BATTLE ROYALE 28




「ハイリッホー?」
 少女の呼びかけに応えるように返しては、ふっと笑みを浮かべる。
 その少女の声が聞こえたのは、ほんの偶然だった。
 懐かしい光景。下界の女性達が闘うビルの中、あたし―――鴻上光子―――が目を止めたのは、以前あたしの個室として宛がわれていた一室。長いこと誰も足を踏み入れなかった部屋に、一人の少女が訪れた。
 宮野水夏。それが彼女の名前。
 彼女とは少しだけ面識があった。闇村真里、とかいう管理人の女の「ペット」。
 望月朔夜を殺した少女。そして、あたしの最期に立ち会った少女でもある。

 天空の城の庭先で。
 あたしが作った涼華の墓標に背を預け、虚空を眺めていた。
 否、その虚空にあるのは虚空ではなく、下界の光景。
 こういう時、死人って便利かもしれない。直接この目にしなくても、こう、考えるだけで見たい景色が見れる。
 それは下界の世界だけなんだけど、あのビルで繰り広げられる死闘を観察するにはもってこいだった。
 少女は窓から夜空を見上げ、彼女の言う「電波」とやらを送り続ける。
 それを偶然に受信してしまったのが、あたし、というわけ。
 現世の人間と死人が関わることなど、普通は許されないことだ。
 だけど。ほんっの少しだけ例外というのも存在する。それは、現世の人間に強い霊感がある場合。
 別段オカルト関連に詳しいわけではないけれど、こうして死人になって見ると、いつのまにやら色んな知識が増えていた。不思議と理解できるのだ。あの少女の持ち前の霊感によって、今、一方通行であるはずの下界と天空の城とが、一時的に繋がっているということ。
 モラルとしての問題もある。あたしは所詮死人であり、現世の人間と関わることは基本的にはNG。
 けれど、まぁ……なんというか。水夏ちゃんがあんなにも困っているのを放っておけないような気もして。
 少し躊躇った後で、あたしは静かに口を開いた。
「助言してほしい?」
 その声は、すっと虚空に呑まれて行く。
 そして下界にいる水夏ちゃんは、驚いたようにその目を見開いていた。
『あ、あなたは……!?』
 ああ、テレビ電話のようなものかもしれない。
 でも水夏ちゃんには私の姿は見えていないようだから、ちょっとした覗き見気分。
 まぁ死人はいつでもどこでも覗き放題なんだから、今更って気もするけれど。
「ごきげんよう。……ふふ。私は誰でしょう?」
『うぇ!?』
 水夏ちゃんからしてみれば、混乱に陥って当然のことかもね。だっていきなり変な声が聞こえたかと思えば、次はクイズ?って。いやん、これちょっと楽しいー。
「驚かせてごめんね。水夏ちゃんの電波、受信しちゃった。」
『……き、聞いたことがあるような…声……』
「ほらほら、こないだ会ったじゃない。覚えてくれてないのー?」
『え、えーと……?』
 水夏ちゃんは尚も混乱している様子で、夜空をきょろきょろと見渡している。
 そんなに探したってあたしの姿は見えないのにね。
 暫し思い悩んだ様子を見せた後、水夏ちゃんはふっと顔をあげ、おずおずと言葉を発す。
『まさか……鴻上さん……?』
「はい、大正解。久しぶりね、水夏ちゃん。」
『………生きてたのか!?』
「死んでるわよ。」
 自分であっさりつっこんでおきながら、このつっこみもどうなのかしら、と少し首を捻る。
 まぁ死んでるのは事実よね。うんうん。
『ま、まっままま待て!鴻上光子?って、あれ?望月朔夜はどうした!』
「どうした、って言われても……。」
 まだ会ってない。とあっさり告げれば、暫しの沈黙。
 水夏ちゃん、自分で電波送っておいて、そんなに混乱しないでほしいわね。
『え?あれ?お前はもう死んでるんだな?』
「うん。」
『ってことは、私も死んでるのか!?』
「死んでない死んでない。」
『だーーっ!意味わかんなッ』
 頭を抱えてその場にうずくまる水夏ちゃんに、思わず吹き出していた。
 このまま彼女の混乱の様子を見ていても楽しいかなって思ったんだけど、さすがに……
 霊力には限界がある。
 こうしてあたしと「交信」をしている間、常に水夏ちゃんの霊力は削られている。
 霊力は生命力とも直結するといって過言ではない。つまり、あまり長い時間、こうしてあたしと交信をしていれば、水夏ちゃんはどんどん疲弊し、下手すれば死に至る。
 だから現世の人間と死人は、関わってはいけないのだ。
「いい?簡単に説明するから、絶対にそれで納得してね?」
『え?は、はぁ。』
「あたしは既に死んでる。つまり死人。そして貴女はまだ生きてる。だから現世の人間よ。普段はあたし達が関わることなんてまず出来ないけれど、えーと、ま、要するに……――出血大サービス期間って感じ。」
『………な、なるほど。』
 水夏ちゃんは明らかに納得していない表情だけれど、私が釘を差したからか、とりあえずこくこくと頷いた。
 物分りが良い子って大好きだわ。さぁ、それじゃあ本題に移しましょう。
「さっき言ったように、あたしは水夏ちゃんに助言することが出来る。それを受けるも受けないもあなたの勝手よ。どうする?」
 問いかけると、水夏ちゃんはふっと真面目な表情を浮かべ、窓に手を当て縋りつくように夜空を見上げた。
『お願いします。今はなんでもいい。なんでもいいからッ……』
「わかったわ。」
 一つ頷いて、少しの思案。
 あたしが与えることのできる助言なんて限られている。
 あたしが思うことを、彼女に伝えるだけ。
「………」
 背中に感じる石の硬さ。あたしにとって、それは涼華と同じ存在。
 あんなにも愛していた人、今は会うことすら侭ならない。それは何故か。
 ――…自業自得、なんて言っていたけれど、それで納得出来るはずもなかった。
 誰の所為か。それは、涼華を破壊した人物であり、理不尽な殺し合いを催した人物だ。
「闇村真里を殺しなさい。」
『……え…!?』
 あたしの中で一つだけ、醜い感情が渦巻いている。
 それは、闇村真里という悪魔に対する、殺意だった。
「あの女が全ての元凶であり、司るものでもあると思う。あの女を消すことは、プロジェクトそのものを終わらせることにも繋がるかもしれないのよ。」
『で、でもそれは!!』
「これはあくまで、あたしの意見であり、あたしのできる唯一の助言。いい?あの女は人間よ?どうしてあんな女を恐れるの?もしあたしが死ぬ直前、望月朔夜の横槍さえ入らなければ、あたしはあの女を殺していたかもしれないのよ?」
『………』
「人間の命は案外脆いわ。それはあの女にだって言えること。」
 淡々と告げたあたしの言葉、水夏ちゃんがすぐに受け入れるとは思えなかった。
 けれど少しでもいい。その心に留めておいてくれれば。
 可能性はゼロとは言えない。
『……ぁ…、ッ…?』
 水夏ちゃんは何かを紡ごうと口を開いた、けれど、言葉が出ることはなかった。
 まずい。タイムリミットね。これ以上は彼女の命にも関わってしまう。
「あの女さえ消せば、貴女は幸せになれるかもしれないのよ。……覚えといてね。」
 最後の一押しとばかりにそう告げて、ふっと息を吐き出す。
 がくん、と水夏ちゃんがその場に膝をつくのが見えた。
「―――夢は終わり。さぁ、現実に戻りなさい。眠りから覚めた時、貴女がこの夢をどう思うかは貴女次第。」
 あたしが言い終えた頃に、水夏ちゃんは意識を失ったのだろう。
 ザザ、とヴィジョンが乱れるような感覚が、あたしにも伝わってきた。
「……応援してるから。」
 パチン、と弾けるようにして、繋がりは消えた。
 現世との繋がりを洗い流すように、大きな風が一つ吹き抜ける。
 草や木を、私の髪を揺らしていく。髪を緩く押さえ、私はその場から立ち上がった。
 小さな墓標に向かい合い、笑みと共に、涙が零れる。
「……ねぇ涼華。あたしたちに与えられなかった幸せを、他の人に分け与えたいって思っても、いいわよね?」
 答えなど、返って来なかった。
 けれど、わかるの。涼華はきっと笑顔で頷いてくれている。
 そんな姿を思い浮かべては、ふっと笑みを深めた。





 じーっと、一枚の紙を凝視する四人の女の子。
 そのうちの一人である私―――榎本由子―――は、最初に顔を上げて「凄いですね…」と呟いた。
 ここは天空の城の中にある、ちょっとした談話室。広さは十二畳ほどだろうか、ガラスで出来たテーブルを囲むように三人掛けのソファが二つ置いてあって、周りには紅茶やコーヒーなんかもお手軽に淹れられる設備がある。お城にある部屋というより、すごくお金持ちさんの家にあるお部屋といった方がイメージ近いかも。
 ガラスのテーブルに置かれている紙は、先程高見沢さんが届けてくれた「人物相関図・現役編」である。私達四人はそれに暫し目を奪われ、やがてぽつぽつと顔を離していった。ついでに、以前から出来ていたらしい「人物相関図」も一緒に届けてくれたので参考までに。
「こうして見ると、アレだなぁ……人数減ったなぁ?」
 片眉を上げてそう言ったのは、榊千理子さん。どさりとソファに身を投げ出すようにして腰を下ろしては、頭の後ろで手を組み、どこか退屈そうに欠伸一つ。オレンジ色にも似た明るい色の髪をがしがしと掻きながら、「最近誰も死なないしな」と付け加えるように呟いた。
「いいじゃん!平和なのはいいことだよ!何気にハートマークも多いし!」
 高い声で千理子さんに反論するのは、佐倉莉永ちゃん。…ちゃん?いえ、莉永さん。どう見ても私より年下にしか思えないのだけれど、一つ上なんだよね。世の中には不思議なこともまだまだ多くて……成長ホルモンの問題かなぁ……。そもそもここでも「世の中」っていう言葉は適応されるのかな……。
「でも、本当に幸せな両想いの方っていないような気がしません?」
 冷静な口調で言うのは、ソファに軽く腰掛けて紅茶のティーカップを揺らしている渋谷紗悠里さん。実は彼女、唯一私と同い年の同級生さんなんだけど、紗悠里さんは紗悠里さんで……なんというか。冷静沈着、頭脳明晰。性格的には、私とは比べ物にならないくらい、大人っぽいかもしれない……。
「そう言えばそうですね。両想いになっている方も、別に想い人がいたりして……」
 紗悠里さんの言葉に頷きながら私は言った。想い合っている女性達は存在するのに、何れも別の方向へとハートの矢印が向いている。その先には、闇村真里という名前があった。
「そいつらより、問題はバカップルだよ。」
 千理子さんの提起する問題、それは中谷さんと木滝さんの不思議な矢印についてだ。
 二人ともハートマークになっているのに、両想いを意味してはいない。
「……仲は良さそうだったんですけどね。」
 ぽつりと、紗悠里さんはどこか遠くへと目を向けながら呟いた。そんな姿をじっと見つめていれば、私の視線に気付いたのか、僅かな微苦笑を浮かべて
「二人とは、前に少しだけお会いしました。」
 と補足するように言葉を続ける。
 あぁ、やっぱり少しでも知っている人がいると、その人のこと気にしちゃうよね。
 私は――……私はやっぱり、律子さんの姿ばかり目で追ってしまうもの。
「どうなるやら〜って感じだねぇ。高校生の子たちにも頑張って欲しい気もするけどさぁ」
 莉永さんの言葉にふと考えてみれば、同じ学校の三人組と八王子さんと。意外と若いメンバーが多いことにも気付かされる。若いから不利というわけでもないし、有利ということもないとは思うけれど。
 確かに頑張ってほしい。ほしい、けど……。
「あの、今残っている人たちの中で、誰が生き残るのか予想してみません?」
 私は、そんなことを切り出していた。
 皆に勝ち残って欲しい。だけど、それは叶わない。
 ならば一人だけでも。たった一人だけでもいいから、その人に祈りを託したい。
 他の皆にも、そういう人がいるんじゃないかと思って。
「お。なかなか面白そうじゃん?オッケーオッケー。予想してみよーう。」
「莉永もやるぅ。」
「……予想…。」
 三人は特に反論もなく、再度十五名の名が記された相関図に目を向けた。
 私も三人の後ろから覗き込み、その十五個の名を目で辿る。
「あ、あの。」
 声を上げたのは、ふと、あることが気になったから。
 何?と三人が顔を上げる、その様子を少し見渡して、
「神崎さんと闇村さんは抜き、でどうでしょう?」
 と提案をした。
 三人はどこか不思議そうな顔をして、改めて相関図を見る。
「美雨さん抜きだと……難しいんですけど……」
「あの天才が生き残らないわけない…よねぇ。」
 複雑そうな顔をして言う紗悠里さんと千理子さん。そんな時不意に、クスクスと小さく聞こえてきた笑い声。
 莉永さんだった。莉永さんはどこからか取り出した赤色のマニキュアで、「美雨」「真里」と書かれた名前を赤く塗りつぶす。
「いいじゃーん。天才抜きバトルなら、本格的に結果見えないと思わない?そっちの方がおもろいよー。」
 ピチャリと赤い雫を一つ落としてから、マニキュアのボトルを閉めた。紙面に載せられた赤は、まるで血が滴ったようにも見える。
 そうして十三個になった名前を見つめ、約一分程のシンキングタイム。私の答えは、やはり簡単に出た。生き残るであろう人物とは違う、生き残って欲しい人物を選ぶのは反則だろうか。
「んじゃ、言い出しっぺからいってみよう!」
 突然の莉永さんの進行にビックリしつつも、「はーい」と私は答え、すっと紙面に指を伸ばす。
 指差すのは勿論、「律子」という名前。
「律子さんが生き残ると……思います。」
「その心は。」
「希望があるから。」
「希望?」
 打てば響くような短いやりとりで、紗悠里さんの不思議そうな表情に少しだけ笑みを向けた。
「そう。希望です。きっと律子さんは、誰よりもたくさんの希望を持っている人なの。」
「……希望…」
 今一つ納得のいっていない様子に、私も何と説明すれば良いのか迷ってしまう。
「そのお姉さんは、一番いっぱい笑ってるんじゃないかな。」
 助け舟のように、そう告げられた言葉。莉永さんはのんびりとした笑顔のままで、「多分ねぇ」などと付け加えるけれど。一番いっぱい笑顔。そう、きっとその通りだ。
 紗悠里さんも緩く首を傾げながらも、「そう」と小さく相槌を打った。
「さて、あたしはねぇー。えーっと……」
 次は莉永さんの番。
 決まっているはずなのに、今も少し迷うような様子を見せた後で、ビシッと指を突きつけた。
 ………二本。
「何やってんの?」
 千理子さんの呆れたようなつっこみに莉永さんはギクッと身を竦ませるも、繕うような笑みを浮かべて
「だ、だって選べないんだもーん。由伊たんもゆきたんも頑張ってほしいのーっ。」
 と、言い訳のような言葉を紡ぐ。
 言われてみて、ふと気付く。莉永さんの二本の指が指差している人物も、また随分意外な人だった。
 神楽由伊と、沙粧ゆき。共に、言ってしまえば少し地味な感じの普通の女の子達。
「何故その二人に?」
 私が問い掛ければ、莉永さんはにこぉと笑みを深めて
「二人とも、なんか女の子って感じがして可愛いでしょぉ?」
 と、答えとして道理に適っているのかどうかわからないが、そんな答えを返してきた。
「可愛いから生き残るってモンじゃないと思いマース。」
「そりゃそうだよ!もしそうならあたしだって死んでないっつーの!」
 千理子さんのつっこみにも莉永さんは強気だった。
 思わず私が目を点にしていると、莉永さんは少し考えるように首を傾げた後、こう続けた。
「生き残りそうなんじゃなくて、生き残って欲しい子、かなぁ。あーでもさ、ほら、女の子パワーは強いんだぞぉって思うわけさぁー」
 女の子パワー。その言葉に少し笑いながらも、なんだか納得。
 莉永さんは特別思い入れのある人はいないのかもしれない。だとしたら、自分に近い境遇の子たちを応援したくなるのも納得だ。私も律子さんがいなければ、高校生の子たち応援したかったかもしれないし。
「さゆりんはだーれだぁ?」
「さゆりんって呼ばないで下さい。」
「かわいいのに……」
 莉永さんとそんな微妙なやりとりをしつつ、紗悠里さんが指を差したのは―――
 人差し指と中指、二本立てて指差しては「だめです?」と少し遠慮がちに問い掛ける。
 程近い距離に名前の記されている二人。“バカップル”だった。
「その心は?」
 彼女の選択がなんだか嬉しくて笑みが浮かびながら、私は問い掛ける。
 紗悠里さんは伏せ目がちに考え込んだ後、「理由は」と小さく切り出した。
「幸せ、になって欲しい…から。……幸せになれなかった人の分もね。」
 どこか寂しげな微笑みだった。紗悠里さんは誰を想いながら、あのカップルを選んだんだろう。
 私の勘でしかないけれど、それは、紗悠里さん自身以外の誰かを想っているように感じていた。
「結局のとこはそれ大きいよね。生き残ったあと、あたしたちまで幸せになれるみたいな生き方っていうか?そういうのしてくれる人がいいよねぇ。」
 うんうん。と頷きながら莉永さんが言う。その通りだなぁって感心していれば、「あたしってばたまにはいいこと言う!」だなんて、自分自身で感動している様子に苦笑が漏れた。
「あーな……そういう意味では微妙かもしれないけど……」
 千理子さんは少し表情を曇らせつつも、すっと一人の名前を指差す。
 あぁ、それは意外であり、でもなぜか不思議と納得できてしまう名前。
「茂木螢子に一票。」
 千理子さんのそんな言葉に、なぜか、私も莉永さんも紗悠里さんも、口を噤んでいた。
 少しの間。千理子さんは私達の顔を見回すと、軽く肩を竦めてみせる。
「皆様、ノーコメント?……いや、実際あたしもさ、選んだ理由とかはよくわからないんだけどね。」
「彼女は未知数ですからね……」
 紗悠里さんは真面目な表情で呟いて、「ノーコメントです」と千理子さんの言葉を復唱する。
「わ、私もノーコメントで……」
 慌てて紗悠里さんの言葉に続けた。言葉が上手く見つからないんだ。
 螢子さん。……螢子さん。
 あの時、藍子さんを撃って私達を助けてくれた人。
 だけど突然ふらりと、その姿を消してしまった人。
 初めて会った時は、救世主のようにも思えた。藍子さんを殺したっていう事実だけ聞けばまた思いは違うけれど、でも確かにあの時螢子さんは私達を助けてくれた。味方、だと、思っていた。
 しかし、螢子さんが私達の前からいなくなる時の表情だけは、あの言葉だけは、今もまだ覚えている。
「あのさぁ、螢子ちゃんって普通の人だったんだよ?……あたし、留置所でちょっと顔見たことあるもん。」
 フォローするような莉永さんの言葉。それを聞いても、私達の表情が晴れることはない。
 ううん、不安な想いは余計に加速していった。
 螢子さん、冷たい表情をしていた。そして彼女の口で確かに紡いだんだもの。

『あなたの知っている私が、本当の私とは限らない。』





 天空の“城”、なのだから当然、中はお城っぽい内装になっている。
 お城の内装、ではなく、お城っぽい内装と曖昧にしてしまうのは、あたし―――矢沢深雪―――が実際にお城を見たことがないからだ。ヨーロッパには行ったことがない。中世ヨーロッパの古城を再現したものってのは日本にもアメリカにもあるかもしれないが、いや、もう、そういう情緒的な建物とかには縁がなかった。
 せいぜい大阪城。姫路城。ああ、こういう日本情緒の溢れる場所に行く機会は多かった。何故かって、組織の人間はアメリカ人であり、あたしの拠点は日本。アメリカの組織から仕事でこっちに来るアメリカ人にどういう接待をすれば喜ばれるかと言うと、「ジャパニーズサムライ」の類である。当然、夜の接待も普通のキャバクラより、着物のお姉ちゃんがいるお店の方が喜ばれる。いや、そんなことはどうでもいい。
 日本のお城と考えて思い浮かぶのは、隠し扉だとか隠し廊下だとか。ジャパニーズ忍者が通るアレだ。そういうのは、ヨーロッパの古城にはないのだろうかと考えてみる。やはり城には主がいて、その主は地位のある人間だ。主を守るためには護衛がいる。しかし城に攻め入られた時、護衛が絶対に守りきれるとは言い切れない。そんな時に発揮されるのが知的な行動だ。だまし討ちにする。裏口から逃げる。些細なことでもいいから知的な行動。その行動には、仕掛けが必要な場合が多い。ジャパニーズキャッスルの隠し廊下や隠し扉がそれだ。ヨーロッパの人間がバカだとかは言いたくない。いや、ヨーロッパは知識の豊富な学者だって多くいたはず。それならば、この古城にも隠し扉や廊下があるはずだ。うんうん。
 というわけであたしは、この天空の城を歩き回っていた。エレベーターなど存在するわけもないので、とにもかくにも歩くしかない。加えて高低差のある城なので、数階を制覇した辺りで、既に力尽きそうだった。
「ふー……」
 大きく息を吐き出しながら、押し開けた大きな扉。そのサイズは人十人が一緒にくぐれそうなものなのだが、扉自体は思ったよりも重たくない。扉を開くまで気付かなかった。その先が一体どんな場所なのか。
「………」
 感嘆の言葉すら出ない程に圧倒された。
 いわゆる、王の間というやつだ。横幅はかけっこが出来そうなほどに広く、天井は目が眩むほどに高い。
 前方に目を向ければ、真っ直ぐに引かれた赤い絨毯と、その先に重厚な一つの椅子があった。
 辺りを見回しながら歩を進める。
「中世の王様ってこんな広い部屋にいたのね……。こんなんじゃ逆に落ち着かないわよ……。」
 ついつい現実的なことを考えてしまいながら、王の椅子のところまでやってきた。
 ただでっかいだけではなく、椅子には高級そうな装飾がしてあった。宝石かと疑ってしまうような綺麗な石が幾つも。こんな椅子、普通に売り買いしたら何十万の値がつくのは歴然だ。
 少し迷った後、ちょこんと腰を下ろしてみる。
「おー……壮観壮観。」
 広い王の間を見渡して、王様気分満喫である。しばしそのままぼんやりした後、ハッと我に返った。
 あ、あたしは王様になりに来たんじゃなくて、隠し扉とかを探しに来たのよ!
 そうだ、王様の間に隠し扉はあって当然よね?王様が逃げるための道っていうのはきっと存在するはず!
 とりあえずは椅子回りから――……って、あれ?
「なに、コレ……」
 丁度、王様が腰を下ろしている位置だ。椅子にぽっかりと穴が空いていた。ハッ――…!!
「そっか……王様の職業病なのね……。」
 納得だ。でなければ、こんな所に穴が空いているわけもない。
 いや、しかしこんな小さい穴だとさすがに、その病気に対応できないんじゃ……。
 様々な憶測を浮かべながら、尚も王の椅子を観察していた。
「んん?」
 肘置きのところに、ぽこんと埋め込まれている小さな球。赤く濁った半透明の色。
 これがどこか不自然に思えるのは、テロ組織で培った勘というやつだろうか。
 というわけで早速!ぐっと押してみる。
 …………。
 押してみたが、ちゃんと埋め込まれているらしく手応えなし。
「押してだめなら!!」
 引いてみた。
 ―――――スポンッ。
 あああ、あ、あ、あ、あ。あまりに呆気ない結果に、思わず言葉を失った。
 取れた!?取れて良いものなの!?
 単に接着剤が弱かっただとか、そういう、………?
「これはもしかすると……」
 手にした赤色の球と、そして王様の痔対策……いやいや、ともかく椅子に空いた穴と。
 そのサイズが一致するような気がして、あたしはそっと球を穴に宛がった。
 ス……コンッ。
「あ」
 球は吸い込まれるように穴に飲まれ、そして……
 ――カコーーン!!
 遠くで何かにぶつかるような音。
 え、なになに?球落ちた!?
 落ちたってどこ、に……?
 慌てて辺りを見回した時、椅子の裏側に、ほんの少し不自然な痕跡が残っているのを見つけた。
 椅子の重みで押さえつけられていた絨毯がほんの少し。
 どういうこと?それはつまり、この椅子を誰かが動かしたってことじゃない?
「ええい!」
 押すか引くかしか能がないのかと言われてしまえばどうしようもないのだが、とりあえず椅子を押した。
 すれば、ギギッと軋むような音の後、椅子が斜めに傾いていく。
「わ、わーわーーー!!!」
 高級そうな…何十万もしそうな椅子が…倒れる!!
 慌てて目を瞑ったものの、不思議なことに、椅子が倒れる音はしなかった。
 恐る恐る目を開けば、斜めに傾いたままで停止した椅子と、そして
「これは…!」
 ―――地下へと続く階段と。
 当然、ここで迷ってもいられない。先ほど球を落としたのが何だったのかはよくわからないがともかく、椅子の下へ落ちたのは間違いない。つまり、この階段を落ちていったのだろうか。
 あたしはその球の行方を追いかけるべく、階段を降りていく。
「ッ……」
 咳き込んで、薄暗い階段を見回した。闇に紛れて見えないが、おそらくは埃の煙が舞っているんだろう。
 光源は、普段は王様の椅子で覆われているのだろう、あの入り口だけ。
 階段を進んでいくにつれて光は薄れ、まもなく真の闇になってしまうのではないかと危惧した頃。
 前方に、ぼんやりと柔らかい明りが見えた。その方向へと足を早めた。
 もうすぐ光の元へたどり着く、と緩いカーブを抜けた、その時。
 キラリと、ランプに当たって光を放つ先ほどの球の姿。
 そしてその球を手にした、一人の女性の姿があった。
「お待ちしておりました、国王様。」
 女性は微笑をたたえたまま、ペコリと頭を下げたのだった。





 突然の訪問者。まさか誰かがこの場所を見つけ出すとは思わなかった。
 けれど、あの音が聞こえた時、なぜか嬉しい気持ちになったのも事実。
 カツン、カツン、カツンッ。傾斜に沿って落ちてきた紅色の球が扉をノックした。
「どうぞ。何もお構い出来ませんが」
 木製の古びた扉を開けて、訪問者を招き入れる。
 彼女はこの場所を目にして、どこか驚いたような表情だった。
 当然かも知れない。ここは特別な場所。普段は誰も足を踏み入れない神聖な場所なのだから。
「……ここは、何?貴女は…?」
 一通り辺りを見回した後、女性はふっとこちらへ目を向けた。
 少しだけ笑みを向け、彼女へと背中を見せる。中央の路をいくつか歩き、祭壇へと近づいた。
「聖職者と名乗りたいところですが、それは罰当たりなのかもしれませんね。」
「……ここは、礼拝堂?」
「ええ。」
 確かにここは礼拝堂。けれど、礼拝堂ではない礼拝堂だ。
 ここに神は祭られていない。
 祭るもののない祭壇と、光を多く含んだステンドグラス。
 信徒のいない信徒席と、持ち主のないロザリオが一つ。
「それで、なんであたしが国王様なのかしら?……矢沢深雪、って名前があるのよ。」
 女性はどこか楽しげに言いながら、信徒席の最後列へ腰を下ろす。
 真っ直ぐに、こちらへ向けられる視線。少しだけ見つめ返して、目を逸らした。
「申し遅れました。私は悠祈と言います。……悠祈藍子。」
 そう名乗って、彼女のいる後方の信徒席へ向け足を進める。
「……ユウキさん、ね。」
 私―――悠祈藍子―――から視線を外すことなく、矢沢さんはふっと笑みを深めた。
「先ほど、国王様がSOSを送られたでしょう。」
 彼女と、通路を挟んだ席に腰を下ろし、ちらりと目を向ける。
 矢沢さんは私の言葉に不思議そうにして、「何のこと?」と首を傾げた。
 手の中には先ほどの紅の球。ゆらりと手の中で転がしながら私は告げる。
「国王様の影の守衛。それが、この礼拝堂にいる聖職者です。国王の座から落としましたよね?この血液。」
「……血液…?」
「身に危険が及んだ時、国王様は最後の救いを求めるのです。落ちた血液を模った、この球を使って。」
「あぁ、それであんな仕掛けが。」
「ええ。国王がいらっしゃる限り、聖職者もここにいなければならない。だから私がここを守っているんです。」
「………」
 矢沢さんはフッと息を吐き出すと、真っ直ぐにステンドグラスを見つめたまま、目を細める。
「この城に王はいないわ。」
 どこかなげやりなニュアンスの言葉。
 彼女は私に同意を求めるように、「そうでしょう?」と短く問い掛けた。
 私はその問いに対する答えを持っていない。王は、いるかもしれない。いないかもしれない。
「一先ず、SOSを発した王は貴女です。」
「それは知らずにやったこと、で……」
 反論口調の言葉が途切れたのは、私と目が合ったからだろうか。
 ふっと口を閉ざし、真っ直ぐに私を見つめる視線。
 訪れた沈黙で、私はようやく気付けたのかもしれない。彼女が国王だとかそんなことはどうでもいい。
 私はただ、こうして一人でいることに、少しだけ慣れすぎて、少しだけ怖かった。
 恐怖なんて、どうして感じるんだろう。私はもう死人であり、恐れることなどないはずなのに。
「ねぇ、悠祈サン?」
 ギシッ、と、聞こえたのは木の軋む音。
 この礼拝堂、お世辞にも新しく綺麗とは言い難くて、どこもかしこもぼろが来ている。
 だけど一つだけ、ステンドグラスだけは、古びても尚美しい色を映し出していた。
 彼女がこちらへと歩み寄る。光と影が、生まれては消える。
「あたしね、貴女に会ってみたかったのよ。」
 また、ギシッと音がした。今度は私のすぐそばで、矢沢さんが私の隣に腰を下ろしたから。
「私に、ですか?……私のことを知って…?」
「そう。……ある人から名前を聞いたことがあるの。」
 矢沢さんが切り出した意外な言葉に、背の高い彼女の横顔を見上げた。「ある人?」と短く問うと、矢沢さんは真っ直ぐに前を見つめたまま、どこか迷いの滲む表情で頷く。
「茂木螢子。……貴女も知ってるわね?」
「……。」
 大方、予想通りの言葉でもあった。
 私を殺した人。そして、矢沢さんを殺した人。
 黙り込んでしまう私に、矢沢さんはふっと微苦笑を浮かべた。
「ごめんね、こういう話はしたくないかもしれないけど。……でも、どうしても聞きたくてね。あの時の螢子の様子、良かったら聞かせてくれない?」
「……彼女のことは私も、前々から気にかけていましたし。」
 矢沢さんから視線を逸らし、以前のことを思い起こす。
 私が死す直前。銃を手に現れた螢子さんの姿。
 放たれた銃弾、そのほんの一瞬の光景だったのに、まるでスローモーションのようだった。
 螢子さんの浮かべた、笑顔。
「危ないですよ、彼女は。……躊躇いなく撃たれましたから。」
「……躊躇いなく、か。」
 私にはそうとしか言えない。それ以上のことは私もわからないし、あまり思い出したくもない。
 俯いて押し黙っていると、不意にふわりと、頭に触れられる感覚。
 顔を上げると、心配そうに私を覗き込む矢沢さんの姿があった。
「ごめんね、思い出させたりして。……あたしの時も似たようなもんだったわ。」
 軽く私の頭を撫ぜながら、矢沢さんは悲しげに目を細める。
 くすぐったくも心地良い感覚は、いつかの昔見た夢にも似ている。
「後ろから羽交い絞めにされてね。手を後ろに縛られて、身体の自由、全然きかなくて。油断してたあたしが悪かったんだろうけど……。」
「好きだったんでしょう?彼女のことが。」
 問い掛けた後で、ぶしつけな問いだったかと反省するが、彼女は苦笑したままで頷いた。
 私の言葉を咎める様子もなく、「そうなのよねぇ」としみじみした口調で肯定する。
「だから正直、驚いたし……信じられなかった。もうホント、わけわかんなくて混乱してるまま、禁止エリアになって――っていう、格好良くもない死に様だったんだけどね。」
 矢沢さんが冗談めかして紡ぐのは何のためだろう。自分の気落ちを防ぐためか、或いは私に余計な心配をかけまいとしているのか。どんな理由にしても、彼女の語り口は落ち着く。けれど、どこか切ない。
「……一つだけ悔しいのはね」
 彼女はすっと視線を上げ、遠くを見る。視線の先には、キラキラと瞬きを湛えるステンドグラスがあるのだろうか。けれどそれを追うことはせずに、私は彼女の横顔を見つめていた。
「螢子の気持ちが最後まで見えなかったこと。」
 あぁ、こうして彼女が口にした言葉は、果てしない重みを持っているの。
 想いは移ろわない。どんなに時が経っても、彼女はずっとその疑問を持ち続けるんだろう。
 悔しい、と、思い続けるんだろう。
「酷いわよね、あの子。口では好きって言いながら、笑顔浮かべながら、なのに、サヨナラって言い残してあたしを殺したのよ?何考えてるのか、ッ……」
「矢沢さん、螢子さんにさようならって言いました?」
 彼女の心に沸く憤りを押し込めたくて、私は言葉を被せるようにして彼女に問い掛けた。
 矢沢さんはきょとんとした表情を浮かべた後、少し間を置いて、ふっと弱い笑みを零す。
「言った言った。螢子がね、去り際に頭下げて言うのよ。深雪さん、さようなら……って。それ聞いた時に、あー最後なんだぁって思って」
「ちゃんと、さようならを返せたんですね。」
「……バイバイ螢子、って。聞こえたかどうかわかんないけど。」
「いいじゃないですか。」
 私は彼女に笑みを向け、そう言ってから立ち上がる。
 矢沢さんの前を通って通路に出ると、少しだけステンドグラスを見上げた。
「大切な人に最後のお別れを言えるのは、良いことです。」
「……藍子は、言った?」
 返される問いに、少しだけ言葉に迷う。
 けれど隠したって、何にもならないことに気付いていた。
「いってきます、としか。」
「……」
「もう戻れないのに。」
 思い出して、切なくなるけれど。
 そんな気持ちは飲み込んで、彼女へと差し出すのは先ほどの赤い球。
 すとん、と矢沢さんの手の中に落とし、私は後ろへと一歩引いた。
「国王様。SOSではなくても構いませんので、お呼び立ての際はまたその球をご利用下さい。」
 そう告げて一つ礼をして、私は礼拝堂を去ろうとした。
 けれど、最後の言葉が浮かばなくて、少し戸惑う。
「――バイバイ、藍子。」
 背中に掛けられた声、それは最後のお別れの挨拶なのだろうか、と。
 振り向くと、笑みを浮かべた矢沢さんの姿があった。
 そして彼女は、こう続ける。
「またね。」
 ………。
 どうして、こんな些細なことで心が揺れているんだろう。
 ううん、揺れるわけはない。私はお兄ちゃんを想っているだけ、なのだけど、
 何故か。
「矢沢さんって」
「うん?」
「お兄ちゃんみたいですね。」
「……はい?」
 彼女の声が裏返るのが少し可笑しくて笑った。
 再び彼女に背を向けて、私は扉に手を掛ける。
「それでは失礼します。……また。」
 そう告げて、静かに礼拝堂を後にした。
 薄暗い階段を見上げれば、カツン・カツンと球の落ちる残響が、未だに聞こえてくるようだった。





 城内の図書室。
 ここには様々な書物が保管されている。分類ごとに分けられた書架と、無人の貸し出しカウンター。そして部屋の隅に申し訳程度に備えられた閲覧コーナー。
 静寂の中で時折聞こえる物音は、私―――幸坂綾女―――以外の誰かがこの図書室にいるということなのだろう。さして気にすることもなく、並ぶ本の背表紙を目でなぞっていた。
 書架の分類は神学。大部分がキリスト教の神学を説いた書誌で占めている。
 私の神は、仏教やイスラム教よりもキリスト教の説く神の存在に近いものだ。故に神学を学ぶ場合、大抵はキリスト教の書物にばかり偏っている。生前に神学大全を読もうかと幾度も思ったが、時間の都合上それも侭ならなかった。今ならば、時間を気にすることなく読み耽ることも可能だろう。けれど……
 分厚い本に手を掛けて、斜めに傾けた後、ふっと手を離す。ストンと音を立てて書架に舞い戻る本。
 何故だろう、神に対して全く気が向かない。探究心もなにもかも、薄れてしまっているようだ。
 理由は明らかだった。私の死の瞬間に、私の中に神はいなかった。
「………」
 興味を引かれる本もなく、別の書架へと移ろうとした。
 その時不意に、短く聞こえたのは悲鳴。
「きゃっ……」
 直後に、ドサドサッと何かが床に落ちる音。この場所から考えて、落ちたのは幾つもの書物だろう。
 音のした方へ足を向けて、書架と書架との間を覗き込む。すれば、床に散らばった何冊もの本をしゃがみ込んで拾い集めている女性の姿があった。
「大丈夫ですか……?」
 声をかけながら彼女のそばへと歩み寄り、足元に落ちていた本を拾い上げた。
「あ……は、はい。高いところにある本を取ろうとしたら、手元が狂ってしまって。」
 女性は長い髪を耳にかけては本を拾い集め、「すみません」と微苦笑を浮かべ謝った。
 茶色がかった長い髪に、カジュアルドレス。令嬢然とした格好に、少しだけ不釣合いなのは向かって右の目元を隠すように長い前髪だ。彼女とはプロジェクトの発端の時、一度だけ顔を合わせていた。否、顔を合わせたというよりも、その姿を目にしていたと言った方が相応しいだろう。
 不知火グループの一人娘、不知火琴音。
「はい。……気をつけて下さいね。」
 拾い上げた本を差し出した。その時ようやく、私が手に取った本の表紙を目にする。そこには「呪術大全」という文字が大きく書かれていた。
 ――……呪術……。
 私が先ほど手に取ろうとした神学大全とは、同じ大全でもえらい違いである。
 ……いや、呪術と神学はあながち遠い存在でもないのかもしれないが。
「ありがとうございます。……幸坂さん、ですよね?」
 彼女は十冊ほどの分厚い本を抱え立ち上がりながら、遠慮がちな口調で私に問い掛けた。
「ええ。……貴女は不知火さんね。こんなところで呪術のお勉強?」
「あ……これは、その……」
 ふっと躊躇うような表情の後で、不知火さんは(おそらく意図的ではないのだろう)上目遣いで私を見つめる。続く言葉を待っていれば、
「少しお時間宜しいですか?」
 と、彼女は小首を傾げて見せた。
「勿論。……何か?」
「あの、幸坂さんってシスターさんでしたよね?呪術だとか……そういうもの。お詳しいのかしら?」
「詳しくはないかもしれないけれど……若干は。」
「若干で十分ですわ。教えて頂けません?書物から得る知識も大きいのですけれど、やはり誰かの意見が聞いてみたくって。」
 確かに、神学に詳しい人間ならば、呪術だとかの部類は多少齧っている場合も多い。私自身、過去に数冊ほど呪術関連の書物を読んだことはあった。けれど、彼女が手にしているような分厚い本でもなく、本当に齧った、という程度でしかない。
「あまり大層なことは教えられないわ。」
「構いません!」
 不知火さんは表情を綻ばせ、私を急かすようにして閲覧コーナーへと足を向ける。
 一足遅れで彼女の後を追えば、不知火さんは椅子を引き、「どうぞ」と私を促した。
「ありがとう。……それにしても随分に熱心なのね。どうして呪術を学びたいと?」
 私の隣の席に腰を下ろし、どっさりと机に置かれた本の背表紙を指先で辿る不知火さん。彼女は私の問いに顔を上げると、ふっと弱い笑みを零した。
「不知火家の呪い。私はずっと、その呪いから人々を解き放つために生きてきました。」
「……呪い?」
「はい。発端は、家の書物室で見つけた古い一冊の文献でした。」
 彼女はそこで一息つくと、重ね積みされた本の一冊を手に取り、それをぱらぱらと捲る。
 本に目を落としてから、彼女はどこか悲しげに目を細めた。
「不知火家は呪われている……。遠い昔から、不知火家は地元で大きな勢力を誇っていたんです。血も涙もない悪魔のような一族だと、人々からは忌み嫌われていました。けれど不知火が大きな力を持っていたことも事実で、人々は憎しみや恐れを抱きながらも、それに従うしかなかったんだそうです。」
「それは、文献に記されていたのね?」
「ええ。その本は、不知火の分家の者が書いたようなのですが……。あまりに、書かれていることが事細かで、現実味があって……。それを目にしたのは十代の頃でしたけど、この呪いから解き放つことは、私に科せられた使命なのだと信じて疑いませんでした。」
「……それで?」
 彼女の語ることは、興味深いものだった。
 ぱらりぱらりと、彼女の手元で捲られる本。傍目ではそこに綴られている小さな文字までは見えなかったが、時折ちらりと見えるおどろおどろしい挿絵に、ふっと眉を寄せる。
 人々の恨み。その醜い感情によって、彼女の一族は呪われていたというのだろうか。
「文献を読み進めるうちに、不知火の呪いは我が一族だけではなく、周りにも大きな被害を齎すことがわかったんです。それを知った時、呪いを解き放たなくてはいけないと……決意しました。」
「呪いを解き放つ方法なんて、あったのかしら?」
「………」
 疑問をふと口にした時、不知火さんは口を閉ざした。
 言ってはいけないようなことを、言ってしまったのだろうかと。そう思っても後の祭りだった。
 目を伏せる彼女を見つめ、次の言葉を待つ。
「……方法は、一つだけ。」
 ぽつりと、零された言葉は重い口調。
 不知火さんはふっと顔を上げると、真っ直ぐに私を見据えて告げた。
「不知火の血を根絶やしにすることです。」
「――……、なるほどね。」
 彼女がその言葉を口にした時、私はようやく全てを理解した。
 だから彼女は、一族殺害などという暴挙に出た。こうして見ている限りでは、人を殺すとは思えないほどに正義に適った人のように思えるのに。
 彼女の中の「正義」そのものが、歪んだ存在なのだ。
 しばしの沈黙が続いた。
 ページを捲る音だけが聞こえていた。
 ふと、その音が聞こえなくなって彼女の方へ目を向ければ、不知火さんは真剣な様子で本の一ページを目で追っていた。そのページを覗き見ると、やはり小さな文字は読めなかったが、隅に描かれた挿絵が目に映る。幼子の絵だ。その挿絵の少女、片側の瞳が抜け落ちていた。
 私はグロテスクなその挿絵からすぐに目を逸らした。
「文献には、多くの呪いが書き記されてあったんです。」
 不知火さんは本に目を落としたまま、ぽつりと言った。
「その全てが、実際に齎されたかどうかはわかりません。だけど、もしかしたらこれが………」
「片目のない少女とは……貴女のこと?」
「いいえ、実際には星歌が――私の妹が、片目のない状態で生まれたんです。ここに記されているのは、二番目の子どもの片目が無い状態で生まれてくるという呪い……。だから、私の目を星歌に移植したんですけど……」
「どういうこと?二番目の子の片目が無い状態で生まれてくる、というものが呪いの結果なんでしょう?」
 ―――だったら移植をする必要など、と言葉を続けようとした時、
 彼女は私の言葉に被せるように言う。
「文献では違ったんですッ。二番目の子どもの片目がなければ、大いなる災いが齎されると…!」
 強い口調の後、彼女はふっと大きく息を吐き出した。
 パタン、と本を閉じて机に置くと、気を落ち着けるような間を持った後で、言葉を続ける。
「話を戻しましょう。――……文献の最後に、こう書かれていました。不知火の血が絶えぬ限り、呪いは永久に続くのだと。全てはその一文に込められていたんです。不知火の血さえ絶えれば、全ては終わる。だから私は……」
 彼女の言葉は道理に適っているようで、でもどこかずれている。
 私は彼女の様子を見ながら、その理由をずっと考えていた。
 そしてようやく、答えに近いものが浮かぶ。
「貴女は、呪いなど存在しないと考えたことはあるかしら。」
「え……?」
「もしもその文献に書かれていることが、全て嘘なのだとしたら。」
「そんなことありえません!だって実際に、その呪いによって大きな被害も出ているのよ、村が丸ごと消えたという文献も残っていてッ……」
「何故消えたの?それは本当に呪いによって消えたと断定できる?……単なる災害だったのだと、考えることもできるでしょう?――第一、その文献が真実を書いているとも限らない。」
「真実に決まっているわ。……呪いは実在します!」
 不知火さんの言葉は、どこまでも盲目的だ。
 昔の私にも、共通しているのかもしれない。
 “それは神の命令だから” “神が殺せと仰るのだから”
 何故、そう言いきれたのだろう。
 そもそも、神が実際に存在していることなど、理論的に説明するのは不可能だ。
 だけど私は信じていた。存在していることが当たり前だった。
「だからッ……だから私は、愛する人すらも殺さなければならなかった……。両親も、そして星歌も、自分自身も。殺さなくてはいけなかった……」
 独白のような台詞。
 彼女はもしかしたら、そんな呪いなど存在しないと、薄々理解し始めていたのかもしれない。
 自らの行動が全て間違ったものなのだと、気付き始めていたのかもしれない。
 だから怖いのね。自分自身を否定されることを恐れている。
「呪いは存在するわ。」
 私は短く、彼女へと言い放つ。
 不知火さんは不思議そうに私を見つめた後で、ふっと悲しげな表情をして目を伏せた。
 彼女が呪いに関しての文献を信じ、そして一族惨殺という最悪の事態を招いた。
 それこそが、呪いの結果だったのだろう。
「……全ては終わったことでしょう?」
 私は椅子から立ち上がると、不知火さんの手の中にある本を取り上げ、本の山に重ねて置いた。
 そして彼女の腕を取り、促すように緩く引いた。
「……幸坂さん……?」
 躊躇いがちに立ち上がり、私が歩き出すのについて、一歩後ろを歩いてくる。
 困惑したような声に振り向くと、ふっと、僅かな笑みが浮かんだ。
「行きましょう。貴女を待っている人がいるんでしょう?」
「……はいっ」
 不知火さんは、ようやくその表情に柔らかな笑みをたたえて、こくんと、小さく頷いた。

 現世に於いて、何かを信じるという行為は人間に欠かせないものだ。
 ただ、人によってその矛先が違う。
 私の信じた神。不知火さんの信じた使命。
 ―――美雨さんは、一体何を信じているのだろうか。
 彼女の信念が見えるまで、私はここから彼女を見守ろう。
 彼女を知った時に初めて、私の未練というものが、消えてゆくような気がする。
 まだ、先は長いのだろう。








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