BATTLE ROYALE 34




 鏡子の手を引いて、廊下を歩く。
 カツン、カツン。ペタン、ペタン。二つの靴音の他に、音はない。
 沈黙の中で、ふと足を止めて鏡子を見遣る。
 鏡子は私―――望月真昼―――に目を向けて、光のない瞳を揺らす。
「私はこんなことを望んでいたわけでは、ないのに。」
 独り言のように呟いた。私の言葉に、鏡子は不思議そうにして、握った手にきゅっと力を込める。
 私を見つめる黒い瞳は、一体何を見ているのか。そこに映しているものは一体何なのだろう。
 『真昼様のために、コロシ、ます』
 残酷で無垢な言葉は、予定外のもの。
 私は人形へと近づいていく鏡子に何度も告げた。
「人を慈しめる存在になりなさい。」
 ――と。
 それなのにどうだろう。
 鏡子は人を慈しむどころか、見ず知らずの人を殺そうとした。 
 そんなことを望んではいない。
 私はただ、人を愛し、人から愛される存在になってほしかった。
 どうして、こうなってしまうのだろう。
「鏡子。」
「……はい。」
「何故あなたは人を殺そうとするの。」
「真昼様のため、です。」
 真っ直ぐな返答は、柔らかな笑みをたたえて告げられる。
 自信に満ちた言葉。当然のように紡がれた言葉。
 鏡子はきっと、私しか見ていない。
 彼女の言葉に何か言葉を返すことはせずに、私は再び鏡子に背を向け、手を引いて歩を進める。
 これからまた部屋に戻って、催眠を掛け直すべきだろうか。
 だけど鏡子にどんなに催眠を続けても、今の状況が変化しないような気もしていた。
 どう打破して良いのかわからない現実に立ち竦む。足取りも次第にペースが落ちていく。
 私は一体どうしたらいいの。
 わからない。わからない。
 こんな時、あの人がそばにいてくれれば―――

『真昼の催眠術は、ある意味諸刃の剣とも言えるわね』
 あれは、いつのことだったか。
 闇村さんが不意にぽつりと呟いた。
 私はどういうことなのかわからずに、彼女の続く言葉を待っていた。
『空っぽの人間を自分の意のままに操ることが出来る。思うままの人形が出来る。――だけど、』
 だけど。
 私の催眠術の欠点。
 彼女が指摘した、その欠点は、
 私の力不足を意味するものだった。

「望月先生……」
 どこからか、消え入りそうなほどに小さく掛けられた声。
 それが私の名を呼ぶものであるということ、そして鏡子の声でもないということ。理解するまでに少し時間がかかってしまう。思惟を途切れさせ、私は声の主の姿を探す。
 人物は、後方10メートルほど向こうにいた。いた、というより、顔を出していた。
 通り過ぎて気付いたが、そこは10−Cの洗濯室。扉を少し開き、私を見ているのは――美咲さん。
 警戒している様子、ぎこちない表情を浮かべて。彼女は廊下を軽く見渡した後で、小さく手招きをした。
「美咲さん……久しぶりね。元気そうで何よりだわ。……どうかした?」
「お久しぶりです。……と、いうか」
 美咲さんは困ったように目を逸らした後、ふっと姿を消す。
 程なくして扉のところからひょこんと顔を出したのは、美咲さんではない、見知らぬ女性だった。
「あ、えーと?美咲の知り合い、よね?……ちょっち困ってるんですけどー」
 少女とも言えるかもしれない。薄い茶髪の若い女性はぽりぽりと頬を掻きながら、ちらちらと洗濯室の中に目を向ける。
「あ……私達は危害を加える気はありませんから、警戒しなくてもいいですよ。どうしたんです?」
 私は女性に問いかけながら、そばの鏡子の手を一際強く握る。私は危害を加える気はないけれど、鏡子はどうかわからない。変な動きを見せないように、鏡子の様子にもしっかりと目を向けながら、また一歩洗濯室の方へ近づいた。
「あたしたちも危害とか加えないから……ちょっと手ぇ貸して欲しいの。美咲のね、髪留めが洗濯機の中に落っこちちゃって。」
「髪留めって、あの蝶の形の?それは大変だわ」
 彼女の説明に少し驚くと共に、助けを呼ばれた理由を理解する。
 美咲さんにとってあのバレッタは抑制剤―――そのことは、美咲さんの担当医だった私もよく知っている。
 以前のカウンセリングで試しにバレッタを外してみた時も、美咲さんは非常に不安定な状態に陥った。
「美咲のバレッタの秘密、知ってるの?」
「律子……彼女は私の担当医だった人なの。だから大体のことは……」
 部屋の奥から美咲さんの声が聞こえる。この若い女性は律子さんというのだろう。
 律子さんは「あぁなるほど」と納得した様子で頷いた後、逡巡するように私と部屋の奥と交互に目を向けた。
「あーっと、ごめん、ちょっと待ってて。美咲と相談してくるから」
 律子さんは両手を合わせて私にぺこりと頭を下げた後、パタンと扉を閉めた。
 突然のことに驚きながらも、心のどこかで安堵感に似た感情を抱いているのは何故か。
 まるで、暗闇の迷路で迷っているときに、たいまつを渡されたような。出口にはまだ程遠いのは確かだけれど、その存在があるだけでもずっと心強い。
「……鏡子。」
 閉まった扉を見つめながら、私は小さく名を呼んだ。
 鏡子は「はい」といつも通りの返答で、私の言葉を待っている。
「絶対にあの二人に手を出してはだめよ。……仲間になれるのかも、しれないのだから」
「仲間……」
「そう。お願いだからこれ以上私を困らせないで。……鏡子のそばにいられるのは私だけではないのかもしれないの。わかるでしょう。」
「……はい。」
 鏡子の返答は、確信には程遠い。抑揚のない、感情の滲まぬ声を信じることなど難しい。
 だけど鏡子はきっと私の気持ちを汲んでくれると、信じたかった。





「このパネルを外してしまえば、中のものが取れると思うんですけど……」
 望月さん、だったっけか。大人っぽい優しそうな女性は、あたし―――夕場律子―――達の救助要請を快く受けてくれた。突然のトラブルに困り果てていたあたしたちは、彼女の存在に心底感謝である。
 これまでの経緯は、そろそろ洋服でも洗濯するかってことでこの洗濯室に赴き、そして早速お洗濯を始めたあたしたち。いつもの服を洗濯機に放り込み、隣の衣服室で調達した新しい服を身につけた。ぐるんぐるんと回転を続ける洗濯機を眺めつつ美咲と他愛もない世間話をしていたところ、どんな話の流れだったか、美咲の髪をいじってもいい?っていう話になって。美咲も最初は渋っていたものの、最終的にはオッケーを出してくれて。美咲のバレッタを外してその髪を三つ編みにしたりして遊んでたんだけど、バレッタを洗濯機のそばに置いていたのが悪かった。ちょっとした弾みで、バレッタが洗濯機の溝に落っこちちゃったわけ。慌てて洗濯機を止めて中のバレッタを取り出そうとしたんだけど、それがなかなか上手くいかないのっ。美咲は不安そうな顔してるし、それで余計にあたしも焦っちゃったみたいで、ね。そんな時に廊下の方から足音が聞こえて、あたしたちはそっと扉を開いてその人物が誰かを特定しようとして。そしたら美咲の知り合いだった。
 望月さんと、彼女と一緒にいた女の子。二人は手際よく洗濯機を見てくれて、オロオロしていたあたしたちじゃ気付けなかった構造もすぐに理解してくれた。
「じゃあ鏡子はそっち側を持って。ドラムを外してしまえば大丈夫だと思うから」
「……」
 鏡子って呼ばれた子、大人しそうな子なんだけど、望月さんの言葉にもこくんって頷くだけで。あたしはまだあの子の声を聞いていない。望月さんとつりあう感じもあまりしないし、不思議な子だなぁなんて思いながら美咲のそばで作業を見ていた。
 程なくして、二人の手によって洗濯機のドラムが外される。重たそうなそれを二人で抱え上げているのを見て、あたしも手伝えば良かったと思いながら二人のそばに近づき、ドラムが外されて空っぽになった洗濯機を覗き込む。二人の言った通り、洗濯機の中に転がっていた美咲のバレッタ、手に取ろうとして洗濯機に腕を突っ込んだ。
「……あ、れ?」
 バレッタに触れた瞬間、あたしは思わずそんな声を漏らしていた。奥底にあったバレッタを手に取った――けれど、それはバレッタの破片でしかなかった。慌てて洗濯機の中に顔を突っ込み残ったバレッタの部品を見ると、それは所々にひびが入り、無残な姿になってしまっていた。落っことしてからすぐに洗濯機を止めたとは言え、回転が止まるまでガラガラと嫌な音がしていた。その結果、なのだろう。
「……律子?どうしたの……?」
 美咲の不安げな声を背中で聞いた。手の中にバラバラになったバレッタを握ったまま、あたしは美咲に何と返せば良いかわからなかった。このことを告げたら美咲は更に不安げな顔をするのかと思えば、躊躇する。
「割れてるみたい……ですね」
 望月さんは洗濯機の中に残っていたバレッタの欠片を拾い上げ、ぽつりと呟いた。恐る恐る美咲を見ると、僅かに息を飲み、「嘘でしょう……?」と予想通りに不安げな表情を浮かべている。
「本当よ。……ここまでバラバラじゃ、復元も無理だろうね。」
 あたしは手の平の破片を美咲に見せ、溜息を零した。
 このバレッタは美咲にとっての抑制剤。だからこそ美咲にとってはすごく大切なもので、かけがえのないものだったはず。それを失った時、美咲は一体どうするのだろうと、不安感が募る。
「それがないと、私は……」
 美咲は壁に背を付け、ずっと目を伏せたままだった。おそらく彼女の目に飛び込んでくるものの多くが恐怖の対象なのだろう。あたしはその美咲の感覚が理解出来ないけれど、彼女が怯える様子は今までに何度も目にして来た。
「で、でもさ、だいじょぶよ、うん。こんなのなくったって……きっと」
 自分でも苦しい説得だと思いながら、美咲へと近づいた。少し躊躇ったけれど、そっと美咲に手を伸ばす。
 美咲は自分の身体を抱くように腕を絡ませていた。何かを堪えるようにその爪先を腕に食い込ませ、時折キュッと力を込める。痛々しい行為を止めようと、美咲の手を取って包むように握った。
「律子。」
「……うん?」
「どうしたらいいの?」
「……」
 目を合わせることもなく、呟くように告げられた問い。あたしにその答えを求められたって、どうしようもなかった。それと同時に何も答えることの出来ない自分が、酷く不甲斐ない。
「このままでは……世界が醜いもので溢れてしまう、――自分でも抑えきれない殺意が暴れ出すの」
 美咲は淡々と告げた後でゆっくりと顔を上げた。あたしと目が合うと、ふっと弱い笑みを漏らす。余りにも頼りない笑みに、あたしも情けない笑みを返すことしか出来なかった。
「症状はまだ軽くなっていないのね。」
 そんな声に振り向けば、真剣な表情で美咲を見つめている望月さんの姿があった。
 そうか、望月さんは美咲の主治医さんだったんだ。
「あの、ねぇ、望月さん?美咲に何かしてあげられない?」
 望みを託すように、望月さんに問い掛ける。すると彼女は一つ頷いて、
「私もそのつもりです。……と言っても、簡単なカウンセリングぐらいしか出来ませんけど。」
 そう言いながら、美咲のそばへと近づいていく。あたしは一歩引いて様子を見守った。
 望月さんが美咲の顔を覗き込むようにすると、美咲はふっと顔を背ける。小さく震えているようにも見えた。
「美咲さん、少し話を聞かせてもらえる?何か解決策が見つかるかもしれないわ。」
 望月さんが優しげな口調で言うと、美咲は少しの間の後で、こくんと小さく頷き返す。それを見て望月さんはあたしの方に向き直り、
「この階にある自由室が空いているはずですから、そちらで二人きりで美咲さんとお話をして来ます。少し待っていていただけますか?」
 そう言いつつ、ずっと黙ったままの女の子、鏡子さんの方に目を向けた。
「――心配ですけど……鏡子と一緒に。」
 一体何が心配なのかよくわからないけれど、望月さんの言葉に「わかりました」とあたしは頷く。
 望月さんは微笑んで、「ありがとうございます」と丁寧に礼をした後、そっと美咲を促して入り口の方に向っていく。
「みーさき、望月先生を困らせちゃだめよ?」
 いつもよりも小さく見える美咲の後ろ姿に声をかければ、美咲はちらりとあたしの方に目を向けて
「わかってる……」
 と、強がるように言っては弱い笑みを見せた。その様子に安堵したのも束の間、美咲は吐気を催すように口元に手を当てて俯く。そんな様子で部屋を出て行く二人を見送って、あたしは小さく溜息を吐いた。
「大丈夫かなぁ美咲……」
 閉じた扉を見遣っては、脱力するようにぺたりと壁に背をくっつける。その時ふと、じっとこちらを見ていた鏡子さんに気がついた。いや、忘れてたとかじゃないんだけど、あまりに存在感がなかったもんで……。
 この子、歳は幾つぐらいなんだろう。二十歳前後ってとこかな?街頭であたしとこの子と並べてどっちが年上でしょうっつったら、絶対10人に6人は鏡子さんって言いそうな感じよね。望月さんとあたしならきっと10人中の10人が望月さんなんだろうなぁ。実際は同い年ぐらいだろうに……。
「ねぇ鏡子さん。あのさ、望月さんって幾つかわかる?」
 なんとなく問い掛けてはみたものの、鏡子さんは不思議そうに瞳を揺らすだけ。やっぱり何も言わないのかと諦めていたときだった。
「真昼様は二十五歳だとお聞きしています……」
 呟くように返された言葉。あたしは望月さんの年齢以前に、鏡子さんが喋ったことに驚いた。
「あ……、えーと……んじゃ、鏡子さんは幾つ?」
「私……ですか?私は二十歳、ですけど……」
「ハタチィ!?うわッ、若ッ!!」
 その年齢はその年齢で驚きつつも、彼女が普通に喋れるということに安堵するあたしがいた。
 その場にずるりと座り込みつつ、ちょいちょい、と鏡子さんを手招きする。
「んじゃ……あたしは幾つに見える?」
 鏡子さんっていうより、ちゃん付けでOKよねーなんて思いながら、とことこと近づいて来る鏡子ちゃんを見上げて問い掛けた。鏡子ちゃんはあたしのそばまで来て足を止めると、きょとんとした表情であたしを見つめ、考え込む。
「見たまんまで答えていいよ。」
 この問いかけを投げ掛けると大抵の人は二十歳前後だの答えるけれど、十八歳に見られることも結構多い。そこいらが最低ラインってとこなので、それ以下で答えられると逆に嬉しかったりもするものだ。鏡子ちゃんは一体何と答えてくれるだろうとウキウキしながら待っていた。
 鏡子ちゃんはちょこんとその場にしゃがみ込み、あたしと視線を合わせた上でこう言った。
「二十代後半、ですか?」
「………え!!!?」
「あ、違いました……?」
 別に深読みしているふうでもない口ぶりで彼女が答えた言葉に、あたしは心底驚いていた。
 まさか本当の年齢を言い当てられるなんて思わなかった。っていうか過去に年齢相応に見られたことなど一度もなかった。何、この子。エスパー?!
「……あたしが二十八、って言っても驚かない?」
「確かに見た感じは若く見えますけど……こうしてお話している限りでは、分別のある大人の方だなと……」
「分別のある大人!!!」
 心底感動。こんなこと言ってくれた人初めてです。お姉さん嬉し泣きしちゃいます。
「真昼様より年上だと思うと少し意外ですけどね……」
 ガクリ。
「そ、それ言っちゃだめでしょー。自分でも思うけどさー」
 とりあえず指摘した後、きょとんと不思議そうな表情を浮かべている鏡子ちゃんにクスクスと笑みが漏れていた。なんか変な子。大人しい子ではあるみたいだけど、妙に鋭いし。
 そんなことを考えながら鏡子ちゃんを見ていると、彼女はふっと目を逸らし、どこか嬉しそうに笑みを浮かべていた。――この笑顔は何、だろう。あたしと話しててこやって笑ってくれるなら嬉しいなぁ。
「なんか可笑し?」
「あ……いえ」
 鏡子ちゃんは少しばつの悪そうな様子で小首をかしげた後、少しの間の後で、ぽつりと漏らす。
「ごめんなさい。……こうやって人とお話するの、随分久しぶりなんです。」
「うん?望月先生とは?」
「真昼様とは、……」
 さらっと言葉を返してしまったけれど、鏡子ちゃんが言葉を濁す様子を見て、あたしは何かいけないことを聞いてしまったのだろうかと不安になる。そういや、「真昼様」なんて呼び方してる時点で変といえば変だし、この子と望月さんってどういう関係なんだろう。
「あの……聞いて頂けますか……?」
 聞かなかった方が良かっただろうかと考えていたところで不意にそんなことを言われ、あたしは一瞬返事に詰まっていた。ワンテンポ遅れてこくりと頷き、「き、聞いていいなら」と言葉を返す。
 鏡子ちゃんは小さく頷き返すと、伏せ目がちな視線のまま、小さく切り出した。
「――自分を自分で制御できなくなるんです。」
 そうして彼女がぽつぽつと語ったのは、望月さんの「催眠術」に関してだった。
 望月さんは鏡子ちゃんに催眠術をかけ、鏡子ちゃんを望月さんの意のままに操れる人形にしようとした。鏡子ちゃん自身も、それを了解している――いや、寧ろ望んでいるのだという。鏡子ちゃんは望月さんを想っているから、だからこそ。あたしはその考え方に疑問を抱いてしまうのだが、ここで口を挟むことはせずに鏡子ちゃんの話を聞いた。鏡子ちゃんは今、望月さんの前で自分の思いを話すことが出来ないのだという。鏡子ちゃんにとって望月さんは主人であり、絶対的人物。“お人形”である彼女は、主人へ自分の意見を告げることを許されない。
「だけど、どうしても伝えたいことがあるんです。」
 鏡子ちゃんは真っ直ぐにあたしを見つめ、そう言った。
 望月さんが鏡子ちゃんに望むのは「人を慈しめる存在になりなさい。」というもの。それと同時に、こんな言葉を何度も告げられるのだという。「私を亡くしても強く生きなさい」。その命令は鏡子ちゃんにとって絶対的であるはずだった。しかし、鏡子ちゃんは望月さんの命令とは違う、別の意識に突き動かされることがあるのだと言う。それが「真昼様のために殺さなくてはいけない」というもの。
 そこまで話し終えた鏡子ちゃんは、ふっと吐息を零し、あたしを見て悲しげに微笑んだ。
「私はこんなことを望んでいるわけではありません。私は真昼様のためなら何でもしますし、彼女が望むお人形になりたかった。――それなのに」
「人を殺そうとしてしまう……ってこと。」
「はい。どうしてこんなことになってしまうのか……私にも、わからない……」
 鏡子ちゃんがぽつりと漏らした呟きの後、室内は静寂に包まれた。音を潜めた洗濯機、微かに漂う洗剤の香り、あたしの手の中には壊れた美咲のバレッタ。そして目の前には、表情を曇らせて俯く鏡子ちゃんの姿がある。――余りにも山積みの問題に、少しだけ頭が痛い。
 鏡子ちゃんはその場から立ち上がると、あたしに背を向けて歩き出す。彼女も頭痛を感じているかのように、その手を額に添えて頭をもたげていた。
「……律子さん」
「なぁに?」
「真昼様に伝えて下さい。私はこんなことを望んではいないのだと。それと――どうしようもなくなった時には、私を殺して欲しいと。」
「……」
 物騒な言葉に眉を顰め、壁に手を当てながら立ち上がる。
 その時、ゆらりと振り向いた鏡子ちゃんの手には――

 びゅー

「わぶっ!!」
 突如あたしの顔に降りかかった冷たい感触に、驚いてどんっと壁に背をつく。
 右目がつんと痛み、手で覆う。咽かえるほどのきつい匂いは、石鹸の香りを強くしたようなもの。
「――殺、さなくちゃ。あぁ、私は、真昼様のために、殺さなくちゃ……」
 左目でなんとか鏡子ちゃんの姿を目にした時、ぞくんと、悪寒が背筋を駆け抜ける。
 さっきとはまるで別人のような表情をしていた。虚ろな目であたしを見る、人形のような少女。
 彼女が手にしているのは水鉄砲か。そのオモチャと彼女とが余りに不釣合いだった。けれどそれがオモチャだったのはあたしからすれば幸いだった。もしあれが本物の銃だとしても、鏡子ちゃんは同じように引き金を引いて、そしてあたしを撃ち抜いていたことだろう。
 身の危険を感じ、咄嗟にあたしは入り口へと駆けていた。彼女の武器がオモチャだとかそういうこと以前に、鏡子ちゃんはあたしを殺そうとしている。それだけは確信が持てた。――逃げなくちゃ、ヤバい。
 確かあの二人はこの階の自由室にいると言っていた?まずはそこまで行こう。
 望月さんなら、きっとなんとか出来るから!





 世界が翳んで見えていた。じわじわと蝕むような恐怖に、身体が震える。
 掛けられる優しげな声すらも、受け止めることが出来ないほどに。
 なにもない部屋の隅でうずくまり、顔を伏せて目を瞑る。目蓋の裏の暗闇すらも怖くて、もうどうしようもないところまで来ているのかもしれないと、冷たく思う別の自分がいるようだった。
「美咲さん……落ち着いて。ゆっくり深呼吸してみましょう?」
 望月先生の声に少し顔を上げるけれど、一瞬視界に入る彼女の姿にも恐怖を覚える。今の私―――穂村美咲―――は、一体何が嫌悪の対象になるのかもわからない。下手すれば望月先生すらも殺しかねない。
 微かに空気を吸い込んで、吐き出して。それで症状が軽くなるわけでもないのに。すぐそばにいる主治医にも、信頼を寄せることが出来なかった。彼女が私の症状を軽く出来るとも思えなかった。
 ただ、私の頭の中には一人の女性の笑顔だけが、ちらちらと浮かんでは消えていく。
「ねぇ美咲さん。貴女はバレッタという抑制剤を失ってしまったけれど……でもね。もしかしたら美咲さんは、別の抑制剤を見つけたんじゃないかと思ったの。」
「……別の、……?」
「今の状態になっても、貴女は少しだけ笑うことができた。一緒にいた女性、律子さんと言ったかしら?」
「……律子。」
 望月先生の言葉と、頭の中に浮かぶ律子の笑顔とが交差して、涙が出そうな程に胸が締め付けられた。望月先生の言う通りなのかもしれない。――いつのまにか律子は、かけがえのない存在になっていた。
「彼女なら、美咲さんの助けになることが出来るのかもしれないわね。……良いアドバイスが出来なくてごめんなさい。私も、一体どうしたらいいかわからないの。」 
 望月先生はどこか弱い口調でそう言って、ふっと溜息を零す音。彼女も今の私を前にして困っているのはよくわかる。望月先生にも迷惑を掛けて、自己嫌悪に苛まれる。
 ――こんな時そばに律子がいてくれたら、と。
 そう願った瞬間に、別の恐怖が浮かんできた。
「律子すらも、嫌悪の対象になってしまったら」
 口にした瞬間、世界の全てが絶望へと変わってしまうような気がして、一際強く自分の身体を抱きしめた。律子まで失ってしまったら、私は――
「……或いは」
 ぽつりと、私の言葉に続けるように望月先生が言葉を発す。怖かったけれど、恐る恐る顔を上げ、彼女の姿を目に留めた。望月先生は視線を落として続く言葉を考えているようだった。やがて私の視線に気付くと、望月先生は厳しい表情で私を真っ直ぐに見据え、こう言った。
「闇村さんにも見放されてしまったら。――どうなると思う?」
 ドクン、と。心音が大きく響いた。
 もう一つの希望。それと同時に、絶望の人。
 闇村さんは何もかもを、その手に握っている。私の存在そのものすらも。
「やめ、て。そうしたら私は……!!」
「……、どうなるの?」
「殺、してしまうかもしれない。自我すらなくして、何も見えなくなって!……壊れ、て……」
 望月先生の冷めた目が、私の中の鈍色の感情を突き動かす。
 気付けば私の手は、アイスピックを握りしめていた。
 人の命を奪うことすら容易い、その武器を。振り上げて、切っ先を望月先生に向けて。
 私は一体何をしようとしているの――?
 ドクン。
 心音が一つ鳴る度に、世界から色が減っていく。
 次第に白黒の世界になって。そして闇に満たされるのだろう。
 その頃には、私は壊れていて――

「美咲!やめて!!」

 その声が聞こえた瞬間、世界が色を取り戻す。
 私は一体何をしていたのだろうと。振り上げたアイスピックを下ろして、それから声がした方へ目を向けた。
 部屋の入り口。開いた扉。真っ直ぐに私を見つめているのは、律子。
 愛しい人の姿に安堵すると共に、胸が熱くなり、涙が頬を伝う。
 どうしてこんなにも、彼女が愛しいのだろうと、不思議なほどに。
「望月さん、鏡子ちゃんを止めてあげて。」
 律子は私のそばに駆け寄りながら、望月先生にそんな言葉を投げ掛ける。ほどなくして、律子を追うように室内に入ってきたのは望月先生と一緒に行動していた女性。彼女が鏡子さん、だろうか。
「……殺さなくちゃ……殺さなくちゃ……」
 鏡子さんはうわ言のように呟きながら、光のない瞳で室内を見渡す。
 ふっと目が合った瞬間、何とも言えぬ嫌な感覚に襲われた。
 彼女は既に自我をなくして、壊れたように人を殺める存在、そんな風に感じられて。私もあんな風になってしまうのかと恐怖を覚えた。壊れたくなんかない。今までのようにただ、律子と笑い合っていたいのに。
「美咲、大丈夫?……どうしてこんなこと……」
 律子の優しい声。律子は心配そうに私の顔を覗き込み、そっと髪を撫でてくれた。私が握っていたアイスピックを取り上げ、私の手の届かないところに置いて。まるで凶器をオモチャにしてしまう子どものようだと、自分自身が情けなかった。
「ごめんなさい、……私……」
 律子がそばにいてくれることがこんなにも嬉しいのに。なのに想いも何も口に出せず、心の片隅ではまだ恐怖が渦巻いている。縋るように、律子の手をぎゅっと握り、その温度を感じていた。
「鏡子……またなの?」
 少し遠くで、望月先生の厳しい声が聞こえて顔を上げる。望月先生は鏡子さんに向かい合い、叱咤するような口調で言葉を続ける。
「どうしてこんなことをするの?人を殺したりして、私が喜ぶとでも思っているの?……どうして私の言うことを聞いてくれないの……」
 どこか自嘲的な言葉でもあった。初めて目にする望月先生の弱い一面。不思議な思いで眺めていると、意外な人物が口を開く。
「望月さん、鏡子ちゃんは自分の意志で人を殺そうとしてるわけじゃないのよ。」
 律子だった。律子は真摯な表情で望月先生を見据えて言った。どこか悲しげにも見える、その横顔。
「鏡子の意志じゃない……?どういうことなの?」
「あたしに話してくれたの。もう自分の気持ちを望月さんに伝えることは出来ないからって。……鏡子ちゃんだって望月さんの気持ちに応えたいと思ってる。それなのに、別の意識が芽生えてしまう、ってね。」
「……」
 望月先生は律子の話を聞くと、表情を曇らせて鏡子さんに目を向ける。
 鏡子さんは何も映していないような濁った眼差しを、宙に向けるだけだった。
「……私が催眠術なんか掛けなければ良かったのに、ね」
 独白のような言葉に、応える者は誰一人としていない。
 沈黙に覆われた室内は、それぞれの想いが交錯していた。





『空っぽの人間を自分の意のままに操ることが出来る。思うままの人形が出来る。――だけど、』
 今頃になってようやく私―――望月真昼―――は、闇村さんの言葉の意味を完全に理解した。
 彼女が続けた言葉はこうだ。
『歪んだ人形が生まれてしまう可能性も否定出来ないわ。もしもその人形となる人物、つまり催眠術をかける人物に、強すぎる意志があった場合。元からある強い意志と、そして洗脳によって刷り込まれた意志とがぶつかり合って、新しい意識が生まれるの。……そうね、例えば美咲に催眠術を掛けても、その現象が起こるでしょうね。美咲の強すぎる意志とは、私への想い、“闇村さんのペットである”っていう自意識ね。その意識と洗脳による新しい意識とがぶつかり合ってしまう、ということよ。』
 そう聞いた時は、闇村さんの言葉が今一つピンと来なかった。
 理屈としてはわかるものの、そんなことはありえないと、どこかで逃げようとしていた。もしも彼女の言葉が事実だとすれば、私はその強い意志を持っていない人間を選べば良いのだと。そんな考え方は、あまりにも容易すぎた。
 鏡子に催眠術を掛ける時、闇村さんの言葉を思い出さなかったわけではない。だけど鏡子は既に空っぽに近い存在だと思った。私を慕ってくれているし、これほどに催眠術に適した人間はいないとすら思っていた。
 だけど。鏡子の強すぎる意志というのは――― 私への想い、そのものだ。
『真昼様をお守りしたい』
『人を慈しめる存在になりなさい。私を亡くしても強く生きなさい』
 鏡子の中の二つの意識が、新たな意識を芽生えさせる結果になった。
『真昼様のために“人を殺める存在”』
 導かれた結論を理解しても、それがすぐ解決に直結するわけではない。
 寧ろ難しいのはここからだ。――解決策など、見つかるのだろうか。
 まるで先の見えない暗闇にいるような、絶望にも似た感覚にふっと溜息を零した。
「また暗い顔してるわねー」
 不意に背後から掛けられた声。窓際にいた私が顔を上げると、ガラス越しに手を振る律子さんの姿が見えた。私は振り向き、笑みを向けようとするが、それは苦笑いにしかならなかった。
 十階の洗濯室で二人に会ってから、同階の自由室に移動して。それから私達は話し合った結果、一緒に行動をとることにした。色々と問題はあるけれど、人数が多い方が心強い。六階の私の自室へと移動し、一時はこの部屋で過ごすことにした。時刻は夜の十時、美咲さんと鏡子は疲れてしまったのだろう、既にベッドに横になり、寝息を漏らしている。
「色々と考え込んでしまって……これからどうしよう、とか。」
「まぁね、考えるわよね、そりゃ。こんな問題児二人も抱えてればね。」
 律子さんは軽い口調で言って、ベッドに腰を下ろしながら眠っている二人に目を向ける。
 問題児、確かに言う通りだけどなんだか可笑しくて。つられて小さく笑いながら、私も二人の姿を見つめた。眠っていれば、本当に普通の女の子なのに、ね。
「……あたしね、鏡子ちゃんからもう一個伝言預かってたの。」
 律子さんは、鏡子に毛布を掛けなおしながらそんな言葉を切り出した。
 言い躊躇うような間の後で、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「どうしようもなくなった時は、私を殺して欲しい……って、ね。」
 律子さんはそう告げた後、ふっと悲しげな笑みを浮かべる。
「鏡子がそんなことを?」
「うん。……でも、あたしは伝言を伝えただけで、その内容に関しては反対よ。」
「……」
 鏡子が、私を想う故に告げた言葉、なのだろうか。いじらしい彼女の想いに胸が熱くなるけれど、私自身が鏡子の望みを叶えられるとは到底思えなかった。私は、人を殺すなんて……。
「……律子さん。……ねぇ、一体どうしたらいいんでしょう?……私は、鏡子に酷いことをしてしまった。……全部私のせいなんですっ」
 溢れるような言葉、止めようとしたけれど止められず、全てを言い切った後できゅっと唇を噛む。もう自分ではどうしようもないところまで来てしまった。だけど、律子さんに救いを求めたって、彼女がその術を持っているはずもない。
 律子さんは弱い笑みで私を見上げ、ぽんぽんと、隣に座るようにベッドを叩く。
 彼女に促されるままに隣に腰を下ろせば、律子さんはその手を私の頭に伸ばし、そっと撫でつけた。
「自分を責めちゃだめよ。誰が悪いとか、そういうことを考えてたって仕方ないでしょ?……って言っても、自分を責めるなってのも無理な話よね。あたしだってものすごく後悔してる。美咲のバレッタさえ外さなければこんなことにはならなかったのに、って。」
 そんな話を聞いて、律子さんは律子さんで悩んでいるのだということを今頃になって知った。だけど彼女はそんなことを感じさせないような明るい振る舞いをして、いつも笑顔を浮かべている。そんな強さに、美咲さんも惹かれたのかもしれない。
「でも。後悔することはあるかもしれないけど、絶望しちゃだめ。希望はきっと見つかるはずだから。」
「……はい。」
 一つ頷き返した後、髪を撫でられる優しい感触に、ふっと涙腺が緩んでくる。こうして誰かに甘えたのは、随分と久しぶりだ。律子さんの年齢を聞いた時は驚いたけれど、今はすごく納得出来る。私よりも年上の優しい人。その三年間の違いが、彼女と私の強さの違い。
「鏡子ちゃんも美咲も辛いんだろうね。……あたしたちが頑張んなきゃね。」
 そう言って向けられた笑みに、また一つ頷いた。上手く言葉にならなかったけれど、彼女の精一杯の励ましに応えたくて。何度も頷いた後、目に溜まった涙を拭う。
 今は、泣いてなんかいられない。





「きゃぁっ、可愛いーっ」
 と、そんな黄色い声。
 あたし―――沙粧ゆき―――はちょっぴり驚いて、その声の主を見遣った。
 彼女は両手を胸元で組んで、「似合う似合う」と満面の笑みを浮かべている。
「や、闇村さん……??」
 あたしはその女性――闇村さんにジト目を向け、自分の格好を見おろした。
 黒のワンピースにふわふわフリルのついたエプロン。確かに可愛いけど、可愛いけどッ……
「メイドコスプレじゃないですかぁぁっっ!!!」
「そうよ?」
 うわ、開き直った。
 やっぱりこの人に任せたのが悪かったのだろうかと、落胆の溜息をつく。
 そんなあたしに闇村さんはクスクスと笑みを漏らし、
「冗談よ、冗談。ゆきちゃんに着て欲しいのはこっち。」
 と、少し膨らんだ袋を差し出した。
「じょ、冗談って……んもぅ、遊ばないで下さいよぉ」
 そんな不平を漏らしつつ袋を受け取り、中に入った服を取り出す。
 入っていたのは、白のアンサンブルと、黒色ベースのドット柄スカート。あたしが買ったこともないような、大人っぽい雰囲気の洋服だった。
「さ、その服は脱いで。折角だから私が着ようかしら。」
「そそそそそ、それもやめて下さい!」
 慌てて否定しつつも、似合いそうかもしれない、なんて内心思ってしまう。闇村さんって大人っぽい服も当然似合うんだけど、こういう可愛いのも似合うんだろうなぁ。美人さんって羨ましい。
「あ、それから下着も用意したわ。やっぱり女は内側から綺麗にならないとね。」
「下着も着替えるんですか!?」
「もちろんよ。」
 闇村さんはあっさり言って、先ほどよりも若干小さめの袋を取り出し、あたしに差し出す。
 はぁ、と小さく溜息をつきながら袋を受け取り、早速着替えるべく、あたしは洗面所に向ったのだった。
 大人の女にしてあげる、なんて言われてから、それから衣服室と同じ階の空き部屋10−Aに移動して。闇村さんは「ちょっと待っててね」とあたしを置いて部屋を出た後、しばらく戻ってこなかった。暇だったのでパソコンで遊んだりしていると、一時間程経って闇村さんは幾つかの袋を手にして戻って来た。そして「さぁやるわよー」と意気揚揚に差し出された一個目の袋に入っていた服を着てみれば、メイドコスプレだった、というわけで。
 上下セットのブラとショーツを身につけつつ、ふと鏡に映る自分自身の姿に目を止めた。
 相変わらず子どもっぽい体と顔立ち。不細工じゃないから良いけど、もうちょっと美人だったりしたら良かったなぁとか思っちゃったりもする。胸だって霜先輩にまで「洗濯板」とか言われるし、こんなんで本当に大人っぽくなれるのかなぁ。
「ゆきちゃん?」
 突然、コンコンとノックと共に声を掛けられ、慌ててブラのホックをプチンッと止めた。
「は、はいっ?」
 焦った声を返せば、扉の向こうでクスクスと笑う声が聞こえる。
「心配しなくても襲ったりしないわよ。サイズは大丈夫?」
「あ、はーい、大丈夫ですっ」
 襲われるほど可愛くないし、とか思って赤面しつつ答え、ふぃ、と溜息をつく。
 さっき衣服室で闇村さんに抱き寄せられた時、不覚にもドキドキしちゃったのは内緒。
 でも闇村さんはそういう意味で「大人の女にしてあげる」って言ったんじゃないってのは、今の態度からも明白だし。あぁなんか変なこと考えちゃう自分が恥ずかしいッッ!!
 続いて洋服も身につけ、再度鏡に向かう。白いキャミソールを着て、それからふわふわっとしたドット柄のスカートを履いて。このスカート、履いてみて気付いたけど左右非対称の形をしてる。アシンメトリーって言うんだっけ。そしてアンサンブルのカーディガンを羽織っておしまい。……確かに大人っぽくて可愛い、けど、この顔じゃ似合わないような気もしなくもないなぁ……。
「着替えましたぁ」
 ドアを開くと、にこにこと笑みを浮かべる闇村さんの姿があった。
「うん。予想通り可愛いわね。じゃあ次行きましょうか。」
 そんな言葉に、「次?」と首を傾げる。気付けば、部屋に備え付けられた机には鏡やらお化粧道具やらマニキュアやら色んなものが乱雑と並べられていた。
「はい、座って座って。まずは髪を可愛くしましょうね。」
 促されるままに椅子に腰を下ろすと、闇村さんはあたしの髪のゴムを外し、ブラシで髪を梳く。正面に鏡があって、後ろから髪をいじられていると、なんだか美容院にいるみたい。闇村さんはスプレーであたしの髪を湿らせた後、器用に髪を分けて幾つかの束を作り、それを三つ編みにしていく。
「時間と器材があればウェーブとかつけちゃうんだけど……。今度試してみてね?絶対可愛いから。」
「は、はぁい」
 本当に美容師さんみたいだと思いつつ返事をし、尚も器用にくるくると結われていく三つ編みを眺めた。普通の三つ編みよりもかなり緩い感じで、残ってる髪も結構多くて。二つの三つ編みが出来上がると、今度は残った髪にヘアワックスを馴染ませて、毛先に動きをつけていく。
「可愛いー……あのぉ、この髪型って何て言うんです?」
「これ?そうね……ふんわり三つ編み?」
 アバウトな答えが返ってきて拍子抜けしつつも、整えられていく自分の髪にぼんやりと見惚れていた。
「はい、出来た。次はお化粧!」
「お化粧もするんですか?」
「もちろんよぉ」
 なんだか楽しそうな闇村さんの様子に、遊ばれてるような気がしつつも、それで可愛くなれるならいっかぁなんて思って。椅子の向きを変えて闇村さんと向き合うと、目が合って少しだけ恥ずかしくなった。
「緊張しなくても大丈夫。元が良いから、びっくりするほど可愛くなるわ。」
 闇村さんは微笑んでそう言うと、濡れたタオルであたしの顔を拭った後、水タイプのファンデーションを手の平で伸ばしあたしの顔に塗っていく。
「……あの、闇村さん?……あたし、これで本当に大人になれますか?」
「外見を良くするだけじゃ大人にはならないわね。」
「はぇ……?」
 予想外の言葉に驚いている間にも、お化粧は進んでいく。粉のファンデーションを軽くはたいて、それから小さなハサミとペンシルで眉を整えたりもして。
「大人っぽくなったゆきちゃんを、ゆきちゃん自身に見せてあげて。まずはそれからよ。……後は気持ちの問題。今からでもゆっくり考えていてね。」
 アイメイク、口紅、軽いチークに、マスカラ。普段はしないようなお化粧が施されていく中で、闇村さんの言葉通り、あたしはぼんやりと考えた。
 『大人の女は、勝機のない勝負は降りるものよ』
 そんな闇村さんの言葉が、全てを物語っているような気がする。霜先輩はあたしのそばにいても、ずっとずっと、水夏先輩のことしか見ていなかった。あたしだって精一杯努力したのに。なんとかして、あたしの方を見てくれないかなって、頑張ったのに。――それほど、霜先輩の気持ちは大きかった。
 あたしって本当に子どもだなぁ。水夏先輩さえいなくなっちゃえばいいんだ、なんて。本当はそうじゃない。水夏先輩がいなくなっても霜先輩はずっと水夏先輩を見てるんだ。
 あたしだって大好きなのに。霜先輩のこと、目一杯大好きなのに。
 ……でも霜先輩はきっと、あたしの気持ちに応えてはくれない。残酷なまでに優しい人は、困ったような笑顔を浮かべているだけなんだ。
「出来上がり。……さ、鏡を見てみましょう。」
 闇村さんの言葉で現実に引き戻され、あたしは机に置いてある鏡を見ようとした。けれど闇村さんはパタンとその鏡を伏せ、あたしを立ち上がらせる。
「その洋服と、その髪型と、その顔と。全部を合わせて見た方が実感できるわ。」
 闇村さんはそう言って微笑むと、あたしを促して洗面所へ向かう。
 扉を開けて、ひょこんと洗面室に足を踏み入れて。
 大きな鏡に映った、姿。
 隣にいるのは闇村さんで、そして、彼女が肩に手を掛けている女の子は――……あたし?
 少し言葉を失ってしまった。あまりに見慣れぬ姿。そして、大人っぽい姿。
「……めっちゃ、可愛い。」
「でしょう?二十歳ですって言っても通用するわよ。」
 闇村さんはクスッと笑んで、少し跳ねたあたしの髪を指先で撫で付けた。
 一度闇村さんを見上げ、改めて鏡に向かう。
「これが、あたし……。」
 映っているのは“大人っぽい”女の子。
 じっと見つめて、二人の先輩のことを考えた。
 あたしは、
 あたしは……―――
「“大人の女性”に、ならなくちゃ。」
「そうね。……マニキュアを塗ってあげる。ネイルアートには自信があるの。」
 闇村さんは優しく微笑み、またあたしを促すようにそっと肩に手を置いた。
 そんな闇村さんを見上げ、少し躊躇ったけど、問い掛ける。
「あの……あたし、魅力的、ですか?……もし、大好きな人を諦めても、でもすぐに別の人が見つかるぐらい、可愛い、です……?」
 そんな問いに、闇村さんは優しげな笑みのままでしばしあたしを見つめて、やがてそっと顔を下ろした。
 ふわりと額に触れる、彼女の唇。
「ええ、可愛いわ。―――襲っちゃいたいぐらいにね。」
 返された言葉に少しだけ笑って、「襲っちゃや、です」と、唇をガードする。
 闇村さんはクスクスと笑いながら、「残念」と肩を竦めて見せた。





「あーもう……ゆきはどこにいるんだっ……」
「見つからないな……」
 水夏と一緒にゆきを探し始めてから、数時間。一向にゆきの姿は見つからず、私―――田所霜―――はぶちぶちと愚痴を漏らしていた。水夏もどこか疲れた表情で、相槌を打つ。
 建物の中をこんなに歩き続けているというのに、ゆきはなかなか姿を現さない。幸い他の参加者と鉢ち合うこともなかったので、良かったと言えば良かったのだが。先ほど一度だけちらりと別の参加者を見かけたが、干渉することはなかった。「りっちゃんだ」と、どうやら水夏の知り合いらしく、話を聞けば一緒にご飯を食べた仲とか何とか。水夏も知らない間にいろんなことをやってたんだなと感心しつつ、尚もゆき探しは続く。
「もしかしたらどこかで休んでいるのかもしれないし、私達も躍起になるんじゃなくて散歩でもするようなつもりでのんびり探してた方が良いかもね?」
 水夏のそんな提案に私は頷いた。いい加減、嫌になってきたところでもあるし、少し疲れてきた部分もある。そんなわけで足取りを緩め、「どっか行ってみる?」という水夏の問いに私は首を捻った。
 心当たりの場所は大体当たったし、これ以上思いつくところもなかった。
「じゃあ展望室。」
 私が提案すれば、「オッケ。」と水夏は快諾する。先ほども立ち寄ったけれど、ゆきに何か思い入れがありそうな場所と言えば、ゆきから告られたあの場所だろう。だからいるとは限らないけれど。
 エスカレーターで展望室へと上りながら、ふっと会話が途切れた。ちらりと水夏に目を向けると、水夏はなにやら真摯な表情で黙り込んでいた。やがて私の視線に気付いたように、「何か?」と不思議そうに小首を傾げて見せる。
「何考えてんのかなーっと」
「んー。夜食に何を食べようかと。」
「……そんなことを真面目な顔して考えてたのか。」
「わ、悪いか!人間に食は欠かせないものだ!……っていうか、霜こそお菓子食べなくて大丈夫なのか?私と会ってから一回も食べてないみたいだけど」
「人を中毒みたいに言うな。」
「どう考えてもお菓子ジャンキーだろう!」
 相変わらずそんなバカな会話になってしまう。――けれど。
 水夏は本当に夜食のことを考えていたわけではないんじゃないかと、そんなことを思った。長年水夏と一緒にいて培われた勘というか、水夏の行動パターンというか。そういうものから見て、今のは上手い具合にはぐらかしたんじゃないかと。
 だけどそうストレートに問いかけたところで、水夏はまたはぐらかすに決まっている。
「……水夏ってさ」
「うん?」
「敵を欺くにはまず味方から、ってタイプだよな。」
「……」
 水夏は私の言葉にきょとんとして、エスカレーターの降り口でこけそうになっていた。たまにこういうバカなことをするのも水夏らしい、などと内心思いつつ、次の階へ上るエスカレーターに乗りながら続く言葉を待つ。
「かもしれない。……自分一人で何もかも解決しようとする節は認める。」
「自覚してるんだ。」
「うむ。」
 まるであごひげを撫でるような仕草をしながら頷く水夏に吹き出しそうになりつつ、ペシンッとその後頭部を叩いてみた。油断していたのか、水夏は転びそうになりながら慌てて体勢を立て直す。
「いきなり何するんだッ」
「後頭部が隙だらけだから。」
「だから突っ込んで良いってもんじゃないぞ。突っ込みにも礼儀というものがある。突っ込み道だ。」
「ふーん?」
 その突っ込み道とやらをお聞かせ願いたいところだったが、丁度エスカレーターが展望室のある階に到着する。エスカレーターを降りるとすぐに展望室の入り口があり、私達は少しだけ警戒しつつ展望室を覗き込んだ。――幸いか、残念なことに、か、展望室には誰もいない。
 私達は広々とした展望室に足を踏み入れた。夜だというのに相変わらず電気は明々と点っていて、少し眩しいほど。水夏は真っ直ぐに窓際まで歩くと、夜景を眺めながらぽつりと呟いた。
「霜に聞きたいことがある。」
「う?……何?」
 水夏の方に歩み寄ると、ふと黒いフィルムの張られたガラスに映った水夏と、ガラス越しに目が合う。
 思わずその場に足を止めて、ガラス越しの水夏から、水夏の後ろ姿に視線を移した。
「願いを三つ言ってみろ。」
「願い?」
「そう。お願い事。何でもいいよ、叶いそうにないことでもいい。今、神様がいきなり霜の前に現れて、三つのお願い事を叶えてやるって言ったら、何て答える?」
「……うーん。」
 突発的な問いかけに、首を捻った。願い事なんてそうそうないような気もするし、ありすぎて選び切れないような気もする。二十秒ほど考えて、「一つ!」と切り出した。
「まず、一生分のお菓子を下さい、だな。」
「お菓子ジャンキーめ」
「だって一生分だよ!もうお金切り詰めなくていいんだよ!」
「……一気に貰って腐っても知らないぞ。次は?」
 あっさりあしらわれて少し悲しくなりながらも、二つ目のお願い事を考える。
 世界平和だとか、ものすごく規模の大きい願いでもいいけど、折角だからやっぱり個人的なやつがいい。
「頭が良くなりますように!!」
「………」
 私が言い放つと、水夏はギギギギ、と頭だけ振り向いた。ものっすごく怪訝そうな表情を浮かべ、「何言ってんだ?」と言わんばかり。そんなジト目を送られて思わず目を逸らしつつも、
「東大とか行けたらいいじゃん!」
 と言い張る。水夏より頭が良くなったら、もう「お前はバカか?」といじめられることもなくなるし!
「霜のお願い事って子どもみたいだな。」
「……子どもっぽくて悪かったな。」
 内心ちょっぴり凹みつつも、三つ目の願いを考える。
 ――いや、これはもう最初からわかりきった願い。考えるまでもない。
「じゃあ三つ目は?」
「……水夏とゆきと私と。三人で一緒に、ここから出られますように。」
 こう、真っ向から言うのは少しだけ照れくさかったりもするけれど、これだけは外せない願い事。
 水夏は私の言葉を聞いて暫し押し黙った後、くるりと振り向いた。自信ありげな笑みを浮かべ、「そうか」と頷く。
「……何のために聞いたんだ?」
 私は首を傾げて問いかけた。すると水夏は笑みを浮かべたまま、「ふふふ」と意味深な含み笑いを漏らす。
 思わず怪訝な表情を浮かべていると、水夏はツカツカと私のそばに歩み寄った。
「その願い、叶えてしんぜよう。」
「……え?」
「0.5個だけね。」
 一体何を言い出すのかと、近づいて来る水夏を見つめていた。0.5個?どういう意味だ?
「私は天才だからな。」
 例の台詞を言いながら、水夏は私の手首を取り、ぐいっと引き寄せた。
 どういうつもりだろう。二人の距離が縮まり、不覚にもドキドキしてしまう。私よりも少し身長の低い水夏は、眼鏡越しに私を見上げる、その上目遣いにも似た視線に、思わず頬が赤くなる。
 水夏はこうして近くで見ると、案外綺麗な顔をしている。睫毛も長いし、目も綺麗。しかも唇を少し開けたままで見上げるってのは反則だろ、とか思ってしまったり。
「このままアッパーかけていい?」
「だめ」
 相変わらずなことを言う……と少し呆れながら、尚も私を見上げる水夏に目を向ける。
 こんなに無防備で、しかも至近距離。――文句言わないよな、と。
 水夏の頬に手を当てて、そっと軽いキスを落とす。……うわ、本当にしちゃった。
 水夏はきょとんと私を見上げ、ぱちぱちと何度か瞬いた。
「あー。子どもみたいなチューだな。」
 そんな感想を述べるもんだから、無性に恥ずかしくなり、水夏から目を逸らす。
「……大人なやつがしたいのか?」
 からかいを込めて、そんなことを言ってやった。
 水夏のことだから、「なわけないだろ?」とあっさりあしらうと思ってのことだった、のに。
「………」
 水夏は何も言わず、少しだけ目を伏せた。って、いうか、水夏が赤くなってるような気がするのは、私の気のせい?……気のせい、じゃ、ない?
 こんな誰が来るともわからない場所で。ちらりと入り口の方を見遣ったけれど、人の気配はないようだった。
 どこか気恥ずかしそうに目を伏せる水夏、が、どうしようもなく可愛い。
 私はそっと顔を落とし、水夏の唇に自らの唇を触れさせた。さっきはほんの一瞬のキスでわからなかったけど、水夏の唇って顔に似合わず柔らか、い……。
「……ッ」
 水夏は一瞬唇を離して空気を吸い込んだ後、その両手で私の頭を抱いて、さっきよりも少し強めに唇を押し当てる。あの水夏と、キスをしているなんて。――いまだに信じられなくて、自分の頬をつねりたい気分。
「霜?……私のこと、いや?」
「え?!……なんで?」
 水夏は少しだけ不安げに、囁くように問い掛けた。その声すらもヤバいくらい可愛くて、少し反応が遅れてしまう。水夏はまた視線を落として躊躇うような様子を見せ、
「霜から、あんましてくれないような……」
 と、恥ずかしそうに呟いた。って、これは本当に現実かッ?!
 ……あぁもう、夢でもいいよ。目の前にいる人が、どうしようもなく愛しすぎる。
「いやじゃない。」
 私はすぐに否定して、また水夏に顔を寄せた。水夏が不安にならないように、目一杯。
 すごく恥ずかしかったけど、唇だけじゃなく、舌も使って、水夏を求めた。
「ンッ……」
 水夏が微かに漏らす声が可愛くて、このまま水夏の全部を求めてしまいたい気持ちになった。
 だけど水夏はふっと唇を離すと、少しだけ潤んだ瞳で私を見上げては、恥ずかしそうに一歩引いた。
 手の甲で、濡れた唇をガシガシと拭う。やがてチラリと私へ目を向け、
「バーカ。」
 と悪戯っぽい笑みを漏らした。
「な、なんだよそれッ。……バカ。」
 無性に恥ずかしさでいっぱいになり、私も慌てて口元を拭っては、水夏から目を逸らす。
「バカはバカだよ。」
「バカって言うやつがバカだろ?」
「……バカばっかだな。」
 水夏はそんなやりとりすらも楽しんでいるようにクスクスと笑った。
 そして水夏はふっと私に背を向け、窓際へと歩いて行く。
 その後ろ姿が、少しだけ怖くて。どこか遠くへ行ってしまいそうで怖くて、追いかけようと一歩踏み出した。
「霜。」
「……」
 名前を呼ばれ、ふっと足を止める。
 少しの距離を開けて、水夏の背中を見つめていた。続く言葉は、あまり聞きたくないもののような気がして。
 何も言えずに、ただ立ち尽くしていた。
「……霜は、私がいなくても幸せになれるな?」
「………な…?」
「私じゃなくても、大丈夫だろ?」
「なんで、そんな……」
 突き放すような言葉。
 どうして今になってそんなことを。
 そう問い返したかったけれど、言葉にならなかったのは――― 
 窓ガラスに映った水夏が、とても悲しそうだったからだ。
 水夏だって望んであんなことを言っているわけじゃなくて。
 何か、そう言わなくちゃいけない理由があるんだ。
 私じゃ、それを理解することは、出来ないのか?
「……霜。ゆきならそこにいるよ。」
「え?」
 水夏が突然告げた言葉に思索は途切れ、慌てて振り向けば、
「……先輩。」
 展望室の入り口でぺこりと頭を下げるゆきの姿。その傍らには、見知らぬ女性の姿。
 私は一度水夏に目を向けたけれど、水夏は景色を見ているように、じっと背を向けたまま。
 上手く消化できない感情を抱えたまま、私は二人に会釈を返したのだった。





 我ながら奇妙な展開だと、苦笑が漏れる。
 願い事三つ。霜とのキス。そしてゆきと闇村さんの姿。
 最初の二つは私―――宮野水夏―――が仕組んだものだけど、ゆきが闇村さんと一緒に現れるというのは予想外だ。ゆきが随分前から私達を見ていたのには気付いたけれど、まさか闇村さんまで一緒とは。
 別に見せ付けようとしてキスをしたわけじゃない、けど。今しておかなくちゃ、もうチャンスはないと思った。ゆきがちらっと顔を見せた時すぐに引っ込んだのは、ゆきが気を利かせたんじゃなくて闇村さんのお陰だったのかもしれないな。――あの人もきっと、もう何もかもわかってるんだ。
「ゆき、探した……。」
 霜がゆきに投げ掛ける言葉。私は一つ深呼吸をした後で振り向き、三人の姿を目に留める。
「お騒がせしました。ごめんなさい。」
 ゆきは頭を下げた後、ちらりと隣にいる闇村さんに目を向ける。
 闇村さんはいつもの微笑みをたたえたまま、軽くゆきを促して、私達の方に近づいた。
「田所さんとは初対面ね。初めまして。このプロジェクトの管理人をしている闇村真里と申します。」
 闇村さんは流暢な礼をした。霜も慌てて礼を返そうとして、ふっとその動きを止める。
「管、理人……?」
 はっとしたように私を見る霜の視線に、少しだけ笑って。
「そうだよ。私はその人のそばにいた。……久しぶりですね、闇村さん。」
 と、私と闇村さんとの関係を示唆し、続いて闇村さんに一礼した。
 微妙な空気が流れる四人。ゆきはまだ私のことを殺そうとしてい―― ……あれ?
「……ゆき、可愛くなったな?妙に。」
 近づいてようやく気付いた。そこにいるゆきは、今までの子どもっぽいゆきではなかった。大人の雰囲気を纏い、私の言葉にも少しはにかむようにして。
「本当ですか?そう言ってもらえると嬉しいです。」
 ゆきはそう言って、真っ直ぐに私のそばに近づいた。
 『裏切り者』……と、私を嫉視したゆきは、もうそこにはいなかった。
「水夏先輩」
 ゆきは私にだけ聞こえるような声で、小さく名を呼びかける。
「……なんだ?」
 同じように声量を落として問い返すと、ゆきは躊躇いがちに私を見上げ、そしてぺこりと頭を下げた。
「今まで、本当にごめんなさい。……あたし、自分勝手で。どうすれば霜先輩があたしに振り向いてくれるかしか考えてなかったです。水夏先輩の気持ちも、霜先輩の気持ちも、何も考えないでッ……」
「……私だってゆきの気持ちを汲んでやれなかったよ。」
「いいんですッ!」
 ゆきは強く言い放ち、それから真っ直ぐに私を見つめてこう言った。
「霜先輩を幸せに出来るのは、やっぱり水夏先輩だけなんです。」
「……ゆき。」
 これは、闇村さんの差し金だろうか。――いや、それにしては、ゆきの目が真剣すぎる。
 差し金なんかじゃなくて、闇村さんが何か言ってくれたのだろうか。
 こんなにも真っ直ぐにゆきが私のことを見てくれるなんて、もう二度とないと思っていたよ。
 闇村さんに感謝しなくてはならない。
「ゆきのその気持ちはすごく嬉しいよ。……だけどもうしばらくは、霜の横にいてやってくれ。」
 私はゆきの肩に手を置いてそれだけを告げた。
 不思議そうに私を見上げるゆきが何か言葉を返す前に、私はゆきの隣を通り過ぎて闇村さんの元へと向かう。
「水夏……?」
 霜が不安げな声を上げる。また私が闇村さんのところに行ってしまうとでも思ったのだろうか。
「大丈夫だよ。すぐに戻る。」
 そう笑みを向け、「信じろ」と付け加えた。霜は少し私を見つめた後、こくんと頷き返す。それを見て、私は闇村さんの方に向き直り、真っ直ぐに彼女の前へと向かった。
「水夏。しばらく会わないうちに逞しくなったわね。」
「おかげさまで。……闇村さん、少しお話があるんですが、宜しいですか?」
「ええ、いいわよ。この階に一つ空き部屋あるわ。そこに行きましょうか。」
 快諾を得て、彼女の言う空き部屋へと移動を始める。
 展望室を出る間際、ちらりと展望室内に目を向けた。ゆきと霜が何か言葉を交わし、私の方に目を向ける。二人は私と目が合うと、ふっと笑みを浮かべていた。そんな様子に、勇気付けられるように。私は一つ頷いて、闇村さんと共に展望室を後にした。
 短い距離、廊下を歩きながら、闇村さんは終始楽しげな表情だった。
「……闇村さんは、私を怒ってはいないんですか?」
「あら、どうして?」
「……だって、その」
「田所さんとのこと?それなら別に構わないわよ。美咲だって葵だって別の参加者とイチャイチャしてるじゃない。ペットの恋愛には口を挟まないわ。」
「……、……なるほど。」
 穂村さんが言った通りだ。闇村さんは佐久間も、穂村さんも、そして当然私も“本命”ではないんだ。
 だから恋愛だって制限しない。それは納得だ。――だけど。
 本当は聞きたかった。“それじゃあ闇村さんの本命は――”
 ……聞かずともわかること、なのかもしれないけど。
「さ、ここよ。隣は美雨の部屋だから気をつけてね。」
「気をつけてって何を……」
「いきなり壁を壊して美雨が殺しに来ても知らないってこと。」
「……ありえません。」
 とりあえずここは常識的につっこみを入れる。けれど彼女の楽しげな例え話は、寧ろそれが現実になったら良いのに、と言っているようにも見えた。本当にありえないけどな。
 15−B。唯一最初から最後まで誰にも割り振られなかった部屋は、人がいた気配がなく、扉を開くとひんやりとした空気が流れ出た。闇村さんに続いて室内に足を踏み入れ、室内を軽く見回す。窓の外は夜の様相。向かいのビルの明りもこの階からでは見えず、ぼんやりと霞んだような暗闇が広がるばかりだった。
 闇村さんは部屋の中央で足を止めると、くるりと私の方に振り向いて、にっこりと笑みを浮かべる。
「それで、お話って何かしら?」
「……はい。今までずっと、ずっと考えていたんです。自分のこと、闇村さんのこと、霜やゆきのこと。貴女のそばにいる時も、貴女から離れてからも、そして霜の隣にいる時も。」
 そうして口にしていくうちに、ドクン、ドクン、と、心音が徐々に速まっていく。
 私はもしかしたらとんでもないことを口にしようとしているのではないか。――いや、全くもってその通りだ。
 私が彼女のペットであるならば、それは決して口にしてはならないこと。
「その答えを聞かせてくれるのね。」
 闇村さんは笑みを和らげ、真っ直ぐに私を見つめる。それは彼女と最初に出会った時に見た、挑戦的な眼差しにも似ていた。あれからどれほどの時間が経ったのだろう。考えてみれば二週間ちょっとといったところ。長かったような短かったような、そんな時間。―――私はこの女性に惑わされ続けた。
 だけどもう、迷わない。今すぐ終止符を打ってやる。
「あの時交わした約束を……覚えていますか。」
 そう問いを投げ掛けると、闇村さんは幾つか瞬いた後、ゆるりと一つ頷いた。
「私が初めて水夏を抱いた時のことでしょう?」
「……そうです。」
 頷き返し、真っ直ぐに闇村さんを見据える。もう彼女は、私が言いたいことなどとっくに見透かしているのだろう。それを本当に口に出来るかどうかを試している。彼女の笑みとは、そんな笑みだ。
 思わず言葉に詰まる。
 目の前にいる女性は、私の主人であり、絶対的人物――……
 違う。
 目の前にいるのは、ただの天才でしかない。
 だけど私だって――……… 天才もどきには変わりないんだ!
 闇村さんに到底敵うとは思わない。彼女に少しでも戦意があれば私はすぐに死んでいたことだろう。
 それほどに凄い人物で、逆らう術などほんの僅か。
 だけど私は、彼女が与えた唯一のチャンスを、掴むことが出来るんだ。
 所詮はこの女性の手の平で踊らされているに過ぎない。
 だけど。
 彼女が与えたゲームに勝てば、この舞台から降りることが出来るんだ。
 そして私は。
 そのゲームに、勝つことが出来る。
「貴女は言いました。――もし私が服従しなければ、私達三人をこのプロジェクトから下ろしてくれると。」
「……ええ。確かに言ったわ。」
 音もなく、闇村さんは私に一歩近づいた。
 距離を縮めるほどに、彼女の威圧的なオーラは強くなる。
 めげそうにもなる。彼女は恐ろしい人物だ。それと同時に、どうしようもなく魅力的な人物だ。
 彼女の元に傅くことがどんなに幸福なことかは、よくわかっている。
 だけど私はそうするわけにはいかない、理由がある。
 私には、守らなくてはいけない人がいる。
 だから。
「私はッ……――」
 言葉にしようとした、けれど、闇村さんはまた私との距離を縮め、楽しげな笑みを浮かべる。
 ふっと息を吐いて、吸い込んでは、吐き出して。
 彼女の前にいるだけで、こんなにも息が詰まるなんて。
 だけど。
 だけど言わなくちゃ。
 私は、
「水夏、もう一つの約束もあったわね。――もしも貴女が私の元に戻ってきたら、もう一度抱いてあげる、と。」
 ――ッ。
 そんな言葉一つで惑わされてしまう自分が情けなかった。
 洗脳にも似たものだ。
 彼女の指先も、唇も、何もかもが愛しかったのも事実。
 すっと、私へと伸ばされる彼女の指先。
 私の頬に触れようと、ゆっくりと近づいて来る。
 まずい。
 彼女に触れられたら、
 これ以上彼女に、惑わされたら――ッ!!

 ………。
 冷静になれ。
 私は、
 私はもう見つけ出したんだ。
 たった一つの答え。
 全てが、それで上手くいく。

 私が心から望むのは、闇村さんに与えられる快楽なんかじゃないだろう。
 私はただ、
 心底大好きな人に、ずっと笑っていて欲しいだけなんだ。
 ずっとずっと、幸せでいて欲しいだけなんだよ。

 私は、
 この人のペットなんかじゃない。


 ―――パシンッ!!

 闇村さんの手を払いのけ、そしてキッと彼女を睨みつける。
 目の前にいるのは、主人でも、絶対的人物でもない。
 私達に唯一の逃道を与えた ……恩人だ。

「……水夏、何をするの……?」

 優しげな微笑みをたたえた女性。
 心から感謝するよ。
 貴女が与えたゲームに勝つ鍵を、口にしてやる。

「ふざけるな。……私はお前になんか、絶対に」

 ――これが最後だ。

「服従しない!!!!」





 耳が痛くなりそうなほどの大声で、水夏ははっきりと言った。
 私―――闇村真里―――のペットとなった、そして私を裏切った…… 二人目の、人。
「よく出来ました。」
 水夏から振り払われ、少しひりひりと痛む手。その勢いに、ふっと吐息が漏れる。
 何かしでかしそうな子だとは思っていたけれど、本当にやってくれるとは、ね。
「これで水夏も、そしてあの二人も晴れて自由の身ね。……おめでとう。」
 顔を伏せ、僅かに震えている水夏に声を掛ける。
 水夏は暫し押し黙っていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。その瞳に、目一杯の涙を溜めて。
「泣いてるの……?」
 手を差し伸べようとしたけれど、また水夏に振り払われてしまうような気がして、すっと手を引く。
 水夏は尚も肩を震わせた後で、きゅっと唇を噛んだ。
「……闇村さん。貴女のことが、好き、でした。」
「そう。……嬉しいわ。」
「今まで、ありがとうございました!」
 水夏は震える声でそう言い放ち、深く頭を下げた。
 これが、この少女の精一杯の気持ち。
 散々迷った末に導き出した答えと、そしてその代償。
 彼女が私を失うことがどんなに辛いものなのかは、私だって理解しているつもり。
 だけど水夏は選んだ。――私ではなく、田所霜という一人の少女を。
「はい、泣かない泣かない。……二人に報告しに行くんでしょ?」
 私は軽く水夏の肩を叩き、促した。
 けれど水夏はその場に立ち竦み、真摯な表情できゅっと拳を握る。
 やがて、眼鏡を外して乱暴に涙を拭った後、こう告げた。
「闇村さんにお願いがあります。」
「お願い?…なぁに?」
 俯きがちな水夏の顔を覗き込むと、水夏と目が合った。水夏はふっと微苦笑を浮かべ、眼鏡を掛け直す。
「あの二人は、真っ直ぐ家に帰してやって欲しいんですけど――私は……」
「……水夏は?」
「私は罪を償わなくてはなりません。……望月朔夜を、この手で殺めてしまった、その罪を。」
 あぁ、そう言えば。水夏に言われるまですっかり忘れていた。
 別に、このプロジェクトでの殺人は罪に問われることなんかないのに。
「どうするつもり?ここに残る?それとも刑務所にでも入る?」
「……」
 水夏は顔を上げると、私を見つめた後、どこか困ったように目を逸らす。
 この様子だと、まだ考えてなかったみたいね。まぁ当然かしら。
「いいわ。しばらくはここにいなさい。参加者としてじゃなくて、私の部下として。」
「あ……。」
「その間にゆっくり考えればいいことよ。それでいい?」
 再度、ひょこんと身を屈めて水夏の顔を覗き込めば、水夏はふっと笑みを浮かべ、
「はい。」
 と確かに頷いた。
 そんな水夏に「宜しい」と笑みを返し、そっとその髪を撫でてやった。
「これからこき使うわよ。覚悟してね?」
「はいっ」
 今度は先ほどよりも強く返された返答に、私は満足して尚も水夏の髪を撫で続けた。
 既に裏切った少女をそばに置くなんてなんだかおかしな話だけど、ね。





「……ゆき、本当に可愛くなったな。びっくり。」
 霜先輩は一言目にそう言ってくれて、あたし―――沙粧ゆき―――はすごぉく幸せな気持ちを感じながら、先輩に笑みを返した。水夏先輩と闇村さんが展望室を後にしてから、霜先輩と二人きり。霜先輩も最初はギクシャクしていたけれど、あたしの様子を見てか、次第にいつもの調子になってくれた。
「本当に……迷惑掛けて、すみませんでした。自分でもいやんなるくらいバカみたいなこと考えてて……」
「いや。今こうやって謝ってくれてるし。……水夏のことも、許してくれたんだな。」
「そりゃ……霜先輩の大事な人ですし?」
 少し皮肉を込めて言えば、霜先輩はばつが悪そうに苦笑していた。そんな霜先輩の表情が、妙に幸せそうで少しだけ妬ける。でもあたしは、精一杯笑っておく。勝てない勝負は下りちゃうんだもん。失恋なんて悔しいけどさッ。あたしはいつか、霜先輩よりももーっと素敵な人見つけるんだもん。
 でも今はだけは、先輩の隣にいても、いいんだよね。……うん。
 そうして二人で笑い合う、幸せな時間。もう少しすれば水夏先輩も戻って来て、もっと幸せになれるのかなって思うと嬉しくなっちゃう。むしろあたしはお邪魔虫なんだろうけど、こうなったら散々お邪魔しちゃう。
 全ては良い方向に向かっている。そんな気がして、あたしはいつも以上にはしゃいで霜先輩に話し掛けていた。――あれれ、大人の女性になったんじゃなかったっけ?
「これで、三人でまた部活やれたら最高だろうな。」
 霜先輩がふと口にした言葉に、あたしはどう返していいかわからなかった。
 確かに良い方向に向かっている。だけど。
 だけどあたしはまだ、ここから出られるわけじゃないんだ。
 いつかは、死んで――……?
「部活なら出来るよ。」
 不意に聞こえた声。霜先輩の言葉に返したのは、あたしではなく――
 入り口のところで笑みを浮かべる、水夏先輩、だった。
「あ、おかえり。……どういう意味?」
 霜先輩はきょとんとして、水夏先輩に問い掛ける。
 水夏先輩は入り口の所の壁に背を預け、クスクスと笑っていた。
「さっき言ったろ?お前の願い事を0.5個叶えてやるってさ。」
「あ、あぁ……?」
 霜先輩は曖昧に頷くけれど、その表情はどこか不安げで。
 あたしが話の流れが見えなくて首を傾げていると、
「さっき霜と話してたんだよ。霜の願い事を三つ言ってみ、ってね。」
 と、水夏先輩があたしに向けて話してくれる。
「一つ目はお菓子一生分。二つ目は頭が良くなりますように。」
「あはは、霜先輩ってば子どもみたい。」
 思わずケタケタと笑っていると、隣にいる霜先輩から思いっきり後頭部を叩かれた。……痛ぁい。
「そして三つ目」
 水夏先輩は少しの間を置いてそう言うと、笑みを浮かべたまま、こう続けた。
「三人でここから出られますように、ってな。」
「……あ、…ですよね。うん。あたしもお願い事するなら、絶対それお願いしますもん」
 あたしが同意してこくこくと頷くと、水夏先輩は少し離れたところから、ふっと目を細めてあたしたちを見る。
 ちらりと霜先輩に目を向けると、やっぱり先輩はどこか不安そうな表情で。
 その二人の表情の違いがよくわからなくて、あたしはきょろきょろと二人を交互に見つめていた。
「水夏。……0.5個って何だよ。……なんで、一個って言わない……?」
「……仕方ないだろ。0.5個しか、叶えられないんだから。」
 そんな二人のやりとりで、ようやくあたしは霜先輩の表情の意味に気付く。
 『三人でここから出られますように』
 なのに。
 ――水夏先輩はその全てを叶えてくれるとは、言わなかった。
「要するにな。」
 焦れている霜先輩やあたしを見かねてか、水夏先輩は一歩こっちに近づいて、切り出した。
 少しだけ言い躊躇うように目を逸らし、口を閉ざす。
 だけどすぐに一つ息を吸い込み、そして、言った。
「霜とゆきはここから出してやる。……だけど、私は残る。」
「え……?」
「どうして!!?」
 思わず言葉を失うあたしを尻目に、霜先輩は大声でそう問い返した。
 水夏先輩はどこか切なげな笑みを見せ、「ごめん」と小さく呟いた。
「……ゆき。霜を押えててな。……ここでお別れだ。」
「そ、そんな……」
「なんだよ、お別れって!……水夏ぁッ!!」
 思わずパシッと霜先輩の服を掴んでいた。
 水夏先輩はそんなあたしたちの様子に目を細め、小さく頷く。
「じゃあな、ゆき、霜。……元気で。」
 先輩の言葉の最後は掠れていて、まるで涙を堪えているような声だった。
 水夏先輩の後ろ姿が少しずつ遠くなって、すぐに見えなくなる。
 ああ、いつか見た光景と酷似している。そして水夏先輩は、いなくなっちゃう。
 ――だけど!
 今は違う。あの時とは違う。あたしはッ
「霜先輩!!早く追いかけて!!」
 掴んでいた服の裾を離し、呆然としている霜先輩の背中をドンッと押した。
 霜先輩は一瞬驚いたようにあたしを見た後で、
「あ、ああ!」
 そう頷いて、水夏先輩を追って駆け出した。
 やがて霜先輩の姿も見えなくなり、展望室には静寂が訪れる。
 あたしはぺたんとその場に座り込み、綺麗なお化粧が取れることも構わずに、ぽろぽろと涙を零した。
 水夏先輩。
 もう、先輩を失うなんて、いやだよ。
 あたしの大好きな霜先輩、持ってっちゃっていいから。
 だから、もう、遠くに行かないで……。





 ゆきのお陰で、今回は水夏にすぐに追いついた。廊下を歩いて行く水夏の姿。
 少しずつ遠くなっていくその姿を見ていると、やっぱり水夏はどこか遠くに行ってしまうのだと、確信できる。
 私―――田所霜―――はそうはさせないと、大声を張り上げた。
「水夏!!」
 私が呼びかければ、水夏は驚いたように振り向いた。やがて表情を和らげると、「バカ」と一言。
「……ゆきに押えとけって言ったのに。何やってんだ。」
 水夏は困ったように笑んで、ゆっくりと私の方に近づいて来る。
 あの時のように冷たい表情ではなく、笑みを浮かべて。だけど水夏の頬は、涙で濡れていた。
「だって……だって!いきなりお別れなんて、酷すぎるよ。……私は水夏のそばに、いたいのにッ……」
「……それは、私だって同じだよ。」
 水夏の笑みが、悲しげに歪んでいく。その表情を見ていると、堰を切ったように涙が溢れて止まらなくなった。思わずその場に膝をつき、私は水夏に縋りついていた。
「いやだよ……もうどこにも、行かないでッ……」
 もう離したくない。このままずっと、水夏を離さない。
 これ以上辛い思いをするのは、いやだ、よ。
「……霜。」
 水夏の声がして、私は顔を上げた。水夏は私の顔を覗き込み、目が合えばふっと笑みを浮かべる。
「お前のことが好きだよ。……っていうか」
「っていうか……?」
「……愛して、ます。」
「うぇ……?」
 突然の真剣な言葉。水夏はその頬を赤くしながら、照れくさそうに笑んで見せた。
 そして軽く私の頭を撫でると、「愛してるんだよ。」と、もう一度繰り返す。聞いてるこっちが恥ずかしくなるような言葉をあまりに穏やかに告げるものだから、私は返す言葉に詰まっていた。
 水夏はその場でしゃがみ込み、私と視線の高さを合わせると、にっ、と笑みを見せる。
「これは悲しい別れじゃない。……いつかまた会えるからな。」
 水夏はそう言って、それから私の手を取った。
「……いつか、会える?水夏は私のところに、戻ってくる?」
「うん、必ず。……だからしばらく、我慢しててほしい。」
 水夏は真っ直ぐにそう告げてから、「だめ、かな?」とおずおずと問い掛けた。水夏に握られた手の温度が、愛しくて、離したくないと思った。――だけど水夏だってそれは同じなんだと、水夏が精一杯堪えている涙が、物語っている。
 私はそっと水夏の手を握り返した後で、小指を絡めた。
 水夏もきゅっと小指を絡め、満足げな笑みを見せた。
「約束だよ、絶対に私のところに戻って来て。」
「約束する。絶対に、霜のところに戻るから。」
 二人で確かに口にして、もう一度きゅっと小指を絡めあった後、私達は手を離した。
 水夏の温度が途切れた時、次に水夏に触れるのはいつになるのだろうと、そんなことを考えては悲しくなるけれど。今目の前にある水夏の笑顔を目に焼き付けるために、私はぐっと涙を堪え、笑みを返した。
「元気でな、霜。……またな。」
「水夏も元気で。……また。」
 別れの言葉にしては、あまりに素っ気ない挨拶だったのかもしれない。
 だけど私には十分だった。水夏の言葉は、次があることを教えてくれた。
 水夏も私の言葉を聞いて満足げに笑むと、すっと立ち上がり、私に背を向け歩き出した。
 今度はもう、追うことはしなかった。
 追いかけなくてもいつか水夏には会えるから。
 きっと、いつか。





途中経過





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