BATTLE ROYALE 36「望月さん、ちょっと待ってよぉーっ」 慌てたような声を耳にし、私―――望月真昼―――は振り向いた。見れば、両手いっぱいに食料を抱え、飲食室から出てくる律子さんの姿。 「そんなにたくさん持っていかなくても……」 思わず苦笑しながら、律子さんのそばへと戻る。私もお弁当や飲み物を袋に入れて抱えてはいるけれど、律子さんのように両手いっぱいには持っていない。 時刻は夕刻の六時過ぎほどか。私の部屋にいくらか蓄えていた食糧も、四人もいればすぐに尽きてしまった。そこで、私と律子さんが代表して飲食室に調達に来たわけなのだが、……なかなか迅速な行動とは行かなくて。 「だって、出来るだけ溜め込んどきたいしー……あぁッ落ちたぁっ!!」 手が塞がっている律子さんが肩で強引に飲食室の扉を閉じれば、その拍子で幾つかのペットボトル飲料がフロアに落ちる。私はそれを拾い上げて袋に入れながら、こっそり溜息を零した。律子さんって大人びた部分も確かにあるけれど、顔に似合って……というか。時折とんでもない行動も見せてくれる。 「そんなに持っていたら運ぶのも大変でしょう?いくつかは私が持ちますから。せめて前が見えるぐらいにして下さい。」 相手が年上だということはわかっているけれど、少しは厳しいことも言わないと。律子さんは「はぁーい」と間延びした返事をし、荷物の量を減らすべく飲食室へ戻っていく。その途中でまた幾つかのお菓子類が落ちたので、それも私の袋に入れながら。……って、お菓子なんて持って行かなくても良いのに。 少し重量の増した袋を持ち直しながら、飲食室の前で律子さんが戻ってくるのを待っていた。念のために警戒も忘れず、時折左右を見回して。一分ほど待っても律子さんが戻ってくる気配がないので、私は扉を少し開け、「律子さん?どうかしました?」と声を掛ける。すると「待って!チョコアイスと抹茶アイスで悩んでるの!」と、また気の抜けてしまいそうな答えが返って来た。 「……本当は十八歳で間違いないんじゃないかしら」 律子さんには聞こえないようにぽつりと零しつつ、扉を閉じて再度廊下を見回――…… 「……?」 今、廊下の向こうの曲がり角付近で何かが動いたような気がした。 ……気のせい、だろうか? 目を凝らしてみるけれど、向こう側の曲り角までは随分と距離がある。 緊張して、じっと廊下の向こうを見つめていたけれど、何の変哲もなく、誰かがいるような気配もない。 その時ようやく飲食室の扉が開いて、「お待たせー」と律子さんが出てきた。先ほどよりも食料は随分減っているが、代わりにアイスクリームの箱が二つほど増えている。結局チョコと抹茶と、両方持ってきたらしい。 「さ、行こっか!美咲と鏡子ちゃんが待ってるわっ」 律子さんは明るく言って、エスカレーターの方へと歩いて行く。先ほど何かが動いたような気がした曲り角の方とは逆の方向だったし、私は背後を気にしながらも律子さんについていった。 エスカレーターに乗っても尚、ちらちらと後ろに気を配っていると、律子さんが不思議そうな顔をする。 「どうかした?」 「あ……いえ。なんでもありません。」 少し迷ったものの、私はそう繕った。あまり余計な心配は掛けたくなかったのだ。 幸い、もう妙な影がちらつくこともなかったので、そのままエスカレーターを上がり、真っ直ぐに部屋に向かっていく。美咲さんと鏡子が待っている私の自室、6−Bがある六階まで無事に辿り着いた。 「ねぇ、望月さんってさ、管理人さんのペット……なのよね?」 エスカレーターを上りきったとき、不意に律子さんが切り出した。 「ええ、そうです。闇村さんには色々と良くして貰っています。」 と私が受け答えると、律子さんはじっと視線を向けた後、「そっか」と小さく頷いた。 「……でも、さ。幾ら良くしてもらってるからって、その人のために……なんていうの?この、殺し合いってやつにまで参加するってのは……どうなの?」 律子さんは今一つ腑に落ちない様子で、そんな問いを重ねる。 私は少し答えに困ってしまったが、やはりありのままを答えるべきだと思った。 「信じられないかもしれませんけど……私は、闇村さんに感謝してもしきれないほどの恩があるんです。どうやっても返しきれないほどの。だから私は、命を懸けてでも、そのご恩をお返ししたくって」 「命懸けの恩返し、ねぇ……」 やはり理解してもらえるものではないのだろう。闇村さんに仕える喜びとは、実際に彼女のペットにならないとわからないものなのかもしれない。 「でも――」 「あ!いっけない、早くしないとアイス溶けちゃうっつーの!」 私が言い掛けた言葉に気付かずに、律子さんはそんな声を上げて慌てたような仕草を見せた。彼女は足を速めるが、私はそのペースに合わせることはせずにのんびりと彼女の後を追った。部屋まではあとほんの少し、三十メートルも行けば到着する。この六階は廊下が緩やかなカーブを描いているので一旦は律子さんの姿が見えなくなるけれど、「早く開けてーアイス溶けちゃうのーっ」と明るい声は聞こえてきている。 飲み物類を多く入れすぎたからか、袋が重たくて手が痺れてきていた。一旦足を止め、「後一息」と呟きながら袋を持ち直した。 ―――カツン。 「お静かに。」 それは、――私の背後から、すぐ真後ろから聞こえてきた、聞き慣れぬ、声。 そして私の後頭部に当てられた、硬い感触。 振り向こうとしたが、まるで脅すように、カツン、と後頭部を小突かれる。 「両手を挙げて。あぁ、その荷物は適当に捨てといて下さいね。」 「……ッ」 おそらく後頭部に当てられているのは銃口、だろう。 下手に動けば即刻殺されかねない。 私は声に従って、どさりと荷物を下ろし、両手を挙げた。 「はい、よく出来ました。」 声の主はどこか軽い口調で言い、私が挙げている両手首を一括りにして強く握った。 刹那、 ――ガツン! と、強烈な痛みが後頭部に走り、ふっと意識が薄れていく。 まずい。 この、ままじゃ……―― 「望月さんならすぐに来ると…… あれ?望月さん?」 律子さんの声を遠くに聞きながら、 視界は暗転し、やがて私は意識を失った。 「望月さーん?」 はて……? あたし―――夕場律子―――の後ろからついてきていたはずの望月さん、別に大きな距離を空けたわけでもないから、すぐに追いつくはずだったのに。 アイスの箱を開けて喜んでいたあたしに、美咲が心配そうに「望月先生は?」と問いかけ、あたしはようやく望月さんのことを思い出していた。ちょっとばかり重たい荷物を押し付けてしまったし、休み休みで来ているんだろうかと軽く考えながら扉を開けて廊下を見るが、望月さんの姿はない。 「……」 一抹の不安を感じ、警戒しながら先ほど歩いてきた道を引き返す。 ほんの少しの距離、6−Bの扉を開けたところからはギリギリ死角に入る場所。 そこに、望月さんが持っていた荷物が無造作に置かれていた。いや、置かれていたというよりも、投げ捨てられたような感じだった。袋の中のお弁当がぶちまけられて、廊下に少し零れている。 辺りは張り詰めたような静寂。まるでずっと前から、このお弁当だけがこの場にぶちまけられていたような、そんな錯覚すら覚える。 「……どういう、こと……?」 その時になってようやく、あたしは事が尋常ではないことに気がついた。つい先ほどまで一緒だったのに。つい先ほどまでここにいたはずなのに。どうして望月さんの姿はここに、ないのか。 このお弁当や飲み物を手にしていたはずの人物が。何故今はその人物だけが掻き消え、お弁当と飲み物だけが残されているのか。 望月さんは、一体どこに消えたのか。 「ッ……!美咲!鏡子ちゃんッ……!」 あたしは慌てて部屋へと引き返し、あたしが持ってきた荷物を整頓していた二人に駆け寄る。 「な、なんで、望月さんいなくなっちゃ、った……よ?えぇ、なんでッ!?ねぇ、望月さんは……」 あたし自身心底混乱していて、ガシガシと頭を掻きながら二人にそんな報告を告げる。 きょとんとしていた二人は、数秒後にあたしの言うことを理解してくれた。 「いなく、なった?真昼様が……?!」 「どういうことなの……?」 「あ、あたしもわかんないよッ……だって、ほんのちょっと前にあたしの後、ついてきてて、荷物だってそこに落ちてるし……!!」 涙目になりながらまくしたてるあたしに、「落ち着いて」と美咲が小さく投げ掛ける。 時折顔を伏せて咳き込みながらも、険しい表情を覗かせ、美咲は冷静な言葉を紡ぐ。 「突然消えるなんてことはありえないの。望月先生は自分の意思でどこかに行ったか、或いは――誰かに攫われたか。」 「……そ、んな」 美咲の言葉でようやく冷静さを取り戻しながらも、それと同時にふつふつと湧き上がる自責の念。どうしてあたし、望月さんを置いてっちゃったの?なんで一人で先走ったりして……。 くっと眉を寄せて唇を噛んだ後、あたしは顔を挙げ、 「望月さんを探して来るから!二人はここで大人しく待っ」 「待ちなさい。」 と、部屋を出ようとしたあたしの腕を、美咲がガシッと掴む。 あたしは条件反射で振り払おうとしたけれど、美咲の真剣な眼差しに、ふっと力を抜いた。 「探しに行ってどうするつもり?まず、望月先生が自分の意思でどこかに行ったとすれば、何か意図があってのこと。すぐに戻ってくるはずよ。……それから考えたくはないけれど、攫われた場合。攫った人物が武器を持っていないわけもないし、私達の誰かが探しに来ることだって見込んでいるかもしれない。」 「……」 「つまり、犠牲者が増える可能性もあるということ。わかるでしょう?」 美咲の言うことは確かに道理には適っているのかもしれない。だけど、だからって納得出来るはずも、じっとしていることも出来ない。 「じゃあどうしたらいいのよ!!」 逆ギレなんて情けないけど、そうでもしないと不安感が拭いきれなかった。最悪の場合、あたしのせいで望月さんが死んじゃうことになるんじゃ―― 「……真昼様の身に、もし何かあったら……」 口を閉ざしたままだった鏡子ちゃんが、不意にぽつりと言葉を漏らす。 その直後、鏡子ちゃんは何かに突き動かされるように部屋を飛び出ようとした。 「待ち、なさいッ」 「待って!」 美咲とあたしと、ほぼ同時に鏡子ちゃんの両腕を掴み、なんとか食い止める。 鏡子ちゃんは尚もあたしたちを振り払おうと暴れるも、次第に息を切らせ、やがてストンと力を抜いた。 床に座り込み、瞳いっぱいに涙を溜めてきゅっと唇を閉じ合わせて。 誰よりも望月さんのことを想っている分、誰よりも望月さんが心配なのは鏡子ちゃんなんだ。 「……待つべき、ね。」 あたしは自分自身にも言い聞かせるように呟き、不安げに俯いている鏡子ちゃんの背中を軽く撫でた。 鏡子ちゃんは怯えている。心底大切な人を、失ってしまう恐怖。あたしだって突然美咲が姿を消したりなんかしたら、怖くておかしくなりそうだし、同時に無茶でも探しに行きたいと思うのだろう。鏡子ちゃんの気持ちを汲んであげなくてはならない。 ―――だけど。 心の奥底で、鏡子ちゃんとは別の恐怖を感じているあたしがいる。 『あの人は盲目的に闇村さんを愛している。……それだけは気をつけて』 『だから私は、命を懸けてでも、そのご恩をお返ししたくって』 望月さんがあたしたちを裏切る可能性。 管理人の命令で、あたしたちを殺そうとする可能性。 ……否定は、出来ない。 カツンッ、と、気を失っている女の額に銃口を突きつける。 何度かカツカツとやっているうちに、女は僅かに眉を顰め、やがてゆっくりと目を開けた。 二十代後半といった所だろうか、大人びた聡明そうな女性。あっさり殺しても良かったのだが、この女には、何人かの仲間がいるらしい。とすれば、利用価値がありそうなので、こうして生かしておいている。 「……貴女は……?」 女は私―――茂木螢子―――を見上げ、険しい顔で問いかける。 その額に、またカツンッと銃口を突きつけた。 「綺麗なお姉さんに、そんな顔は似合いませんよ?私は好きですけどね、その顔。……怖いですか?」 「……。ここは、どこなの……?」 女は敢えて私の言葉を無視し、別の問いを投げ掛ける。こういう態度はあんまり好きじゃない。カチッと安全装置を外してやれば、女は僅かに怯えの色を見せた。 「6−A。深雪さんっていう人の部屋だった個室です。それから、私は茂木螢子って言います。お姉さんの名前も聞いていいですか?」 「……望月真昼。……私をどうするつもり?」 カツン。カツン。 真昼お姉さん。深雪さんとは全く違うタイプのお姉さんだ。 彼女の両手を後ろ手で括って自由を奪い、床に座らせている。私はそれに向かい合うように、椅子に腰掛けて彼女を見下ろす。なかなかに壮観だ。 「どうしましょうかねぇ。このまま引き金を引いちゃってもいいんですけど。これ、散弾銃ですよ。身体中に穴が空いて、血が噴き出します。この近距離じゃ痛いでしょうね。っていうか、即死ですね?」 「……。」 私の脅しの言葉にも、真昼さんは屈することがない。怯えるように目を伏せるけれど、きゅっと口を閉ざしたまま、命乞いの言葉を漏らすわけでもなく。こういう態度を取られると軽く痛めつけたくなるのだけれど、今はそうするわけにはいかない理由があった。 「殺しませんよ。……貴女には利用価値がありますからね。」 「利用価値ですって……?」 「はい。飲食室から出てくるところから、しっかり見せて頂きました。一緒にいた女は夕場律子、でしたよね。二人連れなら一緒に殺せば良かったんですけど、どうやら他にも仲間がいるようですね?」 「……! 待って、他の子達には手を出さないで!」 私の言葉に、真昼さんはころっと態度を変えた。なるほど、彼女の弱点は仲間にあり、か。しかし逆に仲間意識が強すぎると、自分を犠牲にしてでも仲間を守ろうとする、そんな人間も極稀に存在する。この人がそういうタイプじゃなかったら使えるんだけど。 「どうしよっかなー……真昼さんを囮にして、仲間達をおびき寄せるのが一番ありきたりな手段ですよね。広く使われている分、有効な手段とも言えますけど。どうでしょう?」 「だめよ……お願いだからそんなことは……」 「じゃあ真昼さんだけ殺しましょうか?別にそれでもいいんですよ。他のお仲間さんたちは、別の機会に狙えば良い話ですからね?」 「……そ、れは…」 真昼さんがふっと見せる弱い表情。――そう、これこそが人間の本質だ。 所詮、他人より自分の命の方が大切に決まっている。 どうせこの人だって、窮地に追い込まれれば仲間を捨てるんだろう。中途半端に仲間意識を持っていたって、こんな戦場じゃ役に立たないということぐらい少し考えればわかることなのに。 「では、貴女に選択肢を与えましょう。」 銃口は真昼さんに向けたままそんな提案をした。否、実際は提案のような命令だ。 私は笑みを浮かべ、「一つ」、と人差し指を立てて見せた。 「真昼さんがこの場で死んで、他の仲間には手を出さない。」 「……。」 「二つ。真昼さんを囮にして仲間をおびき寄せ、私が仲間達を殺す。私は真昼さんを殺さない。」 「……だめ、よ。」 真昼さんは小さく呟きながら、ゆるりと首を横に振る。 けれど次に与えられる選択肢を聞いても、それがだめだなんて言っていられるのだろうか。 私は笑みを深め、三本の指を立てて見せた。 「三つ。私の代わりに、真昼さんが他の仲間を殺す。私は真昼さんを殺さない。」 「……え?」 「選択肢は以上です。個人的には三番目がお薦めです。私が手を汚さなくて済みますからねぇ」 余りにも偏った選択肢だと、我ながら笑ってしまう。 当然といえば当然だ。既にこの女、望月真昼は私の手中にある。 この女の存在意義は、私の道具という形でしかないのだから。 カツン、カツン。女の額に銃口をぶつけているうちに、その額は赤くなっていた。痛々しい、と思いながら、尚もカツカツと小突き続ける。彼女が何れかの選択肢を選ぶまで、このリズムは止まらない。 「さぁどうしますか?あんまり悩み続けてると、強制的に一番になりますけど。」 「酷いわ……」 「ですよねぇ、本当にひっどいですよねぇ。でもちゃんと選んで下さいね」 クスクスと笑いながらそう言うと、真昼さんはキッと鋭い眼差しを私に向ける。 あぁ、これだ。私に向けられる憎しみの眼差し。 ぞくぞくするほどに、気持ちいい。 「どうするんですかぁ?あ、もしかして一番です?」 カツッ、と今まで以上に強く銃口で額を叩くと、真昼さんは僅かに身体を震わせ、俯いた。 そろそろ結論が出る頃か。彼女だって強制的に一番にされてしまうわけにはいかないだろうから。 黙って彼女を見つめていると、彼女は顔を伏せたまま、何事かを呟いた。 「……番、……」 「聞こえません。はっきり言って下さい。」 銃口を額に押し付け、強引に顔を上げさせる。 真昼さんはその瞳に涙を溜め、悔しげに私を睨みつけながら、言った。 「三番よ。私があの子達を殺す。それでいいでしょう?」 「……へぇ?」 意外な答えに感心する。この選択肢を投げ掛けられれば、普通は二番と答えるものなのに。 自分の命は惜しいけれど、私のような悪人に仲間を殺させるのも抵抗がある、といったところだろうか。 或いは―――何らかの算段があるのかもしれない。仲間と一緒になってしまえば怖くない、だとか、仲間に武器を持っている者がいて、それで私に抗うつもりか。まぁどうだって良い。 私の予定はこうだ。真昼さんを仲間達のいる部屋に送り込む。彼女だって、扉を開いて早々に仲間を殺すことはないだろう、一旦は室内に足を踏み入れる。そして私はずっと、扉を見張っておく。 後は真昼さんが室内で仲間を殺そうが殺すまいが、最終的にはその扉から出てくる全員を殺す、ということになる。真昼さんだってもちろん殺す。これは卑怯でも何でもない。私なりの戦術だ。 三番を推奨したのも私だが、正直なところこの方法で行くと持久戦に持ち込まれる場合がある。真昼さんたちが室内に立てこもってしまえば、私は彼女達が食べ物を失うか禁止エリアになるかで部屋を出なければならなくなるまで、延々と待ち続けなければならないわけだ。そうなると非常に面倒だが―― 「……茂木さん。」 「はい、何か?」 「私が皆を殺しさえすれば、私は生かしておいてくれるんですね?」 「……ええ。もちろん。」 確認するような問い、真昼さんの瞳に宿るどこか冷たい光。 それは私の心配を無駄にさせると言わんばかりの、狂気じみた瞳だった。 「――いいでしょう。実行します。」 潔い言葉に、私は笑みを浮かべて頷いた。 もしかしたら、この女、使えるのかもしれない。 とりあえずは女の様子を見守りながら、健闘を祈ってみよう。 ずっしりとした重量感のある銃を手に、廊下を歩く。中型の銃は、先ほど突きつけられていた散弾銃よりは威力は劣るだろう。しかしこの銃の口径からして、殺傷能力は十二分にあるはずだ。 間もなく、6−Bへ到着する。 律子さんや美咲さんや鏡子が待っているはずの、私―――望月真昼―――の個室。 茂木螢子。まさかあんなことを私に課するとは思いもしなかった。 今も彼女は私の後ろで銃を構えていることだろう。下手な動きを見せれば即刻撃ち殺すと、しっかり忠告を受けた上でこの銃を彼女から預かった。そう。この銃は茂木螢子を殺すためではなく、あの三人を殺めるためにあるのだから。 廊下の道中、一時間ほど前に私が抱えていた荷物が放置されていた。 たった一時間前までは、私は彼女達の仲間の一人であり、他愛のない話をしていたというのに。 今じゃこんな銃を手にして、三人のもとに向かっているだなんて。 やがて6−Bのプレートが掛かった扉の前に到着する。室内からは目立つ物音は聞こえない。 私は一つ息を吸い込んだ後で、コンコン、と扉をノックした。 「は、はい!?」 すぐに返って来た慌しい返答、裏返った声は、律子さんのものか。 「真昼です。……あの、突然姿を消してしまって、ごめんなさい」 「望月さん!無事だったのね、良かった……。」 カチャ、と音がして扉が開く――かと思ったが、扉は閉じたままだった。 私の個室だから私がドアノブを回しても扉は開くのだが、ここは向こうの様子を見る。 少しの沈黙の後で、 「……今まで何してたの?どこに行ってたの?」 と、心持ち低めのトーンで律子さんが掛ける問い。 確かに、突然姿を消し、しかもひょっこり戻って来たのだから怪しんで当然のことなのかもしれない。 「ええ、実は先ほど律子さんの後を追って廊下を歩いていた時に……“闇村さん”に声を掛けられたんです。偶然通りかかったと仰られて。それで別室に移動して、色々と話し込んでしまいました。一言残して行けば良かったですね。」 嘘を吐いた。ここで本当のことを言ってしまえば、律子さんが扉を開けないのは明らかだ。 扉の向こうで微かな話し声が聞こえる。しかし、それは扉の向こうの人物同士が交わすものであり、ここからではその内容までも聞き取ることは不可能だった。 扉の向こうで交わされる相談は、思いの外長引いた。一分程、扉は沈黙を守るだけ。私は疑われるようなことは言っていないはずなのに。 何か疑う要素があったのだろうかと、眉を顰めていたときだった。 「ま、昼、様ッ!!」 そんな声が聞こえたと同時に、ガチャガチャと荒々しくドアノブが捻られ、扉が少しだけ開く。 「待ちなさいッ、鏡子ちゃッ……」 律子さんは鏡子を制止する声を上げる。――つまり扉を開けることを躊躇っていたのは律子さんで、扉を開けたのが鏡子ということか。僅かに開いた扉の隙間から、律子さんと目が合った。 「望月さ……その、銃は……」 「あ、これですか?実は闇村さんに頂いたんです。死亡した参加者が持っていたものらしいです。私達、武器が頼りなかったでしょう?だから、この銃ならずっと心強いと思って」 「――……」 ほんの一秒ほど、律子さんは悲しげな色を湛えた瞳で私を見つめた。 直後、バンッ、と大きな音を立てて扉は閉じた。 「ごめん。ごめんなさい。あたしは怖いの。」 扉の向こうから聞こえてくる、そんな声。私は銃を握り直しながら、ちらりと廊下の向こうに目を向ける。 螢子さんの姿が見えた。照準を定めたまま、ずっと銃口をこちらに向けていた。 「私が……裏切る、と?」 律子さんが抱いている疑心には気付いていた。彼女はどこかで私に怯えていた。私が裏切ることも想定していた。彼女の見せる笑みに翳りが見えたのはそんな心因があったからだ。 「ありえないとは思うわよ?望月さんっていい人だと、思う、し……でもさ、やっぱ怖いのッ……そんな銃見せられたり、管理人さんと仲良かったり、そういうのって……!」 「……」 悲しげな声の向こうで、「真昼様」と、私の名を呼ぶ声が聞こえる。 鏡子だけは私を信じて疑わないのだろう。あの子だけは、盲目的なまでに、私を信じてくれている。 私が今、しようとしていることは、裏切りに値するのだろうか。 いっそ、私だけが螢子さんに殺されてしまえば、それが一番誠実な行動と言えるのだろうか。 だけど彼女はきっと、私を殺した後で他の三人だって殺す気だ。 それならば――…… 「律子さん。貴女とは、わかりあえないのかもしれませんね。残念、ですけど……」 「ごめん……」 「謝らなくてもいいんですよ。この殺し合いの場で、つい昨日会ったばかりの人を信じることが出来ないのは当然です。……ですから、鏡子だけ……返して下さい」 「鏡子ちゃんを……?それからどうするつもり?」 「わかり、ませんけど……今までと同じです。私は鏡子と一緒に、これからのことを考えます。」 感情を押し殺した声でそう告げると、扉の向こうは、少しの間沈黙した。 いや、鏡子だけは私を求めるように、何度も名を呼んでくれた。 愛しい声。 真昼様、と、あの子に呼ばれることが、私の幸せでもあった。 鏡子も幸せそうな笑顔で、何度も何度も繰り返し呼んでくれた。 このまま時が止まってしまえばいいと、何度思ったことだろう。 だけど残酷に、時は流れ、今はこんなにも辛い状態に陥ってしまった。 「望月さん。」 律子さんに名を呼ばれ、応えようとしたけれど、声が上擦ってしまいそうで、言葉を止めた。 きゅっと唇を閉じ、彼女の言葉を耳にする。 「鏡子ちゃんのこと、守ってあげて、ね?……この子、本気で望月さんのこと、想ってるし……酷いこと、しないであげてね?」 「……もちろんです」 一つ頷き返す。そんなこと、律子さんに言われなくたってわかっている。 鏡子が私を想ってくれていることはよく知っているし、私だって鏡子のことを心底愛している。 きっと今から、律子さんは扉を開ける。鏡子だけを廊下に出して、またすぐに扉を閉じるのだろう。 螢子さんの命令には従えなくなってしまう、けれど。 これでいい。……もう、こうすることしか、思いつかない。 「真昼様……」 今まで、一体何があったのだろうと、時折不思議な気持ちになる。 それは、私―――水鳥鏡子―――がお人形という存在であり、自分の意思で動くことが出来なかった証拠とも言えるだろう。全ては虚ろな意識の中で見えていたのに、自分の意思で動くことが出来たのは時々で、ほとんどは真昼様のためのお人形として動いていた。 だけど、今は。 扉の向こうに真昼様がいらっしゃる、それなのに、私は自分の意思で動いている。 自分の意思で、真昼様の名を呼んでいる。 「……鏡子ちゃん、本当にいいのね?」 律子さんが確かめるように私にそう投げ掛ける。こくんと一つ頷いて、私は笑みを見せた。 「私は真昼様と共にありたいんです。……もう私には、真昼様しかいないんです。」 「望月さんは……」 律子さんは何かを言いかけるけれど、私がぶんぶんと首を横に振ると、口を噤んだ。 心配そうな表情を浮かべる律子さん。彼女は真昼様のことを信頼していない、それは先日美咲さんと交わしていた小声の会話でも明らかになったことだ。真昼様はあんなにも優しい方なのに、どうして理解してくれないんだろうと、少し悲しくもなるけれど。律子さんの気持ちを変えるほどの説得力は、私は持ち合わせていなかった。だから、私は真昼様の仰るように、真昼様のお人形として存在しよう。 また、真昼様を煩わせてしまうだろうか。悲しい顔にさせてしまうだろうか。 でも、私は――真昼様のそばに、いたい。 「わかったわ。じゃあここでお別れね。気をつけてね?お願いだから、無事でいてね……?」 律子さんだって私のことを心配してくれて、その気持ちはすごく嬉しいものだ。 真昼様が以前に言ったくれた通りだった。真昼様以外にも、こうして私のそばにいてくれる人がいたということ。それだけでも、私は孤独ではないのだと安堵できる。だけどもう、私は真昼様に依存しすぎていた。 「お二人とも、本当にありがとうございました。どうかご無事で。」 私は二人に深く頭を下げ、それから扉に手を掛けた。 律子さんも美咲さんも、どこか複雑そうな表情で私を見送る。 もう一度だけ頭を下げ、そして静かにドアノブを回した。 カチャ、と小さな音がして、扉が開く。扉を開けてすぐ、目に映る愛しい人の姿。 私は身を滑らせるようにして廊下に出ると、そのまま後ろ手にぱたんと扉を閉じた。 「鏡子、ごめんね……。折角、貴女の仲間になってくれる二人に出会うことが出来たのに。」 真昼様は弱い笑みを見せた後、銃を握っていない方の手を、私の肩に伸ばす。 私はまた真昼様の前で言葉を失ってしまうのだろうかと、不安だったけれど。微かに唇を開くと、「ぁ…」と、小さく声が出た。私の意思によって漏れた声。――あぁ、今は、私は……お人形、では、ない? 「真昼様……真昼様ッ……いいんです、私は、真昼様のそばにいられればそれで十分です。お願いだから、ずっと、ずっとそばにいてくださいッ……」 そうして言葉を紡ぐ私に、真昼様は少しだけ驚いたような表情を見せた後、ふっとやわらかな笑みを浮かべてくれた。彼女の笑顔、見ているだけで、胸がいっぱいになる。 「鏡子。貴女の、望みを。」 「望み……?」 真昼様がぽつりと零した言葉、聞き返したけれど、真昼様はどこか悲しげな笑みを浮かべるだけだった。 不意に、彼女の唇が私の唇に触れていた。 突然のくちづけに驚いた、けれど、目を閉じて私に触れる彼女の姿を少し目に止めて、それから私も目を閉じた。触れた体温から、彼女の想いが流れ込んでくるようだった。 惜しむように、ずっと触れ合わせたままのキスは、まるで最後のくちづけのように感じられた。 やがて顔を離すと、真昼様の頬に一筋の涙が伝っていることに気がついた。 「真昼様……?」 そっと彼女の頬に手を伸ばし、指先で涙を拭う。 真昼様は笑みを浮かべてみせるけれど、その笑みはどこか悲しげで。 どうしてそんな顔をするのだろうかと、不安だった。 「鏡子……ごめんなさい。私にはもう、貴女を守ることが、出来ないのよ。」 「……」 ――そっか。 彼女が悲しげな表情を浮かべている理由も、彼女が銃を手にしている理由も、なにもかもが その一言で、飲み込めた。 真昼様は 私を、殺すつもり、なんだ。 「鏡子、いずれ私は死ななくてはならない。だけどもし、貴女が生きたいと願うならば、今すぐ律子さんたちのところに戻りなさい。そしてあの二人に告げて……私達の命を狙っている者がいる、と。」 「……」 真昼様が私に与えた選択肢。 真昼様と共に死を選ぶか、或いは、私だけが生き残るのか。 そんなの。 悩むまでもなく、答えは見えていた。 「戻れません。私はもう、真昼様のそばにいると決めたんです。だから……」 「いいの……?鏡子……本当にそれで……?」 「いいんです!真昼様を失うなんて、私には考えられ、ないっ……お願いです、私を突き放さないで……」 「……」 微かに動悸が速まっていた。 真昼様の真摯な表情や、悲しげな眼差し。 間もなく、彼女は私に向けて、その引き金を引くのだろう。 死にたくない、なんて、そんな思いがないわけではない、けれど。 それ以上に、真昼様を失うことこそが何よりの恐怖。 それならば、真昼様と共に死を選ぶ方が良いに決まっている。 怖い。怖いけれど――ッ!! 「真昼様……真昼様ッ……ぅ、……私を、一人にしないで……」 溢れ出す涙を堪えようとしても、侭ならない。 彼女の笑みも、ぬくもりも、なにもかも、失ってしまうのだろうかと、そんな恐怖が膨れ上がる。 そんな私に、真昼様はもう一度、ふっと触れるようなキスをくれた。 「鏡子、怖がらないで……ずっと、ずっと一緒になれるの……貴女を一人にはしない。」 真昼様が、私に向けてくれる、笑顔。 私だけのために、笑ってくれる。 優しげで、あたたかくて、愛おしくて。 私は――真昼様に、満たされて、死ねるんだ。 「……はい。」 彼女に笑みを返したら、その途端、私の中で膨れ上がっていた恐怖が消えた。 そうだ。恐れることなんて何もなかったんだ。 これでようやく、私は真昼様と永遠に一緒になれるんだもの。 全ての苦しみや悲しみから解き放たれて、真昼様と一緒に、なれるんだ―― 「すぐに後を追うわ。……これからは、ずっと一緒ね。」 真昼様は涙を流しながら、微笑んだ。 そして手にしていた銃を私に向け、引き金に指を掛ける。 真正面に、銃口と、そして真昼様の姿。 全てを焼き付けて、私は静かに目を閉じた。 今まであったいろんなことが、頭を巡る。 走馬灯、というもの、だろうか。 だけど私の綺麗な記憶の中には、真昼様しか見えなかった。 ひだまりのような温かい記憶。 生きてきて、良かったと、初めて思った瞬間だった。 ドンッ ―――…… 命の音が、消えていく。 愛しい人の姿も、何もかも 光に包まれて、消えていく。 赤い血が、一面に飛び散った。 無機質な壁、冷たい廊下、扉、天井、そして私―――望月真昼―――にも。 「……鏡、子」 ほんの一瞬の出来事。 私が引き金を引いた。そして鏡子の身体から血が噴き出した。―――ほんの、一瞬。 発砲の衝撃で、私はその場に尻餅をついていた。 目の前には、フロアに崩れ落ちた鏡子の姿。 安らかな表情、閉じられたままの目、そして胸元から血液と、微かな煙と。 つい数秒前には存在しなかった情景が、私の目の前に広がっていた。 私が 引き金を引いて 鏡子を、撃って ……殺した。 廊下の向こうに目を向けると、銃を下ろし、こちらへ目を向けている螢子さんの姿。 彼女の表情までは見えない、けれど 少しの間、じっと螢子さんの方を見ていると その銃で、室内に促すように示して見せた。 程なくして、扉の向こうで慌しい声音が聞こえてくる。 「望月、さん……?鏡子ちゃん……!!!」 銃声が聞こえたからか、動揺した様子が窺える。 ガチャ、と扉を開こうとしたのだろうか。音が聞こえたとほぼ同時に、私は叫んだ。 「開けないで、殺されるわ!狙われているのよ、出てきたら殺される!!」 「え…!?」 私の声を聞いてか、扉を開けようとしていた音は止まった。 今の声は螢子さんにも聞こえていただろう。今一度廊下の向こうに目を遣ると、私を見据え、真っ直ぐに銃を構えた螢子さんの姿があった。今にも殺さんばかりの体勢だ。 「螢子さん」 床に手をつくと、ぬるりと、生ぬるい血に手が浸る。 構わずに、そのまま立ち上がり、手にしていた銃を上げた。 そしてその銃口を、自らの心臓部に当ててみせる。 「ごめんなさい。律子さんと美咲さんを殺すことは出来ないわ。……鏡子と二人で逝かせて下さい。」 引き金に指を掛けて。 これを引いてしまえば、全てが終わる。 私は死んで。 鏡子の後を、追うことが、出来る――? 「一人殺しただけでも上出来でしょう。残りは私が片付けるからいいですよ。」 螢子さんは離れた場所から、そんな軽い言葉を投げ掛ける。 彼女は人が一人死んだところで、何とも思わないような、残酷な人なのね。 私が死んだって彼女はきっと何とも思わずに、次は美咲さんと律子さんをどうやって殺めるか、そんな算段を立てるのね。 あまりに残酷な未来が見え、ふっと、引き金に掛けた手に躊躇いが生じる。 自分のことだけ考えてしまえば、このまま、引き金を引くのが一番楽なはずなのに。 今、こうして生きている。その一秒、一瞬が私にとっては苦痛だった。 血の香に満ちた場所で、愛しい人の亡き骸のそばにいる、そんな今が、どんなに辛いものか。 だけど同時に、目の前にいる残酷な人間に対する殺意のようなものが湧き上がる。 「……律子さん。聞こえますか。」 ゆるりと、足元の鏡子の亡き骸に目を向けながら、私はぽつりと投げ掛けた。 螢子さんはまだ遠く。私の声は聞こえない距離にいるはずだ。 「聞こえるわ」 「いいですか。貴女達の命を狙っているのは茂木螢子という、血も涙もないような女です。彼女は律子さんたちも殺そうとしています」 「……螢子?……螢子ちゃんが?」 律子さんは螢子さんのことを知っているようだった。信じられないような声色で返された言葉からは、螢子さんは律子さんの前では、あの残酷な姿を見せなかったのだということが推測できる。 「律子さんの前で見せた螢子さんという姿は、恐らくは偽り。彼女は残酷な人です。今も、私の姿を見張っている。下手な動きを見せれば、即刻私を殺すことでしょう。」 「……そんな……ッ、どうしたら……!」 焦ったような律子さんの声。つられて焦燥感に駆られるけれど、私は深く息を吸い込み、気を落ち着ける。 鏡子の後を追うのは――……律子さんと美咲さんに、恩返しをしてからだ。 「私が開けてと言ったら……扉を開けて下さい。開けるだけですよ。この銃を貴女達に渡します」 「でも、そしたら望月さんは!!」 「……いいですね?」 愚問の相手をしている場合ではないのだ。いかに犠牲を減らすか、それが今一番大事なこと。 私は、私はどっちにしても、……死ぬこと、に、なるのだから。 銃口を身体に押し付けたまま、私は大きく空気を吸い込んだ。 いつからだろう。 闇村さんに与えられる快楽や、彼女に対する想いの影に、絶望感が潜むようになったのは。 あんなにも愛していた。彼女しか見えなかった。――そんな現実に、恐怖するようになったのは。 与えられ続け、私は何らかの形で恩返しをしなくてはならないと考えていた。 そんな時、闇村さんは私に命じた。このプロジェクトへの参戦を。 ずっと会いたかった妹の朔夜と再会し、闇村さんのそばに置いて頂いて、幸せだったはずなのに。 彼女は、このプロジェクトへと私を放った。 そして私は、ようやく気付いたの。 闇村さんが見せていた夢。快楽や、或いは、偽りの愛。 私はその中に溺れて、もう戻れなくなっていた。 帰る場所を失い、築いた過去は掻き消された。 気付けば私は、欲望と渇望に塗れた今という、無限回廊に立たされていた。 闇村さんは与えたのではなく―――全てを、奪っていったのだ。 だけどそんな闇の中で、たった一つの光があった。 鏡子という少女に出会い、私は彼女を愛していった。 これが終局。 私にとっては、最後の出口。 私はこの回廊で光を見つけた。 死を持って手にすることが出来る、光を。 「……鏡子」 銃を握っている手を緩め、ぽつりと名を呼びかける。 もう、その名を呼ばれて応える人は、いないけれど。 すぐに追いかけると言ったのに、ごめんね、こんなにも待たせてしまって。 でも、もうすぐよ。 貴女の光で、私を、照らして。 「開けて下さい」 静かに告げると、程なくして、扉がすっと開いていった。 私は、手にしていた銃を、律子さんたちに投げようと―― 「ッ!!」 銃が私の手を離れ、宙へと投げ出されたその時、 連続した銃声が聞こえたとほぼ同時に 幾つもの銃弾が私の身体を貫いた。 これが最後。 これで、私は 光の中に、解放、されるの……―― 「ぁ…ああッ……、……望月さん……」 律子が驚愕の声を上げる傍らで、私―――穂村美咲―――は扉の向こうに広がった凄惨な現場を目にしていた。散った血液、穴が開いて、臓器すら覗く二つの亡き骸。 ゾクン、と 体中の細胞が、騒ぎ出すような感覚。 律子が二人の亡き骸に駆け寄ろうとしたので、私は律子の腕を取って引きとめた。 血だまりを滑って扉のすぐそばに転がった銃を拾い上げ、尚も反抗する律子を室内にドンッと押し倒した後で、私は扉を閉じ、その場に座り込む。 「なんで……なんでこんなことに!!」 律子は床に座り込み、何度もその拳で床を殴りつけた。 憤り、悲しみ、憎しみ――様々な感情を、律子が放つ。 私の手の中の銃、赤く濡れた、凶器。 余りにも醜い情景が、瞼に張り付いているようだった。 ゾクン。ゾクン。 鳥肌が立って、我をも無くしそうな程、異常な状態に近づいていく。 まずい。 「律子……、律子……」 銃をその場に落として、私は覚束ない足取りで律子のそばへと歩み寄る。 律子は涙を流しながら私を見上げ、またくしゃりと表情を曇らせた。 「ッ……」 どさり、と、律子に凭れるように、身体から力を抜いて。 律子の肩に額をつけ、くぐもった息を漏らす。 「酷いわよ、こんなことって……!!どうして……どうして望月さんも、鏡子ちゃんも……」 抑え切れない感情を、律子はまとまらない幾つもの言葉にして吐き出しては、ドンッと音を立てて床を叩く。 律子の気持ちだって理解出来ないわけではない。 望月先生は私にとっては恩師とも言える存在で、鏡子さんだってほんの一晩一緒に過ごしただけの仲ではあるけれど、えも言えぬ親近感を抱いていた。そんな二人がたった今、命を絶ったということは、受け止めるには辛すぎる事実。 それなのに、何故だろう、心の奥底で冷たい私が顔を出す。 ここは戦場だ。人が死ぬことは、当然のことなのだ、と。 今は死を悼むことよりも、他にすべきことがあるのだ、と。 「律子……」 そばにいる恋人の名を呼ぶ自分自身の声すらも、遠くの喧騒の中の微かな呟きのようにしか聞こえない。 頭痛、耳鳴り、嘔吐感、そんな様々な症状に襲われ、声を上げることすらも苦痛に感じられた。 少し顔を上げるけれど、何故だか焦点が合わず、なにもかもがぼやけて見えている。 「……大、丈夫?美咲?」 ようやく私の状態にも気付いてくれたのだろう。律子は心配そうな声で私の名を呼び、そっと私の身体を抱いた。律子の温もりに包まれているはずなのに、酷く寒くて震えている。 最悪のコンディション。だけど、回復するまで待つほどの余裕はない。 扉の向こうにいる、凶悪な殺人者の存在感。それがひしひしと私の身に打ち付けている。 「……ハ、ぁッ……律子……、離して……」 「え……?」 切れ切れの息でそう訴えれば、律子は戸惑うような声を上げた後、私の身体を抱いていた腕を緩めた。 フロアに手をつき、何度も荒い息を繰り返した後、鉛のような重みを感じながらも身体を起こす。 二本の足を地につけているはず、なのに、妙な浮遊感で上手く歩くことも出来ない。 「美咲、危ないッ!」 ふらりとバランスを崩す私を、律子が支えてくれた。 肩に律子の手の感触を感じ、ゆっくりと顔を上げる。覗き込むようにして私を見つめる律子、だけどその顔が幾度かぶれてしまうので、一旦目を瞑って瞼の裏の闇を見た後、再度目を開けた。 「醜いもので溢れている……私を、蝕んでいく……」 ふっと焦点が合った時、律子の眼差しが綺麗に見えた。 光を湛えた律子の瞳、いつ見ても美しいと、少しだけ笑む。 「なら無理しちゃだめよ……じっとしてなさい。」 律子はどこか厳しい口調で言いつける、しかし私はその言葉に頷くわけにはいかなかった。 私を支えるように肩に添えられた律子の手に、自らの手を重ねる。 何度も触れた。指先が覚えている、律子の温度。 その姿も、その言葉も、彼女に滲む全てが、美しい。 彼女に触れて、彼女をこの目に留めていると、次第に身体に起こっていた異常が治まっていく。 「……大丈夫よ。」 身体の向きを変え、律子と向き合った。心配そうな眼差しに、一つの笑みを向けて。 律子の小さな身体を抱き寄せ、強く抱きしめる。 律子は不思議そうに、「美咲?」と小さく私の名を呼んだ。 「あのね、律子。今更言うべきことではないかもしれないけど、私は貴女のことが、大好きよ。」 「…うん……?そんなの、あたしだって大好き、だよ……?」 「……ありがとう。律子と恋人になれて良かった。」 「……」 律子は少し顔を上げ、不安げに私を見上げていた。 そんな律子の前髪をくしゃりと撫ぜた後、その頭を抱いて、額を律子の頭に乗せる。 「律子は本当に綺麗……貴女みたいに美しい人は、他にいない。」 「そんなの美咲に言われると嘘に聞こえるし……」 「顔の問題じゃないのよ?……心が、綺麗。」 そう言い直したら、律子は少しだけ笑って、「それも複雑」と呟いた。 私もつられるように少し笑ってから、律子の柔らかい髪をそっと撫ぜ、言葉を続ける。 「その心を決して失わないで。律子の光で、もっと多くのものを照らしてね。……私はもう十分に、貴女に光を貰ったわ。だからもう」 「バカ!!……そんなこと言わないでよ……あたしを不安にさせるようなこと、言わないでよ……」 「……ごめんなさい。」 謝ることしか、今の私には出来ない。 律子を突き放すつもりなんてないの。 出来ることなら、ずっとずっと、律子のそばにいたかった。 だけど。 律子だけは、自分の命を懸けてでも、守りたい。 「律子の笑顔が好きよ。……ほら、笑って?」 涙で濡れた頬を、指で辿って。 それでも尚泣き止まない律子に苦笑して、彼女の双眸にキスを落とす。 律子は何度か瞬いて、「くすぐったい」と身を捩る。 それでも尚、律子の肩に手を置いて、何度も何度も律子の顔にキスの雨を降らせた。 どうしようもなく、愛しくて。 「美、咲……」 律子は濡れた瞳をすっと細め、私の大好きな、柔らかな笑みを小さく零した。 その表情に安堵するのに、何故か、今度は私の方が泣き出しそうになってしまって。 もっと律子の温もりに触れたくて、そっと唇を塞いだ。 長い、長いキスを、交わす。 時間が止まったように、動かずに、ただ唇だけを触れ合わせて。 律子は何も知らない。 私の覚悟も、何も。 今から私が ―――命をかけて、彼女の盾になる覚悟すらも、知らない。 律子は、私を責めるだろうか。 どうしてあたしを一人にするの?って。 彼女が人一倍寂しがり屋で、依存心の強い女性だということはよく知っている。 律子は私を止めるだろう。 一人に怯え、私を失うことに、怯えて。 だから言わない。 律子自身は気付いていないのかもしれないけれど、 律子はとても強い人だ。 希望を与えることの出来る、素晴らしい人。 だからもう私に縛られないで。 悲しみを乗りこえて、生きて欲しい。 それが私の最後の願い。 「……」 くちづけを交わしたまま、静かに目を開ける。 目を閉じて私のキスを受ける律子の姿を、少しの間、目に留めた。 これが最後だと思うと、辛く、て―― 全てを断ち切るように。 ドンッ、と、律子の身体を突き飛ばした。 「ッ!?」 壁に背を打ち、顔を顰める律子の姿。 一瞬足が竦んでしまうけれど、 もう行かなくては。 「律子」 フロアに落ちていた銃を拾い上げ、扉に手を掛けながら 私は最後の言葉を放つ。 「今まで、ありがとう。」 ―――……。 扉を開くと同時に、ゾクンと、細胞達がざわめき始めた。 「美咲!いやッ、行かない、で――!!」 背中に投げ掛けられた声に 振り返ることはしなかった。 今の私の目には、醜い世界が広がって、 嘔吐感と頭痛と、他にも様々な症状が、ほんの一瞬だけ駆け抜ける。 余りに醜くすぎる世界は、ほんの刹那の間に、私を変えた。 そう。覚醒という言葉が相応しいだろう。 全てを消し去って 私は 、 律子だけを守る騎士になる。 これでいい。 醜い世界に身を堕としてあげる。 「ッと。」 6−Bの扉を見張っていた私―――茂木螢子―――は、長い沈黙を守る扉に、少しだけ気を抜いていた。 扉が開く音に反応し、構えていた散弾銃を扉の方に向けた。 そこには、一人の女。 真昼さんと、そしてもう一人の女との遺体の間に、佇むその姿。 長い髪を背中に垂らし、その手には真昼さんが部屋の中へと流した銃が握られて。 女の姿を目にした時、何故か、動くことが出来なかった。 ―――ヤバ、い。 本能的なものだった。その女の放つオーラか、或いは殺意か。 空気をも圧すような圧倒的なその“気”に、思わず一歩後ろに退いていた。 刹那、 パァンッ!! と、響き渡る銃声。 間近でビュンッと鋭く風を切る音。 ピッと数滴の血液が、廊下のフロアに落ちていた。 「くっ!」 手の甲を掠めた銃弾が私の力を奪い、思わず引き金に掛けていた手を落とす。 慌てて銃を構えようとしたが、思い直して横に飛んだ。 パァンッ! 二度目の銃声。たった今私がいた場所を滑っていく銃弾が、スローモーションのように見えた。 「な、……ッ」 信じられない思いに、思わず声が上がる。 何―― あの女は、一体、何者なの? 秒刻みで的確な攻撃を放ち、確実に私の命を狙っている。 この私ですら、対応、出来ないほどに。 驚いている暇なんかない。 闇雲な反撃より、ここは確実に女を仕留める方法を探すべきだ。 そう判断し、私は女に背を向けて駆け出した。 幸い廊下は直線ではなく、緩い曲線を描く作りになっている。 女との距離も十分、私の背中を狙撃することは不可能だ。 渾身のダッシュ、それでも背後からはカツカツとペースの早い靴音が響いてくる。 あの女、私を追い払うつもりなんか毛頭ない。私を殺す気だ。 「ちっ……」 物のない廊下で戦うのは明らかに不利だった。 その時、目に入ったのは「人工庭園」と書かれたプレート。 しめた。植物が生い茂っているあの空間なら隠れる場所も多くある。 迷うことなく、人工庭園の中に駆け込んだ。 人工庭園に入った途端、ふっと視界を奪われる。 辺りは薄暗く、所々に設置された街灯だけがぼんやりと光を放っていた。建物の中では時間感覚が狂ってしまうが、この空間だけは屋外の明暗も忠実に再現されているのだ。 目が慣れるまで、ある程度舗装された芝生を真っ直ぐに駆ける。 その時、パァン!と響いた銃声。ちらりと振り向けば、あの女は今もまだ私の後を追いかけていた。 足取りを緩めることなく軽く左右を見回した後、私は左側の林に駆け込んだ。少しでも入り組んでいる場所の方が良い。木々の間を縫うようにして尚も駆けた後で、私は一本の樹の陰に身を潜める。 荒い息を押し殺し、近づく足音に耳を澄ませた。 相手の戦闘力は測定不可、ただ、とんでもない力を持っていることは確かである。 あんな女がいるなんて予想外。――でも、負けるわけにはいかない。 徐々に近づいて来る足音で相手との距離を測る。 二十メートル、十八、十五―― そこで、足音が途切れていた。 足を、止めた?……私を見失ったからか? 暫しの沈黙。気配を探ろうと神経を張り詰めても、女は一切の気配を感じさせなかった。 一般人では到底気配を消すことなど不可能だ。 ……あの女、ヤバすぎる。 ザッ 草を蹴るような物音が、間近から聞こえた。左か! 「ッ!」 銃を構えて引き金を引こうとした、しかし、今度は別の場所から同じような音が聞こえてくる。 ザッ、ザザッ、と、幾つか、まるで草木が騒いでいるかのように。 バカな……。 音は近づいている、なのに、女の居場所が全く特定できなかった。 どこから来る? 一体、どこに……!? 「――不運な人ね。」 「!」 ハッと顔を上げ、声がした方に目を向けた。 右側――……そこに、女の姿があった。 冷たい眼差し。豹のような鋭い目。感情のない表情。 ゾクゾクと、寒気が体中に駆け抜ける。 私を捉え、今にも黒い銃弾を吐き出さんばかりの、銃口。 「なんて醜い人なのかしら……私の殺意を駆り立てて止まない、その、醜い姿……」 「……」 「貴女のような人間がいるから、私が壊れてしまうのよ。」 狂っている人間のそれとは違う。女は冷静に言葉を紡ぎ、その後で口元に微かな笑みを浮かべる。 女が僅かに力を加えた所為か。女が手にした銃が、キリ、と軋む音を立てた。 「……」 声が、 声が全く、出ない。 女の放つ殺意が、私の行動すらも制限する。 こんな人間、初めてだ。 無感情に人を殺す類とも、或いは悦楽として人を殺す類とも違う。 あの女はまるで、殺意にだけ支配されているような 人間を殺すために存在しているような、そんなふうに、見える。 「……」 女は引き金に掛けた手に、力を、込める―― ――――待っ、て こんなところで、死ぬわけにはいかない 死ぬわけにはいかない 死ねない。 死ねない 死にたくない 私は死なない。 私は……―― 銃声が響き渡った。 幾つもの。 数え切れない程の、銃声が。 私が放った銃弾と、そして女が放った銃弾と。 交差して、互いの身体を目掛けて、空を切る。 やがて、シン、と静まり返った中で、 「ッ…、……あはは……」 乾いた笑みが漏れた。 喉がからからで、声が張り付くような感覚もあるけれど 溢れて来る笑みを止められず、私は、笑った。 「あ、はは……キャハハハ!!!……死ね…死ね!!私以外の人間、全て、死んでしまえ!!!」 薄暗い木陰では、美しい赤の血液すらも、どす黒く見える。 黒い血液に、染められた草木達。 血の匂いが立ち込め、一つ息を吸うたびに、咽返りそうなほどの芳香に酔いしれた。 血液と、飛び散った肉と、からっぽになったカラダ。 美しい。 なんて、美しい、の…… 「私は女神……崇高なる、存在…………全て……私の、思うが侭に……」 ぐちゃ、と、生ぬるい血液の中に、身を沈めた。 落ちた。 どこまでも深く。 血の、海に。 「ハァ……ァ…あ……?」 ガクガクと、身体が震えている。 おかしい。 息が途切れて、 深く吸い込もうとすると 代わりに身体の奥底から、 何かが逆流してくる。 「ァ――……あ……か、はッ……」 声が声にならず ただ喘ぐばかりで、音を吐き出すことが出来ない。 こんなにも目を見開いているというのに 見えるのは血液の赤色ばかりだ。 私、 血の海に、溺れているの、だろうか? 生温かい海に身体を浸して もがこうとしても、どろどろに絡みつく血液が私の自由を奪ってしまった。 「……死、……」 ――……あ、ぁ 死ぬのは 死ぬのは…… 私だ。 もう、泳げない。 このまま溺れて、死んで、しまうんだ。 何故? 私は、女神なのに この世界は、私の為に存在、している、 なのに、私を――突き放すの? バカな。 私は女神だ。 私が、死ぬことなど、ありえない。 これは 夢に決まっている。 ドンッ、と腹部を抉る痛みも 悪夢の中の一つでしかない。 そう。 目を瞑って、一度意識を失ってしまえばいい。 次に目覚める時にはきっと ――世界は、私の 私の………… ……。 ……死にたく、ないよ…… 地獄になんか、堕ちたく、ないよ―――!!! 「………」 人間の身体とは、こんなに醜いものだったのか。 避けた腹部の皮膚の間から覗く臓器を目にしてから、 私―――穂村美咲―――は、女の体内に手を入れた。 何故そんなことをしたのか、自分でもよくわからない。 赤く、生々しいその臓器に、触れてしまった。 女の体内は熱く、まるで蠢いているような、感触。 ずるりと手を引き出せば、一緒に臓器も溢れてしまう。 「……汚らわしい。」 血液に染まった手を翳して見るが、薄闇の中では黒く光るだけ。 ここが闇の中で良かったのかもしれないと、他人事のように思っていた。 確実に女の身体を貫いた銃弾、数発。 腹部か、心臓の近くか、もしかしたら頭部も掠めているかもしれない。 暗くてよく見えないけれど、呆気なく絶命させるほどの、凶悪な傷。 そんな痛手を受けても尚、死ぬ直前まで高笑いを上げ、「死ね」という言葉を繰り返して この女は、一体どんなことを思いながら、死んでいったのだろうか。 私には関係もないことだ。どうだっていい。 それよりも問題は……私の命があとどれほど持ちそうか、ということである。 「……」 ふと、込み上げるような嘔吐感を感じ、私はその場で俯いた。 木に手をついて何度か息をしているうちに、食道を通って、何かが込み上げ、喉から溢れる。 その場吐き出してから、口元を拭った。 ……嘔吐? 否、口の中に広がっているのは、鉄の味。 血の味、か。 散弾銃での攻撃を受けて、即死ではなかったのは幸いと言えるのだろうか? しかし逆に、これほどの怪我をしているというのに生きているのも、案外辛い。 肋骨の下辺りが、酷く痛む。ここから入った銃弾が食道にも傷をつけた。だから吐血などしてしまうのだ。恐らく銃弾は背骨に掛かっているのだろう、背に手を当てれば、貫通しているわけではないようだった。 女の死体のそばになど居たくはなかったが、残念ながらこれ以上移動することも難しそうだ。 その場に腰を下ろし、木に凭れかかってぼんやりと宙を眺める。 身体の所々が酷い痛みを発しているけれど、その箇所を特定することも億劫で。 痛みを少しでも和らげようと眉を寄せ、目を閉じる。 醜い世界。 息をすることすら、嫌気が差す。 そんな世界の中で、私は何故、生きているのだろう。 ……あぁ、そうか。 私はたった一人だけ、全てが美しい存在を知っていた。 律子。 彼女がそばにいたから、私はこうして、生きていられた。 律子とずっと一緒だったら、 そうしたら、私は 美しい世界の中で、ずっと生きていられたのだろうか。 律子の笑顔も、馬鹿馬鹿しい言葉も、甘えるような仕草も、年齢よりずっと幼く見える外見も、低い身長も、小さな胸も、彼女の傷痕も、ぬくもりも、血液も、――なにもかも。 美しかった。きっと律子の隣にいれば、私はこんなに怯えることもなかった。 ……美しいから、そばに、いた? ―――違う。 愛していた。律子のことを愛していたわ。 だから、きっと、美しかった。 「…律、……」 死ぬ前にもう一度だけ…… 彼女のそばにいたいと願っては、いけないだろうか。 律子の温もりに、触れたいと…… 「……」 ズキン、と、身体に響くような痛みが走る。 だけど、厭わずに立ち上がり、身体を引きずるようにして、歩き出す。 最後の時間を求めて。 ……愛しい人のもとへと。 「……酷い、よ……、……美咲ぃ……」 えぐえぐと、溢れる涙が止まらなくて、本当にいやんなる。拭っても拭っても涙が出てきて、視界が悪くて、時々転びそうになりながら。あたし―――夕場律子―――は廊下を歩き、美咲の姿を探していた。 心当たりなんかちっともなくて、六階から階段を下りたり上ったりしながら、一体どこに行けば良いのかすらもわからず、彷徨い続けた。 五階をうろうろしてみたけど、やっぱり美咲の姿はなくて、とぼとぼと階段を上る。 一番最後の段を上がろうとした時、足をつっかけ、ベタンッとその場に転んでいた。 涙も鼻水も止まんないし、膝と腕を思い切り打ち付けて、本当に泣きたい。……もう泣いてるけど。 一旦、6−Bに戻ろうと思って歩いてく。あの部屋の前に行けば、真昼さんたちの遺体があって……余計に、辛くなるのは目に見えているけれど。もしかしたら、美咲が戻って来てるかもしれないと、そんな期待を込めて。 やがて6−Bの前までやってきて、二人の遺体が目に映ると、涙と一緒に吐気すら襲ってくる。 ……酷いよね、私。遺体に対して失礼じゃんって、自己嫌悪する。 ゴクンと、吐気を堪えて。あたしは二人の遺体のそばにしゃがみ込んだ。 鏡子ちゃんは安らかな表情で、息絶えていて。望月さんはあたしたちに銃を渡して……そのまま、だ。 そっと望月さんの目を伏せてあげて、それから二人の遺体に手を合わせた。 「……ごめんね……」 どうしてあたし、望月さんのことを疑ったりしたんだろう。 望月さんは命懸けで、あたしたちに銃を手渡してくれたんじゃない。 なのに。どうしてあたしは、望月さんを部屋に入れてあげなかったんだろう。 四人なら、相談して、皆でなんとかすることも出来たかもしれないのに。 あたしが…… あたしが望月さんを受け入れなかったから……こんなことに、なっちゃったのかな……。 ごめんなさい。ごめんなさい。 頭の中で何度も繰り返しながら、ぎゅっと手を組み合わせ、二人の冥福を祈った。 どうして、 どうしてこんなことになっちゃうの。 美咲すらも、あたしは、止めることが出来なかった。 あたしがもっと強く美咲の身体を抱いていれば、こんなことには、ならなかったかもしれないのに。 「……あたし、最低よね。何もかもあたしのせいだ……」 幾ら後悔しても足りないぐらい、責めても、責めても、苦しくて。 このまま美咲まで失ったら、あたしは…… 「…律子のせいじゃ、ないわ……」 「え……?」 独り言に、返事があるなんて思いもしなかった。 いや。そんなことよりも。 聞き慣れたその声が、聞こえてくるなんて――…… 顔を上げてその姿を目にした、と、同時に 廊下の真ん中で、どさりと、美咲は崩れ落ちる。 「美咲……!!」 あたしは慌てて美咲に駆け寄り、その肩に手を掛ける。 美咲は苦しげな表情を浮かべながらも、ゆっくりと顔を上げ、嬉しそうに弱い笑みを見せた。 廊下には点々と血が落ちていて、そして美咲の服も、手も、顔にも、たくさんの血が付着していた。 「死ぬ前に……律子に、会いたかった…の……」 美咲はもう力が入らないかのように、あたしに凭れかかる。その身体をそっと廊下の床に横たえさせて、楽な体勢にした。美咲はあたしの姿をずっと目に留め、弱々しい笑みを浮かべたままだった。 「バカ!!……死ぬなんて言わないでよ。死なないわよ、そんな簡単にッ……それに、こんな酷い怪我して、無茶しないで……」 さっき以上に涙が溢れて来るのは、何故だろう。 美咲の笑みを見ることが出来て嬉しかった。 なのに。 同時に、どうしようもなく悲しかった。 気付いてしまった。 美咲は本当に無茶をしてる。 ――今にも、消えそうな命、で。 「律子……触れ、させて……」 美咲は何かを求めるように、血塗れの手をあたしに伸ばした。 あたしはその手を両手でぎゅっと包み込みながら、美咲の顔を覗き込む。 「ずっと一緒だって言ったじゃない……ずっと……。ねぇ、もうあたしを置いてどっか行ったりしないでよ……お願いだか、ら……」 衝動的にそんな言葉を告げたけれど、 次第に弱くなってしまうのは、美咲はもう、その願いを叶えることが出来ないのだと、気付いていたから。 美咲は何も言わずに寂しげに笑み、そっと握った手を解いた。 「あのね……」 美咲は、いつものように、あたしの頭を抱き寄せる。 その手にあんまり力はなくて、軽くあたしの頭に触れさせる程度で。 あたしは自ら美咲の胸元に顔を寄せ、「なぁに?」と小さく問い掛けた。 「――……律子を、愛した理由を教えてあげる」 「……理由?」 美咲の声は儚くて、今にも消え入りそうなほど、微かな響き。 それでも懸命に口にして、あたしの耳元で確かに告げるその言葉を聞いた。 「貴女は希望を持っているからよ。……誰もが見失ってしまう、希望を……」 「……」 「律子はその希望を……なくさないで……。お願い……」 切実に、告げられる言葉に ぽたりとあたしの頬を伝って落ちた涙が、美咲の胸元を濡らす。 あたしは顔を上げて美咲と目を合わせ、少しだけ笑った。 「バカね。……あたしに希望をくれたのは、美咲なのに。」 そう言ったら、美咲は不思議そうな顔をして、そして静かに微笑んだ。 何か言おうと、唇を動かしたけれど、漏れるのは微かな吐息だけ。 ふっと、閉じられる美咲の瞼に、あたしは小さく息を飲んだ。 「美咲!あたしはッ……」 涙で声が上擦って言葉が続かない、だけど、言わなくちゃ。 ちゃんと伝えなくちゃ。 美咲が、安心して眠れるように。 「あたしは美咲の分も生きていく。寂しくっても頑張って生きていくから。美咲がいなくても、頑張るから!」 きっぱりと言い切って、美咲の閉じ合わせた目を、動かぬ唇を、じっと見つめる。 触れた体温が冷たくなっていくような、そんな気がして、「ねぇ、聞いてる?」と、問い掛けた。 美咲は何も言わない。何も答えない。 だけど。 あたしの頭に触れていた美咲の手が、ふわりと、あたしの髪を撫ぜた。 美咲が最後の力を振り絞ってくれた答え。 頑張って、って。そう言ってくれたような気がして、嬉しかった。 ストン、と、あたしの頭から滑り落ちた美咲の手。 冷たい床に落ちた手は、もう、何も語らない。 あたしはその手を握って、美咲の温度を感じていた。 「……美咲……」 さっきまで微かに零れていた吐息すら、今はもう感じない。 聞こえているのか、わからない。 だけど美咲は確かにここにいて、優しい顔をしているから。 「愛してる……心底愛してるよ。あたしのそばにいてくれて、ありがとう。」 そう言って、美咲の唇にキスをした。 これが最後のキスだと、わかっていたから。 あたしの気が済むまでずっと、唇を重ね合わせていた。 美咲はあたしの最後の希望。前に、そんなことを言っていたっけ。 だけどそうじゃなかった。美咲はあたしに、本当の希望を教えてくれただけだった。 あたしは、この先にどんなことがあったとしても、美咲からもらった愛を忘れずにずっと生きていくよ。 それが、美咲の望んでくれることなのだと、わかったから。 美咲がいなくても、大丈夫。 静かに唇を離して、一つ、笑みを浮かべる。 涙を止めることはまだ出来そうにないけれど、 美咲の言葉を想えば、あたしはこうして、笑っていられるよ。 Next → ← Back ↑Back to Top |