 くるりと振り向いて、私は部屋の棚に無造作に置かれた銃を手にした。
「…!?」
 チャッ。
 無意識に私は、その銃口を2人に向けていた。
 危険信号。危険信号。危険信号。
 危険信号。―――黄色。
 私は銃をしまい、再び扉へ向かった。
「け…螢子っ…どこ行くっていうの!危ないわ!」
 律子サンが、説得するような口調で言う。
 ふいに、どこかで聞いた言葉が頭を過ぎった。
「あなたの知っている私が、本当の私とは限らない。」
 そう。これよ。
 私の中でもやもやしている感覚。
 振り返ることなく、私は部屋を後にした。
 危険信号。危険信号。
 危険信号。―――黄色。
 私は、どこへ向かっているの。
 私は、どこへ…。





 時計は、午前十時を指している。
 あと一時間で禁止エリアは解除されて、私―――鴻上光子―――達の部屋も安全になるはずだ。出来れば早めに戻りたいところ。
 けれど、叶少尉の頭の傷のことが気に掛かる。とりあえず一晩安静にしていれば良かったんだけど…。
「ン…、うーん…。」
 眠ったままの少尉は少し眉をひそめて、小さく寝返りをうつ。
 やはり頭の傷が痛むのだろう…。
 私は眠った少尉の額に触れ、起こさぬようにそっと撫でた。しばらくそれを続けていると、しかめっ面だった少尉の表情にも、ようやく安らぎが見て取れた。私はそれを見て、安堵の吐息を漏らす。
「少尉…。」
 約束を守ってくれた、少尉。
 光子、って。私の名前、呼んでくれた。
 ねぇ、少尉。私も少尉のこと、名前で呼んでもいいのかな?
「…ねぇ、涼華?」
 私は小さく囁いて、笑みを漏らす。
 裸の肩に、毛布が掛かっている。その毛布を少しだけずらし、露になったきれいな肌に指を滑らせる。
「うー…」
 涼華が、ピクンッて少しだけ反応した。その無意識の動作が妙に可愛い。
「涼華…ねぇ、涼華ってば…」
 眠った女性の名を呼び、その額に、頬に、首筋に、肩に、キスを落としていった。
「……何、してるの?」
 そんな問いかけに、私は少し驚いて顔を上げた。
「起きてるなら言ってよ?」
 小さく笑んで私を眺める少尉に、私は小さく不平を漏らした。
「……うん。起きてる。」
 少尉は、クスクスと笑って言った。
「もぉ…いじわるね。」
 そんなことを言いながら、やわらかいハグ。すると少尉は…涼華は、自然にハグを返してくれた。女って一晩で変わるものねぇ。
「…フフッ、昨日は可愛かったわよ?…リョウカ。」
 囁くと、涼華は照れくさそうに小さく笑んだ。愛しさがこみ上げてくる。
「…ね、…光子?」
 涼華は、少しためらいがちに私の名前を呼んだ。
「なぁに?涼華?」
「…ううん、なんでもないよ、光子。」
「変な涼華…。」
 わかってる。ただ単純に「少尉」でも「鴻上さん」でもなく、名前を呼び合うという行為が、今の私たちにとっては最高に幸せなんだって。
「あのね、光子…」
 涼華は、改まった様子で話し掛けてきた。
「うん?」
「あの…ね?…私達って、…その…、…恋人、かな?」
「うん、そうよ。」
 にっこりと笑んで頷くと、涼華は嬉しそうに笑った。
「恋人…だって。…あはは…変なの…。」
 涼華の笑顔。
 …それだけでいいの。そう、それだけで私は、幸せになれる。
 私が涼華を幸せにできるのなら、私たちは、恋人よ…。
「でもね、…恋人って、いつまで恋人なのかな?」
「…いつまで、って?それは、お互いが愛し合っているうちは、ずっとよ。」
「…うん、でも…、もし、死んだら、どうなるのかな?」
 涼華の言葉に、ふっと悲しい思いが過ぎった。
「死んだら…。」
「もし、死んだら…恋人は、恋人じゃなくなるのかな…。」
 涼華も、悲しそうだった。
 せっかく恋人になれたのに。
「…もし死んでも、恋人でいられたらいいわね?」
 私は言った。
「絶対にはならないのかな?」
 涼華は言った。
 彼女は、曖昧を嫌う節がある。
 それが彼女のいいところでもあり、悪いところでもあるかもしれない。
「死んでも絶対に恋人でいるには…、…うーん。」
 私は頭を抱える。絶対なんて、そんなこと私には難しい。
「私は…」
 涼華は、私の顔に手を伸ばした。私の唇に触れ、私の口の中に、その指を押し込んだ。
 その行為に少し驚いたが、私は涼華の指を口に含み、舌を絡ませる。
 少し息苦しくなったが、それでも涼華は私の口から指を引こうとはしない。
「ン、…っ…」
 吐き出そうとすると、涼華は更に私の口の中に指を押し込んだ。
 ちょっと、待って…苦しっ…!
「…私は、光子の全てを“ワタシノモノ”にしたいの。」
 ポツリと、涼華が言った。
 …え?
「全てを侵して、ぐちゃぐちゃにして、それでも、光子は“ワタシノモノ”でいられる?」
 ぐいぐいと、涼華の指が私の口の中で暴れる。口内の皮膚に爪が当たって、私は吐き気すら覚えた。
 涼華の手を、両手で掴んでなんとか引き剥がした。
「はぁっ、はぁ…、ゲホッ、…、ッ…!」
 口の中がからっぽになった瞬間、酷い嘔吐に襲われ、私はトイレに向かおうとした。しかし涼華は、それすらも許さなかった。
「ここで吐いてしまえばいい。どうして?恋人には嘔吐物を見られたくないの?そんなの偽りじゃないの?」
 私の腕を掴んだ涼華の手に力が篭る。爪が、皮膚に食い込む。
 私は唾を飲み込んで吐き気に耐えた。すると、吐き気とは違うものが込みあがってきた。
 ―――恐怖。
「光子は私のことが嫌い?」
「…嫌い…じゃ、ないわよ。」
「じゃあ、…なにもかもを見せてよ。全部、私に頂戴?いいでしょ?」
 涼華の瞳は純粋無垢で、怖くなるくらいに透き通っている。
 …私は、もしかして何かとんでもない思い違いをしていたのだろうか?
 涼華という人間は…
 …………どんな存在なのか、理解できなくなっていた。
「…私のためなら、なんだってできるでしょ?」





「2−C、3−B、5−D、7−A、9−A・B、11−D・E、14−C・D・E」
 手帳に書き記した記号を、頭の中で照らし合わせていく。
 二階の備品室、三階の個室、五階の空き部屋、七階の個室、九階の個室二部屋、十一階の備品室と空き部屋、十四階の展望室…か。差し当たって問題はないだろう。
 俺―――加山了一―――は、入念に禁止エリアを確認した後、手帳を閉じ、胸ポケットに直した。
 『美術室』などに用がある者はそうはいない。安全な場所だと思えるが、しかし他の参加者も同じことを考えると厄介だ。現に一度、誰かがこの美術室に入ってきた。応戦はしなかった。足に負った怪我の痛みが酷く、とてもじゃないが戦える状態ではなかったからだ。幸い、その人物はなんとかやりすごしたが。
 ここは自室に一旦戻るべきかもしれない。足の痛みはまだ引かないが、何時間か前よりは幾分マシだ。
 とにかく、此処でじっとしているのは良くないだろう。
 俺は、身を隠していた机の角に掴まって立ち上がった。
 ―――ズクン。
 足が、強烈な痛みを発した。
 当然か。ボーガンの矢が貫通したんだ。これで大怪我でないわけがない…。
 身の安否が前提だ。このまま傷を放置して化膿などしては厄介だからな。
 危険だが、ここは治療室に薬を探しに行くべきだろう。
 大丈夫。俺の武器は銃だ。身体に負担をかけずとも、敵を殺傷することは容易い。
 そんな結論を出した後、俺はすぐに美術室を出て治療室へ向かう。
 移動手段に悩んだが、この足で長い段差を歩くのは厳しいものがあると判断し、エレベーターを使って治療室2のある七階へ降りる。七階に着いてエレベーターの扉が開く瞬間は緊張したが、幸い誰もいなかった。
 まさかあんなことが起ころうとは―――今は知る由はなかった。
 俺は痛む足を引きずり、医療室へ向かった。





 チャッ。
 Keyのデータを差し込んだ後、私―――横山瑞希―――は静かにドアを開けた。
 部屋の中から反応は、ない。
 部屋の中に滑り込む。ベッドで横になる人物を見止めた。足音を忍ばせ、その人物へと近づく。
 ―――全く、暢気なものだ。
 私は内心呆れていた。あと一時間弱で、この部屋は禁止エリアになるというのに。おそらくこの人物は、その放送すらも聞いていないのだろう。
 その人物―――榊千理子は、かすかな息を定期的に吐きながら、目を瞑っていた。
「千理子。起きなさい。」
 冷たい口調で話し掛けると、少女は小さく身を震わせた。
 少しの間の後、ベッドに横になった少女から声が漏れた。
「……ミズキ、…」
 顔だけをこちらに向け、怯えた瞳で私を見上げる。小さく身をよじるが、すぐにそれを諦めたようだった。当然か。千理子の両手両足は紐で結われ、拘束されている。
「…どうして、来たの…?」
 千理子は言う。
「この部屋、もうすぐ禁止エリアになるよ…。ここにいれば、アタシだけじゃなく瑞希も死んじゃう。」
「知っていたの?」
「………アタシには関係のないことだけど、偶然聞えちゃったよ。あんな放送聞かなきゃ、何も考えずに死ねたのに!!」
 そう叫ぶと、千理子は目を端に涙を浮かべた。それを隠すように、身を丸めた。
「関係ないことじゃないわよ。…私がここに何をしに来たと思っているの?」
「…?」
 千理子は身体を丸めたまま、目線だけを私に向けた。失望の中に、かすかな希望を灯らせた瞳で。
「行くわよ。安全なところに。」
「…な、何言ってるの?瑞希はアタシを殺そうとしてるんじゃ…?」
 私の意図を理解しかねてか、千理子は不安げな表情で問うた。
 そんな千理子に、私は笑みを向けた。
「そんなわけないでしょう。忘れたの?…私はあなたの恋人でしょう?」
「…瑞希…?」
 尚も不思議そうに私を見つめる千理子の、足の拘束を解いた。
 ひとまず千理子を立たせた後、私は千理子に宛がわれた武器を探した。部屋に備え付けのクローゼットの中にあったのは、袋に入った手榴弾五ヶ。私はその袋を肩から掛け、再び千理子に向き直った。
「私が守ってあげるわ。…逆に言えば、私があなたを守らなければ、あなたの命は消えているところよ。忘れないでね。」
 私の言葉に、千理子は躊躇いがちに頷く。
「それじゃあ、行くわよ。」
 私は千理子の肩を掴み、部屋の外へ向かった。
「あの…瑞希…?」
 千理子が、きょろきょろと周囲を見回しながら言う。
「なぁに?」
「どこに、行くの?」
 その問いに、私はふっと笑みを零した。
「安全で、とても楽しいところよ。」
「…楽しい…ところ?」
「えぇ。着けばわかるわ。…でも、その前に寄るところがあるわ。あなたを万全の状態にするの。」
 その後、私は心の中でこう付け加えた。
 ―――そして、キレイな身体を再び汚してあげる、と。





「これは…」
 クローゼットの中にポツンと置かれている『物』に、私―――宮野水夏―――は息を呑んだ。何故かそれに手を触れることさえ躊躇われ、私はしばし立ち尽くしていた。
「先輩?どうしたんです?先輩の武器、なんだったんですかぁ?」
 横からひょこんと顔を出したゆきに、私はふいに我に返った。
「あぁ、いや…。…私の武器は、コレらしい。」
 私は、静かにそれを手に取った。
 ――ドクン。
 刹那、血液中が一斉に波打った。…当然、比喩表現ではあるが、決して過ぎた表現ではない。自分でも驚くほどに、手を皮膚を介して、この『物』に吸い込まれていく錯覚を覚えた。
「…ナイフ、ですかぁ?なんかゴージャスですね?」
 ゆきが、私の手にした『物』を見て言った。
「そう、ナイフ…。フィッシュナイフと言って、本来の目的は、魚を下ろすために使うものだ。…それにしては、用途には相応しくないくらい装飾も豪華だけどな…。」
 その身は、背を反らすように緩い曲線を描いている。この曲線部を利用して、魚の腸を抉り出す。しかしおそらく、このナイフは魚をさばくために存在しているのではないだろう。研ぎ澄まされた刃は、金属特有の鈍い光沢を持ち、何か獲物を探しているようにさえ見える。魚などでは飽き足らず、動物の肉さえも簡単に切り裂いてしまいそうな…。
「…水夏、なんか変じゃないか?」
 そんな声に、私はナイフを手にしたまま振り向いた。そんな私に、霜は見とれていた。
 わかる。自分でも、自分にこのナイフが似合いすぎていること。
 何か寒いものが背筋を駆け抜けるような感覚。
「…どーしたんすか?」
 ゆきが不思議そうに私に言う。私はきゅっとナイフを握り、
「…いや、このナイフ、ちょっとヤバいかな、と。」
 そう言って、小さく深呼吸。私はナイフをクローゼットへ戻した。
「………変な先輩。」
 ゆきの言葉に、私は小さく笑った。
 確かに変だ。こんな気分になるなんて。
 不良どもがこぞってナイフを持ちたがる理由を、理解できたような気がする。
 刃物に魅入られる。
 切り裂き魔の魂が、このナイフには宿っているのかもしれない。
 ………なーんてね。





「あーん、もぉ…なんてアンラッキーなのよ…」
 部屋のドアの前で、私―――木滝真紋―――は呟いた。
「気にしない♪気にしない♪どうせそのうち禁止エリアになっちゃうんだし、早いか遅いかよ★ それに…」
 私の居るところに真苗あり。相変わらずにポジティブというか脳天気というか。
 私たち…というか私の部屋が禁止エリアになり、ひとまずこの部屋を出なければならなくなった。同じ階にある真苗の部屋に行けば安全なのだが、それ以前に大問題があった。
「ぐー。」
「ぐー。」
 空腹。それは人類最大の敵であり、人類にとってもっとも恐るべき脅威。
 まぁ冗談抜きにして、このままでは生き残るとかそういうこと以前に餓死してしまう。
 というわけで、話し合った結果、私たちは三階にある飲食室へ向かうことにした。
 真苗の武器は毒針(5本)で、私の武器は小型の銃。前回よりはマシな武器だろう。どうでもいいけど、真苗は毒に好かれるのだとボヤいていた。まぁ類は友を呼ぶとでも言うのだろうか。
 私は腰の左側に銃を装着し、真苗はポケットに毒針を忍ばせている。利き手が空いている真苗が銃を持つべきなのだろうが、本人はそれを拒否した。「無理。」と一言で。
 まぁここ何日かで私の左手も随分言うことを聞いてくれるようになったし、なんとかなるだろう。…むしろ、なんとかなるといいな★ ……真苗が移ってきた。クスン。
 扉を開けると、廊下は部屋の中よりもひんやりした空気が漂っていた。
「……。」
 ふいに、手錠で繋がれた方の手が、暖かいものに触れた。
 真苗が不安げに私の手を握ってくる。そんな真苗をチラリと見やり、
「…大丈夫?」
 私は小声で真苗に声を掛けた。
「…うん、ごめんね。頑張るよ。」
 真苗は小さく頷き、そっと手を離した。
 私たちは、辺りに注意を払いながら、歩を進めた。
 階段に差し掛かった時、真苗が小さく言った。
「ねぇ真紋、もし…もし、誰かに会ったら…どうする?」
「…誰か、って?」
「…わかんないけど、誰か。その人が私たちを殺そうとしたら、その人のこと、殺す?」
 ―――『殺す?』
 ―――殺せる?
「…わかんない。」
 としか、返せなかった。私は、殺せるのだろうか?
 …殺したくはない。殺したくはないけど…。
 ……そんな考えに結論が出る前に、
 ―――その結論は…自ずとやってきた。
 ヒュンッ。
 不意に、風が走った。皮膚を切るような冷たい風。鋭い痛みに驚いて自分の首筋に手を当てると、ぴちゃりと、赤い血が滲んでいた。
「!?」
 驚いて周囲を見渡す。
 階段の上。
 一人の女子高生が居た。
「………躊躇ってるんですか?」
 少女は言った。
「躊躇ってるんなら、そのまま…躊躇っていて下さい。」
 渋谷紗悠里。
 見るからに秀才風の少女は、どこまでも無表情に、言った。
「っ…!」
 私は、腰の拳銃を抜いた。
 少女に拳銃を向ける前に、手の平の中で、何かがはじけた。
 パキィッ
 冷たい音を立てて、拳銃が崩れ落ちていった。
 唯、その事実が信じられなくて、言葉を失った。
「…、…はぁっ…」
 荒い息づかいに、階段の上を見やった。
 無表情の少女は、私たちを見下ろしていた。
 その顔に表情はないのだが、肩が激しく上下している。彼女の疲弊が伝わってきた。
 私の拳銃は砕け散った。少女の手に武器はない。少女は荒い息をつく。
 ―――わけがわからない。
「真紋!」
 真苗の声で、私は我に返った。
「逃げよう!」
 真苗は私の手を取り駆け出していた。
 私は、真苗に手を引かれるように、駆けた。





「はぁっ…はぁ…!」
 身体が鉛のように重く感じる。
 私―――渋谷紗悠里―――の身体は、勝手に、その場にへたり込んだ。
 じっとりと、身体中から汗が噴き出す。
 さっき、女性の手にしていた拳銃は分解した。直接的な力は何も加えていないのに。
 それは、私の『力』によるものだ。
 ………そう、私の『力』は決して衰えていない。
 だからこそ…絶望的だった。
 自室で、廊下で、私はあらゆる物に向けて『力』を送った。
 身体が重くなっていくのを感じながらも、やめられなかった。
 しかし、まるで私の『力』など存在していないかのように、何の変化もおきなかった。
 あの時、高校が崩壊した感覚。ほんの些細な『力』で、高校という一つの建物は、崩れ落ちたというのに。
 …それなのに、この建物は私の『力』ではびくともしない。
 信じられなかった。なぜそんなことが可能なのか。
 ………原因は分らずとも、結果は残った。
 私の力は、この建物では何の役にも立たない。
 自然の大木を倒すことも、建物自体を壊すことも、なにも出来ない。
 ここに、私が破壊できるものなど…存在しない。
 重く、厚い、壁の中。
 私は、閉じ込められてしまった。
 ………私は唯の、非力な少女に成り下がった。





 パンッ!
 瑞希がドアが小さく開いた。その直後に、銃声が響いた。
「っ…!」
 瑞希は、少しだけ開いたドアを閉じ、眉を顰めた。
 あたし―――榊千理子―――は、何が起こったのかわからなくて、瑞希を見た。
 瑞希はあたしの肩を掴み、唐突に駆け出した。
 足がもつれそうになるが、なんとか瑞希に着いていく。
 瑞希は医務室に入ろうとしたが、おそらく先客がいたんだろう。そいつが、ドアが開いた音に驚いて発砲したが、弾はドアかどこかにあたった、ということだと思う。 
 瑞希の武器は、腰に携えた斧と、あたしの武器だった手榴弾。拳銃相手じゃ分が悪い。
 ドアの開く音。そして、
「待て!」
 と、後ろから声がした。男の声。
「!?」
 その声に、瑞希は引きとめられるように振り向いた。あたしは、瑞希が振り向いたことに驚いていた。バカなあたしでも、今はとにかく逃げるべきってこと、わかるのに。
「お前か!…横山瑞希…!」
 あたしも振り向いた。男は、瑞希の名を呼んだ。
 …男に見覚えがあった。
 そう、一番最初に瑞希があたしの前に現れた時、その隣に居た男。
 確か、名前は…
「加山…」
 瑞希がポツリと呟いた。その目には、憎悪が見て取れた。
「こんなところまで生き延びるとは、ゴキブリ並の生命力だな。」
 加山は、銃をあたしたちに向け、嘲りの言葉を吐く。
「…そういう貴方だって、どうしてこんなゲームに乗っているのかしら?私を始末して手柄を独り占めするんじゃなかったの?」
 瑞希はいつの間にかあたしを放し、その手に何かを握っていた。
 …手榴弾だ。
「フッ…、冥土の土産など、お前にくれてやるには惜しいからな。さっさと死んでもらう。」
「それはこっちの台詞よ。」
 ……
 ――― 
 …――――
 
 …カッ、と。
 光った。
 直後、

 ドゥン!!!

 という、爆音。
 あたしの身体は、爆風に吹っ飛ばされていた。

 ………
 ―――――――――ふと。

 意識を失ったのは、ほんの一瞬。
 あたしは瑞希の後ろにいたから、瑞希が盾になってくれた。みたい。
 廊下には、もうもうと煙が漂っていた。
 あたしはすぐそばに、女が転がっているのを見つけた。
 瑞希。
 あたしは立ち上がって、ふと気づいた。
 足や手に絡み付いていた邪魔な紐が、切れている。
 瑞希の手から、血が流れ、小さな血溜りを作っていた。
 少し迷ったけど―――――気を失った瑞希を、肩に引っ掛けた。
 助けてあげる。
 ……だって、瑞希はあたしの恋人だから。
 そうだよね?瑞希?





 ゴキブリ並にしぶといのは、アナタも同じ。
 ディスプレイを眺めながらクスリと笑う。
 それにしても、面白いことが起こったわ。
 対峙した横山瑞希と加山了一。因縁の対決ってやつね。
 横山瑞希の方が少し早く、手榴弾を投げた。
 加山了一はそれに気づかず、銃を発砲した。
 空中で、手榴弾は爆発した。それは何故か。答えは簡単。
 銃弾と手榴弾が、空中でぶつかったから。
 偶然とは、時に運命と思えるほどに面白い“奇跡”を起こしてくれる。
 加山了一寄りで爆発が起こり、加山、横山、そして榊は爆風で吹き飛ばされた。
 三人は意識を失った。
 最初に意識を取り戻したのは、横山の影にいた榊。爆破から約一分後。
 約30メートル先で気を失っている加山には気づかず、榊から2メートルほどの位置で気を失っていた横山を発見し、榊は意識を失ったままの横山を連れ、2階上の8階、拷問室へと入室。
 爆発から13分後、榊と横山が拷問室に入室してから1分後に、加山は意識を取り戻した。
 加山は爆発で、拳銃を握っていた右手の肘から先を損失。その後医務室へ入り、すぐに再び意識を失った。
 それでもまだ、生きている。腕を失って、血を流しても、まだ生きている。
 アナタの方がよっぽど“ゴキブリ”らしいわ。
 私―――闇村真里―――は、今日も管理室のディスプレイの前で、参加者たちの奮闘ぶりを監視している。なんて楽しいのかしら。これこそが究極の人間観察ね。
 皆、なかなか楽しい行動を見せ付けてくれるけれど、少し飽きてきたかしら。
 そろそろ、新たな起爆剤を加える頃合。
 私は携帯電話を取り出し、ある人物へ電話を掛ける。
 少しのコール音の後、
『はい、望月です。』
 と、女性の声が聞える。
「闇村です。久しぶりね、真昼。」
『…闇村さん…お久しぶりです…。』
 望月真昼。過去に美雨が属していた病院で働いている心療内科の医師。
 彼女の声は、どこか恍惚とした響きを持っている。その原因は他でもない私。
「真昼、任務を与えるわ。朔夜、葵、美咲を連れて、明日の正午、いつもの事務所に来なさい。」
『…ハイ、わかりました。』
 私が事務的な口調で言うと、真昼も少しの間を置いた後、事務的な口調で返した。
「…大切な任務よ。貴女達の命を懸けて取り組んでもらうことになるわ。」
『…ハイ。』
 私の言葉で、真昼も事の重大さを認知しただろう。
「成功すれば褒美を与えるわ。…今までで一番の褒美を、ね。」
 そう言うと、真昼の吐息がかすかに上擦った。
「詳しくは、直接伝えるわ。」
『ハイ。……闇村さんに、お会いできるんですね…。』
「…ええ。楽しみにしているわ。」
 私はそう言って、電話を切った。
 …真昼。
 私の声だけで、あそこまで興奮を覚えられるなんて。
 知的で聡明な普段の彼女からは考えられないほどの変化。
 私に出会ってしまったから、真昼は変わった。
 私に出会ってしまったから、真昼は不幸になるだろう。
 けれど、真昼はそれを不幸とは感じやしない。真昼は私のためなら、なんだってできる。
 私から褒美を与えられるためならば、真昼はどんなことだってする。断言できる。
 真昼は、一生抜け出せない快楽を覚えてしまったから。
 そう、言うなれば真昼は、私の“下僕”。





□SIDE STORY No.7

□SIDE STORY No.8




 始め、その痛みは、私―――横山瑞希―――を安息の闇から引きずり出す、寝不足の朝のような気だるいものだった。もう少し此処に居させて、と願えど、理性は「起きなさい」と訴える。そんな日常の些細な気だるさだった。
 …だった、けれど、次第にその痛みは、私を侵し、強引に、意識を覚醒させる。
「く…ッ…!!」
 感覚がないなどと言っていられるうちはまだ良い方で、今の私の“痛み”は、全身全霊の力を持って、その警告を発していた。
 腕が。腕が、恐ろしく痛い。何も考えられなくなりそうなほど。いっそこのまま、再び意識を失って、そのまま死んでしまっても良いくらい、痛い。
「瑞希。」
 遥か遠くで、私を呼ぶ声がする。
 痛い。その声に答えられる余裕など微塵も無く、苦痛を堪えることに、精一杯だった。
「瑞希。」
 声は何度も、何度も、私の名を呼んだ。
 私はそれに答えることなく、痛みに悶え続けた。
 そんな、地獄のような時間がどのくらい経ったのか。意識を失っていたのかどうかもわからないが、ふっと、我に返るように、私は目を開けた。
「瑞希?」
 その声の主を見遣ることが出来る程度に、痛みは引いた。慣れた、といった方が正しいのかもしれないが。
「目、覚めた?……大丈夫?」
 声の主…榊千理子の問いは、余りにくだらないもので、それに答えてやる必要はないと思った。目が開いていることを見れば、わかるでしょう。大丈夫ではないくらい、私の苦痛に歪んだ表情を見て、察してよ、と。
 荒い息を吐いて、目を閉じる。
 ―――不意に、身体中を襲う、痛みに隠れていた寒気に、私は気づいた。
 何故、だろう。
 自分の身体が、氷のように冷たい。
 私が触れている存在も、空気も、何もかもが、氷点下に達してるような、そんな寒さ。
 どうして私は、こんなに寒いのだろう。
 …と、考えた所で、あの、一瞬光った明かりが目に浮かぶ。
 私が銃を撃った、刹那、目を焼きそうな程に眩しすぎる明かりが光って、そして、その後の記憶がない。
 わからない。わからないが、私は―――銃を撃ったあの時よりも、危険な状態にあるということを、察する。
 失った手の辺り、確かに鈍い痛みはずっと続いていたが、今は、その部位の痛みが、恐ろしいほどに悪化しているということ。
 人間は酷い怪我をした、その上に更に酷い怪我をすると、どうなるのだろうか。
 答えはあまりに明白で、真実味がなかった。
「…瑞希、いい加減起きてよ。いつまで待たせるの?」
 煩わしい声に、ゆっくりと目を開いた。少女の顔が映る。
「……いつまで、って…?」
 そう小さく呟いてみて、私の声が、聞いたこともないほどか細いことに驚いた。
「あたし、かれこれ三時間くらい此処で待ってるんだけど。瑞希、もう、いいよね?」
 ――彼女の言っている意味が、私には理解できなかった。
「なに、が…、いい、の…?」
 そう言った私の言葉に、千理子は、小さく笑みを浮かべ、
「――――。」
 何かを呟いた。
 ―………?
 聞き取れない。
 聞き返すことも億劫で、私はぼんやりと千理子の顔を眺めていた。
 何も考えずに見ていると、何の感情も抱かない。
 そこに唯、千理子という女性の、姿があるという、事実だけ――それすらも、曖昧。
 彼女の言った言葉を、理解する必要があるのだろうか。
 このまま眠ってしまっては、いけないだろうか。
 そんな小さな葛藤を抱いていると、千理子は一つ笑顔を浮かべ、そして、
「もう、わかったよ。ちゃんと説明すればいいんでしょ?」
 と、言う。
 そうしてくれれば助かる。私がその説明を理解できるかどうか、わからないけれど。
 彼女の次の言葉を、ぼんやりと待っていた。
 勿論今も絶え間ない痛みは襲い続けており、千理子の言う内容がくだらないなら、このまま目を瞑って眠りに落ちたい気分である。
 やがて、千理子は口を開いた。
「あたしは、瑞希がこの部屋―――あ、わかる?ここ、拷問室なんだけど、ここで何しようと思ってたかは知らないけど。まぁ、それも叶わないだろうから、あ、つまり、今はあたしに主導権があるわけじゃない?」
 ―――支離滅裂。内心ため息をつく。その言葉の内容を理解することが私にとってどんなに面倒なことか、千理子はわかっていない。
 ようやく、千理子の今の言葉ではまだ本題に行き着いていないということを理解し終えた時、なにやら思索顔だった千理子は、やっと結論付いた様子で、言った。
「ま、つまり、――あたしは今から、瑞希と心中しようかなって思ってるんだけど。」
 ………。
 ……。
 ―――し、ん…じゅう?
 心中――!?
 言葉の意味を理解した瞬間、無意識に目を見開いていた。
 この子は一体、何を言っているの?
 ――私と、心中?
 私が千理子と一緒に心中?
 つまり…千理子と共に、死ねと、言うの―――?
「そういうワケなんで、早速だけど、逝こうか?」
 千理子は軽い調子で言って、私の身体に手をかけた。
 一瞬恐怖が走るが、それは、私の身体をどこかに移動させるために、肩をとって持ち上げただけ、らしい。
 私の左手が千理子の肩に周り、引きずられるように、抱えられる。
 ―――!!?
 刹那、その腕が、激しく痛み、暴れた。
 後から、千理子の取ったその左手が、酷い損傷を負っていることに気づく。
 痛い…。
 お願い、やめて、痛い……!!!!

「ふふふ、そこの仕掛け、見てよ。すごいよね。天井から槍が降ってくるんだよ。あんなの落ちてきたら、身体が一瞬で貫かれて、即死だよね。―――結構、いいセレクトでしょ?」
 ―――天井から、槍。
 ―――いい、セレクト?
 
 ―――即死?

 …。
「ふ、……」
 言葉に、しようとしても、もう、出なかった。
 『ふざけないで。』
 何を言っているの、この子は。
 頭がおかしいのかしら。
 私の手を肩に回して、私の身体を引きずり、薄い笑みを浮かべ、
 ―――ここにいる女は、一体、何?

「……あ、何?何か言い残したことでもある?」

 喉の奥から笑いが込み上げるような感覚がするけれど、それが声になることもなく
 ただ、私の中で、感情が、弾けていく。
 千理子。
 私の「恋人」?

「ふざけ、ないで。」

 ―――声が、出た。

「え?」

 不思議そうに私を見る千理子。
 手首から先の無い左腕を、振るった。
 激しい痛みと共に、膨れ上がる感情。
 血が、手首から、飛び散っているのがわかる。
 わかる、けど―――もう、そんなこと、どうでもいいわ。

「―――!?」

 肘で千理子の身体を思い切り押すと、
 千理子は不意をつかれたようで、あっけなく、地面にしりもちをついた。

 この子は忘れていたのかしら。
 私の右手は、生きているのよ。

「は、ぁっ……はぁっ…!」

 その荒い吐息が、千理子のものでないとすれば、私のものなのだろう。
 もう、感覚なんて消えた。
 ここにあるのは、莫大なまでの感情と、
 拷問室のオブジェだった、斧を、右手に握る、私。

「み…瑞希?なに、してるの?……そんな身体で、そんな重たいもの持ったら、…よ、余計、ヤバいんじゃ…?」

 尻餅をついたまま、乾いた笑みを浮かべる女を、
 私は、見据えていた。

 バカな子。
 人の心配なんてしている余裕があるのかしら。
 自分の命の危機にすら気づかないなんて、なんて鈍感なの。

「ふ、…く、くくく……」

 喉がカラカラで、声という形になっていないけれど、
 私という身体からあふれ出る感情が、喉の奥で、笑みを漏らす。

 楽しい?嬉しい?
 そんな笑いじゃない。
 私の中に存在する感情は、一つだけ。

「瑞希…あ、……や、…やめ、て……」

 今更命乞いをしたって、もう遅いわ。
 あなたは私に与えすぎた。

 苦しみを。
 痛みを。

 そして、身体中の血を
 命そのものを失っていく私に、残っているのは――

 憎しみだけよ。


 ザンッ!!!


「ひ、ぎ……!!!」


 光栄に思いなさい。
 この私が、この命を投げ捨てて、あなたに贈るもの。


 グチャッ


「あ、……ァ……」


 あなたが散々すり減らした私の命。
 微かに残る、この、力。


 ザクッ


「………ぃ……、…ァ……。」


 息絶えるまで、しっかりと味わいなさい。


 カタン


 そう。
 私の、あなたへの贈り物。


「―――復讐。」



 
 部屋は血塗れで、もう、どれが私の血で、どれが千理子の血なのかわからない。
 こうしている今も、私の肩からぶら下がった左手は、赤い血を滴らせているわ。
 指や手の平を失った『手』という、一本の水道の蛇口から落ちる、一筋の赤。
 千理子が、微かに動いている。
 あなたはもう少し味わえるのね。苦しみと言う、私からの贈り物を。
 私は、もう終わるわ。
 あなたが用意してくれた鉄の槍の雨で、一瞬で。
 もう、苦しむのは散々よ。
 最期くらい、苦しまずに逝かせてね。

 冷たい床に身体を横たえて、上に、尖った重力を感じるの。
 このレバーを引けば、落ちて、くるんでしょ?
 千理子にしては、上出来の死に舞台よ。
 もう―――苦しむのは、終わりに、させて、ね。





 ガタン・ガタン・ガタン……ガシャン。





「………。」
 二人の壮絶な死に様は、私―――闇村真里―――の興味を引いた。ディスプレイを拡大し、二人に死に逝く様を見送った。
 私は美雨みたいに誤った道へは進んでいないから、さすがにこういうシーンは生で見たことないのよね。あのまま呆気なく心中されるよりも、ずっと面白いドラマだったわ。
 横山瑞希。知的で世渡り上手だった若手政治家が、こんな形で終局を迎えただなんて、一体誰が考えるかしら。最後に斧を振り回す姿、ちょっと素敵だったわ。心は憎しみでいっぱいにしながら、笑みを浮かべて惨殺する姿。人間って、少し壊れるととっても面白いのよね。榊千理子を殺害した後、槍の下に横たわった瞬間、憎しみが消えていった。清清しい気持ちで逝けたなら、良いんだけど。
 榊千理子。あの子は、結局は犠牲者なのかしら。彼女が息を引き取ったのは横山瑞希よりも後だけど、実質意識を失ったのは、首の神経をやられちゃった時だものね。あれでほとんど死んだようなもの。まさか一緒に心中しようとした人に先に殺されるなんて、思ってもみなかった?恐怖、怯え―――でもね、ほんの少しだけど、嬉しかったみたいね。愛する人に殺されたから、かしら。あの子は、唯単純に、構ってほしかっただけなのかもしれないわね。感情は厭わない、って。ま、結局は数分違いで死ねたんだから、心中のようなものよね。冥土がもしあるのなら、あの二人はどんな顔をして再会するのかしら。興味深いわ。
 血塗れの、拷問室――か。わざわざ作らせた甲斐があったわ。二人共活用してくれて、ありがとう。特別に、冥福、祈ってあげる。
「んー。」
 私はずっとディスプレイに座りっぱなしだったこともあり、気分転換に伸びをした。
 皆が怯えている中で、私だけこんな楽しい気分だなんて、なんだか悪いみたいね。
 このプロジェクト、動かしてみて成功だったわ。こんな面白いこと、滅多にないもの。
 さぁて、次は誰が殺し、誰が死ぬのかしら。
 素敵なドラマ、期待しているわ。





「これだけあれば、問題ないだろ?」
「うん…それでも、二、三日って所だろうけど。」
 私―――田所霜―――と水夏は、今、F3の飲食室に居た。
 部屋に運ぶのに問題ない程度の食料を持つが、やはりそう多くは持てないか。
「じゃ、帰りも気をつけて、な…。」
 私が言うと、水夏は真剣な表情で頷く。その腰には、水夏に支給されたナイフを携えて。
 私が学校のカバンに食料を詰め、水夏は念のために身軽で行く。
 二階上の、ゆきの待つ水夏の部屋まで、私達は緊張しながら足を踏み出した。
 こちとらただの夜間学生。はっきり言って私は、殺し屋なんかとまともに戦って勝つ自信など微塵もない。けれど水夏は、ただの夜間学生では済まぬ独特の感性を持っているし、体育の成績も良い。期待していないと言えば嘘になる。だけど、水夏だけに頼り切る気はない。
「霜、―――止まれ。」
「…?」
 突然、階段に差し掛かる直前に、水夏は小声で言った。
 その顔に、緊張が張り詰めているのがわかる。
 何だ…?
「まずい。――殺意を感じる。」
「…!?」
「いいか、私が逃げろと言うまで動くな。逃げろと言ったら…即座に、逃げろ。」
「…わ、わかった。」
 水夏は、私を庇うように、私を挟んで壁を背にし、私の前に立つ。
 小さく目線を動かし、その右手はナイフの柄をしっかりと握っている。
「銃、か…?」
 ポツリと呟いた水夏に、険しい表情が浮かぶ。
 つまり、銃で狙われると――勝機は少ない、ってことか?
 どちらにしても、今、この状況がかなり良くないことには、違いない。
 水夏の感じた「殺意」ってやつが水夏の気のせいだったらどんなに良いか。
 でも、こういう時の勘は人一倍冴えているはずだ。
 刹那――
「上か!」
 水夏は言うが早いか、ナイフを抜き、その先を階段の上に向けた。
 一瞬の静寂、そして――
「――――うそだ…。」
 水夏が小さく呟いた言葉が聞こえる。
 その意味は、姿を現した人物を見て、すぐにわかった。
 冷ややかに、私達を見下ろす、女。
 ――神崎、美雨…。
「私の気配を感じ取るなんて、驚いたわ。」
 女は、私と水夏を見下ろし、言った。
 驚いたなんて言っている割には、驚いているように見えない。
 どこまでも冷徹な仮面が、そこに見える。
「私達を、殺すのか?」
 水夏は、ナイフを掲げたまま問うた。
 女は静かにメスを取り出し、それを、私達に向け、かざした。
 ―――それが、あの女の、答えか。
 フッ、と、女の姿が掻き消えるように見えなく――って、嘘だろ!?
 ビュン!と、傍で風が凪ぐ。
 わ…ワケがわからない。
 一瞬後、気づくと、階段とは逆の方向に、その女は居た。
「――行くわよ。」
 小さく言い、女は微かに微笑んだように見えた。
「クッ…!」
 水夏は眉を顰め、ナイフを握りなおす。
 私は、何もできない。
 そして女は、私達に向け、駆けた。
 鋭いメスが、―――!!

 ガキィン!!

 ―――っ…。
 耳に響くような金属の触れる音に、一瞬目を瞑り、辺りを見た。
 メスと、ナイフが…クロスしていた。
「ッ…、ああああっっ!!!」
 水夏は声を上げ、メスを振り切り、キッと女を―――神崎美雨を睨む。
 その、目は、今まで見たこともないような、冷たく、鋭い目。
「――。」
 びゅん!
 水夏が跳ぶ。
 ナイフを振りかざし、恐ろしい女に、果敢に向かっていく姿。
 キィン!
 また、金属音がし、そして神崎美雨は、後ろに跳ぶ。
「はぁっ……!」
 水夏が荒い息をつく。
 しかし女は、息一つ乱さず、水夏を冷たい目で見つめていた。
「――思ったよりも、強いのね。」
 神崎美雨は、そう、言った。
 強い?水夏が―――強い?
「あたり、まえだ…私は、お前よりも、―――天才、だ!」
 ―――水夏は、真剣な表情で、そう言う。
 本気……なのか?
「そう、それは面白いわ。―――その実力、見せてみなさい。」
「霜、逃げろ!!」
「え…!?」
 いきなり水夏に怒鳴られ、私は驚く。水夏は決して此方に目線を遣ることなく、神崎美雨を見据えたままだった。でも、今逃げろって―――でも…。
「…そ、そんな、でも…!」
 今、こうして水夏を置いて逃げていいのか?
 私は、そんな、こと―――
 ふっと、神崎美雨がこっちを見たような、気がした。
 その時―――
「!」
 突然、水夏の刃が神崎美雨に切りかかった。
「っ―――」
 ヒュン!
 空を凪ぐ音が聞こえる。二人の刃が、交差する。それしかわからない。
「後で行くから、逃げ、ろ!!」
 水夏の声が響いた。
 ―――っ…。
 私は二人に背を向け、階段を駆け上がった。





 カキィィン!!!
 鋭い手ごたえに、私―――宮野水夏―――は目を見開いた。
 一つ一つの動きが、生死に関わる。
 神崎美雨が繰り出す攻撃を弾き、斬り付けるも、それも弾かれる。
 けれど――弾いた瞬間の手ごたえ。
「…!」
 カラカラカラ、と音を立てて、神崎美雨のメスが床を滑っていく。
 もらった!!
 ヒュン!
 私はこれでとどめとばかりに、ナイフを振るった。
 しかし、それが女を切ることはなかった。
 私のナイフが凪ぐより早く、女はその場に座り込んだのだった。
 再度振り掲げ、とどめ――――否!
「…!」
 刹那、身の危険を感じ、私は後ろにジャンプしていた。
 足払いでもかけられれば、形勢逆転されてしまう。
 に―――逃げろ!!!
 頭の中に響く警告に、何も考えず、私は一気に階段へと駆け出した。
 とどめよりも、逃亡を選んだ理由。そんなものわからない。
 けれど――あの女、まだ、何か――
 パン!
「!」
 響いたのは銃声。それは、この階段の下から。
 背後に滑っていった弾丸。
 逃げたのは、正解だったか!
 あの女、銃を持っていた。銃を持っていたくせに、メスで戦いやがった。
 ―――なんて、ヤツだ。
 階段を駆け上がりながら、未だに残る寒気に震えた。
 最初、出逢った頃のあの神崎美雨―――よりも、遥かに、怖い。
 その理由は多分、今は、殺意を抱いていたから。
 あの冷たい、獲物を捉えるような眼。
 こうして逃げ出せたのは、ラッキーだったのかもしれない。
 実際、この“ナイフ”がなければ、きっと殺されていた―――!
 前方に見えた自室に、安堵でいっぱいになる。
 ドアを開け、私はそのまま、崩れ落ちた。
「水夏!!」
「…せ、先輩!?」
 霜とゆきの声を聞きながら、まるで緊張の糸が切れるかのように、私はそのまま意識を失った。





『なぁ、螢子。』
 ―――。
『頼むよ、こいつを殺してくれ。な、俺だってこんなこと頼みたくないけどさ。』
 ………。
『螢子だって、苦しいのは嫌だろ?俺だって嫌だよ。この仕事さえすれば、俺も螢子も優遇してくれるって言うしさ。』
 ……。
『クスリ飲ませるだけでいいんだ。それだけでいいんだよ。な。』
 …はい。
 いい、ですよ。
 そんなこと、くらい、なら。
 私にでも、できますから。
 こう、銃で撃つとか、そんなのでも構いません。
 大丈夫。
 あなたのために、ずっとしてきたことですよ。
 ずっと、あなたを信じて
 してきたこと、ですよ。
 ―――。
「…螢、子……?」
「―――!?」
 掛けられた声に、私―――茂木螢子―――は驚いて目を開けた。
 え…?
「大丈夫?ちょっと、こんな所で寝てるから、てっきり死んでるかと思ったじゃない!」
「…ミ、ユキ、さん……?」
 不思議そうな顔で私を見つめる、女性。
 その女性に、見覚えがあった。
「もう、ビックリしたぁ。何やってんのよ、こんなところで。殺して下さいって言ってるようなモンじゃない!」
「え、…あ…そう、ですよね。」
 緑の芝生の上に転がって、身体が少し重たいけど、怪我はしていない、みたい。
 少し夢を見ていたような気がして、なんだか頭も重い。
 よくわからないけど、私は人口庭園に寝ていて、目の前に居るのは…深雪、さん。
「バーカ。もう、本当にビックリした。あんた、何やってんの?」
 ―――あ、…この人、変わってない。
 苦笑して私を見る、年上のお姉さんに、ほっとしている私が居る。
 危険信号…青。
「深雪、さん…私………、……」
「ん?…何?」
 私は手を伸ばし、彼女に触れようとした。深雪さんは私の手を、その両手で握り、私を見る。
「――あの、深雪さんは、裏切りません、か?」
「え?」
「……私、傍に居ちゃ…だめ、ですか…?」
 私の言葉に、深雪さんは困惑したような表情を見せた。
 私が、彼女を拒んだような気がするけど、今は拒む理由が見つからない。
 というよりも―――今、一人で居ることが、私にとって、とても危険なことのような、気がした。
 難しいことを考えるのは止めて、単純に、この人の傍に、いたい。
「―――あんたは、私のこと、信じられないって言ってたじゃない?それは、大丈夫なの?」
 深雪さんは曇った表情で言う。
 深雪さんは、人を殺す人だって。
 そう、いったのは私、だけど、でも。
「大丈夫、です。深雪さんは人を殺す人で、私も、人を殺す人。だから、大丈夫――。」
「…螢子?…ラリってるの?なんか変よ?」
「クスリなんて、やってません…深雪さん、ねぇ…お願い、傍に置いて下さい…。」
 ぼんやりと深雪さんを見つめたまま、言った。
 見つめているけど、たまにふっと、何も見えなくなったりする。
 深雪さんの言う通り、まるでラリってるみたい。
「――いいわよ。私の部屋、同じ階だから、自分で歩ける?」
「いえ、歩けません…。」
「何甘えてんのよ。こら、行くわよ。」
「はい…」
 …。
 私、何をしようとしているの。
 深雪さんに取り入って、彼女が油断している間に殺す?
 ううん、違う、そんなんじゃない。
 私は唯、彼女のことを…想っている。
 好きなの?
 ――好き、かもしれない。
 私はただ、あの山の中の休憩所ですごした、あの時みたいに。
 この、人の傍に、居たい、だけ。





「螢子さん、大丈夫でしょうか…?」
 ベッドに腰掛けて、不安げに言うのは由子。
 あたし―――夕場律子―――は、その呟きに返す言葉を思いつかなかった。
 怪我をしている右手の二の腕と肩が、さっきからズキズキ痛む。
「…由子、あたしの心配、して…。」
 あたしはベッドに仰向けに寝て、ぼんやりとしたまま小さく言った。
「え!?…あ、ご、ごめんなさい。大丈夫ですか?律子さん。」
 取り繕うように言う由子に、あたしは小さく笑う。
「なんだか大丈夫じゃないみたいよ……さっきから、頭がボーっとして、きた。」
「え…?」
 あたしの言葉に、由子は不安げな顔をする。
 この子を不安な気持ちにさせたいとは思わないけど、事実、だった。
 結構元気だったあたしだけど、こうやってベッドに寝てぼんやりしているうちに、なんだかおかしくなってきた。身体が熱く、怪我が痛む。
「律子、さん…?」
 由子が心配そうにあたしの顔を覗き込み、そっとあたしの額に触れた。
「え…嘘。熱、あるみたいですよ…!?」
 言った由子の言葉に、あたしは納得した。
 通りで熱くてぼんやりするワケだ。
「寝てりゃ、治るよ…風邪、でしょ…」
 小さく言うあたしに、由子は尚も表情を曇らせたままで、
「でも、…怪我から来るものかもしれません。まさか、化膿したりしちゃうんじゃ…。やっぱり、ちゃんとした手当てが必要なのかも…。」
 と、言う。それは…一理あるけど、その話が事実ではないことを祈る。
「大丈夫大丈夫…とりあえず、様子、見よ。…ね、由子。」
 あたしは由子をなだめるように、その頬を撫でてやった。
 すると、由子はその手に自分の手を重ね、ぎゅっと握って、
「律子さん、無理しちゃ、だめですよ…。いっぱい笑って、頑張ってる人は…突然消えちゃうんですから。」
 と、悲しげに言う。
「……何か、あったの?」
 尋常じゃない由子の様子に、ぼーっとする頭でも、さすがに心配し尋ねた。
「え、あ、いえ、…」
 由子は慌てた様子で首を横に振る。あたしはそんな由子の首を抱き、引き寄せた。
「あ……?」
 と、赤くなる由子を抱きよせ、ベッドの隣に寝かせる。
「…由子も片意地張ってないで、素直でいなさいっ。」
「は、はい…。」
 …なんてやってると、本当に頭がクラクラしてきた。
 あぁ…つい何日か前までは、本気で死のうって決意して一人で思い詰めてたのに、なんで今あたし、こんな所で熱なんか出してんの…?
 わかんないけど……でも、ね。
「由子…」
「あ、はい、なんですか?」
 あたしが名前呼んだら、ちゃんと答えてくれる女の子。
「――そこに、いるよね。」
 そこにいる。
 今、あたしの傍に、いる。
「は、はい……?」
 不思議そうにあたしを見つめる女の子を、ぎゅっと抱いて、眠った。
 疲れちゃった。
 少し、眠くて。
 ――おやす、み。







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