『魔女とラフレンツェ』





 鬱蒼と茂る暗緑の樹々 不気味な鳥の鳴き声
 ある人里離れた森に その赤ん坊は捨てられていた

 幸か…不幸か…人目を憚かるように捨てられていたその子を拾ったのは
 王国を追われた隻眼の魔女《深紅の魔女と謳われた》オルドローズ

 銀色の髪に 緋色の瞳 雪のように白い肌
 拾われた赤ん坊は いつしか背筋が凍る程美しい娘へと育った……





 ノゾム ソラ ユリア
「胡桃の件が、偶然――?」

 ぽつりと問い返すノゾム様に、ソラ様は表情の薄いその顔を、
 少しだけ困惑に染めた。

「私とニシザキがついている間、ユウキにおかしな様子は何も無かった……鬼の所為じゃない」
「じゃあなんで私の身近に居る人間が、あんな目に遭うんだ」
「それは……偶然の事故としか……」
「事故じゃない!轢き逃げだ!胡桃は、殺され掛けたんだ」
「でも、それはユウキが干渉したものじゃない」

 朝。
 ユウキさんと、その警護として一日を共にしたソラ様達。
 三人は、特に仲の良さそうな様子も無く、
 それぞれがマイペースで。

 ニシザキ先生は手早く交代を終え、職員室へと姿を消した。
 彼女が去り際に残した言葉も、唯、

 「何も無かった」

 と。
 焦燥したノゾム様とは裏腹に、
 ソラ様も、ユウキさんも、
 皆、同じことを言う。

 「何も無かった」

 何も無かった、――か。

「一体どうなってるんだ……」

 行き場の無い怒りを抱えたまま、ノゾム様は視線を逸らす。
 私―――山本結梨亜―――は、そんな彼女に、掛ける言葉を持たなかった。

 くるりと言葉無く私達に背を向け、階段を駆け上がるノゾム様。
 ソラ様が小さく溜息を零す。

「ノゾムも突然のことで動揺しているのね……仕方のないこと」

 ソラ様はぽつりと言って、
 後のことは宜しく、と私に視線を向けた後、その場を去ろうとした。

 私は、そんなソラ様に、一つの不安を隠せずにいた。

「少しだけ宜しいですか?」

 ユウキさんから距離を置いて、ソラ様へ小さく投げ掛ける。
 彼女は一寸不思議そうに瞬いては「何か?」と短く返した。

「私は……今回のことが、鬼と無関係とは思えないのです」
「……どういう意味?」
「それは……」

 真っ直ぐに私を見るソラ様の双眸は、色が薄くて、
 一体何を見ているのだろうと、不思議になる。
 彼女の眼差しから目を逸らし、平和な風景の広がる窓の外を見遣っては、続ける。

「まず、私は、ニシザキ先生を信頼していません」
「……?」
「茉莉奈様から言われていました。彼女を信頼してはならない、と。最初はその理由が解りませんでしたが――今ならば、解る気がします」
「どうしてニシザキに信頼を置けないの?」
「ニシザキ先生は、生徒会を守る為に戦っているのではない。彼女自身の持つ何かの為に戦っている。彼女に確固たる意志があるのならば、茉莉奈様も私も信頼を置いたでしょう。けれどそれが出来ない何か」
「……」
「そう、妙なことを言ってしまえば……ニシザキ先生は“何か”を守る為に戦っている、その“何か”を既に鬼に奪われていたとしたら――彼女が裏切ることも、また容易い、と」

 訥々と言う私に、ソラ様は不思議そうに瞳を揺らし、問う。

「ユウキではなくニシザキに鬼が宿っている、とでも」
「いいえ。そうでなく、ニシザキ先生は鬼が宿らずとも、鬼の方へ寝返ってしまう不安」
「……それは確かに怖いわね。もしその話が事実だったとしましょう、それで今回の事件は、私が目を逸らしている隙に、ユウキとニシザキが共謀して行なった?」

 思いの滲まぬ淡白な声が、私を問い詰めるように言う。
 私は勝手に思っている不安を、失礼にも関わらず、彼女に話している。
 もしソラ様にそんなことが無ければ、彼女はきっときっぱりと否定してくれると、そんな期待を抱いて。

「私は……ユウキさんも何処か虚ろで、定まらない人物だと思っている。つまり、ニシザキ先生もユウキさんも、心のどこかで怖いのです。……ですが、ソラ様、貴女は――芯のある人物だと、思っている」
「それは有り難う。ならば一体何が不安なのかしら?」
「……最後の、たった一つの、ちっぽけで考え難い可能性、それは」

 否定して欲しい――。

「ソラ様に鬼が宿っている可能性です」

 お願い、否定、して。

「……――あぁ、そんな、可能性」

 ソラ様……

 彼女はすっと私から視線を逸らし、
 小さく笑う。

「案外、そうだったりして」

「……ッ」

 どうして一言、
 違うと――そう 言ってくれない、の?





 タカツ ユリア
「それでね、速水さんの件はやっぱり……」

「……」

「結梨亜?」

「――……え?」

 結梨亜の自室、こうして押しかけた私―――高津茉莉奈―――にも、結梨亜は穏やかに微笑んで。
 いつものように、同じベッドに隣同士で腰掛けて、真っ直ぐな表情で、私の話を聞いてくれるはずだった。
 だけど今日の結梨亜はさっきからなんだか変。
 話も上の空のように、曖昧な相槌ばかり返している。

「結梨亜、どうしたの?何かあった?」
「いいえ……少し疲れているのかもしれません、ごめんなさい、茉莉奈様」
「そう……?」

 結梨亜が、疲れてるなんて、今まで言ったこともない。
 何か不安があればちゃんと話してくれる。
 今までもそうだったし、これからもそうだと思っていた。
 それだけに、結梨亜の曖昧な笑みは、私を少し不安にさせる。

「結梨亜……何かあったらちゃんと言うのよ……」

 隣に座る結梨亜の頭をそっと抱き寄せて、とん、と彼女の額に頬を寄せる。
 結梨亜は頭を私の肩に落ち着けては、小さく答える。

「私は大丈夫です……ご心配要りません」

「……ん。それならいいの」

 少しの間、結梨亜の感覚に浸るように沈黙して、
 それから私は覗き込むように、彼女の瞳を見た。
 結梨亜は穏やかに、目を細めて。

 ――いい子。
 結梨亜だけは私を裏切らない。
 結梨亜は私だけを思って――私の為に、笑ってくれる。
 私と結梨亜との信頼は、本当の姉妹にも勝るとも劣らない。
 本当の妹のように大切で……愛しい子。

 結梨亜だってきっと、私を本当の姉のように慕って
 私に尽くしてくれる。

「ね、結梨亜……今度、湖に行きましょうか。ボートを借りて、ゆっくり漕ぐの」

「……ええ。楽しそうですね」

 だから怯えないで――。
 今は楽しいことだけをして、
 沢山、笑って。





 ソラ ニシザキ
「ユリアがマリナを慕っている理由?」

『そう。あの子は何故、ああも従順なの?マリナが一体何をしたの?』

 電話越しのソラの問い掛けに、
 私―――西崎真矢―――は一寸瞬いて、
 ベッドサイドに置いたビールに手を伸ばした。

「ソラがそんなこと知りたいなんて」

『答えて』

 私の悪戯な返答に、短い言葉。
 別に怒らなくても解ってる。それはソラの命令なのよね?

「吊り橋効果よ」

 全く同じ内容の言葉を用意して、
 男性が、二つの場所で女性に声を掛けました。
 最初の場所で男性が渡した電話番号に、後で女性が掛けて来ることは殆どありませんでしたが、
 二番目の場所――吊り橋で渡した電話番号には、前者とは比べ物にならない数の電話がありました。
 女性は吊り橋の上という恐怖を、性的興奮と錯覚し、
 吊り橋では男性が、とても魅力的に感じるのです。

「ユリアは、一家惨殺事件の被害者にして、その生き残りなの」

『……それは興味深い』

「私は面白おかしくなんて話せないけれどね」

 山本結梨亜。
 彼女は礼儀を重んじる裕福な家の一人娘として育った。
 彼女の周りには愛に溢れた両親と、雇われの執事が居た。
 ある日、その執事が山本家の資産に目を眩ませて、
 強盗目的でユリアの両親を殺した。
 そしてその目撃者であるユリアも勿論殺そうとした。
 命からがら逃げ出した繁華街、そ知らぬ顔をする大人達にユリアは救いを求めることが出来ない。
 追って来る殺人鬼、恐怖に怯え路頭で震えていたその時に、
 ユリアに救いの手を差し出したのが、高津茉莉奈。

 ユリアの両親を殺した執事は、マリナの通報によって逮捕され、
 そして両親を失ったユリアは、マリナの家に引き取られることになった。
 その出会いから絶対的な信頼が築かれて……――

「ユリアにとってマリナは絶対。マリナにとってもユリアは都合の好い存在だったのでしょうね」
『命の恩がある、か……』
「その一言だけでは終わらない。ユリアにとって、マリナは謂わば――白雪姫と王子様なのよ」
『命を救ってくれた上に、自分を愛してくれた、ね。……下らない』
「あら、例え話は嫌いだった?」

 小さく笑っては、ビールを口に含んだ私に、
 電話の向こうでソラは呟いた。

『物語のお姫様は、自分がラフレンツェであることに気付いていないだけ……』





 銀色の髪を風になびかせて 祈るラフレンツェ 死者の為に
 小さな唇が奏でる鎮魂歌 歌えラフレンツェ 永遠に響け

 ――それは手と手が触れあった 瞬間の魔法
 高鳴る鼓動 小さな銀鈴を鳴らす
 瞳と瞳見つめ合った 瞬間の魔法
 禁断の焔 少女は恋を知った――



 ソラ ユウキ
『オルドローズやオルフェウス、エウリディケは誰なんですか?』
「……貴女は本当にこういうことに関しては理解が早いのね」

 電話越しに、ユウキへ皮肉めいた言葉を紡げば、彼女は屈託無い声を上げた。

『大好きですから』
「悲劇が、ね」

 私―――真壁宙―――は一つ肩を竦めた後、
 昼休みに入ってすぐの屋上の給水塔で、風に靡く髪を押さえた。

「ラフレンツェを育てたオルドローズはもう居ない。独りになったラフレンツェは、オルフェウス……高津茉莉奈に手を差し出され、その手を握った」
『ええ、ええ』
「今はラフレンツェは幻想の幸福の中にいる……それならば、現実を見せてあげないとね」
『エウリディケの悲劇ですね』

 楽しそうなユウキに余り付き合っている暇はない。
 私は声を落として、確認するように問い掛けた。

「今はユリアと何処にいるの?ユリアはこの電話に不信感を抱いてはいない?」
『ええ、大丈夫ですわ。家族からと言ってあります。ユリアさんは教室に。私は廊下で、姿は見えますが声は聞こえない距離です』
「そう。準備しておいて頂戴。いいわね」
『はい、承知しました』

 ユウキの従順な答えを聞いて、私は携帯の通信を切った。
 オルフェウスとエウリディケが階段を駈け上がって来るのはそろそろか――。





 ノゾム タカツ
「……ノゾムさん?」

 ふと、掛けられた声に振り向く。
 校舎から続く屋上への入り口で、不思議そうな表情を浮かべているのは、

「タカツ?」

 なんでタカツが。
 
「大体、屋上の工事なんていつ始まったんだ?」

 私―――月村望―――はこの日、机に入れられた一通の手紙を受け取り、
 わざわざ昼休み、屋上にまで呼び出されていた。

 『望さんへ
 大切なお話があります。
 昼休みに屋上で待っています』

 こんな手紙……普通ならラブレター云々だが……
 私としては鬼の罠なんじゃないかとか、そういう警戒心の方が強いわけで。
 穿ってるか?私の考え方は穿ってるのか?

「しかし危なっかしい」

 私はぐるりと屋上を見渡し、思わず内側へ一歩身を引いた。
 来てみて初めて知った、屋上のフェンスを総取り替えでもするつもりなのか、
 今は、屋上の全てのフェンスが完全に取り払われていた。
 これじゃ転落事故が起こっても何もおかしくないぞ!

 まぁそのために、屋上の入り口には「工事中につき立ち入り禁止」という張り紙がしてあるが、
 私は呼び出された以上、多少の身の危険も感じつつも、立ち入らないわけにはいかなかった。
 タカツの呼び出しなら、余計な危惧だったかもしれないが。

「……で、タカツ?呼び出しって一体……タカツ?」

 そこに佇むタカツは、
 ゆっくりと辺りを見回しては、

 涙目だった。

「……え?……え?」

「え?じゃない。おまっ。何そんなガキみたいな顔して」

「だ、だってこんな、フェンスのない屋上なんて、怖ぃ」

「怖ぃじゃないだろ!!」

 条件反射的にそんなツッコミを入れつつも、
 タカツは本当にこのフェンスのない屋上に怯えているのか、
 逃げ腰で私を見ていた。

「話なら校舎内でいいじゃない……?」

「そりゃあいいけど」

 私の返答に、安堵したように表情を綻ばせるものの、
 タカツはまた涙目を浮かべて、

「……ごめん、手、貸して……」

 その場から動けなくなっていた。
 だからそんな怯えるんならこんな所に呼び出さなければいい。

「全く……自分から呼び出しておいて、なんだその態度は……」

 少々呆れながらタカツに手を差し出すと、タカツは不思議そうに私を見る。

「呼び出すって……呼び出したのはノゾムさんじゃ……」

 ……え?
 私とタカツが互いの顔を見、互いが意図し合っていない第三者の意図に気付くと同時に、

 ガシャン!

 その金属音に、私は目を見開いた。

「バカな!誰だ――ッ」

 駆け寄った校舎内への扉、
 ドアノブを押しても引いても、開く気配が無い。

「嘘……」

 この世の終わりとでも言いたげな表情を浮かべているタカツに、
 内心慌てて向き直る。

「こ、このくらいで泣きそうな顔するな。遅くても放課後になれば誰か気付くよ」
「でも……此処は工事中だって書いてあるから、誰も……」
「うっ、いや、でもほら、……タカツが居なければユリア辺りが不審に思う!」
「そ、そうね……」

 いつもの威圧感も完全に消え去っているタカツに再び手を貸し、私達は外側から遠い給水塔の下へ向かう。

「携帯は?」
「教室に置いてきたわ……」
「……私も」

 万事休す、か。
 いや、でも、給水塔まで登って、下の誰かに合図をすれば気付いてもらえるかも――
 そんなことを思って給水塔を見上げた私に、タカツが不意に身体を寄せる。
 怯えきったタカツに、私は小さく息を吐いて、その場に身を落ち着けた。
 ずるりと座り込むと、タカツもその場に座り込む。

「こんなことになるなんて最低……」
「鬼の仕業、かな」
「ユウキさんが私達を閉じ込めたの?」
「……いや、それは……ユリアが見張ってるはず、だろ」
「うん……」

 それならおかしい、と疑問を追究しようとしたが、
 覇気のないタカツの顔を見ていると、その気も失せてくる。
 全く。頼むよ生徒会長。
 ぽん、と手をタカツの頭に置くと、
 タカツは私に目を向け、弱く笑う。
 その眼差しに、不覚にもドキっとしてしまう私が居て。
 ば、バカ、目を覚ませ、相手はあの悪魔の生徒会長だぞ。
 でも、こんなタカツ、初めて見た。

 ……。

 ぎゅ、と、腕を抱かれて、
 タカツが少しだけ問い掛けるような目をしたので、
 拒む理由もなく、タカツに腕を貸した。

 タカツにこんな女の子らしい面があるなんて――
 もっとしたたかな女だと思ってた――
 冷静で、時として残酷で――
 そんな風に思ってた相手が、不意に見せる人間味のある姿は、
 妙に私をどきまぎさせる。

 暫くの沈黙の後、幾分落ち着いたのだろうか、タカツが小さく口を開いた。

「昨日のこと謝ってなかったわ……」
「別に、桃姉も私も気にしてないよ」

 そうか、あんな気まずい別れ方をしたんだったな、なんて、
 昨日のことを思い返していると、タカツが急に私の手の甲をきゅっと摘む。

「痛い」
「何よ、“桃姉”なんて……近所のお姉さんじゃないんでしょ?」
「なんだ、まだそんな些細な嘘を根に持って……」
「そうじゃなくて、どうしてそんな親しい呼び方するのかって」
「それは、桃姉は桃姉だから……」

 摘む力が強くなる。
 痛い。

 ちらりとタカツの顔を見れば、
 一瞬視線が交差した後、タカツが視線を落とす。

「まだ、あの人のこと好きなんじゃない……?」
「それは――」

 一瞬言葉に迷うけれど、
 もう、桃姉の傍に居た頃から長い時間が流れて、
 その間に、自然と私も気持ちにけじめをつけていたのだろうか。

「桃姉は確かに大切な人だけど、今は恋愛感情は持ってないよ」

 そう、ちゃんと口にすることが出来て、
 自分でもちょっと安心した。

「そっか……それならいいの……」

 タカツも何処か安堵したような声を漏らす。
 そんなタカツに、私は昨日ずっと疑問だったことを問い掛ける。

「なぁ、タカツが機嫌が悪かったのって、やきもち?」
「ばッ……バカ、そんなの」

 一瞬慌てたように顔を上げたタカツだったけれど、
 勢いをなくして、代わりに頬を赤らめて視線を落とす。

「妬いてたわよ……悪かったわね……」
「なんでそんな」

 ツンツンしてるんだ、と問い掛けようとしたが、
 なんとなく雰囲気ぶち壊しだったのでやめた。

 雰囲気ってなんだ。
 なんでこんな、女の子みたいなタカツが居て、私も妙に意識して――

「ノゾムさん……?」

 そんな潤んだ目で見られると、
 体重を掛けられると、
 その、
 私は――

「ッ……」

 ずる、とバランスを崩して、

「きゃ――」

 がすん、
 と、その場に思いっきり頭を打った、
 痛い……。

 ふっと気付くと、空が見えるはずの視界にタカツの顔があって、
 屋上のコンクリに背中をついて、
 僅かに、タカツの唇が動いたように、見え、た――

 カシャン。

 不意に聞こえた、微かな音に顔を上げると、
 其処には、

 ユリアの、姿。

 ――え?





 ユリア ノゾム タカツ
 屋上に続く扉、
 向こうから開くことを阻むように立てかけられた金属の棒と、立ち入り禁止の表示。

 私―――山本結梨亜―――は少し後から階段を登ってくるユウキさんに告げて引き返そうとしたけれど、
 ふと、屋上から聞こえた人の声、妙に思って扉を開けた。

 私の目に飛び込んだのは、
 予想もしない、
 有り得ない、光景。

「……」

 どう して、
 マリナ様が、ノゾム様を……

 私が取り外して手にしていたはずの金属の棒が、転がって音を立てる。

 カシャン、カラカラ――

「ゆり、あ?」

 不思議そうに私を見る、マリナ様の瞳、
 嘘、ウソ、 うそ―――

 その瞳が、ノゾム様を見ていたなんて、
                              嘘だ。

 まりな様、マリナ様、茉莉奈様、

 ずっと私の傍に居てくださると約束してくれた茉莉奈様、
 もう独りにしないと言ってくれた茉莉奈様、
 もう悲しい思いはさせないと言ってくれた茉莉奈様、
 私を愛してくださると、そう言ってくれた茉莉奈様。

「――あ、ぁ……」

 私が追い駆けるはずのその広い背中、
 私が見つめれば優しく微笑んでくれた深い瞳、
 私が耳を澄ませば名前を呼んでくれた愛しい声、

 がらがらと音を立てて崩れ落ちていく。


 “一つ奪えば十が欲しくなり 十を奪えば百が欲しくなる
 その焔は彼の全てを 灼き尽くすまで消えはしない”


 マリナさま、まりなさま、まりな、さま――

 どうして?どうして?
 名前を呼べばちゃんと応えてくれた、
 私の名前を呼んで微笑んでくれた、
 それが私と茉莉奈様の信頼関係、
 私と茉莉奈様の間の愛情、
 でも、そんなのじゃ

 足りない。

「結梨亜……」

 視界が歪んで上手く見えなくなった。
 からころと転がっていく金属。

 聞こえる声、
  
 近づいてくる足音―――

「いや、厭……ぁ、あ……」

 こんなに愛してるのに、

 どうして、

 別の女を



 “やがて彼(オルフェウス)が乙女(エウリディケ)の手を引いて 暗闇の階段を駈け上がって来る
 けれど少女は裏切りの代償として 残酷な呪いを歌った
 嗚呼…もう直ぐ彼は…彼は振り返ってしまうだろう”



 茉莉奈さま、まりな、さ、ま……

「あぁ、嗚呼、死んでしまえ――」



 ―――ガシャン。




「……ええ、ええどうかご心配なさらずに」

 心配そうに私を、
 私を見る、茉莉奈様に
 弱い笑みを浮かべた。

「本当に――屋上――結梨亜――」

「ええ、大丈夫です。私は大丈夫です」

「大丈夫――授業――そろそろ――」

「ええ……私は、だいじょうぶです」

「結梨亜――……――……――」

 微笑んで、頷く。

「ご心配なさらず……大丈夫ですから……」

「――……――……――……」

「ええ、茉莉奈様、私は大丈夫です」

 微笑んで……

「大丈夫ですよ」

 ……

「――……――……――……」

 ……
 ……
 ……

「茉莉奈様、心配しなくても」
 
「ユリア」

 ぱちん。
 頬に走る痛みに、ゆっくりと目を開けた。

「マリナならとっくに居ない」

「……?」

 瞳に映る世界は、
 沈んで、歪んで、汚れて

「ユリアにはユリアに相応しい世界がある」

「……」

「言っている意味がわかるわね?」

 この絶望の世界に、
 私が相応しい……?

「……ええ」

 そうか、嗚呼そうか、
 この暗澹の世界に宿るもの、か……

「ユリア、私は誰?貴女が誓うべき者は誰?」

「……貴女は、鬼。絶望を焼き払う光……――私の誓うべきモノ、それは 鬼」





 ニシザキ
 ―――ねぇ、ソラ。
 貴女が言っている意味が、私―――西崎真矢―――にも少し理解出来たかもしれない。

「山本さんは外傷も特にありませんし……少し休めば大丈夫かと」

 ミナト先生の言葉に、安堵した様子で表情を和らげるマリナ。
 マリナは心配そうに保健室の奥を見遣っては、ミナト先生に頭を下げた。

「結梨亜が気付いたら声を掛けて下さい。鬼による干渉が無かったか、聞いてみなければ」

 マリナは真剣な表情でそんなことを言って、視線を落とす。
 どうして、そんな顔が出来るの?

 人間って確かに醜い生き物かもしれないわね。
 そしてどうしようもなく悲しい生き物ね。

「結梨亜は鬼に……」

 そうやって罪を押し着せるマリナが、ちっぽけで情けない存在だと思う。
 鬼、鬼って、全て鬼の所為にして。

 今回のことは舞台を仕組んだのは私達だけど、
 感情を生んだのは全て人間同士の問題なのよ。

 ユリアをあんなにも絶望に追い込んだのは、
 貴女の、自分勝手な愛情の所為なのよ。

 人が生んだ絶望すらも――全て鬼の所為にする――
 なんて醜い……弱い生き物なのかしら――








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