BATTLE ROYALE 32「先輩、それ何描いてるんですー?」 「え……?ねこ。」 ゆきと二人、一冊のノートに向かってペンを走らせながら、そんな会話を交わしたのは昨夜のこと。 それは、なんでもない日常の一欠けら。私―――田所霜―――と、ゆきと、二人きりの時間をどれほど過ごしたのだろうか。少なくとも二週間以上。 長いとも短いともいえぬこの休暇、ゆきと一緒にずっと過ごして、気付いたことが幾つかあった。 ゆきは可愛いものが好きで、それに負けないぐらい私のことが好きで(本人談)、私と過ごしていると凄く楽しそうな笑顔を見せる。あんな顔されたら、こっちまで自然と楽しくなってくる。それがゆきの良い所。 だけど、私が水夏のことを考えている時、ゆきは敏感に私の思いを見透かしていた。そして決まってつまらなそうな顔をして、「あたしのことだけ考えてください」と言う。 ゆきの中に、水夏はいない。ゆきは多分、私のことしか考えていない。 自惚れだとか、そんなのではなくて。ゆきの盲目的な愛情は、いやというほどに伝わってくるのだ。 想われることが嫌なんじゃない。むしろ、ゆきの気持ちは嬉しい。 けれどゆきの想いを感じれば感じるほどに、罪悪感が募っていった。 ゆき、ごめん。私はやっぱり水夏のことを忘れるなんて出来ないよ、と。心の中で何度も謝っていた。 「先輩って絵心ないですよねぇ。胴体短すぎですって」 「う、うるさいな。」 いつもミス研の部室で交わしていたような会話の中、ふっと違和感を感じるのは言葉が途切れた瞬間だ。 いつもならここで水夏が「霜の頭の中では、猫はこういう造形をしてるんだな?」とかなんとか言って茶化してくるタイミング、いつものツッコミが入る場所。その間はゆきも自然と覚えているのだろう、だからふっと、二人の会話で不自然な間が訪れる。 その間を埋めるように、ゆきは繕って笑みを浮かべる。 「次はワンコ、描いてくださいッ。あーあたしの似顔絵でも可です!」 無茶なリクエストに、白いノートを見つめて考え込む。犬ってどんなだ。 それに比べればゆきは目の前にいる分、描きやすいかと思って。 「よーし!本物より美人に描いてやるからな」 私はそんな風に意気込んで、ペンを取った。 ―――結果は、惨敗。 目に見えていた結果だったのに。つい調子に乗ってしまったのが悪かった。 出来上がったゆきの似顔絵は、一体どこのエイリアンかと我ながらつっこみたくなる。 「………」 さすがのゆきもこれには沈黙し、どこか恨みがましそうな視線を私に向けた。 「わ、悪い。」 空笑いで答えると、「もー!」とゆきは不貞腐れながら私の頭を軽く殴りつける。 こういう時間、過ごしてると、なんか楽しいなって思うんだけどな。 その後でやっぱりふっと、不自然な沈黙が流れてしまって。 いつもその時に私は、水夏のことを思い出す。 変な話だな。以前は鬱陶しいとすら思っていた水夏のつっこみが、今はこんなにも欲しいなんて。 鋭いつっこみ。たまに水夏が放つわけのわからないボケ。或いは……水夏の自信に満ちた笑み。 その全てが好きだった。その全てがあって初めて、ミス研は成立するんだと思った。 「さってと……お絵描きタイム、そろそろ終わるか。寝ないとな。」 時計を見上げれば午前の一時を指していた。 既に「殺し合い」は昨日の零時丁度から再開していて、先ほど受信したメールにも一名の死亡者が記されていた。「中谷真苗」。この女性と顔を合わせたことはないけれど、随分長い時間、同じ建物の中で過ごしていた人なんだと思えば、なんだかやりきれない思いになる。 そして気になる点は、いつもはない一文だった。「木滝真紋、戦線離脱」。 戦線離脱って、なんだ?死亡じゃないのか?考えたところで答えは出ないけれど……。ゆきにも問い掛けてみたけれど、やはり首を捻るだけ。結局、まあいいか。ということで会話は終了した。 昨日の午前十一時、そして夜の十一時に二度あった禁止エリア告知ではここ「5−A」が呼ばれることはなかった。しかし、明日の午前十一時の放送で「5−A」と告げられる可能性だってある。 私は六〜七時間眠れば睡眠は足りるのだが、ゆきの場合はまだまだ育ち盛りなのか毎日八〜九時間は寝ている。でも私より先に寝るのは嫌だとか言って、結局起きる時間に差が生じるわけだ。 「ふあぁ……それじゃ、シャワー浴びてきまっす!」 ゆきは欠伸混じりに言って、シャワールームへ向かおうとする。 何度も繰り返した光景。延々とループしているような錯覚をしてしまいそうなほど。 そのループを断ち切るように、いつもは見送っていたタイミング、ゆきを引き止めた。 「……嫌な顔するなよ。」 「はい……?」 私の前置きに、既にゆきは表情を曇らせていた。 やっぱりゆきは敏感だな。私が水夏のことを話そうとしていることに、気付いている。 私も、ゆきがそのことを気付いている、と見抜けるようになった。 ふっと一つ息を吐き出し、 「ゆきは今からどうするつもりだ?」 と、予定とは違う問いを投げ掛けていた。 本当は、水夏をどう思っているのかを問いかけようとしたけれど、答えがなんとなく見えてしまう。 いつもと同じ。「別に……」と、ゆきは言葉を濁すんだろう。 だからその問いをかける必要もないような気がして、急遽、問いを変えた。 「今から、って?シャワー浴びてきますけど……」 「そうじゃなくて、今後のこと。だってさ、その……二人でここを出るなんて、出来ないだろ?」 「あぁ」 ゆきはようやく合点が言ったように頷き、ふっと目を逸らして少しの沈黙を置いた。 髪を二つに結んだゴムをするりと解き、手首に掛ける。ゆきが腕を下ろせば、二つのゴムが手首を落ち、手の甲の辺りで引っかかる様子が見て取れた。 「霜先輩と一緒にいられる限り、ずっと一緒です。……それじゃ、だめですか?」 「ゆきはそれでいいのか?」 「……。」 逸らされていた視線が、ふっと不思議そうに私を見る。 ゆきの瞳は綺麗だけれど、時々、一体何を考えているのかわからないような深い色を交えることがある。 私を見つめているゆきの瞳はそれだった。 思わず目を逸らしたくなるのを堪え、ゆきの言葉を待つ。 「あたしは霜先輩を振り向かせようって、ずっと頑張ってるんですよ。あたしの努力も認めて下さいよ。」 「……あぁ」 「どうしたらいいんですかっ」 曖昧な答えしか返せない私に、ゆきは少し強い口調で責め立てる。 剣幕にたじろぐ私へ、ゆきはしばし真っ直ぐな視線を向けた後、不意に、笑みを見せた。 その笑みの意味がわからなくて、私は言葉を失う。 「……まだ死んでない」 独り言のように呟きながら、ゆきは私に背を向けてシャワールームへ続くドアに手を掛けた。 「水夏先輩は霜先輩の中で、まだ死んでないんでしょ?早く殺せばいいのに」 「なんだと?」 あまりに冷酷な言葉に、私は低い声で問い返した。 しかしゆきは私の声など耳に入っていないように、何の反応も示さずにシャワールームへと姿を消した。 何も言えず、ただ呆然とそのドアを見つめていた。 ガシャン!と音がしたのは、一体何の音なのだろうか。 憤りの込められたような音は、一度だけ聞こえ、再び静寂が訪れる。 「………。」 ベッドに腰を下ろして、ゆきの言葉を反芻していた。 どうしてゆきはそんなにも水夏を憎むんだ。 私が水夏を想っているから?ゆきは嫉妬している? それにしては、残酷すぎるんじゃないか。 私は水夏をあんなにも憎んでいる少女を、どうして恋人にしているんだろうか。 思案を巡らせても、答えなど出なかった。 ただ、十五分ほど経った頃にシャワールームから出てきたゆきは、いつもと同じように笑顔を見せ 「霜先輩も浴びてきちゃってください。ぼーっとしてますから。」 と、そう言って私と入れ替わるようにベッドに腰を下ろす。 いつもと同じようにシャワーを浴びて、いつもと同じようにシャワールームを出た。 いつもと同じようにベッドに腰掛けていたゆきのそばに歩み寄り、 いつもと同じように幾つかのキスをした後で、二人で一緒に眠りについた。 それが昨夜の出来事だ。 今、隣に眠るゆきの寝顔を眺めながら、私はぼんやりと考えていた。 ふと窓の外に目を向ければ、久しぶりの雨が降っていた。建物全体が防音なのだろうか、雨音は他人事のように遠くに聞こえる。既に陽が高く昇っているはずの時刻だが、雨雲で覆われている所為か、室内に薄暗い印象を与えていた。 今日は、何かがいつもと違う。 昨夜のゆきとのやりとりか、或いは雨が降っているからなのか。 胸騒ぎがする。今日はいつもと違う、というよりも、いつものように過ごしてはいけないような気がする。 窓からゆきへと再度視線を戻す。ゆきはそろそろ起きてくる時刻だと思うのだが、今日に限っては深く熟睡しているようだった。ゆきの額に掛かった前髪を軽く撫ぜても、ゆきは少しも反応しない。 「水夏……今、何してるんだろうな」 誰にともなく問い掛けるようにぽつりと呟いて、溜息をついた。 こんな疑問に対する答えなど、どこにも見つからないのだから。 疑問を抱くこと自体、間違っているのではないか。 諦めに似た感情を抱きながら、気分転換にとベッドから降り立つ。 一人でいても何もない、退屈な部屋。三人なら退屈したことなんか無いような気さえするのに。 ゆきと二人でも、それなりに楽しかったのに。 ゆきは寝息をたてるばかりで私を構ってくれないし、一人遊びをする道具すら見当たらない。 部屋を見渡して一つ溜息を零した後、ふと、ノートパソコンのそばに無造作に置かれたノートが目に止まる。このノートは私とゆきの唯一の遊び道具で、既にページの半分以上がよくわからないイラストや文字で埋まっていた。 一番最初のページには、水夏が残した手紙を挟んでいる。 小さな紙切れを手に取って、水夏が綴った文字を目で辿った。 「何が、ちょっと出かけてくる、だよ。」 ふざけるな。 批難する言葉が出かかったけれど、声にはならずに息が漏れ出すだけ。 違うんだ。水夏はきっとあの時、本当に「ちょっと出かけてくる」という気持ちで出て行ったんだ。 だけど、どこかで何かがあった。そして水夏は、私達の元へ戻ってくることが出来ないんだ。 ―――もしもあの時、ゆきが拒絶しなかったら。 私とゆきで、精一杯に「戻って欲しい」と懇願すれば、水夏は戻って来たんじゃないか、と。 そんな考えが頭を過ぎり、思わずベッドのゆきへ目を向けていた。 「……ふざけるな。」 言葉は、ゆきに向けたもの。 どうして水夏を拒絶する?どうして水夏を憎む? ふざけるな。私達はミス研の仲間だろう?どうしてあんなに冷たいことを言ったんだ? ………。 手にした手紙をくしゃりと握りしめ、零れてくる涙をその手の甲で乱暴に拭った。 どうしようもない衝動に突き動かされる。 「もう、我慢できないよ。私は」 ペンを手に取って、ノートのページを捲った。最後に描かれていたのはエイリアンみたいなゆきの似顔絵で、その次のページからは白紙が続いている。 少し手が震えて、汚い文字になってしまうことも構わずに、乱暴に書き殴っていた。 数行、ノートの線に沿って綴った後、投げ捨てるようにペンを置いた。 私が握りしめてゴミみたいにくしゃくしゃになった紙、一旦広げて水夏の文字を改めて読み直す。 そしてそれを丁寧に四つ折りにすると、ジャージのポケットにつっこんだ。 部屋のクローゼットには、私の部屋と、ゆきの部屋とから持ち込んだ武器とで、二つの武器がある。 私に宛がわれた武器はガスバーナーで、ゆきの武器は日本刀。どちらもありえないぐらいに使いにくい武器だなと嘆息を吐く。やはりゆきの武器はゆきのものだし、私は大人しく私に宛がわれた武器を手にしよう。 このガスバーナー、両手で抱えてやっと、という結構な大きさだ。しかも、バーナーは所詮バーナーなので、ものすごい火炎が噴き出すだとかそういう代物ではないのだろう。燃料は充填式、最初からある程度の燃料が入っているが、足りなくなったら武器庫で調達しろ、という説明書までついていた。 「……ゆき」 ぽつりと名を呼んでも、ゆきは深い眠りについたまま。 ここで目を覚まされても、少し困ったことになったかもしれないな。 けれど私もゆきに、水夏がいなくなった時に抱いた不安な気持ちをさせるのかと思えば、悪いような気もしていた。これで、ゆきと顔をあわせるのも最後になるのかもしれない。 「ごめん。」 短く零し、私は外へと続く扉へ向かう。 ごめんな、ゆき。一人っきりにしてしまう。だけどゆきなら大丈夫。大人しくしていれば、危ない目になんか合わないはずだから。食料だって、ちゃんと蓄えている分があるし、禁止エリアにならない限りはこの部屋を出る必要もないだろう。 ……水夏も、ごめん。 私、水夏の言い付けを守れないかもしれないよ。 『もしも私が戻ってこなかったら、その時は、絶対に二人で生き延びろ。』 本当に、ごめん。だけどやっぱり、私は嘘をつけない。 ゆきを守るのは先輩として当然の使命なのにな。 水夏だってそう言うだろうな。 私が一人で水夏に会えば、水夏はきっと怒るんだろうな。 だけど、もう限界なんだよ。 私が本当に隣にいてほしいのは、一緒に生き延びたいと思うのは 水夏なんだよ。 『ゆきへ こんな手紙を書くことを、どうか許してほしい。 私はどうしても水夏のことが忘れられない。水夏のことが頭を離れない。 ゆきに悪いなって、ずっと思っていた。 こんな気持ちじゃゆきの気持ちに応えることにはならないんじゃないかって、 そんな罪悪感をずっと抱いていたよ。 ゆきも、私のこの気持ちを知っていたんだろう。 もう耐えられないんだ。 水夏のことを想っているのに、ゆきを好きになる努力をすることも。 水夏の話をするとゆきが嫌そうな顔をするから、 水夏の話題を極力避けていくことも。想いを殺すことも。 ごめんな、ゆき。 私はやっぱり水夏のことが大好きだよ。 水夏のことを憎んでいるゆきを、好きにはなれないよ。 お願いがあるんだ。聞き入れてくれないかもしれない、だけど聞き入れてほしい。 必ず私は、水夏を連れてこの部屋に戻ってくる。だからそれまでに、 水夏のことを受け止める準備をしておいてほしい。水夏のことを許してやってくれ。 でも、もしもこの部屋が禁止エリアになったってわかったら、すぐに戻るから。 だから絶対にゆきは、この部屋から一歩も外に出るな。 私と水夏を信じて、待っていて欲しい。 霜より 』 ……やられた。 あたし―――沙粧ゆき―――が目を覚ますと、部屋に霜先輩は居なかった。 その事実。水夏先輩がいなくなった時よりもずっと冷静に受け止めることが出来た。 最初に確認したのは武器を直していたクローゼット。そこに霜先輩の武器がないことを知って、あたしは確信した。霜先輩は水夏先輩を探しに行ってしまったのだと。 それからいつものノートのページにしたためられた霜先輩の手紙を見つけた。 全てを読み終え、一つ大きく溜息を零す。 こうなること。いつからか予想できていたような気がする。 だからあたしは今、こんなにも冷静でいられるんだ。 霜先輩が書いていた全てのことが、あたしにとっては「当然」のことだった。 全ての気持ちを、あたしは理解していた。 大体、あたしに宛てた手紙なのに水夏先輩の名前の方が多いってどういうこと? 精一杯あたしに気を使いながら書いたつもりなんだろう。だけどその文章に、霜先輩の本音が垣間見える。 結局、霜先輩は水夏先輩で頭がいっぱいなんだ。あたしが霜先輩で頭がいっぱいなのと同じこと。 時計は午前十時半を差している。昨晩、眠れなかったから、寝坊してしまったわけで。 霜先輩はいつ頃までこの部屋にいたんだろう。なんとなくだけど、先輩が出ていったのはそんなに前のことではないような気がしていた。 今、あたしはすべきことは何。 霜先輩を追いかけて引き止めること。この部屋で大人しく待っていること。 ……或いは。 「だから言ったのに。」 クローゼットに向かい、中から日本刀を取り出した。 これ、ちょっとあたしが扱う武器としては向いてないと思うんだけど。 ジャージって、ベルトを通すところがないから刀が固定できないの。 どうしようかな。衣服室に行って着替えてからってのが堅実かな。 鞘からすっと刀身を取り出すと、銀色の刃が鈍く光る。日本刀って、どのぐらい人を殺せるんだろう。こういうのって切りつけるんだっけ、それとも刺した方が効果的なのかな。 まさかこんな時に、剣道を習っておけば良かったって後悔するなんて思いもしない。 ――まぁ、なるようになるかな、多分。 「……だから言ったのにね。」 頭の中と、言葉とが上手く一致してないことに気付いたのは、扉に向かって歩いている時だった。 日本刀の使い方を考えながら、あたし、何か言ってる。 「早く殺せばよかったのに」 一体何のことだろう、と少し首を傾げた後で、ようやくあたしは思い当たった。 そうそう。 水夏先輩のこと。 早く殺せばいいの。 水夏先輩が死んでしまえば、さすがの霜先輩でも死人に振り回されることはないだろうし。 別にあたしが殺す、とか、そういうことを考えているわけではないけれど、 とりあえず水夏先輩には、霜先輩と再会する前に死んでもらった方がいいのかなって ってことは場合によっては、あたしが殺す、ってこともありうるのかな。 「それでもいっか」 ようやく頭と言葉が一致して。 ドアノブに手を掛けて、扉を開く。 廊下の光景も、なんだか久々に見たような気がするよ。 殺されても文句言えないんだっけ。それはあたしも、霜先輩も、そして水夏先輩にも言えること。 殺されても文句言えないってことは、殺してもいいよ、ってことなんだ。 人を殺すことに現実感なんて存在しない。 なら、あたしは、サスペンスドラマの女優さん気取りで、人を殺してもいいんじゃない? ――……霜先輩を取り返すためなら、あたしはなんだってするよ。 「………5−A?」 館内に響いた、禁止エリアの告知。 今は十一時か、と、展望室の窓に凭れてメモを取っていた時だった。 私―――宮野水夏―――は思わず放送を聞き返し、手を止めていた。 『繰り返します』と改めて言われ、私は慌てて再度メモにペンを向ける。 『4−B、5−A、7−C、8−B、9−D、11−B、13−B。以上の7エリアです。正午十二時から十一時間が、禁止時間となります。』 聞き取ってメモに記した文字を確認する。間違いなく言った。5−A。 私の自室だった部屋。今は霜とゆきがいる部屋だ。 「………」 くしゃりと前髪に手をかけながら、大きな窓から見える景色へ目を向ける。 降り続く雨が、オフィス街を濡らしていた。 そんな情景を見ても、今は何も感じない。 5−Aが禁止エリアになった。そのことばかりが頭を巡る。 どうしたらいいんだ。いや、どうしようもないのだろうか。 ……。 落ち着け。そこまで不安になることはない。 霜の部屋である5−Bは5−Aからはすぐ近く。ほんの短い距離、それで誰かに狙われる可能性は極めて低いだろう。私だってこれだけ建物の中をうろついているというのに、誰一人として会うことがないのだから。 大丈夫。大丈夫だよ。ゆきも霜もまだ死んだりしない。 それよりも今は、神崎美雨を探すことを優先しよう。 「……スー、ハー。」 一つ深呼吸をして気を落ち着ける。 とりあえず展望室を後にしよう。ここにいてもどうしようもなさそうだ。 さて、次は一体どこへ向か――… ぐー。 ぐー。 ぐ、ぐー。 ぐぅー。 「飲食室だな。」 思わず一人、真顔で呟いていた。 気を落ち着けたら、ものすごく空腹であることを身体が思い出してしまった。 よし。善は急げ。もとい、膳は急げ。 ということで、私は早速に展望室を後にして飲食室へ歩き出す。 十五階にある展望室から、十二階にある飲食室までは程好い距離だ。 飲食室に向かった後で一休みするにしても、今私が拠点にしている元・鴻上の部屋は飲食室と同じ階にあるため都合が良い。あの部屋には鴻上さんの霊が取り憑いているような気がしてちょっぴり嫌なのだが、かといって実際に人が死んだ元・叶の部屋を使う気にもなれないし。 階段を降りる足取りがついつい早足になってしまうのは、やはり人間、食べる、という行為に愛があるからだろう。食っていいよな。霜の真似じゃないけど、とろけるようなスイーツも良いし、脂ぎったラーメンとかもたまに無性に食べたくなる。今日は何を食べようかなぁッ♪と――― …ブッ。 「のわ!!ビックリした!!」 階段を降りて十二階の廊下に出てから、飲食室の入り口まではさほど距離がない。 軽やかな足取りで飲食室へ身体を向けた、その時、目に入った人物の姿に思わず吹き出していたのだった。ビックリした、とか言われてるが、こっちもビックリした。 「宮野ちゃんじゃないのッ!」 「お……。りっちゃんとみっちゃん…」 「みっちゃんって……」 私の名を呼んだのは夕場律子。そして思いつきの愛称を口走った私に、どこか不服そうな表情を浮かべるのは穂村美咲。二人とは、以前闇村さんのお使いでパソコンを届けに行った時に顔を合わせている。 どうでもいいが、あの二人、遠目に見ると姉妹みたいだな。勿論みっちゃんが姉で。 って、こんな軽いノリで良いのだろうか。慌てて腰元に据えつけたナイフの柄に手を宛がう。 「あ、あ、ちょ、ちょっと待って。あたしたちは平和主義だから!宮野ちゃんが戦うなら即行逃げるし、宮野ちゃんに戦う気がないなら何もしないし!ね!」 説得するような口調で言うりっちゃん……もとい夕場さんに、私は少し拍子抜けしていた。 ここ最近、少し神経が張り詰めていた所為か。もしも誰かと会ったら、それ即ち戦いになるような気がしていた。だから彼女の口調だとか仕草だとか、そういう、見るからに平和な雰囲気が不思議な感じなのだ。 「あ……えっと。」 コホン、と一つ咳払いをして、改めて二人を見る。どうやら二人も飲食室に向かう途中のようだ。あんなに無防備で良いのかと思うほど、武装ゼロな二人の姿。 「一応確認したいんだけど、二人の武器は?」 そう問い掛けると、りっちゃんとみっちゃんは顔を見合わせた後、 みっちゃん、みっちゃんってアレだな、やっぱ穂村さんかな。 うん。穂村さんは、懐から何かを取り出した。 「アイスピック。これが私に割り振られた武器よ。」 「んで、あたしのはね、紛失したっていうか……。もう死んじゃった子に預けててね、その子と一緒にどっか行っちゃった。――疑う?なんなら裸になってもいいわよ?」 開けっ広げな説明に、なるほど。と一つ頷いた。 二人が嘘を言っているようにも思えない。 「裸は勘弁して下さい。」 きっぱりと丁重にお断りして、少し恐る恐る、二人へと距離を詰める。 笑みを浮かべる夕場さんとは相反して、穂村さんはどこか不安げに表情を曇らせていた。 穂村さんは夕場さんに何事かを耳打ちする。夕場さんはぱちぱちと瞬いた後で穂村さんを見上げ、 「……怖い?」 と、小さな声で問い返していた。もう少し離れていれば聞こえなかったかもしれない、小さな声で。 まぁそうだろうな。私は管理人についている立場の人間であって、そう考えれば好戦的なのかもしれないと考えが繋がるのも納得出来る話だ。 だけど私は、二人に危害を加えるつもりは一切無い。 いや、できれば。味方になってほしいとすら思っていた。 「穂村さん。私は多分、貴女と同じような立場です。」 夕場さんに話し掛けるときよりも些か真面目な口調で言い放つ。 私の言葉に不思議そうな表情をする穂村さんへ、更に言葉を続けた。 「管理人の……」 言いかけて、ふと。 夕場さんの存在を気にして、口を噤む。 そうだった、穂村さんが闇村さんのペットだということを言ってしまっては…… 「……あ、そのことなら、話しても構わない。私が闇村さんの……ペット、というお話でしょう?」 私の余計な危惧は、穂村さん自身によって否定されていた。 「美咲から聞いたわよ。あたしは大体知ってるから大丈夫。」 夕場さんは別段気にしていないような素振りで言って、軽く笑んでみせる。 全く気にしていない、ということはないのだろうけど、ともあれ、話が通っているならばこちらも説得し易い。 「じゃあ、その……ペットってやつな。闇村さんのペットなのに、平和主義なんだろ?私も二人に対しては同じだよ。特定の人間以外は眼中にないから。」 これだけの言葉で信頼に値する説得になったとは思わない。 後は穂村さんの判断次第だ。 私は決断を仰ぐように、二人へ目を向けた。 「……そう。半径二メートル以内に入らないなら、いいわ。」 「二メートル、っすか。」 穂村さんの微妙な条件を思わず復唱しつつも、「了解」と頷いた。 なんだ二メートルって。そう言えばパソコンを届けに行った時も、穂村さんと一番近づいても六メートルぐらいあった気がする。 「で?で?いいって、何がいいの?」 夕場さんの問いに、そう言えば何に関して交渉していたのかをすっかり忘れていた。 ぐ。 ぐー。 ぐぐ。 ぐぅぅー。 「ご、ご飯だよ!!」 ようやく思い出した胃袋さんの危機に、私は慌ててそう言い放っていたのだった。 飲食室の隅に備え付けられたテーブルセット。私と律子は隣同士で座り、そして向かいに宮野さん。 三人の間にあるのは沈黙と、そして―――ガツガツ、という擬音が似合いそうな、行動。 ものすごい勢いでお弁当を平らげていく宮野さんに、私―――穂村美咲―――も律子も言葉を失っていた。箸を口元に運んで、噛んで、嚥下して、箸で食べ物を摘んで、口元に運んで……という行動が、脅威のペースで行なわれていく。 やがて最後のお漬物を口にした後で、宮野さんは大きく息を吐き出した。 「ぷはー。食った食った。」 満足げに言っては、空になったお弁当箱の横に置いてあるペットボトルのお茶を一気に飲み干す。 私と律子は、思わず顔を見合わせていた。 「ん?二人は食べないのか?」 不思議そうに言う宮野さんの言葉に、私と律子は圧倒されて止まっていた手を再び動かし始める。 「いや……宮野ちゃん、そんなにお腹空いてたの……?」 二人を代表して、律子が掛ける問い。宮野さんは大らか笑みを見せ、 「一時、ご飯どころじゃなくってな。忘れてたんだ。」 と、そんな言葉を返していた。 忘れてたって……大丈夫なのかしら……。今食べたから良いんだろうけど……。 私はまだ半分も減っていない野菜炒め弁当を食べながら、ご飯粒一つ残っていない宮野さんのお弁当の空に、思わず感嘆の溜息を零していた。 律子は普段から私以上に食べるのが遅く、ハンバーグ弁当のハンバーグとご飯がようやく三分の一ほど減っている程度。添え物に関しては、まだ一切箸をつけていない。 「肉だけじゃなくて、ちゃんと野菜も食べろよー?大きくなれないぞ。」 宮野さんの言葉……嫌味、なのだろうか。満面の笑みで言われて、律子は「うぐっ」と声を上げて恨みがましそうな視線を宮野さんに向ける。 「それなら美咲にも注意したげてよッ。美咲ってば、肉食べないのよ、肉!そんなだから華奢いし、胸もないんだから」 「律子にだけは言われたくない台詞ね。」 胸。 ないこと、ない、のに。 思わず自らの胸元に手を当てていると、二人からの視線が私の胸元に集まっていることに気付く。 「み、見ないで……」 両手で胸元をガードして、二人の視線から逃げた。 なんだかこの二人に囲まれていると、優雅さのユの字もないというか。 中年のおじ様、或いは十代の少年に囲まれているような感じ。 「そこそこあるんじゃないか?……」 宮野さんは私の胸元から視線を外した後、律子と、そして彼女自身の胸元に目を向ける。 ………ああ、宮野さんも、律子と同レベルなのかもしれない。 「み、見るな!!」 今度は宮野さんがガバッと胸元をガードしたので、私も慌てて目を逸らす。 なんだろう、この……微妙な……会話は……。 「私の目が確かならば!!この三人の中で一番胸が小さいのは夕場律――」 「ええい!黙れ黙れ!!こんなくだらない話で盛り上がるんじゃなーーい!」 律子は宮野さんの言う名前に被せようとしていたみたいだが、私にはしっかり聞こえていた。 宮野さんの言葉に同意しながら、律子の言葉の矛盾点にも気がつく。 誰よりもくだらない話が好きなのは律子だと思うのだけれど。……胸の話だけは例外かしら。 「コホン。それよりもっとこう、真剣なお話があるんじゃないかしら。ねぇ美咲。」 咳払いの後、いつもより些か畏まった口調で律子は言う。 そう言われても、こんな会話の後で突然真剣なお話って…… 「あ。真剣な話ならある。」 と、思い出したような口調で宮野さんが切り出した言葉に、私と律子は彼女へ目を向けた。 つい先ほどまで誰の胸が小さいだとか、そんな話をしていたとは思えないほどに真摯な表情をしている宮野さんに、また感嘆している私がいた。彼女って、今まで私の周りにはいなかったタイプね……。 「穂村さんに聞きたいことがあったんだ。……こんなこと、聞いていいのかわからないけど」 言い難そうに声を小さくしながら、宮野さんがチラリと目を向ける先には律子。 律子に、聞かれたくない話なのだろうか。 「別に、律子に隠すことなんかないわ。だから……大丈夫よ。」 そう言いながらも、少し自分の胸にも問い掛けてしまう。本当に、律子に隠し事なんかないだろうか。 律子は私が闇村さんを想っていることを知ってはいる、けれど、私から直接そのことを告げたわけではないし、何か誤解している点などないだろうか。 「ん。胸の話以外なら、あたしはなんだって聞いてやるわよ。」 冗談めかして言う律子に少し笑って、「そういうことよ」と宮野さんへ告げた。 宮野さんはこくんと一つ頷くと、静かな口調で話し始める。 「闇村さんの……ことで。その、穂村さんは彼女の、ペット、なんだろう?」 「ええ。そうよ。」 「そう。それなのに何故、貴女は夕場さんと行動を共にしているのか。或いは――…前に言っていた、恋人、なのか。」 問いかけは予想通りの内容だった。 闇村さん。彼女こそが、私と宮野さんとの唯一の共通点だ。 「それは……」 切り出した後でちらりと律子を見遣る。 彼女は微笑をたたえ、私の言葉ならなんでも受け止める、と、そう言ってくれているように見えた。 そんな彼女の優しさに、ふっと胸が熱くなる。 「律子が好きだからよ。それ以外に何か理由が必要?」 言い切ってしまえば楽なこと。 いや、もっと単純に、そばにいたいからそばにいる。それだけのこと。 「穂村さんは闇村さんのペット。つまり、闇村さんに心を許しているんだろう?なのに夕場さんにも想いを寄せる、ってさ、それは……あっていいことなのか?」 「闇村さんが仰ったのよ。……自分の心に素直になりなさい、と。」 「裏切りに、値しないのか?」 真剣な表情で問い掛けられた言葉に、眉を顰めていた。 裏切り? 何故、そのような考えに至るのかがわからない。 「だって私は……」 言葉を紡ごうとした時、ふっと隣にいる律子の存在が気になったけれど。 でもこれは律子も知っていること。今更言い躊躇うこともない。 「私は闇村さんのことを、愛している。勿論律子も。……これは裏切りではないわ。」 「二股ってやつね」 付け加えるように言った律子。ドキッとして彼女に目を向ければ、律子は微苦笑を浮かべて「仕方ないなぁ」と肩を竦めて見せた。どこか冗談めかしている仕草に、安堵する。 「そ、んなもん、なのか?」 宮野さんは拍子抜けしたような表情を浮かべていた。 確かに二股と一言でいってしまえばあまりに呆気ないのだが。 「じゃあもしも、闇村さんのことも想っているけれど、別のところで誰かを守りたいと思うことは、いけないことじゃ、ないんだな?」 身を乗り出して宮野さんは私に問う。私に聞くことではないような気もするけれど、彼女の必死な様子から見れば、他に相談できる人もいなかったのだろう。 「……いけないことではないと思うわ。ただ、それは闇村さん次第なのかもしれない。」 「闇村さん次第?」 「……そう、つまり…」 ゆるりと室内を見渡していた。この飲食室のどこかにも、おそらく監視カメラがあるのだろう。 闇村さんか、或いはスタッフの女性かが目を光らせているかもしれない。 リアルタイムで見ていないとしても、私達の姿や会話は全て記録されている。 そんな中で、根拠のないことを言うのは若干憚られたのだが、真剣に私の続く言葉を待っている宮野さんの姿に圧倒され、ぽつりと、私は言葉を発していた。 「私は、ね。闇村さんにとっては、ただのペットだと思うのよ。愛してくれているし、とても良くしてくれるけれど、彼女の本命……って言うのかしら。そういう人は、別にいると思うの、ね。」 「……本命…」 きょとんとした表情で復唱する宮野さんへ一つ頷き返す。 「闇村さんが私の恋愛云々に関して別段口を挟んでこないのは、それを楽しんでいるからか、特に興味がないからか。どちらにしても、それは闇村さんにとって困ることではないの。」 「……ふむふむ。」 「だけど実際の恋愛って、やっぱり好きな人が別の人と仲良くしてるのは嫌でしょう?」 「そりゃそうだな。」 「……何が言いたいか、わかる?」 「え?」 相槌を打っていた宮野さんは、確認するような私の問いに一瞬動きを止めた。 あまり理解していないのだろうか。私も遠回しに言っていた節はある。 「要するに。宮野さんが闇村さんにとって特別な存在だというのなら、貴女の恋愛を制限するでしょうね。」 「……私が、闇村さんにとって……」 きょとんとしたままに彼女は復唱し、しばしの沈黙。 やがて、慌てたように首を横に振っていた。 「ち、違う違う!!私は単なるペットでしかない!!」 「なら……別に……」 構わないんじゃない?と首を傾げて見せた。 宮野さんは軽く顔を伏せて固まったまま動かない。 私、検討外れなことを言っているのかしら。 「その……穂村さんは、闇村さんのペットであること、つまり彼女を愛していることを前提に話してるな?」 「……そうなるわね。」 「闇村さんを愛しながらも別の人を想うなんてこと、可能なのか?」 考えもしなかったようなことを問われ、私は思わず律子に目を向けていた。 今までの遅れを挽回するようにハンバーグ弁当をパクついていた律子は、私の視線を感じてかきょとんとした表情で顔を上げ、私と宮野さんを交互に見る。 「あ、ぁーっと、お弁当食べながら聞かせてもらってたけど……。美咲はさ、なんていうか、割り切ってるよね。そういう、闇村さんに対する愛っての?それと、あたしのことも好きでいてくれてるっていう二つの感情ね。今はそのバランスが程好い感じ?だから、なんていうか……成り立ってる?」 「それは器用ってことだよな。」 律子の切れ切れの言葉に、納得するような口調で宮野さんは一つ頷いた。 私って器用、なのかしら。 割り切っているというよりも、律子と闇村さんに対する感情は全く別物のように思えていた。 うーん。なんだか話がややこしくなっているような気がするけれど。 「一度、ぶつかってみたらいいんじゃない?思うままに。」 「だ、誰に?」 「守りたいと思う人を守ってみて、その時の感情を知ってみればいいと思うわ。……簡単なことよ。」 あくまでも私の経験談にしかならないけれど。闇村さんに仕えている立場として、律子を殺さなくてはいけないという葛藤にあった頃から思えば、今は随分楽にいられると思う。 一度、律子を愛してみた。そうしたら全てがすっとクリアーになった。 私は律子を愛していて、闇村さんを愛している。それが、事実だもの。 「………それは裏切りじゃないんだな。」 「そうね。裏切りではないわ。」 確かめるように問われた言葉に、頷き返す。 宮野さんは私の答えを聞いて暫し押し黙った後で、「そうか」と小さく相槌を打った。 彼女が何を迷っているのかはわからないけれど、 迷うよりも、実行した先の答えを知った方が、ずっと早いのだと私は思う。 ―――但し。 私の場合、闇村さんと律子と、二人に向ける愛情のバランスが取れていただけであって、宮野さんの言葉を借りれば器用、ということだけれど……。もしも宮野さんが、守りたいと思う人への愛情が強すぎた場合、それは、闇村さんに対する裏切りにも値するのかもしれない。 そこまではわからない。いや、ありえないのではないか。 闇村さんを裏切る人間など、存在するはずがない。――そういう部分で、彼女は天才だ。 「もしも貴女が闇村さんを裏切るというのなら」 「……」 「その時は、貴女は私の敵になる。それだけは覚えておいてね。」 「あぁ……わかった。」 こくんと頷く宮野さんの姿を見届けて、私は止めていた箸をきゅっと握った。 目の前にいる少女。何かをしでかしそうな気がして、胸が騒いだ。 彼女を敵にはしたくないと、そう思った。 「ゆき!!開けろ、ゆき!!」 扉の向こうにいるはずの人物へと、何度も呼びかける。 しかし一向に、返ってくるのは静寂のみ。 「ゆき……」 ドンッ、と一つ扉を叩き付けた後で、ふっと小さく溜息が零れていた。 私―――田所霜―――が5−A、つまり私とゆきが滞在していた部屋を出てから、ほんの数十分後に館内に響いた禁止エリアの告知。まさか、そこで5−Aと告げられるとは、思っていなかった。 私は部屋を後にして、八階にある武器庫に向かっていた。ガスバーナー、使うことなどないだろうと思っていたけれど、念のために補充用のガスを手に入れておこうと思ったんだ。武器庫で補充用のガスボンベを手に取った時だった。あの放送が響いたのは。 気が動転して、そのボンベを握ったままで私は武器庫を飛び出していた。一目散に5−Aへと向かって、そしてゆきに呼びかけた。時間にすればほんの五分程度で、禁止エリアには十分に間に合って安堵したのも束の間のこと。 ―――何度呼びかけても、返答がない。 ゆきはこの部屋にいるはずなんだ。ついさっき、この部屋のベッドに身を横たえていたんだ。 さすがにまだ寝ているということはないだろう。こんなに呼びかけて、目を覚まさない方がおかしい。 ならば何故、部屋から返答がないっていうんだ? 私の声を無視しているのか、或いは、ゆきはもうこの部屋にいないのか。 どちらにしてもおかしいじゃないか。どうして私を無視する?どうして部屋を出て行く必要がある? 「ゆき!!」 声に諦めが混じってくるのは何故か。 『霜先輩と一緒にいられる限り、ずっと一緒です。』 『水夏先輩は霜先輩の中で、まだ死んでないんでしょ?早く殺せばいいのに』 昨夜のゆきの言葉が、頭を過ぎっていくのは何故か。 ゆきがこの部屋で私を待ってくれているのだと、そう確信できなかったのは、何故か。 「……なんでッ……」 ふっと過ぎる後悔に、扉を叩いていた手の力が抜ける。 ストン、と手から落ちて廊下のフロアに落ちていくガスボンベ。カツンッ!と音を響かせた。 その残響すら残らずに、しん、と静まり返った廊下で、恐怖と後悔が膨れ上がって行く。 どうして私はゆきを一人にしてしまったんだろう。 どうして――― カツン、カツン 不意に、規則的な音が静寂の向こう側に響き渡る。 顔を上げて辺りを見回した。 ゆきが戻って来たんじゃないか、と、そんな期待しか浮かばなかった。 警戒すらせずに、その靴音の主を待った。 しかし人物は―――私の予想とは、反していて。 ゆきでもなく、そして心のどこかで期待していた、水夏でも、ない。 見知らぬ女性の姿。 カツン、カツン 女は、私の姿を目にしてか、ふっと足を止めていた。 こちらを見つめて、微動だにしない。 まるで、死んだ魚のような目をしていた。 「……誰だ」 ぽつりと投げ掛けると、女はふっと、薄い笑みを浮かべる。 ヤバい。 あの女は、多分、まともじゃない。 根拠があるわけじゃない、だけど女の言葉の間だとか、その笑みだとか。 普通じゃない、オーラみたいなものが出ている。 「……私は、真昼様のために」 「ま、ひる?」 「真昼様のために、コロシ、ます」 ――殺す? 何を言っているんだ、あの女は。 殺すだと?……私を? そんなッ 「ころします!」 不意に地面を蹴るようにしてこちらへ駆けてくる女に、私は身を竦めていた。 手にしたガスバーナーをどうすることも出来ず、縮まる距離に、一歩後ろに後退っただけ。 女の手が私に伸びて首を掴まれる。 ぐっと力が込められて、その時になってようやく、命の危機を感じた。 だ、だめだ、こんなところで死ぬわけには―――!! 女は、その細い腕からは想像も出来ないほどに強い力で、私の首を締め付ける。 ヤバい。 振り解こうと、上げようとした手すら、力が入らずに落ちた。 もうお終いだ、と、そんな思いが脳裏を過ぎる。 その時だった。 「鏡子!!やめなさい!!」 凛とした声が響き渡った、それとほぼ同時に、私の首を締め付ける力が抜けていた。 ドサリと、身体が床に倒れこむ。 ヒュッと息を吸い込もうとしたけれど侭ならずに、ゲホゲホと咳をして、ただでさえ少ない酸素を吐き出した。大きく吸い込んでは、何度も咳をして。吐き気すら催す中で、僅かに視線を上げた。 「大丈夫ですか?」 心配そうに私を覗き込む女性の姿が目に映る。 こちらも初めて見る人物だな、とぼんやりと考えて。 女性は私から、鏡子、と呼ばれた女へと視線を移し、 「……私はこんなことをしろとは一言も言っていないわ。どうして…」 と、厳しい口調で言いつけていた。 酸欠の頭では、状況が今一つ飲み込めない。 「真昼様をお守りするために……」 「だからって殺せなんて、私は命令していない!」 「お守りするために……」 「………」 一体、なんなんだ、この二人は。 まるでロボットのような女と、そのマスターである女性と。 現実とは思えないやりとりを、ぼんやりと見つめていた。 とりあえずわかったことは、ロボットのような女が鏡子という名前で、もう一人の人間らしい女性が真昼様だ、ってことくらいか。 「鏡子を野放しにしたら、どうなるかしらね……」 ぽつりと、真昼さんが独り言のように呟いた。 先程よりも酸素が回ってきた私は、のそりと上半身を起こし、彼女を見上げる。 「殺されるんじゃないですか……武器もなしに……」 溜息混じりに、私も独り言のような口調で呟いていた。 大きく息を吸い込んで、ぶはっ、と吐き出す。 ビュー ―――……?! 「な」 「きょ、鏡子!やめてってば!」 突然の事態に目を白黒させる私を他所に、真昼さんは慌てたように、鏡子という女へ手を伸ばす。 パシッと真昼さんが鏡子から奪い取ったのは、半透明の……銃……? 「ゲホッ」 一つ咳き込んで、顔に掛かった液体を手で拭った。 それは、……… なんだろう、これは。 白っぽくてドロドロしていて、なんだか強烈な匂いがする………… いい匂いだけど。 「ご、ご、ごめんなさい!!それ、シャンプーです、目に入らないように気をつけて下さいね」 「シャンプー?!」 思わず素っ頓狂な声を上げる私にはやはり目もくれず、真昼さんは「めっ!」と真面目な顔をして鏡子を叱りつけていた。思わず呆気に取られてしまう。めっ、って……。 「……あの、何?今のは、ちゃんと武器があるっていうアーピルです……?」 真昼さんが手にしているのは、見紛うことなき水鉄砲だ。入っている物が水でないことを除けば、顔にぶっかけるという点でも使用方法は間違っていないと思うが、それを武器と言うのはどうか。 「でしょうね、本当にごめんなさい……」 鏡子の保護者よろしく頭を下げている真昼さんに、「いえ……」と小さく言葉を返し、立ち上がる。 唐突に二人に巻き込まれてしまったが、今はこんな暢気でいる場合でもないのだ。 いや、暢気もなにも、真昼さんがいなければ殺されていたかもしれないってのも事実だが。 ふっと、閉ざされたままの扉に目を向け、じっと5−Aのプレートを凝視する。 「ゆき」 ぽつりと呟いても、やはり反応はない。 今の騒動で十五分ほどは経っただろうか、禁止エリアまではあと四十分そこらだろう。 「……どうかされました?」 真昼さんが不思議そうに小首を傾げるので、反射的に「いえ」と首を横に振っていた。 未だに魚の目をしてゆるりと辺りを見回す鏡子、その手を取って、真昼さんは一つ私に礼をする。 立ち去ろうとする二人の姿。 しばし見つめた後で、ふっと言葉が口をついて出た。 「殺さないんですね。……どうして?」 「え?」 真昼さんは不思議そうな表情をして振り向いた後、私の問いを理解したようにふっと弱い笑みを向けた。 「私には殺す理由がないもの。……できれば貴女も」 「殺しません。」 彼女の言葉に続けるように言えば、真昼さんは柔らかい笑みを向け、 「良かった。……どうか生き延びて下さいね、田所さん。」 と、言い残すようにして、私に背を向け再度歩き出す。 名乗ったはずはないのに、と不思議に思いながら二人の姿を見送った。 真昼さんが私の名前を知っていた理由に気付いたのは、その姿が見えなくなった頃。 「そうか、ジャージに……」 名前を縫い付けてあるんだな、と気付いて、一人で苦笑した。 ゆきは今も、このジャージを身につけているのだろうかと、ふと思って。 そうあることを願いながら、私は歩き出す。 ―――ゆきには殺す理由があるんだな。 だからもうこの部屋にはいない。 『水夏先輩は霜先輩の中で、まだ死んでないんでしょ?早く殺せばいいのに』 早く食い止めなければ。 ゆきは、水夏を殺すつもりかもしれない――。 Next → ← Back ↑Back to Top |