BATTLE ROYALE 22『前略、闇村様へ。 管理人様とお呼びした方が宜しいのでしょうか。参加者の穂村です。 お変わりはありませんか。数日間会っていないだけというのに、闇村さんのことが気になって仕方がありません。外は急激に寒くなってくる季節、どうかお風邪など召されませんよう。 私は今、夕場さんと共に日々を過ごしています。経緯はご存知かと察しますが、私自身、今何故彼女と共に過ごしているのか理解出来ぬ部分もあり、少しの戸惑いを感じます。私が下した決断なのに、このようなことを言ってはおかしいでしょうか。 彼女は少なからず、私に好意を抱いているのだと思います。私もまた、彼女のことが嫌いなわけではありません。けれど私の中で優先すべきは好き嫌いの感情などではなく、彼女を敵と見做し、最終的に殺めることが出来るかどうか。そうですよね。 このようなメールを送る理由は、言ってしまえば弁解がしたかったのです。私は彼女を味方につけようと思っているわけではありません。私は、常に貴女のためだけに存在します。 貴女だけを愛しているのだと。真っ直ぐに、伝えたいのです。信じていただけますか?』 言葉が、感情的になっていった。 キーボードを叩いてメールを綴っていくうちに、礼儀が欠け、想いだけが無性に溢れる。 これでは不躾すぎると気付いたのは、メールを送信した後のこと。謝罪のメールを追送しようかとも考えたけれど、それもまた無様だと思った。ふっと、思わずして溜息が零れる。 「美咲ー?あのさー」 不意にシャワールームから聞こえたその声に、はっと我に返り顔を上げた。律子は先ほどシャワールームに入ったばかり。出てくるには早すぎる。そんな私―――穂村美咲―――の狼狽など気づくはずも無く、律子は言葉を続けた。 「剃刀とかないのかなぁ。」 と。思わず眉を寄せ、「剃刀?」と小さく聴き返す。その声は律子には届いていないのだろうけど。 「――って、眉剃るのよ?勘違いしないでね?」 少し慌てたような声色で付け加えられた言葉を聞いて、安堵する。 手首にでも宛てられたら、私はその瞬間に彼女を突き放すところだ。 「洗面室の棚があるでしょう?一番上の段にあるはずよ。」 「あ、届かなーい!」 即答、とも言える早さで返って来たその声に、思わず小さく溜息が零れる。 私は席を立ち、洗面室へと向かった。一枚のドアを開けると、水の匂いがする狭い室内。磨り硝子扉の向こう側に、ぼんやりと曇った律子のシルエットが見える。 「今使うの?」 律子の身長でも頑張れば届くはずなのに、と思いながらも彼女がリクエストした剃刀を手に取り、 「んっ……あ、いや、そこに置いといてくれれば。」 という答えを聞けば、洗面台のそばに置いておいた。 彼女の返答に一寸の躊躇いが見えたのは、手首の傷を見せないようにとの考慮だろうか。 それとも単純に、浴室内の鏡は曇ってしまうから、洗面台の鏡に向かって使おうと思ったのだろうか。 どちらであれ、傷を目にせずにいられることは私にとっては幸いだ。 「美咲、ありがとー。」 「……どういたしまして。」 律子の気さくな声。シャワーの水音に混じって聞こえてくる鼻歌。少しだけそれを耳にした後で、私は洗面室を後にした。湿度の低い空気、吸い込んでは、ふっと吐き出す。 何故、彼女のような人が、自傷などという行為に走るのか。 不思議といえば、不思議だけれど。でも私はそれを理解する必要もないことだと思う。 ――否、理解してはならない。私は彼女の味方なんかじゃ…ないのだから。 いつか来る裏切りの時のために。そう、決して情が移るようなことは、あってはならない。 開いたままのパソコンのそばに戻った時、画面の隅にメッセージが表示されていることに気付いた。 『新着メールが一通あります。』 その表示を目にした時、少し急いでパソコンの前に座りなおす。 事は急を要す。律子が浴室から出る前に。――まさかそのことを考慮してすぐに返信をくれた? そんなことを思いながら、表示された文字をクリックした。 『穂村さんへ /11/13 00:04』 太字で表示された、タイトルと受信日時。その文字にふと時計を見上げれば、長針は一つ目の目盛りを指す。つい先ほど届いたばかりのメールだった。 一つ息を吐いて、静かにメールをクリックする。 開かれたメールの内容は、簡潔なものだった。 「気持ちはありがたく受け取ります。 でもね、美咲。 自分の心に正直になりなさい。 参加者に好意を抱いてはいけないだなんて、私は一言も言っていないの。 健闘を期待しています。」 ………それは、私の決意を揺るがせる、言葉。 私は。私は闇村さんにだけ尽くすことが、当然のこと、なのに。 そのはずなのに。それなのに、何故ッ、彼女は……。 それが、彼女の、望むことなの? だとしたらなんて、―――残酷な。 あぁそれでも私は、闇村さん以外の人間に心を許すことなんて、出来ない。してはいけない。 そんな、醜い、こと。 闇村さんから届いた短い返信は、私にショックを与えすぎた。 どのくらいぼんやりしていたのだろう。不意に、扉の開く音に我に返った。 「いいお湯でしたー。ね、美咲、見て見て。眉、綺麗になってるでしょ?」 いつもの調子で洗面室から出てきた律子の姿に、慌ててメールを削除した。 あぁ、いけない、送信したメールも、ちゃんと。 「何してんの?」 そんな私の様子を訝しげに見つめ、こちらへと歩み寄る律子。彼女の髪が揺れシャンプーの香りが届くほどの距離に来た時、私はようやく彼女に笑みを向けることが出来た。 「今までのメールを確認していたの。…あぁ、それにほら、今日は零時のメール、来ていないことも確認して」 「なるほど。そっかぁ、休暇だもんね。いやー気が楽でいいわ、これ。」 相変わらずに緊張感のない口調で言い、律子はその場で伸びをする。 心地良さそうな様子、どこか微笑ましく思いながら見上げ、それと同時に複雑な想いが交差した。 自分の心に正直になりなさい。そんな言葉が、頭の中をループする。 違う。私は、闇村さんだけを愛することが想いのままの行動であり、律子のことなんて、どうでもいい。 そのはずなのに、何故か。 彼女と居ると安心する。温かい気持ちになる。 そんな感覚が、怖い。 「美咲さ、もっとこう、ふにゃっとした方がいいよ。」 「え?」 いつしか伏せていた視線、律子に掛けられた唐突な言葉に、再び彼女へと向けた。 すると律子は歯を見せて笑んだ後、私に向けて手を伸ばす。 「どぉもこう……美咲って表情が硬いのよね。もっと笑って。」 指先は私の頬に触れ、くっと筋肉を持ち上げるようにして、強引に私の唇の端を上げた。 「……元々そういう顔なのよ。」 そんな言葉を返すと共に、ふっと自然に笑みが漏れた。 律子はクスクスと楽しげに笑みながら、「それそれ」と私を見つめる。 そっと律子の手を振り払いながら顔を背け、漏れる笑みを隠すようにした。 「笑うとそこそこ可愛いんだってば。」 律子は私から離れ歩みながら言って、どさり、と大胆にベッドに身を投げ出した。 「そこそこ?」 問い返すと、ベッドに身を横たえたまま顔だけをこちらに向けて、律子は尚も楽しげな笑みを浮かべる。 「そこそこじゃいや?チョォー可愛いとか言って欲しい?」 「べ、別に……。」 素っ気無く返す私の言葉にも、律子はまた笑みを返す。 どうして彼女はそんなにも沢山笑っていられるのだろうと思うくらいに、笑みを絶やさぬ律子。 だけど私は、彼女の弱みを知っていた。 『お願いだから、もう、あたしのそばから離れないで。』 孤独に弱い人。あぁ、だから今、彼女は笑っているのだろうか。 私が、そばにいるから? 「美咲ちゃぁん。マッサージしてくんない?」 「……したこと、ないんだけど。」 「うっそー?じゃあテキトーでいいからっ。年取ると肩こって大変なのよぉぉー。」 大袈裟にきゅっと眉を寄せ、お願いッ、と唇を突き出して言う様がなんだか可笑しくて。 私は彼女のそばへと歩み寄り、ベッドに腰掛けながら 「まだ二十八のくせに。」 と、慣れない悪態をつく。 服越しに律子の肩に触れ、軽く力を込めてみた。あくまでも“テキトー”に、ではあるが。 「五歳違うと世界変わるのよー?あ、身体もね。もうガタガタ。……そう、そこそこ、いや、もうちょっと下!」 「二十八歳の世界なんて、想像出来ないわ。でも確かに、十八の頃とは全然違う。……ここ?」 「ご、五年前が十八ッ?ありえない……。ンッ、そうそう、そこ!あーイイ……。」 またも大袈裟に驚愕の表情で振り向いては、ふっと気の抜けたような顔をする。律子を見ていると飽きなくて、この人はなんて魅力的な女性なのかと、そんなことを思った。 そばにいてこんなにも温かくなれるのに、どうして彼女のそばには誰もいないのだろう。 どうして、私なんかを選んでしまったのだろう。 「ねぇ、律子。」 「んー?なぁにー?」 蕩けたような声を返しながら、私の拙いマッサージに心地良さそうにしてくれる。 彼女の背中を上から下へと親指で押しながら、少しの沈黙の後、問い掛けた。 「もしも私が裏切ったら、どうする?」 こんなにストレートな問いは、彼女に疑心を芽生えさせてしまうかもしれない、そんなリスクも隣り合わせだった。けれど訊かずにはいられなかった。もしも私が―― 否、もしもではなく実際にそうなる時が来る。その時律子は一体、どうするつもり、なのか。 「裏切らないよ。」 と、律子はいつもと同じ口調で言って、少し私へ顔を向け、笑んで見せた。 「美咲は裏切らない。ずっとそばにいてくれる。」 「……律子、」 「裏切らないでっ…?」 私が何かを言い掛けた、その前に、言葉に被せるように律子は続ける。 今度の言葉は、少しだけ、切なげに。 私は一体何を言おうとしたのか。律子の言葉を聞いた瞬間、忘れてしまった。 真っ直ぐに私を見つめる瞳。切なげなそれをふっと笑みに細め、律子は私から視線を外す。 うつ伏せにベッドに顔を埋めて、そんな様子が少しだけ、怯えているようにも見えた。 「……裏切らない。」 私は答える。 短く、けれど確かな口調で。 マッサージは続いていた。硬い筋肉をほぐすように押し込んで、彼女が少しでも楽になればと、そんなことを考えて。少しの沈黙の後、不意に律子はうつ伏せのままで笑みを漏らす。 「美咲、マッサージ上手いじゃない。最高に気持ちいいんだけど。」 「本当?良かった。」 「ふふー、美咲はあたし専属の揉み師ね!」 「……揉み師。」 いつも通りの言葉。いつも通りの律子の笑み。いつも通りの私の苦笑。 全ては自然であり、不自然。 私の答えた言葉は、律子に安心を与えたのだろうか。 律子はそれが偽りだと気付かないだろうか。 本当は、本当はあれは、ただ油断させるために、紡いだ言葉であって――…… 「ねぇ、律子。」 「んー」 「……律子は、私を裏切らない?」 ふっと零れた疑問。どうして、私はこんな問いを掛ける? 何もかもがわからない。一体、何が本当なのか、嘘なのか。 何を信じればいいのか。何を貫けばいいのか。 そんな狼狽を、顔には出さずに彼女を見つめた。 私の思いなど気にすることもなく、律子は小さく笑みを浮かべて。 「何言ってんだか。」 律子は、やれやれといった様子で言いながら上半身を起こし、私と向き直る体勢になった。 ベッドに正座をし、嬉しそうに笑みを深める。 まるで改まるように、コホンと咳払いまで一つ。そんな彼女の様子が、可笑しくて少し笑った。 「前に、あたしが寝てる時……ね。」 言いながら、律子は私に顔を寄せる。何をする気なのかと身構えていれば、彼女の両手が私の肩にかかり、濡れた毛先が首筋に触れた。 一つの呼吸を肌に感じた後、不意に頬に触れた柔らかな感触。 「―――美咲がほっぺチューしてくれた。…あれは夢?…ま、どっちでもいいんだけど」 そして身体を離すと、律子は少しだけ照れくさそうにはにかんで。 どさり、とベッドに身体を横たえ、毛布をぎゅっと抱きこみながら、言った。 「……すっごい、嬉しかったのよ。」 「…え……?」 「二回も言わせない!おやしゅみっ。」 慌しく毛布にもぐりこむ律子。ベッドの上に小さな山が出来て少し経った頃、ちらり、と顔を覗かせては、楽しげに笑みを浮かべ、また毛布を被る。そんな様子を見ていると、なんだか、笑みが込み上げた。 「……。」 言葉は見つからない。 頬に触れた感触が、今もまだ残っている。 裏切らない?そんな私の問いかけに、律子は答えなかった。 けれど、何よりの信用に値する答えをくれた。 律子は、私を信じている。それが彼女の答えなのね。 ―――律子が、夢に見たくちづけ。それは、夢ではなく現実。 彼女ならば。美しい心を持った彼女ならば、私のそばにいても大丈夫なのだと、そんな安堵。 けれど律子は、私が凭れるには儚すぎる存在だった。 依存とも呼べるものだろうか。 きっと律子は、私に唯一の希望を見出している。 裏切らないで。そんな言葉が、全てを物語っていた。 私は、私はそんな律子が ―――壊れてしまうことが怖かった。 あのくちづけは、今この瞬間を共に生きると誓う証。今はそばにいると。彼女に温もりを寄せた。 けれど。 いつかは私のこの手で、彼女を壊す日が来る。 律子という一人の女性。彼女にとって、私は唯一の支え。 ……ごめんなさい、律子。 私には、犠牲を払ってでも手放せないものがある。 あなたを壊してでも、守りたいものがある。 「美咲ー……?起きてる……?」 宵闇の中で小さく呼びかける声。隣で眠る美咲へと、確認のために何度か声を掛けた後、あたし―――夕場律子―――はベッドから、そっと上半身を起こす。 今は何時ぐらいだろうか。電気の消えた室内では、いくら闇に慣れた目とは言え、壁掛け時計が表示する二つの針を見出すことなど出来ない。十二時半頃に床についてから、一時間か二時間。いや、それ以上かもしれない。まどろみと、覚醒した意識との狭間というものは、曖昧な時間感覚しか持てなかった。 耳に痛いほど静まり返った空気の中、衣擦れの音すらも大きく聞こえる。そんな音で起こさないようにと気を使いながら、そっと美咲の寝顔を覗き込んだ。 顔を寄せると、微かな寝息が耳に残る。美咲はその目蓋を閉じ、深い眠りに落ちているようだった。 美咲はいつもあたしより後に寝て先に起きるものだから、彼女が髪留めを外している姿すら見たことがなかったりする。いつも彼女の後ろ頭に止まっている蝶のようなバレッタ、ベッドサイドテーブルにぼんやりと浮かび上がるシルエットに目を向けた後で、あたしは身を忍ばせ、ベッドを降りた。 眠れない。 それは、以前にかかっていた不眠症のような気だるいものではなく、幼い頃、遊園地に連れて行ってもらう前日の夜に感じた胸の高まりのような、楽しくて困っちゃう、だとか。そんな感覚だった。 今からの休暇、美咲と共に何をしようかと。そう考えていると、なんだか気分が高まって眠れなくなる。 あたしにとって、それは楽しい時間になるはずだった。 「ふぁ……。」 室内を見回して、第一に零れるのはそんな気の抜けた声。色々備品が揃っているのはありがたいけれど、いかんせん、この部屋には娯楽というものがない。娯楽を求めるならば「娯楽室」というその名の通りの部屋が用意されているみたいだけど、さすがにこんな深夜に一人で出歩く気にもなれないし。 仕方なく、本当に唯一無二の娯楽であるパソコンを起動した。この中に入っているのはOSデフォルトのゲームだけ。それでもまぁ、やりこめばそこそこ楽しいかもしれない?なんて、悠長に考えながら起動画面を眺めた。椅子に腰掛けると、あたしの座高じゃ少しばかり低すぎる椅子の高さ。美咲が使ってたんだっけ、と思い起こしながら、ガス圧式で上下する椅子の高さを調節する。 ここのパソコンは、起動すると勝手にメールソフトが開くように設定されているらしい。すぐにソフトを閉じようかとも思ったが、時間はゆっくりある。今まで届いたメールを見直すのも良いかと思った。 けれど。一通目のメールを開いた時、ふっとやる気が失せる。そう、今更気づくことでもないかもしれないけれど、順を辿るにつれ、ここには藍子や由子の命が消え行く記録が、業務的な文字で残ってるんだ。 少しだけ眉を寄せて、マウスを滑らせた。そんなものは見たくない。 カチッとクリックしたのは「送信済みアイテム」のフォルダで。当然そこは空っぽだった。あたしや美咲にメールを送る相手なんていない。メールソフトはただ、管理人からの連絡を受けるためだけにあっ…――― ……? 無意識のうちの行動。いつも仕事で使っていたものと同じメールソフトだったから、いつもの要領で、「削除済みアイテム」を右クリックして「削除済みアイテムフォルダを空にする」という項目を押そうとしたんだ。その時表示された右クリックメニューに、一瞬、動きを止めた。 カチッ。――― この削除済みアイテムを空にするという作業は、いわばあたしの癖であって。何も入っていないのについ押そうとしてしまう、いわゆる無駄押しというのを何度もやった。 今のクリックだってそうなるはずだった。そうなって当然だった。それなのにッ…… 『削除済みアイテムフォルダのアイテムを完全に削除します。よろしいですか?』 そんな警告が出た瞬間、あたしは思わず「だめっ」と口走っていた。 『いいえ』を押して、右クリックメニューが消えた画面。 あたしはそっと、「削除済みアイテム」のフォルダを開いた。 そこに二通のメールを見止めた時、吸い寄せられるように、画面に表示されたカーソルがメールのタイトルへと向かっていく。 『管理人様へ /11/12 23:51』 『穂村さんへ /11/13 00:04』 綴られていたのは美咲の言葉と、そして美咲に宛てた管理人からの――闇村という女性からの、言葉。 闇村って。管理人って。 あの放送をしていた女?まるで初対面のように、美咲と言葉を交わしていた、あの女? どうして美咲が? 美咲は。美咲は――…? 『けれど私の中で優先すべきは好き嫌いの感情などではなく』 『最終的に殺めることが出来るかどうか。』 暗記すらしてしまいそうなほどに何度も繰り返し読み返して、ようやくあたしはメールを閉じる。 それでも尚、うまく、理解出来なかった。 ……美咲は、何者なの? 『貴女だけを愛しているのだと。』 あぁ……その言葉が、美咲の、真実なの? ………。 ……。 ―――プツン、と切れたパソコンの電源を確認し、ベッドへと戻る。 深まる宵闇に抗う術はなく。あたしはただ、美咲の隣に身を横たえて睡魔を待った。 先ほどの眠れない感覚とは百八十度違っていた。 眠りたい。考える事を止めて眠りたい。 それなのに。夜魔があたしを放さない。 「髪が。」 ………。 「髪が汚れてる。」 ………。 律子はパソコンに向かってゲームを開いたまま、そのゲームは進行するわけでもなく。 時折手を置いたマウスがマウスパッド上を揺らめくけれど、カチリというクリック音は聞こえない。 私―――穂村美咲―――は彼女の背後から言葉を掛ける。しかし、まるで私の声など耳に入っていないような様子で、律子は固まっていた。 ここ数日、彼女の様子がおかしい。どこかぼんやりしているような印象を受ける。私と言葉を交わすときはいつものように明るく振る舞うけれど、こうして私の呼びかけに気付かないこともしばしばだった。 「律子。」 何度目か、彼女の名を呼びながら、クイッとその後ろ髪を引いた。 すると律子はビクンッと身体を大きく震わせた後、驚いた様に振り向いて、 「へ?……あ、何がっ?」 と、目を丸くして問い返す。 そんな様子、内心訝しげに思うけれど、私は平然を偽って更に彼女の髪を引いた。 「髪が汚れてるの。」 「え?……昨日洗ったし」 「今からもう一回。」 「えー……?!」 私の潔癖症は彼女も理解しているはずだ。常人から考えれば無茶なリクエストかもしれないけれど、どうにも彼女の髪のべたつきが気になって仕方がない。 私の言葉に不満げな声を漏らす律子に、更に畳み掛ける。「洗ってきなさい。」 「……め、めんどくさ」 グイッ。 「痛っ」 言葉でわからないならば行動で、ということで彼女の髪を引っ張ると、律子は両手で頭を押えながら身を竦める。「ふぇ」などと情けない声を漏らす律子へと、再度言葉を放った。 「今すぐシャワールームに行きなさい。」 「……わ、わかったわよ…。」 律子は渋々といった様子で承諾し、立ち上がる。 ちらりと私へ目を向けると、べぇと小さく舌を出し「潔癖」と皮肉じみた言葉を残して。 がしがしと頭を掻きながらシャワールームへと消える彼女の姿を見送った。 パタン――と閉じたドア。見届けた後で、ふっと小さく溜息が零れる。 がさつな律子と潔癖の私。とても相性が良いとは思えないのだけれど。 それでも、日々彼女と共に過ごす時間、潔癖症から来るあの気分の悪さを感じることは滅多にない。不思議なものだけれど、それは、やはり彼女が美しい心を持っている故なのか。 だけど。……葵の時も同じだった。彼女に対して嫌悪感を抱くことは無かった。 葵は裏切り者。あんなにも醜い心で私を殺そうとした、それなのに、私は彼女の本心を見極めることが出来なかったということなのだろうか。 そう考え始めると、私の目など節穴のような気がしてくる。 人の心とは、美しさも醜さも併せ持っているものか。とすれば全てが美しく、そして時に全てが醜い? ―――あぁ、それでも。あの人だけは違う。 闇村さんだけは、常に美しい心を持った女性なのだ。それだけは絶対的な真実。 こうして考え始めると、少しだけ脳を消耗するように思う。 一息いれようと、保存していたペットボトルのミルクティーを取り出した。 蓋を開けて縁に唇を触れさせる。流れ込む液体、コクンと飲み干した後で不意に―― いつもの悪寒が襲った。 「…ッ……」 微かな吐き気。パソコンの横にペットボトルを置いて、息を静める。 何が原因だろう。この液体、或いはペットボトルの造形。 つまり、状態は悪化しているということか。 あぁこのままでは、あらゆるものに対して嫌悪感を感じるようになってしまう? 私は、闇村さんのそばでしか存在できないように、なって、しま、う……? 「ケホッ……」 咳きこみながら机に手をついた時、とん、と手の端にペットボトルがぶつかっていた。 まずい、と思う間もなく、縦長のペットボトルはいとも簡単にバランスを崩し、ボトルが倒れると共に中身のミルクティーも零れ散っていた。不運なことに、その液体の大半はそばにあったパソコンへと。 「……いけないっ。」 口許に手を宛てて数秒息を静めた後で、私はシャワールームのドアへと向かっていた。 「律子、タオルを取って欲しいの。入ってもいい?」 慌しさに感け、私はそんな問いを掛けながら既にドアノブを引くという矛盾した行動に出てしまう。 ドアの向こうは洗面室。一枚の磨り硝子扉越しに、シャワールーム内の律子のシルエットが見えた。 それは、つい先日と同じ状景。だけど何かが違うような、妙な違和感を感じた。 「美、咲?……どうしたの?」 心配そうに掛けられる声を聞きながら、備えられたタオル数枚を手に取る。 「飲み物を零してしまって……」 言葉を返しながらすぐに踵を返し、洗面室を後にするつもりだった。 けれどそれを引き止めたのは、開け放しにされたままの洗面台の収納棚。 視界に入った瞬間、動きが、止まる。 上段の陶器のカップには、一本の剃刀が備えられているはずだった。 それはつい数日前、私が手に取り彼女へと所在を教えた物。 そのカップは今、空っぽだった。 「律子…?」 思わず振り向いた先。磨り硝子の向こう側の律子のシルエット。 その時、違和感の所以に、気付いた。 ―――ぼんやりと滲む、赤色。 一瞬我を忘れるように、何も考えずに、シャワールームへと続く扉を開けた。 「…!」 予想通りの光景があった。 一糸纏わぬ姿、けれど彼女の左手首に、赤い筋。 「かッ……、勝手に入らないでよ!!」 咄嗟にその手首を背中に隠しながら、狼狽の滲む声色で私に怒鳴りつける。 胸元や下半身を隠すわけでもなく左手を庇うその姿は、明らかに不自然。 睨み合ったのは、ほんの数秒か。 彼女が怯えるように一歩後退ると同時に、声が漏れた。 「まだそんなことを、するの。」 浴室内で反響する声は、すぐに律子へと届いたはずだった。 けれど律子は表情に変化を見せず、真っ直ぐに私を睨みつける。どこか悲しげな光を湛えた瞳。 「関係ないでしょ……」 「関係あるわ。あなたがそんな傷を作っ」 「出てって!!」 律子は私の言葉に被せるように怒鳴りつけ、私をシャワールームから追い出そうとするように、右手を私へと伸ばす。その手首を取って、動きを制した。私を見上げていた視線が、ふっと逸らされる。 「……美咲にはわからないのっ…リスカの意味なんて、美咲には…」 「前にも言ったでしょう?私はそんなことを理解したいとも思わないわ。ただ、醜い傷跡を見たくないだけ。」 ピチャッ、と小さな水音がして、気を取られてフロアへと目を向けた。 水の中に混じった数滴の血液。 込み上げるような嘔吐感を堪えながら、気を落ち着けようと大きく息を吸い込んだ。 少しだけ血の匂いがして、咽る。 左手に握っていた数枚のタオルが、はらりと床に舞い落ちた。 同時に、律子の手を取っていた右手の力も抜け、彼女へと不本意な自由を与えた。 「なんでッ…なんで理解してくれないの…。この傷はあたしの生きてる証なのに、あたしが存在してるっていう理由なのに、なのに、なんで…ッ…」 律子が悲しげに紡ぐ言葉に、今は返す声すら持たない。 込み上げてくる。 恐怖に似た、嫌悪感。 「理解、して……。私は、生理的に……」 彼女が望むように。私もまた、彼女へと望みを託す。 言葉にならない。これ以上言葉にすれば、胃の中の物を戻してしまいそうなほどに気分が悪い。 不意に襲う眩暈、抗う術もなく、ふっと身体の力が抜けた。 赤い血液。水に滲んだ曖昧な存在。 それが、私にとって嫌悪の対象だった。 「美咲?」 律子は心配そうな声で、膝をついて顔を伏せる私へと声を掛ける。 今は何もしないで。関わらないで。干渉しないで。 そう伝えることも出来ず、小さく首を横に振るだけ。 荒い吐息が零れる。 恐怖。 全身に、生ぬるい鈍痛が響いていくような感覚だった。 「美咲はそんなに、美しいものが好き?」 「……」 「こんな綺麗なのに。どうして美咲は――」 ぽつりぽつりと耳に届くその声が何を意味しているのか。 理解しようともしていなかった。 理解していれば、もっと早く、その恐怖から逃げることが出来たのに。 律子の指先が私の頬に這う。 伏せた目を開くことが出来ない。 動悸が早まっていく。 ぬるり、と、私の頬に液体が纏う。 「美咲。目ぇ開けてごらん。」 私の顎に触れたのは彼女の親指か。 顔を上向きにされて、途方もない恐怖が襲う。 目蓋の向こうに照らす光。 あぁ、その世界はどんなに汚れたものなのか。 それを目にした瞬間、私は一体どうなってしまうのか。 ぐちゃり、と。 生温かい液体が、彼女の手から私の顔へと伝ってくる。 目を開けてしまったら。 律子は私の敵になるかもしれないのよ。 私は自制心すら忘れてしまうかもしれないのよ。 理解して。お願いだから。 あなたを敵にしたくはないの。今は、まだ――! 「あたしはね、美咲のことが」 彼女の濡れた手が私の頭を強引に引き寄せたと同時に カシャン、と 音を立ててバレッタが落ちる。 恐怖が弾けたと同時に、目を開けた。 目を焼くような光に満ちた世界。 強引に重ねられた私と彼女の唇。 ドクン、と心臓が音を立てた。 私の顔は彼女の赤色に塗れ、 交わしたキスは、血の香に満ちる。 「すき。」 見開いた瞳に映る律子は、 少しだけ顔を離して、儚く笑んだ。 傷から零れる血液が 私の心を汚していく。 私の恐怖を清めていく。 十一月十五日。本日の任務。 パソコンお届け部隊を任命されたため、13−B、夕場律子自室へとパソコンを届けに行く。 ノートパソコンを脇に抱え、てくてくと廊下を歩いていた。 ふと、疑問に小首を傾げてみる。……はて。 私―――宮野水夏―――は、こんな雑用をこなすためにこのプロジェクトに居るのかと言えば、そうではない。私はあくまでも参加者であり、スタッフではない。つまり、管理人の命令に従う必要もないといえばないわけだ。けれど何故、私はそんな命令を受けてしまったのか。 答えは案外単純だ。 『水夏、やってくれないかしら?……お・ね・が・い。』 などと闇村さんに両手を合わせられては、嫌と言えるわけがないじゃないか! きっと、あの言葉の語尾にはハートマークが……!! いや。正確には付け加えられた一言が決め手である。 『ご褒美は期待していいわよ。』 ……ふっ。現金だな、私も。 とは言え、闇村さんの命令に私が抗うわけもない。例えご褒美などなくとも、私はこの任務を引き受けねばならない立場なのだ。……ペットだからな。 そんなわけで、やっぱりあの人には頭が上がらない…などと考えつつ、13−Bの扉の前へとたどり着く。 佐久間との接触以来、なんとなしに他の参加者と接触することに抵抗を感じなくなった。 今回はこの部屋に危険人物がいないという要因も大きいが、特に躊躇いもなく、コンコン、と部屋の扉をノックする。 「おはようございまーす。新しいパソコン持って来ましたー。」 と、宅配便のお兄ちゃん風の挨拶も忘れずに。 少し扉の前で待っていると、カチャリとロックが外れた音の後で静かにドアが開いた。 顔を覗かせたのは、こざっぱりした印象を受ける若い感じの女の姿。 管理室のディスプレイで見たことがあった。彼女が夕場律子か。 こうして直接見ると、噂通りの童顔だ。とても二十八には見えない。 「パソコンって…?」 どうやら話は行っていないらしく、夕場はどこか訝しげな面持ちで私を見つめる。 「ミルクティーを零して壊れたんだとか?それで、新しいパソコンを持って行くようにとの管理人様直々の命令でやって参りました。宮野と言います。」 「か、管理人直々ー……?え?じゃあ何、スタッフなの?」 「……いえ、参加者です。」 あまり堂々と言うことでもないか、と少し遠慮がちに告げると、夕場は益々訝しげな様子。 う、困ったな。彼女に話が通じずにこのまま追い出されると厄介だ……。 「パソコンの交換なんでしょう?…入れてあげたら?」 そんな声は、夕場の後ろ、部屋の奥から聞こえた。 その声に振り向く夕場の視線を追うように中を覗き込むと、夕場よりも随分大人っぽい雰囲気の女性の姿。 あれが――穂村美咲。 ほんの少しだけ緊張する。危険人物ではないだろうが、私にとって彼女は――なんと言うか。良い関係を築けそうな相手ではないからだ。 「ん。……じゃ、どーぞ。手っ取り早く済ませてね?」 「パソコン壊しといて偉そうに……。」 夕場の態度に思わずぽつりと呟くと、夕場はむっとした様子で軽く頬を膨らませ、 「あたしじゃなくて美咲が壊したのよ。」 と、しっかりちゃっかり言い訳してきた。ていうか聞こえてたのか。地獄耳め。 室内に通してもらうと、一先ず部屋の中を見渡した。他の参加者の部屋に入るのはこれが初めてのことだったが、やはり内装も置いてある物もほとんど同じ。特に目立ったものはないように思う。 気に止めたものと言えば、ベッドサイドテーブルに無造作に置いてある剃刀くらいか。何故あんなところに剃刀があるのだろう、と思いながらも、わざわざ訊ねることでもないか。 「宮野さんって言ったっけ?ねぇ、なんで参加者なのに管理人直々とか言っちゃってんの?」 早速パソコンの取り外しに掛かる私に、夕場は疑心たっぷりの眼差しで問い掛ける。説明すると長くなるなぁと少し首を捻っている間にも、夕場の問いかけは途切れない。 「第一、本当に管理人直々なんでしょーね?もしこのパソコンに爆弾仕掛けてたりしたら殺すわよ?っていうか、宮野さんって乱視?近視?」 「眼鏡、関係無ッッ!」 とりあえず突っ込み所だけは押えておこう。 その後で夕場へと目を向け、 「管理人直々なのは…まぁアレだ。管理人様と個人的に関わりがあるんだよ。で、証拠ってわけじゃないけど、後で管理人室から管理人様がメール送ってくれるそうだ。そこに宮野って文字があればオッケーなわけだろ?いや、第一、高校生が爆弾なんか扱えないっつーの。」 と、彼女の問いかけに返答する。それでも尚、夕場の表情は曇ったまま。 「管理人に贔屓されちゃってるわけだ…。ふぅん。管理人にねぇ。」 「贔屓?…そんなわけ…」 言葉を返そうとして、ふと気付く。 夕場が私に対して敵対的な態度を取るのは、管理人に対して敵意を持っているからか。 まぁ当然といえば当然だな。管理人に好意を抱いている参加者など一握りだ。 その一握りの内の一人が、私には興味なさそうに窓から外の景色なんぞを眺めている穂村ってわけだが。 「で、宮野ちゃんはどこの高校の何年生なのかなー?」 「黒照高校。いや、知ってるわけないか。都内の外れの田舎にある高校の生徒だよ。定時制だけどね。……ん?あ、これはこっちか。…で、三年生です、っと。」 パソコンを外したり設置したりの作業に関する独り言も混じりつつ、更に問答は続く。 「じゃあ、なんでこんなプロジェクトに参加してるワケ?まさか自分から希望して、なんて言わないわよね?」 「なわけないだろ。誰が自分から望んで殺し合いなんかするんだ。」 「んじゃ何よ。」 「………ちょっとした事故。」 言えない。UFO探しに行って迷い込んだなんて絶対に言えない。 「ふぅぅぅーーん。」 夕場はわざとらしい相槌の後で、ようやく問いかけを止めて沈黙した。 大人しくしていてくれた方が、私としてもやりやすい。 作業は着々と進み、最後に電源プラグを差し込めば終了、というところまで差し掛かった。 その時だった。 「管理人ってイイ女?」 唐突な問いに、プラグを差し込もうとしていた手元が大幅に狂う。 今度は私が、怪訝な顔を夕場に向けずにはいられなかった。 いきなり何を言い出すのか。 「だからぁ、イイ女なの?って訊いてるの。宮野ちゃんもその女にたぶらかされた口なわけでしょ。」 夕場は至って真剣な様子で問いを繰り返す。 たぶらかされた、って……。 「律子。その辺にしておいたら?……宮野さん、困ってるでしょう?」 ぽつりと冷静な口調で入った制止の言葉に、私は穂村へと目を向ける。 彼女はちらりと私に目を向けては、興味なさ気に、すぐに視線を逸らした。 そうか。穂村は夕場に、管理人のペットであることを言っていないのか。 それで上手く夕場を仲間につけて……か。なかなか頭の良い女なのかもしれないな。 いや寧ろ、悪女と言った方が相応しいかも知れないけど。 穂村美咲――……要注意人物。 「さて、と。パソコンの設置は終了。今までのメール類は消えてるんだけど、送りなおした方がいい?」 回収するパソコンを両手に抱えつつ、二人に問い掛ける。 夕場は迷うように穂村へと視線を送ったが、穂村は全く迷うことなく、首を横に振った。 「必要無いわ。もしもの場合は、私の部屋に行けば見れるもの。」 そんな彼女の答え。どこか不自然だ。 私が疑心暗鬼になりすぎているだけかもしれないけれど、なんだか気が抜けない。 じっと穂村を見つめていると、彼女は少しだけ不思議そうな様子で瞬いた。 「了解。それじゃあ私は失礼する…っと、その前に。」 ドアに向かおうとして、ふと振り返る。 二人の顔を交互に見ては、小さく笑み、問い掛けた。 「一つだけ質問。……夕場さんと穂村さん。二人は恋人?」 一寸の沈黙の後。 ―――返って来た答えは同時。 「そうよ。」 「違うわ。」 と。 想像以上に面白いリアクションの相違に、思わず笑いが込み上げる。 顔を見合わせる二人を後目に、「なるほどね。」と言葉を残し、私は部屋を後にした。 パタンと閉じたドアの後ろ。なんだか二人の姿が想像出来る。 少し訝しげにきょとんとした夕場の姿と、 表情の変化も少なく、ただ不思議そうに瞬く穂村。 ここにもまた、闇村さんという一人の女性の存在に、歯車を狂わされたカップルが一組。 宮野ちゃんが去った部屋の中。 長い長い沈黙。美咲は退屈そうに窓の外を眺めたまま。その横顔を覗き見れば、ゆるりと動く視線が窓の外の何かを捉えては、少しだけ表情を曇らせて目を逸らす。嫌悪の対象が視界の入るのが嫌なら、窓の外なんか見なきゃいいのに。 そんなことを考えながらも、閉じあわされた彼女の唇が紡いだ言葉が、何度となく頭の中を反復する。 宮野ちゃんの唐突な問いかけ。「二人は恋人?」 その答えは、あたし―――夕場律子―――と美咲と、食い違ったものだった。 何故美咲は、あんな答えを返したの? あたしには……わからない。 ドサリとベッドに腰を下ろし、見遣った先は宮野ちゃんが持ってきた新しいパソコン。と言っても、今までのものと型は同じ、全くと言っていいほど違和感はない。 けれど。――「必要無いわ。」 美咲がそう断った所為で、以前のパソコンに今まで届いていたメールはない。そしてまた、送った記録も何もかも、消えてしまった。美咲が「削除済みフォルダ」に残したままだったメールのことを留意したのか。でも、今更消してしまうくらいなら、何故あのメールを残していたのか。 「……ねぇ、美咲。」 「何?」 「美咲って、OLだったって言ってたわよね。」 「そうだけど。」 彼女に背を向けてベッドに座っているため、美咲がこちらを向いて言葉を返したか、それとも未だに窓の外へと視線を向けたままなのかはわからない。抑揚のない彼女の声からは、何も伝わらない。 「仕事でパソコンとか使ったりしてた?」 「文章の打ち込み、資料作成が主な仕事だったの。だからパソコンには毎日。」 「……メールとかは?」 そんな問いは、些かストレートすぎたのかもしれない。あたしは美咲の反応が気に掛かって、顔だけ振り向く。それとほぼ同時に、ベッドが軋んだ。美咲の体重を受けて小さく揺れたベッドに手をついて、反対側に腰を下ろした彼女の後ろ頭を見つめる。蝶のようなバレッタから、すっと落ちた髪が揺らめいていた。 「メールはあまり。……どうして?」 そう答えて、美咲はあたしへと目を向ける。 今更かもしれないけど、美咲ってポーカーフェイスなんだって、痛感した。 何を考えてるのか、全くといって良いほどにわからない。 「ん……パソコン見てたら、ちょっと思い出してね。あたしは取引先とかにメール送ったりしてたんだけど、あれって敬語とか面倒でさ。でも美咲はそういうの得意そうだなぁって思ったの。」 咄嗟の言い訳。それが上出来だったのか否かは、「そう」と興味なさそうに返す美咲のリアクションでは判断が出来ない。 上手く会話が続かない。美咲の相槌が素っ気無いのはいつものことで、それでもあたしは彼女に色んなことを話していたはずなのに。最近は、食事の時も二人で何もしていない時も、沈黙ばかりが支配していた。 きっかけは、浴室でのあの一件から。 あの時、あたしが強引に彼女の唇を奪った理由は何? 手首の傷から滲んだ血を美咲へと分け与えようとするように、彼女に寄せたのは何故? それは…… 「あれから、切っていないみたいね。」 あたしの思案は、不意に左手首を掴まれた感覚に中断する。 目を向ければ、あたしの服の袖を軽く捲くり、手首の傷へと指を這わせる美咲の姿があった。 す、と滑る指先が、かさぶたの取れた傷跡をなぞっていく。その感覚に、ぞくん、と、身体が震えた。 「キス、してもいい?」 ベッドに膝と片手をついて、まるで猫のような姿勢であたしを見上げる美咲。 表情無く、切れ長の目で真っ直ぐに見つめる。そうされると、彼女が酷く、色っぽく見えてくる。 メイクなんかしてなくても、薄紅を引いたような唇が、「まだ痛む?」と問いを重ねた。 「痛くないから。……いいよ。」 短く答えて、彼女の手が添えられた左手を差し出す。 美咲は一度だけあたしの目を見上げた後で、そっと、その唇を左手首の傷跡に触れさせた。 最初は触れるだけのキス。さらりとした感覚で、皮膚と唇とが接する。 「あんなに嫌ってたのに、……自分から求めるなんて。どうしちゃったの?」 次は、食むようなくちづけ。本当はまだ少しだけ痛む傷が、彼女の唇の熱と触れあって温度を上げた。 ちらりと向けられるその視線に、ゾクッと背筋が震えた。 「……思っていたより、…汚くは、ないの。」 美咲は頬に落ちた髪を耳に掛けなおしながら、緩く目を伏せて答えを返す。そしてまた何度かの甘いキスを落とした後で、「それにね」と言葉を続けながら、静かに身を起こした。 じんじんと心地良い痛みが響き続ける手首を指先で撫ぜられた後、その手はあたしの肩に掛かる。 後ろから覗き込むような形で、美咲はあたしの身体を抱いた。 「律子の傷だから、そう思う。」 「……」 両肩に添えられた美咲の冷たい手に、そっと右手を重ねた。 綺麗好きな美咲からはいつも、柔らかいシャンプーの香りがする。 不意にふわりと、頬に触れた感触は、手首に触れていた感触と同じものだった。 「律子のことが、好きよ。」 「……え?」 「だから私達は、恋人、でしょう?」 そんな美咲の突然の告白は、あたしを混乱させるには十分なもの。 いや、混乱は既にじわじわとあたしを侵蝕していたのだけれど。 二人は恋人?――そんな問いかけに、美咲は肯定を返した。 何故?どうして? それは、あたしたちの想いが通じ合っているから? 「…違うッ…!」 「違う?どうして?」 あたしの頬に美咲の吐息が掛かる。 密やかで、甘美な吐息。 陶酔してしまいそうな情欲を、堪えた。 「美咲は……」 あたしを好きになったりなんかしない。 美咲には、あたしに見せていない真実がある。 あたしには話せない、否、話してはいけない真実。 それはあたしをいつか裏切るという、決意なんでしょう。 「美咲は、……。」 その真実を知っていることを。 彼女に伝えればどうなるのだろう。 予定を変更してしまう?今すぐにでも、あたしを裏切る? ―――そんなの嫌。 「あたしは。……あたしは美咲のこと、好きじゃない。」 「……嘘吐き。」 「美咲ッ…でも、あたしは……」 どう、言えばいい? 美咲のことが好きだと言ってしまえたら、楽になる? でもあたしは本当に美咲のことが好きなの? ううん、好きになって、いいの? 裏切られると、わかっているのに? 「……律子。」 どさり、と、ベッドに押し倒される。 美咲はあたしの肩を押さえつけ、向かい合い、真っ直ぐに見つめ合った。 怖い。怖い。止め処なく溢れ出る想いが、あたしを攫ってしまう。 どうして美咲はあたしを裏切るの。どうしてあたしだけを見つめてくれないの。 こうして視線を合わせているのに、あたしたちの心は繋がらない。 美咲が、くちづけを落とす。あたしたちの二度目のキスもまた、互いの想いが不透明なままで。 視線の先の美咲は、少しだけ顔を離して、不思議そうに瞬いた。 「どうして、笑ってくれないの?」 ぽつりと零すような問いかけに、あたしは小さく首を横に振る。 「笑えないよ……上手く、笑えない。」 「私は律子に笑って欲しいの。……あの時と同じ笑顔を見せて欲しいの。」 「あの時?」 美咲の指先があたしの額に触れた。 するりと、前髪を撫ぜるようにして、それから頬に、そして顎へと滑っていく。 心地良い美咲の温度が、悲しい。 「キスの後に見せてくれた笑顔が…… 怖いくらいに、綺麗だった。どうして律子はそんな笑顔を浮かべるの?って、……不思議なくらい、…綺麗で……」 そう、小さく紡がれる言葉に、初めて美咲の感情が滲んだような気がした。 ううん、それはあたしの気のせいなのかもしれない。 だけど、気のせいじゃないとしたら、それは―― 「……だからあたしのことが好き?」 「そう、よ。」 今は、きっと美咲があたしに本気で惚れたりしてるわけ、ない。 けれどもしも、あたしの笑顔なんかで美咲の心が動いたのだとしたら、 あたしは、あたしはいっぱい笑っていてもいい? それで、美咲が管理人の女のことなんかどうでもよくなっちゃうくらい、夢中にさせたらいい? もしも、そんなことが出来るのならば。 あたしは……―― それに賭けても、いい? 「ね、もう一回キスしてみて。…今度はちゃんと笑ってみせるから。」 そう告げると、美咲は小さく頷いて、また静かに顔を寄せた。 頬に触れた彼女の指先。重なった唇。 三回目のキスも、やっぱり気持ちは不透明だけど。 でもあたしには決意があった。 もういいや。あたしはこの子に賭けてみよう。 美咲が最後に誰を選ぶかはわからない。だけど、あたしはあたしなりに、精一杯闘ってみせるから。 だからそばにいて。ずっとずっと、あたしの横にいて。誰を想っていても構わない。だから。 「美咲のこと、やっぱ…すき。」 顔を離して、あたしは笑んだ。 彼女へと精一杯の想いを込めて、目を細めた。 Next → ← Back ↑Back to Top |