『紅い涙』








 ユリア ハルヒ
 どこかぼんやりとした瞳で、アーチェリー部の部活を眺める少女。
 否、それは眺めているのかすらわからない。

 いつからだろうか。
 ユリアちゃんがあんな虚ろな瞳をするようになったのは。

 暫くアーチェリー部に遊びに来てくれなかった。
 つい最近になって、ふらりとやってくるようになったかと思えば
 話しかけても何処か上の空。

 彼女に、ユリアちゃんに何があったんだろうと思いながら、
 アーチェリー部の部長であるあたし――高沢ハルヒ――は弓を射る。
 集中力が欠け失せていた所為で、矢は的の隅に突き刺さるだけだった。

 ふっと肩を落とした後、あたしはユリアちゃんの元へ歩み寄った。

「ユリアちゃん。最近元気無いね」
「……え?……そうですか?そんなこと、ありません」

 ユリアちゃんはゆらりと首を横に振っては、繕ったような笑みを見せる。
 なんだか嘘を吐かれているかのようで、心が痛い。

「あたしは」

 ベンチに腰掛けるユリアちゃんの隣に座って、切り出した。

「ユリアちゃんの力になりたいよ。ユリアちゃんの真っ直ぐな笑顔が見たいよ」
「……」

 あたしの言葉に彼女は黙したまま。
 されどあたしは一方的に続ける。

「何かあったんだよね。話して欲しいとは言わない。唯、あたしが出来ることがあれば何でもするから」
「……ハルヒ様―――」

 ふ、と ユリアちゃんがあたしの顔を見る。
 視線を合わせて、彼女を見れば、
 其処には困惑に揺れる瞳があった。
 少しでも感情が動いていることが、仄かに嬉しかった。
 
「ごめんなさい、ハルヒ様」

 不意にユリアちゃんは、すっと立ち上がり
 あたしに背を向けて、呟くように言う。

「今はお話出来ません。何も……何も―――」

 そう告げるユリアちゃんの背中は微かに震えている。
 嗚呼、嬉しいなんて前言撤回。
 彼女を困らせて嬉しいわけがない。

「今は、話さなくていいから!ただ、あたしの出来ることをさせて。ユリアちゃんの為に出来ることをさせて!」

 少し大声になって、周りの注目を引いてしまった。
 ユリアちゃんはぽつりと、言った。

「……ハルヒ様が、ハルヒ様らしく在って下さることが私にとっては何よりのことです。ですから、お願いです、ハルヒ様だけは変わらないで下さい―――」

 ユリアちゃんは悲しげに震える声で告げ、早足であたしから離れていく。
 遠くなる背を追いかける術は無く、あたしは唯、彼女の背中を消えるまで見つめていた。

 ……?
 変わる?変わらない?
 ユリアちゃんに、本当に一体何があったんだろう?

 わからない。あたしにはわからないけど。
 それがユリアちゃんの望みならば。
 あたしは変わらないよ。
 いつだって高沢ハルヒは高沢ハルヒだ。
 だから、安心してね―――、と。
 心の中で呟いて、あたしは一つ、目を瞑る。

 ふつふつと。
 心の中に湧き出す疑心があった。
 高津茉莉奈―――。
 ユリアちゃんの傍にいつもいる、生徒会長。
 あの人と、何かあったのではないかと。

 ユリアちゃんが変わってしまったのは、生徒会長の所為―――?

 一度芽生えた疑心は、あたしの中に、深く根付いていった。





 マリナ ハルヒ
 生徒会室。
 私――高津茉莉奈――は、生徒会の代表として、部活動予算の会議に出席していた。
 月子やイズミ、ユリアはいない。
 このくらいの仕事ならば一人でこなせるからと言って私が彼女らの出席を断った。
 本当は顔を合わせたくなかったのかもしれない。
 学園内では誰にも話していない、鬼のこと。
 それを宿した私は、幾らポーカーフェイスを振舞おうと、月子辺りには見破られてしまうのではないかという危惧があった。
 本当は誰にも会いたくない。だけど一人になったら怖い。
 相反する心理に葛藤しながらも、私は普段通りに振舞って見せる。

「それでは、部活動予算会議を終了します。お疲れ様でした」

 そつなくこなした仕事も終わり、それぞれの部の部長が生徒会室を後にしていく。
 ほっとしたのも束の間、一人、生徒会室から出て行かない人物に気付く。

「ハルヒさん?どうかしたかしら?」
「いや、ちょっと」

 なんだかもたついている彼女に、ふっと危機感を覚えた。
 誰かと二人っきりになってはいけない。
 私はその人を、襲ってしまう恐れがある。

「ごめんなさい、この後の仕事も立て込んでいるの、出来れば――」
「生徒会長」

 不意に、ハルヒさんが凛とした声で私を呼ぶ。
 その瞳に宿るのは真摯な色。
 見抜かれた―――?
 一瞬そう思ったけれど、彼女は鬼の存在すら知らないはずだ。
 続く言葉を聞いた。

「ユリアちゃんに何したの?」
「え……?」
「最近ずっとユリアちゃんが変だよ。何かあったとしたら生徒会長との関係しか疑えない。ねえ、ユリアちゃんに何をしたの……?」

 ―――…。
 ユリアの様子がおかしくなったのは、彼女が私とノゾムさんの屋上での一件を目撃した以降。
 気にはなっていた。けれど私がどうこう出来る問題でもなさそうな気がしていた。

「何をって、何もしていないわ」
「嘘!しらばっくれないで。ユリアちゃんは明らかに生徒会長に影響を受けている。そうでしょ?なら、何か分かる筈だよ。お願いだから教えて!」

 ぞくん。
 彼女の瞳に宿るのは、焦燥と恐怖。
 それが、酷く、甘美な色に視えた。

 気付けば心音が速い。
 血液という血液が、凄い勢いで巡っている感覚。
 頭がふつふつと煮えるようだ。

 ハルヒさんの焦りが、恐怖が、そして希望に縋りたい、そんな思いが。
 私の―――糧になる。

「一寸」

 呟いて。
 ハルヒさんの傍に近付いた。

「……?」

 自身の制服のリボンをほどく私に彼女は怪訝そうな顔をして。
 そのリボンを―――

「きゃ、ッ、な、何するのっ!」

 抗うハルヒさんに構わず、リボンで彼女を後ろ手に縛る。
 自由を、奪った。
 奪ったのだ。
 そう、することなんて、一つしかない。

 否、そう、思考が叫んでいるだけか。
 此の侭。
 彼女に酷い目を遭わせろ、と。

「ごめんなさいね…――」

 心にもない謝罪を紡ぎ、彼女を壁際に押しやると、
 強引にハルヒさんの両足の間に自身の足を押しこんで
 片手で彼女の制服を奪うように脱がせていく。

「いやっ!!やめ、て、何でこんなこと!!」

「何故?……何故かしら、ね」

 分からない。分からない。
 脳内がぴりぴりと痺れている。

 彼女の恐怖に歪む顔が視たい。
 歪んでいく世界が視たい。
 壊れていく姿が視たい。

「や、あッ……!助けて、誰か助けてッ!!」

「助けを呼んでも無駄よ。生徒会室には誰も来ない」

 肌蹴させた胸元。シンプルな白の下着が覗く。
 そっと顔を下ろして口接けた。
 つ、と舌でなぞる。

「ッ――助け、て、助けて!!」

 舌でなぞると彼女はびくりと身体を震わせた。
 初めてなのだろう、こんな感覚は。
 穢れのない、綺麗な身体。

 嗚呼、汚したい、穢したい。

「別に怖いことなんかしないわ……此れは、気持ちの良いこと、よ?」

 囁くように告げては、彼女の下腹部に手を這わせる。
 スカートを軽くめくって、ショーツへと―――

 ――――ガチャ。

 不意に。扉の開く音が聞こえて私は顔を上げた。

「ユリアちゃん……!!」

 ハルヒさんの声と、人物を視認するのとどちらが早かったか。
 生徒会室の入り口にはユリアの姿があって。
 ユリアは呆然と、私達の姿を、見つめていた。



 マリナ ハルヒ ユリア
「ユリア。邪魔しないで」

「やっ、助けて、ユリアちゃん、助けて……」

「ユリア。私の命令には従うわよね?今すぐこの場から去りなさい」

「ッ―――ユリア、ちゃん!」

 交互に響く私とハルヒさんの声。
 ユリアは、私の命令が絶対だ。
 ハルヒさんが幾ら助けを乞おうとも無駄な――

「ぁ」

 かつこつ、と硬質な靴音も束の間、
 ユリアは私達と距離を縮めて。

「――!」

 パシンッ。
 鋭い痛みが私の頬を襲う。
 ユリアの平手が、私の頬を、打った?

 信じ難い事態に、私は眉を顰めてユリアを見る。
 ユリアは無表情に私を見上げて、告げた。

「ハルヒ先輩に手を出すのは――仮令マリナ様でも、赦しません」

「……ユリア?」

「私は……ハルヒ先輩は……」

 ユリアは曖昧に言葉を濁し、静かにハルヒさんの拘束を解き衣服を正す。

「ゆ、ユリアちゃん……有難う……」

「礼には及びません。行きましょう」

 ユリアはハルヒさんの手を握って、生徒会室を後にしようとする。
 どうして?
 ユリアは私に傅いているのではないの?

 ――――ユリアは私よりもハルヒさんを、選んだ?

「ゆり、あ……」

 掠れる声で名を呼んでも、ユリアは応えることはなく。
 ハルヒさんの手を取って、やがて私の視界から、消えた。

「ッ……」

 ユリアに
 裏切られた。 

 せかいが
 ゆれて、ゆがんで、ひずんで。

「あ、ああぁ……」

 呻きに似た声が喉の奥から漏れる。
 残酷な、世界だった。
 ユリアまで、居ない、この世界に、

 私が生きる価値はあるのだろうか?

「ぁぁあぁあああああ―――!!」

 鬼に侵食された心はより絶望の色を濃くしていた。
 こんな、世界なんて、見たく、ない。

 震える、手で、携帯電話を取って。
 送るのは最後の救いを求める、一通の、メールだった。





 ノゾム マリナ
「タカツ……?」

 メールの着信を受けて、私――月村望―――は、表示された内容に目を見開いた。
 メールにはタイトルも何も無い。
 ただ一言。

 『たすけて』――と。

「何だ?この感じ……。すごく、すごく厭な予感がする」

 銜えていた棒付き飴を舌で軽く掬っては、傍にいるカンノに手渡す。

「やる」

「え、要らないよ……。それより、どうしたの?」

「ちょっと、な。生徒会室に行って来る」

 カンノに強引に棒付き飴を渡し、鞄も教室に置いた侭に生徒会室へと急いだ。
 駆ける足取り。
 タカツがあんなメールを悪戯で送るとは思えない。
 即ち彼女の本心。
 それが「たすけて」なのだとしたら、一体何事だ。
 タカツはプライドの高い女。
 ちょっとやそっとのことで助けを乞うようなことはしない。
 だから、尚更。
 不安が心を支配する。

「タカツ!」

 バンッ、と音を立てて生徒会室の扉を開いた。
 タカツの後ろ姿が目に入った。

「ぁ―――」

 微かに漏れる声。
 ぽたり、ぽたり、と、何か水が落ちるような音。
 その音の理由は、彼女が振り向いた瞬間に理解出来た。

「ッ、その目は」

 タカツがゆらりと振り向いて、目に映った光景は信じがたいものだった。
 タカツが泣いていた。泣いているだけならここまで吃驚しない。
 ――その涙が、血の色をしていたから。

「あ、ぁぁぁ、あ―――あぁぁぁっ!!」

 普段のタカツとは思えぬほど冷静さを欠いた叫び。
 ぐしゃり。
 彼女は自らの頭を掻き抱いては、ぶんぶんと頭を振る。
 ぽた、ぽた、と血色がフロアに散った。

「落ち着け、落ち着け……」

 反芻す、言葉。
 タカツに静かに歩み寄る。

「見……視え……な、……見え――ぁ、あ」

 掠れた声が、紡ぐのは、彼女の瞳に光が宿っていない事実。
 打ちのめされる気分だったが、誰より辛いのはタカツだ。
 私は強く在らねば。
 タカツは静かに目を閉じて、瞳の淵から、血の涙を零す。

「私が悪いの……。私が鬼を、宿したばかりに―――」

 鬼を、宿した?
 タカツが?
 つまり此れは、タカツに宿った鬼の所為だと言うのか。

「ごめんなさい――」

 タカツは目を固く瞑って、呟くように謝罪した。
 莫迦。
 莫迦なやつ。

 自分に鬼を宿して。
 瞳から光を失って。

「お前は、本当に―――」

 目を閉じたタカツは、とても不安げなのに何故だか綺麗に見えて。
 項垂れる彼女の頭を軽く抱くと、

 私はそっとタカツの唇に、自らの唇を重ねていた。

 ほんの一秒程度の口接け。
 そっと離すと、タカツの肩を抱いて相手を見据えた。

「莫迦だな。目を開けろ」

「……ノゾム、さ」

 彼女は長い睫毛をわずかに震わせ、目を開ける。
 緋色の中には確かにタカツらしい色があって。
 私はその瞳を見つめて、告げた。

「こんな所で挫けるなんてお前らしくない。目を覚ませ!」

 怒鳴りつける。
 タカツの瞳がわずかに揺れた。

「え?……何故―――?」

 タカツは、至極不思議そうにそう呟いて。
 ぱちぱちと瞬いては、私に、焦点を向ける。
 え……?

「どうして……?ノゾムさんの口接けで見えるようになるなんて、嘘――みたい」

「見えるように、なったのか?」

「ええ……見えるわ。ノゾムさんの姿も、真摯な瞳も、全部、見える」

 タカツの返答を聞いて、私は少し拍子抜けしたように肩を落とした。
 こんな簡単なことだったのか。
 てっきり一生、タカツの目が見えなくなるのかと、怖かったのに。

「……。大体、キスで見えるようになるわけないだろ。気の持ちようだ」

 そっと身体を離すと、まだ頬に残る血の残滓を指で拭ってやった。
 タカツは尚も不思議そうに私を見る。

「ねぇ、どうしてキスなんかしたの?」

「え?そ、それは――」

 直球な問いかけに、思わず視線を逸らして、少し逡巡した後

「Sleeping Buaty……みたいだったから」

 と、私は呟いた。
 ええい、恥ずかしい。

「ノゾムさん……」

 タカツは一寸、また不思議そうに瞳を揺らす。
 そんな仕草をするな。いつもと違って見えて変な気持ちになる。

「あり、がとう」

 ふい、と顔を逸らした私の頬に、ふわりと、掠めるのは唇の温度。
 タカツから、私の頬への口接けは、急速に私の脈拍を早くしていた。

「そ、そんなことより!」

 場を誤魔化すように、ぶんぶんと頭を振って、タカツに改めて目を向ける。
 そうして私は続けた。

「タカツに鬼が宿っていたのは、予想外だった。宿した、と言ったな」

「ええ……ごめんなさい。自分を過信していたわ。鬼くらいなんとか出来ると思っていた――だけど、無理だった」

「どうして、鬼を宿したことを話さなかったんだ?」

「それは――その」

 タカツは困惑したように、視線を宙に巡らせては、やがて紡いだ。

「誰にも言いたくなかったの。私の視力が著しく低下していること、を。もし言ったら手術しろと言われるし、でも、私は厭なの。手術をしてもし失敗したら――」

「おま……なんてこと」

 私は、そんな言葉を紡ぐタカツが、まるで駄々をこねる子どものように思えて。

「手術しろよ。失敗なんか恐れても仕方ないだろ。手術しなかったら一生見えないんじゃないのか」

「でも……でも、好きな人と居られる時間は限られているわ。私はその間に好きな人を目一杯、この瞳に捉えたい。だから、厭なの」

「またそんな屁理屈を……。そもそも誰だよ。時間が限られてるなんて。お前の好きなやつは何処か遠くにでも行くっていうのか?」

 そう問いかけるとタカツは珍しく動揺を露にした。
 そしてタカツは困ったように笑う。笑うのだ。

「……だって私が卒業したらもう会ってくれないでしょう?」

 ゆぅらりとタカツは小首を傾いだ後で、
 私を見つめ、彼女の唇が音を震わせる。

「貴女が、好き」


 ―――え?

「え?」

 疑問だけが、思考を支配し、音を支配した。
 タカツが、私を、好き、……?

「ご、ごめんなさい。迷惑よね。分かっているの。ノゾムさんは私なんか見てくれない」

「阿呆か。お前は」

 呆れるような声が漏れた。
 タカツを見据え、一つ溜息を零す。

「好きとかそんなのはわかんねーし。でも、私は何処にも行かない。タカツが卒業したって会えるだろ。会えるに決まってるだろ。だからお前は莫迦なんだ。変な思い込みで自分の一生変えるなよな」

「……」

 マシンガンのように喋ったら、タカツは一寸押し黙ったけれど。
 やがて彼女は弱ったように、笑う。

「……うん」

 小さな相槌。
 続けて彼女は言った。

「手術、受ける。受けるわ。貴女がそう言ってくれるなら――私は」

「ったりまえだ」

 ふ、と笑う。
 タカツも小さく笑う。

「怖いかもしれないけど、一生を台無しにすんなよ」

「ええ」

 やさしい、やわらかい笑顔を見た。
 嗚呼、此処にはもう鬼はいない。 

「でも、タカツの鬼が消えたということはつまり、また別の誰かが」

「……、そうね」

 いつまでも続くいたちごっこ。
 いい加減、この鎖を断ち切りたい。
 でもどうしたらいいのか。
 少しぐらい荒い手段を取ってもいいのか。
 いや――もう猶予がない。これ以上誰かが傷つくのは見ていられない。

 次の鬼が現れたら必ず。
 必ず、本体の居場所を聞き出してやる。








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