BATTLE ROYALE 3




 ―――誰かいる。
 人の気配を感じ、私―――渋谷紗悠里―――は立ち止まった。
 森林の中、そよぐ風が制服のスカートをはためかせる。
 静かに目を閉じると、感じる気配の方向や距離までがしっかりと見えてくる。どうやらその人物、殺意を剥き出しにはしていない。寧ろ、恐怖や怯えといった感情がひしひしと伝わってくる。
 私は足音を殺し、静かにその気配の方向へと向かって行った。草むらから静かに覗き見ると、そこには体育座りをして俯せている人物が見えた。僅かにだが震えているところを見ると、泣いているようだ。背中ほどまである長い茶髪――しかし生え際は黒色。俗に言うプリン頭というやつだろうか――、私の記憶が確かなら、おそらく高見沢亜子。クラッキングで捕まった女性だ。
「………あの…」
 私は彼女に声を掛けた。ただ彼女がいて私がいるのだから、お互いの存在を認識していて当然だろうと思った。それ以上でもそれ以下でもない。
「ひっ…!」
 彼女はビクッと驚いたような様子を見せ、反射的に私に銃を向けていた。
 青ざめた表情。震える手。そこにあるのは殺意なんかではなく、怯え以外の何物でもない。
「あの…何もしませんから…。」
「い、いや…!ち、近づかないで!」
「……。」
 私は両手を挙げ、何もしないとジェスチャーした。
 しかし彼女は銃を向けたまま「やめて」だとか「近づかないで」だとかを口走っている。
「……あの、銃を下ろして下さい。」
「こ、殺さないで!…殺さないで!!」
 このままでは私の方が殺される可能性の方が高い。彼女はそのことを認識する冷静ささえ失っているようだった。この様子からして…対人恐怖症なのだろうか?いや、この状況下だから、あんな風になってしまうのは当然なのかもしれないが。
「…銃を下ろしてって言ってるのが…聞こえませんか?」
 私がそう言った刹那、パキッと乾いた音を立て、彼女の拳銃が分解した。
「ひっ…、ひぃいっ!!」
 彼女は更に怯えた様子を見せ、分解した銃を手放して木に背を預ける。
 私はそんな彼女に近づくと、念のために自分のバッグをその場に置き、彼女に詰め寄った。出来ることなら味方が欲しかったので、彼女に落ち着きを取り戻させようと思ったのだが――
「いやぁ!近づかないで!お願いやから…!!」
 それは、どうやら無理みたいだった。
「殺したりしませんから。」
「嘘!…殺そうとしてる!殺そうとしてるんや!」
 突然、彼女が私に飛びかかってきた。
「殺してやる…、殺してやる…!!」
 彼女は私にのしかかり、首を締めてきた。
 私は彼女を説得するのを諦め、この状況下から抜け出す術を考えた。
 いくら非力な女性とは言え、ありったけの力で首を締められては危険である。
「……放して下さい。」
 私がそう言った途端、彼女の背後にあった木がメキメキッと音を立て、
 ――私たちの方へ倒れてきた。
「え…?」
 ズゥン…!!!
 土埃が舞い、私は咳き込んだ。
 彼女の手から力が抜け、私はするりと彼女から身を離し立ち上がった。
 彼女は、何があったのか…という表情で私を見つめている。顔面蒼白。冷静さを失った彼女でも、自分が危険な状況にあることは把握できたのであろう。
「…い、…痛い…っ…痛いっ……!」
 まだ若木とは言え、かなりの重量がある。
 物理的に考えて、かなりの重みが彼女にのしかかったであろう。――彼女の足に。
 乾いた地面に、赤い血液が流れているのが見える。……まぁ、彼女の全身に木が倒れかからなかっただけでも幸いだろう。私も、以前に比べ『力』を使いこなすことが出来るようになってきたみたいだ。
「………こういうの、自業自得って言うんですよね。」
 私は小さく呟き、地面に置いていたバッグを拾い上げ肩にかける。
「……誰かが助けてくれるといいですね。」
 私は彼女に向けて言うと、木に足をつぶされた女性に背を向け歩き出す。
「…痛い…、痛いよ…。…助けて…」
 彼女の声が…昔の記憶に重なった。
 歩きながら、彼女の声が聞こえなくなっても尚、私の耳から離れない、…あの声。
『…痛いよ…、…紗悠里ぃ……助けて…』
『紗悠里ちゃん…』
『…………助けて……よ……』
 私の目の前で、何人ものクラスメイトが絶命していった。
 突然崩壊した建物の中、何があったかもわからずに、身体をコンクリートに押し潰されて。
 苦しみながら…泣きながら…助けを乞いながら…。
 憎かったわけではない。殺したかったわけではない。……ただ、我慢出来なかった。
 おとなしい私をいじめの標的にする者。
 勉強出来る私を妬む者。
 上辺で笑みを浮かべ、裏で悪口言う者。
 無視すればいいだけだったのに。低レベルな奴らは相手にしなければよかっただけなのに。
 なのに……我慢出来なかった。
 あいつらとは違う。私はいい大学に行って、大手の企業に入社して。
 目の前に見えていたエリート街道を、自らの手で壊してしまった。
 ――でも、もしこのゲームに勝てば、どうなるんだろう。日本では無理だけど、どこかの先進国に送ってもらって、また1から勉強を始めて。私ならまたいい学校に入学できるだろう。その学校でもいい成績を残して、いい大学に進んで、大きな企業に入社できる?
 このゲームに勝てば。
 ふっと振り向いてみたが、もう彼女の姿は見えない所まで来ていた。
 ………。
 次に私を殺そうとしてきた奴がいたら…、本気でいってみようか。
 私のこの力があれば、人を殺すなんて容易いこと。
 どんな凶悪な人間でも ――私に勝るやつなんて…決していない!





 心地よい脱力感に身を委ねたまま、私―――幸坂綾女―――は意識を覚醒させた。
 美雨と身体を交え眠った、次の朝。………朝…じゃない。
 あの時、美雨と出会ったのが昼間だったから、……今は何時だろうか。
 私はゆっくりと身を起こし、美雨の姿を探した。
 彼女は部屋の机で、配布されたモバイルを弾いていた。
「……美雨…?」
 私は小さく彼女の名を呼ぶと、美雨はちらりと私を見て「おはよう」とだけ言った。
 私はベッドから下りると、彼女のモバイルをのぞき込む。
「何してるの…?」
「………。」
 彼女は唇に手を当て、その後キーボードに文字を打った。そこには……
『ハッキング』
 と書かれていた。
 ハッキング…?
『おそらく盗聴されてる。監視はしていないと思うけれど。』
「………。」
 それからしばらく美雨はモバイルに向かっていたが、一文を打つと肩を竦めてみせた。
『無理みたい。所詮、政府が支給したモバイルだから出来る行動が限られているし、警備が厳重過ぎる。』
 ………。美雨でも出来ないことがあるんだ。
『でも』
 美雨はふと、思いついた様にキーボードを叩いた。
『パソコンと、技術があれば可能かもしれない。』
 そう打って、美雨はちらりと私を見た。
 そして、こう打った。
『高見沢亜子が居れば。』
 ……高見沢亜子。
 ハッキングに関しては、彼女の上に出るものはいないだろう。けれど、確か対人恐怖症だったと聞いている。彼女がいれば…?
 そこまで考えて、私はふと疑問を覚えた。私は彼女が打っていたモバイルに手を伸ばし、
『ハッキングして、どうするの?』
 そう打って彼女を見遣る。私の視線を受けて小さく頷くと、彼女はこう返した。
『監視塔の門のロックを解除して、監視塔に強襲をかける。そして警官を殺す。』
『なんの為に?』
 すると彼女は薄く笑んで、キーボードにその細い指を滑らせた。
『私たちだけ政府の手の平で踊らされるなんて、面白くないでしょ?』
 私は息を飲んだ。
 彼女にとって…このプロジェクトは、単なるゲームでしかないんだ。
 彼女は常に、どうすれば楽しいかしか考えてないんじゃないだろうか。
「ねぇ美雨。……美雨はどうして、武器にメスを選んだの?」
 私はそんな疑問を口にした。ある答えを予想して。すると美雨は、当然のように言ってのけた。
「私がマシンガンを持ったらどうなると思う?………皆、すぐに死んじゃうわ。」
 そう、やっぱりだ。
「――ハンデよ。」
 彼女は、このゲームを楽しくすることしか考えてない。どうすれば楽しめるかしか考えてない。
 きっと彼女は――……
「綾女、食事でもする?」
 私を抱いたことさえ、ゲームの中のミニゲーム程度でしか考えていないんだ。





「………はぁ…。」
 私―――中谷真苗―――は、とぼとぼと細い道を歩いていた。この道は回りの地面から一段高いところにあり、回りにはポツポツと木があるだけで、その向こうには木をびっしりと密生させた山が見える。少し高さがあるからか見晴らしがよく、風が気持ち良い。
 死刑……。しかも、こんなめちゃくちゃなゲームに参加させられるなんて。どうしてこんなことになっちゃったの…。私はただ、ちょっぴりハードなエッチが好きだっただけなのに。それに、私の相手に選ばれた人は、皆幸福だったはずだわ。あんな心地よい快楽の中で死すことができたのだから。
『何故って言われても、あなたの犯したことは常識から…いえ、法的に言って死をもって償うべき罪なのよ。』
 優しかった女性のおまわりさんは、少しだけ厳しい顔をして言った。泣いているようにも見えた。『常識』とか『法』なんて言われても、どうせ私は無教養だし、犯罪なんて関係のない世界だって思ってた。両親はニュースなんて見なかったし、新聞も取らないでテレビガイドとか買ってたし、一人暮らしを始めても、それが当たり前だと思ってた。ニュースなんて面白くない。見ず知らず人が死んだこととか、別に知っても何の意味もない。
 中学ではロクに学校も行かないで友達と遊んでた。両親は放任主義で……っていうか、仕事とか忙しくて何も言わなかったし。高校で教わったことって言えば、『保健』くらいかな。だからね、避妊とかはちゃんとしてるのよ。それからフリーター(っていっても、バイトなんてしたことないけど)になっても、誰一人文句なんて言わなかった。親は、「もう十八なんだから一人暮らしでもしなさい。」って言って、その代わり、毎月二十万の仕送りを送ってくれる。
 NHKの受信料?勿論払ってるわ。だってほら、台風の時とか見るし、日曜の夜にやってる音楽番組だってたまに見るし。
 死刑、無期懲役、執行猶予。
 上の二つの言葉の意味はわかる。執行猶予ってなんだっけ?忘れちゃった。
 そんなのどうでもいいんだもの。――どうでも、よくないかぁ。
 ……そうだ!休憩所でずっと待ってればいいんだわ。そうすれば、私がゆっくりしてる間に皆は殺し合いをしてくれて、結局私が生き残るのよ!……それに休憩所にいれば…もしかしたら、誰かとエッチ出来るかもしれないし。最近欲求不満なのよね。殺せないのがちょっぴり残念だけど。
 そう思って、私はその場にバッグを下ろして地図を出そうバッグのチャックを開けた。
 ……その時だった。
「動かないで。」
「!」
 突然背後からの声に、私は硬直する。
「動いたら殺すから、……動かないで。」
「………。」
 私はその声に従い、じっと身を竦めた。
「……動いたら殺す…だから…、…動かないでね…。」
 女性は入念にそう言って、背後から手を伸ばし私のバッグを奪った。
「あ……」
 私は思わず振り向こうとしたが、女性は厳しい声を飛ばす。
「動かないでって言ってるでしょ…!」
「…わ、…わかり、ました…。」
 私は小さく言い、目を瞑った。あぁ、もう…運命に任せるしかないんだわ。
 ……もしかしたら、この場で殺されてしまうかも…しれない。
 刹那、
「ひゃっ…!?」
 私は突然襲った感触に身を固くする。背後から伸びた手が私の身体に触れたのだ。突然のことで驚いた。
「……。」
 その手は私の胸、腹部、下腹部、そして秘所の辺り、更には足のところまで隈無く触れていく。その手が一通り私の身体を触り終わった頃、背後の女性は小さく言った。
「………武器は?何も持ってないの?」
「…そ、それなら…スカートのポケットに…」
 私が答えると、女性はすぐに私のスカートのポケットに手を入れてきた。その瞬間、微かに秘所をかすり、私はビクリと身体を震わせる。
「……何、これ…?」
 女性は、私のポケットから取り出した物を見てか、そう尋ねる。
「あの…、アンケートの欲しい武器のところに何も書かなかったんです…、そしたらランダムで支給されたって…警察の人が言ってましたけど…。ど、毒薬だと思います。」
「…ふぅん。他には何も持ってないのね?」
「はい…。」
 私はこくこくとうなずいた。今は彼女に少しでも抵抗すれば、殺されてしまうかもしれない…そんな恐怖心が、私を従順にさせた。
「……中谷真苗さんね?動いていいわよ。」
「え……?」
 彼女の言動に驚きながらも、今は女性の正体が知りたくて、私は恐る恐る振り向いた。
 そして目にしたのは――
「……あ、あなたは!」
 私は目を見開いて女性を見つめた。
「お久しぶり。……私のこと、覚えてた?」
 女性―――木滝真紋さんは、軽い笑みを浮かべてそう言った。彼女には面識があった。しかしその時と今の彼女は余りに様子が違いすぎて、驚きを隠せない。
「……こんな道で無防備に歩いてちゃ、狙って下さいって言ってるようなものよ。」
 彼女は言うと、一通り漁り終えたらしい私のバッグを差し出した。
「あの…?」
 私が彼女の様子に困惑していると、彼女はお構いなしで腕を掴み、一段下がった乾いた地面に引いていく。
「気をつけて、滑るから。」
「は、はい…。」
 急な斜めになった地面を下りながら、私の頭の回りにはハテナマークがたくさん飛んでいる。どういうつもりなんだろう?
「……ここなら目立たないわ。」
 彼女は、窪んだ穴を指差し、私を連れてそこに入っていく。中は、人が二人かろうじてしゃがめるほどの狭さで、でも斜めになった穴なので外からは気づかれにくい。まるで……
「……。」
 ちょこんと地面に座り込み、隣に座るよう促す彼女を見ながら、私は思った。
「ウサギみたい。」
「……兎?」
 彼女は小首を傾げて聞き返す。
「ほら……この穴ってウサギの穴みたいだから。キタキさんはその穴に住むウサギさん。」
 そう言うと、彼女は微かに笑みを浮かべた。
「面白い発想ね。」
「ぴったりでしょう?」
 私はぺたんと座り込んだ。座ってみると思ったより窮屈で、否応なしに肩が彼女の肩にぴったりとくっつく形になった。
「中谷さん。戦う気はないの?」
 彼女は体育座りで、私に目をやらず虚空を見上げたような目線のままに尋ねた。
「戦う気……ですか?……そこまで考えてなかったです。」
 私がそう答えると、彼女はチラリと私を見遣る。
「じゃ、何考えてたの?」
「え、えぇと…これからどうしよう、とか、困ったなぁ、とか…。」
 ふっ、と彼女から息が漏れた。口元が少しだけ笑っているように見える。
「そんなんじゃすぐ殺られちゃうわよ。ここには狂った人ばっかりいるんだから。」
「……う、…そうですよね…。」
 あの時と今の彼女。その違和感も少しずつ和らぎ、私は彼女に心を許しつつあった。
 そんな自分にふと気づいて、私は彼女に疑問を投げかけた。
「キタキさんは殺さないの?……私のこと。」
「…ん…。」
 彼女はごそごそとバッグを探り、何かを取り出した。
「こんなので、どうやって殺せって?」
 彼女が取り出したのは、一見おもちゃのようにも見える手錠だった。
「私もね……武器の欄を空白にして提出したの。そしたらこんなのが支給されちゃった。もっとましなものくれればいいのに。」
 彼女が肩を竦めて苦笑する。私もつられて笑みを零す。
「……万事休す、ね。」
 その時ふわっと、困り果てたように彼女が零した笑みに…私は見とれていた。
『どうして…どうして私が…っ…!!』
 あの時の彼女と今の彼女の笑みは、私の中でどうしても結びつかなかった。可愛くて、無邪気な笑み。あぁこの人は純粋な人なんだぁって、そんなことを思って。
「……真紋…さん…、…あの…」
「……何?」
 彼女がちらりと私を見遣った、その瞬間…
「…ン…っ…!?」
 私は彼女の顎を引き、唇を奪っていた。
 やわらかくてみずみずしい唇が、私の唇とぴったりとくっつく。
「……んっ、……ふっ…!」
 彼女が抵抗の色を見せたので、私は彼女から顔を離す。
「なっ、……?びっくした、っていうか、何……?」
 彼女は自分の唇に手をやり、驚いた様子で言う。
「ごめんなさい。……その、可愛くて……つい……。」
「か、可愛い……?」
 夕暮れの穴の中、薄暗くてよく見えないが、心なしか彼女の頬が紅潮しているように見える。(本当に気のせいかもしれないけど)
 そう言えば…私が殺めてきた女の子って、彼女みたいな、孤独そうで、でも可愛い笑みを隠し持ってる女性(ひと)だった。
「……ストレートに言うとね、抱きたいの。真紋さんみたいな人、もうなんていうか、好みド真ん中なのっ。」
 私はずずいっと彼女に詰め寄って言った。
「い、いや…、そ、その、それはいくらなんでも早急すぎるんじゃ……。」
「早急?早急ってことは、今後の展開次第ではオッケーってことよね?ね?」
「え、ええ…、…まぁ…。」
 彼女が心の中で、(可能性は限りなく低いと思うけど…)と付け足したことなど私が知る訳がない。
「楽しみにしてるわ。」
 私がにっこりと笑むと、彼女も(乾いた)笑みを返してきた。
 うーん、これは脈アリって考えても全然大丈夫よね♪
「あの……出来れば味方が欲しいって思ってたんだけど……中谷さんとは行動しない方がいいかな?」
「何言ってるの?是非味方になりたいわ。いいじゃない、お互い安全なんだし。」
 彼女は困惑したように沈黙する。
「今夜は何もしないから、一緒にいましょう。……絶対何もしないから。約束する。」
「……う…、うん…。」
 彼女が頷いて、私は満足げな笑みを浮かべる。これでいい。
「不安だったの。いつも一人ぼっちで、……こんな場所だとなおさらでしょ?だから……」
 私はしおらしく言って、彼女の肩に寄りかかった。
「……そう…。」
 こう言っておけば間違いない。今までだってそうだったもの。
 …案の定、しばし身体を固くしていた彼女も、少しすると静かに私に肩を預けてきた。
 辺りには夜の戸張が落ち、闇と静寂が辺りを包む。時々他愛もない会話を交わしながら、何時間ほど経っただろうか。夜も更け、秋風の肌寒さが身に染み入る時刻になった。
 その時、……すぅ…すぅ…と、小さな寝息が聞こえてきた。
「………♪」
 私は眠った彼女の様子に薄く笑み、静かに手を伸ばした。
 疲れていたのだろうか、彼女は私の悪戯に気づく様子もなく、安らかな寝息を立てている。
 明日の朝になれば、きっと彼女は驚くことだろう。だけどきっとわかってもらえるはずだ。
 これも私の愛情表現の一つだってこと……。





「…ぁ…、…」
 微かに自分が息を吐いたその音で、ゆっくりと意識が戻ってきた。気づくと辺りは暗く、夜もすっかり更けているようだ。
 左足の感覚が無い。痛みすら消えているのは幸いかもしれない。私―――高見沢亜子―――は腕に力を入れ、身体を起こそうとした。しかし左足の辺りが、まるで誰かに掴まれているかのように動かない。
 しばらく起き上がろうと奮闘したが、やがて諦めた。感覚がないので重みも伝わってはこないが、全身全霊掛けても動かないのだから無理なのだろう。
「……はぁ…。」
 私はため息をつくと、ひんやりとした地面に身体を委ねた。
 ……どうしよう…。
 このままじゃ、そのうち誰かに見つかって殺されてしまう……。
「…っ…、…!」
 じわりと涙が湧いて来て、やがてそれがとめどなく頬を流れ始めた。
 どうしよう。どうしよう。……どうしようもない。
 ……誰か、誰か助けて。
 ……けど、私を助けてくれる人なんているんだろうか。心当たりなんてない。
 私は誰一人、信頼したことなんてないんだから。信頼なんて、出来ないんだから。
 このまま死んでしまうのか。
 だとしたら、なんて寂しい人生だったんだろう。なんて冷たい世界だったのだろう。
 誰もが私に冷たくて、私のことをゴミみたいに扱って。私だってやつらをゴミのように扱ってやりたかった。
 クラッキングだってそんな復讐だ。
 あの世界だけは少し違った。ネット上では私は姫であり、カリスマだった。
 なのに――……その罰が死刑なんて、酷すぎる。
 何もかも失って、空っぽになって。
「……へへ…」
 バカバカしくて少し笑った。
 こんなゴミ箱になんか入りたくなかった。ShiftとDeleteの同時押し。一瞬で終わってしまう人生の方がよっぽど、ディスクの負担も減らすんやから、なんて。
 そんなことを考えながら目を瞑り、ふっと吐息を吐き出した。
 ――その時だった。
「……高見沢亜子ね?」
 …!?
 突然掛けられた声に、私は身を硬直させた。その声は近く、しかし私は誰かが近づいてきていることなどちっとも気づかなかった。
「…あ…、……ゃ、……………っ…」
 私の頭の中はぐちゃぐちゃになり、微かにわけのわからない声を漏らした。
「………。」
 その時、微かな……ほんの微かな感覚で、酷く重たかった左足がふわりと軽くなったような気がした。私は無我夢中で両手に力を込め、身体を起こす。先程とは打って変わって、するりと起き上がることが出来た。
「…っ…!?」
 ズクン。鈍く、しかし強い痛みが左足の膝より少し上の辺りに襲った。私はその痛みに崩れ落ちる。
「動かないで。じっとしていなさい。」
 声は私にそう言った。私は俯せのまま、地面に身体を預ける。言われなくても、動く気にはなれないほど痛みが酷い。
「休憩所に行くわよ。」
「…ぇ……?」
 その人物は私の腕を取り、肩に回させた。
 私はわけのわからないまま、自由な右足に力を込めて立ち上がる。
「…っ、…く…!」
 痛みに眉を顰め、人物にもたれかかった。
「足のことは考えないで。なにか楽しいことでも考えていなさい。いいわね。」
 私はその時、ようやく人物が目に入った。
「………、…!」
 ドクン。心臓の音が、まるでボリュームを上げたかのように大きくなった。
「ひ、…っ……」
 私は思わず、その女性から逃げ出そうとさえしていた。
「何してるの?変なことしたら殺すわよ?」
 女性はあくまでも冷静に言う。――冷たい、冷たい顔で。
「こ…、…殺さないで…殺さないで…っ…」
 私は何度も何度も口走る。いつものように、自分の制御が利かなくなる。
 それも当然ではないか?あの…あの凶悪犯、神崎美雨が間近にいるのだから…!
「……。」
 神崎美雨は、静かに手を私の頬に伸ばした。私はビクリと身を固くした。
「亜子。」
 彼女は私の名を呼び、私の顔を彼女の方に向けさせる。
 爬虫類みたいな、感情の無い瞳が私を見つめる。
「私が助けてあげるわ。殺したりなんかしない。だからじっとしてなさい。……いいわね。」
 彼女がそう言った瞬間、私は口を閉じ、張りつめていた怯えが消えた。彼女に掛けられた優しい声がそうさせたのかもしれないし、彼女の感情のない瞳の奥に光を見たような気がしたからかもしれない。
「近くだから、頑張って。」
 彼女はそういうと、ゆっくりと歩き出した。私は左足を引き摺り、力の入らない右足でなんとか地を踏みしめ、彼女にもたれて歩く。私は歩くだけでもかなりの力を消費する。まわりのことなど構えず、ただ、歩を進めることだけに集中していた。
「着いたわよ。」
 休憩所に到着したことさえ、彼女に言われてからでないと気づけなかった。私は休憩所のなかの、なんとも言えぬ温かい空気に包まれて息をつく。
「美雨さん、おかえりなさい。」
「……ただいま。」
 そんな遣り取りに顔を上げると、そこには白い修道服に身を包んだ女性がいた。
 確か、幸坂綾女とかいう……。
「足に酷い怪我をしているの。本当は手術をすべきなんだけど……。応急処置をするから、食料庫にあるソファまで運ぶわ。」
「…ええ。」
 幸坂綾女はこくんと頷き、私の左側の肩を支えた。二人に支えられ、私は神崎美雨の言う、食料庫に連れていかれた。
「そっちにビニールを敷いて。」
「はい。」
 ぼんやりと二人のやりとりを聞いていると、やがて私はソファに寝かされた。
「ズボンを脱がせるわね。」
「ぇ…、あ…っ…」
 私の返事を聞かず、神崎美雨は私のズボンのボタンとチャックを外し、ズボンを脱がせ始めた。恥じらいもあったが、それ以上の痛みに私は眉を顰める。
「……ハサミを。」
「はい。」
 目を瞑ってじっとしていると、足の方でジャキジャキと何かを切る音が聞こえた。
 やがて右足がひやりとした空気に触れ、下半身を覆っていた洋服が脱がされたのを悟った。
「……酷いわね。」
 そんな呟きに、寒気が走った。よく考えていなかったけれど、私の左足は一体どうなっているんだろう…。
「高見沢さん。処置をするから、しばらく麻酔で眠ってもらうわ。いいわね?」
 神崎美雨の声に、私は小さく頷いた。
 確か、彼女は医者だったはず。それなら、少しはマシなことになるんだろう。
 目を瞑ったまま待っていると、やがて腕に触れられる感覚があり、チクリと痛みが走った。
 それから間も無く、私の意識は遠ざかり、眠りにも似た闇の中へ落ちていった。





「…なっ……!?」
 思わず大声を出しそうになり、私―――木滝真紋―――は慌ててキュッと唇を閉じる。
 一夜を共にした(といっても変な意味ではない。誤解のないように。)、その女性は私に寄りかかり、安らかな寝息を立てていた。
 昨日、日の明るい内をこの小さな穴で過ごして夜になったら休憩所に行こうかと思っていたのだが、彼女と一緒にぼんやりしていると動くのがかったるくなり、いつのまにか私は眠りに落ちてしまったらしい。
 気づけば東の空が明るく、夜明けから随分時間が経過していることが見て取れる。座ったまま眠ったせいか、身体の節々が痛む。
 けれど、今はそんなことどうだっていい。
「………。」
 私は自分の右手をそっと上げてみた。
 ……ピンッ。
「……ぅ…ん…。」
 其れはすぐに張りつめ、中谷さんがそれに反応して小さく身じろぎする。
「………。」
 私が手を下ろすと、其れは微かな金属音を立てて緩む。………。
『中谷さんとは行動しない方がいいかな…?』
 昨日のあの考え、やっぱり正しかった…。
『いいじゃない、お互い安全なんだし。』
『今夜は何もしないから一緒にいましょう。』
『……絶対何もしないから。約束するわ。』
 あの言葉に騙された私がバカだったってワケね……。
 ………っ〜…!
 ペシッ!
 私の左の手の平は、彼女の頬を捉えていた。乾いた音が小さな穴の中に響く。
 その衝撃で、彼女の顔がずれて向こう側にずるりと落ち、私から彼女の表情が見えない向きになった。
「起きなさい!」
 私は彼女に怒鳴りつけた。といっても、外への音漏れを考慮した程度だが。
「…ぅ、…ン……。」
 彼女は小さく声を漏らし、その右手を自分の頬にあてる。
 さぁ、どんな顔して私の顔を見るワケ?
 彼女…そう、憎き中谷真苗は、ゆっくりと顔をこちらへ向けた。
「うーん…、…?……おはよう…?」
 ……。
 彼女は寝惚け眼で、きょとんとした表情で私を見ていた。
「…このっ…!」
 その表情で血が頭に上り、私は声を荒げる。
「ね…、なんかほっぺたが痛い。」
 不思議そうな表情で頬に手をあてている。
「ほっぺたが痛い……じゃないわよ!なんなのよ、これは!」
 私はぐいっと自分の右手を上げた。
「いたっ…!」
 …っ。
 同時に襲う痛みにお互いに眉を顰めながら、二人の右手と左手に注目する。
「何って、真紋さんの手錠だけど……。」
 ………。
 彼女のあっけらかんとした表情に、思わず言葉を失う。
 確かに、それは私に武器として支給されたそれである。しかし、問題はそれの用途である…!
「…な…、…なんで私とあんたの手にはめてあるのか聞いてるの!」
 鈍い光を放つ金属の手錠は、私の右腕と彼女の左腕にしっかりとはまっていた。
「なんでって…、ん〜…、…なんとなく。」
「なんとなくじゃないでしょ…!なんで私達が、赤い糸ヨロシク繋がれなきゃいけないわけ?下手に身動きも取れないって…!」
「真紋さんは、いやだった?」
「当たり前じゃない!」
「……だよね。」
 彼女は小さく肩を竦め、呟く。
「まったく…っ…」
 私は無駄な抵抗だろうと思いつつも手錠をぐいっと引っ張ったりいじったりしてみるが、それが外れる気配はまったくない。
「鍵は?鍵!」
 私が強い口調で言うと、彼女は困惑したように首を傾げ、そして言った。
「なくしちゃった。」
 ………。
 私は正真正銘の絶望感に打ちひしがれる。
「……ごめんね。」
「……。」
 そんな、申し訳なさそうに謝られてもリアクションに困る。
 ごめんねって。なくしたって。わけわかんないわよ。
「……なんで、こんなことしたの?」
 私は手錠を外すのを諦め、彼女に尋ねた。
「…あのね、…離れたくないの。」
「…なんでよ…。」
「………好きだから。」
「………。」
 こ、告白?
 まぁ、昨日も散々好みど真ん中だとか、抱きたいだとか聞かされはしたんだけど。
 でも、そんな本気にするわけないし、ね。
「……離さないよ…、絶対にね…。」
 そう呟いた彼女に、何か、狂気めいたものを感じた。
 ぞくりと、寒気が走る。
「心中でもするの?」
 私が尋ねると、彼女はふるふると首を横に振った。
「そんなバカなことしない。少しでも長く一緒にいたいもん。」
「……あっそ…。」
 私は脱力し、熱を持った土の壁に身を委ねた。
 それからしばしの沈黙の後、彼女はポツリと呟いた。
「あーあ、エッチしたいなぁ……。」
「………。」
 リアクションに困っていると、彼女はすりすりと肩を寄せてくる。
「ねぇ、だめ?」
「……だ、…だめに決まってるでしょ。」
「……ぶー。」
 ぷぅっと頬を膨らませ、俯く。そんな彼女の様子が妙に可愛かった。
 …って、いやいや、いけないいけない…。
「じゃ、一人でする。」
「……は…?」
 彼女の言葉を聞き返す。しかしそれ以上言葉を返さず、彼女は自分の右手を胸元に滑り込ませていった。
「え?ちょ、ちょっと待ってよ…。」
 私は慌てて制止する。私に害があるわけではないが…何と言うか、それはどうかと、って感じで…。
「…ン…、…ん……。」
 彼女の手が、彼女のふっくらした胸元で動いているのが見える。
「ちょ、ちょっと、止めなさいってば!」
 私は見兼ねて左手を伸ばすが、彼女はそれを振り払って今度は下半身の方に手を伸ばしていく。
 彼女のスカートがごそごそと動き、中で手がうごめいているのが見て取れる。
「いい加減にしなさい!」
 私が強く言うと、彼女はピタリと動きを止め、私をチラリと見遣った。
「…じゃぁ、…シて?」
「……して、…って…。」
「してくれないなら自分でスルしかないじゃなーい…。」
 いじけたように言うと、またスカートの中の手を動かし始める。
「…んっ…、んぅ…。」
 悩ましげな声が漏れる。
 私はしばし困惑するが、やはり制止しようと手を伸ばした。その時…、
「……触って。」
 彼女はするりと抜き出した手で、私の左手の手首を掴みスカートの中へと導く。
 彼女の指先がしっとりと濡れている感触があった。
「……、……、………。」
 私はどうしようもなく、沈黙する。
「………触るだけでいいの…、ねぇ…」
 彼女の甘い声に、私の理性は溶かされていく。
 自分でも驚くほど、この女性に惑わされている自分に気付く。
 絶望感の中で見せられた情欲、か。
 なんて醜いものなんだろう。
「触るだけよ……。」
 私は小さく呟いて、彼女の下着の更に奥の秘所へと手を忍ばせていった。
「…あぁん、…うれしい…。」
 そんな囁きが、私の吐息までも荒くしていく。
 指先に触れる熱い温度。まとわりつくような感触は冷静に考えれば気持ち悪いもんなのかもしれないけど。
 ただ、隣で声を漏らす女性の表情と、この感触とがリンクした時、ヤバいくらいにクラクラした。
「ふぁっ…」
 耳に新鮮な甘い声。少しトーンの高い喘ぎが、官能的だった。
 彼女は身体を震わせ、熱い吐息をこぼす。
「真紋、さッ……」
「あーあ、こんなにして……。……淫乱だって噂は本当みたいね?」
 皮肉で言ったのだが、彼女は薄く笑みを零す。その言葉を肯定するかのように。
 きゅっと指を這わせると、彼女はビクリと身体を震わせた。
 なんか悔しい。私何やってるんだろう。本当悔しい。
 なのに興奮しちゃってる自分が、余計悔しい。
「……あんたみたいなやつ、私が一番嫌いな人種。……こんなこと、して……ッ」
 ともすれば、私自身だって一番嫌いな人種ってことになるのに。
 最低なことしてるって自覚しながら、彼女を責めるように少し力を強くした。
「ぁ、ッ……うー。」
 涙目になる彼女の横顔に思わず見惚れて手を止めた。
 ふっと、私の視線に気付いたように顔を上げると、彼女は目を潤ませたまま、困ったような笑みで言った。
「ごめんなさい、気持ちぃ、です……」
「ッ……」
 そんな顔しないで、よ……
 これ以上私を惑わせないでッ。
 顔を背けたけれど、彼女は私を追うように顔を寄せ、その唇を私の耳に触れさせる。
「やめッ……」
 拒絶しようとして再度彼女に顔を向けたとき、ふっと触れた唇。
 キス、しちゃった。
 しかも。すっごい、やぁらかいやつ。
「ま、ぁや……好き。」
 そう言って、彼女は笑んで。
 それからもう一度、唇を寄せられた。
 今度は長くて深いキスで。
 どうして、私、拒めないんだろう。
「……ま、なえ。」
 名前、呼んで、それから今度のキスは私から。
 あぁ、何やってるんだろう。
 昨日会ったばっかりの子だし、ここは殺し合いの舞台で、命とかかかってんのに。
 なのに私、この子のこと、自分から求めてる。
 ジレンマの中、どんどん片方の欲望だけが強くなっていった。
「まぁや、もっと、いっぱい、……離さないで」
 抗えない甘い響きに、酔いしれていく。
 冷たい金属で繋がれた私達の手は、いつしか強く強く握り合っていた。
「……真苗…。」
 そうぽつりと名を呼ぶと、彼女は――真苗は、嬉しそうに笑んでいた。





「………美雨…さん。」
 私―――幸坂綾女―――は、ぐるぐると当てもなくマウスを動かすのを止め、助けを呼んだ。
「……何?」
 ベッドで眠る高見沢亜子の側から、私に顔を向ける女性。
 ……。
 彼女の目が合う度に、脈拍が早くなる。異状だろうか。
 いや、寧ろそうさせる彼女が異常なのだと思いたい。
「………お手上げです。」
 私が小さく肩を竦めて見せると、彼女は私の側に来て、先程作り上げたハッキング用のパソコンのディスプレイを覗き込んだ。その時彼女の手が私の肩にかかり、一段と脈が早くなる。
 狭い机に置かれたライトだとかそういった物は全て取払い、ノート型のパソコンとそれに接続された周辺機器が机を埋めている。
 パソコンのディスプレイは黒く、画面の上の方で白い棒状の物が点滅したまま、それ以外の動きを見せようとしない。
「……再起動して。」
「はい。」
 美雨さんの言う通り、パソコンの電源を数秒押し、手動で再起動をした。少しして画面に何かのメニューが表示される。
「ちょっといい?」
 美雨さんは素早くキーボードを叩きながら言う。
「お願いします。」
 私は席を美雨さんに譲り、彼女の行動に注目した。英語だらけの画面で、キーボードをパチパチと弾く。彼女のしていることはまったく理解できない。私も人並みにパソコンは扱えるが、専門的な分野はさっぱり分からない。
 高学歴の医者であり、些か冷たすぎるが見事な美貌を持つ彼女。まさに才色兼備である。この言葉に、殺人のプロフェッショナルであることを含めて良いのかはわからないが。
 しばらく眺めていると、見慣れた『ウィンドウズ』のロゴが表示され、更に少しすると通常のパソコンとまったく同じ画面が開かれる。美雨さんはメニューからノートパッドを開き、こう打った。
『後はネットワークに接続して、ハッキングが出来る状態にしなくちゃいけないんだけど』
 美雨さんは、パソコンの画面から、山積みにされた周辺機器に視線を移した。
『ここから先は専門家にお願いするわ。』
 そう打って彼女は立ち上がり、高見沢亜子に近づいていった。私も彼女についていく。
 仰向けで小さな寝息を立てる女性には、薄いシーツが掛けられている。彼女の身体のラインに沿って緩やかな曲線を描いているが、一部だけ不自然な部分がある。
 それは、彼女の左足の部分だった。そこだけ、あるべき膨らみが、無い。
「……起きなさい。」
 美雨さんは、その手を眠る女性の頬に押し当てた。
 私は触れてもいないけど、何故かその手がとても冷たく、ヒヤリとしていることが解かった。
「う…、ん……」
 高見沢亜子は小さく声を漏らした後、ゆっくりとその目を開いた。ぼんやりと、しばし宙を眺めたのち、その焦点は美雨さんへと絞られた。
「…あ…、…。」
 彼女は小さく目を見開くが、美雨さんが頬をそっと撫でると、安堵したように目を細める。
「……痛むところはない?」
 美雨さんが優しい口調で尋ねると、高見沢亜子は小さく首を横に振った。
「痛みは…ないけど…。……、…私は…?」
 彼女の漏らした小さな呟きで気づいたが、彼女の口調には独特の関西の訛りがある。関西人なのだから当然なのだが、若干外見とギャップがあるように感じた。
「……昨日、処置をしたのは覚えている?」
 美雨さんの言葉に彼女は小さく頷く。
「左足を見たんだけど、…かなり酷い状態でね。あのままだったら、壊死は免れなかったわ。…だから…」
「えし…?」
 高見沢亜子はその言葉を小さく聞き返し…少しして、ガバッと上体を起こした。
「ま、まさか…!」
 急に意識がはっきりしてきた様だ。彼女は自分に掛けられたシーツを剥ぎとる。
「………!」
 彼女は自分の下半身を目にし、その瞳を見開いた。
「……こうするしかなかったの。最善の処置をしたつもりよ。」
「……、…うそや…。」
 彼女は包帯の巻かれた左足の太股に触れた。その手は徐々に下り…膝の下で、宙を切った。
「……。」
 信じられない、といった表情だった。無理もないだろう。
「……なんで…、…き…切ったん…っ…?」
 混乱に陥りそうな彼女の頬に、美雨さんが再び触れた。
「……落ち着いて。あなたの左足の骨はね、複雑骨折…、粉々になっていたわ。肉も押し潰されて、血が通える状態じゃなかった。仮に大きな病院に運び込まれていても、主治医は同じ選択をしたはずよ。」
 美雨さんは冷静に状況を説明した。
「…そ…か…。…、……。」
 ようやく彼女もその状態を理解し、不本意であろうが、納得した様子だった。
 彼女は呆然と失った足を――膝から下の無い自分の足を見つめていた。
 やがて、沈黙を切って、小さく嗚咽が漏れた。
「…っ…、…ぅ…!」
「亜子……。」
 美雨さんは彼女の名を呼び、その上半身を静かに抱き寄せた。
「…うあっ…、うぁあっ……!!」
 高見沢亜子は、美雨さんの胸で泣きじゃくる。
 妬けないと言えば嘘になる。しかし今、私は何も出来ない。
 私はパソコンに向かい、意味もなくディスプレイを眺めていた。
「どうすればいい?……私はもう…、なんもできんっ…。ただ、死ぬしか残ってないのかっ…!」
「……違うわ。」
 二人の姿をちらりと見遣るが、心がもやもやして、またパソコンに目を向けた。耳だけを二人に向ける。
「……あなたに出来ること沢山はある。…必要としている人間がいるのよ。…ここに。」
 最後の言葉は囁くような声だった。
「必…要……?」
「……来て。」
 美雨さんが高見沢亜子に肩を貸し、立ち上がらせる。それを見て私は席を空けた。
 高見沢亜子をパソコン前の椅子に座らせると、美雨さんは手を伸ばしてキーボードを弾いた。
『政府の管理局にハッキングをしたいの。力を貸して。おそらく盗聴されているから、今からはキーボードで話をするわよ。』
 美雨さんはそう打って、高見沢亜子を見る。
 彼女は美雨さんをしばし見上げ、静かにキーボードを打った。
『わかった。』
 美雨さんはその返答に小さく笑みを漏らし、また手を伸ばした。
『あの周辺機器で、ネットワークに接続してハッキングすることは可能?』
 高見沢亜子は山積みにされた周辺機器をしばし眺めた後、こう打った。
『楽勝。ハッキングでいいの?クラッキングで奴らのコンピューターを破壊することだって出来る。』
『OK。訂正するわ。ハッキングじゃなくてクラッキングをして欲しいの。』
 ……確か、ハッキングは不法侵入のことで、クラッキングは不法侵入をした上で破壊活動を行なうことだったか。
『それじゃあ、あなたを司令塔にするわ。私と綾女で接続等の仕事は全部行なうから、ここから指示を出して。いいわね?』
 美雨さんはそう打って、高見沢亜子を見た後私を見遣った。私はコクンと頷くと、彼女は満足そうに頷き返してくれた。
『その前に聞いてもいい?』
 高見沢亜子は、キーボードに指を滑らせた後、美雨さんを見上げる。
『何?』
 ……しばしキーボードに指を置いたまま迷った後、高見沢亜子はこう打った。
『私を助けたのはこの為。利用する為。そういうこと?』
 その問いかけに、美雨さんは迷うことなく返した。
『その通り。じゃなきゃ殺してるわ。』
 高見沢亜子は僅かに目線を落とした。何の迷いもなく『利用するため』と言われれば、落ち込むのも当然のことだろう。…しかし彼女はすぐに顔を上げ、こう打った。
『一つだけお願いがある。渋谷紗悠理を殺して欲しい。』
 …渋谷…紗悠理?
 確か、高校生の女の子。眼鏡を掛けたおとなしそうな子だったと思うけれど…。
『そんな簡単なことで良ければ。それがあなたにとって有益なこと?自分を殺さないで欲しいだとか、他にも欲求はあるんじゃない?』
『構わない。あの女さえ殺してくれれば、それでいい。……あいつだけは許せない。私の代わりに、殺して欲しい。』
 つまり――彼女が、高見沢亜子の左足を壊した張本人なのね。あんな非力そうに見えて…一体どうやったのかしら…。
『商談成立。早速作業にかかりたいけれど、体調は大丈夫?食事をしてからでもいいわ。』
『大丈夫。』
 高見沢亜子は、小さく口元を歪めた。この表情だけ見れば、美雨さんよりも余っ程凶悪に見える。…流石は世界中の主要機関をめちゃくちゃにした女…。
『三度の飯よりパソコン。私はこれが生き甲斐。他には何もないから。』
 高見沢亜子は笑った。少し寂しげな笑み。
「……期待してる。」
 美雨さんは、彼女の耳に唇を近づけ囁いた。
「……まかしとき。」
 小声で彼女が言ったと同時に、その頬に一筋の涙がこぼれ落ちた。
 私は何故か、それが嬉し涙だと信じて疑わなかった。彼女の寂しげな笑みと涙は、美雨さんに対する服従を意味しているように思えた。
 神崎美雨とは、そんな人物である。
 彼女に見つめられたが最後、
 ……もう、逆らえない。





「お嬢様。これから……どうしますか?」
 プロジェクトの開始から二日が経った。窓のない休憩室の中で時刻を刻むのは、モバイルに表示されるデジタルのそれのみだった。
「……どうする?どうしようかしら。」
 お嬢様は椅子に腰掛け、紅茶の入ったティーカップを揺らしながら悠長な口調で言う。
「此処にいれば安全ですが……良いのでしょうか?」
 私―――櫪星歌―――は躊躇いがちに言った。勿論お嬢様を危険な場所に出すわけにはいかない。しかし、なんというか、ここにじっとしていても何も進展しないではないかという思いがあった。
「今はまだ……いいのよ。今はね。」
 お嬢様はいつもの微笑をたたえ、そう言う。
「今は、ですか?」
 私は遠慮がちに聞き返した。
「そう、今はね。でもいつかここを離れなければいけない時は必ず来るわ。絶対に。」
「……あ…はい。」
 お嬢様はいつものように、確信めいた口調で言う。微笑みが崩れることはない。
「いい?ここにいれば絶対に安全よ。でもね、考えてみて。此処に居られなくなる時は必ず来るわ。例えば……これ。」
 お嬢様は、手にしたティーカップを掲げてみせた。
「……紅茶、ですか?」
「そう。…まぁ紅茶だけならいいんだけど…、人間って、水がなくなればどうなる?」
「……。」
 なるほど。お嬢様の言うことはもっともだ。
「……水がなくなれば生きて行けません。水を求めて…外へ出ます。」
「そういうこと。幸いここにはまだ水はたっぷりあるけど、此処に今滞在している三人の人間が毎日飲んでいれば、きっとすぐに水は尽きるわ。……その前に、政府の方でも何か策を講じてくるかもしれない。」
「……そうですね。」
「永遠なんてないもの。だから、今を大切にしたいの。櫪と一緒にいられる、この時間をね。」
「お嬢様……。」
 永遠なんてない……か。お嬢様のあの微笑みも、いつかは消えてしまうのだろうか。
 そう考えると、胸が締め付けられるような思いに苛まれる。
「だからね。先のことより、今を大切にしましょう。櫪……あなたの不安な顔は見たくないわ。」
 苦笑して言うお嬢様に、慌てて頭をさげた。
「申し訳ありません……。私が不安でいてしまっては、お嬢様も心地よくありませんか。」
「そういうこと。ね、笑って。」
 お嬢様の優しげな笑みに、私も小さく笑みを返す。
 ……いつもいつも、私はお嬢様に励まされてしまう。侍女として、こんなことでは…。
「ほら、またそんな顔して……」
「あ…、も、申し訳ありません!」
「ふふっ。」
 お嬢様は立ち上がって、ベッドに腰掛ける私のそばに歩み寄った。
「………大好きよ、櫪。そうやって悩んじゃうところも可愛くて大好き。」
「あ。…お、お嬢様…。」
 頬に触れられ、私の額にお嬢様の額が触れる。かぁぁっと頭に血が登り、顔が火照った。
「櫪…。」
 お嬢様は顔を離すと、優しく微笑した。
 名を呼ばれ、私はお嬢様を見上げる。
 その瞬間――
「…、…!」
 一瞬、何が起こったかわからなかった。
 それはほんの一瞬で、あっという間だった。
 しかし間違いなく、余韻として残る感触。
 お嬢様の唇が、私の唇に触れた感触……。
「こ、このような…、私などと…そのっ…」
 混乱しながらあやふやな言葉を紡ぐ私に、お嬢様はきっぱりとした口調で言った。
「櫪、命令です。嫌なら嫌と言いなさい。」
「い、いえ、そ、そのようなことは…」
 お嬢様の厳しい表情に私が身を竦めて言うと、お嬢様はふっと笑みを零した。
「……構わないのなら、身を委ねなさい。侍女としてではなく、一人の人間として、どう思うかとちゃんと意志表示しなくてはなりませんよ。いいですね、櫪。」
「は…はい…っ…!」
「良い返事です。」
 お嬢様はにっこりと微笑み、また元の席に戻って飲みかけの紅茶を啜った。
 ……。
 私の……意志……。
 ……嫌なわけがない。
 お嬢様は私の全て。
 私が、ずっと想ってきた人。
 ただ一人、愛している人なのだから……。
「…私も…大好きです…。」
 俯いて、聞こえないように小さく小さく呟いた。
「……なにか…言った?」
 お嬢様はきょとんと私を見る。
 私はそんなお嬢様に笑みを返した。
「なんでもありません、お嬢様。」





□SIDE STORY No.1


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