BATTLE ROYALE 31十七時。 降り続ける雨は、一向に止む気配を見せなかった。 別段、私―――茂木螢子―――にとって困ることでもないけれど、少しだけ雨音が煩わしく感じられる。 窓の外から視線を外し、ベッドへと目を遣った。 そこには、今尚目を瞑ったままで目を覚まさぬ、真苗さんの姿がある。 私がどんなに苦労して彼女を手当てし、そしてここ3−B、私の自室まで運んだか。 いつもなら部下にやらせていた重労働、久々に身体を使った所為か、随分肩も凝ってしまった。 「……人の苦労も知らないで。」 ベッドに腰を下ろし、包帯越しに彼女の左耳があった場所へと手を伸ばす。 白い包帯に、丸く血が滲んでいた。そっと触れれば、湿った感覚。 「真苗さんは真苗さんで、痛い思いしてるんでしょうけど」 小さく笑んで、するりと指を下ろしていく。 彼女の服は医務室で脱がせてしまった。肩と太腿に包帯を巻く必要があったので、そのついでに胸元と秘所も白い包帯で覆っている。白い布に覆われた白い肌。所々に滲む赤が鮮やかだ。 「……綺麗ですよ、真苗さん。」 包帯越しに傷口へキスを落とせば、真苗さんは僅かに身を捩り、苦しげな息を漏らす。 構わずに何度もくちづけをしていると、 「うぅ……」 と、小さく唸るような声を耳にした。 顔を上げて彼女の表情に注視する。暫し、苦しげに顰められていたその表情、和らげようと頬を指で撫ぜれば、静かに、その目が薄く開かれる。 「あ、目ぇ覚めました?」 待ちかねた、と彼女の顔を覗き込み、笑みを向ける。 焦点の定まらぬ瞳が揺れて、やがて大きく見開かれた。 「ッ…!……ぅ…、……?」 私を見て、怯えるような表情を浮かべる真苗さんに、再度笑みを見せて。 「怖がらなくていいですよ。今はまだ殺しませんし」 そう告げた、けれど、真苗さんは不安げな表情のままで私をじっと見つめるだけだった。 私を―― 否、私の唇を。 「どうかしました?」 「……ぅ…?」 私の問いかけが耳に入っていないような、そんな様子。 真苗さんはゆるりと首を横に振ろうとしたようだった、けれど、痛みが襲ったのだろう。 きゅっと眉を寄せて動きを止める。 折角真苗さんとお話できると思ったのに、相手にしてもらえないようで少し寂しい。 「んもぅ、真苗さんのいけず。お話しましょうよぉ。」 甘えるような口調で言って見せるが、やはり真苗さんは不安そうな、それでいて不思議そうな表情を浮かべたままで。ぷー、と頬を膨らませて見せると、真苗さんはゆっくりと唇を開いた。 どんな言葉を発すのかと楽しみに待っていたのだけど、真苗さんは小さく唇を震わせるだけで、一向に言葉を発してはくれない。 「………真苗さん?」 様子がおかしい。 じっと彼女を見つめ、その行動を観察する。 唇を動かして、私に何か告げようとしているようなのに、声にならない。 ―――まさか。 私はベッドから立ち上がり、普段禁止エリアをメモするのに使っている小さなノートを取り出した。 そこにペンで、こう記す。 『私の声が聞こえないんですか?』 メモを見せると、真苗さんはパチパチと瞬いては、小さく首を縦に振っていた。 ……そうか。 痛みか、神経の外傷で受けたショックによる、失語症。 それと同時に併発してしまったのが、聾。左耳から聞こえないのは当然として、右耳の聴覚すらも失ってしまったのは心因性のものである可能性が高いだろう。 銃で受けるショックとは、それほどに大きなものなのだ。 「…ぁ、……」 真苗さんは何かを言いたそうにして、私が見せているノートへと右手を伸ばす。 左手も上げようとしたけれど、痛みによってそれも侭ならないらしい。くっと眉を寄せ、再度右手だけを伸ばしてきた。 私はペンだけを手渡し、彼女の書き易い位置へとノートを広げてやった。 「困ったことになりましたねー……。」 意思疎通が面倒だ、と苦笑しつつ、彼女がペンでノートに記していく文字を目で追った。 てっきり、音が聞こえない、言葉が喋れない、そんなことを主張すると思ったのだが、 彼女が記した文字は、私の予想に反したものだった。 『まあやはどこ』 拙い文字で記された彼女の問い。 自分のことよりも、真紋さんのことを優先するなんて。 ただのバカップルかと思っていたのに、こんなにも相手のことを想っているとは、ね。 『真紋さんなら、』 彼女のペンを取ってサラサラと書いた後、少し手を止めた。 不安げな表情で私を見つめている真苗さんに、このまま続きを書かないでおいたらどうかと思ったけれど、それもまた酷なことだろう。一つ溜息をついて、続きを書き記す。 『あと四時間後、この部屋に来るはずです。』 そう書いた瞬間、ふっと真苗さんの表情に笑みが灯る。 なんだか馬鹿馬鹿しくて、私は更に文字を書き足した。 『真苗さんのことを見捨てなければ。』 真苗さんはふっと表情を曇らせるも、またペンを求めるように私に手を伸ばす。 手渡せば、紙が勿体ない、と言いたくなりそうな程に大きな文字で、 『まあやはぜったいに きてくれる』 と、書き記された。 溜息をつかずにはいられない。そんなに愛し合っているなら、手錠を外さなければ良かったのに。 そうすれば今頃、二人は天国でイチャイチャできたはず……なんてね。 真苗さんは尚も真剣な表情で、私が差し出したノートになにやら文字を綴っていた。それを目で追う気にもなれずに、彼女の手が止まるのを待つ。 じわりと額に汗を滲ませ、苦しげな表情を浮かべている真苗さん。今の彼女にとっては、こうして文字を書くという行為すらも苦行に他ならないのだろう。 暫し後で、真苗さんはふっと息を差し出し、ペンを握った手の力を抜いた。 ベッドに投げ出された彼女の手からペンを奪い上げながら、記された文字を声に出して読み上げる。 「螢子ちゃん、真紋を殺さないでね。私のことは殺してもいいから、真紋だけは殺さないで。………それと、私、まあやに好きって伝えなくちゃいけないの。もし私が言えないままで死んでしまったら……って、あーもう。ノロけるのやめません?」 バサッとノートを床に投げ捨て、ほんのりと頭痛すら感じられる甘い言葉に、はぁーと大きく息を吐き出す。 途中で切ったにしても、声にして読み上げてしまったことすら嫌になる。 私が散々、可愛い、とか、綺麗、とか誉めてあげたことすらも、真苗さんは知らない。 「どうしてあんな酷い女のことを今でも想ってるんですか?」 私が声にする問いかけを、真苗さんは理解出来ずにいる。 きょとんと、不思議そうに私を見つめる眼差しに、少しだけ苛立って。 「あの女は真苗さんを見捨てて逃げたんですよ。」 言いながら、彼女に覆い被さった。 ビクッと怯えるように身体を震わせる真苗さんの反応が可愛くて、私は敢えて痛むようにその頭を手で掴み、強引に唇を合わせていた。 「ン、……ぅ、…うぅッ!!」 真苗さんの抵抗が弱々しいのは、あまりの痛みに身体を動かすことが出来ないからだろう。 それをいいことに、私は更に顔を押し付け、深いキスを交わす。 真紋さんがこの部屋に来るまで、後四時間弱。その間、散々真苗さんを蹂躙するのも良い。 大丈夫。真苗さんは生きてさえ居てくれれば、後はどうだっていいんだから。 出血多量によるショック死まで、あとどれほどか。 もう既に、彼女の血液の10%程は出血していることだろう。現在は貧血の状態か。 出血性ショックに至るには、まだ余裕がある。 「……大丈夫ですよ。女性は出血に強いんです。」 囁くように言って、肩にある傷口のそばを親指でぐっと押し付けた。 「ぁ…ッ…!」 苦しげな声すらもBGMにして、包帯をじっと凝視する。 少し経ってから、じわりと、包帯に滲んでいた赤色が鮮度を増す。 ベッドにも血の染みが広がっていることだろう。銃弾が貫通している分、出血は多い。 止血はしているけれど、こうしてショックを与えていればまた傷は疼き出す。 「真苗さんの痛がってる表情って、ゾクゾクします」 貧血によって少し紫がかった唇にキスをして、唾液を流し込む。 真苗さんは、もう私に抗う気力すらないように、時折苦しげな声だけを漏らしていた。 彼女が死す時の表情が見たい。 この官能的な女性が、死に逝く時、どんなに美しいものなのか。 あと四時間は殺せないことが惜しく感じるほどに、痛みに歪んだ彼女の表情に、酔いしれた。 午後二十一時。 ……になった頃、だと思う。 随分前から私―――木滝真紋―――は落ち着かずに、三階の廊下をうろついていた。 なかなか3−Bが見つからず、一度は通り過ぎていたかもしれない扉の前に、今、こうして立っている。 『真苗さんを返してほしいなら、今日の夜九時に私の部屋に来て下さい。場所は3−Bです。』 闇村さんが、螢子ちゃんから言付かったという伝言。 それが確かならば、螢子ちゃんは今この扉の向こうにいるはずだ。 きっと、真苗と一緒に。 ―――これが罠なのは、わかりきっている。 だけど私は、その罠に立ち向かうしかないの。 真苗を、 真苗を取り戻すために。 真苗と一緒に殺されるのだろうか。 こんなこと考えたくはないけれど、真苗を返してほしいならっていうのは単に私を誘き寄せるための嘘であって、真苗は既に殺されて―― いやっ…そんな、そんなことを考えるのはよそう。 今はとにかく 真苗に会えればいい。 真苗に、 真苗に、伝えられれば、……。 コンコン 扉をノックして、即座に銃を構えた。 こんなことはしたくない。だけど 万一、螢子ちゃんが扉を開いてすぐに私を殺そうとするのならば 私はそれよりも先にやりかえせば、 そうすれば真苗を助けれるかもしれないから。 「……真紋さん。よく来れましたね。」 程なくして扉の向こうから聞こえたのは、間違いなく螢子ちゃんの声だ。 嘲るような冷たい響きの声に、心がざわつく。 「真苗を返して。」 扉へと言い放つと、少しの沈黙の後で、クスクスと楽しげな笑い声が聞こえてきた。 バカにしてる。 でも、 そうされても仕方ないミスをしたのは私だ。 真苗を離さなければ。あの時、真苗の手を確かに握っていれば。 「真苗は無事なんでしょう?ねぇ、答えて!!真苗は生きてるんでしょ?!」 「殺したかったですよ、でも我慢して」 「真苗は、生きてるのかって聞いてるの!!」 「……ええ。生かしておいてあげました。貴女のためにね。」 螢子ちゃんの言葉が真実なのかすら、私にはわからない。 だけど私は、それを信じるしか……。 「真苗の、…真苗の声を聞かせて……。お願い、そうでなきゃ」 「あぁ、残念ですけど」 返される言葉の一つ一つに、神経が張り詰めて。 残念、という響きにビクッと身体が震えていた。 「真苗さん、お喋りできなくなっちゃったんですよ。」 「な……何をしたの!!真苗に何を!!」 「私のせいじゃないですよぉ。真紋さんと離れたのがショックだったんじゃないです?」 「……ッ」 扉を蹴り開けたい衝動に駆られるけれど、そんなことをしたってこの扉が開かないことはわかりきっていた。 冷静になるのよ。 冷静に。 真苗を助けるために、最上のことをするの。 「さてと。扉を開けたいところですけど……。真紋さん、銃を持ってるでしょう?」 まるで私の姿を見透かしたような言葉に、小さく歯噛みする。 銃を握る手に力が篭る中、螢子ちゃんはまた、どこか楽しげな笑い声を聞かせてくる。 「普通に考えればわかることです。さぁ、その銃を捨ててください。」 「……捨てれば、開けてくれるのね?」 「ええ。ちゃんと真苗さんとご対面させてあげますよ。」 彼女の言葉に暫し迷った後で、ガシャッと音を立て、私は充填された銃弾をその場に落とした。 カツン・カツンと廊下に響く音は、五つ。 「弾を捨てるだけじゃだめです。どうせ一個残してるんでしょうし」 どうして、わかるのよ。 なんで螢子ちゃんは、そんな そんなに冷静で、残酷なの。 感情的になってはいけない。 そうは思っていても、聞こえてくる楽しげな笑い声を耳にしていると、冷静でいられなくなってしまう。 ガシャン!! 銃を廊下に叩きつけるように投げ、 「これでいいでしょ?!早く開けなさい!!真苗に会わせて!!!」 扉の向こうの螢子ちゃんに怒鳴りつけた。 少しの沈黙が流れる。 ドンッと扉を叩いて、「早く!!」と衝動的に急かしていた。 その時、扉の向こうから。部屋の奥から、ドサッ、と小さく音がする。 「……あ、今の音聞こえました?真苗さん、生きてるでしょう?」 「真苗ッ!!!」 「無駄ですよ。」 「どうして!!」 私の呼びかけすら、バカにするような口調。 更に扉に手を叩きつけ、無駄にガシャガシャとドアノブを捻る。 息が乱れていることに気付き、一つだけ深く空気を吸い込む。 こんなんじゃ こんなに取り乱してちゃ、真苗を助けられない!! 「一歩下がってください。扉のそばにいると、ガンッてぶつかっちゃいますから」 螢子ちゃんの指示。少し迷った後で私は一歩後ろに退いた。 「さっき言ったわよね?真苗に会わせるって言ったわよね?だからッ」 「あぁ、扉を開いた瞬間に撃つとかはないです。……真紋さんが大人しくしてくれてたら、ですけど」 「わかってるわよ!!!」 大声で怒鳴った声は、廊下に響き渡っていた。 他の参加者に見つかる? そんなことはどうでもいい。 今は、とにかく早く。 真苗に会いたい。ただ、それだけ。 バンッ!! 勢い良く、扉は開かれた。 一瞬の気迫に目を伏せたのは刹那。 ―――目を向ける先には、血に塗れて薄い笑みを浮かべる、螢子ちゃんの姿。 その手には当然のように散弾銃が握られていて、その銃口は私をしっかりと捉えている。 「真苗!!」 「手を後ろに回して。」 「……ッ」 ここからじゃ真苗の姿は見えなくて、私は螢子ちゃんの言う通りにするしかなくて。 背中で両腕を抱く体勢を取れば、螢子さんはにっこりを笑みを浮かべて、「宜しい。」と頷いた。 すっと、促すように彼女は一歩後ろに退く。 「まな、えッ……」 僅かな恐怖。けれど身体が突き動かされるように、部屋の中に足を踏み入れていた。 視界に入ったのは、―――赤色と、 ドンッ 突然の衝撃は背後から襲う。 螢子ちゃんの硬い靴の裏が、もろに私の腰元に入り、その場で体勢を崩していた。 膝をついても、すぐに顔を上げる。 「まな、……」 真苗の、白い素肌。 散っている、赤色。 真苗はベッドから落ちたような場所で、うずくまっていた。 ほどけかかった包帯が、体中に絡まって 床についた右手に、赤い血が滴っていた。 だけど 真苗は、ちゃんと生きていた。 顔を伏せて、荒い呼吸ばかりを何度も繰り返して 微かに震えている、その身体 白い素肌を血塗れにして 今にも崩れ落ちそうに、頭をもたげている。 私は這いずって、真苗のそばへと近づいた。 そっと、伏せられた顔に手を伸ばす。 「…、ぁ……」 真苗はゆっくりと顔を上げると、私を目にして、ふわりと柔らかな笑みを浮かべた。 その笑顔に、涙が溢れて来る。 真苗の唇は、音もなく、だけど何度も繰り返す。 まあや。 私の名前を呼んで、嬉しそうに笑っていた。 どうしようもなく愛しくて、 私は真苗の身体を抱こうと、そっと両手を伸ばす。 もうすぐ触れる。 ―――その時だった。 パァン!!!! 脳に響き渡るような、一発の銃声。 それと同時に、腹部に焼けるような痛みが走りぬける。 ドサッ、と、身体がフロアに落ちて あぁ、また、真苗に手が届かない……―― 「あはは!!惨めなものですよね、命を懸けられるぐらいに愛してる人が目の前にいるのに!触れることも出来ないんでしょう!」 高らかな笑い声。 螢子ちゃん、って、 悪魔だ。 「真紋さんってば、本当にバカですよねぇ。この部屋に来なければ生き延びることも出来たのに!一度は見捨てた女でしょ?別に、わざわざ助けに来ることないじゃないですかぁ」 「……」 お腹が熱くて、ヤバい、ぐらい、 燃えそうなほど、熱い。 「私はね、こうやって人間が苦しんでいる姿を見るのが大好きなんですっ。肉体的な苦痛もなかなかいいんですけど、精神的な苦痛に歪んだ表情って最ッ高に素敵なんですよぉ。」 少しだけ顔を上げて、螢子という名の悪魔の姿を目の端に留めた。 悪魔は、クスクスと楽しげに笑みを漏らしては、見下すような視線を私に向ける。 「真紋さん。もっと苦しそうな顔して下さいよ。真苗さんを散々痛めつけた私が憎いでしょう?ねぇ?」 あの女の意のままになんか、させるものか。 あんな女、喜ばせてなんかやらない。 「……真紋さんって、結構意地っ張りですよねぇ。」 悪魔はふっと笑みを弱めると、ゆっくりとした歩調で真苗のそばに歩み寄る。 真苗は、苦しげに息をしながら、また顔を伏せていた。 きっと真苗は、もう、顔を上げていることすら、苦しみなのだろう。 「これを見ても、まだそんなクールな顔でいられますか?」 一体何を言い出すのか、と 真苗のそばにしゃがみ込む悪魔の姿を、じっと見つめる。 本当は、あんな女が真苗に触れることすら、悔しいのに それを止めることすら出来ない自分の身体を恨んでいた。 「私ねぇ、真紋さんが来るまで、真苗さんといっぱい遊んでたんですよぉ」 悪魔は強引に真苗の顔を上げさせて、 私をチラリと横目で見ては、薄い笑みを浮かべて、 そして、真苗にくちづけていた。 「ッ……」 ドクン。 ドクン。 心臓が、弾けそうな程に苦しくなる。 真苗は抵抗することもなく、虚ろな目をしてキスを受けていた。 悪魔。 本当の悪魔だ。 無抵抗な相手だからって だからって、そんなこと 「ぷはッ。……それでね、真苗さんが痛がる顔をたくさん見せてもらいました。」 もう、私に目を向けるでもなく 恍惚とした表情で真苗を見つめ、その顔に舌を這わせる。 悪魔の舌は赤く染まっていた。 真苗の血液を、どれだけ啜ったのだろうか。 「真苗さんって、本当に可愛くて……。真紋さんには勿体ないですよね。」 ずるり、と 内蔵が体内で蠢く。 やばい。あまり動くと、身体の外に出てしまいそうだ。 だけど、 だけどすぐそばに、 重たい、ものが―― 「嫉妬するでしょう。ねぇ真紋さ――」 ようやく、螢子ちゃんが私に目を向ける。 その目が驚きに見開かれることすら、ほんの一瞬。 ―――ガッ!!!! ありったけの力で、螢子ちゃんへと振りかぶったのは どこの部屋にも設置されているデスクセットの、椅子。 こんなに重たい物を、今の私が持てるだなんて、思わなかったけれど やってみれば、なんとかなるものよね。 「憎まないわけがないでしょ。……殺したいくらい憎んでるわよ。」 椅子の硬い部分が、螢子ちゃんの頭を直撃した。 螢子ちゃんはどさりとその場に伏せ、僅かに身体を震わせた。 彼女の四角い眼鏡も、赤い血に汚れた床に落ちていった。 「本当は殺してやりたい。……この椅子であと何度殴れば、死んじゃうのかしらね?」 死んでいない。 螢子ちゃんは、死んでない。 人間の頭蓋骨って、結構丈夫よね。 せいぜい、ヒビが入った程度。 「―――でも、殺さない。」 それだけ告げて、私は真苗のそばに近づいた。 真苗は過呼吸の状態に陥っていて、私がそっと手を伸ばしても、反応すらない。 血が滲んでいるのは傷口か。そこをなるべく避けながら、真苗の肩を抱いて立ち上がらせる。 すぐに私に凭れるようにして、真苗の力が抜ける。 「……真苗にはまだ、言ってないことがあるのよ。」 私だって死にそうだ。 銃弾が、腹部を一直線に掠めていった。 皮膚がもう少し薄かったら、ぱっくりいってるところだった。 真苗みたいに痩せていなくて良かった、なん、て。 「それに真苗も……私に言うことがあるんでしょ……?」 真苗の身体を引きずるようにして、部屋の入り口に向かう。 開けっ放しの扉へ、少しずつ近づいて。 真苗の体温、こんなに低いなんておかしいわよね。 なんで、こんなに冷たいのか。 だけどまだ。 まだ、死なせるわけには、いかないの。 そうして私は、真苗と一緒に螢子ちゃんの部屋を後にした。 長ぁい暗闇の中。 私―――中谷真苗―――はずっと、真紋の姿を探して、泣き続けていた。 凍っちゃいそうなほどに寒くて、ぎゅって自分の身体を抱いて、 真紋の名前ばかりを呼び続けていた。 次第に、唇が凍り付いて、真紋の名前を呼べなくなった。 だから心の中で呼んだ。 まぁや。 真紋。 まぁや……! 繰り返し、繰り返し。 真紋は必ず来てくれるって、信じていた。 寒くて、怖くて、悲しかったけれど 涙は止まらなかったけれど、それでも 真紋は必ず来てくれる。 そう信じ続けていた。 あれはどのぐらい、暗闇の中にいた頃だったのか。 不意に、 眩しい光が差したことがあった。 そこに真紋がいた。 光の中で、真紋が私を見ていた。 嬉しくて、愛しくて その時だけは辛さも寒さも恐怖も、なにもかも消えていた。 だけど、不意に 引き裂くような音がして 暗闇は再び訪れた。 怖かったよ。 ずっと、ずっと、真紋に会えなくなるような気がしてた。 これが最後なのかなって、消えていく光を見ていたよ。 でも違った。 真紋は私を、助けてくれたんだね。 最後のチャンス、くれたんだね。 「……ぁ、…ぅ…」 多分私の声は、音になってなくて。 真紋の名前を呼べないことが、悔しい。 だけど、すぐそばに真紋がいる。 それだけで、嬉しい気持ちがこみ上げる。 ここはどこなんだろう。 なんにもない、空っぽの部屋。 私は壁際に座り込んでいて、広い室内が見渡せる。 部屋中が真っ白で、だけど入り口のところから点々と、赤い血が落ちている。 あれは私の血、かな……? 真紋は私のすぐ隣で、うつ伏せになって目を閉じていた。 その姿を見た時には驚いたけれど、 手をかざせば、規則的な息が感じられた。 なぁんだ、眠ってるんだ、って。安心したような拍子抜けしたような。 真紋の寝顔が可愛くて、ずっとずっと、それを見ていたかったけど ……私ね、あんまり、時間がなさそうなの。 気を抜くと視界がぼやけて 聞こえる自分の心音が、びっくりするほど遅い。 何度息をしても、肺が満たされないのは ずっとずっと、寒さ続いているのは…… ……なんで、なんだろうね。 真紋。 まぁや。 こうして唇を動かしても、届いてないのはわかっているから だから右手を、そっと真紋に伸ばす。 投げ出された真紋の手を、ギュッて握って引いた。 ズキン。ズキン。 響くような痛みも、もういい加減、慣れて来たかもしれないけど ……やっぱ慣れないや。 まあや。 起きて。 テレパシーのように繰り返しながら、 真紋の手を、ぐいぐいって、引き続けた。 「………」 ふっと、真紋が目を開くのが見えた。 良かった。 目、覚ましてくれた。 真紋はゆっくりと私を見上げると、小さく唇を動かす。 だけど、その声は聞こえなくて、私は首を横に振った。 あ、ぅ 左側の耳から、血が流れてくる。 痛みに顔を顰めそうになるけれど、それじゃだめだから 私はすぐに、真紋に笑みを向けた。 真紋は慌てたように身体を起こそうとして、 不意にきゅっと顔を顰めるけれど、 「だいじょうぶ」と言うように唇を動かして、笑んで見せる。 今、気づいた。 真紋のお腹のところからも、たくさんの血が、滲んでいる。 真紋は私のために、あんなに酷い怪我をしたのかな。 私を助けるために、身体を張ってくれたのかなぁ。 ごめんね、すごく、すごく悔しいんだけど、 ……嬉しいって、思っちゃうの。 「………」 音のない世界。 どのぐらい、真紋と見つめ合ったのだろう。 愛しくて、嬉しくて、ずっとこのままでいたかった。 だけど、時折視界がぶれるようになって もうすぐタイムリミットだって、身体が言っているような気がした。 真紋はふっと気付いたように、慌しく洋服のポケットを探り、 取り出したのは、小さなノート!わ、ナイスだよ真紋! 私はそれを渡して欲しくて、手を伸ばすんだけど 真紋は更にポケットを探っては、困ったような顔をした。 ノート。 …ノートと… ……。 あ、ペンが、ないんだ。 でも、でもでも、どうしても、 どうしても伝えなくちゃ。 ペンなくてもいいから、って、私は真紋に手を伸ばす。 「………?」 真紋は何か言って、軽く首を傾げて見せた。 どうやって書くのよ?とか、そんなこと言ってるんだろうなって思いながら、 白紙のページを開いてから、右手の指先をそっと ―――左肩の傷口に、触れさせた。 ズキン。ズキン。 触れた箇所から、じわじわと広がるような痛み。 なんとか堪えながら、赤いインクのついた指で、そっとノートに文字を書く。 ―――あ ……。 手が、 力が、はいらな 「………!」 ぎゅっと、右手の手首が掴まれて 見れば、真っ直ぐに私を見つめ、何度も唇を動かす真紋が見えた。 「がんばれ」 ……。 うん。 がんばるよ。 ごめんね、真紋。 ものすごく汚い字になっちゃうよ。 でも きっと伝わる。 私の最後の想い。 私が生きてきた中で、何よりも大きな想い。 この想いを伝えることが、私の人生の目的だと思えるくらいに。 心の底から、全てを詰め込んだ言葉を、真紋に贈るよ。 最後の文字、書き終えて やっと真紋に、ノートを返すことが出来た。 ふっと、安心感で笑みが浮かんでいた。 やっと。 やっと言えた。 「真苗!」 ――……? 今の、空耳、かな? ふっと閉じようとしていた目を、開く。 真紋は唇を動かしているけれど、やっぱりその声は聞こえなくて。 ―――空耳? ううん、違う。 今のは真紋の心の声なんだ。 差し出されたノート。 赤いインクで書いた私の文字の下に、 少しだけ色の違う、赤いインクで続けられた文字。 涙が溢れて、 どうしようもなく、嬉しくて。 『 まあやのことだけを あいしてるよ。 』 『 私も真苗を あいしてる。 』 ありがとう、真紋。 こんな私を愛してくれて、本当にありがとう。 もっと一緒にいたかった、なんて言ったら、叱られちゃうのかな? ううん。きっと真紋とはまた会えるもの。 生まれ変わったら、今度こそは、二人で幸せになろうね。 真紋の笑顔を見て、そして、目を閉じた。 柔らかい唇の感触を感じて、すごく、心地良かった。 最後のキスの温かさに包まれて 私の心は、音を止めた。 ずっとずっと、真苗の身体は冷たかった。 だけどそんな冷たい身体で、私―――木滝真紋―――に笑顔を見せてくれていた。 この温度でもいいよ。抱きしめても冷たいままでいいから。 だから、だから、 死んじゃ、いや……。 「真苗……?」 そっと唇を離して、真苗の顔を見つめる。 まるで、眠っているような、穏やかな表情。 長い睫毛、白い肌、可愛いピンクの唇は、今は少し白っぽくなっているけれど。 その全てが、私の目の前にあるというのに、 ――ふっと遠ざかっていったような感覚。 「……真苗?まだ寝るのは早いわよ。ねぇ、部屋に戻ろう?私達の部屋に戻って」 涙で視界が曇るのを、必死で堪えて。 私は尚も笑顔で、真苗へと呼びかけた。 「部屋のベッドで一緒に眠ろう?……ね?傷が治ったら、好きなだけエッチもさせてあげるから。いっぱい抱きしめてあげるし、飽きるぐらいキスもしてッ……」 言えば、言うほどに涙が溢れて、止まらなくて 真苗が、 真苗が目を開けてくれたらそれで きっと止まるんだから。ねぇ、お願い、だから 「真苗ッ……目ぇ、開けてよ……私を一人にしないでよ……」 冷たい身体をぎゅって抱き寄せても、 真苗は痛みを訴えることもなく、私に身を任せるように、力を抜いたままだった。 「……ま、なえッ…」 その身体に、顔を寄せて。 真苗の胸に顔を寄せ、その柔らかい感覚に埋もれて押し黙る。 ―――そして私はようやく、 真苗を目覚めさせる術がないことを、知った。 「ッ……」 真苗に抱かれるようにして、ぎゅっと、その冷たい身体に縋りついたまま。 こうしていれば、真苗が私の髪を撫でてくれるかもしれない。 真苗が喜んでくれるかもしれない。 真苗が、抱き返してくれるかもしれない。 そんな望みが叶わないのだと、知ってしまった。 「……いや…、いやぁっ……」 この感情を一体どうすればいいのか、私にはわからない。 愛してると、言ってくれたのに。 こんなにも、愛しているのに。 なのに、ねぇ、どうして真苗は、 もう私に、愛してるって言ってくれないのよ。 ズキン、ズキン、ズキン。 抉るような痛みが、私を現実に引き戻す。 酷い痛みに、そっと腹部へ手を宛てた。 僅かに皮膚が押し広げられて、嫌な感じに盛り上がっている、みたいだった。 「……ッ」 目の前にいる、真苗の姿に、暫し見惚れて。 いっそこのまま、真苗と共に死んでしまおうかと、考えた。 そうすれば私は、ずっと真苗と一緒にいられる? 真苗に、愛してるって言ってもらえる? ―――…… だけど。 不意に頭を過ぎった幾つかの言葉が、私を引き止める。 『運命だったの。』 『私はまぁやのこと、大好きなんだから。』 『ユーァーライク、ア…ラビット!』 生きている真苗が、そう告げてくれたから、私は今こうして生きている。 隣にいた真苗が、私を励ましてくれたから。 『最愛の人の望みに沿うことが一番よ。 その人が自分の分も生き抜いて欲しいと私に望んでくれるなら、私は逃げるわ。』 あの、闇村さんの言葉は、突き刺さるようだった。 『真紋ぁッ!!逃げてぇ!!!』 真苗は、 真苗は、私に生きて欲しいと 願ってくれた。 私は――― 「木滝さん。…お取り込み中に、ごめんなさいね。」 「!?」 突然聞こえた声に、私は慌てて振り向いていた。 部屋の入り口に立っていたのは、 管理人である女性。――闇村さん。 「貴女に嬉しいお知らせがあるの。」 「……嬉しい……?」 真苗からそっと身体を離し、立ち上がろうとしたけれど、力が入らなかった。 闇村さんはそんな私を見かねたように、こちらへ歩み寄り、そっと身体を支えてくれた。 肩に手を添えられ、ぺたん、とその場に座り込む。 闇村さんは私より幾分高い視線で、どこか優しげな眼差しを向ける。 今の私に、嬉しいと思えることなど、あるのだろうか。 ぼんやりと、彼女の目を見つめていた。 柔らかな眼差し。この人も、悪魔だと思っていたけれど 時々、天使のような行動を見せる。 今回の彼女の言う「嬉しいお知らせ」とは 天使のお言葉か 悪魔の囁きか。 闇村さんは、「しっかり聞いてね」と前置きをした上で、 一呼吸置いてから 告げた。 「木滝真紋さん。貴女を、このプロジェクトから解放します。」 ―――? 何、言ってるの? ……解放? 「驚くのも無理はないわね。……私自身、少し複雑なのだけれど」 闇村さんはすっと目を逸らすと、少しの間押し黙った後、再度私に目を向ける。 私はと言えば、痛みで意識が朦朧としている上に、真苗のことで気が動転している。 そんな状態で、突然の告示を理解する方が難しい。 「解放、って?なに……?」 「つまり、貴女はもう殺し合いをしなくても良いということ。このプロジェクトから下りることが出来るのよ。」 「な?……なんでよ?」 意味がわからない、と闇村さんを見上げたままに問い掛ける。 彼女は、「落ち着いて」と宥めるように私に言って、そっと肩を抱くようにして立ち上がらせた。 ぐら、と揺れる身体、闇村さんに凭れることでしかバランスを保てない。 「今は説明出来る状況じゃなさそうね。……管理室へ行くわ。先に治療よ。」 「いやっ……真苗を……!!」 置いては行けない、と、振り向いた。 壁際に凭れて、安らかな表情で目を閉じている真苗へと手を伸ばそうとして 腹部を襲う激痛に力が抜けた。 「遺体には後で会えるわ。安静になさい!」 厳しい口調で言いつけられて、そのまま、彼女に引きずられるようにして部屋を出る。 一度だけ振り向いては、 遠くなっていく真苗の姿に、また涙が溢れていた。 「螢子のお願いを一つだけ聞いてあげる。どう?」 「それじゃあ一つ、お願いしたいんですけど―――」 闇村さんと私―――茂木螢子―――がそんなやりとりを交わしたのは、今日の朝のことだ。 真苗さんを撃って。それと、一人で逃げ出した真紋さんは一先ず放置して。 銃弾を受けて気を失った真苗さんを愛でながら、私と闇村さんは幾つかの言葉を交わす。 彼女の、「お願いを一つだけ聞いてあげる」という言葉は、一種のボーナスゲームのようなもの。 そこで新しい武器を貰うことも出来たはずだ。 だけど私はそうしなかった。 あまりに不公平すぎる。管理人の贔屓で優勝しても、ちっとも面白くない。 だから私はあの時、こう言葉を続けたの。 「今夜の夜九時、私の部屋に真紋さんを呼び出したいと思うんです。――その時に」 「……その時に?」 「もしも真紋さんが私に勝ったら、彼女をこのプロジェクトから解放してあげて下さい。」 「……本気で言ってるの?」 「はい。」 不思議そうな表情で、闇村さんは私を見ていた。 あくまで彼女は管理者、つまり、ゲームを観戦する側の人間だ。 ゲームをプレイする側の人間には、観戦側には関係のない、プライドというものが大きく関わって来る。 私は組織のトップであった、言わば悪人中の悪人。 それに対し真紋さんは、正義中の正義……などではなく。 正義感は若干強いが、所詮は一般ピープルである。 そんな生半可な人間に、この私が負けるわけにはいかない。 「真紋さんは思想犯、でしたか?そもそも死刑になる理由自体がおかしいんですよ。人間を殺したわけでもないのに、こんな崇高なプロジェクトに選ばれるなんて、ふざけていると思いません?」 「……崇高なプロジェクト、ねぇ。」 「だから、彼女がこの私に勝てたのならば。……あぁ、勿論私は真紋さんのことを殺すつもりですけどね?万が一、この私を打ち破るようなことが起こったら、一般ピープルは一般ピープルらしく、生ぬるい俗世に帰してあげてください。」 「でもそれじゃあ矛盾しているでしょう?」 闇村さんは笑みを浮かべて私に指摘した。 そんなことは不可能だ、とばかりの笑みで、 「螢子に勝ったら、ということは、木滝さんは螢子を殺していることになる。その時点で彼女は罪人よ。」 と、豪語した。そう言われてみれば、その通りだった。 うーん、と私が首を捻っていると、闇村さんはピッと人差し指を立て、 「じゃあ、こうしたらどうかしら?もしも木滝さんが、螢子を殺さずに、中谷さんを連れて螢子の部屋を出たら。この条件なら、螢子にも勝ったことになるし、木滝さんも罪人ではないでしょう?」 にこやかにそう提案した。その案には純粋に、「なるほど」と頷く私がいた。 「その条件で構いません。……これが私のお願いですけど、叶えて下さいますか?」 「……いいわよ。オプションで、夜九時に呼び出すっていうのも伝言してあげましょうか?」 「あぁ、お願いします。」 ――私、自身、それが本当になるだなんて思っていなかった。 私は真紋さんを殺すつもりだったし、真紋さんは私に殺意を抱いていて当然だった。 それなのに。 真紋さんは、私を、殺さなかった。 「ッ……」 気を失っていたのは一時間ちょっと。時計は二十二時半を差している。 今だに後頭部にズキズキと痛みが響いているが、致命傷には程遠いものだ。 たんこぶが出来ちゃったけど。 ……。 …。 木滝真紋。 あの女―――意味がわからない。 『殺したいくらい憎んでるわよ。』 なのに何故 私を、殺さなかった? 「……どうして螢子を殺さなかったの?」 スタッフ専用のエレベーターに乗って、木滝さんと共に移動しながら、私―――闇村真里―――は彼女に問いかけた。木滝さんは私に凭れるようにして頭をもたげていたが、問いから少し経った頃、僅かに顔を上げて私を見上げた。 「殺したら、お終いでしょう……」 零すような口調で、木滝さんは言う。 ふっと大きく息を吐き出しては、更に顔を上げ、真っ直ぐに私を見つめた。 「管理人だって、憎いのよ。……こんなプロジェクトさえなければ、真苗が死ぬこともなかった。」 「……。」 「でも、殺さない。」 きっぱりと言って、木滝さんは目を瞑った。 不意に、ガクッと力の抜ける彼女の身体を支え、ちらりとエレベーターの階表示を見上げた。 あと三階。間もなく到着する。 「殺したら、終わりなの……。相手への憎しみも、慈しみも、何もかも全てが消化されないままにわだかまる。殺して解決することなんて、一つもないのよ……。全ては、生きているから、起こる事象……。」 彼女がぽつぽつと言葉を零し終えた時、ようやくエレベーターは管理室のある十六階へ辿りつく。 すぐに、待機していたスタッフ達が、木滝さんの身体を支えて奥へと運んでいった。 点々と床に落ちていく血液を見て、ふと自分の服を見れば、そこにもベッタリと彼女の血液が付着していた。ふっと苦笑を漏らしながら、衣服室のある階、十階のボタンを押す。 ―――生きているから起こる事象、か。 確かに、彼女の言う通りかもしれないわね。 私が今も美雨を追いかけているのは、今も彼女が生きているから。 もしもあの時美雨を殺していたら―― 私は解決のないわだかまりの愛を、永遠に抱き続けていたのだろう。 死なないでね、美雨。 もう一度、私と会うまでは。 私は貴女が生きているから、――生きているんだわ。 Next → ← Back ↑Back to Top |