BATTLE ROYALE 38




 微かな頭痛と共に、私―――闇村真里―――は起床した。
 午前七時。昨晩涼子と一緒に眠りに落ちたのは、何時頃だったのか。
 五時間程は眠っていただろう。睡眠時間には問題もないはずなのに。
 体調が優れず、ベッドから上体を起こし、暫し窓から差し込む光を眺めていた。
 隣に眠っていたはずの涼子は、既に姿を消している。もう管理業務に就いているのだろう。
「……今日が、運命の日ね。」
 ぽつりと呟き、喜びとも恐怖とも言えぬ、複雑な感情が綯い交ぜになった衝動にふっと溜息を吐く。
 長い一日になりそうだと、そんなことを思いながら、ベッドから降り立った。
 十一月、最後の朝。

 着替えや洗顔を終えて管理室に顔を出せば、案の定、涼子は管理室のパソコンに向かってデータの打ち込みを行なっていた。私の姿に気付けば、いつもの笑みで「おはようございます」と声を掛けてくれる。
「おはよう。……涼子、何時間寝てるの?」
「え?えっと、四時間程……」
「ちゃんと寝ないとだめよ……」
 いつもにない低血圧風の私に、涼子はきょとんとしながら席を立つ。私の日課であるモーニングコーヒー、涼子に入れてもらう日もあれば、「いいから」と言って自分で入れる日もあるが、今日ばかりは自分で動く気にもなれず、どさりと椅子に腰を下ろした。
「はい、どうぞ。……闇村様、体調が優れないのですか?」
「ありがとう。ちょっと頭が重たいわね、突発性低血圧。」
 涼子が入れてくれたコーヒーを受け取り、軽く頭を振って答えた。涼子は心配そうな表情を浮かべ、
「お薬探しましょうか?」
 と言ってくれるが、私はやんわり否定した。
「大丈夫。そのうち目も覚めるわ。」
 涼子の世話焼きな部分は彼女の長所ね。きっと良い奥さんになれるわ。
 しみじみとそんなことを思いながら、尚も心配そうにしつつ仕事に戻っていく涼子の姿を眺めていた。
 ブラックのコーヒーを口に含み、コクンと嚥下する。この苦味で、幾分かは目も覚めてくる。
 それから滅多に吸わない煙草を取り出し、火を点けた。この歳になると煙草の害が直に肌に出てしまうから倦厭してしまうのだけれど、今日ぐらいは自分を大目に見よう。
「あのね、涼子……」
「はい?」
 声を掛けてから一旦煙草を吸い、細長い煙を吐き出した後、言葉を続ける。
「今日は美雨に会いに行こうと思うの。」
「あ、はい、わかりま――……え!?」
 一旦了解しかけて、はっとしたように聞き返す涼子。その反応が少し可笑しくて笑いながら、
「そろそろ決着つけなきゃって思って、ね。あの子には聞きたいことが山ほどあるし、美雨も私に会いたがってくれているみたいだから。後で美雨の部屋にアナウンス入れてくれる?午後二時、展望室にお越しください、って。」
 そう言って、「宜しくね?」と付け加える。
「……わ、わかりました。……どうかお気をつけて……」
 涼子は沈痛な面持ちで言い、またパソコンに向かうけれど、その横顔は曇ったままだった。
 涼子のように、心から心配してくれる人がいるっていうのは、やっぱり嬉しいことね。
 美雨がいなかったら、涼子を本命にしたかもしれないのに――……なんて、ね。
 ここ数日で、私は自分自身の気持ちを確信していた。
 私は今も、美雨のことが好きなのだ、と。 
 それはずっと長い間、気付いていたことなのかもしれない。
 もしかしたら、美雨と別れた卒業式のあの夜からも、ずっとずっと変わらない想いなのかもしれない。
 美雨に会いたかった。だから美雨を追って、こんなプロジェクトの管理すらも引き受けた。
 なのに会えなかった。こんなにもそばにいるのに、会う勇気が持てなかった。
 あの日のように、拒絶されてしまうことが、怖かった。
「おはようございまーす」
 と、聞こえた声は水夏のものだ。水夏は扉の向こうから声をかけた後、コンコンとノックをし、扉を開く。
 ひょこんと顔を覗かせ、私と目が合えば笑みを見せて。
「闇村さん、なんか寝不足って顔してません?っつか煙草吸ってるの初めて見たし。」
 クスクスと笑いながら言う水夏に苦笑し、
「水夏みたいにヘビースモーカーじゃないもの。それから、寝不足でもないわよ……低血圧気味かしら?」
 と、曖昧な言葉を返す。実際は、今日一日のことを考え、複雑な気持ちになってしまうのが顔に出ているのかもしれないけどね。
「闇村さんが身体壊すなんてありえないっすよ?病気とかしそうにないのに。」
「失礼ねぇ。美人薄命って言うでしょ?」
「そりゃ確かに……」
 水夏は頷きつつも今一つ納得出来ないように首を捻って見せては、「まいっか」と笑っていた。
 水夏もいつしか随分私に馴染んだわね。裏切ったのに――というよりも裏切ってから、どこか砕けた口調で私に話し掛けるようになった。私にとっても、それは嬉しいことだ。こうして近い距離で人と話すことなど、あまりなかったから。
「あー……眠い。」
 水夏は堂々と欠伸をしながら、朝一のモニターチェックだろうか。参加者が減るにつれて映っている画面も減り、今は美雨の部屋と夕場律子の部屋、それ以外が点々と映っているだけ。
「皆寝てるのに……私は何故こんなに早起きなんだ……」
 水夏のそんな独り言に少し笑い、
「涼子なんか六時頃には起きてたわよ?」
 と窘めるように言う。涼子は苦笑を浮かべながら水夏に目を向け、「ここでは最年長ですからね?」と年寄りじみたことを言って、またパソコンに向かっていた。
「そうか、若ければ若いほど寝坊オッケーか!じゃあ二度寝……」
「こら。水夏は真紋さんのところに行くんでしょ?」
「……でした。」
 私が指摘すれば、水夏はばつの悪そうに頬を掻き、
「んじゃ、真紋さんとこ行って来ます。なんか用事があったら声掛けてくださいね。」
 と言い残して、ペコリと軽く頭を下げてから管理室を後にした。
 水夏の様子を微笑ましく思いながら、灰皿に煙草を揉み消す。
 ――変ね。水夏の賑やかな存在感も、そして涼子も。こうして管理室に訪れ、或いは滞在して私に言葉を掛けてくれる。それが不思議と、嬉しくて仕方がない。
 この私が、こんな感情を抱いていると知ったら、皆驚くのかしら。
 先日螢子が言っていた――トップとは孤独な存在。あの言葉に、深く同意している私がいた。
 螢子には仲間がいなかった、だから彼女は本当に辛かったことだろう。ただ唯一、矢沢深雪という女性だけは、螢子に想いを寄せ、同じ視線で螢子を見つめた。……螢子は気付いていなかったかもしれないけれど、それがどんなに尊い存在か。トップに立つ人間として、その感覚はよく理解出来る。
 幸い私の周りには、涼子や水夏、或いは他のスタッフ達がいるけれど、彼女らともやはり同じ視点で接することなど不可能だ。私も、そして周りも、上からの視線、下からの視線という関係が当然になっている。
 そんな私が、この生涯でたった一度だけ、対等な視線で相手を見ることが出来た。
 それが美雨だ。
 ――否。実際は、私が導く立場にいたのだけど。
 私が何故美雨に様々なことを教えたのかを考えれば簡単なこと。
 美雨には私と同等になれるほどの器があったから。
 だからいつかは対等な関係になれることを夢見ていた。
 だけどそれは叶わぬまま、彼女と別れてしまった。
 ……今も私は。
 美雨と同じ視線で、向かい合うことを望んでいるのだろう。
 そして今の美雨なら、それが出来るのかもしれないと、期待している。
 だけどそれは――敵対という関係をも、伴ってしまう、けれど。
 あの子の憎しみの理由がわかれば。
 私はその憎しみを和らげることが出来るのではないかと。
 様々な希望を抱いては、それが現実にならぬことを恐れ、行動に踏み切れない。
 ――このままではいけない。
 だから私は今日、美雨に実際に会うことにした。
 全ては彼女と言葉を交わしてからだ。
「……涼子には話しておかなきゃね。」
 私は椅子を立ち、パソコンに向かう涼子のそばに近づいた。
 不思議そうに私を見上げる涼子の肩に手を置いて、微笑んだ。
「私は今でも美雨を愛してる。……美雨しか愛せないの。」
 そう告げれば、涼子は少なからず驚くのかと思っていたけれど、
 彼女はふっと微笑みを返し、「はい」と頷いて見せた。
「……知っていたの?」
 逆に驚いて問い返すと、涼子は視線を逸らし、こくんと頷く。
「私が闇村様を見つめていると、闇村様はいつも別の場所を見つめてらっしゃいました。そしてその視線の先には神崎さんがいた。それだけです」
「……そう。」
 あまりに単純な答えなのに、たったそれだけで見透かされて。
 私はなんだか気恥ずかしくなり、涼子から目を逸らす。
 涼子はクスクスと小さな笑みを零した後、穏やかな口調でこう続けた。
「闇村様もちゃんと人間なんだなぁって思って……。ごめんなさい、失礼ですよね。……でも、そんな闇村様が、好きなんです。」
「……ありがとう。涼子は他の子とは違うわね。」
「そう、ですか?」
 きょとんとして見上げる視線に、少し笑んで。
 私はそっと顔を下ろし、涼子に軽くくちづけた。
 不意のキスに涼子は頬を染めながら、はにかむように笑んで見せる。
「昨日のご命令ですけど――私にはやはり守れそうにありません。」
「……?」
「闇村様が別の方を見ていても構わない……だから、ずっとおそばに置いて下さいね。」
 涼子は恥ずかしそうに、目を伏せながらそう告げた。
 真っ直ぐに、私を想う心。
 そこにあるのは主従関係ではなく、純粋な、恋心。
 彼女の気持ちが嬉しくて、そっと涼子の頭を抱いた。
「わかったわ。……貴女だけは、手離さない。」
「はいっ……」
 そうして、視線を交わし、二人で笑んだ。
 どうしてこの子は、こんなにも私を想ってくれるのだろう。
 こんなに幸せそうな表情を浮かべてくれるのだろう。
 ……。
 言葉に出来ない、温かな気持ち。
 だから私は言葉なく、彼女を緩く抱いて、その髪を撫で続けていた。
 仕事の邪魔になりながらも、その柔らかな感触から手を離すことが出来なかった。





 ピンポンパンポーン。
 室内に響いたチャイムに、あたし―――佐久間葵―――と美雨さんは同時に顔を上げた。
 今日は昼間っからのエッチはなし。一時間前に告げられた禁止エリアは飲食室とか洗濯室とかそんなのばっかりで、部屋から出る必要もなく、あたしと美雨さんは暇を持て余しながら時間を過ごしていた。いや、美雨さんはパソコンで何かカタカタやってて暇ではなさそうだけど。背後から覗き込むと、画面にはなんか超ややこしそうな数字とかがいっぱい並んでてわけわかんないし。
 飲食室から調達して来ていた菓子パンを齧りながらぼんやりと窓の外を眺めていた時、そのチャイムが鳴り響いたのだった。
『お呼び出し致します。神崎美雨さん、本日十四時に展望室にお越しください。』
「……?」
 美雨さんの名を呼んだその放送。いっつもの禁止エリアの機械音声やつとも違い、それは女性の声で告げられる。だけど闇村さんの声でもない――……あれは、涼子さんかな?
 美雨さんは不思議そうな顔をしてあたしに目を向け、もう一度繰り返される放送を耳にしつつ「何かしらね」とぽつりと呟いた。
「美雨さんだけ、ですよね。なんだろう?」
 首を傾げて見せると、美雨さんはふっと視線を落とし考え込むように押し黙る。
「……葵も一緒に来なさい。」
「え?いいんですか!?」
 やがて顔を上げてそう言う美雨さんに、ちょっぴり驚いて聞き返した。
 放送は美雨さんの名前しか呼ばなかったのに。いいのかなぁ。
「もしもの時は道連れにしてあげる。」
「……」
 そーゆーことですか。美雨さんてばひどぉい。
 でも、もしもの時なんて、ありえない。美雨さんは絶対だもん。
 ……そうだよね?
 今のだって、ちょっとした冗談のような、もので。
 美雨さんは冗談なんか言う人じゃないけど、でも……きっと、大丈夫。
 管理側の――おそらく闇村さんの指示での呼び出しだと、思うけど。
 闇村さんだってちゃんとした人だもん。いきなり罠に嵌めて殺すようなことは絶対しない。
 うん。大丈夫。余計な心配はしないでおこう。
「ねぇ、葵。……葵は、このプロジェクトから優勝してからのことは考えている?」
「優勝?」
 不意に切り出された問いかけに、菓子パンを口の中でもごもごさせながら、きょとんと問い返す。
 美雨さんはパソコンでの用事が終わったのだろうか、電源を落としてパタンとパソコンを閉じ、椅子から立ち上がりながら頷いた。
「残るは三人。葵だって優勝する可能性がないわけではないでしょう。」
「そ、れはそうですけど……でも、あたしが美雨さんに勝てるわけが……」
「……どうかしらね。」
 ベッドの窓側の縁に腰掛けているあたしと、彼女は反対側の縁に背中合わせになるようにして腰を下ろす。
 首を目一杯回して振り向いているあたしに、美雨さんは軽く振り向いてすっとその目を細めて見せた。
「可能性としてありえないわけではない。今、葵が生きている以上は。」
「そりゃ確かに……」
 美雨さんの言葉に同意してから、振り向いていた首を戻す。菓子パンの最後の一欠けらを口の中に放り込み、もぐもぐしながら考えた。
 何故、そんな可能性が残っているのか自体が、あたしには理解出来ないことだ。
 そう。――何故美雨さんは、あたしを殺さないんだろう。
「……、……み、美雨さんは優勝してからのこと、考えてますか?」
 疑問を投げ掛けるなんてこと出来なかった。
 何故、殺さない?
 そんなこと聞いたら、特別な理由なんてないと、そんな答えが返って来るかもしれなくて。
 そろそろ殺しましょうか?なんて、そんな風にさらっと言ってあたしに手を掛ける。
 美雨さんはそんな人。
 だから話題を逸らして、代わりの問いを投げ掛けていた。
「私は考えていないわね。」
「へ?……考えてないんですか?」
「ええ。」
 一番優勝に近い人がそんなことを言うもんだから、あたしは驚いて聞き返した。食べ終えた菓子パンの袋を手の中でくしゃっと丸めながら、ベッドの上を這って美雨さんの隣まで移動する。
「未来が見えないの。……霧がかかっているみたい。」
 美雨さんはちらっとあたしを見遣った後、すぐに視線を床に下ろし、そんな弱い言葉を漏らしていた。
 彼女の口調はいつも通りの冷たい響き、だけど、言葉自体が弱々しいもので。
 美雨さんは人生設計なんて完璧な感じなのに……って、そうだったらこんなところにいないかも、だけど。
「で、でも、美雨さんならきっと何でも出来ますよ。優勝したら海外とか送ってもらえるんですよね?そういうところで、またお医者さんしてもいいし」
「……」
 あたしのフォローにも、美雨さんは黙ったまま、目を伏せて。
 ――あ。まただ。
 美雨さんが見せる、人間っぽいところ。
 あたしの問いかけに対する答えに困ってる。
 どうしたらいいのかわからない。そんな様子。
「私は……」
 美雨さんは少しだけ視線を上げ、真っ直ぐに前を見据えながら、言った。
 否、その目は何も見ていないのかもしれない。
 彼女の言うように、霧がかかって何も見えない、そんな景色を目に留めているように。
「……私はただ、真実を知りたいだけなのよ。」
「真、実……?」
 今すごく、重要なことを話してる。
 そう思ったのは、美雨さんの表情に浮かんでいるのがいつもの冷たさではなく、微かな戸惑いだったから。
 本当なら、あたしが踏み入れちゃいけないような場所。
 バリケードが張り巡らされた立ち入り禁止の区域、なのに、あたしはその入り口を見つけてしまったのかもしれない。――そのうち追い出される。だけど、追い出されるまでは、奥に進んでみたい。
「美雨さん。その真実って何なんですか?一体、どういう?」
「……」
 そう問いかけた時にふっと、美雨さんの表情にいつもの冷たさが戻る。
 あたしに向けられたその瞳が、氷のように、冷ややかで。
 ヤバ、い?
 ……。
「……真実は」
 だけどあたしはすぐに気付いた。
 美雨さんが見せるその冷たさは、あたしに向けたものじゃない。
「おそらく、闇村真里が知っているのよ」
 ――そうだ。
 美雨さんの憎しみの対象、なのに。
 闇村さんは、美雨さんが求めるものを持っているんだ。
 だから美雨さんは、闇村さんのことをあたしに何度も問い掛ける。
 もしかしてあたしは、闇村さんのペットだから美雨さんのそばにいるんだろうか。
 あたしが闇村さんのことを色々知ってるから、美雨さんはあたしを殺さないんだろうか。
 だとしたら、美雨さんが闇村さんにその「真実」さえ教われば
 ――あたしは要らなくなるの?
「美雨さんは、どうして……」
 あたしを、殺さないんですか。
 聞いてしまえば、早いのだろうか。
 だけどそれを知ったところで、何も変わらない。
 死ぬのが少しだけ早くなるだけなのかもしれない。
 あぁ、いやだ。
 あたしは今までと同じように、
 ただ快楽に溺れていたいだけなのに。
「……どうして、あたしを抱いてくれるんですか?」
 ぽつりと問い掛けると、美雨さんはどこか不思議そうにあたしを見つめた後、
 そっと手を伸ばし、するりと、あたしの髪を撫ぜていく。
「葵が欲しいから。」
 ……。
 なんで、美雨さんは
 あたしなんかが欲しいんですか?
 ……。
 ホント、あたしってバカだから。
 何もわからない。何も理解できないよ。
 美雨さんがそばにいてくれれば、それで、いいのに。
 離れるのが怖い。突き放されるのが怖い。
 必要とされなくなることが、どうしようもなく、怖い。





 十三時三十分。
 ゆっくりと流れていた時間が、急に速度を増した。
 私―――闇村真里―――は水夏や木滝さんには何も言わず、涼子だけに見送られ、管理室を後にした。
 美雨を呼び出した、展望室へと向かうために。
 エレベーターで十五階に下りる。静まり返った廊下には重い空気が張り詰めているように感じられた。
 今日はいつものサングラスは掛けていない。身を包むのは上下のパンツスーツ。腰元に据え付けたホルダーには拳銃を備えている。だけど、出来ることならばこれを使いたくはない。美雨が妙な動きを見せれば、涼子が軽い電撃を流す算段にはなっているけれど――美雨の運動神経と涼子の反射神経を比べれば、美雨の行動の方が素早いはずだ。
 銃身を軽く指先で撫で、ふっと息を吐く。私と美雨は下手すれば互いの命すら脅かしかねない関係だ。彼女が私を殺そうとするならば、最低限の応戦は避けられない。
 歩みを進めれば、カツカツと、ローヒールのパンプスが立てる靴音が廊下に響く。その音だけが鼓膜を打つ、嫌な感覚に眉を顰めた。
 程なくして、展望室の入り口が見えた。
 涼子は十四時に美雨を呼び出している。あまり早くにやってくることはないだろう。
 あと三十分弱、美雨を待ち続けるその時間がどんなに長いものだろうと予想しながら。
 展望室に足を踏み入れ、ゆるりと辺りを見回して、安堵とも落胆ともつかぬ吐息を漏らした。
「……美雨は時間厳守だったわね。」
 昔からそうだった。いや、昔からではなく、昔は、と言うべきか。
 十時と告げれば必ず九時五十五分から十時の間にやってくる。完璧に物事をこなす少女だった。
 昔の美雨の姿を追懐しながら、展望室の窓際へと歩いて行く。展望室は物のない広々とした空間。死角も物陰もない、逃げも隠れも出来ない部屋。窓には黒いフィルムが掛かっているとは言え、昼下がりの日光はそのフィルムすらも突き抜けて室内に薄い明りを届けている。この明りなら、フィルムがなければ日中は照明がなくても十分に明るい空間となるのだろう。
 いつかこの空間に、一般人が多く訪れるようになる。
 本来、このビルはアミューズメント施設を兼ね備えたホテルとして利用するために造らせたものだった。建設計画書には別人の名が書かれているが、実際は私が総括していた計画である。しかしこのプロジェクトの開催を受け、急遽工事を加えてプロジェクトに利用できるように機能を追加した。このプロジェクトさえ終了すれば、今度は取り外し工事や修復工事を行なって、それから本来の目的に利用することとなるだろう。
 きっとそれは近い未来。
 私はもう、その計画には存在していないかもしれないけれど――。
「全ては美雨次第。」
 ぽつりと呟いて、大きな窓に背を寄せた。腕を組み、扉のない展望室の入り口へと目を向ける。
 あそこに美雨が姿を現すまで、あとどれほどか。
 トクン、トクン――と、規則的に打つ心臓の鼓動が音を増していた。
 十年以上も会っていない昔の恋人。彼女と顔を会わせる、その時を前にして。
 恐怖と喜びと、二つの感情が私の中で膨れ上がっていく。
 美雨はどんな顔をして私を見るのだろう。美雨は最初にどんな言葉を放つのだろう。
 数十分後の未来すらも、全く想像がつかなかった。
 ここまで先延ばしにしてしまったのは私自身だ。これまでに美雨と会う機会だってなかったわけではないのに。一度は会わなければならない状況にもなったというのに。
 私は美雨から、逃げていた。
 実の父親の葬儀にすら顔を出さなかったのは、ただ、彼女と会うことが怖かったから。
 美雨の医療ミスによって父親を亡くした、そのことを知った時もまた、美佳子のニュースを聞いた時と同じぐらいか、いや、それ以上に驚いたのをよく覚えている。
 父親の遺体に会いに来るようにと母親から連絡を受けた。医師からの家族への謝罪ということで、病院側から呼び出されたこともあった。だけど私は赴かなかった。仕事が忙しい、と、そんなことを言い訳にして。
 結局全ては母親が取り仕切り、そして彼女も父の後を追うようにして、数ヵ月後に病死した。
 親元を離れてからは会うことも殆どなく、遺体となった母の顔を見たのも三年振りだった。
 私という人間を生んだ両親すらも、私からすればあまりにくだらない存在で。鳶が鷹を生むだなんて諺があるけれど、両親と私は全くもって諺通りの親子だった。私は彼らに興味を抱かなかった。
 父親の死よりも、何故美雨が父親を殺したのか。そのことばかりが気になった。医療ミスとは聞いたけれど、あの美雨がそんなミスを犯すはずがない。何か理由があった。何か意図があったはず。
 美雨が無差別殺人を犯したこととの関連性にしても気になるところ。父親の死は医療ミスという括りになっているけれど、実際は無差別殺人の被害者と同じなのではないか。或いは美佳子の死は――。
 ――と。今まで幾度も考えを巡らせたことを、いつしかまた思索している自分に気付き、ふっと自嘲の笑みを漏らす。今になってまで考えなくたって、もう少しすれば直接本人に聞けるのだから。
 強まっていく心音を抑えるように、一つ深呼吸をして。
 もうすぐ聞こえてくるであろう足音に耳を澄ませた。
 近づいていく、邂逅の時。





 廊下に響く二つの靴音は、少しだけずれたタイミングで響いている。
 葵は幾らか歩幅が狭く、後ろをついて歩く時、いつも足早な様子を見せていた。
 けれど今は、葵も通常のペースで歩を進めている。
 自室から展望室までの距離は然程長くもない。故に別段、急ぐ必要もなかった。
 十四時五分前。私―――神崎美雨―――は葵を連れて部屋を出た。
「美雨さぁん……本当にあたし、ついてっても良いんですか?」
 葵は私の一歩後ろを歩きながら、おずおずとそんな問いを掛ける。先ほどにも同じ問いを掛けていたというのに、彼女の不安は拭いきれないのだろうか。
「構わないわ。葵が戻りたいと言うのならば、部屋で待っていても良いけれど?」
「う、……い、いえ、ついて行きますっ」 
 躊躇いがちな様子を見せながらも葵はそう言って、それからきゅっと、私の白衣の裾を掴んだ。
 何も言わず、伏せ目がちに私の後をついて歩く。そんな姿を横目で見た後、私は足を止めた。
「怖いの?……何故?」
 葵はワンテンポ遅れて足を止めると、私を見上げ、表情を曇らせる。
「怖い、です。だって今から何があるか全然わかんないしッ、……それに、もし美雨さんに何かあったら!」
「私が殺されるとでも?」
「……ありえないかもしれない、けどッ。でもやっぱ怖いですっ」
 不安げに捲くし立てる葵に、私は白衣のポケットに入れていた拳銃を差し出した。
 葵は曇った表情のままで私を見上げ、不思議そうに瞬く。
「弾は一発しか入れていない。もしもの時のために持っていなさい。」
「い、いいんですか!?」
 驚いた様子でそう問う葵に一つ頷くと、葵は裾を握っていない方の手で、拳銃を受け取った。
 手にした銃をじっと見つめた後、葵はこくんと小さく頷いて見せる。
 私は白衣の裾を握ったままの葵の手に触れ、きゅっと握った。こうすれば彼女の不安は少しは和らぐはずだから。
「時間になるわ。行きましょう。」
 そう促し、葵の手を引いて歩き出した。――向かう先は展望室。
 葵は話を止め、押し黙ったままで私についてくる。
 呼び出した人物は、葵には用事などないはずだ。けれどこの少女を連れてきた理由は、第三者を立ち合わせるべきだと判断したから。
 もしも私を呼び出したのが、あの人だったら。
 もしそうならば、二人きりになって彼女と向かい合うことに躊躇いが生じる。
 第三者がいれば少しは気が紛れるだろうかと。そんな思慮からなるものだ。
 葵に銃を渡したのは、万が一、私が死ぬようなことになった時―― 葵がどのような行動を見せるのかを、知りたかったから。とは言え私が死んだ後ならば、それは知り得ないことではあるが。
 もしも葵が私に銃を向けるようなことがあれば、私は即刻葵を殺せばいい。
 腰のホルダーに備えた銃と、ポケットに入れたメスとを確認し、そして私は展望室へ続く廊下を真っ直ぐに歩いていった。
 ――「展望室」
 そのプレートだけが壁の上部に掛けられ、扉のない開放的な部屋。
 入り口の直前で。
 ふっと足を止めた。
「……?」
 葵が不思議そうに私を見上げる。
 葵はわからないのだろうか。
 室内から感じられる、この圧倒的な、存在感。
 確信した。私を呼び出したのはあの人だ。
 十年以上もの間、会っていないけれど――
 いつまでも、私を捕えて放さなかった、あの人。
「……。」
 ここに来て、第三者は存在してはいけない空間だと思った。
 あの人は私だけを呼び出した。あの人は私と二人で会いたいのだ。
 立ち合わせては、いけない。連れてきてはいけなかった。
 そう。逃道など作ってはならない。――それ以前に、第三者は逃道にすらなり得ない。
「葵はここで待っていなさい。」
 私は葵の耳元で囁き、その両肩に手を置いた。
 不思議そうに向けられる視線。その後で、葵はこくんと頷いて見せた。
 そっと手を離すと、葵はどこか悲しげな表情を見せる。
 けれど構ってはいられなかった。
 その場に葵を置いて、私は展望室へと足を踏み入れた。
 ――……。

 ドクン。
 ドクン。

 人物の姿が目に入った瞬間に、急激に心音が速度を上げる。
 思わずその場で足を止めて、彼女の姿に、見入っていた。
 あの人がいることは予想できていたはずなのに。
 覚悟を、決めていたはずなのに。
 何故こんなにも、心が騒ぐの……?

 人物はゆっくりと視線を上げると、私の姿をその目に捉え、
 ――微笑んだ。
 あぁ、あの頃と全く変わらない。
 十数年前の彼女の笑顔と、重なって見えた。
 
「美雨。……久しぶりね。」

 私の名を呼ぶ、彼女の声。
 ゾクン、と、言い表せない感覚が、駆け抜けた。
 この感情は。
 一体何と言うのだろう。
 ただ、その女性を前にして、あまりにも自然に零れた声。

「闇村先輩……」

 まだ覚えていた。
 あの人の、名前。
 あの人への、呼び方。

「今も、そう呼んでくれるのね。」

「……」

 パチンと、弾けるように
 過去の記憶が蘇る。
 あの夜。
 彼女と別れた、あの夜のことが。





 美雨は、無表情に私―――闇村真里―――を見ていた。
 長い時を経て、再び会った、美雨の姿。
 あまりに美しく、懐かしいその姿。
 別れたあの夜から、もう美雨に会うことは出来ないような気すらしていたのに。
 美雨はまた私の前に現れてくれた。私の名を呼んでくれた。
 闇村先輩、と。
 だけど美雨は不意に表情を曇らせ、ふっと目を逸らす。
「――私に」
 美雨はゆっくりと足を踏み出し、私の方へと歩みながらぽつりと切り出した。
 トーンの低い声で、彼女は問う。
「何のご用ですか。」
 業務的な問いかけ。そんな彼女の口ぶりが、懐かしくもあった。
 けれど、違う。
 今目の前にいるのは、あの頃のように何も知らずに戸惑いながら言葉を紡いでいた美雨ではない。
 彼女が抱いているのは、憎しみだろうか。
「美雨に会いたかった。それじゃ、用件とは言えないかしら?」
「……会うだけで良いんですか?」
 淡々と言葉を紡ぎながら、やがて美雨は足を止めた。
 五メートル程の距離を開けて、私達は向かい合う。
「良くないわね。……美雨に聞きたいことがあったの。」
「何でしょう?」
 感情のない声、ではなく、感情を押し殺したような声。
 鋭い瞳は、真っ直ぐに私を捉えていた。
 決して友好的な態度とは言い難い、冷たいもの。
「聞きたいことは山ほどあるわ。私と別れてから一体何があったのか。私の父を、或いは他にも大勢――人の命を奪った理由。貴女は何故、そのようなことを繰り返したの?」
「……真実を、求めるため……。」
「真実……?」
 ぽつりと、美雨の言葉を聞き返す。
 その時だった。
 強く、私に向けられた、眼差し。
 鋭くて冷たい、美雨のその瞳には、
 憎しみという感情が、溢れていた。
「闇村真里。貴女のせいで、私は」
「私が、悪いの?……どうして?」
 眉を顰めて問い返す。
 私が何らかの影響を与えていることはわかっていた。故に美雨は私を憎んだ。
 けれど私がした行為で、ここまで美雨が憎しみを抱く理由が、私にはわからなかった。
「――あの夜のことを、覚えている?」
 美雨は私から目を逸らし、視線を落としてぽつりと言った。
 敬語が消えた。つまりそこに、私を先輩として敬う美雨はいないということか。
「最後の日のことでしょう?覚えているわ」
 頷き返すと、美雨は私に視線を合わせるでもなく、ゆっくりと私のそばに歩み寄る。
 何も言わずに。
 すっと、私の元へ伸ばされる彼女の両手。
 触れたのは私の両手だった。
 あの頃と同じ、冷たい体温。
 ひんやりとした美雨の指先が私の手を取り、そしてその手は美雨の首へと導かれていた。
 まるで、あの夜を再現するように。
 私が、美雨に手を掛けた、あの夜を。
「あの時から全てが変わってしまった。何もかもがわからなくなった。」
 俯いて、ほんの僅かに、身体を震わせて。
 このプロジェクトで見た冷たい美雨からは想像もつかないような、その姿。
 けれど私は知っていた。同じ姿を目にしたことがあった。
 あの夜と同じだ。
 俯いて何度も咳き込みながら、怯えるように身体を震わせた美雨の姿が鮮明に蘇る。
 そう。あの時、私は思わず――

「―――貴女は、私を殺そうとした。」





 闇村先輩が卒業したその夜、私―――神崎美雨―――は彼女の部屋を訪れた。
 普段は学校で会うだけの関係。特別な日だけ、私は彼女の自宅に招かれた。
 その日は、きっと私も闇村先輩にとっても、とても特別な日だったのだと思う。
 学校という場所で毎日会っていた私達が、突然その逢引の場を失った。今後だって会えなくなるわけではないのに、学校で会えなくなると思うだけで、辛くて仕方がなかった。私は闇村先輩に依存しすぎていた。
「ずっと一緒にいられたら良いのにね。」
 先輩も寂しげに笑んで、すぐに私を求めた。ただそばにいるだけでは満たされない。心と身体で相手を感じたかった。それは先輩も一緒だったのだろう。
 長いキスから始まる行為も、もう何度繰り返したことか。先輩の指先も何もかもが私に馴染み、蝕んでいく。
 先輩が冗談めかして言っていたことがあった。「美雨はどんどん感じやすくなるわね?」と。
 私にとっては冗談でも何でもなく、増幅していく快楽に怯えていたほどだ。このままでは、狂わされてしまう。
 けれどそれはやはり悦びに他ならなかった。――ただ、快楽だけならば。
 その夜は今まで以上に、互いを強く求め合った。
 これから頻繁に会えなくなる、その穴を埋めようとするかのように。
 彼女が囁く。「愛してる」と、甘い声で、何度も囁く。
 私も同じ言葉を返した。その時もまだ愛の定義はわからなかったけれど、彼女に応えるために。
 互いの想いに、酔って、次第に正気でいられなくなる。
 いつもは辛うじて保っていた理性すら、消えてしまった。
 虚ろな意識の中で、私は思った。
 この人のそばにいたい。この人から離れたくない。
 いつまでも、触れていたい、と。
 ―――それなのに。
「美雨……」
 闇村先輩は愛しむような声で私の名を呼び、その後何かを囁いた。
 私はもうその言葉を理解出来るほどに冷静ではなかったけれど、
 その言葉は私に――“嬉しい”という感情を、教えていた、そんな気がする。
 このまま終わりが来なければいい。
 このまま、時間が止まってしまえばいい。
 深い快楽の中に、溺れていた。

 不意に ぎゅっ、と。
 私の首に触れた、先輩の両手が、
 力を込めた。

「――ッ?……先、輩……」

 濁った瞳を見た。
 笑みに細められた、その目で
 私を見つめていた。

「……あ、……ぁッ……」

 次第に呼吸が侭ならなくなって
 頭の中に靄がかかったような、不思議な感覚。

 視界が光のような白に満たされて

 ―――……。





「私は我に返って手を放した。幸いそこまで酷い状態ではなかったし、美雨も少し休めばすぐに元気になったわね。――そしてその後で、貴女は私を拒絶した。」
 あの夜のことを淡々と話した美雨に、間違いはないと頷きながら私―――闇村真里―――は続けた。
 美雨は私の言葉に小さく頷いて見せ、それから口を噤んで私を見上げる。
 私はしっかりと美雨を見つめ返しながら、問いかけた。
「殺そうとしたから私を拒んだんでしょう?……だけど、そこから何故、貴女が殺人を犯すということに繋がるのかがわからないのよ。」 
「……わか、らない?」
 逆に、ぽつりと問い返され、私は益々怪訝に思ってしまう。
 美雨の表情から憎しみは和らいでいたけれど、不思議そうに揺れる瞳には私も首を捻るばかりだ。
「貴女は意図して……あんなことをしたのではないの……?」
「意図って……何を?殺そうとしたことは、意図したわけじゃないの。……ただ、夢中で」
 私自身、行為中の記憶はおぼろげにしかない。いつも以上に乱れていたし、美雨を求めていた。
 私はあの時――
 美雨の全てが、欲しかった。
 幾ら求めても、相手の心を完全に手中にすることなど不可能。
 ならば――殺して。
 そうすれば美雨の全てが私のものになる。なにもかもが。
 と。こうして考えれば馬鹿馬鹿しいことだけど、冷静さを欠いていれば何を思うかわからない。
 結果として、拒絶されるほどに美雨を傷つけてしまった。
 あの過ちさえなければ、美雨と別れることもなかった。
 ……と、そう思っていた、けれど。
 今こうして美雨と向かい合って、不思議そうな瞳を見ている。
 もしかして私は――何か重大な思い違いをしているのだろうか?
「闇村、先輩……」
 美雨は目を伏せ、ぽつりと私の名を呼ぶ。
 冷静さを取り戻したように、いつもの冷たい口調で。
 ただ口調は同じなのに、美雨はまた私を「先輩」と呼んだ。
 あの頃の美雨に戻ったような錯覚さえ抱かせて。
 美雨はそうして私と視線を合わせることなく、言った。

「何故あの時、私を殺してくれなかったんですか?」

 ―――と。
 暫し、その言葉が理解出来なかった。
 頭の中で反芻しても、やはり答えは導き出せない。
 美雨は一体何を言っている、の?
 “殺さなかった”ではなくて、
 “殺してくれなかった”……?

「ちょっと待って」
 若干混乱している自分自身を落ち着けるように、自らの額に手を当てて考える。
 いや、考えても答えなど出るはずはない。
 私は一息ついてから、真っ直ぐに美雨を見つめた。
「美雨は、殺されたかったの?」
「……」
 一番肝心なところなのに、美雨は押し黙ったままで目を伏せていた。
 もしそうだとすれば、今まで信じていたことが一気に崩壊する。
 私は美雨を殺めるという過ちを犯そうとした、けれど理性によって踏みとどまることが出来た。
 殺そうとしたこと自体が過ちではあったけれど、命に別状がなくて良かったと、そう思った。
 けれど。
 踏みとどまったことが、過ちだった、ということなの?
「本当に……知らない、の……?」
 押し黙っていた美雨が、掠れた声でそんな問いを漏らす。
 感情を殺した声、だけど、そこにどこか――信じられないような、響き。
 もしかしてこの子も、今、私と同じように何かの思い違いに気付いたのだろうか。
 私が知っているはずだったことを、私が知らなかった。
「美雨、はっきり言って頂戴。私は一体何を知っているはずだったの?」
 焦れて、彼女の肩に手を掛けながら問いを掛ける。
 美雨はすぐに私の手を振り払い、トン、と一歩後ろに下がって、真っ直ぐに私を見据えていた。
 悲しい色をした瞳で私を見つめながら、美雨は答えた。
「……真実。」
 そして美雨は語り始めた。
 真実とは、一体何なのかを。





「私が真実に初めて近づいたのは、貴女のお父様を――この手で殺めた時です。」
 心の奥底にじわりと滲むのは、微かな絶望。
 闇村先輩ならば知っていると思っていた。彼女に教えられたのだから。
 なのに、闇村先輩すらも知らなかったなんて。
 ならば私―――神崎美雨―――は、どうやって真実にたどり着けば良いのだろう。
 近づいていた答えが突然消え失せた。なげやりな思いすら抱いてしまう。
 もう、どうしようもない。それならば少しでも良いから、闇村先輩が手がかりぐらいは持っていないかと、そんな期待を込めて。私は今までのこと、彼女が知りたがっている空白の時間を話すことにした。
「闇村健司、六十一歳。転移性の肝臓癌を患っていました。担当医は別にいましたが忙しい医師だったので、診療や投薬指示は私に任されていたんです。必然的に、彼と接する機会も多くありました。」
「……そう、だったの?私はてっきり、手術の時に立ち会っただけだと思っていたわ」
 闇村先輩の言葉に、首を小さく横に振った。
 当時の私は、人を殺めることなど思いつかなかった、極真っ当な人間だった。
「私は彼が闇村先輩のお父様だということを知っていました。けれど特別な感情は抱かなかった。……貴女とお父様は、他人のようなものだった。そうでしょう?」
「そうね。彼も娘なんかいないような素振りだったんじゃない?」
 闇村先輩は薄く笑みを浮かべて言ったけれど、私はその言葉にも首を横に振った。
 先輩は知らない。――彼もまた、孤独な人物だったということを。
「診療を重ねていくうちに、彼は私に対し、医師に対してとはまた別の感情を私に抱くようになったようでした。彼の言葉を借りれば、まるで本当の娘のようだ、と。私は医師として接していただけですが」
「……。」
「実の娘は――つまり闇村先輩のことですが、実の娘はいつしか自分をも越えてしまった、と。遠くに行ってしまったと、そう仰っていました。」
「……間違ってはいないわね。」
 闇村先輩はどこかばつの悪そうな様子で肩を竦めて見せる。
 構わず、更に話を続ける。
「彼は幾度か診察を拒みました。生きていても仕方がないと、仰って。そして私に、殺して欲しい、とも。」
「ごめんなさいね……バカな父親で……。」
 先輩は溜息を零しながらそう言って、「それで?」と促す。
 私は少しだけ先輩の姿に目を奪われた後、言葉を続けた。
「手術前に、言われたんです。――とても幸せそうに。今が一番幸せだから、と。」
 あの時の彼の目が、思い出された。
 笑みに細められたその目元は、先輩とよく似ていると思った。
 だから、だろうか。
 私は医師としてとは別の感情を、彼に対して抱いていた。
「ですから、手術中にミスを装って彼を殺めました。」
「……何故あの男の言うことなんか聞いたの?それで美雨が失うものだって量りきれないでしょう?」
 先輩は怪訝そうな表情で問う。確かにそれが正論だろう。
 けれど、私が本当に求めていたものは医師としての名声などではなかった。
「幸せそうだったんです。」
「……」
「ですが、彼の死だけでは、私が求めている真実の全てを理解することには程遠かった。……だから」
「殺した?あんなにも大勢の人を?」
 あの闇村先輩ですら、私の言っていることを理解出来ないようだった。
 私はそんなにおかしいことを口にしているのだろうか。
 私が求めている真実とは、そんなにも謎に満ちたものなのだろうか。
 きっと。私が殺めた人々は、その真実を理解したはずだ。
 綾女も、亜子も、紗悠里も。あんなにも幸せそうな表情で死んでいった。
「……美、雨?」
 神妙な面持ちで考え込んでいた闇村先輩は、ふっと表情を曇らせて、ぽつりと私の名を呼ぶ。
 彼女に目を向けると、先輩は暫し押し黙った後、ゆっくりと口を開いた。
「――貴女は、たったそれだけのことのために。あれほどの人を殺して、真実に近づこうとしたの?」
 何故、先輩はそんなことを言うのだろう。
 たった、それだけのこと?
 私の人生を懸けて、ずっと追い求めてきた真実だというのに。
 何故、彼女は……。

 その時、不意に。
 先輩が私に一歩近づいて、肩をぐっと掴まれた。

 パンッ――

 乾いた音が室内に響く。
 頬に走る鋭い痛み。

「いい加減にしなさい。」

 と。先輩は厳しい口調で言い、私を見つめる。
 悲しげな、瞳。

 ああ、あの頃と同じだ。
 何も知らない私が、知らずのうちに先輩を酷いことをした。
 それでも先輩は微笑んでくれた、けれど
 今回は、違う。

 先輩のこんな顔――
 見たことが、ない。





「……ッ」
 美雨の頬を打った手をきゅっと握り締め、言いようのない憤りに、私―――闇村真里―――は暫し美雨を見つめるだけだった。
 たったそれだけのことだったの?
 そんな簡単なことのために、あんな罪を犯したというの?
 美雨が求めている真実とは、――なんて、馬鹿げたものなの。
「私の父が望んだもの、そして美雨が殺めた人々に与えたものは、幸福な死だった。」
「……」
「そうなんでしょう?美雨の犯罪で被害者に抵抗の痕跡が見られないのは、貴女が被害者達に夢を見せたからで――非力な大学生でしかない美佳子の反撃なんかを受けてしまったのは、貴女が反撃というものを受けたことがなかったから油断していた。美佳子にも幸福な死を与えようとしたんでしょう?だけどそれが出来なかったのは、美佳子が既に私の物だったから!……そんなんじゃ天才とは言えないわよ」
 声を荒げて美雨に言いつけ、ふっと息を吐く。
 この子は、頭も良いし身体的にも非常に優れているけれど――
 一番大事なものが、抜け落ちている。
 感情や、人間として根本的な本能。
「――私を憎んでいたのは何故?あの時私を拒絶した理由は何?」
 幾分落ち着けた声で問い掛ければ、美雨は伏せていた視線をすっと上げた。
 あぁ、この子だって変わっていない。
 あの頃に見た、怯えるような瞳が、今私の目の前にある。
 美雨がこんな顔をするのは、きっと私の前でだけだ。
「先輩は、私を深い迷宮に堕とした。出口の見えない迷宮、に。――どうしてあんな想いをさせて、私を突き放したんですか……!」
「……っ」
 また美雨を責め立てたい衝動に駆られるけれど、ぐっと堪える。
 振り上げようとした手を、そっと美雨の肩に置いた。
「そんなに知りたいなら私に聞けば良かったのよ。……あの時と同じことをしてあげましょうか?」
「……私を、殺す?」
「そうなるでしょう?美雨が望んでいるのは幸福な死なんでしょ?なら私が殺してあげる。」
「違うッ……」
 美雨はかぶりを振って私の言葉を否定しながら、どさりと、その場に膝をついていた。
 バランスを崩したのか、ふっと私に凭れるようにして。
「違う、の?」
 私もその場にしゃがみ込み、美雨と視線を合わせて問いかけた。
 切れ長な綺麗な目を間近に見て、
 ――ふっと小さく笑みが零れる。
「あのねぇ美雨。貴女は私の前じゃないと、そんな顔出来ないでしょ?なのに何故私から離れたりしたの?」
 美雨は冷たい人間、かもしれない。
 だけど。
 それはただ、優しさというものを知らないからなのだ。
 彼女が氷のように冷たい表情を浮かべているのは、
 感情を表すということを知らないから。 
 私なら、美雨に感情というものを教えることが出来たのに、と。
 あの時私が美雨を離しさえしなければ。無理にでも食い止めておけば良かったのかもしれない。
 もう手遅れなのだろうか。美雨はあまりに多くの罪を犯しすぎた。
 けれど、今からでも、遅くはないのではないか。
「私は生きている、のに。……あの、幸せな、場所。……先輩にだけ満たされるのだと思って……私は」
 途切れ途切れに紡がれた言葉を聞いて、そうか、と、ようやく納得が出来た。
 美雨が求めていたもの。
 それは『幸福な死』ではなくて
 もっと純粋に『幸福』だった。

 頑なな少女は、私の恋人となっても、どこかで他人に怯えていた。
 私に心を許すことが出来なかった。
 だから美雨は、いつも不安げで。
 自分を守ろうとして、けれど私に惹かれていく心に戸惑っていた。 
 あの夜。
 私が美雨を殺そうとした、その時に。
 この子は初めて、私に心を許した。
 幸せを感じるタイミングとしては、最悪だけど、ね。

「貴女が求めている真実は、私なら与えることが出来る。」
 美雨の耳元で囁くと、美雨は不思議そうに瞳を揺らして私を見上げた。
 本ッ当に何も知らないんだから。……私が色々教えてあげなくちゃ。
「先輩、が……?どうやって……?」
 呟くように言う美雨の、唇。
 少しだけ見つめてから、そっと、不意打ちのキスを落とした。
「……?」
 美雨は相変わらず、キスぐらいで照れたりもしない。
 尚も不思議そうな美雨に、少し笑った。
「私はね、貴女のことを愛してる。昔からずーっとね。」
「……、……どうして?私は先輩に、酷いことをしてしまったんじゃ……?」
「そうねぇ。そんな残酷な美雨も、美雨だもの。」
「……」
 美雨はどこか戸惑うような表情を見せ、ぺたん、とその場に座り込む。
 美雨らしくない可愛い仕草にクスクスと笑いながら、その髪をそっと撫でた。
「どんな美雨でも良いの。私の気持ちはずっと変わらない。」
「……先輩に、愛してもらえることは……真実、ですか……?」
「その真実っていう言い方はやめて。貴女が求めている真実は、正しくは『幸せ』っていうのよ」
「幸せ……」
 美雨はぽつりと復唱した後、「はい」と小さく頷いた。
 「宜しい」と私も頷いて見せ、美雨の髪を撫で続けながら言葉を続ける。
「美雨がその幸せにたどり着くには、もう一つだけ条件がある。それは、美雨が私を愛するっていうこと。」
「……先輩を。」
「そ。難しそう?」
 美雨の顔を覗き込むようにして問うと、美雨は少しの間目を伏せて考え込み、やがておずおずと私を見上げて、小首を傾げて見せた。
「どうすれば、良いですか?」
「……うーん」
 その問いには少し困ってしまうけれど。
 首を傾げたままで私の答えを待っている美雨に、また小さく笑みが漏れていた。
 本当に可愛い。
 やっぱり私にはこの子しかいないし、この子にも私しかいない。
 二人でいれば、私達は『天才』ではなく、ただの『人間』でいられるから。
 誰にも邪魔はさせない。
「あの頃のように、私のそばにいればいいのよ。また私を好きになってくれる。……私を信じなさい。」
 美雨に一番大事なのは、一番最後に告げた言葉。
 それが一番難しいことなのかもしれないけどね。
 でもいつかは出来るはず。
「美雨が本当に私に心を許してくれた時に、貴女は幸せを知ることができる。」
 私はその時まで、ずっと美雨のそばにいよう。
 美雨に、少しずつ感情を教えていこう。
 この子が幸せを知る時まで。
 そして、私に笑みを見せてくれるまで。
「……先輩」
「うん?」
「私はきっと、――もう、先輩のことが好きなんです」
 美雨が告げた言葉は思いもよらぬことで、私は驚いてじっと美雨を見つめていた。
 美雨はやはりどこか躊躇いがちだけれど、そっと私の肩に手を置き、そして軽いくちづけをくれた。
 トクンと。
 もうずっと忘れていた感情が、彼女のキスで思い出されたような気がした。
 まるで少女のようなキス。
 美雨から伝えられた、純粋な想い。
 私、今―― すごくドキドキしてる。
「……み、さめ?」
 思わず声が上擦って、少し気恥ずかしくて。
 美雨は笑顔こそ見せなかったけれど、ふわりと、柔らかな表情を浮かべていた。
「闇村先輩。……私、」
 美雨が何かを告げようとする。
 けれど、戸惑うような様子を見せて。
 ゆっくりと美雨が言葉を紡ぐのを待っていようと彼女を見つめた、

 ―――けれど。

 ほんの一瞬。
 視界に入った『何か』に、私はふっと我に返った。
 見えたものが一体何だったのかまではわからない。
 ただ、言いようのない不安感が押し寄せた。

 私が美雨のそばにいる?
 だって美雨は、まだプロジェクトの参加者なのよ?
 美雨はまだ、優勝していない。

「……先輩と、」

 ぽつりと美雨が言葉を続け、視線を戻す。
 その瞬間、不意に――

 ――今まで感じたことのないような大きな殺意が
 どこからか放たれた。

「美雨!!!」

 私の声を掻き消した、銃声。
 美雨が顔を上げるその姿が、スローモーションのように見えた。

 キィンッ!!

 銃声が聞こえてから、金属が強くぶつかり合うような高い音が響くまでは、ほんの一瞬だった。

 ただ、その一瞬が
 長く長く、感じられた。

 金属の音の直後、
 私に降りかかった、赤い、血液。

 そんな……!!

「アハ。……はぁ、はァッ、……美雨さん……闇村さぁんッ……あたしのこと、捨てちゃやですよぉ……ねぇ、どっちかでいいですから……」

「葵……ッ」

 美雨はきゅっと眉を寄せながら、銃弾を放った人物の名を呼んだ。
 入り口のところで、銃を構えたまま肩を上下させている少女の姿。
 葵はその場にカツンと銃を投げ捨て、私達の方へと近づいて来る。
 泣きながら、笑って。

「あたしは闇村さんのペットだし……でも美雨さんのことも愛してます……ねぇお願い、捨てないで!!あたし、二人ともなくしちゃったら、もう満たされなく、なっちゃう……」

 葵は、異常な精神状態だった。
 武器もなく、ふらふらとこちらに歩み寄ってくる。
 それよりも、美雨のことが――

「先、輩。……やっぱり私、…あの頃の私とは、違うかもしれません。」

「美雨……?」

「――今はもう。人を殺すことに、何の抵抗もなくなってしまった。」

 美雨はぽつりと、自嘲的な言葉を吐いた。
 気付けば、腰元のホルダーから取り出した拳銃を握っていた。
 そしてそれを私に向け「邪魔しないで」と、呟く。――あの、冷たい表情で。
 やがてゆっくりと立ち上がると、葵の方へ身体を向けた。

 止めることが出来なかったのは、何故か。
 私が管理者であるから?銃で脅されていたから?
 違う。
 美雨の殺意に言葉が出なかった。

「美雨さん?……もしかしてさっきの攻撃、当たっちゃいましたぁ?」

 葵は足を止めると、きょとんとした表情を浮かべる。
 そしてふっと吐き出すような笑みを浮かべ、高らかに笑った。

「きゃはははは!じゃああたしのご主人様は、やっぱり闇村さんで――」

 葵が言い終えるよりも早く、

 パァンッ!

 と、銃声を響かせ、美雨が引き金を引いていた。
 そして葵はどさりとその場に崩れ落ちる。
 倒せ伏せてから、少しも動かなかった。
 たった一撃の、即死。

「――こ、れで……」

 美雨は私の方に振り向こうとした。
 けれど、ガクンとその場で膝をつき、崩れ落ちる。

「美雨……!」

 私は美雨に駆け寄って、そっとその身体を抱き寄せた。
 腹部からの出血が、彼女の白衣を真っ赤に染めていた。
 葵が放った銃弾が背後から一直線に貫通したのだろう。
 ――しかし、貫通したにも関わらず、私のところまでは届かなかった。

「はぁ、ッ……あんな不意打ちを……まともに、受けるなんて」
 美雨は苦しげに荒い息を繰り返しながら、そんな言葉を漏らす。
 美雨を楽な体勢にし、それから私は室内の監視カメラに向けて叫んだ。
「涼子!今すぐ救護班を呼びなさい!聞いてるんでしょう!?」
 言った後でふっと不安にもなる。
 涼子は美雨を憎んでいて、同時に私を想ってくれている。
 美雨を見殺しにするのでは、ないか、と。
 しかしそんな危惧は無用だった。
『――了解しました。直ちに要請します』
 放送用のスピーカーから簡潔な返答があり、すぐに放送はプツンッと切れる。
 安堵に一つ息をついた後、救護班が来るまでの応急処置をしなければと思い起こす。
 しかしこんな時に限って、今私がすべきことが思い当たらない。
 腹部を撃たれた時の応急処置って何よ…?!
「せん、ぱい?……ッ、……」
「美雨、喋ってはだめよ……」
 そっと美雨の肩を抱きながら、その場にゆっくりと寝かせた。
 美雨は一時目を閉じた後、また静かに目を開く。
「……先輩は、ずっと……私を想っていてくれたんですね……?」
「……、そうよ。」
 美雨の言葉を止めようとしたけれど、それもやめておいた。
 美雨は優秀な医師だ。自分の身体のことだってよくわかっているはずだから――。
「私は、きっと……」
 何かを言いかけては、痛みに眉を寄せ、ふっと唇を閉ざす。
 それでも美雨は何度も荒い息を繰り返し、また口を開いた。
「……貴女に出逢って、いなけれ、ば……。こんな、気持ちを、知らなかった……」
「どんな気持ち……?」
 小さく問うと、美雨は震える手を上げて、私の頬に触れた。
 冷たい美雨の指先が、私の頬を辿り、肩に掛かる。
「――……貴女、の、こと……」
 美雨の声が徐々に弱くなっていく。
 本当は言葉を紡げる状況などではないのに。
 それなのに美雨は懸命に、唇を動かした。
「……、ッ」
 私は。
 私は、美雨のことを愛しているのに。
 どうしてこんなにも役立たずで、彼女の言葉に耳を傾けることしか出来ないのだろう。
 溢れ出すのは、涙?
 ――私も、ずっと忘れていた、涙。
 頬を伝って落ちた時、美雨はまた手を上げて、私の頬に触れる。
 涙の後を辿るようにして、微かに触れ、ストンと美雨の手から力が抜けた。
「美雨!」
 遠くから救護班の足音が聞こえてくる。
 けれど、美雨は既に弱々しく、かろうじて生を続けているだけだ。
 もう――
「先、ぱ、い……」
「……美雨?」
 身体から力が抜けて、私に触れることも侭ならない。
 それでも、ぽつりと私を呼んで。
 私の姿を探すように視線を彷徨わせ、やがて目が合う。
 すると美雨はすっと目を細めて―――微かに、笑んだ。

 これが……美雨の、笑顔。
 ようやく見ることの出来た、美雨の笑顔。
 あぁ、なんて可愛いんだろう。
 なんて愛しいのだろう――。

「……先輩のこと、を……愛して、ま、す……」

 美雨は零すように、そう告げて
 そして静かに、目を閉じた。












プロジェクト 終了





結果報告








Next →

← Back
↑Back to Top