BATTLE ROYALE 35




「……おはよう、ございます。」
 聞き慣れぬ声を耳にして、私―――木滝真紋―――は、ベッドの上から頭だけ動かして扉の方に目を向けた。そこには、ひょこんと顔だけ覗かせて私の方を見ている女性――というか、少女の姿があった。
「おはよう?」
 時刻は朝七時。私は先ほど起きたばかりで、そろそろ三宅さんでも呼ぼうかと思っていた矢先。突然の訪問者にきょとんとしながら、欠伸を慌てて噛み殺し、挨拶を返した。
「あ、えーと、闇村さんに言われて三宅さんの代わりに来ました。宮野水夏と言います」
 少女は室内に入ると、そんな自己紹介をしてペコリと頭を下げる。
 私はまじまじと少女を見つめた後、「あぁ!」と声を上げた。その衝撃で腹部の傷が痛んで悶え打つ。
「だ、大丈夫っすか?!」
 宮野さんは慌てた様子で私のそばに駆け寄り、心配そうな表情を覗かせる。とりあえず何度か息をついて、「平気平気」と軽く手を振った。
「宮野水夏さん。あれだ、霜さんと一緒にいた子でしょ?モニターで見ちゃったわよ」
「え?……あぁ、なるほど。この部屋にもモニターがあるんですね。」
 宮野さんは合点がいったように頷いた後、ふふ、と笑みを漏らした。
「木滝さんのことも知ってます。……なんていうか、管理人室にちょこちょこ出入りしてたんで、それで覗かせてもらった、というか。」
「うっそ!?……私達、変なことしてなかった?」
 変なことをしていたのは真苗メインだが、一応問い掛けてみる。宮野さんはクスクスと笑って「なーんにも」とわざとらしく否定した。うわぁ、この態度は明らかに何か見た感じよね……。
「……って、あれ?」
 私はふと疑問に思い、ベッドのそばの椅子に腰を下ろす宮野さんに目を向ける。
「参加者、でしょ?つい昨日まで霜さんとかと行動してた?……なんでここにいるの?」
「あぁ……えっと」
 宮野さんはぽりぽりと頬を掻きつつ逡巡し、「話すと長いんですけど」と前置きをし、切り出した。
「その、田所霜ってやつと沙粧ゆきってやつ、その二人と一緒にこのプロジェクトに迷い込んじゃったんですよ。で、私は闇村さんの罠にかかったり色々しつつ、まぁごちゃごちゃしてたんです。闇村さんが、あることをしたらこのプロジェクトから三人揃って解放するって言ってくれて、で、私はそのあることをして、それで三人とも解放、……ってことになったんですけど、私は、その……人を殺して、しまって。それで、罪償いをしようと思って……とりあえず闇村さんのお手伝いとして残ってるわけなんです。」
「……ええと…?」
 やけにかいつまんだような、それでいて長い説明に、思わず首を捻ってしまう。
 暫く考え込んだ後で、私はぽん、と手を打った。
「とりあえず宮野さん。水夏ちゃんって呼んでいい?」
「え?あ、もちろんです。」
「んで、私のことも真紋って呼んでね。真紋姉さんとか、真紋姉御とか」
「姉御!!」
「あ、待って、姉御はちょっと嫌かもしれない。普通に呼んでね。」
「じゃあ真紋さんで。」
「オッケー。それで、敬語も抜いて!気楽に!」
「……わ、わかった。」
「宜しい。話を続けて?」
 ようやく落ち着いた、と私は水夏ちゃんを促すが、水夏ちゃんはきょとんと私を見つめたまま。
 やがて「ええと?」と首を捻り考え込んで、
「どこまで話したっけ?」
 と逆に問い返してきた。
「えーっと……要するに、水夏ちゃんはプロジェクトから解放された。つまり、私と同じ、よね?」
「あ、そう!闇村さんから他にも解放された人がいるって聞いて、会ってみたいって言ったらここに連れてこられたんだ。」
「あーなるほど。で?で?あの霜さんとかはどうしたの?」
「………えっと」
 水夏ちゃんはそこで口を噤むと、椅子を立って窓際へと歩み寄る。朝日がさんさんと差し込む窓際で、眩しげに目を細めながらすっと視線を上げた。
「霜とゆきは、昨晩中にマイクロチップを外す手術を受けた、らしい」
 ここの。と水夏ちゃんは自分のうなじより少し下の首筋を指差した。そのことは先日三宅さんから聞いていた。参加者には全員首筋のところにマイクロチップが埋め込まれていて、そこからデータを抽出していたのだと。因みに私に埋め込まれていた分は腹部の手術の際に一緒に取り除かれたんだとか。
「それで今日の朝、二人ともヘリコプターで地元まで送られた。」
「送られ、た?……即行?」
「らしいよ。呆気ないもんだな。」
 水夏ちゃんはふっと弱い笑みを浮かべ、私に目を向ける。少し寂しげな笑みだった。
「そのまんま帰して、大丈夫なのかしら?……このプロジェクトのことを人に言ったりするんじゃない?」
「それ、私も気になって聞いてみた。そしたら、大事な部分の記憶だけ削る、って答えが返って来たよ」
「き、記憶を削る?!」
 突飛な話に、驚いて聞き返す。そんな私のリアクションが可笑しかったのか、水夏ちゃんはクスクスと笑いながらまた椅子に座りなおした。
「記憶を削るってやつ、上層部じゃ常套手段らしいよ?一般の人間には知られていないらしいけど。」
「へぇ……。って、このことも削られるんでしょうね。」
「あぁ、間違いない。」
 そう言って二人でクスクスと笑った後、私はふと不安になって今一度水夏ちゃんに目を向ける。
「……でも、大事な部分って……私、忘れたくないこともたくさんある、のに。」
「それは大丈夫だと思う。」
「どうして?」
「恋人との思い出とかだろ?そんなのは残ってたって構わないんだよ。問題があるのは、この建物の場所とかそういう証拠になるもので、幾ら言い張ったって周りは嘘としか思わないような内容は残るってわけ」
「あ、そっか……なるほどね。」
 水夏ちゃんの言葉に納得し、なかなか上手く出来てるのね、と感心していた。
 水夏ちゃんは私のリアクションをひとしきり眺めた後、軽く足を組み、その視線をまた窓の外に向けた。
 ぼんやりと横顔を見つめていると、眼鏡を掛けたその目が、どこか赤く腫れていることに気付く。
 私も人のこと言えないかもしれないけどね。昨日だって散々泣き腫らしたし。
「……ねぇ、水夏ちゃん。その霜さんって子?ゆきさんって子?……別れるのが、辛かったの?」
「え?……なんで、わか……」
 驚いたような表情で私を見ては、ふっと言葉を詰まらせて、グス、と鼻を啜る。そうして水夏ちゃんはどこかばつが悪そうな表情を浮かべ、こくんと頷いた。
「やっぱり。目、腫れてるわよ。」
「あぁ、……そっか。真紋さんも腫れてるけど。」
「……私も、最近ね。大事な人、失くしたばっかり。」
 なんだかばつが悪くて、苦笑を浮かべつつそう言った。水夏ちゃんも弱い笑みで「そっか」と頷き、二人して黙り込む。
 大切な人と別れて、今はこうしてプロジェクトが行われている建物の中にいるけれど、いつかはここからも出て行って。そして私達は、一体どこへと進んでいくのだろう。
 きっとここに来る前までは見出せなかった新たな道を、見つけるのね。
「水夏ちゃんは、これからどうするか、決めてる?」
「うん。昨日、考えたばっかりだけど――平和活動、みたいなことが出来たらいいと思う。一つの命を奪ってしまった、だから私は……百の命、いや、千でもいいし、一万でも、それ以上でも。とにかく、私が出来る限りの命を救っていきたいんだ。……それで少しでも、罪滅ぼしになるのなら」
「……そっか。うん、いいと思うわよ。」
 真摯な表情で語られた言葉に、私は頷いた。彼女の真剣な思いが伝わり、なんだか温かい気持ちになる。人の命を奪ったという罪の重さは量りきれなくて、それは幾つの命で償えるというものではないのだろう。だけど、彼女がこうして真剣に考えている。それだけでも、罪はずっと軽くなるのかもしれないと、そう思う。
「……真紋さんは……その、誰かを殺したり、とか……?」
 水夏ちゃんがおずおずと問い掛ける。その言葉に私は首を横に振った。
「私は誰も殺してない。……殺したいほど憎んだことはあったけど、ね。」
「殺さなかった?」
「うん。だってその人を殺したって、私の最愛の人は戻らない。きっと喜んでくれるわけでもない。」
「……そうだな。」
 水夏ちゃんの頷きに、私は少しだけ笑んで、目を閉じた。
 螢子ちゃんのことはもう憎まない――と言えば、嘘に、なるけど。
 でもいつかは許せるように、私はこれからも生きていく。
「水夏ちゃんもいつかは、大切な人のところに戻ってあげてね。……私はもう真苗とは会えない、けど、でも水夏ちゃんの大切な人は、まだ生きてるんでしょう?」
「……あぁ、そうだな。……本当は待たせるつもりなんかなかったのにな。」
「待たせてんの?」
「う、うん……」
 気恥ずかしそうに頷く水夏ちゃんに、微笑ましい気持ちになった。若いって素晴らしい。
「なら尚更!頑張って罪を償って、その子のところに行ってあげなさい。いいわね?」
「はいっ。……真紋さんも、いつかは幸せになれたら……」
「なれたらいいんだけどねぇ。」
 思わず苦笑を漏らし、ふっと吐息を零す。
 ぼんやりと天井を見上げると、真苗のあの笑みが浮かんでくるようで、少しだけ切なくて。
 そんな私の視界を遮るように、ひょこんっと水夏ちゃんが私の顔を覗き込む。
「幸せは人に与えられるもんじゃなくて、自分で掴むことも出来るだろ?……真紋さんの幸せって何?」
「……私の、幸せ?」
 不意の問いに、少し考え込む。
 ここに来る前、真苗と出逢う前、私は一体何をしていたのだろう。
 そう考えると、一つのことしか浮かばなかった。
「私は、いつも歌ってた。歌うことが私の幸せだった。」
「なら歌えばいい。」
 水夏ちゃんは満足げに笑んで、あっさりとそう言った。
 あまりにすぐに返された言葉に拍子抜けするけれど、全くもって彼女の言う通りだ。
 私は少し笑って、「そうね」と一つ頷いた。
 私も彼女も、それぞれの道を見据えて歩き出す。明るい未来を夢見て、一歩ずつ。
 窓から差す明るい朝日が、まるで未来への道標のように輝いていた。
 ――だけどこの建物には光の差さない場所が多くあるということも、忘れてはならなかった。
 殺し合いはまだ、終わってはいない。





「はぁ、……はぁッ……」
 どこからか、荒い息が聞こえてくる。
 まだ半分眠っている頭の中に響いてくるその音は、酷く不快なものだった。絨毯の上で毛布を被って眠っていたあたし―――夕場律子―――は、眉を顰め、それからゆっくりと目を開けた。
 薄暗い室内で、吐息は一際大きくなり、あたしの耳へと届いていた。
「う、ぅん……?」
 まだぼんやりとしている意識と視界。目を擦って、室内を見回した。
 ベッドの上で、誰かが動いている気配がする。
 あそこには美咲と鏡子ちゃんが眠っていて、そしてあたしの隣には望月さんが眠っていたはず――
 ……あ、れ?
 隣を見遣ると、そこはもぬけの殻だった。
 眉を寄せ、ベッドの上の人物に目を凝らす。
 あれは……望月、さん……?
「何、してるの……?」
「!!」
 ベッドの上にいた望月さんは、あたしの声に気付きハッとした様子で振り向いた。
 その顔にはじっとりと汗の粒が浮かび、険しい表情を浮かべて。
 何度も荒い息を吐き出しては、ふっと笑みを浮かべる。
「まだ眠っていて良いんですよ。禁止エリアの放送までも、随分時間がありますし。」
 切れ切れの息で彼女は言った。張り付いたような笑みは、余計に疑心を抱かせる。
 あたしは毛布を剥ぎ、ゆっくりと身体を起こした。
「眠ってれば、いいのに」
 望月さんはその笑みを消すと、冷たい眼差しであたしを見据える。
 その時、ベッドの方から望月さんではない、別の声がした。
「たす、けて……」
 と、それは蚊の鳴くようなか細い声だったけれど、確かに助けを呼んでいた。
 ようやくあたしは事が尋常ではないことに気付く。慌ててベッドに駆け寄ると、苦しげに顔を顰めた鏡子ちゃんの姿があった。望月さんはストンとベッドから降り立つと、ふっとあたしから目を逸らす。
「どういう、こと?……鏡子ちゃん!?」
 その時気付く。鏡子ちゃんの首に、真っ赤な痣が出来ていることを。――まるで、誰かに締め付けられたように。信じられない思いでその痕を見つめた後、はっとして隣に眠っている美咲に声を掛ける。
「美咲!……美咲!?起きて!!」
 まさか――と思ったけれど、美咲はあたしの声で眉を寄せ、ぼんやりと目を開く。美咲の体には何も痕がなく、安堵した。鏡子ちゃんもゲホゲホと咳き込んではいるけれど、命に別状はないようだ。
「望月さん……?」
 鏡子ちゃんの首を締めようとした犯人である人物――望月さんに目を向ける。
 彼女は無表情にあたしを見つめ、名を呼ばれれば薄い笑みを浮かべて見せた。
「どうしてこんなことをするの?どうして!!」
 そう強く責め立てた瞬間、望月さんは懐から何かを取り出した。
 キラリと光る切っ先。――それはあたしと美咲の武器である、アイスピック。
「ふふ。……何が絶望なんでしょう。何が希望?私達が頑張る、ですって?……いい加減にして。こんな足手まといな子たちを生かしておく価値なんてないでしょう?」
「な……」
 あまりの豹変に、言葉が出ない。
 望月さんはクスクスと肩を揺らして笑むと、ゆっくりとあたしの方に近づいて来る。
「律子さんは仲間にしようと思いましたけど、貴女は弱者の味方なんですね?じゃあ仕方ないわ。一緒に死んでもらうしかありません。」
「そ、そんな!!」
「ふふふ。さぁ死んで下さい!」
 望月さんはそのアイスピックを振りかぶり、あたしに目掛けて振り下ろす。
 ビュンッ、と風を切る音が耳元で聞こえる。慌ててベッドから下りて望月さんの猛攻から逃げようとした。
 すると望月さんはあたしを横目に見て、クスッと笑みを浮かべる。
 そして振り上げたそのアイスピックは――
 美咲の心臓を、貫いていた。
「…美、咲…?………いやぁぁッ、美咲ぃぃッ!!!!!」


「――……つこさん…、律子さん、起きて……」
「ッ!!?」
 バッと目を開けた時、視界に入ったのは望月さんの姿。
 あたしは慌ててその場から後退ろうとして、ゴンッ、と壁に後頭部をぶつけていた。
「だ、大丈夫ですか?」
 きょとんと不思議そうにあたしを見つめる望月さんに、しばらく状況が掴めなかった。
「え?あ、あれ……?」 
 ベッドに目を向けると、不思議そうにあたしを見つめる二人―――鏡子ちゃんと、美咲の姿がある。
 あたしは後頭部を押えながら、ようやく現状が飲み込めてきたのだった。
「酷く魘されていたようですけど……悪い夢でも見ました?」
「あ、……うん。」
 望月さんの言葉に確信する。あれは夢だったんだ……。
 ほっと安堵の吐息を零すと同時に、あんな怖い役をやっていた望月さんにジト目を送る。
 当の望月さんは全く自覚がないようで、やはりきょとんとしたままだった。
「ふぁーあ……死ぬかと思った……」
 あたしは軽く伸びをして、改めて二人に向き直り「おはよう」と言葉を掛ける。
 鏡子ちゃんは何も言わなかったけれど、美咲は「おはよう?」と返しつつ苦笑を浮かべ、時計を指差した。
「おはようは……、ギリギリですね。」
 望月さんも時計を見上げ美咲に同意するようにそう言う。時刻は午前十一時ちょっと前。もうすぐ禁止エリアの告知がある頃だ。――確かに寝坊気味かもしれない。
「ま、まぁちょっとぐらいいいじゃないッ!顔洗って来るーっ」
 誤魔化すように笑ってから、洗面所に向かう。先ほどの夢があって、三人の顔を直視出来なかったってのもあるんだけど。あまりにリアルで、印象的な夢だった。鏡子ちゃんの怯えるような表情も、望月さんの冷たい表情も何もかも、現実のように。
 ワシャワシャと手の平で作った泡を顔に塗りたくりながら、眉を顰める。
 でもまさかね。あの望月さんがあんな怖い顔するわけがないし、うん、ありえない。なんでこんなアホな夢見ちゃうかなぁ。あたしのバカ!
 バシャバシャと冷たい水で顔についた泡を洗い流し、ぷはっと空気を吸い込んだ。丁度その時、禁止エリアの放送が聞こえてきた。
『禁止エリアを告知します。1−A、4−C、8−C、13−C、15−A。以上の5エリアです。正午十二時から十一時間が、禁止時間となります。繰り返します…』
 今あたしがいるのは告げられた五つのうちのどこでもないことをすぐに理解し、ほっと安堵する。それから、五つなんて減ったなぁと思いながら、袋に入ったままの未使用の歯ブラシを出して歯磨き粉を塗り、口に咥えて洗面室を出た。
「らいひょふらっられー」
「ええ、大丈夫でしたね。」
 難解な律子星言語にも望月さんは微笑んで頷いた。お、なかなかやるな。
 それからガシガシと歯磨きをしつつ、あたしはパソコンの電源を入れた。
「へーるほへははらひはららへらろー」
「……はい?」
 さすがに今度は通じなかった。歯ブラシを一旦口から出し、
「メールのネタばれひちゃ、らめらよー」
 と、少しは日本語に近いトーンで言ったが、泡が零れそうになって慌てて口を塞ぐ。
「あ、はい。わかりました。」
 望月さんはクスクスと笑いながら頷き、美咲達の方に向かう。
 パソコンが起動し終え、メールの画面を開く。そして最新のメールを開いた時、一瞬眉を寄せる。なにやらたくさん書いてあるみたいだったからだ。しかし、よくよく見るとその三名は『死亡』ではなく『戦線離脱』と書いてあった。しかもそのうちの一人が宮野ちゃんだったりするじゃないのよ!!
「ん、んん!みや、げほっ」
 美咲に報告しようとしたけれど、口の中の液体が少し器官に入り、慌ててあたしは洗面所に駆け込んだ。泡を吐き出し、ぐちゅぐちゅ、ごろごろごろーと口をすすいで歯ブラシを直してから、すぐに洗面室を出る。
「美咲!宮野ちゃんが戦線離脱ってー」
「……さっき見たわ。」
 ベッドに横になってあたしに目を向ける美咲は、素っ気ない口ぶりでそう言った。
「ねぇ、戦線離脱って何だと思う?出てっちゃうのかな?」
「……でしょうね。」
 美咲は相変わらず気のない相槌を返し、ふぅ、と溜息を吐く。
 そっか。まだ具合悪いのね。……うぅ。辛いなぁ。
「戦線離脱かぁ。あたしたちもそれしたいね。」
 メールソフトを終了しつつ、そんなことを言ってみる。するとベッドに腰を下ろしていた望月さんは、少し思案するような表情を浮かべ、俯いた。
「……私も美咲さんも、戦線離脱は出来ないのかしら。」
「どして?」
「私も美咲さんも闇村さんの命令でこのプロジェクトに参加していますし。……でも、無理でしょうね。」
「はぇ!?」
 望月さんがさらっと告げた言葉に、あたしは心底驚いていた。
 いや、命令云々は良いとして……
「も、望月さんも闇村さんのペットだったの!?」
「え?……あれ、知りませんでした?」
 望月さんは逆にきょとんとして問い返す。「知りませんでした」と頷き返し、まじまじと望月さんを見つめた。
「美咲さんとは医者と患者として出会ったんですけど、美咲さんを闇村さんに紹介したのは私なんです。」
「あぁ……そういう繋がりがあったわけね」
「ええ。他にも、このプロジェクトに今も参加している佐久間さんっていう子も私の紹介なんですよ。」
「……って、このプロジェクト、何気に闇村さんのペット多くない?」
 もう三人、今聞いた子で四人目だし。あたしの言葉に望月さんは首を傾げて考え込み、
「確かに多いかもしれませんね。」
 と一つ頷いた。望月さんは尚も思案するような表情を浮かべた後、「ちょっといいですか?」とパソコンに向かう。あたしは椅子を譲り、望月さんの作業を眺めていた。
 最初に届いたメールから一個一個開いては、望月さんは人数を調べているようだった。
「今回のプロジェクト、ええと、セカンドプロジェクトのみの総勢参加者は二十九名です。そのうち、既に二十二名が死亡、もしくは戦線離脱しています。」
「ふんふん」
「残る参加者は七名ですね。って、いつのまにか随分減りましたね。」
「確かに。……で、その七名のうちの……」
「三名が闇村さんのペットです」
「多いよ!!」
 すかさず反応。いや、だって実際多いんだもん。
「あ、私達は途中参加だったっていうのもありますけど。」
「だとしても多いわよ。」
「ですね……。闇村さんのペットではない四人のうちの二人が律子さんと鏡子で」
「うんうん。後の二人は――」
「……茂木螢子、と、……神崎美雨。」
「……う」
 ここであの凶悪な犯罪者の名前が出てくるとは。
 そうよね。残ってるわよね。当然よね。神崎美雨かぁ……。
 だけどもう一つの名前は、嬉しいものだった。螢子ちゃんって言ったら、もう随分前になるけれど、展望室であたしや由子を助けてくれた恩人だ。突然姿を消してしまったけれど、今も無事で、良かった。
 というか、そもそも殺し合いをしなくちゃいけない七人のうちの四人がこうやってつるんでる時点で、どうなんだろうとか思っちゃうわけなんだけど。ここはやっぱり結束の勝利と行きたいところ――だ、けど。
 優勝者は一人。それは最初から決められていることで、覆すことなんて出来なくて。
 このプロジェクト自体の期限は決められていない、つまりあたしたち四人が仲良くさえやっていればずっとこのプロジェクトの中で生活を続けることも出来るのかもしれないけど、それにも限度がある。
 ―――とすれば、いつかは誰かが……裏切、る?
 そんな思索の中で、無意識に望月さんに目を向けているあたしがいた。
 いけない。あんな夢見ちゃったから、疑ってる。望月さんって本当に良い人だと思うし、裏切るなんてありえない。――ありえない、と、思う……。
「ゲホッ……ゴホッ、コホッ」
 あたしの思索は美咲の咳き込む声によって途切れた。慌てて美咲のそばに駆け寄り、「大丈夫?」と声を掛ける。美咲は何度か咳き込んだ後、あたしに身を凭れた。
 軽く抱いて、その背中を撫でながら落ち着くまで待つ。……美咲だってこんな調子だしなぁ。
「……ねぇ、律子」
「ん……?」
 美咲は囁くようにあたしの名を呼んだ。他の二人には聞こえないような小さな声。
「そのままで聞いて。……少し心配なの」
 美咲はちらりとあたしを見上げた。その鋭い瞳は、何かを敏感に感じ取っているような、豹のような瞳。美咲のそんな目や、切り出した言葉にぐらぐらと不安感が募る。
「―――望月先生はね」
「……」
「優しい人だわ。とても。……だけど、闇村さんに対してだけは、別人になるの」
「……別、……?」
 問い返そうとして慌てて口を噤み、ちらりとパソコンのそばにいる望月さんに目を遣った。
 彼女はあたしたちのことを気に止めるでもなく、パソコンに向かって何か作業をしているようだ。
「あの人は盲目的に闇村さんを愛している。……それだけは気をつけて」
「……う、うん。」
 あたしの疑心を膨らませるような、美咲の言葉。
 盲目的な愛?――それが、今のあたしたちのとって不都合なもの?
 ……あぁ、そうだ。そのとおりだ。
 盲目的ということは、管理人の言うことを聞く、ということ。
 つまり管理人が望月さんに殺し合いを唆したりしたら――……きっと彼女はそれに従うのだろう。
 夢の中で見た、望月さんの冷たい笑みがちらちらと脳裏を過ぎる。
 あたしは軽く美咲を抱いて、
「……もしもの時は、守るから」
 とだけ、耳元で囁いた。
 そんなあたしたちの密やかな会話を、鏡子ちゃんだけが不思議そうに見つめていた。





「茂木螢子。そこで両手を挙げて足を止めろ。」
「……はぁ?」
 ジャキンッ、といつもの素敵な音が鳴る。
 重厚な散弾銃は深雪さんの置き土産。私―――茂木螢子―――の大事な武器。ついでに真紋さんの置き土産である中型の銃もあるんだけど、あっちは撃てるのが六発だし、この散弾銃が使えなくなった時のための予備っていうことで、お部屋に保管中。
 私は散弾銃を肩に掛けて装備バッチリの状態で、獲物を探すために廊下を歩いていた。
 そんな時、背後に感じた気配。振り向きざま、脅すような言葉を掛けられ、私は思いっきり怪訝な顔で聞き返していた。
「誰がそんなバカな命令を聞くと思います?」
 銃口を相手に向けながら問い掛ける。すると、女はビクッと一歩後退り、「待て!」と大声を上げる。
「わ、私は参加者じゃないからな?殺したらお前も死ぬんだからな?わかるか?」
「はぁ?」
 このまま撃ち殺してやろうかと思ったが、相手は廊下の曲り角にそそくさと引っ込んでしまった。恐る恐る顔だけ覗かせ、「待て待て」と私を宥めるように繰り返す。
 見覚えのない女だった。前のプロジェクトからの参加者ではないようだ。眼鏡をかけた若い女、一応武器として拳銃を握ってはいるものの、それを使うつもりもないらしい。
「私は宮野水夏という者だ。えぇっと、パソコン見た?」
「パソコン?メール?……あぁ?なんか、離脱したとか書いてありませんでした?」
「そう、それ!!戦線離脱してるから、参加者じゃないんだよ。な、だから殺しちゃだめ」
「……。じゃあ、参加者でもないのになんでうろついてるんです?」
 こっちは殺したくてウズウズしてるのに、と苛立ちながら問いを重ねる。あの宮野とかいう女が嘘をついているだけかもしれないし。
「これには深い理由が……」
「聞きたくないので殺してもいいです?」
「だ、だめ!!話す!簡潔に話すから!!」
「……じゃあ手短にどうぞ。原稿用紙二枚以内で。」
 ついでに言うとバカの相手もしたくないんだけど。よく考えたら原稿用紙二枚も聞きたくないし。一枚でも多いぐらいだし。
「管理人の闇村さんって知ってるか?あの人にな」
「……はぁ」
「参加者と接触してみたらどうかしら?ウフフ、きっとお勉強になるわ。……と」
 物真似付きの説明は、確かに宮野が闇村さんと接触していることを証明していた。似てるから。
 けれどその内容に関しては今一つ納得出来ない。まぁ闇村さんなら言いそうだけど。
「で、お勉強しに来たんですか?単身で?殺されても知りませんよ?」
「う、うわ、だから、殺すなっつーの!あ、あのな、参加者には色々管理するためにマイクロチップが埋め込まれてるんだよ。で、もし参加者が私みたいな参加者じゃない人間を殺そうとしたり、その他怪しい動きを見せたら、参加者のマイクロチップに電流が流れる仕組みになってるのっっ!!」
「……はったりですか?」
「いや、本当なんだって!今も三宅さん……あぁつまり管理スタッフの人が私達の動きを見ててくれてるんだよ、だから、もし茂木さんが妙なことしたらビリビリッとなるわけ!いいなッ!」
 熱く説明されても、やっぱり納得出来ないものは出来ないわけで。
 じっと宮野を見つめ、「ふーん」と軽く相槌を打った後、そろそろ照準でも定めようかと散弾銃を構え――ようとした。その時。ビリビリッ……と。
「……ッ……痛ぁ……」
 首筋辺りに電撃が走ったような痛みに身体の力が抜け、思わずその場にペタンと膝をついていた。
「ほら!言った通りだろ?」
 妙に勝ち誇ったような表情で宮野が言う。先ほどのへっぴり腰はどこへやら、廊下の角に身を隠すこともせず、少し私との距離も縮めていた。
 宮野の言う通りのようだ。残念だけど下手に手を出せば、今以上の電流が走るのは間違いないだろう。
「……で。……戦線離脱した人間が何の用です?」
 首筋を押えつつ、立ち上がって体勢を立て直す。殺せない人間に用はないので、思いっきり邪険に扱ってもみるのだが、宮野はめげることなく更に距離を縮めてきた。
「私もよくはわからないんだけど、闇村さん曰く――螢子と話してみるのも良いかもしれないわね?……と」
「似てるのはわかりましたから。……闇村さんもいい加減なことしないで欲しいんですけど」
「それは私に言われてもな。」
「伝えておいて下さい。」
「あぁ、わかった。」
 ……。
 本当に何しに来たんだろう、この子。
 まぁ折角管理人サイドの人間が来たんだから、この機会に色々聞いておいても良いだろう。
「時に宮野さん。あなたより先に戦線離脱した木滝真紋さんをご存知ですか?」
「あぁ、今日も……っていうか、ついさっきまで一緒にいたところだよ。」
「……真紋さん、まだこの建物の中にいるんです?」
「本当なら出てっても良いらしいんだけどな、傷がある程度治るまではこの建物の中で安静なんだと」
「ふーん……」
 ふっと蘇る、あの血塗れの部屋での光景。真苗さんは既に出血多量の状態で死に至る間際だったのは確認済みだったけれど、真紋さんの傷に関してはしっかり見てもいなかったし、どのぐらい深い傷なのかもよく知らなかった。私を殴れるぐらいの元気があったんだから大したことはなかったんだと思っていたけれど、案外深い傷だったらしい。ああいうのを、火事場の馬鹿力とか何とか。
「お大事にって伝えといて下さいね。」
「ん、了解。茂木さんは、真紋さんと交流があったのか?」
「……交流」
 ぽつりとその言葉を復唱し、思わず吹き出しそうになった。そっか、宮野は私が真苗さんを殺したことも、真紋さんを傷つけたことも知らないんだ。――交流というのもあながち間違いではないけれど。
「真紋さんの大切な人を殺して、ついでに真紋さんのお腹も撃っちゃいました。仲良しでしょう?」
 不思議そうな顔をしている宮野に、皮肉混じりにそんな言葉を放つ。すると宮野はふっと表情を曇らせて、「あぁ」と納得したような声を上げた。
「真紋さんが殺したいほど憎んだやつってのは、お前のことか」
「わぁ、そんなに憎んでくれてるんですね。嬉しいです。」
「……嬉しい?」
 どうやら宮野は“至って正常”な人間らしい。私の異常な言葉に対して、面白いぐらいに怪訝そうなリアクションを返してくれる。私は笑みを深め、「嬉しいですよ」と頷いた。
「憎しみ、蔑み、或いは――殺意。そんな感情を抱いてくれるなんて、光栄じゃないですか。」
「……それは、頭がおかしい、とか言わないか?」
「そうですね。一般的にはそう言いますよね。異常者です。」
「自分で言うか、そういうこと」
「自覚がないよりましでしょう?」
 異常者に対する蔑みの眼差し。それに相反して、私が浮かべる笑み。
 こんなやりとりを何度繰り返しただろう。組織のトップとは孤独な存在だ。組織の人間すらも私を慕えど、それと同時に怯えもする。私と同等の人間など存在しない。だからこそトップになれるのだ。
「そうやって何人の人間を殺してきたんだ?」
「さぁ?数え切れませんね。実質、死刑には十分な数を殺しているのは確かですけど、表沙汰になっていない分も含めれば優に十回ぐらいは死ねそうですよ?」
「……」
 所詮一般ピープルである宮野に私の気持ちを理解することなど出来るはずがない。
 「ヒトヲコロシテハイケマセン」なんて。そんな教育を鵜呑みにするのはバカのすることだ。
「……茂木は確か、冤罪を主張していたんじゃなかったか?」
「あぁ。そうですね。その通りです。」
 彼女の言葉に頷く。すると、宮野は益々表情を曇らせて問いを重ねた。
「そうやって罪を軽くしようとしたのか。……もっと演技力があれば良かったんじゃないか?」
 皮肉混じりの言葉には、皮肉を返すべきなのだけど。
 彼女の言葉には誤りがあった。
「演技は完璧。いいえ、演技なんかじゃなかったんです。私は、自分が冤罪だと信じて疑わなかったんですから」
「……なん、だ、そりゃ?」
 そう言えば、この話を誰かにするのは初めてなのかもしれない。
 闇村さんはきっと全てを理解していた、だから敢えて尋ねなかった。一番聞きたそうなのは深雪さんかもしれないけれど、彼女はその問いを私に投げ掛ける前に死んでしまった。
 折角だから話してあげよう。私が私自身に植え付けた偽りを。
「宮野さんとは初対面だから知らないんでしょうけど、三週間前の私を見たら、きっと驚いたでしょうね。」
「どんなふうに?」
「こんなに純粋で無垢な少女が、あんな凶悪な犯罪を犯したのかって。会う人の殆どが私が冤罪なのだと信じてくれたんですよ?」
 クスクスと笑みを漏らしながら、少し前の自分自身の姿を思い浮かべた。
 どこにでもいるような冴えない女のコ。余りに普通過ぎて、自分でも嫌気が差していた。組織が起こした犯罪を、下っ端――否、組織の性欲処理係でしかなかった私が押し付けられた。どうしてこんなことになってしまったんだろう。私は何もしていないのに――……ってね。
「私は組織に命令されて、あんな犯罪を起こしてしまったんです。あぁ、心底後悔しています。人の命は尊いものなのに!!」
「……」
 残念ながら今の私には演技力が欠けているらしい。わざとらしい台詞に、宮野はやはり怪訝そうな顔。
 だけど三週間前の私は、この台詞を本気で言っていた。だから誰もが信じてくれた。
 あの空軍の二人はなんて言う名前だったか……叶と鴻上、だっけ?
 『ちゃんと反省しているなら、それでいいんです。死刑という残念な形になってしまいましたけど……』
 『そうね、螢子ちゃんって本当にイイコだし。死刑にしたやつらの方が死刑よねぇ?』
 ……バッカみたい。
 だけど本当にバカなのは、その偽りの自分に酔いしれていた私自身だ。
 反省して、後悔して、自己嫌悪に陥って、そして二人の言葉に救われた?
 あぁ、なんて“正常な”私だったのだろう。
「もっとわかりやすく話してくれないか?……何故、三週間前、自分は善人だと思い込んでいた?」
 宮野は焦れるように言い、ややこしい、とばかりにくしゃりと頭を掻く。
 確かに現実感のない話だろう。その理由を話したところで現実感がないことには変わりないが。
 私は指で銃を模り、それをこめかみに当てて見せた。
 ――既に、このこめかみには穴が空いている。
 私が壊した私自身。それは、偽りの記憶の中で生きた私。
「要するに。……記憶をいじったんですよ。」
「……記憶、を……?」
「そうです。組織のトップだった私は、ある時致命的なミスを犯してしまった。部下の一人が組織を裏切ったんですよ。――その途端、他の部下達も一斉に組織を裏切った。いいえ、組織の殆どの人間が裏切れば、それは組織ぐるみの裏切りです。」
「つまり、組織を裏切った、じゃなくて」
「そう。組織が私を裏切った。」
 あの時のことは今も鮮明に覚えている。私が統べ、私の意志のままに動いていた組織。私の力があったから組織は存在した。私という核がなければ、組織は存在することなど出来なかった。
 それなのに、組織の人間は無能ばかり。この私を裏切れば組織が壊れることなど目に見えているのに。
 その無能たちの所為で、私は窮地に追い込まれる。さすがの私も狼狽した。
「そこで私は、警察の科学的調査から逃れるために自らの記憶を改変することにしたんです。ほら、今は嘘発見器だとかが発達しているでしょう?さすがにそういった心理分析を欺ける自信はありませんしね」
「だからって普通、記憶を変えたり……しないよな。」
「裏の世界では常套手段ですよ。どうせこのプロジェクトから出て行く人だって、ある程度の記憶はいじられるんでしょう?」
「……らしいな。それで記憶を改変……して?改変ってそんなに簡単に出来るもんなのか?」
 宮野はあまり話についていけないような素振りすら見せる。それでもなんとかついて行こうと、時折質問を交えながら真剣に私を見据えていた。――この異常者にそんなに興味を持ってくれるなんて、光栄なこと。
「正確には、改変ではなく封印したんです。私が組織に足を踏み入れてすぐの頃から、今現在に至るまでの記憶をね。……昔は、私も至って正常な意識を持っていましたし」
「……うーん」
「難しいですか?結構単純なお話なんですけど」
「……いや。凄いなぁと思って。」
 純粋な感想とばかりにそう告げる宮野に、私は思わず吹き出していた。一般人の感性から言えばこの感想は当たり前なのだろう。私の感覚、随分麻痺してしまっているらしい。
「そうして、警察から取調べを受けるであろう期間中だけ、“異常な私”を封印しました。そうすれば情状酌量の余地ぐらいは出てくるんじゃないかと思って。……残念ながら、警察は残酷でしたけど。」
「要するにあれだろ、記憶変えた意味なかったんだろ?」
「それを言っちゃおしまいですよぉ。」
 思いっきり痛いところを突かれて、あははは、と笑いつつも素直に肯定した。
 全くもってそのとおり。結論から言えば、記憶を封印してバカな私に戻る必要なんかちっともなかったのだ。どっちにしても死刑になることには変わりなかったのだから。本音を言えば、裁判中も開き直ってしまいたかった、なんて思ってしまうのだけど。やってしまったものはどうしようもなく、無駄に終わった、という結果が残るだけ。
 それでも、記憶を封印して良かったと思える部分だってなかったわけではない。それは、矢沢深雪という一人の女と関係を持ったこと。――今思えば、彼女も単純な人だったけれど。あの人に与えられた「アワイコイゴコロ」というやつは、なかなか新鮮で面白かった。
 もしも記憶を封印する前。否、封印ではなく、本当にその感情を抱いていた頃。つまり、私がまだ“正常な人間”だった頃に深雪さんと出逢っていたら一体どうなっていたんだろう。……今みたいに、異常な人間になることなんて、なか、った?
 もしもそうだったら――……出会わなくて、良かった。
 今の私が本来の私。
 幼い頃から感じ続けていた“正常な人間”への違和感が、ようやく解き放たれたのだから。
 この異常な私こそが、あるがままの私なのだから。
「茂木の話にはさ、味方が出てこないよな?周りは敵だらけだったのか?」
 壁に身を凭れ考え込んでいた宮野は、ふっと私に目を向けてそんな問いを投げ掛ける。
 私は一つ頷き返し、
「私に味方は誰一人としていませんでした。トップとは、そんな孤独な存在ですからね。まぁ私がトップを乗っ取った手段にも問題があったんでしょうけど」
 と、ありのままの返答を返す。今更繕うこともない。蔑まれようが構わない。
 宮野はまた冷たい視線を送って来るかと思ったが、彼女は不思議そうな表情で問いを重ねる。
「乗っ取った?……どういう手段で?」
「あぁ、えっと。私は元々は一般人だったんです。ある男と出会う前はね。確か合コンか何かで知り合ったと思うんですが、彼は組織の下っ端だったんですよ。そして彼の紹介で組織に入ったわけなんですけどね」
「ふんふん。そんなルートで入るもんなんだな」
「そうです。案外入り口はどこにでもあるものです。でも、男が下っ端だったのはちょっと痛かったですね。私の最初の階級は性欲処理係ってところですか。……あの頃が一番辛かったかもしれません」
「せーよく……しょり。」
 宮野からしてみれば、まるで映画や漫画のような展開だと思っていることだろう。私自身、その現状が受け入れられなかった頃もある。「まるでAVみたい」と、別の自分が冷たく思っていた。
 その別の自分こそが、その先、本当の自分になっていく存在だった。堕落した生活、家畜以下の生活の中で、冷たい私は渇望した。『私も人間を家畜以下に扱う立場になりたい』と。
「それでね。媚を売ったんです。始めは下っ端のやや上辺りの階級の人間、やがて幹部クラスの人間に。やってることは同じでしたけど、少しずつ階級が上がってる感じでしょう?下っ端の性欲処理よりは、幹部の性欲処理の方が上っぽいですもんね」
「う、うん……確かに上っぽい。」
「そこからです!」
 いつのまにか私自身の武勇伝になっている気がしながらも、宮野もそこそこ興味を示してくれているようなので、私は饒舌になっていく。
「幹部の人間の元にいると、時折その当時の組織のトップにも接触する機会があったんですよ。だから私、頑張っちゃいましたよ。トップに気に入られようって思って。」
「おー。それでどうなった?」
「なんと!トップの人、私のことをペットにしてくれたんですよぉ。凄いでしょ?」
「お、すごい。上り詰めたな!」
 宮野もなにやら盛り上がってくれているので、私はにっこりと笑みを浮かべて話を続ける。
 宮野の上り詰めたとの言葉に、ノンノン、と人差し指を横に振って見せた。
「所詮ペットですよ?そんなので満足出来るわけがないじゃないですか。」
「……う、そっか。じゃあそこからはどうやって?」
「簡単です。トップの人間を殺したんですよ。」
「……。」
「……簡単でしょう?」
 呆気に取られたような表情を浮かべる宮野に、クスクスと笑いながら。
 あの頃の奮闘を思い出し、なんだか懐かしい気持ちに浸っていた。
「下克上にも程があるな……。」
「ですよね。トップを殺した人間ってことで、まぁなんていうか、そこからが本当は大変なんですけど。逆らう人間もついでに殺してあげて、慕ってくれる人間を使って権力を大きくして。トップを殺してから、実質トップの座に君臨するまでに三ヶ月ぐらいかかりましたもんねぇ」
「それって、世間話調でする話ではないよな?」
「ないですね。でもまぁ過去の話ですし」
 我ながらサクサク話しすぎだろうかと思いながらも、あっさりと話せてしまう自分自身に不思議な感覚を抱く。本当に苦労して手に入れた座だったのに、こうも簡単に失って。全てを失っていれば、こんな風に話すことなど無かっただろう。
 だけど。今の私は組織のトップの座を失っても尚、無くしていないものがある。
 組織で培った経験や、確立させた意識。
 今の私には力があるのだ。
「茂木の大体の経緯は理解した……つもり。でもさ、どうしてそうも自信満々なのかが理解出来ない。」
 宮野は、今までよりも些か真面目な口調で言った。
 けれどそれは真面目な口調で言うには余りに馬鹿げていて、私は笑みを殺すことが出来ない。
「だって私、強いですから。」
「……そんなに?」
「ええ。負ける気がしません。ですから、必ずこのプロジェクトで優勝し、今一度自由を手に入れます。その後はどこかの組織に入るとかして、適当にやっていきますよ。」
 私は当然のことを言っているだけだ。それなのに、宮野は相変わらず怪訝そうな顔をしたままで、逆に何故そんな怪訝そうな顔をするのかが私には理解出来なかった。
「――勝つに決まっているでしょう?」
「……あぁ」
 曖昧な相槌の後、宮野は背を凭せていた壁から離れ、真っ直ぐに私を見つめる。
 その真摯な眼差し。彼女を殺せたら良かったのにと思わざるを得ないほどに、挑戦的な瞳。
「わかった。健闘を祈る。……最後に一つだけ質問をしても良いか?」
「ええ、どうぞ?」
 見つめ返しながら小首を傾げて見せると、宮野はふっと小さな笑みを浮かべて言った。
「茂木螢子。自分自身を何かに例えるなら、一体何だと思う?」
「……それ。ずっと前から思ってた例えがあるんです。」
「うん?」
 微かな笑みを湛えたまま、私の答えを待つ宮野の姿。
 一般人か、或いは彼女もそれなりの力を持った人物なのか。
 戦えるのならば戦いたかった。――結果の見えた勝負などつまらない?
 いいえ。私は常に勝利を収める存在。大事なのはその戦いと、そして決定付けられた結果だけだ。
 黒衣を身に纏い、血を啜る、美しく高貴な存在。世界の全てが私の為に存在している。
「―――私は、全てを統べる女神なんですよ。」





 十六階、管理室やその他諸々の設備が揃っているこの階は、参加者は足を踏み入れることの出来ない領域である。私―――宮野水夏―――は以前に例外的に入室を認められていたが、他の参加者でこの階への入室を許されている者がいるとは聞かない。つまり、ここは今の私のような非参加者にとっては安息の地とも言える場所なのだ。
 エレベーターの扉が開くと、私は真っ直ぐに真紋さんのいる個室へと足を向けた。管理室の中を通って行くルートもあったのだが、今は闇村さんと顔を合わせる気分でもない。少し遠回りではあったが、廊下を通って行くことにした。
 扉をノックすれば、「どうぞぉ」と真紋さんのやる気のない声が返ってくる。その声すらもなんだか温かく、安堵感に包まれながら扉を開けた。
「おかえり。大変だったみたいね。」
 真紋さんはベッドで上半身を起こした体勢で、少し硬い微苦笑で私を迎えた。おそらく茂木螢子とのやりとりも、モニターで見ていたのだろう。彼女は今はもう何も映っていない電源の落ちたモニターにちらりと目を向けた後、「まぁ座んなさい」と私を椅子に促した。
「……あいつは、頭がおかしいのか?」
 真紋さんのいるベッドのすぐそばに置いてある椅子に腰を下ろしながら、そんな問いを掛けていた。真紋さんは表情を硬くし、少しの間、目を伏せる。
「おかしいといえばおかしいのかもしれないし、正常といえば正常なのかもしれない。あの子は頭の良い子だと思うわ。……ただ、根本的な考え方が異常なのよ。」
 トーンの低い声でそう言って、溜息を零す真紋さん。彼女もまた、あの異常者の犠牲となった人間だ。
 つい先ほど、私と真紋さんとで他愛もない雑談をしていた時、この部屋に闇村さんが顔を出した。闇村さんは私を呼びつけ、そしてにっこりと笑んで言ったのだ。「水夏はもう戦線離脱しちゃったけれど、残っている参加者と接触してみる気はないかしら?きっとお勉強になるわよ」……と。そうして闇村さんが接触を薦めたのが茂木螢子という女。その会話は真紋さんも聞いていたはずだが、彼女は何も言わなかった。だから私が、真紋さんと茂木螢子との因縁を知ったのは、茂木螢子に会ってから。闇村さんは全てを知っていたはずなのに、敢えて真紋さんの前で茂木螢子の名前を出した。その点、相変わらず残酷な人だと思う。
 闇村さんの言い方からして、おそらくは今まで会ったこともないような類の人間と接触できるんだろうなと、最初は楽しみですらあった。相手は犯罪者かもしれない、だけれど、犯罪を起こす側だって何か思うところがあるはずだ。現に前のプロジェクトの舞台、山奥の休憩所で出会った麗美さんだって、すごく常識のある人だったし、話している感じだって普通だった。そんな前例があったことで、犯罪者に対する意識が少し変わっていたのだ。犯罪者の全てが悪人なのだとは思いたくなかったという部分もあったのかもしれない。
 ―――それなのに。茂木螢子が、まさかあれほどまでに異常な人間だとは思わなかった。
「螢子ちゃんはね、確かにちょっと前までは普通の女の子だったのよ。」
 真紋さんは私と視線を合わせるでもなく、膝にかけた毛布の模様を指で辿りながらぽつりと漏らす。模様をずっと辿っていく指先は、やがてすとんとベッドの上に落ちた。
「いい子だった。螢子ちゃんなら、私達の味方になってくれると、思ってた。……なのにね。」
 小さな笑みは弱々しく、悲しげで。くっと涙を堪えるように顔を上げては、溜息混じりの吐息を漏らす。
「あんな形で裏切られるなんて。」
 その真紋さんの言葉には、量りきれないほどの感情が詰まっている。押し殺すように、掠れた声、その奥には悲しみが垣間見える。そんな真紋さんを前にして、ふつふつと湧き上がる憤りが抑え切れない。
「あの女はやっぱり狂ってるんだ。じゃなきゃあんなことを言えるわけがない。」
「女神、ね。」
 真紋さんはクスッと小さな笑みを漏らし、ベッドサイドに置いていたモニターのリモコンに手を伸ばす。彼女の操作でパチンと音を立てながらモニターの電源が入り、そこには無人の廊下が映し出された。つい先ほど、私と茂木螢子とが接触した場所だ。
「……だけど、ただの狂言とは言い切れないわね。」
「どういう……意味?」
 真紋さんは手慣れた手つきでリモコンを操作し、画面に映し出される場所を切り替えていく。やがてその手を止めると、真紋さんは私に目を向け、こう続けた。
「あの子が言ってたことは、おそらく全てが事実。ノンキャリアの女が一気に闇組織のトップに上り詰めたって、ね……凄いこと、なんでしょ。」
 言ってから、その視線は私からモニターへと移される。彼女の視線を追うようにモニターを見遣れば、廊下の壁に身を凭れ、煙草を咥えている茂木の姿が映し出されていた。茂木は退屈そうに辺りを見回しながら、火のついていない煙草をぴこぴこと上下に動かしている。おそらくは、待ち伏せでもしているところなのだろう。
「茂木螢子には、実力がある……か?」
「そういうこと。その実力者に狙われたのに殺されなかった私は、運が良かったのかもしれないわ」
「……かもな。」
 真紋さんの言葉に少し戸惑ったけれど、結局のところその通りなのかもしれないと、私は彼女の言葉に同意した。あんなやつを誉めたくなんかないし、その存在自体認めたくもない。人間を殺めて喜ぶようなやつを許せるわけがない。
 真紋さんは私よりも冷静だ。茂木は悪人中の悪人だけれど、その実力だけは確かなもの。ただ悪人と決め付けるだけではなく、その真価まで見据えている。
「優勝、するかもしれないわね。」
 ぽつりと真紋さんが漏らした言葉に、なんとも言えぬ嫌な感情を抱いていた。
 あんな危険な女がまた野放しになったら、また被害者が出るのは目に見えていることだ。真紋さんの言う通り、茂木には力がある。闇の世界で暗躍し、罪の無い人々を殺めて楽しむんだろう。茂木はそういう人間だ。それだけは阻止したい、けれど、私にそんな権限など微塵もない。
「……殺されるかも、しれない。」
「え……?」
 不意の言葉に思わず聞き返す私へ、真紋さんは不安げな表情を覗かせた後、再度モニターへと目を向けた。じっとモニターを見つめるその瞳に映っているのは、憎むべき存在であるというのに。嫉視とは違う、どこか悲しげな眼差しを向けていた。
「螢子ちゃんだって憎んでるわよ。女神のプライドを傷つけた、この私をね。」
「……そうか。」
「この建物の外であの子と会ったら――……説得なんて聞かないでしょうね」
「ストレートで殺しに来る、か。」
 真紋さんの不安を理解して、けれど彼女に掛ける言葉が見つからない。
 沈黙が流れる中で、不意にすっと差し出された小さな手。真紋さんは不安げな表情の中、ほんの僅かに笑みを交え、「握って?」と小さく言った。
 本当ならば私が握るべきではないのだろう。だけどもう、彼女が求めている温もりは茂木の手に寄って奪われてしまった。
 彼女の指先を軽く握ると、真紋さんはそれ以上を求めることもなく、ただほんの少しだけ交わる体温を感じるように力を抜いた。目を閉じて、数十秒。
「……弱いわね。」
 真紋さんはゆっくりと目を開けると、苦笑混じりにそんな言葉を零す。
「誰にも生きる権利があるだとか、何とか。そんなこと言ってた私が、今は心のどっかで螢子ちゃんの死を望んでる。自分の命が懸かった途端、こんなに弱くなるなんて思わなかった。」
「当然のことだよ。……誰だって自分の命ほど大事なものはない、だろ」
「……そうね。」
 微かな相槌の後で、「ありがと」と笑みを向けられる。けれど、それが真紋さんの本心だとも思えなかった。
 自己防衛本能と、正義感と。二つの感情の板ばさみ。そんな彼女の苦悩こそが、真紋さんという人間の本質を表しているように思える。
 この人は、茂木とは正反対の人間だ。故に、対立したのだろうか。
 対を成す二人を思った時、私はやはり真紋さんの絶対的な味方なのだとしか思えない。
 彼女のような正義の人にこそ、未来が広がるべきなんだ。
「――水夏ちゃん。ねぇ、私は……螢子ちゃんの良心を信じてみてもいいと、思う?」
「うん。……それでいいよ。」
 頼りなく伸ばされた真紋さんの手を、そっと取って、ぎゅっと握った。
 真紋さんは少しだけ顔を上げてから、ふっと零すような笑みを見せる。
「そうする。」
 彼女の確かな頷きが、少しだけ眩しかった。
 憎んでも尚、相手を許そうとするその心。
 こんなにも素晴らしい人が、どうしてこんなにも苦しまなくてはならないのか。
 理不尽な思いに苛まれながらも、私は精一杯彼女を支援しようと心に誓った。





 廊下を歩くのは、随分と久しぶり。
 あたし―――佐久間葵―――と美雨さんは、ここ二日ほど、ずっと美雨さんの自室に篭ったままだった。食料も水も何日か分を蓄えてあったし、洋服もあんまり用なし、だった。
 何をしていたかというと――延々、セックス。
 美雨さんが求めたわけでもない、あたしが求めたわけでもない。ただ、どちらからともなく、もつれあった。
 あたしは元々エッチするの大好きだし、美雨さんも拒絶しなかった。だからそれは当然の行為。
 抱き合って、眠って、時々ご飯を食べて、シャワーを浴びて、また抱き合って。会話もあんまりなかった気がする。だけど、ずっと身体を合わせていたから、あたしと美雨さんはずっと親密になった。……って、あたしが思ってるだけかもしれないけどっ。
 そして美雨さんの部屋が禁止エリアになって、あたしたちはセックスをやめ、部屋を出た。
 目的地は決まっているのだろうか。あたしは美雨さんの後をついていくだけだ。
「葵に聞きたいことがあったの。」
 歩いていた時、ぽつりと美雨さんが切り出した。
「はい、なんでしょぉ?」
 少し足を早めて美雨さんの隣まで移動し応えると、美雨さんはチラリとあたしに目を向けては、また真っ直ぐ前を見据えて言葉を続ける。
「闇村真里について。」
「あ……はい。」
「葵の知っている限りで、ペットは何人ぐらいいたの?」
「……えーと」
 闇村さんの話をするのは、やっぱりちょっと抵抗があった。何か下手なことを言うと、美雨さんが怒る……というか。雰囲気が悪くなってしまうからだ。でも質問された以上は、その答えだけをきっぱり返せば大丈夫。
「真昼先生に、美咲お姉様、朔夜と、それから涼子さんでしょぉ。……うーん」
 とりあえず身近な四人を挙げてから、首を捻る。あたしが知ってる人、もうちっといたような気がする。
「あ、そうそう、美佳子さん。あたしが知ってるのはこの五人ですねぇ。あたし含めて六人。」
「……ミカコ?」
 ふっと、美雨さんは不思議そうな顔をして最後に告げた名前を聞き返す。
「はい、三宅美佳子さん。もう死んじゃった人なんですけどね。あたしも会ったことなくてぇ」
「……!」
 あたしの言葉を聞いた途端、美雨さんは突然、その場で足を止めた。
 あたしが何かいけないことを言ってしまったのだろうかと、不安を感じて美雨さんを見上げた。
 美雨さんにしては、険しい表情を浮かべていた。美雨さんは暫し黙り込んだ後、真っ直ぐにあたしを見つめ問い掛ける。
「じゃあ、リョウコというのは?」
「え?み、三宅涼子さんです。美佳子さんのお姉さんで、今はここで管理スタッフをして……ぁ」
 ヤバい、こんなことまで暴露したら闇村さんに怒られるかもしれない。
 でも、尋常じゃない美雨さんの様子に、思わずぽろぽろと言葉が零れていた。
「三宅美佳子。三宅涼子。……あの二人も、闇村真里のペット……」
 美雨さんは独り言のように呟くと、不意に地を蹴るように歩き出した。いつも以上に早足で、あたしは慌ててその後をついていく。
「三宅涼子はいつから闇村真里のペットなのかはわかる?」
「え、えーっとぉ……確か、美佳子さんが死んだ後に、お葬式かなんかで会ったって聞いてますけど」
「……なるほどね。」
 美雨さんは納得したような声を上げた後、また唐突に足を止めていた。
「わわ、っと」
 競歩ばり、っていうか半分走っていたあたしはいきなりのストップに慌てて急ブレーキを掛け、少し行き過ぎたので美雨さんのところまでUターンする。美雨さんは真剣な面持ちで黙り込んだ後、ふとあたしに目を向けて言った。
「これからどこに行く?」
「あれ?決まってなかったんです?」
「ええ。どこでも良いのだけど」
「あたしもどこでもいいですけど」
「………。」
 明らかに、動揺している感じだった。いつもとは全然違う美雨さんの様子にあたしはつい怯えてしまい、恐る恐る彼女の様子を見ていた。
「私はね、闇村真里に会いたいの。プロジェクトの管理者ならば、この建物の中にいるのは間違いないわね?」
「あ、はい。管理人室ってことにいらっしゃると思います。」
「管理人室はどこにあるの?」
「そ、それはさすがに言えませんよぉ。……っていうか、参加者はその、管理人室には絶対に行けないようになってるらしいんですっ。個室の鍵と同じで、個人特定をするロック?とかがかかってて、それでッ」
 思わず早口になりながらそう説明すると、美雨さんは「そう」と相槌を打ち、ゆるりと廊下を見渡した。
 美雨さんが、闇村さんに会いたい……?
 もし美雨さんと闇村さんが顔をあわせたら、一体どうなっちゃうんだろう。
 ――……きっと、とんでもないことに。
「葵は確か私が逮捕されたきっかけの事件を知っていたわね?」
 不意にそう話し掛けられて、慌ててこくこくと頷き返した。
 美雨さんは今までよりも落ち着いた口調で、話し始める。
「私と刺し違えて死んだ女子大生。……彼女が、三宅美佳子よ。」
「え……?」
「管理スタッフの三宅涼子の妹。そして、闇村真里のペットであった人物。……結局あのミスすらも、闇村真里が関わっていたなんてね……」
 美雨さんの言葉は、半ば独白のようだった。どこか自嘲的にそう紡いでは眉を寄せる。
 ……あのミス、すらも。
 そんな美雨さんの言葉から、美雨さんの人生に闇村さんが深く関わっていたということが推して知れる。
 高校生の頃は恋人だった美雨さんと闇村さん。――その後、一体何があったんだろう。
 気にはなったけど、今のあたしにそれを問うほどの勇気はなかった。
 あの美雨さんがここまで憎んでいるのだから。
 きっとなにか、とんでもないことがあったんだ。





「話しちゃったわねぇ、葵。」
 モニターを眺め、私―――闇村真里―――は抑え切れない笑みを漏らしていた。
 久々に戻って来た管理人室で、久々のモニター観賞。そこでは、思いがけず素敵な会話が発生していた。
 美雨と葵は元々会話が少ない方だからあまり期待していなかったのだけど、まさか葵があのことを話してしまうとは思わなかった。葵だって詳しくは知らなかったんだから、仕方のないことだけど。
「……闇村様」
 ふと、そばから掛けられる声に顔を上げる。そこには不安げな表情を浮かべた涼子の姿があった。
「大丈夫よ。涼子の身に危険が及ぶことはないわ。管理人室には絶対入れないし――それに、美雨が狙っているのは私だけだもの。」
 そう言って微笑んで見せるが、涼子は尚も表情を曇らせたままだった。「他にも何か不安が?」と問うと、涼子はじっとモニターを見つめ、ぽつりと言った。
「神崎美雨は……闇村様に対する憎しみを益々膨らませています。ですから、どうか……」
「私を心配してくれるのね。」
 涼子の言う通り、美雨の感情グラフは「憎しみ」を表すラインだけが突出していた。美雨が私と顔を合わせれば、更にその憎しみを増大させる。もしかしたら、このグラフで測定できないほどの膨大な感情を抱くのかもしれない。それほどまでに大きな憎しみは、モニター越しでもひしひしと伝わってくる。
「もう大切な人を失いたくないんです。」
 涼子は呟くようにそう言って、悲しげにモニターを見つめていた。涼子にとっても、美雨は憎むべき存在だ。彼女の唯一の家族だった美佳子の命すら、美雨は奪ってしまったのだから。
 私が美佳子に感謝していると言ったら、涼子はおそらく悲しむだろう。だから口にはしないけれど。
 美佳子がいてくれたから、美雨の逮捕に繋がった。そして今こうして、私のプロジェクトに美雨を参加させることが出来た。美佳子の命という代償で、私はとてつもなく大きなものを手に入れたのだ。
「美佳子の命を無駄にはしないわ。」
 言い聞かせるように告げ、涼子に笑みを向ける。すると涼子は弱い笑みを返し、「はい」と小さく頷いた。
 私のそばにいる涼子と、彼女の中で今もずっと生き続けているのであろう美佳子と、そしてモニターに映る美雨と、私。過去に起こったとある出来事で、私達の運命は交差した。
 それはまだ、美雨が凶悪な犯罪者として悪名を広める前のこと。

「――……神崎、美雨。」
 数年前、ニュースや新聞で報道された一件の事件。それは私を驚愕させるものだった。
 女子大生が、優秀な若い女医に殺された。最初は些細な事件としてしか扱われなかった。凶悪な犯罪が増加している近年、殺人事件など日常茶飯事であり、別段目新しい見出しでもない。他の事件よりも若干大きく報道されたのは、被害者が若い女性であり、加害者もまた若く将来有望な医師だったという点で視聴者の気を引きそうだったからなのだろう。その事件が報道された当初は、その医師があらゆることに関して――犯罪も含め――天才的人物であることを知っていた者など殆どいなかった。
 人々が「よくある事件だ」と流していく中、私だけはそうは出来ない理由があった。被害者、三宅美佳子。そして加害者の神崎美雨。二人とも私のよく知る人物だったからだ。全く接点のないはずだった二人が突然繋がった。
 三宅美佳子。彼女は都内の平凡な大学に通う、ごく普通の大学生だった。人懐こくて明朗な女性、人から好かれるタイプではあったが、別段頭が良いわけでも、肉体的に優れているわけでもなかった。そんな彼女が唯一普通ではなかった点は、この私、闇村真里のペットだったこと。
 美佳子と知り合ったきっかけだって、ほんの偶然。美佳子は、当時彼女の恋人だった、大企業の御曹司である青年に連れられて私が所有するクラブにやってきた。経営視察のために店に訪れていた私は、店内で彼女とぶつかり、拍子で彼女が手にしていたウィスキーが互いの服にかかってしまった。私は美佳子を店の奥に連れて行き、服を洗濯すると共に彼女に新たな服を与えた。私は金銭的にも困っていなかったし、アルコールの匂いがプンプンと漂う服を着せておくわけにもいかないと当然のことをしたまで。しかし、美佳子は、自分の非で服を汚してしまったのにと気に病み、私に恩返しがしたいと言い張った。
 ――偶々、退屈だっただけ。もし私が他に興味をそそる対象があれば、一介の女子大生など相手にもしなかった。けれど手持ち無沙汰だった私は、世間知らずの女の子に未知の世界を教えてやるのも悪くない嗜好だと思ったのだ。それは、ほんの退屈しのぎ。
 そうして私は、三宅美佳子をペットにした。
 彼女とは月に一度会えば良い方だった。私も仕事や他の嗜好に割く時間が多かったし、美佳子も大学生とはいえ、比較的真面目な学生だったので学生生活の方が忙しそうだった。けれどほんの数回のデートで、美佳子は私に惹かれていった。恋人とは私と出会った二週間後にきっぱりと決別していた。美佳子はペットとしては実に優秀だった。他に恋人を作るわけでもなく、ペットとして図に乗ることもなく、我が侭だって言わなかった。
 しかし、彼女をペットにしてから半年程経った頃、いつものように一ヵ月振りに彼女に連絡を取ろうとしたが、何度掛けても美佳子の携帯は通じなかった。美佳子が私から離れることは考えられない。とすれば、何か事情があるのだろうと楽観していた。
 ニュースを見たのは、それから一週間後のことだった。

「美佳子さんのお姉様ですね。」
 私は美佳子の葬儀に出席し、その時に涼子に出会うこととなる。報道される事件の概要だけでは、そこで一体何が起こったのかを把握することは不可能だった。何故美雨が美佳子と関わりを持っていたのか、そして何故美佳子が殺されたのか。その手がかりを掴むために、自ら調査に乗り出した。
「……はい、そうですけど……。失礼ですが、どちらさまでしょうか?」
「私、闇村と申します。美佳子さんとは生前にプライベートでのお付き合いをさせて頂いておりました。」
 私は涼子に名刺を手渡し、形ばかりのお悔みの言葉を告げた後、本題を切り出した。
「突然のことで私も驚いています。……お聞きして良いのかわかりませんが、加害者である神崎美雨とは、美佳子さんはどのようなお付き合いをしていたのかはご存知でしょうか。」
「……いえ。私もよくわからなくて……」
 涼子は酷く混乱しているようだった。昨日の今日の出来事で、彼女自身、妹である美佳子の死を受け入れることがまだ出来なかったのだろう。その場で話をするのは適切ではないと判断した私は、一言だけを残してその場を後にした。
「――神崎美雨とは、以前に少し関わりを持っていました。もし貴女が良ければ、そのことについてお話をしたいのですが。いつでも構いません、ご連絡をお待ちしています。」

 そして葬儀から一週間が経った頃、私の携帯電話に涼子から連絡が入り、私達は喫茶店で落ち合うこととなる。その間にも事件について調査をしていたが、芳しい結果は得られなかった。ただ一つだけ、美雨は美佳子以外にも何人もの人間を殺している疑いが上がったということだけが、警察関係者の者から流れてきた情報だった。
「突然お呼び立てして申し訳ありません。」
 涼子は葬儀で会った時よりもずっと落ち着きを取り戻し、その表情にも幾分の笑みが見止められた。しかしそれも、ようやく出来るようになった作り笑いといった程度で、彼女の中で妹の突然の死が消化できているとは到底思えなかった。
 簡単な挨拶を交わした後で、私達は早速本題に入ることとなる。涼子も、妹を殺めた人物についての情報が欲しくて仕方なかったのだろう。知ってどうなるというものでもないのだが、この事件に関しては被害者の家族への情報すらも少なすぎた。
「警察の方のお話では……加害者である神崎美雨は、その動機に関しても全く口を割らないんだそうです。ですから、美佳子を殺した理由もはっきりしなくて……」
「……美雨は、理由なく人を殺めるような人物ではありません。何か理由があったのだと思います。……少なくとも愉快犯などではないということ、それだけは私が証明します。」
「……あの。闇村さんは、神崎美雨と関わりを持っていたと仰っていましたが……具体的にお聞きしても宜しいですか?」
 涼子は私に対して、疑いを抱いていた。私が美雨を庇うようなことを言ったからだろう。私は彼女に、過去の美雨との関わりを話すことにした。
「美雨は、高校時代の後輩です。……そして、恋人でもありました。」
「恋人……?」
「ええ。けれど私が卒業してからは彼女とは一切会っていませんから……もう十年近く会っていないことになりますね。」
「そうだったんですか……。」
 私は当時の美雨について、涼子に話して聞かせた。口数の少ない大人しい少女。成績は抜群だったこと。――けれどその時点で、“天才”という言葉を出すことはしなかった。
 私自身、美雨と会っていない数年間で美雨にどんな変化があったのかはわからない。ただ、数年前に彼女が医療ミスによって人を死なせた――それが、私の実の父親だった。美雨と会っていないこの長い年月で、私と美雨との接点と言えばそのぐらいのものだ。だけど、――どこかで、いつも繋がっていた。
 父親のことも涼子に話すと、涼子は驚いた後で、ふっと悲しげな笑みを見せた。
「貴女も同じなんですね。……大切な人を、奪われたんですね」
 涼子は、同じ境遇ともいえる私に親近感を抱いたのだろう。私は彼女のように、「奪われた」という意識は全くなかったけれど、涼子が親近感を抱いてくれたことは私にとって好都合なことだった。
「美雨の罪は許されることではありません。……ですが何か理由があって罪を犯したのならば、その理由を追求する権利が貴女にはあるんです。私も何かお手伝いできればと思いますし……何か少しでも心当たりがあったら、仰って下さいね」
 そんな私の言葉に、涼子はしばし逡巡した後で、ぽつりと言葉を零す。真実に近い供述は、確実に私に心を許している証拠でもあった。
「美佳子が殺される……一週間ほど前、でしょうか。美佳子から電話があったんです。それが、私にとっては美佳子の声を聞いた最後だったんですが……」
「ええ……どのような内容でしたか?」
「私には今、とても大切な人がいるから、と。……何があってもその人への想いだけは変わらないと。私も最初は惚気話だと思って聞き流していたんですが、あの子があまりに真剣だったもので、私もなんだか嬉しくなって……。あんなに幸せそうだったのに、美佳子はどうしてこんなことに……」
「………」
 美佳子が涼子へと話した「大切な人」――それはおそらく、私のことだ。
 美佳子は真剣に私を愛していた。それは私自身も実感していたこと。その想いが、なんらかの形で美雨にも影響したのだろうか。
 妹の最後の電話を思い出してか、涼子は僅かに涙ぐんでいた。
 私は涼子に言葉をかけることを止め、考え込む。
 ――何故、美佳子が美雨と関わったのか。何故、美佳子は私に何も言わなかったのか。
 そして、何故あの美雨が刺し違えるなどというミスを犯したのか。
 涼子と話しても、疑問は多く残ったままだった。

「……結局、美雨が殺人を犯し続けた理由はわからないまま。」
 被害者の姉と被害者の主人であった涼子と私は、今は主従関係という仲にある。
 あの後何度か涼子と会い、やがて涼子も私に堕ちた。
 全てを話したのは、涼子が完全にペットになってからのことだ。
「美佳子が殺されたのも、神崎美雨にしてみれば……きっと誰でも良かったんですね。ただ運の悪いことに、美佳子は闇村様のペットだった。……だから、きっと」
「抗った。……そうね、美佳子はきっと死ぬ時まで私のことを忘れなかった。だからあの美雨に立ち向かうことが出来たんだわ。」
 美佳子の死亡と美雨の逮捕、それから美雨の凶悪犯罪の数々が明らかになるまで、二ヶ月ほどの時間がかかった。美雨が殺した人々には何の接点も存在しない。つまりそれは無差別的な殺人だった。美佳子もまたその内の一人だったことは明白なのだ。
 美雨は誰でも良かった。けれど不運なことに美佳子は私のペットだった。
 先ほどの葵との会話でも明らかになったけれど、美雨は美佳子が私のペットだということを知らなかった。だから、たかが女子大生だと油断して――不意の反撃に対処しきれなかった。おそらく美雨の逮捕の裏側には、そんな心理戦が関わっていたのだろう。
 しかし。美雨が逮捕されたのはある意味私の所為だと言っても過言ではない。それが美雨の憎しみの理由なのかもしれないと推測していた。――だけど違った。美雨があの逮捕に私が関わっていたことを知ったのはつい先ほどなのだ。けれど美雨はそれよりも前からずっと私を憎んでいた。――何故?
 美雨の憎しみの理由。美雨が無差別的殺害を犯した理由。 ……全てはまだ、謎のまま。
 それを解き明かす時こそが、美雨と私が再会する時になりそうね。
 美雨が求めているものとは、一体何なのか。
 私に、それを与えることが、出来るのだろうか。








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