BATTLE ROYALE 24




『なぁ、螢子。』
 ……。
『頼むよ、こいつを殺してくれ。な、俺だってこんなこと頼みたくないけどさ。』
 ……。
『螢子だって、苦しいのは嫌だろ?俺だって嫌だよ。』
 ……。
『この仕事さえすれば、俺も螢子も優遇してくれるって言うしさ。』
 ……。
『クスリ飲ませるだけでいいんだ。それだけでいいんだよ。な。』

 あの男は、一体誰だったんだろう。
 彼は私―――茂木螢子―――の恋人であり、そして私を裏切った人間。
 私は彼の恋人で、彼のことを愛していた。
 愛していたから、彼の言う通りに行動し、そして罪を被った。
 結局は、彼は私を利用していたに過ぎない。
 あの男は組織の一員であり、自分自身が優遇されるためだけに、私を利用した。
 そう。そんな記憶。

 だから私は被害者であり、情状酌量が適応されて当然のはずだった。
 しかし。警察の手が伸びた時には、既に組織は闇に消え、全ての罪は私の元へ。
 組織の莫大な財産も、権力も何もかもが闇に消えた?
 ……そんな馬鹿な。
 きっと誰かが組織の力を利用して、警察すらも飲み込んだ。
 きっと、あの組織は今も存在しているはずだ。
 闇組織 『Melty Blood』。
 私を死刑へと追いやった、憎むべき人間どもの巣窟。





「あのぉ、美雨さんって、好きな食べ物とかあるんです?」
 飲食室へと向かう途中。ちょっとした外食気分で浮かれながら、あたし―――佐久間葵―――は美雨さんと一緒に歩いていた。当然、浮かれているのはあたしだけで、美雨さんは相変わらず無表情に、つかつかと一歩前を歩いていく。
 ここ数日間の休憩期間、あたしはなんだかんだで結構楽しく過ごしていた。
 美雨さんが怖い人っていうのは十分わかってるし、休憩期間が終わっちゃえば殺される危険とかがあるっていうのもシッカリ理解しているつもり。でもでも、やっぱ楽しめる時には楽しまなきゃね。
 美雨さんはちらりとあたしに目を向けて、少しの間沈黙する。どんな答えが返って来るのだろうとワクワクしながら歩いていると、彼女はぽつりと呟いた。
「蟹。」
 ………。
 ……。
「カニですか。」
「そう。」
 正直なところ、答えが返って来たこと自体が驚きで、あたしは言葉を失った。
 美雨さんって食べ物に執着がなさそうな感じがあったから、好物があるなんてビックリ。
 か、カニかぁ。確かに美味しいけど…カニ……。
「タラバガニ。美味しいの。北見産のね。」
 しかも産地限定。
 そう。これもここ数日間で楽しくなってきた理由なのかもしれないけど。
 美雨さんがたまにこういう、すごーく人間っぽいことを言うと、あたしは彼女に一歩近づくような気がする。
 いっつもあたしが一方的に質問してるだけなんだけど、そういう会話もなんか楽しかったりして。次はどんな質問しようかなぁって、色々考えてしまうわけで。
「それで甲羅酒をしたら……、…あぁ、葵は何か好きな食べ物があるの?」
 甲羅酒に関して語ってもらっていても十分に楽しめたんだけど、そんな質問を返されたので、あたしは少し考える。好きな食べ物って色々あってなかなか思いつかないけど……
「あたしはぁ、好きな人の手作り料理が一番好きですッ。」
「答えになっていないわ。」
「うーん、でも、何作ってもらっても美味しいんですよ?」
「その好きな人が、どうしようもなく料理が下手な人だとしても?」
「はいッ。愛が篭ってれば、それでいーのです!」
 あたしは率直な意見だっとばかりに満面の笑みで答えた。美雨さんはまたちらりと振り向いて、やっぱり無表情だけど、無言であたしを見つめる。その様子、少し不思議そうな感じなのかな、と思ったりする。
 彼女が決まってこんな様子を見せるのは、あたしが「愛ゆえにっ」とか「恋してるのならばっ」とか、そういう言葉を出した時、のような気がする。どこか、恋愛という言葉に消極的な部分。
 でも、美雨さんが恋愛に積極的ってのも考えらんないかなぁ。
 身体だけの関係、そんな冷えた繋がりが似合う人。
 と。そんなことを考えたりしているうちに、あたしたちは飲食室にたどり着く。
 先にドアを開けて室内に入った美雨さんはふと、作り付けのテーブルセットがある位置へ目を向けた。
 つられるようにそっちを見て、美雨さんが何に目を止めたのか気付く。
 いや、何にじゃなくて誰にと言うべきか。
「こんにちはぁっ。」
 隅のテーブルで一人で食事をする女性の姿。知らない人だったけど、とりあえずご挨拶!
 すると女性はペコリッと小さく頭を下げて、
「あ…えと、こんにちは。」
 と、ぎこちない挨拶を返してくれた。
 黒髪で、ちょと地味めな感じの女の子。あたしと同い年ぐらいかなぁ。
 そんなことを思っていてふと気付くと、美雨さんはあたしを置いて、既に食べ物を見繕っていた。
 慌てて追いかけて、美雨さんの横にひっつく。
 そんなあたしを一瞥しては、
「……好きなもの、探してきたら?」
 などと、なんか寂しいことを言う美雨さん。むー。こういう時って二人でキャイキャイ騒ぎながら選ぶのが楽しいのに!……や、美雨さんがキャイキャイなんて想像出来ないけどさぁっ。
「あたし、美雨さんと同じの食べまーす。」
「そう。」
 興味のなさそうな相槌の後、美雨さんはそこそこに種類の豊富なお弁当類を眺め、さして迷うこともなく一つのお弁当を手に取った。野菜炒め弁当だった。
「あたし、野菜嫌いなのに……。」
「同じのって言ったでしょう。」
「うぅー」
 嫌がらせ?とか思いつつも、渋々同じお弁当を手に取る。
 こういうの言い出したら止めれないタイプなんだよね、あたし……。
 そしてお弁当を電子レンジで温め中の間、先程の女性の方へと視線を向けた。のんびりしたペースで食べているらしく、しかもまだ食べ始め。あたしは彼女の方へと近づいて、その様子を観察する。
「……何か?」
 彼女はお箸を軽く咥えたまま、不思議そうな表情を向けた。
 なんかフツーそうな人だし……いいよね。いいよね?
「あの、あのぉ…良かったらお食事、ご一緒しません?」
 胸元で手を合わせて言うと、女性は小首を傾げた後、
「構いませんよ。」
 と、OKしてくれた。やったね★
 やっぱこう、新しい出会いとかって大切だと思うしッ。
「そんなに私以外の人間が恋しい?」
 という声は後ろから聞こえた。振り向けば、温まった二つのお弁当を手にした美雨さんの姿。
「そ、そーいうわけじゃないんですけどぉ」
 そんなあたしの弁解にもあんまり興味なしって感じで、美雨さんはテーブルの方へと歩いていく。
 女性の向かい側に二つのお弁当を置いて、短い挨拶の言葉を掛けながら椅子に腰を下ろした。
 美雨さんと女性、少しの間、目を合わせ黙ったまま。
 あたしが美雨さんの隣に腰掛けた時ようやく、美雨さんが口を開く。
「初めまして、ね。茂木螢子さん。」
「神崎さんですよね。……お会い出来て、光栄です。」
 二人が交わす言葉。なんだか、あたしには無い緊張感があるように感じた。
 ふぅん……この人、ケイコさんって言うんだ。
「あ。あたしは、佐久間葵って言います。宜しくお願いしまぁす。」
 ちょっと遅ればせながらの自己紹介。螢子さんは小さく笑みを浮かべて、
「茂木螢子と言います。…宜しくお願いします。」
 と、自己紹介を返してくれた。
 この人も、前のフィールドからの参加者さんなのかなぁ。とてもそんな風には見えないんだけど。
 螢子さんはあたしから視線を外すと、ちらりと美雨さんを見遣った後、再び食事を再開する。
 ハンバーグのお弁当、いいなぁ、なんて思いながら彼女を見つめていた。
 沈黙の間。
 あたしはちらちらと彼女に目を向けて。
 ――不意に。彼女の口許に浮かんだ笑みが目に映る。
 笑み?
 あたしが疑問を抱いてすぐ、いや、その笑みはほんの一瞬のことで。
 すぐに笑みの消えた口許。ハンバーグが口の中に消えては、もぐもぐ、ごくん。
「……?」
 ふと、あたしが凝視している様子に気付いたのか、螢子さんはあたしに目を向け不思議そうに瞬く。
 なんでもないです、とばかりに小さく首を振り、あたしは野菜炒め弁当に取り掛かった。
 先ほどの螢子さんの笑みが、頭に引っかかるような感じで、気になっていた。
「茂木さん。貴女は確か、冤罪だと主張していたのよね。」
 沈黙を破ったのは美雨さんの抑揚の少ない声。
 螢子さんは顔を上げ、数秒間押し黙った後、「はい」と小さく頷いた。
「今となっては、どうでも良いことですけど。」
 負けず劣らずの抑揚の無さ。呟くような言葉を返し、また箸を進める。
 そんな茂木さんを、美雨さんが見つめる。真っ直ぐに、じっと、冷たい眼差しで。
 あたしは二人を交互に見て、なんだか、あたし自身がものすごく場違いなように思えてきた。
 何だろう、この空気。あたしにはわからない、フクザツな空気。
 募るのは不安感。……今あたしは、口を開いてはイケナイ。そんな気がした。
「少し意外ね。もっと気弱そうな子だと思っていたわ。」
「……神崎さんはもっと、怖そうな人だと思ってました。」
「そう?」
 言葉を交わしながらの二人と、黙ったままのあたしなのに、食べる速度が同じってどういうことだろう。
 そりゃ確かに食べるの遅いんだけどー……。
「でも――実際、この殺し合いが始まってから、大勢の人を殺してきてるんですよね?」
「そう見える?」
「……はい。」
 あたしとは別の次元での会話。
 そりゃあたしだって、闇村さんのためって思って美咲おねーさまに手を掛けようとした、けれど……
 でもなんか、そんなんじゃない。この会話は、何かがズレてる。
 …美雨さんはともかく、螢子さんも?
 そうは見えない。見えないんだけど、けど……何かが。
「確かに、殺めた人数で言えば多いのかもしれない。でも、何れも浅はかな死を齎しただけのことよ。」
「…浅はかな、っていうと?」
「最初から敗者と決まっている人々を片付けたに過ぎない。……まだ、敵になりうる人間を殺してはいない、ということ。」
「神崎さんの敵になり得る人間なんて存在するんです?」
 螢子さんがそんな問いを掛けたのは、あたしが付け合せのマッシュポテトを口に含んだ時だった。
 ――確かに。
 敵になり得る人間なんて、という問いは一理あるなぁと思った。
 あたしには一人だけ心当たりがある。けれど彼女は敵ではない。管理人だ。
 だから、美雨さんがどんな答えを返すのか気になって、隣に座る彼女へと目を向けた。
 美雨さんはあたしの視線を受けて少し可笑しげに小首を傾げて見せた後、螢子さんへを視線を戻す。
「考え方の問題に過ぎないけれど。私は、今残っている十四人全てが、敵だと思っているわ。」
「え……?」
 思わずぽつりと問い返してしまったあたしに、美雨さんはすっと目を細め、あたしに手を伸ばす。
「もちろん葵もその一人。頑張って見せて?」
 美雨さんの指先はあたしの髪を軽く梳いて、離れていく。
 敵?あたしが?美雨さんの?
 そんなまさか。あたしがどうやって美雨さんを―――
「行動を共にしている分、他の参加者よりも有利ですよね。……当然、危険性もグッと高まるわけですけど。」
 螢子さんはのんびりとした口調で言って、頑張ってくださいね?と首を傾げてみせる。
 あ、ぅ、なんかものすごっく、二人に弄ばれてるような感じが……。
「それじゃあ、私は一足先に失礼します。」
 パンッと両手を合わせ、空になったお弁当箱を手に螢子さんは立ち上がった。
 あれ?いつの間に食べ終わったんだろ?
 とか思ってたら、気付けば美雨さんも既に食べ終わっていて。うぇぇ、あたし待ちッ?!
「待ちなさい。」
「……はい?」
 あたしが慌てて残りのお弁当を掻き込んでいると、立ち去ろうとした螢子さんを、美雨さんが呼び止めた。
 口ん中を野菜でいっぱいにしつつ、二人の姿を横目で見る。
 ピンッ、と。少しだけ張り詰めた空気が感じられた。
「貴女は、殺されたい?それとも殺したい?」
「……。」
「…ぐぅ、ッ」
 美雨さんのいきなりの問いかけに、口の中の物を吹き出しそうになって変な声を上げたのはあたしの方。
 螢子さんはと言うと、きょとんとした表情で美雨さんを見つめたままだった。
 沈黙は間違いなく、螢子さんの答え待ち。それは十五秒くらいの間を持っていた、と思う。
「私は……」
 すっと螢子さんの手が持ち上がり、親指と人差し指とを伸ばして――銃を模って見せた。
 美雨さんはその姿を、いつもの冷たい表情で、凝視する。
 偽物の銃の銃口は、ピタリと、螢子さんのこめかみへと当てられた。
 何、それ。
 物騒なジェスチャーは、自殺を現しているように、見える。
「―――私は私を殺してから、色々考えるつもりです。」
 そのままの体勢でこっちに顔を向け、螢子さんは小さく笑んで見せた。
 あぁ、これだ。この笑顔。
 さっき見た笑顔と同じ。何かが危うい感じの、笑顔。
「パンッ。」
 銃を撃ってから、螢子さんは部屋を出た。
 そのパンッていう音は、扉が閉まるバタンっていう音よりも小さな、頼りないものだったけれど
 彼女の呟いた銃声が、何とも言えない不快感を残していた。
「……美雨さん。…螢子さんって、自殺するんですか…?」
 軽く彼女の服の裾を掴み、問い掛ける。
 そんなこと訊いたってどうしようもないような気がしたけど、訊かずにはいられなかった。
 あたしの問いで美雨さんはようやく扉から目を離し、あたしに冷たい表情を向ける。
 あぁ、でも違う。この冷たい表情はあたしに向けたものじゃない。螢子さんに向けたものなんだ。
「あの子は死なない。死ぬはずがないわ。だって、あれは……」
「……あれは…?」
 美雨さんが言い澱む。そんな様子、珍しすぎて。
 あたしは余計不安になった。何、螢子さんって、何者なの?
「あれは、私達と同じ人種の笑みだもの。」
「え?……」
 カタン、と美雨さんは席を立ち、そしてその手で――銃を模り、自らのこめかみに当てた。
 あたしに背を向けて、螢子さんと同じ行動を取る美雨さん。
 その姿に、恐怖が溢れた。
「狂気と叡智が隣り合わせの笑み。あの子がその狂気を殺してしまえば―――」
 あたしは耳を塞ぐ。
 聞きたくない。聞きたくないのに。
 それでも、鼓膜に届いてしまう、あの音。
「パンッ。」
 それは、本当の恐怖へのスタートを告げる号砲に思えて仕方がなかった。





「あっぶなーーーい!!」
「きゃーーーっっ!!」
 先に警告の言葉を発したのは私―――木滝真紋―――で。
 わけもわからず、ていうか無意味に悲鳴を上げたのは、真苗だった。
 ったく、なんでこの子は人の役に立つことを言わないのかしら。…とか言ってる場合じゃなくてっ!!

 ……あー。少し時間を遡って説明しよう。
 時は、休憩期間も半ばに差し掛かってきた頃のお昼時。私と真苗は昼ごはんを食べに行くために、私達の自室から五階上にある飲食室へと向かった。実は四階下にも飲食室は存在するのだが、「今日は上ッ」とか真苗が言い出すもんだから、上の飲食室へ向かったワケ。
 そんで、いつもは二人別々に好きな物を選ぶんだけど、今日は真苗がまた唐突に「ラーメン食べよう!」とかなんとか言い出した。ほら、私って右手が手錠で繋がれてるから不自由じゃない?まさかラーメンを「あーん」ってわけにもいかないから反対はしたんだけど、ラーメンの見本を見てると無性に食べたくなってきたのよ。だってラーメンって中国人の心でしょう!中国人と日本はアジアという深い絆によって結ばれているから、それは日本人の心といっても間違いじゃないわけよ!
 というわけで、本日の昼食は二人揃ってラーメンに大決定。そこまではまだ良かったんだけど、真苗がまたまた唐突に「お日様の下で食べたぁい」とか言い出すのね。一体どこまでワガママ言えば気が済むのよ。第一、お日様の下なんて存在しないでしょ、と私が反論したところ、真苗は満面の笑みで「人工庭園があるじゃないっ」って言って来たの。あそこはあくまでも人工の…!という私の激しい反論も空しく、真苗って本当に言い出したら聞かないんだなぁって痛感するし、そこで譲っちゃう私もなんか情けないんだけど…
 器に盛られたラーメン持って、ハイキング気分で人工庭園へと向かう私達。いや、ハイキング気分はあくまでも真苗だけ。私は違う。違うの…!!!
 しかーし。飲食室を出て三十歩も歩かないうちに私は思いっきり後悔したわ。無理!こんな熱い器持って遠くまで歩いていくこと自体が無茶なんだし、そして私達には足枷になる、いや、手枷になる手錠というものがあるわけよ!一応、完全に手が使えないんじゃなくて、距離を開けらんない、っていう不自由なわけだから、真苗としっかり密着しとけば両手を使えないわけじゃないのよね。だから私と真苗は横にピタッと密着して、器を両手で持って人工庭園への遠路を踏み出したの!
 ……きっとね。傍目にはものすごぉぉーーく情けない姿だったと思うのよ。
 でもね、でもね。すーっごい頑張って、何とか七階まで降りてきたの!エレベータ使えば直で六階まで行けたんだけど、ほら、エレベーターって微妙に重力が掛かるじゃない?で、真苗が「あれでいっつもフラついちゃうのー」とか言うもんだからものすごく不安になって、それでエスカレーターを使ったの。よく考えればこっちの方が危ういような気もしなくもないんだけど。
 で!本当に、あともう少しなの!この最後のエスカレーターに乗っちゃえば人工庭園のある六階なんだから!ってところまで来て……。
 そのエスカレーターに差し掛かろうとした時にね、私が人の姿を見かけたの。同じエスカレーターに一足先に乗って下りてったのね。それで、「あれ誰だろ?」って真苗に何気なく問い掛けたの。
 そ、それがッ……
 それが間違いだったのよッッ…!!!
「え?だれだれーっっ?」
 真苗がそう言って身を乗り出した瞬間、私の腕は引っ張られ、
 引っ張られた勢いで、器の中のラーメンはスープごと空を舞い……
 そして―――
 今に至る。

 最悪なことに、先にエスカレーターに差し掛かっていた人物の姿はまだ目が届くところにあった。
 いや、それだけならまだいい。本当に最悪なことに、その人物は私の器から吹っ飛んでいったラーメンの中身が放物線を描いて落ちていく……――その線上に居た。
 だから私は慌てて大声で警告したのに、真苗が悲鳴なんか上げて掻き消したもんだから…!!
「え…?」
 人物が振り向いたと同時に、私は思わず目を伏せた。

 ベチャ。

 あーーーーー。
 今の音はもうモロだよなぁっ。間違いなく直撃だよなぁぁぁ。うっわー。
 目を開くのが怖いッ。嗚呼、体中の力が抜けてい――

 ベチャ。

 ………。
 ………。
 ……え?

「あ。」

 真苗の間抜な声が聞こえる。
 そして私は。
 ……私は。
 ……。

 目を開けると、ラーメンの麺に遮られた視界。
 なッ……

「何よこれぇぇぇっっ!!!」

 廊下に響き渡る私の声。
 一寸の眩暈を感じ、私はその場に座り込んだのだった。
 か、勘弁して下さい。





「ほ、本ッッ当にごめんなさい!」
「わ、私もごめんなさぁい……。」
「そうよ!元はと言えば真苗が悪いんだからね!」
「えーー!?でもまぁやに私のラーメンが掛かったのは、まぁやが手ぇ下ろしたからだよぉっ」
「な、なっにぃー!?」
 私―――中谷真苗―――と真紋は、エスカレーターの下に居て超不幸にもラーメンが直撃しちゃった人に、ペコペコと謝り倒していた。しかも、なんか途中で真紋が逆ギレするから、私も思わず言い返す。
 そんな私達を、困った様子で交互に見る被害者さん。
 あぁ…可哀相……ラーメンまみれだ……。
「あの……とりあえずここに居ても仕方ないので。どこかでシャワー浴びません?大浴場でも良いですし。」
 彼女は結構冷静に、髪の一部みたいになってるラーメンを払いのけつつ、小首を傾げた。
 黒髪に黒目、日本人然としたちょっと地味目の……って、あれ?
 私この人知ってるような……
「はぁ…まさか螢子ちゃんとの再会がこんな形になるなんて……本当にごめんね…。」
 真紋もまた、髪の一部みたいになってるラーメンをサラリとかきあげつつ、女性にペコリと頭を下げる。
 あ。
 あ!
「あーーっ!螢子ちゃんだ!」
 真紋の言葉に、私はようやく思い出していた。
 そうだそうだ。前のフィールドで、光子ちゃん達と一緒にいた時に少しだけ一緒に行動したのよぅ!
「螢子ちゃんだ、ってあんた……まさか忘れてたの?」
「へ?…あ、いや…」
 真紋の鋭いツッコミにギクッとしつつも私は笑顔を繕い、軽く頭を掻く。
 あぁ、私もあのラーメンのかつらをちょっとだけ被ってみたい……。
「……。」
 私と真紋のやりとりをきょとんとした様子で見つめていた螢子ちゃんは、不意に小さく笑みを零し、クスクスと漏れる笑みを堪えるように口許に手を宛てた。
「相変わらずですね、二人とも。手錠も未だに掛かってるみたいですし。」
「あぁ……」
 うんうん、と嬉しく頷く私とは打って変わって、真紋はゲッソリとした様子で右手を軽く上げて、小さく溜息をつく。でもその後で、ふっと笑みに似た息を零し、
「まぁ……お互い無事で何よりよ。」
 と、螢子ちゃんへと顔を向けては、微苦笑を浮かべた。
 螢子ちゃんは「そうですね」と一つ頷きながら立ち上がる。その後、体中に付いたラーメンの麺を払いつつ、服に染み込んだのであろうラーメン臭を少し匂って、顔を顰めた。そりゃあね。トンコツだもんね。
「あー…この匂いは耐えらんないね……お風呂行こっか。」
 真紋も螢子ちゃんと同様に服に鼻を利かせ、「うぇ」と舌を出して見せる。でも、そんなに臭いのかなぁ。お腹空いてるから、私はいい匂いにも思えるんだけど。
 そんな事を考えながら二人を見つめていると、真紋からジトーっとした視線を向けられた。
「なんかこう、きょとん、みたいな感じで不思議そうに見られると、ものっすごくムカつくー。」
 真紋はそんな滅茶苦茶なこと言いながら、頭に乗っかった麺を私に投げつける。
「えー!?きゃーーっ!」
「くらえ!ふはははは」
「いやーん、食べ物粗末にしちゃだめなのーっ」
「お前が言うな!バカめが!」
 真紋の投げつける麺が思いっきり私の服にべちゃべちゃってついて、いやーんビジュアル的にもちょっと気持ち悪いーとか思いつつ。
 っていうか、真紋が魔王みたいになってるんだけど……。
「フッ。真苗もラーメンを被って見るが良い。わらわの気持ちがわかるかぇ」
「あ、それはちょっと嬉しいかもー」
「なんで!?」
 真紋から麺を頭に乗っけられて喜んでる私も変なんだけど、
「くっ。次はこうは行かないわよ。覚えてなさい!」
 とか、悪役の捨て台詞っぽいものを吐いてるくせに逃げられないまぁやも変だよね。
「………何してるんですか?」
 というわけで。私と真紋の魔王とお姫様ごっこ(しかも近距離)は、螢子ちゃんの冷たいツッコミによって、ようやく終了したのでした。めでたしめでたし。





「………何してるんですか?」
 なんだか、今日は五回目ぐらいのような気がする。この問いかけを二人に向けたのは。
 私―――茂木螢子―――は、大浴場の脱衣所で床に寝転ぶ真紋さんと真苗さんに、そう問いかけずにはいられなかった。場所は小奇麗な銭湯の脱衣所のような感じで、フロアは清潔感のあるフローリングだから寝転ぶのが汚いとかそんな問題ではなく、今そこに寝転ぶ必要があるかどうかということと、二人は未だに下着姿だということ。因みに二人が着ていた洋服は、その手錠が掛けられている部分に寄せられている。
 なんだかよくわからない造形だし、二人の意図も今一つ掴めなかった。因みに私はというと、お風呂上りで既に服は着終えていて、タオルを肩に掛けた格好で無料の自動販売機のコーヒー牛乳なんかを飲んでいるのだけど。
「んぁー……疲れたのよ……。」
 真紋さんは脱力している様子で、火照った身体を冷やすように背面全体をフロアに引っ付けたままやる気のない答えを返す。
「そうそう……螢子ちゃんも、一回手錠したままでお風呂入ってみるといいわよ…疲れるから……。」
 真苗さんはその隣で身を横向きにして丸まっている。ふにゃぁ、と猫のような欠伸が漏れた。
「はぁ。あの、でもせめて服ぐらい着……」
 言いかけて、はた、と気付く。
 そういえば、手錠の間に寄せられた二人の洋服も一緒に“お風呂に入っていた”ような気が……。
 真紋さんの白いブラウスと、真苗さんのピンク色のハイネック。二人の間に広げられている二着の上着は、近づいて見ればどこか湿っているようだった。
「手錠暮らしって本当に不便なんだから。服も脱げないし。」
「じゃあ、ずっとその服なんです?」
「そーよ。」
「それって汚なぃ」
「うるさぁいッ!」
 くわっ!と真紋さんに喝を飛ばされ、私の言葉は尻すぼみ。
 ………。
 それでもついついジト目を送ってしまう私に、真紋さんは深い溜息をつく。
「汚くないの。お風呂入る時、一緒にジャバジャバ洗ってんだから。」
「でも汚ぃ」
「うるさいっつーの!」
 あぁまずい。私まで二人の夫婦漫才に巻き込まれてしまう。
「あーでもね、私の服は新しいのっ。」
 私達の漫才のような会話に口を挟む真苗さん。そう言われてみて以前この二人と一緒に行動した時を思い出すと、真紋さんはあの時と同じ格好なのに対し、真苗さんは違う衣服を身に着けているようだった。
「前の服を鋏で切ってもらってね、で、この服も真紋に横っちょ縫ってもらってやっと着れたんだから。面倒でしょ?」
「あんたは全然面倒なことしてないの。誰が切り縫いしたと思ってんのよ。」
「わ、私も変な体勢で固定されたりして大変だったのぉ。」
「こっちの苦労に比べれば、そんなのは」
 とまぁ二人の痴話喧嘩第何弾かが開始されたので、ここは一歩引いて、マッサージチェアに腰掛けて様子を見守ることにした。せっかくだからと思ってスイッチを入れると、ウィーン、と低い機械音がしてブルブルとマッサージが始まる。
 ……極楽。
「でもねぇ」
 不意に甘ったる声で、真苗さんが口を開く。
「こやって下着姿でごろんとしてるとね、なんかえっちしたくな」
「なーらーなーいー。」
「なるのぉ。」
 やっぱり夫婦漫才。なんてことを思いつつ、私は二人に干渉するのを止めようと思った。
 巻き込まれるから。
「ねぇ?螢子ちゃんも下着で寝てるとムラムラしない?」
「しません。」
 干渉しなくても巻き込まれる……と、少しげっそりしながらも、私も真紋さんを見習って冷たくあしらう技を身につけようと思った。真苗さんって、一緒に居るとメロメロになるかイライラするかどっちかのキャラだなぁ。
 ウィーーン。
 ウィーーン。
 はぁ。
「そのマッサージ機って大人のおもちゃを連そぅ」
「させません。」
 ウィーーン。
 ウィーーン。
 ウィー、プツン。
 真苗さんが変な事を言い出すものだから、なんだか居た堪れなくなってスイッチを切る。
 折角極楽だったのに……。
「…ふふ。螢子ちゃんも真苗にげっそりでしょ?」
 私の心中を悟ったかの如く真紋さんから掛けられた言葉に、真苗さんがこちらを見ていないことをしっかり確認した上で、深々と頷いて見せた。真紋さんは何も言わずにクスクスと笑った後、
「真苗にバカ話させないためには、難しくて堅ぁいお話をするのが有効よ。」
 というアドバイスをくれた。
「な、なによそれぇ。難しいお話だって、ちゃぁんとついていくもん。」
 頬を膨らせながら言う真苗さん。それならば……
「先ほどのラーメンで思い出したんですが。」
「うんうん。」
 それならついていける、といった様子で軽く身を乗り出す真苗さんに、私は少し考えた後、言葉を続ける。
「あれは放物線を描いて私へと降り注ぎましたよね。放物線って言うと、平面上で一つの定点…Fでしたっけ、それがあって、そこから直線との距離が等しい点の軌跡のことを言うんでしたよね。」
「………。」
 予想通り黙り込んでくれた真苗さんに、してやったり、という気持ちになる。
 真紋さんは悪戯な笑みを浮かべたまま、
「そうそう。円錐曲線の一種よね。」
 と、嬉しそうに頷いてくれた。
 なるほど。こういう会話ならば入ってこれないんだ。
「なんだか、二次方程式を思い出させますよね。高校にちゃんと行っていれば理解出来るお話なんですけど、axの二乗+bx+c=0っていう」
 方程式まで思い出しながら、当然のような口調で告げると、真苗さんは泣きそうな表情で私と真紋さんを交互に見つめ、
「ちょ、ちょっと待って。それはどう考えても日常会話じゃないような気がするんだけど」
 と、さすがに気付いた様子で言うものの、そこは二対一。
「バカ真苗の気のせいよ。a≠0って、常識よねぇ?」
「ですよね。」
 真紋さんの協力を得て、あたかもそれが一般常識であるかの如く、ねじ伏せる。
 まぁ実際、二次方程式ぐらいならば頑張って思い出せば入ってこれる話題だが。
「あぅー私は数学嫌いなの!」
「じゃあ何が得意なのよ?」
「保健。」
 真紋さんの問いに対する即答に、なるほど…と思わず納得させられるが、真紋さんは更に上手だった。
「環境アセスメントってなーんだ。」
「え?何それ!?」
「保健で習いまーす。」
 にやぁーと嫌な笑みを浮かべ、真紋さんは隣で寝転ぶ真苗さんをじっと見つめる。
 真苗さんは額を押えて必死で考えているようだが、そんな努力も空しく「あと十秒」という真紋さんの茶々。
 カウントダウンが進むたびに深まっていく真紋さんの笑みを見ていると、この二人ってやっぱり相性が良いんだぁと思う。いじめる側、いじめられる側。それだけじゃなく、暴走する側、引き止める側。漫才でいうと見事なまでのボケとツッコミ。要するにこの二人は全くタイプが違うからこそ、お互いを補い合える。
 ああやって二人で遊んでいる姿、すごく楽しそうに見えた。
「はい、ブッブー。環境アセスメントっていうのは、環境に著しい影響を及ぼす恐れのある開発事業を実施しようとする側がね、その開発事業によって環境にどんな影響を与えるかを事前に予測したり評価したりする、っていう制度なのよ。」
 真紋さんの的確な説明にも、真苗さんはきょとんとしたままで首を捻るだけ。
 この知識の差も、二人の相性の良さなのかも知れない。
「そ、そんなの習った記憶ないもん。」
「あんたが授業聞いてなかっただけでしょ?」
「ぅ……。」
 あまり、私が邪魔をするのも良くないだろう。
 私はマッサージチェアから立ち上がり、尚もプチ口喧嘩を続ける二人へと歩み寄った。
 膝に手を当てて軽く身を屈め、
「それじゃあ、私は失礼しますから。ごゆっくり。」
 と、笑みと共に声を掛けた。
「え?ちょっと待ってよ、折角だからもうちょい……」
 引きとめようとする真紋さんを手で制し、
「お邪魔するのも悪いですから。」
 そう言って、二人に背を向ける。
 もうこの二人にも会うことはないのかもしれない。会うとしたら、敵として――
「待って。螢子ちゃん、ちょっと相談があるのよ。」
 そんな声に振り向く。真紋さんは上半身を起こした格好で、真っ直ぐに私を見つめていた。
 それは二人からの相談という様子ではなく、真苗さんはきょとんと不思議そうな様子で顔だけ上げて真紋さんと私を交互に見る。
「相談、ですか?」
 問い返すと、真紋さんはこくこくと頷いた後、少し困惑を滲ませて真苗さんを見遣る。
 彼女の少しの思惟の時間の後で、真っ直ぐに、告げられた言葉。
「あのね。私達と一緒に行動しない?」
 それは、予想もしなかった誘いの言葉。
 真苗さんも驚いた様子で、「本気?」と小さく問い掛ける。
 真紋さんは真苗さんの問いには何も答えずに、真剣な眼差しで私を見つめていた。
 けれど。
 私に、その誘いに返す答えは一つしか持ち合わせていなかった。
「折角なんですけど、遠慮しておきます。二人の邪魔になるのも嫌ですし」
「それは」
 何か言いかける真紋さんを再び手で制し、「それに」と言葉を続ける。
「一人じゃないと動き難いんです。味方を作ったとしても、いつかは離れなくてはいけませんし。」
「……そ、う。」
 真紋さんは少し落胆を滲ませて呟く。けれど私に気を使ってか、すぐに顔を上げて笑みを見せ、
「いきなりごめんね。あ、ほら、螢子ちゃんとはこうやって色々話した仲だし、仲良くしたいっていうか。」
 と、言葉を探し探しといった様子で紡いでいく。
 仲良く、したい――?
「……あまり。素直だと損しますよ。」
「え?」
 私は二人に背を向けた。
 上手く言葉が見つからないけれど、あぁ、今の私じゃないと言えない言葉を告げなくては。
 私は。私は前に会った時の私じゃない。
 次に会う時は、もう、今の私はいない。
「ここが戦場であること。そして私も貴女達の敵だということ、忘れないで下さい。」
 それだけ告げて、扉へと手を掛けた。
「け、螢子ちゃん。頑張ってね。……私らも頑張るから。一緒に生き残ろう?」
 最後に背中に掛けられた言葉すら、そんな綺麗事だった。
 一緒に生き残ることなんて、出来ないのに。
 パタン、と扉を後ろに閉じて。
 目一杯、廊下の空気を吸い込んだ。
 この感情。良心にも似たもの。そう、これがきっと。
 偽りの記憶が、最期を刻むまでのカウントダウン。
 さぁ。残された時間は少ない。





 管理人様へ。
 0.1の視力を補正する眼鏡が欲しいんです。
 コンタクトレンズでも構いませんが、ご用意して頂けるでしょうか。

 そんなメールが私―――闇村真里―――の元へ届いたのは、休暇に入ってから随分と日々が過ぎた頃。
 品揃えには自信のある備品室にも、さすがに度の入った眼鏡は置いていない。
 私は要望通り、彼女の望む眼鏡を用意した。
 今回は水夏にお使いに出てもらうのではなく、私自身が彼女の元へと届けに行く。
 その女性だけは、モニター越しではなく、直接この目で確かめる必要があると思っていた。
 メールの差出人は3−B。
 つまり、茂木螢子の自室からだった。

 コンコン。
 3−Bの扉をノックすると、「はい」と、すぐに女性の声が返って来る。
「スタッフの者です。ご要望の眼鏡をお持ちしました。」
 そう告げると、少しの間を置いて扉の向こうからまた声が返る。
 今度は、扉を挟んですぐの所から聞こえた近い声。
「――管理人様ですよね。」
 言葉を聞いた時、私は改めて思い知らされた。この子はやはり只者ではない、と。
 休暇を告げる放送の時、彼女は私の声を聞いたことがあった。故にそのことを留意して、少しトーンを変えて告げたにも関わらず。
 すぐに扉は開き、茂木さんは姿を現す。
 モニターで彼女が部屋に居ることは確認していたけれど、その時とは違う様相だった。
「初めまして。茂木です。わざわざありがとうございます。」
 黒のスカートスーツに身を包み、その顔には化粧が施されていた。否、化粧の途中なのだろうか。ファンデーションに覆われた肌に対し、唇だけが白っぽく浮いて見える。
「初めましてね。私は…ご察しの通り、管理人の業務を行なっている者よ。闇村と言います。」
「闇村さんと仰るんですね。……。」
 じっと私を見つめるその視線。
 まるで探りを入れるような、しかし反面、子供のように好奇心に満ちた瞳。
「もしお邪魔じゃなかったら、少し入れてもらってもいいかしら。貴女とお話がしてみたいの。」
「構いませんよ。どうぞ。」
 彼女は笑みを見せて快諾し、私を室内へと招きいれた。
 パソコンを置いたデスクには、化粧品が幾つか。それを見止めると、
「私のことはお気になさらず。どうぞ続けて。」
 と促し、改めて室内を見渡す。
「すみません。あ、お好きな場所に座…って言ってもベッドしかないですけど。えっと、寛いでて下さいね。」
「ええ、ありがとう。」
 彼女の気遣いに礼を告げて、私はベッドに腰掛けた。
 茂木さんは化粧品と一緒に備品室から持ってきたのであろう鏡に向かい、リップブラシを唇に這わせる。その慣れた手つきは、普段の地味な彼女とは随分ギャップの感じられるものだった。
「いつもよりお洒落ね。どこかにお出掛け?」
「いえ、そんなんじゃないです。……昔働いてた頃の格好、久々にしてみたいなぁって思って。単なる暇つぶしです。一人で退屈だったから。」
「そうなの?ずっとその格好でいたらいいのに。綺麗よ。」
 口紅を塗り終えた唇を軽く馴染ませた後、彼女は私に目を向け小さくはにかんだ。
 それからアイカラーを手にとり、歓談しながらのメイクは進む。
「普通の女の子って、ずっとこういう格好してると疲れるじゃないですか。」
「それもあるわねぇ。……普通の女の子限定なの?」
「だってほら、仕事柄ビシッとしてる人ってお化粧してる方が素顔みたいっていう場合も多くないです?」
「あぁなるほどね……あの人がそうだったわ。横山瑞希。」
「政治家さんでしたっけ。」
「そうそう。」
 何気ない会話。
 だけど感じる。彼女の胸の内にある、意図の欠片。
 私の素性を探ろうとしているのか、何なのか。
 ともかく、これが単なる歓談ではないことは、互いに意識していることなのだろう。
「あぁいけない、これを忘れたら何しに来たかわからなくなっちゃうわ。」
 私は立ち上がり、彼女のそばへと歩み寄って眼鏡ケースを差し出した。
 茂木さんは私を見上げると、嬉しそうに微笑み、それを受け取る。
 アイカラーを乗せただけで、女性は随分と印象が変わる。彼女のメイクが若干きつい所為もあるのか、今までの地味な彼女とは別人のように、美人に見えた。
「ありがとうございます。……あ、このフレーム素敵ですね。服にも合います。」
 彼女は中の眼鏡を手に取ると、角度を変えて眺めた後、その眼鏡を机に置いた。
 それからマスカラを手にして、鏡へと向かう。
「少し気になっていたんだけど……視力が0.1なのに、今までずっと裸眼だったの?」
「あ、はい。普段はずっと。」
「……どうして?」
 マスカラが睫毛へと重ねられていく様子を鏡を通して見つめながら、私は問う。
 彼女は鏡越しに視線を少し合わせた後で、赤い唇をふっと笑みに歪ませた。
「特別な理由はないですよ。強いて言えば、面倒だったから、でしょうか。多少世界が歪んでても、生きていけないことはないですし。」
「余裕綽々なのね。その所為で死ぬことだって、あり得るでしょう?ここは」
「戦場ですもんね。」
 私の言葉に被せて告げられた言葉は、その意味とは相反して軽い口調。
 マスカラを塗り終えると、「完成ッ」と彼女は小さく呟いて、眼鏡を手に取った。
 すっとそれを掛けると、鏡を見ながら微調整し、満足げな笑みで私の方へと向き直る。
 先ほどから、化粧やアクセサリーの力に驚かされてばかりだった。特に茂木さんは元々が地味な方だから、余計に映えるのだろう。今、目の前に居る女性は、他の参加者でも美人に分類される人物――美咲だとか、真苗さんだとか、美雨だとか。彼女達とも十分、同等に渡り合って行けそうなほどに美しい。
「闇村さんもバッチリお化粧したら、すっごく綺麗になると思うんですけど」
「それも失礼ね。私はナチュラル勝負なのよ。」
「……あー。お肌とか綺麗ですもんね。その肌理の細かさはちょっと真似できないかもです。」
「ふふ。本当は、お金に物言わせてるだけなんだけどね。」
「でも綺麗ですよぉ。」
 彼女は羨むような視線で私を見上げながら、椅子から立ち上がる。
 立ち上がっても尚、十センチ程視線の高さに差があり、彼女は上目遣いで小さく首を傾げて見せた。
「……あのぉ。ほっぺ、触ってもいいです?」
 これは、彼女の身長を生かしたテクニック。
 仔猫のように甘えて見せるこの技は、彼女が矢沢さんと一緒の時、しっかり覗き見させて頂いたもの。
 当然、私の心を彼女に揺らすわけにはいかないけれど。私は微笑んで、「いいわ」と頷いた。
 いわば駆け引き。彼女に何らかの意図があって私にこのような行動を起こすことは明白だ。
 ならばその意図、見せてもらうわよ。





 闇村さん、かぁ。
 管理人さんが若い女性だと知ったのは、休暇を告げる放送を聞いた時。
 それ以来、私―――茂木螢子―――は密かに、彼女のことが気になっていた。
 とは言えそこまで重要視していたわけでもなく、機会があったら会えたらいいな、っていう程度。
 まさか管理人様直々に、眼鏡を届けに来てくれるとは思っていなかった。
 しかも、こんなに綺麗な人だなんて予想外。
 大きなプロジェクト――いわば組織のトップに立つ女性、しかも若くて美人とくれば、私はこのキーワードに反応して当然だ。
 突然舞い込んだチャンス、無駄には出来ない。
「あ……すべすべで気持ちい…」
 彼女の頬を指先でそっとなぞりながら、そんな感想を小さく漏らす。いや、これがどんな鮫肌だろうと褒め称える感想を言うつもりだったのだが、この感想は本当に正直なものだった。
 彼女は小さな笑みを浮かべたまま、黙ってされるがままになっていた。まるで、私を試しているみたい。
 そう。そっちがそのつもりなら、私だって。
「……闇村さん。私、もっと色んなところ触ってみたいです。」
「色んなところって?」
「……」
 頬に滑らせていた指を、そっと彼女の唇に触れさせる。薄い口紅の感触。伸ばすようになぞっていると、彼女はどこか挑戦的に目を細め、私の指先をその唇で食むように触れさせる。
 彼女に形勢を持っていかれてはいけない。私は指を彼女の唇から離して、顎をするりと伝わせて首筋へと持って行く。つ、と喉をなぞった後、うなじへと。
 そんな緩やかな愛撫で持って行こうとしていたのに、不意に私の手に彼女の手が重ねられた。
「茂木さん。――あぁ、螢子さんって呼んでもいいかしら?」
「はい。呼び捨てでもいいですよ。」
「じゃあ、螢子。……ロマンチックなのも嫌いじゃないけれど、ストレートな言葉も欲しいわ。」
「……つまり。」
「そう。つまり?」
 彼女はにっこりと笑んで私の言葉を待つ。
 まずい。この人、つわものかもしれない。私の読みは浅はかだったのか。
 けれど――実際、ベッドまで持っていっちゃえば、きっと私の物。
 自慢じゃないけど、伊達に強姦(まわ)されてないわけで。
「かんりにんさんとえっちがしたいです。」
 ちょっぴり舌足らずに告げると、闇村さんはクスクスと笑みを零した。
 その後で、私の髪にそっと触れ、くしゃりと撫ぜる。
「よく出来ました。――でもね、私に洗脳されない自信はある?」
「はい?」
「言葉通りよ。」
 彼女は微笑みを浮かべ、答えを待つようにじっと私を見つめたまま。
 何、言ってるの?って、内心眉を顰めながら小首を傾げて見せると、彼女はその笑みを深めるだけで。
 しばらくの沈黙の後で、先に口を開いたのは闇村さんの方だった。
「でも、螢子ならきっと大丈夫ね。……貴女、只者じゃないでしょ?」
「何のことでしょう。」
「わかってるくせに。」
 顎に彼女の指先が触れ、顔を上に向けられる。
 静かに顔を寄せられる。
 甘い吐息が僅かに頬に感じられて、
 あぁ、彼女の唇が――……
 
 ……ッ?!

「ま、待った……!」
 私は慌てて彼女に両手を突き出し、くちづけを阻んだ。
 彼女は不思議そうに瞬きながら、「どうしたの?」と問い掛ける。
 いや。
 この人、ヤバい。
 洗脳されない自信。――そんなもの、今の私には無い。
「あ、貴女こそ。只者じゃない。………闇村さん、下の名前は?」
「? ……真里よ。」
「真里、さん?いえ、やっぱ闇村さんって呼びますけど、その……」
 こんなに狼狽するなんて。
 以前の私ならば当たり前のリアクションだったのかもしれないけれど、でも、今は違う。
 今の私は、……
「なるほどね。」
 不意に、闇村さんはぽつりと納得したような言葉を漏らし、私から離れていく。
 ベッドに腰を下ろし、足を組みながら私を見る。クスクスと、楽しげな笑みを湛えながら。
「貴女はまだ未完成なのね。少しずつ完成しつつあるけれど、まだ完全ではない。そうでしょう?」
「………。」
 どうして。
 どうしてそんなことが ―――わかるの?
「今は私に洗脳されるわけにはいかない。それなら、私も洗脳せずに見守るわ。」
 彼女の言う通り。
 私は徐々に完全な形へと近づいている。
 それはおそらく、時間と共に思い出されていく真実。
 彼女はそんなことすら、お見通しだと、いうの?
「螢子。貴女は全ての人間の予想を裏切ることになるかもしれない。事実、私ですら今の今まで気付いていなかったんだもの。危険な香りはしていたけれど――」
 気付くはずがない。
 気付かれるわけにはいかない。
 それはッ――……
「闇村さん、……お願いです。私のことは誰にも言わないで。」
 それは、死をも意味すること。
 だからこそ。
 私には、こうして彼女に頭を下げることしか、出来ない。
「安心して。私は貴女みたいな強い子が好きよ。」
 ふわりと頭に触れたのは彼女の指先か。
 風のように私の髪を攫い、すぐにその感触は消えた。
 扉が開く音がしても、下げた頭を上げることが出来なかった。
「誰にも言わないで……」
 呟きとほぼ同時に、パタンと扉が閉じた音。
 私はその場に座り込み、彼女が消えた扉へと目を向けた。
 あぁ。こうして弱く、脆く、へたり込んでいるのは――きっと偽りの私なの。

 危険信号はとっくに、壊れていた。
 否。
 赤こそが青。
 そんな真実が見え始めていた。
 眼鏡というツールが、全てを明らかにしていく。そんな感覚に、少しだけ笑った。





 明らかになった真実は、さほど意外なものではなかった。
 それは先ほど、螢子と言葉を交わし、本当の姿の一欠けらを見せ付けられたからだろう。
 少し前ならば、さすがの私―――闇村真里―――でも驚きを隠せなかったのかもしれない。
 否、彼女が真の姿を匂わせたからこそ、私はこの調査に乗り出したのだが。
「Melty blood……海外に拠点を移しているとはね。」
 入手した、「極秘」の印が押されたデータを眺めながら、ぽつりと呟く。
 その存在は螢子が警察に供述し、調査の手が伸びたはずだった。しかし組織の足取りは既に途絶えた後。螢子の罪は冤罪とは認められず、全ての罰が彼女へと科せられる結果となった。
 もしも、Melty bloodが警察の行動を嗅ぎつけていなかったら。
 組織の存在が明らかになっていたら、一体どうなっていたのか。
 あの組織ならば、警察を手篭めにすることぐらい容易いことなのかもしれない。
 或いは、更に裏を掻く算段があったのか。
 今はもうわからない。組織の意図も、その全貌も。
 問題は――あの組織の罪を背負うことになった螢子の思い。
 私の推測が外れていなければ、
 螢子は、とんでもない物を抱えている。
 もしかするとあの子は、美雨にも負けず劣らずの ―――悪魔になる可能性だってある。
 螢子。
 貴女が目覚めるべき時は、もうすぐよ。








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