BATTLE ROYALE 33




 まるで長いトンネルにいるような感覚。どこまでも続く闇の中、時折ちらりと見えるのは記憶の中の人物達。
 これは走馬灯だろうかと思ったりもしたのだが、そんな雰囲気でもないようだ。
 追憶といった言葉が一番相応しいかもしれない。
 家族、友人、昔の恋人、そしてこのプロジェクトで顔を合わせた人達。――真苗。
 屈託のない笑みも、きょとんと不思議そうに丸められた瞳も、悪戯っぽく小首を傾げた様子も、
 トンネルの中のライトのように、一瞬にして通り過ぎていった。
 やがて遠くに大きな光が見えたかと思えば、ほんの刹那の間に
 私―――木滝真紋―――は、光の中に包まれる。
 恐怖という闇から安息の光へとたどり着いたのか、それとも安息の闇から引き出されてしまったのか。
 忘れかけていた痛みが、波のように静かに私を侵蝕する。

「木滝さん……?お目覚めになられたようですね。」
 光に目が眩み、ぼんやりと浮かぶ人物の輪郭を捉えることに時間が掛かる。
 私を覗き込むようにして正面にいるその人物は、逆光の所為で黒っぽい影にしか見えない。
「傷、まだ痛みますか?」
 人物はそう問いかけた後、身を引いてちらりと天井を見上げた。
 一旦私のそばから離れると、少しして眩しかった照明が光の度合いを減らす。
 人物は照明を弱めてくれたのだろう。お陰で私も目が慣れて、人物の姿も先ほどより鮮明に捉えることが出来た。その人物は、私の知らない女性だった。
「……傷…」
 そう言えば、負った傷は一体どうなったのだろう。恐る恐る腹部へと手を伸ばすと、さらりとした布の感触があった。包帯、だろうか。誰かが手当てをしてくれたということ?
「……少し痛むわ……でも、そこまで痛くはない……」
「痛み止めの注射を打ってありますから。でも少しは我慢して下さいね。……あぁ、あまり動いてはいけませんよ。まだ手術からそう時間も経っていませんし」
「……」
 女性の告げる言葉を一つ一つ理解するのにも時間が掛かった。
 つまり、薬によって和らげているだけで、実際はかなりの痛みが伴っているということ。
 いつのまにか、私は手術を受けていたということ。
 私がトンネルの中にいた間に、色々なことが起こっていたみたいね。
「あなたは……?」
 視線だけを動かして女性に問う。私のそばでタオルを絞っていた女性は、気付いたように私に目を向け、そのタオルを私の額に宛がいながら言った。
「申し遅れました。私は管理スタッフの三宅涼子と言います。闇村様のご命令で、木滝さんのそばにいるように、と。」
「三宅さん……」
 彼女の名前を復唱し、ようやくこの女性が私のそばにいた理由が理解出来た。
 今までこのプロジェクトのスタッフといったら闇村さんぐらいにしかお目にかかったことはなかったけれど、実際は幾人かのスタッフがいて当然だ。彼女もその一人なのだろう。
「何か御用がありましたら、私に声を掛けて下さいね。この部屋にいない時は、同じ階の監視室にいますから、枕元のブザーで呼んで頂ければすぐに駆けつけます。」
 三宅さんはそう言って枕元に備え付けられたブザーの場所を示した後、ナースコールみたいなものです。と笑んで見せた。私はブザーに目を向けた後、ゆるりと室内を見渡した。室内にある目ぼしいものと言えば、今まで過ごしていた個室よりも光の多く差し込む窓と、ちょうど視線の先にあるテレビぐらいのものか。六畳程度の簡素な部屋で、病院の病室を彷彿させる。けれど彼女の言葉が確かなら、ここもあのプロジェクトに関係のある場所なのだろう。
「ここも、あの建物の中なの?」
「ええ。参加者の皆さんは十五階までしか移動できませんけど、実は十六階に管理室があるんです。ここも十六階にある一室ですよ。」
「そう……」
 ようやく状況が掴めてきた。私は闇村さんに連れられてエレベーターに乗って。その後の記憶があやふやだけれど、おそらくどこかで手当てを受けた後、この部屋に寝かされているといったところ。
 三宅さんが管理室の場所だとかを暴露しているところを見ると、闇村さんが言っていた「プロジェクトから解放する」というのも、事実。
「……三宅さん」
「はい?」
「真苗は……真苗は、どうしてるの……?」
 そんな私の問いかけに、彼女は困ったように視線を逸らす。
 彼女の口篭る様子を見て、私の言い方が悪かったかと気付き、
「わかってるわよ。あの子はもう、死んだ。……真苗の遺体はどうしてるの?って意味」
 そう言い直した。言葉を紡ぎながら、きゅっと胸が詰まる思いがする。
 じわりと目に涙が溜まってくる、それを隠すように、額に乗せられたタオルを少し下ろした。
「死亡者の遺体は、全て保管してあります。木滝さんがもう少し回復したらお見せすると、闇村様が仰っていました。」
「全てって……」
 想像して少し怖くなる。普通、人間が死んだ場合、何日か後にもなれば火葬してしまうものだ。
 けれどこのプロジェクトで最初に死亡者が出たのはもう随分も前のこと。
 その遺体すら、保管しているということなのか。
「お葬式も出来ませんからね……。あ、でも保存状態は良いんですよ。死亡した状態のままで密封してありますから、腐敗もしませんし」
 三宅さんは表情を曇らせながらもそんなことを話してくれた。
 なんだか生々しい話に眉を顰めた後、私は一呼吸置いて改めて問い掛ける。
「もう少し回復したらじゃなくて……今すぐ会わせてはもらえない?」
「無理ですよ。木滝さん、まだ動き回れる状態じゃないんですよ?」
「でも……」
「絶対安静です。」
 私の言葉にも耳を貸さず、三宅さんはそう言い切った。おそらく彼女の判断ではなく、闇村さんからの命令なのだろう。とすれば、彼女を幾ら説得しても無駄なように思えた。
「それじゃ……闇村さんに会わせてもらえない?」
 そう言うと、三宅さんはちらりと部屋のドアに目を向けた後、小さく首を横に振った。
「残念ですけど、闇村様には私ですら連絡が取れないんです。今は参加者としてプロジェクトに関わっておいでですから。」
「はぁ……?参加者って……闇村さんが死んだらどうするのよ……」
「その場合は、私共で何とか対処しますけれど……」
 自信なし、といった様子で三宅さんは言葉を返し、微苦笑を浮かべて「諦めて下さい」と言った。
 管理体制がしっかりしてるんだかしてないんだか……。
 とにかく、私がこのベッドから下ろしてもらえるまでにはまだ時間が掛かりそうってこと、ね。
「……もういいわ。一人にして欲しいんだけど」
「あ、それは出来ません。」
 私の要望を、三宅さんはあっさり却下した。
 思わず怪訝な顔を浮かべていれば、彼女はまた微苦笑を浮かべてこう言った。
「闇村様のご命令です。木滝さんが目を覚ましている間は、出来る限り一人にしてはいけないと。」
「なんでよー……」
「……あなたのことを思って、ですよ。」
 ふっと彼女が浮かべる真摯な表情。その意味が一時理解できず、私は無言で彼女に見入っていた。
 少しの沈黙の後、三宅さんはタオル越しに私の額に触れる。
「あなたは大切な人を亡くしたばかりです。……一人でいると気が滅入ります。」
「……そ、れは」
 ――そうかもしれない。
 言われてみて、こうして目覚め早々に話し相手がいなければ、私はただ真苗のことばっかり考えていたのだろうと予想できた。真苗のことを考えたくないわけじゃない。あの子の死を悼みたい。だけど、
「……私も一緒に死にたくなるかもしれないわね。」
 そうなることもまた、容易に予想できた。
 三宅さんは同意するように小さく頷いて、そっと私の前髪を撫ぜてくれる。
「退屈をしないように、と。……あ、それと、このテレビですけど、放映されている番組も見ることが出来ますが、この建物内の監視カメラの映像も映るようになっています。」
「それって、私が見ても良いものなの?」
「別に構わないみたいですよ。映してみましょうか。」
 三宅さんはベッドサイドのテーブルに置かれていたリモコンを手に取って、ピ、ピ、と音を立てながら操作をする。程なくして、テレビにどこかの映像が映し出された。無機質な壁面、見慣れた廊下。この建物の中のどこかであることは一目瞭然だ。
 そこには、一人の少女の姿が映し出されていた。





 廊下の壁にぺたりと背をつけて、私―――宮野水夏―――は考え込んでいた。
 片手には火のついた煙草。時折吸い込んでは、吐き出して。
 灰の行く先に少し躊躇したが、ここは土足OKの廊下だし、そのまま落としてしまうことにした。
 掃除する人には悪いけどな。こっちは命がけでやってるんだから、そのぐらいは容認してもらいたい。
 備品室で調達した煙草の銘柄はフィリップモリス。霜には散々、オヤジ煙草だと馬鹿にされたものである。あいつは顔に似合わずバージニアな辺りがいまだに許せない。そのうち1ミリじゃ満足できなくしてやる、なんて言ってた時期も、今じゃ懐かしい思い出……か?
 こうしてぼんやりと煙草を吸っていると、感覚が冴えてくるような、鈍ってくるような。相反した感覚が一度にやってきて、妙な気分になる。もしもここから見える廊下の角から誰かがやって来た時、私はすぐに反応できるのだろうか。即座にナイフに手を掛ける、その前にこうして手にしている煙草を捨てなくちゃいけない。その微妙な間でやられてしまったら笑えるな。
 神崎美雨を殺すなんて、ね。この決意が今でも時々、馬鹿馬鹿しく思えるよ。
 相手は天才、とかそういう問題以前に、相手の武器と私の武器とを考えてみれば早い話だ。
 私はいつまでもナイフに頼ってばかり。神崎は銃を持っている。……明らかに不利なんだ。
 以前に神崎と刃を交えた時も、神崎は敢えて私とメスで戦った。銃を持っていたはずなのに、私が目の前にいる時点でそれを取り出すことしなかった。――馬鹿にしてるよな。
「……殺、す、なんて」
 出来るのかな。このナイフ一本で、そんなことが。
 不安感が募って、不覚にも泣きそうなほどに怖くなる。
 殺そうとした時、それ即ち私が死ぬ時になりやしないかと、――冷静に考えればそうなるのが当然だ、と。
 私は、意地を張っているのだろうか。
 天才だとか、天才肌だとか、闇村さんへの気持ちとか、嫉妬とか。
 なんだか馬鹿馬鹿しいものに、躍起になっているんじゃないか。
 一人だと、見るべきものが見えなくなるよ。私は一体、どうすべきなんだ。
 ――ジリ、と小さな音がして、指先に熱を感じる。
「……ッち。」
 気付けば煙草は短くなって、火がフィルターにまで到達しそうなところだった。
 パッと指を離して、吸殻を床に放つ。靴先できつく踏みしめて、火を消した。
 今から一体どこに行けばいいんだろう。このままここに留まって、誰かが来るのを待つべきか。
 こんな風に思うなら、夕場や穂村と別れずに、一緒に行動しているべきだった。
 ポケットに入れていた煙草の箱を取り出して、一本の煙草を口に咥える。
 ライターで火をつけて、軽く息を吸い込んだ。
 その時だった。静寂に包まれていた廊下の向こうから、微かな物音を耳にした。
「……。」
 煙を吐き出して、煙草を唇に咥えたままで廊下の向こうをじっと見つめる。
 間違いなく、聞こえてくるのは靴音だ。
 じりじりと後ろに数歩後退して、相手によっては即座に逃げ出す覚悟を決める。
 もし靴音の主が、常に銃を構えて獲物を探しているような殺人鬼だったらシャレにならない。
 少しずつ近づく靴音。姿を現すのは間もなくかと身構えた。
 ――やがて廊下の角から、人物の姿が見え、
「……ッ、…?」
 見え、た瞬間、思わず咥えていた煙草を落としそうになる。
 その人物が余りに予想外過ぎて、ぽかんと、相手を見つめるだけだった。
「…あ…、え?……はぇ?」
 俯きがちに歩いていた相手は、私の姿に気付いて動きを止めた。
 そしてきょとんと目を丸めたまま、そんな気の抜けた声を上げていたのだった。
 少しの沈黙の後で、ほぼ同時に相手へと足を向ける。
 咥えていた煙草を手で摘み私が声を上げるのと、相手が私に駆け寄って声を上げたのもまたほぼ同時。
「何やってんだ?!」
「水夏、いいところに!」
 言葉が重なって、また少しの沈黙が流れる。
 とりあえず煙草を一息吸って、改めて相手の姿に目を向けた。
「……霜。」
 ぽつりと名を呼ぶと、相手は――霜はどこか嬉しそうな笑みを浮かべるも、それも一瞬のこと。
 すぐにくしゃっと表情を崩し、
「水夏、ごめん!!あああぁ、どうしよう!!」
 と、何やらテンパった声を発していた。
 一体何事だ。まさかこんなところで霜と出くわすなんて思いもしないし、それ以前に、霜の隣にあるべき姿がないことが気にかかる。
「とりあえず落ち着け。」
 私は煙草とライターを差し出しつつ声を掛け、一応辺りの警戒も怠らない。
 霜は煙草を一本抜き出して火を点け吸い込むと、はぁー、と大きく煙を吐き出し、その後で咽せた。
「ゲホゲホッ、……きっつぅ」
「4ミリなのに」
「十分きついっつーの!」
 そんなやりとりに、ふっと不思議な気持ちになる。
 随分久々に会ったというのに、いつもと同じ、いつもの会話。
 それが、心のどっかで、嬉しくて。
 ―――あぁだけど、今はそんなことで喜んでいる場合じゃないということは、霜の様子を見ても明白だ。
「そんなことより、ゆきはどうした。なんで一人なんだ。」
 私は声のトーンを落とし、そう問い掛ける。
 霜は少し視線を落として押し黙ると、「ごめん」と零すように小さく呟き落とした。
「ごめんじゃわかんないだろ?はっきり言え。」
「……部屋で大人しく待ってるように言ったのに。それなのに、ゆきは部屋にいなかった。」
「どういうことだ?……ゆきを置いて部屋を出たのか?」
「それは……」
 霜はまた口篭って、代わりに煙草を一息吸い込んで。
 身を投げ出すように廊下の壁に背を当てて、きゅっと眉を寄せていた。
 霜らしくもない。今にも泣き出しそうな表情を、必死に押し込めるように。
「――もう、ゆきのそばにいるのが限界だったんだよ。あいつは水夏を憎んでる。」
「……だろうな。」
 今は変に霜を責めると、余計に混乱させる結果になる。
 それよりも現状を把握することが先決だと思い、私は聞き役に徹した。
「あのままゆきと一緒に過ごして、ただ時間だけが流れていく。……水夏がどうしてるかもわからなくてッ、水夏が生きているか死んでいるかもわからなくて……なのに。何事もなかったように過ごせなんて、酷だろ…」
「それで霜は私を探しに来たんだな?」
「……あぁ。だけど、5−Aが禁止エリアになって……すぐに戻ったんだよ。やっぱりゆきのことが心配で、それで、戻ったんだ……だけど」
「ゆきはいなかった、と。」
「うん。幾ら呼んでも、ドアを叩いてもちっとも反応がなかった。」
「……そっか。」
 一通りの経過を理解し、私は一つ頷いた後で霜から目を逸らす。
 胸の底に浮かぶ嫌な感じを押さえつけるように、ニコチンを押し込んだ。 
 霜も、気を落ち着けようとでもするよう、何度も煙草を吸っては吐き出して。
 私は短くなった煙草を捨てて、肺に残った煙を空気に放って。
 そんな時間が暫し続いた後、不意に霜がずるりとその場に座り込む。
 ゆきは、何のために部屋を出たのか。霜の元を離れたのか。
 ゆきが考えていることなんてたかが知れている。
 あいつは霜のことが好きで、私のことが邪魔で。
 私は二人の中から消えなくちゃいけなかった。それなのに。
 霜は私を消さなかった。―――今もこうして、私を探していてくれた。
 ゆきにとっては堪らないだろうな。きっと憎しみは加速した。
 ゆきは、私のことを殺そうと、思ってるのかもしれないな。
「……水夏」
 霜がぽつりとくぐもった声を上げる。
 隣に座り込んだ霜を見遣れば、その顔を伏せて、フィルターまで焼けかけた煙草を指先で摘んだまま。
「火傷するぞ。」
 私の忠告に霜は少し顔を上げ、短い煙草を廊下の床に押し付けた。
 その後、少しの沈黙を置いた後、私に問いを投げ掛ける。
「私のこと、殺さないのか?」
 ―――、何事かと。
 一瞬、霜が何を言ったのかわからなくて、言葉に詰まった。
 霜はちらりと私に目を向け、小さく笑う。
「こないだ言ってたじゃん。次に会う時は、殺す、ってさ。」
「……そんなこと言ったっけ。」
「言った。」
「……言ったっけ?」
 どちらともなく視線を交わし、少しだけ笑い合う。
 霜の頭に手を乗せて、軽く体重を掛けてみる。
「殺さないことにした。」
 そう言って、がしがしと頭を撫でてみる。
 霜はきょとんとした表情を浮かべた後、私の猛攻によって乱れた髪を直すべく、頭を結ったゴムを外した。
 そのゴムを指先に引っかけ、ピッと放つ。
 ゴムが私の頬にピシリと当たれば、霜はにやりと嫌味な笑みを浮かべて。
「……痛いし。」
 しゃがみ込んで落っこちたゴムを拾い上げ、同じように指先に引っかけて霜に照準を定めた。
 私の攻撃に警戒して手で顔をガードする霜に、少し笑って。
 指先に引っかけたゴムを手首に落とし、私は構えを取った霜に手を伸ばす。
「……何?」
 霜の両方の手首をガシッと掴んだまま、私は霜ににじり寄る。
 自由を奪われ不安げに私を見つめる霜の姿に、一体どんな悪戯をしてやろうかと思案した。
 だけど真っ直ぐな視線を感じていると、そんな考えもどこかに掻き消えてしまう。
 私の心の中にある、余りにストレートな感情に戸惑って。
 これを告げたら後々厄介なのだろうかとも、チラリ考えたのだけど
 今はただ、心に素直でありたかった。
「霜のことが、好き。」
 こんなにも純な告白を今この私がしているのかと思うと、なんだか無性に恥ずかしくなる。
 だけど霜の目をしっかり見て、確かに、言葉にした。
 霜はきょとんとして私を見つめ、やがて小さく口を開く。
「え?…何?」
「何って!!!」
 一番大事なところを聞き返しやがる霜に、反射的につっこみが飛ぶ。
 手を離して、スパーン!と霜の頭を殴りつけた後、恥ずかしさに耐えられなくなって霜に背を向けた。
 こいつ、ありえない!なんてタイミングの悪い女なんだ!
 ぷるぷると打ち震える私の頭に、スパコーン!と唐突な衝撃が走る。……痛い。
「あのなぁ。そういうのって、もうちょっと雰囲気とか作って言うもんだろー?いきなりすぎて意味わかんなかったよ。」
 背中に向けられる言葉は呆れすら混じっていて、更に恥ずかしくて嫌んなる。
 恐る恐る振り向けば、ふっと薄い笑みを浮かべた霜の姿が目に映った。
 ―――こんなやつが好きなのかと、ほんのり自問してしまう。
「私も水夏のことが好きだから、両想いだな。」
「お、おう。」
「恋人になるのか?」
「えぇ?」
「ならないのか?」
「……さぁ?」
 よくわからないやりとりが少し続いた後、相手へと手が伸びたのもほぼ同時。
 若干私の方が早かったか、スパコーン!と霜の頭を叩いて勝者の笑み。
 とりあえず突っ込み合戦ってのはセオリーだな。
「く……」
 頭を押えて打ち震える霜を鼻で笑い、私はその場から立ち上がる。
 ちらりと向けられる上目遣い、不覚にもドキッとしてしまうけれど。
 ……私は霜の頭に手を置いて、言った。
「その突っ込みのレベルじゃ、まだ恋人にはなれないな。もう少し修行すべし!だ。」
「なんだそれは。」
「……言葉の通りだよ。さ、ゆきを探しに行くぞ。」
「え?……あ、あぁ。」
 私の態度に、霜は少し怪訝そうな顔。
 だけど小さく頷いて、その場から立ち上がる。
 突っ込みレベルなんて本当はどうでもいいに決まってる。
 霜のことが好き。霜が私を好きでいてくれる。
 だけど。……私は霜に、幸せになってもらいたい。
 だから恋人にはならないよ。今はまだ、私は霜に相応しくはないからな。
 いつか。……いつか、霜を幸せに出来ると誓える時までは、私達はただの親友だ。
 ―――それまでに霜が、別の人を想っても、それは仕方がないこと。
 私には償わなくちゃいけない罪がある。その代償とでも、いうのかな。
 霜が笑っていられるなら、私はそれで、構わないから。
「水夏?……水夏って、えっと、……バカ?」
「何言い出すんだ!バカじゃない!」
「だって、普通突っ込みレベルで恋人選定なんかしないし!」
「それは大事だぞ!ボケ突っ込みのタイミングが合ってないと、夫婦生活も上手く行かないもんだしな。」
「夫婦ってなんだよ。そもそも、どっちが旦那でどっちが妻?」
「霜が旦那で」
「水夏が」
「旦那。」
「意味わかんないよそれ……」
 そんないつものボケツッコミも、一段と冴えた二人の会話。
 こんな何気ない日常がいつまでも続けばいいと願ってしまうのは、内緒。
 叶わない望みなら、誰にも話さない方がいい。





「結局、宮野ちゃんはどうするつもりなんだろうね。」
 ポーン、と響く“レ”の音色。
 あたし―――夕場律子―――はピアノの鍵盤に軽く手を置いたまま、美咲へと言葉を向ける。
 ここは音楽室。最初に美咲と出逢った部屋。
 美咲はと言えば、部屋の壁際のところで、何やら立ち止まったまま。
 あたしの声に振り向くと、ゆるりと首を傾げて、
「わからないけれど……。あの子、なんだか危険な香りがするの……」
 と、そんな言葉を返す。
「なになに?奪略愛とか?」
 美咲の言う「危険な香り」に思わず身を乗り出してしまう辺り、すっかり昼ドラの虜なあたし。
 だってそういうニュアンス含んだ言葉よね?あたしのイメージは間違ってなーい!
「そうじゃなくて、何かしでかしそうってことよ。彼女なら或いは、闇村さんに抗う可能性も否定は出来ない。」
「ふーん?」
 神妙な面持ちで言っては、再度あたしに背を向けて壁際に向かう美咲。
 その姿をぼんやり見つめていれば、壁に手を当てたりして、よくわからない行動を見せる。
「ねぇ、闇村さんってそんなにすんごい人なわけ?」
 ひょいっとピアノの椅子から降りながら問い掛ける。
 美咲は今度はあたしに目を向けるでもなく、小さく頷いた。
「彼女には、どんな人物でも……魅入られる。きっと律子でもそうよ。」
「えー?断言できる?あたしはこんなに美咲にメロメロよ?」
 冗談めかして言えば、美咲は少し弱い笑みを見せた。
「……三宅さんという、女性。彼女も私の知り合いで、闇村さんのペットなの。――彼女には、婚約者がいたのよ。その婚約を破棄してまで、闇村さんに仕えた。それじゃあ証拠にならないかしら。」
「それってほら、愛のない政略結婚とかじゃ」
「三宅さんと婚約者の男性は、大学時代からの長いお付き合いで、ようやく婚約までこぎつけたそうよ。……彼女自身が話していたわ。――愛していたのに、って、ね。」
「……ふーん。」
 美咲の言うことは、今一つピンと来ない。美咲が闇村さんのこと好きってのはわかるし、いわば二股をかけられて、複雑じゃないと言えば嘘になる。だけどどうにもこうにも。
 美咲が闇村さんのことを好きっていうのはまだ我慢するにしてもよ。その闇村さんが、色んな人に手ぇつけてるってのが気になるのよね。そんなモテモテマンなんか存在するのか!ってね。あ、モテモテウーマン?
「律子までペットになってしまったら、それはそれで複雑だけど……。彼女に目をつけられたら終わりだと思ってね。一度抱かれれば、もう戻れない。」
「……抱かれた、の?」
 美咲へと近づきながら、不意に言われた言葉、思わず問い返していた。
 そういう具体的なことを言われてしまうと、正直なところ、嫉妬とかしちゃうわけで。
「……二回。」
「回数なんか聞いてないもん。」
「え?……あ、……ごめんなさい。」
 あたしの不機嫌な様子に気付いたのか、美咲はあたしに目を向けて表情を曇らせた。
 そんな美咲のそばまで歩み寄ると、彼女が見つめていた壁、一体何があるのかと目を走らせる。
 そしてようやく彼女が手を伸ばしていたものに気付いた。それは壁面に出来た小さな傷だった。
 以前、美咲がここであたしを殺そうとした。その時にできたものだ。
「前は闇村さんのために、あたしを殺そうとまでした。……なのに今は?」
「貴女を……愛している、わね。」
 美咲は目を逸らしながら、ぽつりと零すように言う。
 そんな美咲の視線の先に来るように覗き込み、背の高い美咲へと上目遣い。
「今も愛してるぅ?」
 甘えるように、口許に人差し指とか添えて問うてみる。
 美咲はきょとんとした表情であたしを見つめた後、ふっと零すような笑みを浮かべた。
 コツン。美咲があたしの額を小突き、その後で頬に、美咲の細い手が添えられる。
「もちろん。」
 そう、真っ直ぐに告げられる言葉が嬉しくて、あたしは美咲の手に自分の手を重ねながら笑みを向けた。
 そのまま少し見つめあった後、「ちゅーして」とか言っちゃって唇を少しつき出せば、
 美咲は小さく笑いながら、軽いキスをくれる。
 こんな甘ったるい時間がどうしようもなく愛しくて、このまま時間が止まっちゃえばいいと思う。
「……律子は、辛くはない?」
 不意に、困ったような弱い笑みで美咲が問い掛ける。
 その問いに少しだけ迷ったけれど、すぐにあたしは100%の笑顔で「辛くないッ」と首を横に振った。
「美咲がそばにいてくれるだけで十分!」
「……なら、良かった。」
 美咲は小さく吐息を零す。そして不意にぎゅっと、あたしの身体を抱き寄せた。
 あたしたちの身長差は20センチぐらい。美咲の鎖骨辺りに顔が来る。だからあたしは美咲の胸元にも顔が埋められて、こういう時だけは身長が低くて良かったって思えたりもする。
 トクン、トクン。穏やかな心音が、聞こえる。
「私は……律子のために何かをしてあげられている……?」
 囁くような声音で告げられた言葉は、どこか不安げで。
 あたしは顔を上げ、美咲を見上げた。
 綺麗な顔。羨ましいぐらい綺麗な顔が、すぐそばにある。
 指先でそっと美咲の頬を撫でれば、柔らかな感触。
「美咲がそばにいてくれるだけでいいんだってば。あたしはそれだけで幸せ。」
「でも私は」
 何か言いかける美咲の唇にそっと指を押し当てる。
 不安な顔なんか、して欲しくない。何も言わなくていい。
「どこにも行かないで。他には何も望まない。」
「……」
 あたしだってわかってる。
 それが出来ないことなんだって。だから美咲は、こんな不安そうな顔をする。
 あたしの願いはもしかしたら、とても残酷なものなのだろうか。
 もしもそうだとしても。美咲がそれを叶えてくれることを、望んでは、いけないだろうか。
「一分でも一秒でもいい。あたしより先に、死なないで。」
「そんなにも、一人が怖い?」
「……うん。」
 頷いてみせると、美咲は弱く笑んだ後、あたしの頭を抱き寄せて顔を埋めさせる。
 美咲の顔が見えないままで。彼女が続けた言葉は、少し意外なものだった。
「私は貴女に生き残って欲しいの。……貴女には生きる価値がある。」
「……美咲?」
「もしも、私と貴女の二人だけが生き残ったならば、その時には私を殺して欲しいの。」
「いや。……いやよ、そんなの。そんなこと出来ないッ!!」
 身を離して、美咲の目を見たかった。
 だけど彼女はあたしを強く抱きしめたまま、それを許さない。
 彼女の心音が少しだけ、音を速めている。
「――……ごめんなさい。もしもの話よ。」
「……。」
 あたしと美咲。相反した感情。
 あたしはやっぱり、一人で生きていく自信なんかない。
 孤独には弱いの。弱すぎるぐらい、弱いのよ。
 美咲だけが最後の希望。
 だから、お願い。あたしを突き放さないで。
 先に死ぬ、なんて、そんなこと、もしもの話でも言わないで。
「……美咲のことを信じてる。」
 それだけを告げて、それからあたしは美咲にキスをせがんだ。
 美咲は何も言わずに目を細め、今度は長いキスをくれた。
 先のことなんてどうでもいいよ。
 もう、このまま、美咲から離れたくないよ。





「……熱い…」
 テレビの画面から目を離した私―――木滝真紋―――は、思わずぽつりとそんな声を漏らしていた。
 あの二人はこういう監視カメラがあるってことを知らないわけ?なんでこう、人目も憚らずにイチャイチャできるわけ?なんかすっごい……恥ずかしいんだけど。
「み、見ている方が照れますよね。……木滝さんたちも結構なものでしたけど」
 三宅さんの言葉に、ギクッと身が竦む。
 結構なもの?け、結構なもの?私と真苗が?そ、そうだったっけ?
「……もしかしてこの監視カメラって、参加者の自室にもあったりするの?」
 恐る恐る問い掛けると、三宅さんはさも当然といった風に頷いた。
 ウッソ。……ありえない。
「そ、そ、そ、そ、それってプライベート侵害っていうか!!」
 大声を出すと腹部が痛む。イタタタ、と眉を顰めつつも、同時に顔が赤くなるのがはっきりとわかった。
 それってつまり、あ、あ、私と真苗の………
「……か、可愛かったです。」
「ええ?!」
「あ?あ、ご、ごめんなさい。」
 三宅さんも気が動転しているのか、なんだかわけのわからないことを言っては慌てて謝った。
 恥ずかしすぎる……。
 ポスンと枕に頭を乗せ直し、火照った頬に手を宛がう。
 今はもうそんなシーンも見せられないかと思うと、なんだか切ないけれど。
 あ、見せたいっていうんじゃなくて、……ま、真苗と、っていう意味、……。
「身体を重ねることって、深いものですよね……。」
 真っ赤になっている私を知ってか知らずか、三宅さんは独り言のように呟いた。
 深いもの、という言葉には同意する。
『とびっきり優しくしてあげる。』
 そんなことを言われて、真苗の指先に散々惑わされて、あの時はもうこんなことしないって思ってた。
 それなのに。
 今は、こんなにも求めてる。もうそれが与えられることのないものだとわかっているのに、尚も。
 身体が疼くだなんて言い方をしたくはないけれど――もう一度、あの指先に惑わされたいと希う。
「中谷さんのことを考えているんですか?」
 三宅さんは私の顔を覗き込み、目元に指を近づけた。
 目を瞑れば、彼女の指先が私の目の端を滑り、そっと離れる。
 ことあるごとに真苗のことを考えては目を潤ませてるんだから、三宅さんも慣れてしまっているのだろう。
「正解。……私、真苗のことを忘れられるのかしらね?」
 自嘲的な気持ちになって、ふっと溜息が零れる。
 これから先のことを考えると、どうしようもなく怖くなる。私はこの先一人で生きていくのだろうか。
 もしも、別の恋人を見つけたら?――今はそんなこと考えられない。
 それはそれで、すごく悲しいことだと思った。私は真苗しか、想えない、のに。
「忘れなくてもいいんですよ。……いつかはきっと思い出に出来るはずです。」
 三宅さんは私が泣き出すと、決まって優しく髪を撫ぜ、微笑みを向けてくれる。
 優しい人。私のそばにこの女性を置いてくれた闇村さんに感謝しなくてはならない。
「思い出にして……生きて、いける?」
「それは思い出だと感じられるようになってから、ゆっくりと考えていけばいいんです。」
 彼女の言葉には説得力がある。躊躇いなく告げてくれる言葉の一つ一つが、私を慰める。
 そんな中で時折彼女が見せる寂しげな表情が、気にかかっていた。
「……三宅さんも、大切な人を亡くしたことがあるの……?」
 おずおずと問い掛ける。彼女はふっと笑みを見せた後、静かに言葉を紡いだ。
「恋人ではありませんけどね。妹を亡くして。両親も亡くなっていて家族は二人きりで、かけがえのない存在だったから……。」
「そう……。三宅さんの場合はどうやって解決を?……やっぱり、時間?」
「それもありますけど……ほら、先ほど穂村さんが話していたでしょう?婚約を破棄したって。あれ、私のことなんですけどね。その恋人にも、助けられて。」
「……そっか。」
 彼女の言葉に納得しながら、ぼんやりと天井を見上げる。
 死んでしまった人はもう戻らない。幾ら求めても、もうそれが与えられることはない。
 理解していても納得は出来ない。受け入れることなんてそう簡単には出来やしない。
 だけど三宅さんを見ていると、なんらかの過程を経て、それを思い出に出来る時がやってくるのかもしれないと、ほんの僅かな希望を遠くに見たような気がした。
 また、涙がじわりと浮かんで天井の景色がぼやける。
 再度三宅さんに目を移せば、彼女は今度は涙を拭うことはせず、ただ優しく髪を撫で続けてくれていた。
「たくさん涙を流すことも、心を穏やかにする方法の一つです。」
 そんな言葉に、余計に涙腺が緩んでしまって。
 悲しみがじわじわと支配する心の中、彼女の優しいぬくもりが、少しだけ嬉しかった。
 いつかは思い出にできるだろうか。
 真苗の笑顔を思い出して、泣くのではなく笑えるようになるときが、来るのだろうか。
 その答えは今は出ない。だけどきっと、真苗は私が笑ってる方が喜んでくれるんだろうって。
 そんなことを思いながら、今はただ、涙を流し続けた。





 衣服室で、洋服のセレクトに延々と悩んでいた。
 だってだって、ここって都会の素敵なお店を一気に集めちゃったぐらいにビックリするほど品揃えが良くって、あたし―――沙粧ゆき―――の地元じゃとても買えないような可愛い服がいっぱい揃ってるんだもん!
 これで迷わない方がおかしいってぐらいで、目もあんまり肥えてないあたしは、目移りしまくっていた。
 前提は日本刀がちゃんと差せるってことなんだけど、特注っぽい器具で、ベルトみたいにして鞘を固定できる器具がついてるのね。だから、多分ベルトを通すところがあるズボンならオッケーなはず。
 ってことで、とりあえずジーパンの類を見ていた。だけど、これがまた超可愛いジーパンがいっぱいあって迷っちゃうの。さっきから色々見繕った結果、ワッペン付きのカットオフジーパンと、古着加工のジーパンにまで絞り込んで、この二つで迷い中。両方を手に、どっちが良いかなぁって交互に見つめていた。
 ……その時。
 まさか、ね。こんな部屋に誰か来るなんて思わないし、そりゃ少しは警戒もしてたんだけど、今は二つのジーパンを前に迷いに迷っていたとこだったから、突然ドアが開く音に、ビクゥって身体が跳ねていた。
「……あら?」
 慌てて振り向けば、ドアのところから顔を覗かせるお姉さん。
 長い黒髪で、赤色の眼鏡っていうかサングラスをしているカッコイイ人。
 咄嗟に警戒したけれど、お姉さんは優しげな笑みを見せて、
「お邪魔したわね。……続けてもらって構わないわよ。殺したりしないから。」
 そう言って、室内へ足を踏み入れる。彼女が手にしている拳銃にちょっぴりビクビクしてしまうけど、彼女はあたしの視線を感じたのか、クスクスと笑っていた。
「怖い?」
「そ、そりゃ……怖いですとも……」
「私が管理人だとしても?」
「……はぃ?」
 突拍子もない発言に思わず裏返った声を上げ、じっと女性の姿を目で追いかける。
 彼女はあたしのいるジーパンコーナーから程近い、ストレートパンツのコーナーに向かい、物色している様子。うはぁ、あたしはまず近づけなかった地帯だよ。ああいうのって大人さんが履くってイメージで。
「さっきここで一本見繕って、履いてみたんだけどね。ワンサイズ大きかったみたいなのよねぇ。」
 女性は、履いているストレートパンツの腰元に指を入れて「ほら」と苦笑して見せる。
 そんな世間話は別にいいんだけど……かッ?管理人って?
「……どうかした?」
 直立不動のままで固まっているあたしに、女性は不思議そうに首を傾げてみせる。
 ほんのり確信犯のように見えるのは気のせいだろうか。
「…か、か、管理人なんですか!?」
「ええ。」
 サクッと答えられ、あたしはまたまた言葉を失った。
 ちょっと待って、ついさっきまでウキウキしながら洋服選びとかしてたのに。今のこの状況は一体何。
 管理人さんが目の前にいる?っていうか、何、この人が管理人なの!?!?
 こういう時ってサインもらった方がいいのかなぁ?いや、そういうんじゃないっけ!?
「沙粧ゆきさんね。面白い子。」
 管理人さんは口許に手を当ててクスクス笑った後、あたしの方に向き直って、すっと綺麗な礼をした。
「改めましてごきげんよう。管理人の闇村真里と申します。」
「あ、は、はい。えーと、沙粧ゆきです。お世話になっ…て、ます?」
「お世話かどうかは微妙よねぇ。」
 先ほどの流暢な御挨拶とは打って変わって、管理人さんは砕けた口調で言葉を返す。
 ふと、何かに気付いたようにあたしの手元に目を止めると、ツカツカとこっちに歩み寄る。
「可愛いデニムね。どっちにするか迷っているの?」
「あ、はい。そうなんですよぉ。」
 こくこくと頷きながら、あたしも二つのジーパンに目を向ける。
 あ、なんかジーパンって言い方とデニムって言い方にも差があるような気がする。
 どうせ田舎っ子ですよぉだ……。
「トップスにも寄るかしら?何を着る予定?」
「まだ決めてないんですけど……とりあえずコレは脱いで。」
 今着込んでいるミス研ジャージを示した後、向こう側に見えるトップスコーナーに目を向ける。
 闇村さんは軽く小首を傾げて、あたしとジーパン、いやいや、デニムを見比べて
「こっちのワッペンがついている分も可愛らしいけれど、沙粧さんは古着加工の方が似合うんじゃないかしら?裾をロールアップにしたら可愛さアップね。」
 と、にこりと笑みを向けてアドバイスしてくれた。
 こういう時は都会の人のアドバイスの従うのが一番だと思う。うん。
「じゃあそうします!……あ、っていうか、これに似合うトップスってどんなです……?」
 ここまで来ると、思い切って全身のコーディネートをお願いしちゃいたい感じ。
 闇村さんはあたしの肩に軽く触れて促すようにし、トップスコーナーへと歩いて行く。
「沙粧さん、歳は幾つ?」
「じゅーろくですっ」
「若いわねぇ……今ならなんでも出来ますって年頃よねぇ。」
 闇村さんてば、そんなことをしみじみ言うものだから、なんか可笑しくってついつい吹き出してしまう。
「あたし的には、お姉さんみたいに大人の色気の方が憧れちゃうんだけどなぁ。」
「私、色気あるかしら?嬉しいこと言ってくれるわね。」
「熟れた魅力ムンムンって感じっすよぉ!」
「……まだ“熟れた”までは行ってないと……」
「わ、わぁごめんなさいっっ」
 慌てて謝ったりしつつ、あたしたちはトップスコーナーに到着する。
 闇村さんはゆるりと洋服を見回して、
「沙粧さんの趣味で構わないけれど、裾がそう短くないもの。色もあまり派手すぎない方がいいと思うわよ。」
 そんなアドバイスをくれた後、あたしの背中を軽く押して「探してらっしゃい」と促した。
 あたしは洋服のかかったラックに向かいつつ、「探してらっしゃい」ってのもまた大人さんの言い方だなぁなんて思ったりして。闇村さんってカッコイイー……。
 引っかかってる服を一個一個眺めながら、その可愛さに悶え打つ。あーいいなぁ都会。あたしも都会に住みたいなぁ。いい加減、大型スーパーの洋服売り場とか卒業したいなぁ。
「……探しながらで良いのだけど、少し質問をしても良いかしら。」
「はいー?」
 背中に掛けられる声に答えつつ、あたしは彼女の言葉通り、尚も洋服をガチャガチャと見ていく。
 どんな質問が来るんだろうとチラリ彼女を見遣れば
「霜先輩とのえっちは楽しい?」
「……ぶっ」
 超唐突な質問に、思わず吹き出していた。
 な、な、ななななな……!!
「管理人ってねー監視カメラの映像を見られるのよ。」
 闇村さんはめっちゃ楽しそうな笑顔でそんなことを言って、唖然としているあたしに気付けば、「続けて続けて」と洋服探しを促した。
「そ、そ、そ、そんな、み、見たんですかッッ!?」
「ちらっとね。」
「………あー」
 恥ずかしさで爆発しそうになるのを押えながら洋服を見てはいるんだけど、もう洋服の柄なんて映っていない。はじゅかししゅぎるぅ……。
「よく考えれば不公平よね。……沙粧さんにも見せてあげたいわね。」
「な……何をですか……?」
「水夏と私の。」
「……はぁ!?」
 思わずバッと振り向いて、管理人さんに目が釘付けになっていた。
 す、すすす水夏先輩と管理人さんが!!?何それ!!?
「あら、知らなかった?」
 彼女は腕を組んであたしを見つめ、クスッと悪戯っぽい笑みを見せた。
 その笑みが小悪魔っぽくて、うわぁ、って思うのを抑えられない。
 この人……多分、あたしのこと色々を知ってる上で、あんなこと言ってるんだ……。
「………水夏先輩は、管理人さんのことが好きなんですか?」
「どうかしら?」
「じゃなきゃえっちなんて……。」
「例外もあるでしょう?例えば、相手の気持ちを汲んで、好きではないけど身体を重ねる場合だとか。」
「……。」
 彼女の言う例外が、霜先輩のことを言ってるんだってのもすぐにわかった。
 うー。痛いなぁこの人の言葉。
 あたしはくるりと管理人さんに背を向けて、改めて洋服選びを再開する。
 彼女の見透かすような瞳から逃げたかったというのも嘘じゃない。
「切ないわよね、片想いって。」
 ぽつりと、彼女がそんな言葉を漏らす。直後、あたしが手にしていたハンガーにかかった洋服が、床に落ちてガシャンと音を立てた。
「……管理人さんには、関係ないじゃないですか」
 不機嫌になってしまうのは、彼女の言葉が全て事実だから。
 あたしの痛いところをグサグサと刺してきて、耐えられない。
「あら、ごめんなさい。余計なお節介だったみたいね。」
「……ッ。霜先輩は、きっと水夏先輩のことを諦めてくれるしッ……第一、水夏先輩が管理人さんのことが好きなら、霜先輩に勝ち目とかなさそうだし!管理人さんみたいな素敵な人を選ぶに決まってッ…」
「そんなことないわ。」
 あたしの言葉を躊躇なく否定して、管理人さんはあたしのそばに歩み寄る。
「私は水夏のこと、本気じゃないもの。……きっと水夏もね。」
「え……?」
 そんな冷たい言葉を告げられた後、肩に手を置かれて、ビクッと身体が竦んでいた。
 恐る恐る振り向けば、―――ぷに、と。
 あたしのほっぺに刺さった指先。一瞬意味がわかんなくて、動きが停止する。
 見上げれば、小悪魔の笑みなど見る影もなく、優しげな微笑みをたたえた管理人さんの姿があった。
「貴女が田所さんを想っているのはよぉくわかるわ。……でも大人の女は、勝機のない勝負は降りるものよ。悔しくっても我慢して、ね。」
 管理人さんは優しい口調でそう言った後、あたしが落とした長袖Tシャツを拾い上げる。
「これ、可愛いんじゃない?十六歳なんだから、もう子供っぽい服は卒業してね。……大人の装いをしてみるのも悪くないわ。」
「……あたしはそんな、背伸びしてまで大人になりたくないですもん」
「背伸びをしなくったって、大人にはなれるわよ。」
 彼女は言葉を紡ぎながら洋服からハンガーを外し、そのTシャツをあたしの身体に宛がった。
 黒地に、かっちょいい白の斜めラインの入った大人っぽいTシャツ。
 あたしには似合わないような気も、するんだけどな。
「……気に入らない?」
「っていうか、大人っぽすぎ、って感じ……」
 おずおずと言葉を返せば、闇村さんはクスクスと笑い、あたしの髪を軽く撫ぜた。
「今から、貴女を大人の女性にしてあげる。……但し外見だけね。中身までは面倒見ないから。」
「……大人の、じょせい。」
 ぽつりと復唱すると、闇村さんは一つ頷き、「怖がらなくても大丈夫」と微笑みをくれる。
 まだ、迷ってる。あたしは子どものままでいたい。そんな気持ちが大きくて。
 独占欲のままに動いて、欲しい物は手に入れないと気が済まなくて。
 そんな子どもの気持ちを、失ってしまったら―――
「霜先輩を諦めたら、あたしは……」
 それだけが怖い。
 ……怖くて、怖くて、しがみついている。
 ただ、意地を張っているだけかもしれない。
「それじゃあ逆に、田所さんを諦めなかったらどうなるの?」
 不意の問いに、あたしは闇村さんを少し見上げた後、ふっと視線を落とす。
 ……わかってる。わかってるの。
 何もかもわかってる。なのに、見えている結果へとたどり着くことが怖い。
「貴女はもう答えを導き出しているんでしょう。だけどそれを見なかったことにしようとしている。……違う?」
 闇村さんの言葉、どうしてこんなにもあたしを見透かしてるんだろうって、少しだけ怖くなる。
 だけど同時に、あたしの気持ちを理解してくれて、嬉しい。
 見なかったことにして。知らなかったことにして。
 ―――そうしたところで、終局は予想通りになるのは明白なんだ。
 あたしは少しだけ震える手を、彼女の服の裾に伸ばし、きゅっと、掴んだ。
 小声で、精一杯の言葉。
「あたしを、大人の女性にしてください。」
 そんなあたしに闇村さんは優しい笑みを向け、軽く抱き寄せる。
 彼女の手がするりとあたしの髪を撫ぜ、滑り落ちた。








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