闇に沈む過去六月の雨、 闇に沈む過去。 中谷菫(ナカタニ・スミレ)。 私立聖蘭学園高等部、一学年。 精神系疾患により、安定剤を常備。 人との干渉に繊細で、自らを守るように枠の厚い眼鏡を掛けた少女。 ![]() 深い雨の日だった。 梅雨の六月。空には暗雲が立ち込め、気分が塞ぎがちになる。 そんな中で学校内は、放課後の部活動に勤しむ生徒の声が響いていた。 私―――中谷菫―――は部活動には無所属。 身体的にも精神的にも弱く、運動部は勿論のこと、文芸部にも所属するのは憚られる。 なんて。そんなの単なる逃げの言い訳かもしれないけれど。 教室棟の校舎を出て、渡り廊下の先には、食堂と部活棟が並んで立っている。 食堂の前には自動販売機と幾つかのベンチ。 生徒の憩いの場でもあった。 私は自動販売機へと向かう為に、渡り廊下を歩く。 外に面した渡り廊下の端には雨が降り込み、寒々しさを醸し出していた。 遠い暗雲に視線を上げた。 その時だった。 ドン、と肩から全身に走った衝撃。 ふらついて、その場に尻餅をついていた。 「危ねぇな。前見て歩けよバーロー」 投げられた声が私に掛けられた罵倒だと、理解するのに少し時間が掛かった。 見上げれば、ボブの黒髪に鋭い瞳。 私を見下ろす冷たい目は、すぐに消えて、響く足音が遠ざかって行く。 何が起こったか良く解らぬまま、只、私に非があることを感じて精神的負荷に唇を噛んだ。 床に染み込んだ雨水が、制服のスカートに滲む。 「大丈夫――!?」 「え……?」 前から、胴着姿の人物が私に駆け寄るのが見えた。 突然の展開で混乱する私を尻目に、人物は私の傍まで寄るとすっと手を伸ばす。 「あ、えっと……だ、大丈夫です」 差し出された手を拒むのも失礼だ。 何より相手はきっと親切でそうしてくれている。 私は人物の手を取って、身を起こした。 「今のはうちの部長なんだけど、今日は機嫌が悪くてね。申し訳無いよ」 何故目の前の人物が謝っているんだろうと思いながらも、私は首を横に振った。 眼前に佇むのは、何処か中性的な雰囲気のある人物だった。 柔らかそうな髪はショートで、切れ長な瞳に筋の通った鼻筋。 当然女生徒ながら、綺麗というよりも格好良いと、そんな言葉が似合いそうな人。 「今度改めてお詫びを入れるよ。私は剣道部の二年、坂本美子。良かったら剣道部に遊びに来て欲しい」 その時に――と言葉を続けようとする、坂本先輩に、遠くから声が掛かった。 部の道場の方からだろうか。 坂本先輩は僅かに前髪を掻いて、真っ直ぐな瞳で私を見た。 「それじゃあ、部活があるから」 言って、坂本先輩は忙しく道場の方へ駆けて行った。 未だ何が起こったのかよく解らない私とは、テンポが違う。 渡り廊下に佇んだまま、私はどのくらいぼんやりしていたのだろうか。 「今話してたのって、坂本先輩だよね」 掛けられた声にも気づかないまま。 「だよね?」 「え?」 強調するように繰り返す声に、慌てて振り向いた。 其処に居たのは、同じクラスの生徒。 殆ど話したことはないんだけど……顔と名前くらいは知っている。 松林歩(マツバヤシ・アユム)さん。 「何ボーっとしてるの?坂本先輩がカッコイイから見惚れた?あーわからなくもないけどさー」 「い、いえ、そういうわけでは……」 「っていうか、その前にぶつかったのは冴子先輩でしょ?有り得ないし、それどういうハーレム?」 「……え、えーと?」 アユムさんは私の意思など関係ないように、饒舌に捲し立てた後で小さく笑った。 シャギーの入った猫のような茶色い髪をふわふわと揺らせて、猫のように丸い瞳を細めて、 笑みを形取った口元には、八重歯が覗いていた。 「何?まさか、スミレってば坂本先輩のこと知らないの?」 「……え、う、ごめんなさい。先輩のこととかよく解らないんです」 何故謝っているのかも解らなくなりつつ、アユムさんに頭を下げた。 今まで話したこともないような相手に軽い口調で話しかけられている時点で、よく解らない。 「じゃあアユが教えてあげるよー。今優しくエスコートしてくれた坂本先輩は、二年生の王子様!超格好良くて、知らない子の方が少ないんじゃない?って感じ。ファンも凄い多いよ。ラブレターの数とか半端じゃないらしいし。剣道部の中でも一番強いって噂かなぁ」 「……はぁ」 「んで、その前にスミレがぶつかってたのは東堂冴子先輩。東堂姉妹のこともマジで知らない?」 「……知らないです」 「ありえねー。三年生の有名な双児でさー。今のは冴子先輩。剣道部の部長なんだけど、裏ではこの辺の不良束ねる番長らしいよ。ワルの中のワルって感じで、格好良いよねー」 「……はい」 「ついでに教えとくと、双児の月子先輩の方は、生徒会の会計やってる人。こっちは真面目なんだけどクールでさ、やっぱカッコイイんだよね。冴子先輩と瓜二つなのに性格は全然似てないのかなぁ」 「そうなんですか」 さっきから生返事ばかり返している気がする。 アユムさんが余りに勢いが良くて、私は押されっぱなしだ。 冴子先輩と月子先輩……? そう言われてみれば、ぶつかった人物は全校集会なんかで見る生徒会の先輩と同じ顔だったような気がする。 双児の先輩なんていたんだ。知らなかった。 「要するにさー、スミレが今ぶつかった人と、助けてくれた人と、あの二人はこの学校の憧れの的なんだって。王子と番長だよ?凄いと思わない?」 「……えと、うん、なんか凄い、のかな」 曖昧な私の返答に、アユムさんは今ひとつといった表情を浮かべていたが、やがて気を取り直したように言う。 「で、坂本先輩は何だって?」 「え、何って……えっと、今度剣道部に遊びに来ない?って」 そうおずおずと答えた途端、アユムさんは目の色を変えて私に飛びついた。 「マジで!?スミレ凄いよー!超お手柄。あー、一人じゃ行きづらいだろうから、アユもついてってあげる。ね!決まり。今は冴子先輩居ないし、今度行こうよ」 「う、うん……」 坂本先輩にああ言われたからって、剣道部に行く心算なんて無かった。 単なる社交辞令だと思っていたし……。 でもアユムさんの勢いに、断る言葉が出てくる余地も無い。 「で、スミレは冴子先輩と坂本先輩、どっち狙い?」 「え?ど、どっちって、どっちも狙ってなんかないです」 「嘘ー?」 終始明るいアユムさんに、私は結局押されたままで帰り道まで一緒にしてしまった。 アユムさんからしてみれば、私は単に憧れの先輩に近づく駒に過ぎないはずだ。 ただ、アユムさんはどこか憎めないような人懐こさがあって、 相手の感情に関わらず、楽しげに笑う。 そんな笑みを見ていたら、こっちも少しだけ楽しくなった。 心から人に憧れる気持ちって、どんなものなんだろう。 帰り道に、アユムさんはもう一人の“剣道部の憧れの先輩”について話してくれた。 「茜先輩ってね。今はもう居ないんだけど。居たら三年生で。アユが中学の頃に二個上で、その頃から格好良かったんだよ。聖蘭の剣道部って結構強くてさ。その中でも特に凄いって言われてたのが冴子先輩と茜先輩の二人なんだよね」 そう言っては、戯れのように傘を真上に向けたアユムさんは「今は坂本先輩だけど」と付け加える。 「冴子先輩と茜先輩は親友でありライバルって感じだったんだけど、茜先輩は去年の大会で突然居なくなっちゃったの」 「居なくなった……?」 「アユもよく知らない。突然大会に出なかったんだよ。それで今年アユが聖蘭に入学してみたら、聖蘭自体に茜先輩が居なかったの。なんでだろーね」 「……さぁ」 なんだか突然怖い話になった気がするけど、きっとそんなじゃなくて、茜先輩は家庭の事情で学校を辞めたとか、そんなのなんだと思う。アユムさんにも話が届いていないのは、話題として避けられてるんじゃないかな。 表で活躍している人だって、裏側には何か苦労があって当然だ。 「まぁ茜先輩は今はいないんだし、別にいいけどねー」 「……うん」 アユムさんの言葉に頷いて。 やがて方向の分かれ道に差し掛かると、彼女は大きく手を振って歩いていった。 今日の放課後はなんだか嵐のようだった。 こんな日も偶にあるくらいなら良かったけれど。 私の学園生活はその日を境に、様変わりしていくのだった。 → NEXT → ← BACK ← ↑ Reload ↑ |