BATTLE ROYALE 23




 コンコン、と聞こえたノック音。スタッフと話していた私―――闇村真里―――は、会話を中断し、扉へと目を向ける。向こう側に居るべき人物、つまり管理人室のドアをノックする人物は一人しか思い当たらない。
 私はすぐに席を立って、扉を開けた。
「おかえりなさい、水夏。」
 開いた先の人物は、扉を自分で開けようとしていたのか。それが勝手に開いて少し驚いたように一歩後退っては、小さくはにかんでみせる。ノートパソコンを手にした水夏だった。
 そんな水夏に微笑を向け、彼女を迎え入れた。
「只今戻りました。無事、任務完了致しましたっ。」
 パソコンをスタッフに手渡しては、仰仰しく敬礼を決めてみせる水夏に少し笑う。
 今頃、ご褒美に胸を躍らせている頃なのかしら。
 キスの一つを与えても良いのだけれど、それよりも先に告げたいことがある。
「水夏、こっちへいらっしゃい。」
 私が手招くのはモニター前。水夏は少し躊躇いがちにモニターへと目を向けては、「はい」と頷いてこちらへと歩み寄る。私は水夏の横に立つと、軽くその肩を抱きながらモニターを見上げた。
 彼女が躊躇いを見せるのは、私が以前言った言葉を気にしてのことだろう。一応参加者なんだから、あまり他の子たちの様子は見ないようにね、と注意した。そんな私の言い付けを守り、水夏がこのモニター前へと自ら足を運ぶことは滅多にない。いつもは、彼女へと宛がったスタッフ用の一室で身を休めている。
「水夏にはもう一つ。こなして欲しい任務があるの。」
「はい。」
「……あ、やーめた。」
「は…。」
 言い出しておいて何だが、ふと、彼女に与えるその任務は任務であるべきものではないように感じた。
 これは彼女自身に選択肢を与えなければならない。
 彼女自身の問題だから。
 私が目を向けるのは、5−Aのモニター。つまりそこは、水夏の自室であった部屋。
 過去形とするのも間違っているかも知れないけれど、実質、この部屋はいまや田所霜と沙粧ゆきの部屋と言っても過言ではないだろう。
 その部屋の状景を拡大表示する。水夏は久々に見る盟友の姿を食い入るように見つめていた。
 水夏はおそらく知らないだろう。この二人が、恋人という関係にあることを。
 幸い、今は二人共別々に思い思いのことをしているらしく、恋人らしい素振りは見せない。
 水夏に、どう切り出そうか少し迷った。
 何気なくモニターを眺めていたときふと、ある一室の状景が目に映る。
 この子に水夏が勝つことは出来るのだろうか、と、そんな思いが脳裏を過ぎった。
「ねぇ、水夏。」
「あ、はい。」
 私の呼びかけに、水夏は少し慌てたようにモニターから目を離す。そんな水夏へと、私は真っ直ぐに視線を向けた。彼女からすれば厳しい表情と映るであろう、私にしては珍しく、笑みを消した。
「水夏。強く在りたい?美雨に勝ちたい?」
 と、美雨の名を出したのは、水夏の闘争心を煽るために過ぎない。
 水夏が勝てるか否かという判断が難しい人物は美雨ではない。――それは、ある一室で過ごす少女のこと。水夏には強くなって欲しい。だから敢えて、彼女に荊の道を歩ませたいと思った。
「……はい。もちろんです。」
 真っ直ぐにそう答えながらも、どこか不思議そうな様子。
 私は彼女から一旦離れ、用意しておいた衣服を取り出す。
 ばさり、と音を立て、宙を舞ったワンピース。水夏の手中に収まったことを確認し、私は告げた。
「それならば、あの二人を殺しなさい。―――沙粧ゆきと田所霜を。」
「……!」
 吃驚にその目を僅かに見開く水夏へと歩み寄り、すっと手を差し出す。
 手中にはロザリオが一つ。数珠を指にかけたまま手を離すと、聖母マリアを象ったセンターメダイを支点にして、クルスが宙で揺れる。おずおずと差し出された水夏の手にロザリオを落とすと、「ジャージには合わないでしょう?」と私は薄く笑んでみせた。
「その学校指定のジャージは、あの二人と繋がっているという意識なのかしら。ユニフォームなんかここでは必要のないものよ。」
「違いますッ。……その、他の服探すのが面倒だった、というか…」
「洗濯はするのに、その隣の部屋で新しい服を探すのは面倒ということ?水夏は随分物臭なのね。」
「…ッ……」
 子供じみた言い訳などねじ伏せて、水夏の手へと渡ったワンピースへ目を向ける。
「純白のワンピース。動きを妨げることもないわ。その白色にはブラッドストーンの数珠がよく似合う。」
「ブラッド、ストーン?」
「その石、深い赤と緑の中に血のような赤い筋が混じっているでしょう?生命力を高めてくれるそうよ。」
「闇村さんは、パワーストーンだとか……信じる方なんですか?」
「――…まさか。」
 さすがに鋭い。私がこういった物質に興味がないことなど、水夏にはお見通しね。
「美しいからよ。……その数珠も、クルスも、そしてマリアという理想像も。水夏に似合うと思ったの。」
「……ありがとうございます。」
 硬かった表情にようやく僅かな笑みを点らせ、水夏は小さく頭を下げた。
 礼には及ばない、と首を横に振った後、「着替えてきなさい」と奥の部屋を指し示す。
「闇村さん。」
 扉へと向かいかけてふと、水夏は私に向き直り、遠慮がちに口を開く。
「このジャージを脱がせれば、あの二人との接点は無くなる、と。……そう、お思いですか?」
 水夏はモニターに映し出される二人へと目を向けながら言い、私へと視線を戻す。
 その問いが何を意味しているのか。すぐに、理解した。
「その服は、戒めよ。」
 彼女の望む答えとは程遠いものだろう。
 水夏は少しの間沈黙した後で、「はい」と頷くものの、どこか不満げだった。
 それでいい。
 私を欺こうとするなんて、百年早いわ。
 ―――水夏。
 あなたの中に今も息づくその想い。自らの手で殺してごらんなさい。





「せーんぱいっ。」
 部屋に置かれた一組の机と椅子。いつもはノートパソコンが占拠してる机なんだけど、霜先輩はそのパソコンを横っちょに押しやって、ノートみたいなものを広げて何かを書き込んでいるみたいだった。
 あたし―――沙粧ゆき―――はお邪魔かなぁって思いながらも、先輩の後ろからぎゅーって抱きつく。
「うんー?」
 少しくすぐったそうに身を竦めながら、先輩は顔を向ける。その表情、水夏先輩がいなくなった直後より、ずっと明るくなったような気がしていた。それってもしかしてあたしの力かな、なんて思ったりして。今は、自惚れててもいいよねっ。
「何してるんです?」
 そう訊ねながら、机に広げられたノートを覗き見る。そのページは先輩の文字でなんだか乱雑としていた。
「んー…ちょっとした備忘録、かな。」
「びぼーろく?」
「考えてることを忘れないようにってね。備える、忘れる、録、で備忘録。まぁ単なる暇つぶしだけど。」
「へぇ…。」
 霜先輩がたまに微妙に難しい言葉とか、妙な知識とか持ってたりするのって水夏先輩の影響なのかな。
 そんなことを思いつつ、尚もノートを先輩の肩越しに覗き見る。
 食べたいお菓子、何はともあれチョコレート……だって。
 それから……
 ……え、っと?
「覗きはダーメ。」
 霜先輩はあたしの視線を阻止するようにパタンとノートを閉じた。
 ……。
 あたしの見間違いじゃなければ、水夏先輩のこと、幾つか書いてあったように見えた。
 水夏はどこにいるのか、とか。水夏は一体何を考えている……?うーん、ともかく、そういうこと。
 明るくなったように見えるけれど、やっぱり霜先輩は水夏先輩のこと、忘れてないんだ。
 当たり前だよね……あたしでさえ、ついつい水夏先輩のこと思い出しちゃうんだから。
「ねぇ、霜先輩。……先輩は今、幸せですか?」
 甘えるように後ろから先輩のほっぺに自分のほっぺくっつけながら、問い掛ける。
 先輩はあたしの頭を手探りでがしがしと撫でながら、
「何言ってるんだ?」
 と、受け流すような口調で言った。
「答えて下さいよ……。あたしはっ、幸せです!」
 どうしても聴きたかった。先輩の口から、あたしと先輩は恋人なんだっていう証拠。
 だけど先輩は困った様に沈黙して、ただがしがしとあたしの頭を撫で続ける。そんなに乱暴にしちゃ、結んでる髪、乱れちゃうのに。
「……ゆきは能天気だな。私はそう簡単には…」
「恋人と一緒にいるのに?」
「そういう問題じゃないだろ?」
「そういう問題です!恋人と一緒なのに幸せじゃないなんておかしいですよぉ…。」
 わかってる。わかってるんだよ、霜先輩があたしのこと、本気で好きじゃないってことぐらい。
 霜先輩は今もずっと、水夏先輩のことばっかり考えてるってこと。
 だけど、恋人になってくれたんだから、それなりの責任は果たしてもらわなきゃ、困る。
「ゆき、お前は……」
「はい……?」
 霜先輩は困ったような口調で切り出して、撫でる手を止め顔をこっちに向ける。
 じ、と見つめられる。
 あたしは何も言えず、じーーっと見つめ返した。
 しばらくの睨めっこの後で、先に折れたのは先輩の方だった。
 ふっと漏らすような笑みを浮かべて、その目を優しげな笑みに細める。
「そういうところが、ゆきのいいところなのかもしれないな。こっちまで元気になるよ。」
「ホントですか?」
 先輩が笑ってくれただけで、誉めてくれただけで嬉しくなっちゃう辺り、あたしって単純…とか思っちゃうけど、でもその単純なところもいいところって言ってくれたんだよね?
「でもな、……水夏の心配するの忘れたら、殴るからな。」
「……う、…はい。」
 あぁ、これだけが。霜先輩と食い違っちゃう気持ちなんだ。
 あたしは水夏先輩のこと忘れようとしてる。
 ううん、あたしの記憶はどうでもいいの。霜先輩の記憶から消し去りたいっ。
 なのに霜先輩はそうはさせてくれなくて。
 ……もうここには居ない人に嫉妬するなんて、なんかすっごく悔しい。
「あー…一個質問、してもいい?」
 霜先輩が不意に切り出したそんな言葉に、あたしはこくんと頷き返した。
 すると先輩はノートをぱらぱらと開いて、先程の雑然としたページの一箇所を指し示す。
 「もしも水夏が敵になったら」という文字。その先には三つに分岐した矢印があった。

 →応戦する。
 →逃げる。
 →抵抗しない。

「ゆきだったら、どれを選ぶ?」
 そんな問いかけ、声に抑揚はなくて。ただ、答えだけを求められる、まるで試験の問題のような感じ。
 あたしはその選択肢に、少し迷った。
 せめて説得するとかそういうのがあれば、まだ……。
 応戦はさすがに出来ないし…かと言って抵抗しないっていうのも…。
「あたしは…逃げる、だと思います。」
 消去法の結果だったけど、そう答えた。
 霜先輩は「そっか」と短く答えた後で、その選択肢を凝視する。
 なんだか邪魔しちゃいけないような気がして、あたしは先輩から離れ、横からノートを覗き込んでいた。
「抵抗しない、だな。」
「え?」
「……水夏…だから。」
 ぽつりと先輩が零した言葉。
 その意味は理解したくなかったけど、一瞬で理解できてしまった。
 水夏先輩になら殺されても構わない。それを遠回しに言っている、だけ。
「だめです!」
「……なんで?」
「あたしは、そうはさせない……そんなの許せない!!」
 激した感情で強く言った後で、霜先輩の表情が、酷く冷めたものだと気付く。
 あたしのことを冷笑しているようで。少しだけ、怖かった。
「……私は、お前が水夏に武器を向けたりしたら…許さないよ。」
「え?……先輩っ、そんな」
「許さない。」
 先輩はあたしと目を合わさない。
 低く重い言葉で、そう呟くだけ。
 ……これって、ヤバイ。
 霜先輩の中に、水夏先輩は怖いくらい、染み付いてる。
 ちょっとやそっとじゃ消えない。
 霜先輩は、水夏先輩のことがそんなに、……。
「第一、ゆきじゃ水夏には敵わないよ。あいつは天才だからな。」
「………。」
「無駄な抵抗はやめとけよ。……いいな?」
 そう言ってようやく、先輩は小さく笑みを向けてくれた。
 だけど、その笑顔が全然嬉しくない。
 いい加減にしてよ。
 水夏先輩。いい加減、霜先輩を放してよ。
 いっそ、水夏先輩なんて――― この世界から消えちゃえばいいんだ。





 こつん。こつん。こつん。
 闇村さんから、服と一緒に頂いたブーツ。靴底が床を踏む度に、硬い音を立てる。
 私―――宮野水夏―――は、黙々と廊下を歩いていた。
 エレベーターなど使わずに。階段を下り続けた。
 向かう先は5−A。私の自室だ。
 白いワンピース。彼女の言った通り、動き難さは感じない。けれど、スカートというものを履くこと自体が久々だった所為か、どうにも落ち着かずにいた。胸元で揺れるロザリオもまた然り。小さなペンダントくらいならばつけることもあったが、首元で数珠が揺れるというのはなかなかに慣れないものだ。
 だけど、闇村さんがくれたこのブラッドストーンは私に力をくれると、そう信じようと努めた。
 この服もロザリオも、全てが彼女の戒めならば、私はそれを甘受しなければならない。
 戒め、か。
 それは、私が彼女の想いに応えているように見せかけて、まだ胸の内に霜やゆきを住まわせていたことに対しての罰なのだろう。
 当然だ。あの二人をそう簡単に見放すわけにはいかない。私は、そんなに弱い人間じゃない。
 ―――そのはずだった。
 いつかは闇村さんのことだって、裏切ろうと思っていた。
 私が本当に心から想うのは、大切な友人達のことだけだ、と。
 そう思っていた、そのはず、なのに。
「……貴女は、なんて人だ。」
 ぽつりと呟いた声。闇村さんに届いているのだろうか。今頃、こうして複雑な心境で霜とゆきの元へ向かう私の姿を見つめては、楽しげな笑みを浮かべているのではないか。彼女は、そんな人だ。
 私とは。宮野水夏とは、一体、どんな人間だった?
 闇村さんに出逢ってしまった。そして、私は変わってしまった。
 佐久間葵。望月朔夜。穂村美咲。そしてまだ会ったことのない、望月朔夜の姉である、望月真昼。
 彼女達が、闇村さんのためにこの戦場へと身を落とした理由が、今ならば理解出来る。
 圧倒的な支配。絶対的な命令。
 彼女の言う「ペット」という言葉。それが全てを意味している。
 動物達のように、飼い主に抗うこともあるのだろうか。
 いや、しかし。抗えばどうなる?そうしたら私達は、死よりも恐ろしい場所へと誘われる。
 それは知能の高い人間故に理解出来る恐怖。ある意味動物よりペットらしい、服従を強いられる存在。
 私はなんて浅はかだったのだろう。この世には想像し得ない天才がいることを、身を持って知らされた。
 彼女こそが。闇村さんこそが真の支配者。――真の天才だ。
 私は、彼女には逆らえない。
 逆らうことが出来ない。





 ゆきは何故、私―――田所霜―――に想いを寄せるんだろう。
 水夏のことばかり考えていて、最初に気付くべきだった疑問に、今更になって気付く。
 ゆきは私と過ごしていると、なんだか楽しそうに見えて。それは、自惚れではないのだと思いたい。
 私を想っていてくれる。それは、嬉しい。嬉しいのだけれど。
 でも、ゆきはたまに、少しだけつまらなそうな顔をする。
 それはきっと、私が楽しそうじゃないからなんだろうな。
 ゆきを恋人にした。水夏が消えた穴を埋めて欲しかった。そんな自分勝手な理由。
 それなのに今も、満たされない。ゆきと一緒に居ても、空虚が先立ってしまう。
 私はやっぱり水夏のことが好きなんだと、痛いくらいに思い知らされた。
 ゆきには悪いことをしてしまったのだろうか。いや、今だって、ゆきを裏切り続けているのだろうか。
 健気なゆきに、本当に申し訳ない気持ちになる。
 それでも、ゆきは私の横で笑っていてくれる。
 どうしてこんな不甲斐ない私を、想い続けることが出来るんだろう。
 不思議で仕方ないけれど、もし今、ゆきを失ったらと考える。
 そうなったら私は、何もかも、失って。――生きる意味とか、そんなものすら、失うのだろうか。
 だけど、だけど水夏はまだ生きている。
 だから。……だから私は、きっと、水夏の命だけを生きる理由にして、そうして……
「霜先輩、なんて顔してるんですかぁ?」
「え?……あ?」
 突然掛けられた声に、私は慌てて顔を上げた。
 つまらなそうな顔をしたゆきの姿。ベッドに座り込む私を覗き込むように見ては、
「笑ってください。」
 そう言って、ゆきは笑顔を作る。
 もっと単純に、このゆきの笑顔だけを生きる理由にしたら、どうなるだろう。
 いや、それではだめなんだ。私はやっぱり、水夏のことが……
「んもぅ、霜先輩ってば。」
 ぐいっと両方の頬を摘まれて、強引に上に引っ張られる。
 そんな私の顔を見て、ゆきはまたにっこりと、嬉しそうな笑顔を見せた。
「いたひ…ッ…」
「心が痛いよりマシですよね?」
「…ぅぅ。」
 放された頬を両手でさすりながら、ゆきを見上げた。
 ゆきだって、水夏がいなくて辛いだろうに、私のために笑ってくれる。
 一時的かもしれないけれど、ゆきの笑みが連鎖する。それが、少しだけ嬉しい。
 ふっと零れた私の笑みを見て、
「かーあぃぃ。霜先輩、笑うと超かわいいんですよ。」
 と、ゆきも嬉しそうに笑みを深める。
「ゆきの方が百倍可愛いよ。」
「じゃあ水夏先輩は千倍だ?」
「な、何言ってるんだ。」
 返される言葉に思わず怯んでしまう私を前に、ゆきは悪戯っぽい笑みをクスクスと浮かべて、そっと私の肩に手を添えた。
「キスしてもいいです?」
 顔を近づけながら、甘えるような声で問い掛けられる。
 一瞬、水夏の顔が過ぎったけれど、ゆきの言う千倍可愛い笑顔ってやつは浮かばない。
 水夏はどっちかっていうと、真面目な顔をしている方が可愛いんだ……なんてことを思いながら頷く私は、やはり罰当たりだろうか。
 ちゅ、と少し照れくさくなるような音を立てて、額に落とされたキス。
 ゆきはこういう、女の子っぽいキスをする。
 水夏はどうなんだろう。……っていうか、水夏がそういうことをするっていう時点で想像出来ない。
「せんぱぁい?キスしてる時くらいは、あたしのことだけ見て?」
 釘を差すような口調で言われた言葉に、思わず小さく吹き出した。
 ゆきにはお見通し、か。
「ごめん。……ゆき、もっと、…満たして。」
「はい!」
 漠然と乞う言葉に、ゆきは満面の笑みで頷いて見せた。
 ゆきにそれが出来るのかどうか。でも、ゆきが何のためらいもなく頷けるのは、出来る自信があるからじゃなく、そのために精一杯の努力をする自信があるからなんだと思う。
 私だって、そんな願いを託したのだから、ゆきの努力に応えなくちゃいけないな。
「霜先輩には、あたしがずっとついてます。ずーっと。」
 優しい囁きの後、重なった唇。
 何度か触れては少しだけ離れ、それでも互いに数センチ以上の距離は空けないとでも言うように、長い時間、求め合った。このキスもやっぱり、私にとっては穴埋めなのだろうか。
 水夏と、キス?そんなこと考えたこともない、けれど、……
 いや。考えてはいけないんだ。
 今はゆきだけを。目の前の女の子のことだけを、考えていよう。
「せんぱぁい…だいすきッ…」
 甘い囁きも、私の頭を緩く抱いた指先も、何もかも。
 私は、この子に――……

 コンコンッ。

 突如、聞こえた音にビクッと身体が跳ねた。
 素で驚いた。そしてその音がノックの音だと気付くまで、少し時間が掛かる。
 ゆきと顔を見合わせた後、先に扉へと向かったのは私だった。

 コンコンッ。

 再度のノックが聞こえたと同時に私はノアドブに手を掛ける。
 少し不安だったけれど、そっとドアノブを回……そうとした。
 しかし、それは自動的に回された。いや、ドアの向こうにいる人物が回したんだ。
 そんなことが出来る人物なんて一人しかいない、と、この短い時間に考える余裕などない。
 静かに引かれた扉の向こう。
 ―――そこに居た人物に、私は言葉を失った。
「よっ。」
「よっ。…じゃないだろ!」
 ほぼ反射的につっこんだ後で、喉の奥で言葉が引っかかり、少しの沈黙。
 そして、私はようやく言葉を発した。
「水夏……!」
 おかえり、とか、無事で何よりとか。他に言うべき言葉は沢山あるはずなのに。
 ただ、名前を呼ぶことしか出来ない。それしか見つからない。
 水夏だ。
 今、私の目の前に居るのは、間違いなく水夏なんだ。
「水、夏……」
 思わず涙腺が緩みそうになるのをぐっと堪え、私は笑んだ。
 そう、水夏が戻って来た時には、必ず笑顔で迎えようと――
「霜。……悪い、感動の再会ってやつは出来ないんだ。……ゆきに用事があって来ただけだから。」
「……え?」
 一人で感激していた私を、まるで……あしらうように。
 水夏はぽつりと言って、奥にいるゆきへと目を向けた。
 今頃になって気付く。水夏の表情が今までのものと違っていることに。それは酷く無表情で、どこか冷たい。
 服装だって私達のユニフォームであるはずのジャージではなく、白いワンピースという水夏とは思えないような格好だった。 
「水夏先輩……」
 呟くような声で呼ばれた水夏の名に、私は振り向く。
 ゆきの表情が、どこか強張っているように見えるのは、何故だ。
 どうしてゆきは、水夏の帰りを喜ばない?
「な、なんで二人とも、こんな重い空気なんだよ。水夏、もう戻って来れるんだろ?」
 妙に明るくなってしまう声で二人に問い掛ける。なのにゆきは、私へと目を向けては困ったように弱い笑みを向けるだけで。水夏は、無表情に私を見つめ、緩く首を横に振った。
「戻れないよ。言ったろ?ゆきに用事があるだけなんだ、って。」
「なんで?!」
「霜は少し黙ってろ。」
 水夏の冷たい態度に、私は言葉を失う。
 折角、こうして会えたのに。無事に再会できたのに。
 それなのに、どうして、水夏はこんなにも冷たい?
「霜先輩、ちょっと失礼しますね。……水夏先輩には、あたしも、二人っきりでお話したいことがあるんです。」
 小柄なゆきが私のそばを通り抜けていく。
 なんで?ゆきまでどうして、そんなに冷静なんだ?
 何がどうなっている…?!
「ちょっと待ッ」
「先輩は待ってて下さい!」
 突然ゆきが振り向いたかと思うと、素早く伸びた手が私を突き飛ばしていた。
 ドンッ、と思い切り両手で押されて否応なくフロアに尻餅を付く。一瞬の眩暈に襲われながらも慌てて顔を上げた時、パタン、とドアは閉じた。
 ………信じられない。
「水夏ッッ!」
 立ち上がり、ドアへと駆け寄った。
 ドアノブは回るのに、いくら押しても動かない。向こうで誰かが押えているのだろうか。
 どうして。
 どうして私は仲間外れなんだよ。
 どうして水夏と話せないんだよ。
 私はただ、水夏に会いたいだけ、なのに…
「水夏ぁッ…」
 呼びかけても、呼びかけても、反応は無い。
 扉の向こうの声はほんの少ししか聞こえず、くぐもっていて言葉など聞き取れない。
 ドンッ、と扉を叩く。
 悔しさと、焦燥が混じって。
 ドンッ。
 ドンッ。
 何度も何度も叩いた。何度も殴った。手が痛くなる。
 それでも尚開かない扉を、殴り続けた。
 ドンッ
 ドンッ

「裏切り者!」

 ドッ――
 ……え…?
 扉の向こうから聞こえたのは、ゆきの声。
 ゆきの。ゆきの叫びにも似た声。
 何を言っているのかわからなくて、聞き取ろうとするように、手が止まった。
 何を言っているのか。
 わからなかった。
 いや、何を言っているのか
 わかりたくなかった。
 でもゆきは繰り返す。叫びを。

「裏切り者!水夏先輩なんか、大ッ嫌い!!」

 どう、して。
 どうしてだよ。ゆき。
 なんで水夏が裏切り者なんだ。
 水夏は裏切ったりなんか。するわけがないだろ。
 何言ってるんだよ…!

「ッ…!うらぎりもの…裏切り者!水夏先輩なんか、死んじゃえ!!」

 なんてことを――!!

 ドンッ。
 ドンッ!
 ドンッ!!
 手が痛くなることなんか構わずに、扉を叩き続けた。
 目一杯、力ずくで。
 息が切れてきても尚、目一杯の力で、押し続けた。

 ガチャッ――

 突然、ドアは開け放たれ、勢いのついていた私は慌ててドアに掴まった。
 見れば、廊下の向こうの壁まで飛ばされうずくまったゆきの姿。
 扉を押えていたのはゆきで、そして――
 私の探していた人物は、既にこの部屋の扉から十メートルほど離れた所に居た。
 私達に背を向け、歩いていく。
 どうして。どうしてだよ。私に何の断りもなしなんて、酷いじゃないか。
「水夏!!」
 背中に向けて呼びかければ、水夏はふっと足を止め、振り向いた。
 その表情に、悲しげな笑みを湛えて。
「―――お前も、殺されたいのか?」
 よく通る声で、突き放すように告げられた言葉。
 一瞬、耳を疑った。
 ドクン、ドクン、と、胸がざわめいていく。
 ただ、水夏の表情はどこまでも冷徹で。
 まるで時間が止まったように―――、動けずにいた。





 水夏先輩が、今更になって姿を現すだなんて。本当に突然で驚いた。
 けれどあたし―――沙粧ゆき―――は、良いチャンスなのかもしれない、とも、思っていた。
 水夏先輩はあたしたちの仲間として戻って来たのではなく、ただあたしに用事がある、と。
 つまりその時点で。今の水夏先輩の態度で、既に。わかることが少しだけある。
 彼女は既に、酷いことをしすぎてる。……ということ。
 水夏先輩には、責められる理由がある。それならあたしは、嫌っていうぐらいに責めてやる。
 意図だって見せてもらわなきゃ。いきなり消えられると、どういう感情を持って別行動に移したのかもわからない。ともすれば、あたしたちは水夏先輩をどんな気持ちで待っていればいいのかもわからない。
 聞かせてもらわなくちゃ。そして、その答えによっては―――霜先輩から水夏先輩を消せるかもしれない。
 霜先輩を部屋に置き去りにして、水夏先輩と二人で廊下に出た。
 あたしは扉を押さえつける。すぐに、ドンッと後ろから押される感覚。
 霜先輩の声がする。何度も、何度も、水夏先輩の名を呼んでいた。
「水夏先輩、あたしに用事って何ですか。」
 ドンッと叩かれる度に背中に響く嫌な感じも、今だけは耳障りな霜先輩の声も、全部感じない振りをして、聞こえない振りをして、あたしは水夏先輩に問い掛ける。
 水夏先輩はあたしの苦労なんか気付かないような素振りで、胸元の十字架に軽く触れたりなんかしながら、切り出す言葉を考えているようだった。口許に薄く浮かんだ強がりな笑みが、無性に、苛立たしい。
 ドンッ。ドンッ。
 重ねて、後ろから感じる重圧とで、なんだか押しつぶされそうだった。
 あたしはきゅっと眉を寄せる。ほぼ同時に、胸の中で渦巻いていた思いが、零れ落ちた。
「今更、何しに来たんですか。……もう、水夏先輩の寝るところなんかないんですけど。」
 坦々とした言葉。
 感情的になったら負ける。
 水夏先輩と目を合わせられない。
「……そうか。」
 小さく返される相槌もまた、あたしを苛立たせる要因になる。
 あぁもう。この人のせいであたしがどんな思いをしたか。
 霜先輩が、どんな思いで待ってたか。
 あたしと霜先輩と、二人っきりの空気。
 どんなに辛かったか。
 だって、だって霜先輩はずっと、そこに水夏先輩の存在を望んでた。
 あたしって何?あたしって一体何なの?
 あたしは、 ……あたしは霜先輩の恋人なのに。
「帰って下さい。霜先輩はあたしのもの。帰って。お願いだから帰って下さい!これ以上あたしたちのッ…」
 顔を上げ、水夏先輩に怒鳴りつけるような口調で言い掛けて。彼女と目が合った時、ふっと我に返る。
 水夏先輩は表情なくあたしを見つめたままで。そんな冷たい水夏先輩が、――悲しかった。
「もうあたしたちの邪魔、しないで……。」
 涙を堪えて唇を噛んだ時、ドンッ、と。背中に感じる圧力。
 霜先輩の声。どうして呼ぶの。あたしの名前じゃなくて、水夏先輩のことばっかり。
 もういや。もういやだよ。
 堪えきれず、耳を塞いだ。
 ぎゅっと目を閉じて、少しの間。
 不意に、耳を塞いだ手に、水夏先輩の手が重なった。
 見上げると、眼鏡越しにあたしを見つめる先輩の眼差し――あぁ、少しだけ、優しく見える。
「ゆき、心配するな。私は霜を奪いに来たわけじゃない。」
 じゃあ、何?と。優しげな口調で告げる先輩に問い掛けるように、見つめた。
 視線が重なったまま数秒の間を持って、
 水夏先輩は唇を、動かした。
 その声は少し遅れて、聞こえたような気が、した。
「お前を殺しに来たんだよ。ゆき。」

 一瞬、世界が止まった。
 今。
 今、なんて 言った?
 水夏先輩、今、なんて?
 喉がカラカラだった。
 声が張り付く。
 それでも、言葉が溢れるように
 呟いていた。呟きは次第に、叫びへと。

「……ら、ぎり、もの。……うらぎりものっ。……裏切り者!裏切り者!!!」
 水夏先輩はその優しげな笑みを深める。次第に彼女の笑みは、優しさが掻き消え、どこか冷たい薄笑みへと変わっていった。酷い。酷いッ。酷いよ!
「…裏切り者っ!!どうして、どうしてそんなことになるの?なんであたしも霜先輩も、裏切られなきゃいけないの!?霜先輩がどんな想いして待ってたか!あたしがどんなに嫉妬したか!それなのに」
「そうだ。憎むといい。――ゆき、もう一回言ってくれ。裏切り者、ってさ。」
「うぁあっ……裏切り者!水夏先輩なんか、大ッ嫌い!!」
 何度繰り返しても 何度怒鳴っても 叫んでも
 まだ足りない。
 この声が出なくなるまで 叫び続けたい。
「ッ…!うらぎりもの…裏切り者!水夏先輩なんか、死んじゃえ!!」
 ドンッ。
 ドンッ!
 ドンッ!!
 背中から押される圧力はどんどん強くなる。
 ドン!
 ドンッ!
 ドンッ!!
「――……私の中のゆきは死んだよ。」
 ドンッ
 ドンッ!!
 ドンッ!!!
「じゃあな、ゆき。」
 もう
 わけがわからなかった。
 ただ あたしの中を支配する感情
『裏切り者。』
『裏切り者。』
『裏切り者。』
『裏切り者。』
『裏切り者。』
 ドンッ と、背中から押される
 もう限界、
 ――ドンッ。





 ゆきに背を向け、歩き出す。
 これで、ゆきは死んだ。
 明るく元気な笑顔を私―――宮野水夏―――に見せてくれることなど、二度とないのだろう。
 そして私もまた、ゆきの中で、死んだ。
 ゆきにとって、私は単なる裏切り者だ。
 もう、宮野水夏という人間に期待などしないだろう。
 そう。これでいい。
 これでいいんだ。
「水夏!!」
 不意に、背後から、聞こえた声。
 振り向くつもりなんか微塵もなかったのに。
 身体が勝手に、振り向いていた。
 扉を押えていたゆきは力負けしたらしく、廊下の片隅でうずくまっている。
 そして、私の姿を真っ直ぐに見据えているのは、霜。

 冷え切った私の心。
 何も動かない。
 霜の声も。
 その悲しげな表情も。
 何もかも。
 あぁ、
 ―――死んでいく。

「お前も、殺されたいのか?」
 そう言い放つと、霜は凍てついたように、動きを止めた。
 驚愕に歪んだ顔を私に向ける。
 霜とは相反して、私はさぞかし冷たい顔をしていることだろう。
 あぁ。
 こんな顔しか出来ないんだ。
 殺さないと。
 殺さないと。
 霜を私の中から殺さないと。
 霜の中の私を、殺さないと。
「悪いんだけど、私さ」
 軽く髪をかきあげながら、言葉を切り出す。
 霜は真っ直ぐに私を見つめたまま、その瞳を揺らす。
「私さ、お前らのこと守ってられる余裕ないんだよ。」
「……」
「正直言ってお前らウザいんだ。仲間意識とかそういうの、捨てないとここでは生き残れないんだよ。わかるだろ?誰だって、自分の命が一番大切なんだよ。」
「……」
「生き残りたいなら、自分で頑張れよ。一緒に生き残れたら、またミス研で一緒に遊んでやるからさ?……って言っても、一緒に生き残ることなんてできないんだろうけどな。」
「……」
「まぁ、ゆきと仲良くな。共倒れしないように、ね。」
 冷たい言葉は、業務的な感覚で、何の躊躇いもなく紡がれていく。
 これだけ言えば、十分だろう。
 さぁ。早く私を突き放せ。
 黙ってないで、私に失望したって、そんな感情を態度で示せ。
 早く、私の中の霜を、殺――
「水夏。……私は、お前のことが好きなんだよ。」

 ――え?
 なんで、お前
 死なない?

 霜。
 何、言ってるんだ。
 ゆきみたいに 裏切り者って
 私のこと 私のことを      お前の中で殺してしまえ。

「水夏のこと好きだから。だから、私は、……水夏がどんなに悪人になろうと、構わない。」
「…霜。」
「まぁ、水夏って元々悪人だし。自己中で、自信過剰。――でも、そういうとこも、好きだよ。」
「……黙れッ…」

 なんでそんなに
 なんで
 なんで、お前は
 私のこと、好きでいてくれるのか わからない、よ

 限界、だ、と
 気付いて。
 慌てて霜に背を向けた。
 一瞬、何も考えられなくなる。

「――霜のことが、好きだった。」

 過去形に出来たのは、僅かな理性か。
 今これを見ているのであろう、闇村さんの視線を感じてのことか。
 でもそれが精一杯で。

「水夏」

「じゃあな… 次会う時は ホントに殺すから」

 駆け出した。
 もう。
 もう、
 これ以上霜の声を聞いていると

 壊れそうだよ。





「ゆき、離せッ!離せ!!」
「いやです!絶対離さない!!」
 遠ざかる水夏の背中。
 追いかけようとしても、背中から羽交い絞めにされて動けない。
 どうしてゆきは水夏を見捨てるんだ。
 どうして!
 どうして水夏は遠ざかるんだ!!
「水夏!水夏ぁぁぁッッ!!」
 私―――田所霜―――の声は、廊下に空しく響き渡る。
 水夏は、何の反応も示さずに遠ざかって、そして、消えた。
「離せ!」
 今追いかければ間に合う。間に合うのに。
「ゆき!殺すぞお前ッ」
「霜先輩になら殺されていいですもんっ…」
「うるさい!離せ!!」
 声が枯れそうなほどの大声で叫ぶ。
 水夏の名前。
 何度も、何度も繰り返した。
 それなのに水夏の姿は二度と見えなくて、ゆきは力を緩めない。
 どうして、 どうして、だ?
「霜先輩のバカッ…なんでそんなに水夏先輩のこと好きなんですかっ…なんでそんなに、なんで!?」
「うるさい!どうしてゆきは水夏を見捨てるんだ!?なんで水夏を引き止めないんだ!」
「霜先輩が好きだからですよ!!バカぁっ」
「じゃあ……なんで水夏は、…なんで水夏は、遠ざかるんだよ…」
 どさ、と身体の力が抜けて、膝が床に落ちる。
 響く痛みが下から上へと伝って、頭痛がした。
「水夏先輩は裏切り者…裏切り者だもん…。あたしだけが霜先輩の味方なのっ…霜先輩を守れるのも、ずっと一緒にいれるのも、ぜんぶ、ぜんぶあたしだけなんだからッ…ずっと、ずっとなの…先輩のことが大好きなの…ずっと…」
 狂ったようにゆきは呟き続ける。
 水夏がそんなに憎いのか。
 どうしてゆきは、私を好きなんだ。
 私を好きなゆきが、私の邪魔をする。
 なんで、だ?
「私がゆきのこと嫌いって言ったら、どうするんだ?」
「……!」
 絡み付くように私を羽交い絞めにする手が、ふっと、解けた。
 そして、ぎゅっと抱きつくように。――それは、羽交い絞めにされるよりも、不快なものだった。
「あたしのこと嫌いになっちゃやだ…先輩、あたし、あたしは先輩のことが大好きなのぉ…大好きだから…」
「大好きなら…追いかけさせて、くれても、いいだろ……私はッ…」
「言わないで…」
「私は……」
「言わないで…!」
 何を言うかわかってるなら 止めるなよ。
 バカだな。あぁもう、どうして私の周りはバカばっかりなんだ。
「私は水夏が」
 でも、そんなバカを好きになる私も、バカなんだな。
「――…水夏が、好きだった。」
「……」
「好きだったんだよ……ずっと。…でももう、あいつは…」
「……水夏先輩は、」

 「死んだ。」

 声を合わせて呟いて、
 ――全てが終わったような気がした。
 死んだ、か。
 いっそそうなってしまえば 楽なのに、ね。
 水夏。今でも大好きだよ。
 私はずっと、ずっと待ってるから。
 その時までに、――殺される覚悟、決めとくよ。





「………。」
 泣きじゃくる少女は、白いワンピースに身を包み、胸元にロザリオを揺らす。 
 幼子のように声を上げて、私―――闇村真里―――の胸元に顔を埋めた。
 この子にとって私は、唯一の希望。
 この子は私のために、全てを捨てようとした。
 けれど。出来なかった。
 それがこの子の弱さなのか。
 それとも、想い合う少女との結束が強すぎたのか。
 ―――前者だ。
 私のために全てを捨てるのは当然のこと。
 美咲も、朔夜も、真昼も、葵も、全てを捨てて私の元へ傅いた。
 だというのに、この子は――水夏は、過去の因縁を断ち切ることが出来なかった。
「水夏。顔を上げなさい。」
 彼女の肩に手を添えて、そっと身体を引き離す。
 今も尚赤く充血した瞳で、水夏はおずおずと私を見上げた。
 眼鏡を掛けていないというだけの差なのに、普段の水夏とは見紛うばかりに、儚く見える。
 こんなにも印象が違うものか。否、眼鏡だけではなく、今の雰囲気もまたその理由であろう。
 私は水夏へと厳しい眼差しを向け、しばし、威圧した。
 水夏が怯えを見せ始めた頃、その頬へと軽く手を宛がい、そして、強く打った。
 パンッ、と乾いた音が室内に響く。
 水夏は顔を横に背けたまま、打たれた頬に手を当てて沈黙した。
 沈痛な空気に満ちた管理人室。一時、静寂に支配される。
「私は、あの二人を殺せと命令したわけではないわ。その選択権を貴女に与えた。」
「……。」
「けれど、殺そうと決意して赴いたのならば、それ以上は殺して見せなさい。」
「……ごめんなさい。」
「殺す気があるの?ないの?偽りの感情で私に仕えるということが、どんなに罪なことかわかっているの?」
「……。」
 水夏は返す言葉もなく、俯いたまま僅かに肩を震わせる。
 彼女の困惑もわからないではない。
 しかしこれは、ちゃんと結論を出さねばならないことなのだと、理解させる必要があった。
「どう、すれば……」
 ぽつりと零れる弱い言葉。
 水夏は静かに視線を上げ、涙をいっぱい溜めた瞳で私を見つめる。
「どうすればいいんですか…私には、わか、らないっ……」
「それは私が決めることじゃないわ。水夏、貴女が決めなくてどうするの?」
「だって…!」
 それは無意識にか。
 水夏の手が、彼女の胸元のロザリオを掴む。
 ぐっと握り締めたままで、僅かにその手を震わせた。
「そのロザリオを引き千切ってごらんなさい。」
「え……?」
「私のあげたロザリオを、壊すことが出来る?」
 静かに告げると、水夏は戸惑うように視線を逸らす。
 ロザリオを握り締めたまま、暫しの沈黙。
 ふっと小さく笑み、私は水夏に背を向けた。
「しっかり考えなさい。答えは案外、簡単なものよ。」
 それだけ言い残して、私はモニター前の椅子に腰掛ける。
 横目に水夏を見遣れば、今も尚ロザリオに手を当てたまま立ち尽くしていた。
 貴女が答えを出すまで、何時間でも待ってあげる。
 私は頬杖をついて、時の経過を待っていた。

「呆気ないものなんですね。」
 水夏がぽつりと零したのは、私が椅子に腰を下ろしてから、数十回の呼吸を重ねた頃。
 さすがに頭が良い。
 笑みを湛えて、彼女へと目を向けた時だった。
 カツン、カツンと硬い音が幾つも響き、数珠はフロアへと散っていく。
 ひゅっ、と空気を切って投げつけられた物質を受け取った。聖母マリアを象ったセンターメダイ。
「貴女は聖母じゃないんだ。」
「そう。ただの人間なのよ。」
「……知らなかった。」
 喉の奥で笑みを漏らして、水夏は私を見つめる。
 裸眼の目に、私はどんな風に映っているのかしら。
 きっとそれは今までと違う。
 ただそこには、ぼやけた人間の輪郭があるだけ。
「もう少し時間をあげる。この休憩期間が終わるまでに、ゆっくり考えるといいわ。」
 そう告げて一つ笑みを向け、私は水夏から視線を外す。
「……はい。」
 頷いて、私の後ろを通り抜け、奥の部屋へと向かおうとする水夏の気配。
「私につくと決めたのならば、その時に」
 目を向けるでもなく、一つ言葉を付け加える。
 もしも水夏が私の前から去ることを選んだとしたら、
 それはそれで、面白いことになる。
 私を振り切って、自分の人生を再び歩めるようになったのは、――美雨しかいないんだもの。
 さぁ、水夏。しっかり考えなさい。
 そして貴女の力、どれほどなのか見せ付けてご覧なさい。
「…その時に?」
 返す問い。
 貴女に言葉を向けるのは、これでしばらく止めにするわ。
 さぁ、強くなりなさい。
「―――その時には、また貴女を抱いてあげる。」








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