『年下未知数脳内HD』 ![]() 「つまり鬼というのは、ある種、究極の愛の形なのです」 「人を殺すことが、愛?だとしたら酷く馬鹿げてるわ……」 「人は脆弱な生き物です。永遠などと上辺で愛を語るのは容易い。しかしそんなものは幻想に過ぎない」 「ならば貴女の言う愛とは一体何?」 「全てを赦すことです。全ての罪を打ち明けなさい。さすれば神は全てをお赦しになる」 「罪なんて何も、無い……」 「本当にそうですか?」 しんと静まり返ったキッチンで、ケーキを切り分ける少女の背中を見つめる瞳。 何も語らぬ背中は暫し、無言を貫いて、 やがて震える。 笑いながら少女は振り向いた。 「真壁宙――いいえ、横山由良……貴女は罪を犯した」 「ッ……!?」 「あは、あはははは――!!」 ![]() 「悠祈さん!」 「ソラ――」 ばたん、と荒々しい音がして、キッチンの扉が開いたかと思うと、 二つの声が一斉に上がる。 その声に反応して振り向く。 「……え?」 ソラ様と、私―――悠祈澄子―――と。 「お二人とも、どうかなさいましたか?」 小首を傾げて問い掛けると、茉莉奈様は安堵したような表情を浮かべた。 「……取り乱したわね、ごめんなさい。二人の帰りが遅いから、つい、鬼が動いたかと思って」 「ああ、成る程。ごめんなさい、ソラ様と少し話し込んでしまって。此方は変わりありませんよ」 そう言って微笑んだ。 茉莉奈様は、私の手の中にある包丁に僅かに表情を曇らせるが、 その不安を取り除くように、シンクに張った水に包丁を落とした。 「ケーキもご用意出来ましたので、お部屋に戻りましょう……さぁ」 「ええ……」 “我々を楽園へ導ける箱舟は 哀れなる魂を大地から解き放つ 救いを求める貴女に箱舟(Ark)を与えよう” それは、信仰を賛美する“凶器”。 ソラ様、私は前に言いましたよね? この学園を“見届ける者”として、此処に居ます、と。 「おやすみなさい」 「おやすみ」 ソラ様と貴子様、二人の声を聞き届け、 私はぱちりと電気を消した。 夜が訪れる。 ![]() 「ユウキ」 「……御機嫌よう、望様」 昼休み。 生徒で賑わう一年生の教室階の廊下で、私―――月村望―――はユウキに声を掛けた。 その隣にはユウキと同じ一年のユリアの姿。 登校中のユウキと行動を共にするのは、基本的に同じ学年の一年生に任せてある。 今朝、学校について一番に顔を合わせたのはソラ先輩だった。 ソラ先輩から、昨晩中、何事もなかったという報告を受け―― ユウキの見張りの引継ぎをユリアに交代させた。 流石に登校中は鬼も何もしでかさないだろうと思って、見張りは一人だけ。 現在の所、特に問題はないようだ。 唯、こうして昼休みになって、当のユウキと顔を合わせれば、その表情の陰りを気に留める。 「どうしたんだ?顔色が良くないようだが」 「……いえ、その。昨晩余り眠れなかったもので」 「眠れなかった?」 「何かあったわけではないんです。普段は一人だからでしょうか、目が冴えて眠れなかったんです」 「……そうか」 でも今朝会ったソラ先輩は、何も無かったと話している。 ソラ先輩と貴子先輩が眠っている間に――なんてことも少しは思うけれど、 貴子先輩は兎も角、ソラ先輩までもそんな不始末をやらかすとは考え難い。 後になってユウキの家から死体が出てきました、なんてことがないよう祈る。 「ユリアは何か問題は?」 ユウキの隣に佇むユリアに声を掛けると、彼女は真っ直ぐに私を見、一つ瞬いた。 「私から特に何もありませんが――茉莉奈様からお話は聞いていらっしゃいますか?」 「タカツから?いや何も」 「……?昨日、茉莉奈様が三人の所へ駆けつけたお話は、ソラ様や貴子様からも何も?」 「なんでタカツが?駆けつけたって一体」 ユリアとユウキを交互に見つつ、問い掛ける。 ユウキがのんびりとした様子で口を開いた。 「私に事が起こったのではなく、貴子様が、体調を崩されたのです」 「あのタカコ先輩がなんでまた」 「さぁ……」 「さぁ、って」 話が見えない。 タカコ先輩が体調を崩して、タカツが駆けつけて、でも別に何も無かった? タカコ先輩に何かあったと聞いて万一のことを想定してタカツが駆けつけたが何も無かった、というのなら話は通るが、ソラ先輩から何も報告が無いのは妙だな。 そういうのを端折る人ではないと思うんだが。 でもまぁ、報告が無いのは何も起こってないということかなぁ。 「タカツかタカコ先輩には直接聞いておこう。他には何もない?」 「ええ、大丈夫です」 しっかり頷き返すユリアと、少し間を置いてのんびり頷くユウキ。 今回の鬼はなんというか、切迫感がないよな……宿主の問題かな……。 ま、何もないのはいいことだ。 「それじゃあユリア、放課後まで頼む。交代は私とカンノの予定だから」 「はい、承知しました」 話を終えると、二人は丁寧な礼をする。 お嬢様にこう仰々しくお礼をされるのは慣れない。 私はそそくさと、二階へ続く階段へ向かった。 どうして何も無いの――? ――――――絶好のチャンスだった筈なのに ――それともまだ何か思惑がある――? ――或いは宿主が―― 何故だろう――――解らない ![]() 「ニシザキ先生」 三年生の授業を終え、教室を出ようとした私―――西崎真矢―――にかけられた声。 振り向くと、余り話し慣れぬ人物の姿があった。 「真壁さん。どうかした?」 「……一寸、お話があるのです。――鬼の件で」 最後の言葉は潜められて、そしてそれが本題というように彼女は言った。 真壁宙――二年生の後期に、編入してきた不思議な生徒。 普段から授業をサボりがちな、問題児でもある。 編入が後期だったから二年生の時は問題無かったけれど、三年生もこの調子なら彼女は留年しかねない。 問題が解けない生徒ではなく、まるで解く気がないような、虚ろな視線で窓の外を見る。 どうしてこんな生徒が聖蘭に編入してきたのか、私には理解出来ない。 おそらくは、大抵の生徒が抱える家の事情だと思うけれど。 そしてそんな生徒が、何故真っ先に望さんたちと手を組んだのか、それも理解に及ばなかった。 望さん達に手を貸すまでは、何にも興味の無いような、気まぐれな人物だったのに。 彼女が何故望さん達に手を貸したのか――何故あの時、生徒会と敵対したのか―― 合宿に参加した生徒の中で、最も謎に満ちていると言える。 鬼に関しても彼女は積極的なのか消極的なのか、私には解らなかった。 だからこの時、彼女が「鬼の件」で私に声を掛けてきたことにも、少なからず驚きがあった。 「それは望さんや茉莉奈ではなく、私に?」 「そうです。今日の18時――皆が帰った後、この教室で」 「……解ったわ」 私が小さく承諾すると、彼女はすっと視線を逸らし、何事も無かったかのように廊下へとすり抜けた。 真壁、宙――か―― あの猫のような気まぐれな瞳――妙な既視感の答えを、私は持ち合わせてはいなかった。 ![]() 「――、西崎先生?」 電話の向こうの声に、驚いた。 もう何年も久しく聞いていない声だった。 便りがないのは元気な証拠。 少なくとも聖蘭で、大きく事が動いていない証拠だ。 それが今になって…… 否。今年の聖蘭がおかしいことは薄々気付いてはいた。 ネット上でほんの一時期だけ持て囃された、聖蘭の噂。 結局トピックを立て煽動していた>>1なる人物が姿を消して、事は収束へ向かっていた。 それも此処数日間の話。 八月は過ぎた筈なのに――……そうですよね、メイカさん? 『久しぶりね、真琴さん。急で申し訳ないのだけど、一つ調べて欲しいことがあるの』 電話の向こうのニシザキ先生は、その声に僅かに焦りを滲ませていたように感じた。 携帯を肩で挟んで、私―――三村真琴―――はデータベースを開いた。 私が聖蘭学園を卒業して、もう四年が経つ。 現在二十二歳、当時の聖蘭で私が生徒会長をしていたことも、 多くの人の記憶から薄れようとしていただろう。 それで良かった。私やニシザキ先生が駆け回ったあの頃の聖蘭なんて、過去に消えて然るべき存在。 唯、私やニシザキ先生にだけは、その過去を守秘し続ける義務があったけれど。 ニシザキ先生が、あの四年前と変わらず、聖蘭の秘密を守り続けていることだけは知っている。 生徒会の監督教諭だけは変わらず、生徒会は歴代、変わり続ける。 現役を退いた身としては、全てを現在の聖蘭高校の生徒会に委ねた気でいた。 もし、過去の関係者から連絡が来るようなことがあれば……それは個人的なことだろう、と。 メイカさんのように“個人的”に当時の謎に拘る人―― 相手がニシザキ先生であっても、おそらくその内容は個人的なこと。 ただ、ニシザキ先生ともあろう人ならば、そんな個人的な相談など私に持ち込む筈がないこと。 そして今年の聖蘭の奇妙な動きと照らし合わせれば、 私の心持は“過去に聖蘭の生徒会長であった者”としてあらねばならないのだろうと察す。 『マカベ・ソラ。この名前に聞き覚えはある?』 「まかべそら、ですか?……いいえ、私には特に心当たりは」 そう返しながら、指先はデータベースのキーボードを叩く。 マカベ ソラ。 検索。 HITするデータは…… ――ッ。 待て、これは、一体? 『そうよね、四年前の生徒会長に聞いても何も……』 そう言葉を閉ざし掛けたニシザキ先生に、私は静かに呟いた。 「聖蘭学園で生徒による立て篭もり――」 『……え?』 「八月上旬、匿名掲示板に書き込みがあります。荒らし目的のスレッドと思われ、すぐに埋もれました、が」 『そこに宙さんの名前が?』 「ええ。犯人の一人は三年生の真壁宙、……そう書き込みが」 『……どういうこと』 電話越しのニシザキ先生は困惑した声で呟く。 私だって解らない。立て篭もりなんて事件は起こっていない。 明らかに荒らし目的――だとすればその人物に私怨のある者の書き込みと考えられるが。 「書き込み内容は、立て篭もりが行なわれいる最中の学園内より、それを実況するかのような内容です。一体何の為に……」 『真琴さん、その立て篭もりは、確かに起こっているの』 「……、まさか」 ニシザキ先生の言葉に、弱く呟いた。 そうか。起こっていないなんてことはない。 聖蘭学園は“起こったことを揉み消す力”を持った場所だった。 そう、あの学園で起こったあらゆる不祥事、問題を隠匿することこそが、 歴代続いている生徒会の、真の目的。 『誤解が生じそうだから言っておくわね。その立て篭もりに犯人なんて居ない、もし居ても別人』 「居ない?」 『立て篭もりとは、生徒会が仕組んだ罠であり、それを知る生徒には後日、間違いだったことを伝えた』 「じゃあ何故、このような書き込みが」 『まだ把握出来ないけれど、そんな書き込みをしそうな生徒は一人しか心当たりが無いわ』 「悪戯ですか?」 『……ええ、多分』 ――なんだ。 こんな書き込み一つに目くじらを立てた私もどうかしていたかもしれない。 聖蘭で本当にそんな問題が起こっていても――現在の生徒会に任せれば大丈夫。 私はそう信頼して、後任の者へ、全てを引き継いだ筈だ。 私は改めて、電話の向こうの人物へ問い掛けた。 「マカベ・ソラ。その人物に何か問題があったのですか?」 『いいえ。問題が無かったかどうか、調べたかっただけなの』 「そうですか。ならば問題は無いと思います。私も余り把握出来ていませんが、この書き込みには明らかに冤罪を掛けようとするかのような悪質な意図を感じられる。該当する名の人物は何かあったとしても被害者ではないかと」 『被害者――そうね。その通りだと思うわ。有り難う』 「いえ」 目に見えるものだけを判断材料としてはいけない。 目に見えない真実とは、余りにも多く。 見えないことも含めた総合的な判断を下すのが、私の役割だったはずだった。 もしこの時、もっと沢山の時間があれば。 私がもっとニシザキ先生の言葉に――現在の聖蘭について耳を傾ける時間があれば、 私の判断は、変わっていた。 『去年も一昨年も、転校は起こってるんですよ』 『真琴さんが話してくれないと、また今年も転校が起こってしまうかもしれない』 それならば今年も、転校は起こっていて―― 私が何も知らないだけだと思っていた―― ![]() 何かあったとしても被害者……か。 真琴さんの言う書き込みを行なったのはおそらく和栗めぐる。 校内では消極的で、インターネット上でだけ、饒舌になる少女。 ソラさんとめぐるさんには関わりが無い。 あの立て篭もりの時点ではめぐるさんに鬼がついているということもない。 なのに何故、めぐるさんがソラさんを犯人と仕立て上げるような真似をしたか…… その答えは解らないけれど、ソラさんという人物像と、めぐるさんという人物像を思えば、 めぐるさんが単に悪戯として書き込んだと考えた方が相応しい。 もしめぐるさんがソラさんに脅されたようなことは――? そうも思ったけれど、ソラさんがそんなことをする必要は無い。 もしあったとすれば――ソラさんが鬼、という結論――― しかし、あの立て篭もり当時、同時刻に坂本美子が鬼の本性を表した。 万一、鬼が同時刻に二匹存在するという話になれば、そう、それは二匹目の鬼ということだ。 茉莉奈が話していた、東堂夜子を殺めたとされる“冷静沈着”な、鬼。 それも考え難い。 冷静沈着で、姿を消している鬼が、何故和栗めぐるを脅して姿を表す必要がある? 或いは私―――西崎真矢―――を呼び出したりする必要がある? ソラさんに何かあるのではないか、 それは私の単なる杞憂に過ぎない。 真琴さんの提示した問題を省みてもやはり、ソラさんに何かあるということは考え辛い。 私はその時既に、“鬼”に基いた考え方をしていたのだろう。 確かにその考えで行けば、今不安とすることは何一つ無いのだ。 “現在の鬼”は、悠祈澄子についているはずで、真壁宙を怖れる理由など存在しない。 そう自分に言い聞かせ、ソラさんの元に赴いた。 全てが 誤算だった。 「ごめんなさい、待たせた?」 教室の扉をからりと開けると、ソラさんは教室の窓際で外を眺めていた。 その後ろ姿、風に靡く髪、しゃんとした背中、 私にはきっと見覚えの無いものだった。 「……いいえ」 ソラさんはほんの束の間、私へと向けた視線をすぐに逸らし、細い指で風の吹き込む窓を閉じた。 私はその姿を見止めては、少し瞬き、後ろ手に教室の扉を閉めた。 「鬼の件って……一体何のお話かしら」 彼女に歩み寄ると、ソラさんは一つだけ片付いていない机を指差した。 彼女に割り振られた机の上には、先程の授業から全く触れられていない教材。 「ニシザキ先生の話している内容は、私には理解出来ない」 「……?勉強のこと?」 「そう。あんな高等な英語、どうやって他の生徒は理解しているのか……」 「そ、それは、日々の積み重ねかしら」 唐突な切り口の彼女の言葉、怪訝に思いながらも話を合わせる。 ソラさんはあくまでも、自身のペースを崩さなかった。 「積み重ねだとすれば尚更、私には理解出来ないでしょう」 「そんなことは――多少の遅れは、追い駆ければ取り戻せるわ」 「多少の遅れ?」 彼女は双眸を開き、冷たく私を見据える。 この、妙な、既視感が、 私を不安にさせていた。 ソラさんはゆっくりと机の間を歩き、とん、と指先で散らかった机の隅に触れる。 「五年間ずっと勉強が出来なかったことすらも、貴女は多少の遅れと、謂う?」 「……五年、間?」 がたん。 椅子を引いて、其処に座る。 全てが意図的で、でもその意図が読めない彼女の行動の数々。 「一人の人間に人生を台無しにされて、その一人の人間への復讐に生きた十五歳の幼い少女を」 「――ッ?」 「貴女は、覚えている?」 椅子に座った彼女は、しゃんと伸びた背筋ではなく、 厭世的に見下す少女のように、肩を落として、 彼女の右手には赤い鋏。 しゃ、と切り落とすような、仕草。 その長く綺麗な髪を、 肩口まで、切り落としていくように、 鋏を開かせ、閉じた。 「あ、――、ぁ……」 喉の奥から漏れる微かな怯えを、 私は自制する方法が解らない。 目の前に蘇るのは、五年前のあの日の、 一人の少女の、怯えた黒い瞳だった。 「どうして……どうして……!?」 震える声、逸らせるものならば逸らしたい歪んだ世界、 なのに私の眼差しは、 一人の少女から逸らせない。 「私は、貴女を――……殺した、はずなのに」 「やっと思い出してくれた?」 女の怯えた眼差しに、 私―――真壁宙―――は、 わたし―――横山由良―――は、 わらう。 「西崎真矢……貴女への復讐の為に生きたわたしを、思い出してくれた?」 「――ッ!あ、あぁ、あッ……ごめんなさい、ごめんなさ、い――!」 ニシザキは取り乱し、震える唇で何度も繰り返す。 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。 そんな陳腐な言葉で取り戻せるのならば、 私は此処までしない。 十五歳の少女は――横山由良は―― くだらない人生を、くだらない世の中を、見下しながら生きてきた。 世間に蔓延る犯罪の芽。 わたしの瞳に映った、個人的な入試斡旋。 そんなつまらない犯罪者に、関わったことが間違いだったのかもしれない。 ただ、ほんの好奇心で、その犯罪者に近づいた。 『どっちでもいいんですよ。例の証拠は手元にありますし、今更改竄も出来ません。貴女の手元にある情報は処分したと仰いましたけど、それが無いところで、警察の調査に大きく響くわけでもない。貴女の犯した罪の真実を暴くことくらい、警察なら簡単でしょう』 女の犯罪を告発するか否かで、その見知らぬ人間の人生そのものを、 掌で転がしているような感覚が、少しだけ楽しかった。 『――ニシザキ』 女の名前を知ったのも、女の本性を知ったのも、 『……ニシザキ、さん。こんなに近くに居るとは思いませんでした』 そして彼女に近づいたのも、ほんの偶然だった。 わたしは、彼女がどれだけその人生を大事にしているかなんて知らなかった。 わたしはわたしの人生なんてくだらないと思っていた。 だから人生を大事にする人間の気持ちなんて解らなかった。 「でも今、漸く解った――ニシザキマヤ、貴女の思っていた世界、壊されたくないせかい」 ニシザキは黒板に背をつけて、 震える。 わたしがこの世のものではないかのように、 瞳に映った存在に 怯える。 「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……許して」 かたん、と私が席を立つと、それに圧されたように、彼女は座り込む。 「許すとか、許さないとか、そういう問題ではないの」 へたりこんだ女を目に映して、 もっと近くで見たくて、私は彼女に近づいた。 「由良、さん……そら、……ゆら……私は、殺したくて殺したんじゃない……ごめんなさい」 歩み寄る。 すっと手を伸ばせば、 彼女の顎に届くくらいに。 「わかってる。わかってるわ。貴女がどれだけ自分を大切にしているか。ようやくわかった」 「私は、私は――」 「ええ、わかっている。貴女は築いた自己の地位を守りたいという醜い欲望の為に」 「……あ、ぁッ」 「鬼に支配されたのよね?」 ゆらを殺した女には、 怖い鬼が宿っていた。 自分を守る為なら誰かを殺してもいい―― そんな風に思ったのは、 貴女に宿った鬼の所為。 今なら解る、 貴女に居た鬼が、 今は私の中に居て、 全てを教えてくれるもの。 「鬼に……支配……鬼に……」 そんなこと、知らない。 私―――西崎真矢―――はそんなこと知らない。 あの時のことは、思い出したくも無い、 覚えているのは、少女の怯えた瞳だけ。 「そう、無自覚だったのね」 ソラの指先が、私の顎に触れ、 く、と顔を上げさせる。 ソラは、あの時と同じ、世界を嫌うような黒い瞳で、 私を見下ろしていた。 「でも最初に結界を破ったのは、貴女だったのよ。五年前に、裏切りの丘で鬼を呼んだのは、貴女だった」 「私が、鬼を呼んだ……そんな……」 じゃあ、私がこの聖蘭に赴任して、 ずっとずっと、してきたことは。 「てっきり自覚しているんだと思ってた。だからこの学園で生徒会の監督なんていう面倒な役目を押し付けられて、でも率先して生徒会を守ってきたのだと」 「生徒会の行なった隠匿は……八月の転校は……」 「貴女が五年前に結界を破ったから。八月になると鬼が聖蘭学園の誰かを殺す。でもこの学園はそんな不祥事を嫌った。だから全ての死者を、転校という名目で隠匿した」 私がこれまで必死でやってきたことを、 ソラは涼しい顔で言う。 嗚呼、誰にも知られてはならなかった、 だって私は、この学園の看板を守るという役割の代わりに、 これから何年も、何十年も、教師という地位を、未来を約束されていた。 ソラは私を見下ろしていた瞳を、僅かに伏せて、唇を震わせる。 「五年前、本当なら貴女に殺されていたのよね。でも目覚めたばかりの鬼の力は不十分だったのかしら、私は記憶を失ったけれど生き残った。そして、四年も後に記憶を取り戻して、貴女が私を殺そうとした理由を知りたいが為に貴女に近づいた」 「……」 「でも貴女の口から聞かずとも解ってしまった。貴女に宿っていた鬼の所為、そしてその鬼は今此処に居る」 「どうして……悠祈さんは誰にも手を下していないのに……」 私の目の前に鬼が居るとすれば、 それは――二匹目の、鬼なのか、と思った。 ずっと姿を晦まし続けている、 けれどそんな疑問を抱いた言葉に、ソラは呆気なく答えた。 「あの子から宿主を変えた理由?簡単なこと。あの子は鬼が宿らずとも、鬼に対して忠誠心を抱いている。だから、見張りの目があるあの子の身体で誰かを殺めるよりも、知られずにこうして宿主を変えた方が遣りやすいでしょ?」 「忠誠って、遣りやすいって……ソラさん、貴女は――」 ソラの言わんとすることに、私は慄く。 彼女は僅かに不思議そうに瞳を揺らした後、 すっとその目を細めた。 「そうね。本来ならば私は、貴女を殺す為に此処に居るのでしょうね」 でも、と彼女の唇は、短く続ける。 「貴女は殺さない。――どうしてか解る?」 「……」 ふる、と首を横に振った。 ソラは私の顎に添えた指をくいと上げて、 顔を下す。 「私は貴女に奪われた。じゃあ私は貴女を奪い尽くすまで離さない」 「……ッ!?」 ぐ、と唇を塞がれて、 強引に割り居る舌の感触に眉を寄せる。 それは甘い行為などではなく、 奪う為の行為。 「―――、でもね」 唇を離しては、彼女は震えるように囁く。 「貴女の地位や名誉までは奪わないであげる……。これからも貴女は、生徒会を守る教師として、エリートとして、この学園で教鞭を奮うといいわ。その代わり」 ふわりと、ソラの額が私の額に寄せられる。 かつん、と、私の眼鏡に触れる彼女の鼻先。 「西崎真矢――貴女は私に、忠誠を誓うこと」 「……、ソラ」 「返事は?」 ふっと小さく息が漏れる。 数センチの距離にあるソラの瞳は、 私の奥底までを見透かすように、深く、果てなく。 「……解ったわ。私はソラに忠誠を誓う」 私が今まで守ってきたのは、 生徒会でも、そして自分の地位でもなく、 この、ちっぽけなプライドだったのかもしれない。 誰かに弱みなんて見せなかった、 それが私のプライドだった、 だけど、 本当は何もかもの荷を降ろして凭れる背中を、 探していた。 こんな年下で未知数な少女に凭れる気なんてなかったのに、 弱みを握られ――……否、握ってくれたことが、 私の守っていた全てを、許すのでもなく、咎めるのでもなく、 唯、肯定してくれた、そんな気が、した。 → NEXT → ← BACK ← ↑ Reload ↑ |