BATTLE ROYALE 25




 だいすきな、だぁーいすきな人。
 隣にいるだけで、こんなに楽しくて、こんなに幸せで、こんなに満たされて。
 私―――中谷真苗―――にとって、初めての経験だった。
 ココロが満たされるのはカラダあってのもの。ずっとそう思って生きてきた。
 身体を重ねることで心は通じる。身体が満たされれば心も満たされる。
 ずっとそう思って生きてきたのに、そんな信念なんか簡単に壊されちゃった。
 ただ、隣にいればそれでいいの。その存在を感じれば、それですごく幸せなの。
 身体の関係なんて無くても、私と真紋は繋がってる。それは手錠という絆?

 あぁ、だけど、だけど私達は 何かが足りない。
 こんなにそばにいる。こんなにも長く、一緒に時間を過ごしてる。
 それなのにッ。

 想いは通じない。


「真苗のことが好き。」

 まぁやの言葉は意味深なようで、実はすごく簡単なお話。

「真苗って人形みたいだから。」

 嬉しい。
 私が真紋の横にいてもいいんだよって、そう言ってくれてるみたいだった。
 愛玩として。

 悲しい。
 真紋にとって私は、それ以上の存在にはなれない。
 かわいがってくれるけど、愛してはくれない。

 苦しいよ。苦しいよぉ。
 こんなに人を愛したのは初めて。
 こんなに苦しい恋をするのも初めて。
 こんなに、誰かのために自分を抑えるのも初めて。

 愛してる。愛してる。
 だけど私は
 真紋に嫌われなくないから だから
 口にはしない。

 あぁ、やっぱ苦しいよ、真紋。
 今はただ、そばにいて。
 愛玩でいいから、可愛がっていて。

 どこにも行っちゃやだよ。





 タタ・タン タタ・タン タタ・タン―
 気付けば短い爪先で、硬い所を叩いていた。
 一定のリズム。時折、フィル(=アクセントとなるリズムの短いフレーズ)を加えたくもなるが、指先だけのばちじゃ侭ならない。こんな時は、ドラムを思いっきり叩きたくなる。
 リズムが形としてある程度固まってくると、次に浮かんでくるのはメロディ。
 以前は詩先で作ることも多かったけど、今は言葉にするべきものが見つからない。
 だから音を少しずつ組み立てていく作業を密かに続けていた。
 リズムに合わせて浮かべるメロディは漠然とした存在で、それはまだ短音階なのか長音階なのかすらもわからない。静かなノクターンというよりは、タン・タタンッ―――結構速めのテンポ。
 バラードはあまり得意じゃないし、かといって激しいロックとかでもない。
 この、頭に浮かぶ微妙なリズムとメロディを……
「まぁや。なんでいっつも、トントンってやってるの?」
「ん?」
 真苗の声に、私―――木滝真紋―――はフロアへと落としていた視線を上げた。
 ベッド腰掛け、その縁を未だにトントンやってた指に気付き、それを止める。
 私は少し苦笑して、ついつい真苗そっちのけで音楽に没頭してしまう自分を省みた。
「しばらく音楽やってないから、なんか疼いちゃうの。」
 さすがに曲を作っているとは言わずにそれだけ返すと、隣にちょこんと座る真苗は少しの間きょとんとした後で、「あ、そっか」と納得したような声を上げた。
「まぁやってミュージシャンだったのね。忘れてた。」
「ちょっとぉ、忘れないでよ。」
 手錠をチャラチャラ言わせながら、ペシンッ、と真苗を叩く。
 真苗は「いたぁい」と言いつつもどこか楽しげで、私も気が抜けるように、ふっと笑みが零れていた。
 その時不意に気付く。私が曲を作ろうとしている理由。
「……ぅ?」
 つい真苗を凝視してしまう私に、真苗はぱちぱちと瞬きながら不思議そうな表情を浮かべる。
 私は―― 真苗に贈る曲を作ってる。
 あ、そんな仰仰しいものではないかもしれない。あくまでも自分のためでしかないのかもしれないけど。
 でも、やっぱり、この子を題材にして作りたいと思ってる。
 だからこそ、言葉が上手く浮かばない。
 テーマは恋?だとしたらどんな?
 ――……この曲にあてる歌詞は、自分の気持ちが見えない限り浮かばない?
「It's like a…」
 ぽつりと呟いた私に、真苗は「好きです?」と小さく聞き返す。
 ったく、この子って中学校すら行ってないんじゃない?って思う程の無知っぷり。
「You're like a fool.――あんたは“like a”じゃないかもしれないけど。」
「はぇ?」
「バカみたい。って言ってんの。Are you fool?」
「えー?ば、バカじゃないよぉ。」
 今一つ理解していないといった様子だったが、真苗は懸命に聞き返す。っていうか、真苗と話してて話を逸らす一番の方法は真苗のわからない話をすることよねぇ。
「ユーァーライク、ア…ラビット!」
 それはまるで聞こえたとおりって感じで、今覚えたばかりの言葉。
 真苗は嬉しそうに、私に向けて告げる。
「ウサギ?私が?」
 いきなり何を言い出すのかと問い返せば、真苗は両手を胸の前で組みながらニコニコと笑みを深め、
「そう!まぁやはうさぎさんなの。真紋が前のフィールドでちっこい穴に連れてってくれたでしょ?あの時に思ったの。覚えてる?」
 と、思い出話に花を咲かせる。私は手錠で引っ張られつつも、そんなこともあったなぁと思い起こした。
 まぁ思い出って言うほど昔のことでもないんだけど。
「覚えてるわよ。あれがそもそもの間違いだったんだわ。」
「何言ってるのぉーあれがあったから、今こうして一緒に居られるんじゃないっ!」
「いーや。私があの時あんたに声なんか掛けなければ……!」
 自分でもその言葉が冗談なのか本気なのかわからなかったが、左手をグッと握り締め、視線を上げた。
 そうよね。真苗に出会わなければ、こんな思いをすることも――…
「運命だったの。」
「え?」
 断言するような口調に思わず真苗へと目を向けると、真苗はきらきらと輝かんばかりの瞳を笑みに細め、私を見つめる。
「だって私達、その前にも会ってる。言葉交わしたわけでもないし、ほとんど一方的に私が真紋のこと見てたんだって思ってたけど。でも、真紋はあの時すれちがったこと覚えててくれたのよね。」
「あぁ……裁判所で会ったやつね。私は判決直後で、気が動転してた。」
「うん。だから次に真紋と会った時、印象が全然違ってビックリしたの。」
「第一印象の私がレア過ぎたのよ。」
 あしらうように言うと、真苗からクスクスと零れる小さな笑み。
 あの時は本当に気が動転してて……あまり、思い出したくはない。
 ――ドウシテ私ガ死刑ナノ――
 叫んだ。
 確かに、政治家や有名人の汚職を暴露する活動は過激だったかもしれない。
 悪を許せなかった。だから正義を貫いた。
 その仕打ちが死刑だなんて酷すぎると、嘆いた。
 圧力に負けた自分が悔しかった。
 そんな時、私を見つめる丸い瞳を見た。――真苗。
「でもね、まぁや。そのレアな真紋、こないだも見ちゃったよ?」
「……」
 真苗が言い出した言葉が何のことなのか一瞬わからなかった。
 聞き返そうとして、ふと思い当たる。
 ――こないだ、真苗に抱かれた時、か。
「普段の真紋とは全然違う……普段はすごく冷静で強くて。」
「……イメージ崩れてイヤになった?」
「違うの。……まぁやは完璧じゃないんだなぁって、思った。」
「……それは?」
 真苗に目を向け問いかけた。
 けれど、真苗がふっとこちらを見た時、思わず目を逸らす。
 真っ直ぐに目が見れない。
「それは、嬉しいこと。」
 ぽつりと返された言葉に、なぜか、安堵感が広がった。
 当たり前じゃない。完璧な人間なんて存在しない。
 私は弱い人間よ。
「あ、けどねッ……」
 慌てて付け加えられた言葉に、真苗を見遣る。
 真苗は困ったような笑みを向けた後、少し視線を落として。
「どうして真紋はあんなに怯えたのか。…わかんなかったよ。あの時の真紋の気持ちがわからなかった。それに、なんか……私も悲しかったのぉ。」
「……え…?何が…?」
 いきなりそんなことを言い出して表情を曇らせるものだから。
 真苗がいきなり泣きそうな顔なんかするものだから。
 広がっていた安堵感は、一瞬にして不安感へと変換された。
「好きだなんて、嘘でも言わないで。本当でも言わないで。」
 呟くように零された言葉。
 何のことかわからず、私はしばし呆気に取られる。
「私、そんなこと言ったの?」
「……覚えてないの?」
 こくん、と小さく頷き返し、真苗を見つめる。
 真苗もまた、丸い瞳で真っ直ぐに私を見つめ返し、少しだけ悲しげに表情を曇らせた。
 その表情を見て。
 頭の中でパチンと、弾けるように気付かされたこと。
「ごめん。そんなんじゃないの。」
 短く言って、顔を伏せた。
 胸が痛い。真苗を見ていると、余計、苦しくなる。
 真苗は私の気持ちに気付いてしまった。
 真苗に恋人がいるって知ってるのに、それなのに好きだなんて口にしてしまったから
 だから真苗は困ってるんだ。
 あぁ、カッコワル。
 こんな気持ち、さっさと捨ててしまおうって、思ってたのに。
 私のバカ。
 本当は今でも真苗のことが好きで、壊れそう。
「真紋……ごめんね…」
「うるさいッ。」
「……。」
 こっちこそゴメン。
 邪険にしてしまう。
 でもね、私、不器用で。
 今、嘘の笑顔なんか、作れないの。
 苦しいよ。苦しいってば。
 真苗のバカ。
「ねぇ真紋、私達、どうしたらいいのかなぁ。」
 どさり。
 真苗は背中からベッドに倒れ込み、ぼんやりと天井を見つめる。
 私もつられるように横に寝転んで、真苗の視線の先を探した。
 けれど何も見つからないのは、そこに、私の知らない人を見ているから?
「真苗は、彼氏と幸せになりなさい。」
「え…?」
「こんなプロジェクトなんか抜け出して、それで、幸せになればいいのよ。」
「じゃあ、真紋は?」
「私は――」
 顔を横に向けると、真苗と目が合った。
 真苗はどこか悲しげに笑う。どうしてそんな顔をするのかわからない。
 少しだけ身を起こして、真苗へと顔を近づけた。
「私は真苗の幸せを祈っといてあげる。」
 そんな答えを返し、そっと真苗にキスをした。
 少しだけ唇を触れさせて、顔を離す。
 その時真苗の頬に伝う涙の意味が、私には理解出来なかった。
 泣きたいのは、こっちの方よ。





 時計が回ってく。
 ぐるぐる。ぐるぐる。
 ゆっくりゆっくり。だけど確実に。
 時間を刻んでく。
 お部屋の中でベッドに二人。
 左で眠る真紋からは、小さな寝息が聞こえてくる。
 私―――中谷真苗―――はベッドに身を横たえて、ぼんやりと時計を見つめていた。
 時刻はまだ夜の十一時過ぎ。電気は灯されている。眩しいくらいに。
 そんな光の中で真紋は眠る。
 時計の短針。二周で一日だから、あと十周。
 あと十周した頃に。私達はまた、殺し合いの舞台に戻らなくちゃいけないんだ。
 真紋の隣にいられる保障も、真紋と笑い合ってられる保障も何もなくなる。
 怖い。怖いよ。
「まぁや。起きてる?」
 少し顔を横に向けて、小さく呼びかけた。
 聞こえてくる寝息が嘘の物とは思えなくて、眠っていることを知っていたのに。
 それでも、心の底ですがるような気持ちが揺れて、声をかけずにはいられなかった。
 身体を真紋に寄せると、伝わってくる体温が心地良い。
「真紋……寝てる?」
 もう一度確認するように呼びかけた。
 やっぱり、私の声は聞こえていないようだった。
 聞こえる寝息が、ただ、穏やかで。
「あのね、まぁや。……私ね、嘘ついてるの。」
 いつもそばにある真紋の右手と私の左手。
 そっと真紋の手に自分の手を重ねて、握った。
 あぁ、いつもそばにあったけど、こうして触れるのは久々のような気もするよ。
「彼氏なんかいない。私を待ってる人なんかいないの。ごめんね。本当は私、真紋のことしか見てないよ。」
 本当の言葉を、口にした。
 けれど返って来る声はない。
 聞こえるのは穏やかな寝息だけ。
 まぁや。聞こえないのかな。聞こえない?本当に寝てる?
 うぅん、それならいいの。それでいいの。
 だけど、けど私ね、少しだけ。
 今、まぁやが起きてたらいいのにって、思ってた。
「……好き。」
 真紋の右腕に軽く抱きついて、真紋の二の腕に額を寄せた。
 こんなにそばにいるのに、苦しいなんて。変なの。
 あぁ、時間がないの。まぁやと一緒にいられる時間。まぁやと一緒の幸せな時間。
 私は……
 死ぬまでに得られる幸せで、ちゃんと満足出来るかな。
 少しだけ、不安なの。

 真紋と一緒にいられるって、そう安心していられる時間。もう少ない。
 あと、五日。





「ふ…にゃ……。」
 柔らかな光の中で、眠りにつく鏡子の髪を撫でていた。
 時刻は午後二十二時過ぎ。
 先ほどからベッドに丸まってうとうとしていた鏡子も、ようやく浅い眠りに落ちたようだった。
 眠っても尚、心地良さそうな様子を見せてくれる鏡子の反応が嬉しくて、私―――望月真昼―――は今も彼女の髪を撫で続けている。艶のある黒髪が、少しだけ指先に絡んで落ちる。そんな様子を眺めながら、ふっと温かな気持ちになっていく。
「……今も、私のことを愛してくれている?」
 そんな問いかけに答えなどなくとも、穏やかな表情で眠る彼女の寝顔が、全てを物語ってくれているような気がして。また彼女の髪を撫でた後、起こさぬようにそっと、その頬にキスを落とした。
 鏡子は私の味方。心底、私のために生きると、そう誓ってくれた。
 逆に言えば、私だけが彼女の味方。だからこそ彼女は、私を愛する。
「私も、貴女のことを――」
 艶やかな黒髪、指先に絡んでは、落ちる。
 こんなに安心しきった表情で、眠りに落ちた女性。
 まだ少女とも言える、この子は今まで、色んなことを頑張りすぎたのか。
 あどけない表情が、どうしようもなく愛しく見える。
 この子だけを、想えたら、いい。
「………」
 鏡子から目を逸らし、ふっと時計を見上げた。
 今日の日付は十一月の二十二日。後四日で「休暇」は終わってしまう。
 この休暇が充実したものだったか否か、それは、一人で過ごす休暇と比べればずっと満ちたものだろう。
 鏡子と共に過ごしてきた一週間と少し。幸せな時間だったとも、言えるだろう。
 まるで恋人のような時間。その表現には語弊があるか。
 実際に恋人として過ごした一週間。そしてこれからも、ずっと。
「愛してる、…愛しているわ。」
 少女をそっと抱き寄せて、呟いた。
 何故こんなにも切ないのか。
 簡単なこと。
 私は今も尚、ある人物に捕えられたままの存在だから。
「……本当は」
 鏡子を少しきつく抱くと、「ふぁ」と彼女から声が漏れた。
 起こしてしまったのだろうか。
 それでも、ぎゅっと抱きしめた。
「真昼、様……?」
 寝たげな声で呼びかける声に、少しだけ笑う。
「起こしてしまってごめんなさい。寝顔があまりに可愛いものだから。」
 そう言って抱いた腕を緩めると、鏡子は寝惚け顔のまま、照れくさそうにはにかんだ。
 言葉は伴わずに、ただ向けられるその笑顔。
 それが、何よりも愛しくて。――切なくて。

 鏡子と私が何の障害もなく、「恋人」という時間を過ごせる時間。
 あと、四日。





「ねむたぁい……。」
「寝たら?」
 ベッドに座りドライヤーで髪を乾かす私―――穂村美咲―――へと、後ろから抱きついて来る律子。
 彼女の漏らす言葉にそっけなく返せば、「ぶー」という声が聞こえる。
 おおよそ、その頬を膨らませて憮然とした表情を浮かべているのだろう。
 ドライヤーから吹き出す熱風を後ろの律子へと向けると、
「のぁッ、熱ぅ!熱いってば」
 と案の定の反応が返って来た。律子って本当にわかりやすい。
「美咲ちゃんさぁーもっとあたしに優しくしてくれてもいいじゃんよー。」
 身を案じてか、私に抱きつくのをやめて隣に腰を下ろすと、律子は甘えるような表情を浮かべて私を見上げる。そんな表情をあしらうように再びドライヤーを向けては、「熱ッ」とやはり返って来る反応に少し笑った。
「十分優しくしてるつもりだけど。本当に嫌いな人は無視するもの。」
「うわ、たち悪ぅー。」
「そういう性格。」
 少しだけ皮肉の利いた言葉のあとで、二人して笑う。私達のよくある会話の一つだった。
 それが、当たり前のようで、なんだか楽しい。
 よくない状態なのだろうか。彼女と過ごす時間が、私の中で大切になっていくような感覚。
 そのことも少しだけ意識して冷たくあしらっているつもりなのに、律子はいつも笑っている。私がどんなことを告げても、笑っていてくれる。それが嬉しくて、怖い。
「……ねぇ、美咲さぁ。なんでいっつもコレしてんの?お風呂上りぐらい外してもいいんじゃない?」
 不意に律子は不思議そうに尋ね、私の後ろ頭を軽く小突く。
 バレッタ。
 彼女には話していなかった。これが私の抑制剤だということを。
「外すと、デリケートになってしまうの。潔癖が余計悪化する。」
「……んん?それって?」
 尚も理解出来ないような様子を見せる律子。
 私はドライヤーのスイッチを切り、少しだけ苦笑混じりで言葉を続けた。
「バレッタをしていない状態だと、嫌悪感の対象が増えてしまうの。だから寝る直前にしか外せないし、起きたらすぐにつけるようにしているわ。勿論シャワーを浴びる時は外すけど」
「じゃあさ、今外すとヤバい?」
「……どうかしら。」
 首を傾げて答えると、律子は指先で私の髪を撫ぜながら思案顔を浮かべ、真似するように首を傾げた。
「無理はしなくていいよ。美咲はやっぱり、あたしと居ても嫌な気持ちになったり、するでしょ?」
「それは……」
 わからない。
 答えようとして言葉が止まる。
 ドライヤーをベッドに置いて、そっとバレッタに手を伸ばした。
 これを外せば、わかることだ。
「あ……本当に無理はしないでよ?」
 少し心配そうに私を覗き込む律子へと、小さく首を横に振った。
「大丈夫だと、思う。もしも危なかったら、またすぐに留めれば良い話だから。」
 そう言って、そっと、バレッタを外した。
 パチン。
 小さな音と共に留め具が外れ、するりと髪を掬いながら、バレッタを下ろす。
 後ろで留めていた髪がはらりと落ちた。
「……どう…?」
「……」
 律子へと目を向ける。
 少しだけ視界が、悪くなる。
 世界が濁るような感覚。
 だけど律子は、その中で際立って見えた。
 何だろう、この、不思議な視界。
「大、丈夫。」
 短く、零すように呟いた後で目を瞑る。少しだけ怖い。
 鈍い頭痛が頭の奥で響く。
 あぁやはり、良くない――?
「…美咲。」
 囁くように名を呼ばれた後で、私は律子に抱き寄せられていた。
 ふわりと包み込まれるような、体温。
 そっと目を開けると、律子の胸元に顔を押し付けられ、視界は遮られていた。
「無理しなくていいって言ってるのに。でも、なんか嬉しい。」
「律、子……?」
「あたしね、美咲のために綺麗になりたい。……」
 どうして律子はこんなに優しいのだろう。
 嬉しい。怖い。
 二つの感情が、私の中で渦巻いている。
 あぁ。こんな気持ちじゃいけないのに。
 時間が。刻々と過ぎていく。あともう少ししたら、私は、律子を裏切らなくてはならない。
 どうしてこんなに苦しいのだろう。切ないのだろう。
 律子。
 どうして律子はそんなに、私を惑わせるの?
「――…怖い、のッ…」
 言葉が上手く紡げずに、ぎこちなく告げてそっと律子から身を離す。
 ぼやけた視界の中で、手に握っていたバレッタを、そっと髪に止めた。
 パチンという音に安堵する。
「なんで、泣く?何も怖くないよ?」
 律子の指先が私の目元を拭ったと同時に、彼女の優しげな笑みが目に映る。
 違うの。
 私が怖いのは、貴女のその優しい微笑みよ。

 律子が味方で居てくれる時間?それとも私が律子を突き放すまでの時間?
 あと、三日。





「由伊ぃ。ぎゅーてしていい?」
 深夜。
 あたし―――神楽由伊―――と智さんが「おやすみなさい」を告げてベッドに入ってから、どのぐらいの時間が経った頃か。時折衣擦れの音だけがしていた長い沈黙を破るように、智さんが呟いた。
 あたしは智さんに背を向けた状態で丸まっていて、彼女の言葉は耳にしていたけど、答えることはしなかった。要するに寝た振り。
「もう寝てる?」
 確認するような声。
 衣擦れの音がした後、ふわりと頬に触れたのは彼女の唇か。
 そしてまた智さんは身を横たえた様子で、後ろで「ふぃ」と息を吐く声音が聞こえた。
「時間が経つのって、あっという間だねぇ。……でも、この休暇、あたしは結構楽しめたかなぁ。」
 彼女が呟くように漏らす独り言。
 それは眠っているあたしに投げ掛けるものなのか。
 相手が眠っていると意識しての言葉ならば、そこに本心が混じることもあるかもしれない。
 あたしは寝た振りに徹して、耳を澄ませていた。
「あたしはねぇ、由伊のことがフツーに好きなんだと思うよ。チアキのことは、ほら、忘れきったとは言わないけどさ、チアキはチアキ、由伊は由伊って、ちゃんと思えるようになったんだよ。」
 進歩。と智さんは嬉しそうな声で言っては、少しだけ笑っていた。
 由伊のことが好き。それは散々告げられた言葉で、今更改めて言われても何とも思わないけれど。
 彼女の心境の変化は、あたしにとってはありがたい。
 智さんが油断すればするほど、あたしの裏切りは彼女の裏を掻くことができるだろう。
「けど、恋愛の仕方は一緒みたい。あ、それは相手が誰っていう問題じゃなくて、あたしのやり方なんだろうけどねぇ。……あたしってどうやら、純愛嗜好、ぽい?」
 ――純愛・嗜好?
 頭の中で問い返し、智さんの続く言葉を待つ。
 智さんからは想像も出来ないような表現。――純愛。
「エッチに憧れないわけじゃない。でもそれは人間としての本能的な部分のような気がする。だからねぇ……由伊とはそういうこと、しなくていいんじゃないかなぁって思うわけ。」
 純愛嗜好。言葉通りの意味。
 智さんはプラトニックな関係を望んでいる。
 それは、あたしも都合がいいんだけど。好きでもない人に抱かれたくなんか、ないもん。
「穢したくないとか、そんなんじゃなくて。あたしはこーやって、由伊の横に居れば満足、かな。」
 そう言った後、言葉を締めるように、「うん」と一つ納得するような声を漏らす。
 そうして智さんは、「独り言終了」と冗談めかした口調で言った。
 寝たふりに収穫があったのか否かはわからないけれど、智さんがあたしを抱くつもりがないと知ることが出来たのは嬉しい。あともう少し。もう少し頑張れば……。
「本当に寝てるのか寝たふりなのか見分ける方法があるって、知ってる?」
「……。」
 智さんがいきなり言い出した言葉に、ギクリと、身が強張った。
 こ、こういう部分が読めないから智さんってムカつくの……!
 少しの沈黙。その後で、クスクスと零れるような笑い声。
「あーあ、由伊ってホントわっかりやすいなぁ。……おやすみっ。」
 もしかしたら、そんな言葉すらハッタリなのかもしれないけど。
 何考えてるのか、やっぱり今一つ掴めない。だけどすごく子供っぽい人。

 智さんを裏切る日まで。
 あと、二日。





 どくん。どくん。どくん。
 心臓の音が煩くて、眠れない。
 ベッドにうつ伏せになって、シーツを握り締めて、枕に顔を埋める。息が篭って暑苦しい。
「うぅ……」
 あたし―――佐久間葵―――は何度目かの寝返りを打ってから、仰向けになって天井を見上げる。
 ぼんやりと濁った闇に覆われた天井は、無機質で、なんにも感じさせない。
 こんなに静かで、穏やかな夜なのに、あたしの心臓だけがまるで別の次元のようで。
 どくん。どくん。どくん。
 鳴り止まずに、脈打ち続けている。少しだけ息が苦しくて、深呼吸をした。
「……眠れないのね。」
「ぁ……?」
 静寂の中でぽつりと呟かれた言葉に、隣を見る。
 眠っていたと思っていた。美雨さんはあたしに背を向けて横たわったまま、その表情を見せようとはしない。
「はい……眠れ、ません。」
 小さく言葉を返した後で、ひゅっ、と、息を吸い込んで、吐き出した。
 呼吸すら上手くできないほどに、あたしの心臓は暴走中。
「明日で休暇が終わってしまうことと、関係があるのかしら。」
 そんな美雨さんの言葉に、暴走していた心臓が一瞬ピタっと止まったような感じがした。
 彼女の言葉の通りだった。
 じっとりと額に滲む汗は、いわゆる冷や汗ってやつだろうか。
「……」
 何も言葉を返せずにいると、小さな衣擦れの音と共に、美雨さんが体勢を変える。
 あたしと同様に天井を真っ直ぐに見上げては、ふっとこちらへ視線を向けた。
「――私に殺される、と?」
「そ、れは……」
 否定の言葉が喉まで出掛けて、それを飲み込んだ。
 繕ったって無意味だって、あたしは思い知らされていた。
 美雨さんはあたしの感情なんかとっくに見抜いていて、今の問いかけだって確信の上での言葉だろう。
 それなのにずるいよ。あたしを困らせて。
「美雨さん、は……」
「……」
 呟くように切り出したあたしの言葉を、ただ待つように彼女は押し黙る。
 その横顔には、やっぱり表情なんてなくて。
 少しだけ怖くて、少しだけ、愛しい。
「美雨さんは、あたしを殺すつもり、ですか……?」
 不安が募りすぎて、問い掛けずにはいられなかった。
 どんな答えが返ってくるのか、怖かったけど。
 殺されるかどうかもわからない中で、ただ怯え続けるという状況が、苦痛に思えて仕方がなかった。
「その時にならないと、わからない。」
 美雨さんは短く答えを返した後で、少しだけ顔をこっちに向け、小首を傾げるような仕草を見せた。
 あたしはそんな美雨さんを見つめ返した後、視線を合わせ続けることが出来ず、目を逸らす。
 彼女の曖昧な答えは、不安を打破するには程遠い。
 しばし、二人の間に言葉はなくて、その静寂が深まるほどに恐怖が募っていった。
 堪えきれずに、美雨さんの腕を緩く抱く。
「殺さないで下さい……とか言ったら、怒ります?」
 思わず零れ出た言葉、言った後でほんの少しだけ後悔して。
 見上げるように彼女へ視線を向ければ、あたしを見つめ、柔らかく細められた目があった。
「怒らないわ。」
 囁くような声が、あたしの耳元で響いて、心地良い。
 彼女の手が、あたしの身体をそっと抱き寄せる。
 温かい体温に身を委ねれば、楽になるのだろうか。
 彼女の胸元に額を寄せて、甘えるように身を丸くした。
「葵は死ぬことが怖い?」
「そりゃ…怖いですよぉ……」
 視界が遮られ、温かな闇の中。彼女の声が脳に直接響いてくるような感覚。
 くぐもった声を返すと、するりと、髪を撫ぜてくれる指先を感じた。
「それは、闇村真里に会えなくなるから?」
「………」
 その名前を出されると、ちょっと弱い。
 闇村さんに会えなくなるから。それは確かにあるけど……
「じゃあ、もしも闇村真里に殺されるとしたら?その死も、葵にとっては恐怖なの?」
 続けられた問いかけは、意外な言葉。
 闇村さんに殺されるとしたら。そんなこと、考えたこともなかった。
 そっと身を離し、彼女を見上げると、答えを待つように真っ直ぐにあたしを見つめる視線。
 一時、見詰め合ったままで、答えを探す。
「あ、……だって、闇村さんに殺されたら、あたしは……」
「………」
 薄闇の中でもよく見える、吸い込まれそうな瞳。
 心を揺さぶるような力を持った、真っ直ぐな視線。
 とくん、とくん、とくん――心臓はやっぱり普段より少し早めの速度を保っていたけど、その心音、今はなんだか心地良くも感じられた。
「そしたら、あたしはッ…… 美雨さんに会えなく、な……」
 自分でも何を言ってるのか、ちょっと、わかんなくて。
 あれ?って首を傾げながら、目を伏せる。
「……どうしたの?」
 くしゃり、あたしの前髪を撫ぜる指先。
 囁くような甘い声。あたしの名を呼んで、あぁ、そして、あたしを抱き寄せて―――
「殺しちゃやぁッ……」
 何故か涙が溢れてきて、止まらなくて。
 怖くて、だけど、切なくて愛しくて。
 なんだろうこの気持ち。なんであたし、こんなに苦しんだろうッ…。
「葵……」
 細い指先があたしの頬に触れる。
 伝った涙をそっと掬って、それでも尚涙の伝い続ける頬に、そっとくちづけをくれた。
 どうして美雨さんは、たまにこんなに優しいんだろう。
 わからなくなっちゃうよ、自分の気持ちも、何もかも。

 その時、きっと答えは出るはずだから。あぁ、時間が止まってしまえばいいのに。
 あと、一日。





「本日いっぱいにて、休憩期間を終了します。殺し合い禁止の解除は、日付が変わる零時丁度としますので、お気をつけ下さいね。定例通り、午後二十三時に禁止エリア告知の放送を行いますので、聞き漏らしの無いようにお願いします。」
 闇村さんは楽しげに、マイクに向けて言葉を発す。
 休憩時間の終わりを告げる、参加者達にとっては無慈悲な言葉。
 私―――宮野水夏―――にとってもそれは望むべきものではなく、こうして彼女の後ろに立っている今も、不安感ばかりが募ってしまう。残酷な時間は巡る。あと半日経てば、私が殺されていたって何の文句も言えない状況下にいることになる。
 パチンと、闇村さんの指先がマイクの入力スイッチを切った。
 そして、ゆるりと流麗な仕草で私の方に振り向くと、数秒程の間の後で、彼女の唇が開かれる。
「答えは出た?」
 柔らかな笑みをたたえて、私に問い掛ける短い言葉。随分長い時間彼女の声を聞いていないように思えていたけれど、こうして投げ掛けられた言葉はあまりに身近で、少しだけ拍子抜けした。
 彼女の問う「答え」とは、私がずっと悩み続け、ようやく見出した結果であるはずなのに。闇村さんの口調はまるで世間話のような言い方だったものだから、それに反して重い言葉を返すことも出来ずに。
 私は少しだけ笑んで、こくんと小さく頷いた。
「そう。……聞かせてもらえる?」
 闇村さんは管理人用の重厚な椅子から腰を上げると、静かに私の方へと歩み寄る。
 1メートルほどの距離を置いて、真っ直ぐに見据える視線。
 それを受け止め、私もまた彼女を見つめ返した。
 そして、長い時間考え続け、ようやく導き出した言葉を、口にした。
「―――離れた場所から、貴女に従おうと思います。」
「……離れた場所。」
 闇村さんは不思議そうに幾つか瞬いた後、ふっと口許に笑みを浮かべ、私の言葉を復唱する。
 そして私から視線を外すと、参加者達の様子を映し出すモニターへと目を向けた。
「葵や美咲のように、ということね。」
「はい。……闇村さんのそばにいたいのは山々、ですが…」
「敢えて彼女達のように、参加者として行動する。その理由はなぁに?」
 こちらに目を向けるでもなく、彼女は問う。
 その答えも、しっかり用意してあった。
「貴女に甘えていては、何もならないと、思いました。……私は、闇村さんに認められたい。だから、」
 再度、私へと向けられた視線に、一瞬言葉が詰まる。
 私の様子を楽しむ様に、闇村さんは笑みを浮かべたまま、黙って言葉を待っていた。
「だから、私は…」
 この言葉を口にすることは、勇気の要ることだ。
 だけど、告げなくてはならない。真っ直ぐに、彼女へと向けて。
 一つ息を吸い込んで、そして私は言った。
「私は、神崎美雨を殺し、ます。」
 言い放ってしまえば、あとはもう、どうにでもなれという気持ちになる。
 ただ、私の言葉を聞いた時、闇村さんが笑みを深めたその表情が、
 ―――ゾクン、と、寒気がするほどに怖かったのは、何故か。
「よく言ったわね、水夏。」
 綺麗な黒の瞳。笑みに歪められた彼女の唇。少しだけ揺れる長い髪。
 今、私の目の前にいるのは、闇村真里という名の天才。
 彼女の愛を手に入れた時、私は一体どうなるのか。
 わからない。わかるはずもない。けれど――
 手に入れれば、自ずとわかることだ。
「行きなさい。」
 扉を指し示し、闇村さんが告げる。
 その命令に従って、私は彼女の横を通り抜けた。
 もう、ここには戻れない。 向かう先は、戦場。





 頭が空っぽになるような感覚。
 世界に自分ひとりしかいないような。或いは、音が消えたような。
 私―――茂木螢子―――は、ぼんやりと、アナログ時計の秒針を眺め続けていた。
 この針が一周する度に、ゾクゾクと湧き上がる歓喜。あと少し。もう少し。
 それは、大晦日に人々がこぞっておこなうカウントダウンのようなものだろうか。幼い頃、誕生日の前日に抑え切れない昂揚感を抱いた、そんな感覚だろうか。比喩すべきものといったらそのくらいかもしれないけれど、とにかく、今は時間の経過だけを待ち続けている。「楽しみ」という期待を持って。
 あぁ、私以外の参加者たちは、一体どんなふうに今を過ごしているのだろう。
 私のようにワクワクしているのだろうか。それとも怯えているのだろうか。
 仲間、友達、恋人、そんな全ての関係が崩壊するかもしれない瞬間がもうすぐやってくる。

 『殺し合いの再開』

 その時、残酷な本性を現したりだとか。
 建前で笑っていた人間が、その時間を越えた瞬間に牙を剥き出しにするとか。
 殺さないと誓い合った二人が、互いに疑心を抱いたりだとか。
 きっと、そんな醜い感情が蔓延する。

 禁止エリアの放送は随分前に終わったように思える。
 1−C,3−B,5−C,7−A,9−C,12−C。禁止エリアになったのは以上の6エリア。
 私の自室、3−Bも含まれていた。わざわざ禁止エリアにしなくとも、自らこの部屋を後にするつもりでいた。
 あぁ、そして時計の長針は今、十一時五十分を指している。
 あと十分。九分五十九秒、九分五十八秒、九分五十七秒。
 こうして零時きっかりまで眺めていたいのも山々だけれど、それでは自爆してしまうから。
 そろそろこの部屋を後にしなくちゃ。一つの銃は私の腰元。もう一つは、肩から掛けた重たい散弾銃。
 深雪さん、素敵な武器を残してくれてありがとう。しっかり活用させてもらいますからね。

 近づいていく。
 さぁ、早く。
 始まりの号砲を!








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