BATTLE ROYALE
SIDE STORY No.8
彼女達の運命〜その2
佐久間葵・穂村美咲の場合
「ええと、佐久間葵さん。二十歳、ですか?大人びて見えますね。」
あたし…こと、佐久間葵に向かい合い、カルテを眺めながら話し掛ける女性。
白衣に身を包んだお医者様、ってやつである。
医者にしとくにはもったいない美女なんだけどな。
いや、医者であるからこそ白衣が似合って知的美女指数UPかもしんない。
「…ええ、…と。」
ちょっぴり困惑気味の先生に、あたしは小さく笑って言った。
「あ、ゴメン。別に話聞いてなかったワケじゃないですよ?大人びて見えるって?アハハ、そうかな?」
…とか言って、多分「喋ると子供っぽく見えますね」とか思ってるのかな?だろうね?
「私の名前は、望月真昼と言います。カウンセリングで受け持たせていただきますので、宜しくお願いしますね。」
ふーん、このお医者さん、真昼さんって言うんだ。
「こっちこそ、ふつつかものですが宜しくお願いしますっ。」
あたしがペコリと頭を下げると、真昼さんは小さく笑んだ。
「ええと、それで、今日見えたのは…どういったことで?」
カウンセリング開始らしいね。でもねぇ…。
「どういったことっていうか、兄貴に無理矢理連れてこられたの。」
「お兄さんに?どうして?」
「知らない。…あ、なんか、兄貴はあたしのことを『快楽主義者』って言うの。でも、別にそんなの病気じゃないよね?こんなとこに相談しにこなくてもいいじゃんって思うんだけど。」
「快楽主義者…?お兄さんにそう言われるのは、何か思い当たるところがあるんですか?」
「えー?なんて言うか、あたし楽しいことばっかりしてるんだよね。だから快楽主義者ってのは間違ってはないと思うんだけどぉ。」
「…うーん、なるほど。葵さん自身は、特に問題はないんですか?」
「うん、ぜんぜんないよっ。」
「…それじゃあ、お兄さんにお話を聞いた方がいいかもしれませんね。今日は一緒に見えてますか?」
「うん。待合室で待ってるって。」
「そうですか。じゃあ、お兄さんにお話を聞きたいと思うので、ええと、葵さんは少し待っていて頂けますか?」
「は〜い。」
あ〜あ。なんか無駄だなぁ〜。
待合室で雑誌とか読みつつ、あたしは思う。
こうやってカウンセリングとか受けて、お金払って。
そのお金でカラオケとか行けるのにねぇ。
ま、兄貴出しだから仕方ないけど〜。
あ、待てよ。あの真昼さんとお話するためにお金払うならいっか?
しかも自分持ちじゃないからラッキーかも?
うん、やっぱポジティブシンキンだね★
「…そうですか。あいつ、やっぱり自覚してないんですね…。」
先ほどまで葵さんが座っていた椅子に、今は彼女のお兄さんが座っている。
黒髪に眼鏡を掛け、真面目そうな印象を受ける。…正直な所、妹さんとはあまり似ていない。
「…あいつの、快楽に対する執念深さ、異常なんです…。」
私…こと望月真昼は、時折カルテに書き込みながら、話を聞いていた。本人からではなく家族から話を聞くというのは、稀なことではない。本人が医者と話せる状態ではなかったり、今回のように患者に自覚がない場合というのは多い。
「異常、と言うと?例えば何かありますか?」
「例えば…。そうですね、あの、出来ればあいつには言わないで欲しいんですけど…」
「はい、話の内容は他には漏らしませんから。」
「すいません。…その、デリヘル、ってご存知ですか?」
「デリヘル…?」
「デリバリーヘルス…いわゆる、出張風俗です。」
「あ、…えぇ、一応存在は。」
「その、ヘルス嬢がよく家に来てるみたいで…。あいつは俺に隠れてやってるつもりみたいなんですけど、何度か鉢合わせたことがあって。」
「はぁ…」
…ヘルス“嬢”?…彼女、バイなのかしら…。
「あいつ、一応バイトはしてるんですけど、それじゃとても足りない消費の仕方で、金融に金借りたりもして。ブランド物も好きみたいですし、服も山のように買ってくるし、…本当に半端じゃないんです。けど、誰に相談していいのかわからなくて、此処に…。」
彼のその言葉に、私は不意に思い浮かんだ言葉があった。
「…「買い物しすぎる女たち」って、ご存知ですか?」
「え…?あぁ、なんか言葉は聞いたことありますけど、具体的にはあまり…」
「ええ。女性によく見られる状態なんですが、ストレス発散にショッピングをする女性って多いんです。その度を越した状態を、買い物依存症と言います。」
「買い物依存症…ですか。」
「はい。収入以上の買い物を次々としてしまい、借金がどんどん重なっていく、というパターンです。私も何度かそんな患者を受け持ったことがあります。」
「じゃあ、あいつの状態はやっぱり病気になるんですか?」
「…そうですね。買い物依存の原因は大抵仕事などのストレスなのですが、彼女の場合はどうでしょう?仕事に対して失望している、とかそういうことはありませんか?」
「……それは、ないと思います。あいつ、今スナック勤めなんですけど、『酒も飲めるし煙草も吸えて楽な仕事』って言ってました。仕事は、そんなにきつそうじゃないんですが…」
…。彼の言葉に、内心首を傾げた。先ほど言ったように、買い物依存の原因は大抵がストレスによるもの。他の例は、あまり浮かばない。
「…それじゃあ、他に何か原因になりそうなこと、ありませんか?」
私の言葉に彼はしばし考え込んでいた。
「あ…」
そして、何か思いついたようすで顔を上げた。
「あの、二年前…俺たちの親父が死んだんです。あ、えっと、母親は葵を生んだ時に死んで…片親だけで育てられたんです。親父、過労死だったんです。毎日毎日俺らを養うために働いて、それで…。その時、葬儀の時に…葵が、ポツンと零したんです。「バカな人…」って。」
「そうなんですか…。」
「あいつ、その時は高校三年だったんですけど、その高校、「名門」だって言われてる公立の学校だったんです。中学も成績良くて、本当に真面目なやつだったんです。名門の公立大学も受験すると言ってたんです。…けど、親父の死を境に豹変して…。」
私はカルテに彼の言葉を書きながら、小さく頷いた。
「…なるほど。とすれば…これはあくまで私の推測ですが…。彼女は、その、お父様のようにはなりたくないと思ったのかもしれませんね。正反対の生き方…それを選ぼうとしているのかもしれません。」
「…そう、ですね。…でも、今のままじゃ問題がありすぎて…。あいつ、このままじゃ借金が…」
「確かに、それは問題ですね。……こればっかりは本人の生き方の問題ですので、お薬ではどうにもなりませんね。…またカウンセリングを受けてくだされば、なんとか改善の方向へ持っていくことも出来ると思うのですが。」
「本当ですか!…もう、俺、どうしたらいいのかわからなくて…。カウンセリングで何とかなるなら、是非お願いします!」
「ええ。けれど、これは考え方の問題でもありますから、お兄様から出来ることもあるはずです。」
「あ…そ、そうですね。すいません。」
「あ、いえ、謝ることはないですよ。とにかく、今後も彼女とはカウンセリングをしていきたいと思いますので、来週の同じ時間に、また来られて下さい。」
「わかりました。…お世話になります。」
彼はペコリと一礼し、退室した。
私は人のいない部屋の中で伸びをし、なにげなく窓の外を眺めた。
「バカな人…」か。
あの子は、どこまでもどこまでも快楽を追っているのかしら。
…カウンセリングで何とかなる、などと言ってしまったけれど、カウンセリングでの改善の方法など、正直言って見当たらない。とすれば…
「せんせ!」
!
突然掛かった声に、私は驚いて部屋の入り口を見遣った。
「葵さん…どうしたんですか?」
ドアの隙間からひょこんと顔を出し、小さく笑みを浮かべる女性の姿があった。
明るく染めた髪に、少し釣り目の猫目。こうして見ると、可愛らしい子だな、と思う。
「ん〜なんか、兄貴が挨拶して来いって言うから、来ましたっ。」
「そうですか。わざわざ有り難うございます。」
「あ、それと質問があります!」
扉の隙間から覗く手がぴょこんと挙手した。
「は、はい、何でしょう。」
「真昼センセーは、恋人はいらっしゃるのでしょーか?」
「………はい?」
想像だにしなかった質問に、目が点になる。
「恋人はいらっしゃ……、あー!もしかして結婚してるとか!?」
「え、ええと…いえ、結婚してません。恋人もいませんよ。」
しどろもどろになりつつも答えると、葵さんは納得顔で笑みを浮かべた。
…恋人といえば…。
「じゃあ、逆に聞くわよ?」
私は彼女をたしなめる様に言って、
「葵さんは、恋人はいないの?」
と尋ねた。
「お、それはあたしのプライベートが知りたいということですかっ?!」
「え?…う、うーん、まぁそういうことになるわね。」
「じゃあお答えしてあげますっ。あたしは今はフリーなのですっ。拘束されるのヤだからね。」
「そ、そう。参考になったわ。」
「お互いフリーだし、仲良くしよー!…じゃ、また来週★」
パタパタと手を振り、パタパタを走っていく足音が聞えた。
…お互いフリー…って?
何か誤解されているような…。
…ま、いっか。
数日後。
今日も、私…こと望月真昼はお仕事に励む。
相談者にもよるけど、基本的には、仕事自体は好き。
人間の深い心理を理解していくこと、言い換えれば追求していくこと、それが私の喜び。
今日も、複雑な心理状態を己では抱えきれなくなった人が、この白いカウンセリングルームにやってくる。
けれど今日の相談者は――少し変わった人だった。
「初めまして。宜しくお願いします。」
入室して、その女性は丁重に礼をしてくれた。
それが珍しいこと、というわけではないけれど…。
初診の方は大抵、思い悩んだ様子というか、どことなく暗いオーラがある。それは、どんなに礼儀が正しい人でも共通する。
しかし彼女の場合、その態度も凛としていて、少し意外な感じがした。
「どうぞ、お掛けください。」
私はそう促した後、自己紹介をした。すると彼女も改まって、
「穂村美咲と申します。」
と、自己紹介してくれた。
穂村美咲さん。年齢は二十三歳。少し茶色がかった長い髪を後ろで留めていて、服装もブラウスにスカートとシンプルなもの。清潔感のある女性だな、と思う。真面目な顔だと、キリッとした顔立ちだと思ったが、微笑むと母性的な優しい感じのする…少し悪く言えば、捉えようのない表情。
綺麗な女性だけど、どことなく不思議なオーラ。内面から滲み出るものが、あまり無い、という表現が適切だと思う。
「今日は、どういったご相談で?」
私はカルテを広げ、彼女に優しく問う。すると、彼女はほんの少し目線を落とし、
「…変な相談なんですけど、お蔵違いだったら、言って下さい。」
と、言った。私がそれに頷くと、彼女はこう切り出した。
「―――気分、なのか…性格なのかわからないんですけど、私、あるきっかけでふっと、考え方が偏ってしまうんです。」
「…というと?例えば?」
「例えばというか、具体的なんですけど。……私、時々、極度の潔癖症になってしまうんです。」
「極度の潔癖症、ですか。…どういう時になったりしますか?」
「どういう時にというか…また具体的なんですけど…、髪留めを外すと、潔癖症になります。」
「…髪留め、ですか?」
「はい。」
真剣な表情――というよりも、無表情に言う彼女の言葉をまとめてカルテに書きながら、私は内心首をかしげていた。こういった症例は今まで聞いたことがない。
私は更に、質問を重ねる。
「いきなりこうなったわけではないんです。子供の頃から基本的に汚い物が嫌いで――あ、汚い物が嫌いなのは万人共通のものですけど、私の場合、人並み以上に敏感で。価値観自体が違うのかもしれないのですけど、煙草の灰とか、茶滓とか、枯葉とか――そのそれぞれの物質でも、物に寄るんですけど、そんな汚れを見ると、いつも吐き気がしていました。」
「…なるほど。」
確かにそれは敏感かもしれない。さすがに茶滓や枯葉くらいで吐き気を催す人は少ないだろう。
「それで、私、困ってたんです。中高生くらいから、慣れなくちゃって思っていても、身体が勝手に反応して。セックスの時に、――その、男性に対して、とても、汚いものに見えて、嘔吐してしまって。」
「それは…確かに、困りますね。それで、髪留めというのは、いつ頃から?」
「はい、高校生の時だったと思います。髪を結ったままだと――大丈夫だったんです。」
「……はぁ。」
彼女の言葉は、いまいちピンと来ない。
確かに価値観というのは人それぞれだけど、彼女の場合、特にそれが特異なのだろうか。
「おそらく、髪を結っていることで、気が引き締まっている感覚がして、だから、今も、こうして髪を留めておけば問題はないんです。」
「髪留めを外すと、やはり、敏感に感じますか?」
「ええ…しかも、昔以上に。というか、自分でも制御できないくらい、嫌悪感が激しくなってしまって、日常生活はとてもじゃないけど、髪を結んでないと、送れません。」
「そうですか…もしも、今ここで髪留めを外したとしたら、どうなると思います?」
「―――先生の、その、口紅。」
「え?」
彼女は、じっと私の顔を見つめ、ふっと目を逸らした。
突然私自身のことを言われ、少しびっくりした。
そして彼女が続けて言った言葉に、更に驚いた。
「――そのくすんだ赤は、汚れています。…あの、ごめんなさい、先生が悪いんじゃくて、私の価値観がおかしいんですけど。多分、先生のこと、殺したくなる、くらい…。」
「……。」
殺したくなる――?
思わず絶句する。この、口紅の色で…殺したく、なるって…。
彼女の言う通り、だと思うが、決して悪趣味な色の口紅ではない。有名化粧品会社のベーシックなカラーバリエーションの一色であり、この色を好む人こそ多かれど、この色を毛嫌いする人間など聞いたこともない。
思わず手で口を覆ったりしてしまうが、穂村さんはそれに気づくこともなく、カウンセリングルームの中をゆっくりと見渡していた。やがて、私に目線を戻し、
「あと、あの、ブラインドの影。天井の隅の傷。この机の、かすれ。―――全部、駄目です。」
と、報告めいた口調で言う。彼女の言う各所を見ても、やはり、それが『汚らわしい』存在には、私は見えなかった。
「――影も、ですか?傷も?」
「はい。だから、さすがにこれは問題があると思って、こちらにかからせて頂きました…。」
そう、俯きがちに言った彼女の目が、ふっと、冷たくて…驚いた。
確かに、これは予想以上に、重大かもしれない。
だけど、潔癖症を治すって――。
まだ、○○恐怖症なら、治す余地は十分にある。
けれど彼女の場合、この世のあらゆるものを否定しているような気がして。
「あの、やっぱりこういうのは、病気とは言わないですか?」
そう言った彼女の言葉に、無意識に首を横に振った。
それに続けるように、私は
「…病気、だと、思います。治せる・治せないではなく…治さなくてはならない、と。」
「…はい。出来る、ことなら。」
「はい…。」
言葉を失い、考え込んでしまう。
その後、精神病の様々な兆候を尋ねたが、答えは全てNOだった。
彼女は、潔癖症で、それを堪えて生活している。髪留めは自己暗示のようなもの。
自己暗示によって抑えて生活し、それで堪えられるなら良いが、彼女の場合「髪留め」というキーポイントがあるので、そのロックはあまりに緩いと言えよう。
なんらかの形で、彼女が髪留めを外しても生活していける状態にもっていかなくては。
―――難しい。
結局結論は出ないまま、穂村さんとの一回目のカウンセリングは終わった。
『夜分遅くにごめんなさい。それじゃあ、明日の夜にさっき言った場所で。』
「ハイ。―――失礼します。」
ピッ、と携帯電話を切る。
暗い部屋で、携帯のディスプレイの明かりが少し眩しい。
ふと、脳裏に過ぎる嫌悪の予兆を感じ、私はすぐに折りたたみの携帯を閉じた。
最近、益々酷くなる、この嫌悪感と、吐き気。
携帯の無機質な文字列すらも、嫌悪の対象になってきたのかもしれない。
少しだけ眉を顰め、髪結いを外してすぐに、ベッドに入って目を瞑る。
私…こと、穂村美咲が、望月先生による初めてのカウンセリングを受けた一週間後。
再び同じ日時にカウンセリングを受けた。内容は心理テストのようなものだったが、私の潔癖症は改善を見せない。たがか二回のカウンセリングで良くなるはずもない。
期待通りの結果だ、と思っていた。しかしその日、カウンセリングの最後に望月先生は、
『―――個人的に、紹介したい人がいるんですけど…プライベートでお電話しても、宜しいですか?』
と、小声で言った。
そして今しがた、彼女から電話があり、明日の夜、その“紹介したい人物”という人に会うことになった。しかしこうして約束をした今でも、その人物がどのような人間なのか少しもわからない。先生は、まず会って下さい、そうすれば全てわかりますから…と、言葉を濁した。
一体どういうことなのか、私には全く理解できない。
別の医師への紹介なら、このようにプライベートで連絡する必要もないだろう。かといって、突然お見合いを薦めてくるような人とも思えない。
そう考えあぐねた所で、何がわかるわけでもない、か。
そう割り切ってしまうと後に引きずることもなく、その夜、私は静かに眠りについた。
翌日の夜。
迎えに来た望月先生の車には、既に一人の人物が同乗していた。
「あたし、佐久間葵って言います。穂村さんも、“紹介したい人”って口?」
と、明るい口調で言う三つ年下の女性。
不思議と、こういう明るいタイプの女性は嫌悪の対象に当てはまらない。
いや、人物として嫌悪感を抱く場合は基本的に少なく、望月先生だってあの時の口紅の色が記憶に残る枯れそぼった葉の色に似ているだけで、先生自身が嫌いというわけではないのだ。
結局、車の中でも先生は何も話そうとはせず黙って、都内の某事務所へと私達を連れて行った。
何の変哲もない、小さなオフィスビル。その三階の四分の一のスペースの、狭い事務所だった。
そこに人物の姿は無く、応接用のソファで待っているようにと先生は言い残し、事務所の奥へ入っていった。
「ねぇ、穂村さんも真昼センセーの患者さんなの?」
人懐っこい口調で話し掛けてくる佐久間さんに、私は小さく頷いた。
「そう。…ということは、佐久間さんも患者さん?」
「うん、そう。あ、佐久間サンなんて堅苦しい言い方しなくていいよ、葵でいいよ、葵で。」
「ええ、わかったわ。」
私は微笑んで頷く。
―――こういった会話で微笑が出るのは、私にしては珍しいこと。
それは相手ではなく、その事務所の雰囲気がそうさせた。
この事務所――私を脅かす存在が、無い。
この部屋にあるのは、シンプルな事務机と応接セットだけ。
机も、事務に使っているとは到底思えない綺麗なもので、応接セットも黒のシンプルなもの。
その物質も、影も、すんなりと受け入れられる。こんな場所は珍しい。
自然と、先生が紹介したいと言う人物も、不安より期待が高まる。
数分して、奥へ続くドアが開いた。
「お待たせしてすみません。」
優しげな微笑を称え出てきたのは、黒髪の美しい女性。スーツ姿の似合う、キャリアウーマン風だった。こちらも頭を下げながらそれとなく彼女の全身を眺め、ほっとした。私の目に何の違和感もないその出で立ち。隙が全くなく、それが返って良かった。
「突然お呼び立てして、申し訳ありません。私、闇村真里と申します。」
そう名乗った女性は、名刺を差し出し、私たちの向かいのソファに腰掛ける。
すぐに、望月先生がコーヒーをトレイに乗せて出てきた。
私たち三人にコーヒーを出した後、彼女は何の迷いもなく、闇村さんの後ろに立った。
―――その姿、まるで秘書かメイドのようだった。
医師という、地位的には高い位置にあるであろう彼女のそんな姿は、少し違和感がある。
それに気づいたのか、闇村さんは望月先生を見遣り、
「真昼は私の隣に。」
と促した。
「え…、いいんですか?」
少し驚いた風に言う彼女に、またも違和感を感じた。
今までのやりとりからしても、明らかに望月先生は闇村さんの部下のような素振りを見せる。
先生が遠慮がちに闇村さんの隣に腰掛けたところで、闇村さんは、
「それじゃあ、今日お呼びした理由をお話するわね。」
と切り出した。
私と葵さんは自己紹介すらまだなので少し戸惑うが、彼女は目で制すように微笑み、言葉を続けた。
「貴女達のことは、真昼から聞いて存じているわ。佐久間葵さんに、穂村美咲さん。」
「はい…。」
頷きながら、こんな女性が私や葵さんにどんな用なのかと、疑問に思う。
そんな疑問を見透かしたように、
「突然私のような人間がお呼び立てして驚いているでしょうけど…。単刀直入に言うわ。私は、貴女達の力が借りたいの。」
と、闇村さんは言う。私達の…力?
「葵さんは、快楽主義者。そして美咲さんは極度の潔癖症、だそうね。」
という彼女の言葉に頷く。望月先生が知っている私のことと言えば、そのくらいだろう。
闇村さんは小さく頷き返し、そして
「―――その力、私に預けてみない?」
…と、続けた。
彼女が突然言った言葉に、思わず眉を顰める。
そんな私に、闇村さんは微笑を称えたままで、
「別に、何かさせよう、というわけではないの。――まず葵さん。…究極の快楽が、欲しくはない?」
と言う。未だに私は彼女の意図が掴みかねていた。
「え…?究極の、快楽…ですか?」
葵さんは、きょとんとした表情で、聞き返す。
「そう。詳しくはまだ言えないけれどね。…それから美咲さん。美しいものに満たされてみたいと思わない?」
「…美しいもの、ですか?」
私も聞き返す。彼女の言っている言葉は漠然としすぎていて、私に何を求めているのか全くわからなかった。
「―――そうね。口では説明できないんだけど、とりあえず一晩。私に抱かれてみない?」
今度の問いは、私と葵さんに向けられていた。
―――抱かれ、て?
思わず私は葵さんの方を見ていた。考えていることは同じなのか、彼女も私の方を見て、目線が合い、思わず逸らしてしまう。
そんな私達を見て、闇村さんは苦笑し、
「ごめんなさい、ちょっとストレートすぎたかしら。
―――二人が望むものを、私はあげる。その代わり、一晩私に付き合って欲しいの。」
と言うが、それでも私の疑心は解けなかった。
「それは…つまり、私達の身体を買いたいと、そういうことなんですか?」
私がそう問うと、闇村さんは小さく笑って、
「そうね、そうなるかもしれないわ。でもお金じゃなくてもいいわ。美咲さんは何が欲しいかしら?汚らわしい物のない空間?」
と、彼女のペースは全く崩す様子もなく言い放つ。
少し混乱していることもあり、私は少し強い口調で、
「―――私は、物で買われるような、そんな女じゃありません。価値云々ではなく、物で身体を売るというのは…!」
と、彼女に言った。言葉がまとまらなかったけど、彼女の言い分は腑に落ちない。そんな現実感の無い話をされたって、私は―――!
「穂村さん。私は、闇村さんに何で買われたと思います?」
突然そう口を挟んだのは―――望月先生だった。その言葉に、微かな失望感を抱いた。
「望月先生は、そんな人だったんですか。身体をそんな簡単に捧げるような、そんな、汚らわしい…!!」
―――そう、私がこんなに口調を荒げるのは、それ。
汚らわしい、『行為』。
「なになに、望月先生は何で買われたの…?」
「え…?」
隣から発せられた声に、私は驚いた。味方だと思っていた少女は、興味深げに、先生に問う。
どうして、そんな―――。
「私は、情報で買われたんです。それから、妹。」
「何それ…?情報と、妹…??」
「ええ。私は闇村さんに一晩抱かれ…代わりに、ずっと行方不明だった妹と、私の知りたかったある情報の提供をして頂いたの。その情報はどうでもいいけれど、すごいでしょう?ずっとずっと日本の警察でさえも見つけられなかった私の妹を、いとも簡単に連れてきてくれたのよ。」
という、望月先生の言葉に、私は言い返すことも忘れていた。
何、それ――どういうこと…?
葵さんも驚いているのか、しばしの沈黙。
その後、闇村さんがクスクスと笑いながら、言った。
「そう、身体を売る行為は汚らわしいことだと思っているのね。でも、世の中のセックスの99%は売っていることと同じだと私は思うの。」
「ど…どうして、ですか?」
闇村さんの崩れぬ笑顔が、なんだか悔しくて、一人だけで反論する自分がなんだか情けなくて、でも納得出来ず、私は彼女に尋ねた。すると、
「美咲さんは、初めてのセックスで愛はあった?」
と、尋ね返された。
愛―――?
「……。」
思い返していて、ふと、そんなこと彼女に話す必要があるのかと気づき、私は何も言わず彼女に目線を返す。彼女は微笑を称えたまま、続ける。
「高校生の時、初体験を迎える子って多いわよね。その時、セックスの見返しに彼氏に求めているものは何だと思う?」
「え…?……。」
初めての時、私は彼に―――…何を、求めて、いた?
「それはね、未知の世界へ踏み入れたいと思う好奇心を満たすため、快楽を満たすため、もしかしたら彼氏との恋人ごっこの継続の代償として捧げる子も多いかもしれないわね。そこに、愛はないわ。ただ単純に、理由なく――つまり愛ゆえに、その相手を求めることなんて…少ないのよ。」
「………。」
返す言葉が、見つからない。
何故、なの。こんな、こんな風に言いくるめられて、どうして言い返せないの。
「お金と代償のセックス、それは世論からすれば蔑まれても仕方のない汚らわしいものなのかもしれないわ。私はそうは思わないけれどね。―――でも、」
「もう、いいです!!」
彼女の言葉を切って、私は立ち上がった。
これ以上聞いていると、本当に彼女に洗脳されてしまいそう。
私は、―――私は…!!
「いい加減にしなさい!」
……え?
そう、私に向けられた叱咤は、闇村さんが、言った、言葉だった。
彼女の、あの微笑の人が、今、私を怒っている?
何故―――。
「来なさい。」
彼女は立ち上がり、ソファを回って私の腕を強引に掴み、事務所の奥へと引いていく。
な、何よ、それ――?
パタン。
ドアが閉まると、彼女は私を壁に押しやった。
二人きりの部屋。
闇村さんの肩越しに見える部屋の風景は、あまりに殺風景だった。
コーヒーの匂い。
部屋には、コーヒーメーカーの乗った小さな棚と、一つの椅子。
それだけだった―――。
「な、―――何を、するんですか!!」
私はキッと彼女を睨むと、そう、怒鳴った。
こんな、こんなに感情が荒れたのは―― 初めて、かもしれない。
「静かに。」
闇村さんは、私の唇に人差し指をそっと当て、小さく言った。
「っ…」
更に言葉を言おうとした私に被せるように、彼女は
「私の話しを聞きなさい。」
と…命令した。
「………。」
意志とは相反し、スッと、言葉が喉の奥へ戻っていく。
私が言葉を出せなくなったのを知ると、彼女は私の唇に当てていた手で、私の頬を撫でた。
―――…っ…。
「ふふ、ごめんね、怒った真似なんかして。」
え――?
闇村さんは優しく微笑んだ。
それは、先ほどまであれほど悔しく、憎たらしかった、あの微笑、だった。
けど―――
「意地を張るのは、もう少し大人になってからよ。貴女は他人との接し方を知らない。強引に自分の考えを押し付けようとする、子供だわ。」
「……。」
「私の言い方も、少し悪かったみたいね。…ごめんなさい。」
私の頬に触れていた彼女の手が、私の頭の後ろに回る。
パチン。
「…!」
髪留めを外された感覚に、私は小さく目を見開いた。
だめ、他人の前で外したら、私は―――!!!
「…ほら、なんともないでしょ?」
「―――っ!?、…………どうして…?」
――――パチン。
髪留めと一緒に、私の緊張も切れた感覚がした。
汚れし物に対する制御出来ない嫌悪に、一瞬恐怖した。
けれど―――何も、変わらない。
「言ったでしょう。私は貴女を、美しいもので満たすことが出来る。今、貴女のその目に、汚れたものは映っている?」
…。
彼女の言葉に、私は小さく、首を横に振った。
それが―――真実。
「闇村さん……。」
目の前にいる、美しい人の名を、呼んだ。
一つの汚れも無い、美しい人。
「なぁに?」
私の頬を撫でる彼女のあたたかい手。
私はその手に自分の手を重ねた。
「一晩…お付き合い、します。―――その代わり、この時を…美しい時間を、私に、…下さい。」
小さく言い、私は彼女の目を、見た。
彼女は何も言わず、その優しく美しい微笑を称え――
優しく、私にくちづけた。
「どう…なって、るんだろ…。」
あたし、こと佐久間葵は、今、自分のいる状況がよくわかんなくて、小さく呟いていた。
今居るのは、いわゆる水商売のお店なんだけど、でも、今まで働いてたようなスナックなんかとは比べ物にならない程超スッゴーイお店。
クラブとか、そっちの方に分類される、かな…?
「どうしたの?葵。」
「え?…あ、いえ…。」
ふと、隣にいる人物から声を掛けられ、あたしは我に返った。
闇村真里さん。あたしに、このお店のお仕事を紹介してくれた人。
…っていうか、あたしの、恩師?いや、違うな、ええと、ご主人様?…うーん、むしろ…『支配者』?
信じられない程、あたしはこの人に胸キュン。うーん、胸キュンとかそんな生ぬるい表現じゃ足りない。ゾッコン?…うーん、むしろ、『この人が居ないと、生きていけない』。
初めて彼女に会ってから、その翌日、「5万円」と引き換えに、あたしは抱かれた。彼女は十万でも二十万でも良い、なんて言ってたけど、あたしはそんな金額を貰えるほどの自信はないし。っていうか、あたしからお金を払ってもいいくらい美人な人だし。
で、…その、抱かれて…それで………
思い出しただけで、軽く、震える。
彼女が言った、「究極の快楽」を、あたしは――
「葵、こっちよ。」
「あ…はい。」
あんなに、キモチイイなんて、信じられない。
そう、本当に、信じられないくらいに、キモチイイの。
その翌朝、あたしは、あたしの頭の中には、闇村さんしかなかった。
冷静に考えるとオカシイけど、でも、これは真実。
『抱いてくれるなら、なんでも、する。』
…というわけで、今までの仕事は辞めて、闇村さんの経営するお店で働くことになったワケ。
お店の雰囲気も良い感じだし、店長さんもいい感じだし、働くには良い条件。
――なによりも、お給料が良いワケで。
実は、本来お店で働いて稼いだ分のお給料とは別に、「特別手当」をくれるんだって。
勿論、オーナーである闇村さんの計らい?で。
あぁもう、本当にこの人には感謝してもしきれない。
「葵、こんな店だけど、大丈夫?上手くやっていけそう?」
そう微笑んで言う闇村さんに、あたしはガッツリ頷いた。
「が、頑張ります!」
「そう。良かった。…沢山頑張ってくれたら、ご褒美、あげるわね。」
「え…!?本当ですか!?じゃあ、沢山頑張ります!」
頑張らなくちゃ。
あぁ、彼女がご褒美をくれるなんて。
あたしは、この人がいれば、それでいい。
この人以外、何も要らない。
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