『至純の残酷』





 ヒナ ミコ 冴子
 彼女の姿を初めて見たのは、一学期も終わり頃の、剣道部の道場前だった。

「おうじさまぁー。あたし、お弁当作ってきたんですよぉ。えへへ、良かったら食べて下さぁい」

 他校の制服。
 二つに結った髪、無邪気な笑顔、
 彼女の瞳は、ただ一人だけを捉えて。

「素敵なお嫁さんになれるかな。いぁ、まだ卵も焦がしちゃうような下手っぴだけど、でも努力すればお料理もきっと上達しますよね!あたし、頑張りますよぉ」

 彼女はその頬を朱に染めて、
 いつもたった一人だけを見ていた。
 彼女の笑顔は、
 たった一人だけに向けられていた。

「ヒナ」

 冴子先輩が、彼女に近づいて
 ぽつりと呼んだ名が彼女の名であることを、後で知った。

「お前なぁ、部活の邪魔だっつーの。坂本も迷惑してるだろ」
「えーー!?王子様、あたし迷惑ですか!?そうなんですかーー!?」

 彼女――ヒナは、
 ただ一人のことしか、考えていなかった。

 想いを向けられた者は、困惑したような笑みを浮かべて。

「いや……迷惑なんかじゃないよ。遊びに来てくれるのは、嬉しいし」
「ホントですか!良かったぁぁ」

「坂本ーっ、お前が甘やかすからいかんのだ。たまにはびしっと言ってやれ!!」
「さ、冴子先輩も、少しくらいいいじゃないですか」

 王子様はいつでも優しかった。
 だからヒナは、余計につけあがって。

「あたし、毎日でも遊びに来ちゃいます!だって王子様に会いたいんですもんっ」

 無邪気に笑う―――





 ヒナ
「うっ、えぅ、王子様、王子様ぁ」

 お見舞いに訪れた病室、
 カーテンの向こう側で、少女の泣き声が聞こえる。

「王子様、死んじゃったりしないですよね?」

 答えのない問いを投げかけて、
 涙声で、ヒナは続けた。

「王子様が目を覚ます時には、傍にいさせて下さい」

 意識の無い王子様に、
 彼女は泣きじゃくりながらも、笑いかけただろうか。

「王子様の目に映ってたいんです。また笑って欲しいんです。いつもの優しい笑顔で」

 何も知らない癖に。

「あたしだけの王子様」

 囁くように紡いで、
 本の中の物語のように
 口づけを落とす。

 ―――そんなことしたって 王子様は嫌がるだけなのに。

 私―――中谷菫―――は、シャッと、カーテンを開けた。





 スミレ ヒナ
「格好悪いとこ見せちゃったね」

 病院からの帰り道、ヒナは弱い笑みを浮かべて言った。

「まさか人がいるなんて思わなくて」

「いえ、私こそ――お邪魔してごめんなさい」

 彼女の物語の中で、私はきっと悪役だ。
 王子様の目覚めを妨げる、悪い魔女。
 私が悪い魔法をかけているから、お姫様の口づけでも王子様は目覚めない。

「王子様の後輩なんて、羨ましいなぁ」
「そう、ですか?」
「いつでも、傍にいられるじゃない。授業中だって同じ校舎の中、部活はマネージャーになれる」
「……なろうと思えば」

 私の曖昧な返答に、ヒナは不思議そうに瞬いて。

「部活とかが一緒なんじゃ、ないの?王子様とはどういう繋がり?」
「それは、えっと……」

 坂本先輩との繋がりなんて、言われてみれば無いに等しい。
 ただ偶然、転んだところを助けられて。
 ただ偶然、生徒会に利用されて剣道部に押しかけた。
 そしてただ偶然、雨の日に私は傘を持っていなくて、
 ただ、偶然、その日に会って家まで送ってもらった。

 それらにどれ程の意味があっただろう。
 全てが無ければ私と坂本先輩はきっと一生話さないくらいに縁がなくて、
 全てがあったから、私は彼女にいつしか憧れた。

「交代したいくらいだよ」

 ヒナは歩むたびに、柔らかそうな髪を揺らして。
 私なんて目に入っていないような、遠くを見る眼差し。

「あたしが傍にいられたら、こんなことだって起こらなかったかもしれない」
「それは、私が、」

 とん、と足を止めて呟いた。

「私がなんの力も無かったから、坂本先輩があんな怪我をした?」
「そ、そんなことは言ってないけど」
「私が四六時中坂本先輩を見張っていれば、怪我なんて負わなかった」

 淡々と紡ぐ私の言葉に、ヒナは返す言葉も無いようだった。
 だってそういうことでしょう。
 ストーカーみたいに、坂本先輩の傍に居れば良かった。
 自分がどう思われようと省みないくらい、迷惑を掛ければ良かった。
 何もかもを犠牲にしてでも、坂本先輩を見ていれば良かった。

「あなたのせいじゃないよ」

 ヒナは困惑を滲ませて、上目遣いで私を見る。
 そんなこと、
 言われる筋合いなんて無い。

「私に力があれば、坂本先輩を救えたのかな」

 あの時、私に力があれば
 あの時、私が力を宿していれば

 ―――確かに

 坂本先輩が力に支配されることなど無かった。

「今更言ってもどうしようもないよね」

 ヒナが、沈痛な空気を破るように薄っぺらな笑みを浮かべる。
 そんな薄い笑みで全てを打開しようなんて、無意味なこと。

「今更……か」

 ヒナはそれから押し黙って、
 ぽつぽつと歩みを進めた。
 その背中はまるで悲劇のお姫様。
 目覚めぬ王子様を待って、涙を流す。
 悪い魔女をやっつければ、
 きっと呪いがとけて、王子様も目を覚ますのに。

 お姫様は気づいていない。
 悪い魔女も、王子様に恋をしていること。
 お姫様の場所を、奪おうとしていること。

 王子様が目を覚ます時、その瞳に映るのが
 あんな娘だなんて
 赦さない。





 スミレ
 処方されていた薬、
 今まで飲み忘れて溜まった薬、
 全部テーブルの上にぶちまけて、
 一錠一錠、口に含んだ。

 人を好きになるということは、
 とても残酷なことなんですね。

 必要のないものを全て排除して、
 ただ、ただ、壊れる程に想って
 それでも足りなくて、苦しくて、
 自分を壊す。

 ふわりと浮かぶような陶酔状態。
 こんな自分なら何でも出来る気がする。
 鈍色の包丁を手首に宛がい、押し引いた。
 夏服になってずっと堪えた自傷行為。
 消えない罪  今も、白い傷跡は幾重にも残ったまま。

 何もかもを押し込めていた。
 他人への批判
 そんな感情を抱いてはならない
 人を嫌いになるくらいなら
 自分を嫌いになればいい
 そうやって刻んだ手首の傷も
 堪えて、堪えて、繰り返して。

 欲望は罪だと思った。
 そんなものを抱くことは赦されないと、
 そう思っていたのにいつしか惹かれて
 狂おしい程に求めていた。

 私は自分が大嫌いだ。
 醜くて、残酷で、冷たくて、我侭で、
 その癖潔癖症で、人の感情に敏感で、人に振り回されてばかりで、自分の意見なんて持っていない。
 自我を率いることの出来ないこの身体が、
 とても空虚で馬鹿げている。

 己の血が滴る包丁を、鞄に隠して
 覚束ない足取りで家を出た。
 揺らぐ世界、暗渠に満ちた世界、嗚呼なんて腐敗した世界。
 こんな世界や、こんな自分を、弔いの黒で飾って
 塵されればいい。
 何もかも召されればいい。



 スミレ ヒナ
「ヒナ……――」

 ぽつりと私が呟く声に、彼女は気づかない。
 見知らぬ男の子と笑って街を歩いていた。
 笑って―――どうして――坂本先輩は今も苦しみの中で眠りについているのに―――
 どうしてあんなにも無邪気に、笑っていられる?

 ふざけてる。
 あんな低脳で醜い女に奪われるくらいなら
 一層、罪でこの身を汚して、  壊れて 死んだ方がまし。

 私はきっと破滅へ向かうことに、希望と憧れを抱いていたのだろう。
 そうやって悲劇めいた世界に陶酔していたのだと思う。
 今は言葉を閉ざした坂本先輩が、幾つか私にくれた言葉を 大事にしていたと思い出して、
 彼女に焦がれる自分を思っては、憐れみに似たものを、自身に投げかけていたのだろう。
 そしてそれらの糧を嫉妬という憎しみに変えて、冷酷な瞳で娘を見ていた。

 鬼が宿っていることは識っていた。
 だけどさして気にするようなことではなかった。
 全ての感情は私が生んだもの。
 鬼は、それを増長させたに過ぎない。

 薄いコートの内側に隠した刃物。
 少女が一人になる瞬間を狙って、
 彼女が私に気づいて、小さく手を振り駆け寄った。
 私は、人の目のないこの場所で
 ―――刃物を少女に突き刺した。

 こんな娘に坂本先輩を奪われるなんて
 絶対に厭だ。
 もしそうなるくらいなら
 壊れて
 死んだ方がまし。

 ヒナと坂本先輩が一緒に笑う姿を想像するだけで
 苦しくて切なかった。
 憎しみの焔が私を焦がした。
 私は無力だ。
 坂本先輩の気を引くことなんて出来なくて、
 ただ遠くからその姿を見つめているだけ。
 ヒナみたいに 無邪気になんて笑えない。

 私は自分が大嫌いだ。
 弱くて、弱くて、どうしようもなく脆弱で、
 その癖、人を求めてしまう。
 だけど上手く出来なくて、
 不器用な自分が厭で、
 いつかは自己嫌悪に呑まれてしまうのだろうと思っていた。

 もし私に鬼が宿っていなければ、とても無力で。
 何も出来ずに――飲み過ぎた薬が誘うままに、死に至っていたのだろう。

「……王子、様」

 崩れ落ちた少女。
 微かな呟き。
 耳を塞ぎたい。
 そんな真っ直ぐな声で呼ばないで。

 私は彼女のように真っ直ぐに坂本先輩を呼ぶことなんて出来ない。
 私は彼女のように無邪気な笑みを浮かべることも出来ない。

 羨ましいなんて言葉は吐かない。
 それを認めてしまえば余計に自分が惨めになるだけだ。
 一層、  何も考えられない 屍体になってしまいたい。

「坂本先輩」

 返り血のついた制服をコートで隠して、
 ふわふわと虚ろな意識の侭で歩いて、
 何を口走っているのか、
 最早自分でも解らない。

「私は坂本先輩のことが好きです」

 胃の中で溶けて、血液に乗って身体中を蝕む薬物。
 トリップしたような、甘美な感覚。

「お願い、私を置いていかないで」

 世界が滲んで見える。

「私のことだけ見て、笑って下さい」

 血の色、  滲んで 滲んで

「私は坂本先輩と同じように鬼を宿せて」

 何もかも溶けてしまえ。

「同じように血を喰らうことが出来て    ―――幸せです」





 初めて人に恋をした。
 初めて嫉妬という気持ちを知って、
 そして初めて人を傷つけた。

 全てが罪というのならば、
 私は死という罰を、甘んじて受け容れる。





「私に宿った悲しい鬼―――新たな宿主を見つけに行ってらっしゃい―――さようなら、ありがとう」








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