茜先輩 ![]() 「――茜先輩?」 何気ない雑談の中。 不意にアユムさんの出した名前を、復唱したのは坂本先輩だった。 昨日の今日なのに、アユムさんに声を掛けられ、そして放課後、私達は剣道部にお邪魔していた。 行くのはどうかと思ったんだけどなぁ。 「ですです、坂本先輩は知ってますよね?」 剣道部の道場の隅。 出入り口に面した場所で、休憩中の坂本先輩と私とアユムさんと、三人で床に座り込んでいた。 タオルを肩にかけた坂本先輩は、一寸真剣な面持ちを浮かべた後、小さく頷く。 「勿論知ってるよ。茜先輩は憧れの人だったしね」 「やっぱりそうなんですか。剣道強かったんです?」 「うん。今の部長と同じ位」 そう言われても、冴子先輩は今日も居なくて、実際に剣道をしている姿を見ていないからピンと来ない。 アユムさん曰く、番長、らしいけど。 「それに――」 坂本先輩は何か言いかけて僅かに間を置いてから、私達に目を向けた後で続けた。 「……茜先輩は部長候補でもあった」 「そう、だったんですか」 小さく相槌を打つ。 隣にぺたりと座り込んだアユムさんは、坂本先輩の言葉に不思議そうに首を傾げた。 「でも、茜先輩ってどうして居ないんですか?転校したんですよね?」 ……それは言っちゃだめだ、と。 茜先輩にも事情があるから触れてはいけない部分だと思っていたのに。 アユムさんなそういう部分に、無頓着なように思う。 坂本先輩も少し困ったような顔をして、沈黙した。 「――お前等」 「ひゃぅ?」 不意の低い声に、私達は揃って声のした出入り口へ目を向けていた。 其処に居たのは、昨日――ぶつかった。冴子先輩。 「出入り口に座り込むんじゃねー。邪魔だろ。踏むぞ」 「ご、ごめんなさい」 条件反射のように謝って、私は壁際に寄った。 出入り口を阻んでいるのは、私よりアユムさんだったりするのだけど。 壁に手をついて嘆息を吐く冴子先輩は、昨日と同じ制服姿だった。 彼女は剣道着ではなく、少し早めの夏服をルーズに着こなしていた。 耳に幾つもついたピアスだとか。見る限り、確かにアユムさんの言うように不良っぽい部分は多いかもしれない。 「冴子先輩、部活は……」 「こんな蒸し暑いのに部活なんてやってられるか」 坂本先輩の問いにぶっきらぼうに返す冴子先輩。 少々投槍でもある返答に、坂本先輩はその場に立ち上がって言い返す。 「先輩がそれじゃ、下級生に示しがつきません。ちゃんとしてくれないと……」 「それならお前が部長になればいいだろ?」 「まだ冴子先輩が部長です」 「まだ、か。よく言うな」 「……すみません」 ―――どういうことだろう。 ああ、そうか。 運動部の部長は大抵、夏の大会を境に二年生へ譲られる。 それを、言っているのかな。 「そんなことより」 とん。 冴子先輩は何処からか取り出した缶ジュースを、手で弄びながら、 ふと私やアユムさんに、目を向けた。 「……茜の名前が聞えた気がするんだが」 「それは、その、すみません」 咄嗟に、私は謝罪の言葉を小さく零していた。 アユムさんは、どうして謝るのかと、そんな顔をしているけれど。 踏み入れてはいけない領域だった気がして。 「あのバカは――何処に行ったんだかな」 「……?」 「茜だよ。転校なんて正気の沙汰じゃねぇ」 「転校?」 アユムさんが問い返す。 冴子先輩は頷いた。 転校。 「茜先輩って転校したんですか?」 アユムさんが重ねる問いに、冴子先輩は再度頷いて。 「ああ。去年の夏の大会の直前にな。えらい怪我まで背負い込んでさ」 なんだろう。なんだか凄く良くない話をしている感じがする。 余り深入りしてはいけないような話。 なのに。 「怪我って何ですか?」 アユムさんは疑問符を繰り返す。 「地区大会は余裕で勝ち抜いた癖に、全国の直前でとても大会に出られる訳がないような怪我をしてきたんだよ。理由を聞いてもちっとも答えないし、んで、そのまま転校。……だから訳がわからねぇ」 「それって、怪我したのがショックだったんじゃないです?」 「にしても、何も言わずに転校はないだろ」 「ですよねー。冴子先輩は何か心当たりとか無いんですか?」 「別に……」 冴子先輩は缶ジュースをくるくると回しながら首を捻った。 少しの間を置いて、ふと瞬く。 「心当たりとは違うが」 「はい」 「うちの月子と二人で会ってるのは見たな。何話してたかは知らねぇけど」 「月子先輩と、ですか?」 「ああ。後で月子に聞いても、何も言わないしさ」 「……そうなんですかぁ」 目の前で交わされるやりとりに、現実感が湧かない。 今は居ない人の話なんて。知らない人の話なんて、よく解らない。 アユムさんはどうして、その茜先輩にそこまで介入出来るんだろう。 知っているから? アユムさんが中学生の頃、どうやって茜先輩を知ったんだろう? 「茜先輩と親しかったのは、冴子先輩と坂本先輩くらいなんですよね」 「まぁな。茜は同レベルのあたしか、一番弟子の坂本くらいしか相手にしなかったしな」 「……でも二人とも、転校の理由は知らないんですよね」 アユムさんが、冴子先輩と坂本先輩を交互に見る。 どうしてそんなに、探るような目をするんだろう。 あたしにはわからない。解らないよ。 二人が頷くのを見ると 「そうですか」 アユムさんは、 いつも通りの、明るくて中身が薄いような笑みを浮かべた。 私は、 「―――月子先輩と、会ってたって、何でしょう、ね」 ぽつりと。 会話の中の疑問を、口にしていた。 → NEXT → ← BACK ← ↑ Reload ↑ |