BATTLE ROYALE 21




 探すって、何処を?心当たりって?
 朔夜が居る場所は――何処?
「真昼様ッ…」
 一寸の目眩の後。後ろを歩いていた鏡子が声を上げたとほぼ同時に、私―――望月真昼―――は階段を一つ踏み外していた。それが、最後の段だったことが幸いした。折れた膝が冷たい床に触れて、階段を下りた先の壁に手を付く。
 私を襲った目眩は、響くように続きながらも徐々に弱まっていった。
「……大丈夫、ですか?」
 鏡子は私の肩に手を置いて、おずおずと問いかける。
「大丈夫……。」
 頷いて見せて、鏡子へと顔を向け微笑を作る。けれど上手く顔の筋肉が動かない。
 私の歪んだ笑みに、鏡子は少しだけ瞳を揺らして。
「無理はなさらないで下さいね。お願いですから。」
「大丈夫よ。」
 彼女の気遣いの言葉に、緩く首を振りながら同じ言葉を繰り返す。
 壁に手を付いて立ち上がれば、目眩は完全に消え、私はいつものように微笑むことが出来た。
 そう。これでいい。
 私達は朔夜を探すために部屋を出た。まずは一階の朔夜の自室へ。
 その扉は――いとも簡単に、開いた。
 使った痕跡が一切無い室内を見渡して少しの時間を置いた時、ふっと、気付く。
 何故ロックが掛かっていないの?朔夜以外の人間では開けないはずでしょう?
 ……答えを出すことはしなかった。
 その答えを導き出した瞬間に全てが明らかになってしまうような気がして。
 否。そこまでわかっているのだから、答えは出たも同然だ。
 ――厭。考えたくない。
 それから私達はエレベーターで最上階へと向かい、一つ一つの部屋を隈なく探す。
 ロックの掛かっていない部屋は、何れも人の姿はなく。ただ、幾つかの部屋は、そこに人間が滞在した痕跡が残っていた。乱れたベッドや開いたままのパソコン。
 パソコン。
 触れることが、出来なかった。
 そこに真実の書かれたメールが届いているから、だからこそ。
 あぁ、私は逃げ続けているだけ。
 私は、何も受け入れられずに彷徨っているだけ。
「鏡子。今からどこに行けばいいと思う?きっと、どこに行っても同じよね……。」
 壁に手をついたまま、諦めの滲む言葉を零す。
 これで鏡子が頷いてくれれば。私は何も真実を知らずに、ただ、朔夜の帰りを待ち続けることが出来る。
「……鴻上光子の所に。」
 しかし私の思惑とは裏腹に、鏡子はぽつりと呟いた。
 彼女が告げた名を聞き返し、困惑がちな鏡子を見つめる。
 鏡子は少しの沈黙を置いた後で、
「朔夜様は、彼女に傷をつけられたんです。」
 そう小さく言っては、頬の、と自らの頬を辿って見せた。
 初めて聴いた名前だった。
 私が知る限りで、その名前が死亡者リストに並んだことも無い。
 本当はもう、部屋に戻って休みたい気分だったのだけれど、それが最後の心当たりならば。
「……けれど、その女性の部屋がわからないわ。」
「12−Aだと思います。」
 また零すような口調で。けれど鏡子は確かに言った。
 12−A?と聞き返し、伏せ目がちな鏡子の肩に手を添えながら、私は問いを重ねる。
「何故、わかるの?まさかその女性は鏡子の知り合い?」
 鏡子はちらりと私を見上げた後で、また顔を伏せてゆるりと首を横に振った。
「見かけたんです。鴻上さんが12−Aに入っていく所を。偶然。」
「……そう。それはいつの話?」
「わかり、ません。」
 曖昧な口調。
 もしかしてそれは、鏡子が私達と出会うよりも前のこと?
 それならば彼女の記憶が曖昧なのも理解出来ること。同時に、彼女の言う12−Aで本当に正しいのかどうかも曖昧になってくるが、それは行ってみればわかるはずだ。
「いいわ。…行きましょう。」
 一つ頷いて、彼女から手を離し、歩き出す。
 ここは最上階から二階下ったところ。一階下ならば距離も程近い。
 二つの靴音が廊下に響く中で、次第にその一つのペースが緩慢になっていく。
 私の靴音だった。
 あぁ、私は躊躇してばかり。
 こんなにも、真実を受け入れることに恐怖するなんて。
 けれど。けれどこのままじゃいけないのだと。―――わかっている。
「真昼様。」
「……なぁに?」
「手を取って歩いても、構いませんか?」
「え?」
 一歩後ろを歩いていた鏡子の申し出に、少し呆気に取られる。
 駄目なら…と諦めようとする鏡子に、思わず、ふっと笑みが漏れた。
「いいわよ。」
 微笑んで、彼女へと左手を差し出した。
 鏡子はそんな私の手を目で追って、微かに、はにかむような表情を見せた。
 ふわりと包まれる手の平。触れるのは同じくらいの体温。心地良い。
 鏡子はいい子ね。私が一人で煮詰まっていく姿を見兼ねるように、静かに手を差し伸べてくれる。
 言葉を交わすわけでもない。ただ手を繋いでいるだけなのに、こんなに安心するのは何故だろう。
「……12−A。」
 やがて私達は、ある扉の前で足を止めた。
 二人、扉を見つめて少しの沈黙。
 ふっと手を引こうとした鏡子の手を引きとめる。
「このままでいて。」
 彼女に目を向けぬままに囁いて、指先を絡めるように握り直した。
 そしてもう一方の手で、私は静かに扉をノックする。
 コンコン。
 すぐに返事はなく、間を置いて再度ノック。
 コンコン。
 やはり、返事は無い。
 きゅっと、鏡子から握られた指先がどこか不安げで。
 大丈夫だと諭すように、きゅっと握り返す。
 ドアノブに手を掛けた。ゆっくり。ゆっくりと回す。
 静かに―――扉を開いた。
 室内は、がらんどうとしていた。人の気配はない。
 整えられたベッドも。塵一つないような絨毯敷きのフロアも。
 まるで、ベッドメーキングを終えたホテルの一室の様に。
「誰も……いない。」
 小さく呟いて、ふっと息が漏れた。安堵とも嘆息ともつかぬ、小さな溜息。
 鏡子の手を引いて、室内へと足を踏み入れる。
 フィルムの貼られた窓の向こうは夜の景色。部屋は常に点り続ける明かりに包まれている。
「ここにも手がかりは無し……」
 みたいね、と、言葉を続けようとした。その時ふっと、目に止まった床の一部。
 私はその箇所へと歩み寄り、鏡子の手を離してしゃがみ込んだ。
 指先で触れるのは、黒く掠れた絨毯の一部。
 これは、もしかして―― 弾痕?
 その箇所を目を見張って見つめていると、もう一つの痕跡に気付く。
 それは目を凝らさなければ気付かないような微かな汚れ。
 絨毯に染み付いた、赤。
 血痕だった。
「ここで……誰かが、死んだの?」
 誰にともなく問い掛けるように呟きながら、尚もその血痕から目が離せない。
 あぁ、もしもこの血が朔夜のものだったとしたら…――!
「確かめませんか?……このパソコンを開けば、全てがわかります。」
「やめて!!」
 背後から聞こえたその声に、私は一瞬我を忘れて叫んでいた。
 わかってる。わかってるわ、そのくらい!!
 イヤ。イヤよ。私は、私は――ッ……!!
「真昼様。……貴女は真実を受け入れても、壊れない。」
「…え…?」
 しゃがみ込んだ私を、真っ直ぐな視線で見おろしながら鏡子は紡ぐ。
 淡々とした口調で、表情無く。
「私が、壊さない。……私がそばにいますから。」
 弱い口調だったけれど、その言葉には確信があった。
 鏡子はふっと悲しげな笑みを浮かべた後で、私から目を逸らす。
 彼女が告げてから、長い沈黙が流れた。
 彼女の言葉を頭の中で何度も繰り返しているうちに、次第に冷静さを取り戻す。
「――……鏡子。」
 私は静かに立ち上がり、佇んだままの鏡子の肩に手を添えた。
 ベッドに座るように促すと、私の意のままに鏡子は足を向け、ベッドへと腰を下ろす。
 不思議そうに見上げる瞳。私はその視線に、小さく笑みを返した。
「私はね。」
 視線の低い鏡子の肩に手を添えたまま、小さく紡ぐ。
 続く言葉、少し言い躊躇ったけれど、言わなくてはならないと思った。
「私はあなたを利用しているだけなの。……寂しさを埋めたいだけ。」
「………」
「あなたは、私の妹なんかじゃないの。」
 告げた言葉に、鏡子は少しだけ眉を寄せ、そして悲しげに微笑んだ。
 その時、私の中で推測として存在していた考えが、確信に変わる。
 鏡子の洗脳は、解けている。
 彼女の微笑が。その悲しげな表情が。――作られたものであるはずがない。
 じゃあ何故鏡子は私の言葉に従うの?……それだけが疑問だったけれど、それもようやく解ってきた。
 この子は本当に優しい子なのね。
 だから、私のために洗脳されている振りをしているんだわ。
「ねぇ、鏡子。」
 肩に添えていた手を、そっと彼女の頬に移して。
 空虚な――…否、その透き通った瞳を、真っ直ぐに見つめた。
 鏡子。もう少しだけ洗脳されている振りをして頂戴。お願い。もう少しだけ、私の我が侭を聞いて。
 頬を撫ぜ、その温度を指先に感じる。
 この子が愛しいと、思った。 
「あなたを求めてもいい…?」
 と、囁くように言葉にした、その想いが。――予想と反していたことに、言った後で気づく。
 私、命令しようとしていたのに。
 意志のない人間に意見を乞う、その意味のなさはよくわかっている。問いかけに対する答えは全て「YES」。だから言葉は全て、命令形になる。
 けれど。鏡子には意志がある。彼女には「YES」と「NO」、二つの選択肢がある。
 私のような他人に心を許す?求められて嬉しい?――そんなはず、ない。
 だから私は命令しようと思っていたのに、ね。
「真昼様……」
 どうして演じてくれるの?
 どうして私のそばにいてくれるの?
 もういいのよ。あなたの意志を見せてくれればいい。
 無理に演じられてしまうのは、私も辛いんだから。
「真昼様の為なら」
 鏡子は私の手を取って、そっと、手の甲にキスを落とす。
 そんな姿がいじらしくも切なく、胸が痛い。
 目頭が熱い。きゅっと目を瞑った後で、私は鏡子へと微笑みを向けた。
 涙を堪えるように、目を細めた。
「もういいの。……あなたの洗脳は解けている。そうでしょう?」
「……」
「あなたの優しい嘘は嬉しいわ。けれど、私は嘘に気付いてしまった。だからもう、終わりにして。」
「……」
 鏡子は頑なに、表情を崩さず。
 不思議そうに、私を見つめたまま。
「もう、いいの。」
 繰り返して、私は彼女の眼前に手を翳す。
 ゆらり、揺らした。
 ストン――と、消えるはずの鏡子の意識は、まだ、そこにある。
 そして不意に、鏡子は小さく笑みを浮かべた。
「中学生の頃、演劇部だったんですけど……まだまだ、ですね。」
 と、鏡子が告げる言葉が、彼女の意志で告げるものだと、すぐにわかった。
 けれどその口調に変化はほとんど見られない。それはほんの少しだけ柔らかい敬語。
「いつからバレてました?」
「……薄々気付いていたわ。あなたは予想外の行動をしすぎたもの。……私の妹だなんて、言ってない。」
 微苦笑を浮かべて聞いていた鏡子が、最後の言葉を耳にした瞬間にふっと、表情を曇らせた。
 どこか悲しげに目を伏せて、「それは」と、小さく口を開く。
「朔夜さんから命令されたんです。」
「……朔夜、から?」
 続けられた言葉、思わず聞き返していた。朔夜が鏡子に…一体何を?
「私が死んだら、鏡子がお姉ちゃんの妹になるんだ……って。」
 ――!?
 それは、突然すぎて。
 私は言葉を失った。小さく口を開いても、微かな息が漏れるだけ。
 鏡子は暫し躊躇うように目を伏せた後で、静かに、私を見据えて告げた。
「あの時メールを削除したのは、あなたにあの記事を見せてはいけないと思ったから。」
「朔夜は……」
「……死亡しました。あのメールに、確かに書いてありました。」
「そう。」
 彼女の告げる事実は、私の中に静かに入ってくる。
 それは、今までもじわじわと理解しかけていたこと。
 物悲しさが私を侵食していく。
 けれど、――私はその事実を受け入れることが出来る。
「隠していて、ごめんなさい。」
「……いいのよ。」
 そっと鏡子の頭を抱き寄せ、その髪を撫ぜた。
 私が今、こうして冷静にあれるのは鏡子のお陰。
「朔夜が消えて、少しずつ私の心に穴が空いた。けれど鏡子はその穴を、そばでいつも埋めてくれたわ。」
「……」
「朔夜の居た場所に今は鏡子がいる。だから、壊れない。……鏡子の言う通りね。」
「……足りない、でしょう。私なんかじゃ」
「充分よ。」
 自らを卑下するような言葉を遮って、そっと鏡子を胸から離すと、その額にくちづけを落とす。
 鏡子は不思議そうに瞳を揺らす。その仕草も変わっていない。
 私は、なんて弱い人間なのだろう。常に私は誰かに支えられて生きている。
 闇村さん。朔夜。鏡子。
「一つお願いがあるの。聴いてくれる?」
「はい。…なんでしょう?」
 この言葉を告げてしまえば、私はもう一人で生きてはいけないと思った。
 けれど告げなければ、私は一人になってしまうと思った。
 だから。
「……お願いだから、ずっとそばにいて。……私にはもう、鏡子しか」
「真昼様。」
 彼女の指先が私の唇に触れ、言葉を遮る。
 鏡子は小さく微笑んで、その両手を私の首の後ろに回した。抱き寄せられ、彼女の肩に顔を埋める。
「私は一度死んだと思った。レミィさんを殺してしまった時、私の心は壊れたと思った。――そう、狂っていく部分を冷静に思う私すらも、消えかけていた。……気を失って、気付いたらあなたがいた。」
 彼女が告げる。“殺した”、“狂った”という言葉が余りに似合わない、優しげな口調で。
「一時は何も考えられなかった。この二人は私の主人で、私は二人に従わなければならないのだと、そう信じ込んで。――けれどいつからでしょう。次第に疑問を抱くようになったのは。何故、この二人は私の主人なの?何故私は二人の命令に従っているの?」
 鏡子の視点から見た洗脳。ただその言葉を受け入れながら、耳にしていた。
「それと同時に、私は二人に興味が湧いた。優しいお姉さんとクールな妹と。喧嘩も多かった、けれど、二人ともお互いを想っていて。……そんな関係が少し羨ましかった。二人は私を信じてくれていた。それは洗脳っていう形で、自我を失っている状態の私を、っていうことですけど…。でも、それでも良かった。二人は私を裏切らないような気がしたから。」
 淡々と告げられる言葉に、私はいつしか涙が溢れていた。
 それは鏡子の服へと吸収され、すぐに消える。
「この二人は私の味方なんだ、って。そう、思って。……嬉しかった。」
 鏡子は私の身体を離し、顔を見合わせる。鏡子の頬にも涙が伝っていた。
「――だから私はずっと、洗脳されている振りをしていたんです。」
 その言葉で終わりだと言うように、鏡子は笑んで。
 ふっと、少し不安げに首を傾げ、
「でも、バレちゃいましたね。……真昼様はこんな私を、信じることが出来ますか?」
 と、小さく問いかける。
 そんな鏡子の頭をくしゃりと撫でて、私は頷きを返した。
「勿論よ。……あなたは優しい子。あなただから、そばに居て欲しいの。」
「……真昼様。」
 ふわりと浮かべる鏡子の笑顔が、可愛くて、愛しくて。
 私はこの子に恋をしているのではないかと、そんなことを思う。
 ―――寂しさを埋めるため?
 違う。そんなんじゃない。
 私は、鏡子という女性が欲しい。
「もう一度訊くわ。……あなたを求めてもいい?」
 真っ直ぐに見つめ、改めて掛ける問い。
 鏡子は躊躇いなく微笑んで、
「はい。」
 と確かに頷き返した。
 彼女の笑顔に癒されていく。満たされていく。
「鏡子。……そばにいてね。ずっと。」
「はいっ。」
 微笑みと共に、指先は互いの頬に触れて。
 求め合うように重ねる唇は刹那的な温もり。
 心は、目の前の女性だけを求めて止まなかった。





 真昼様。初めてお会いした時のことを覚えていますか?
 きっと、あなたは覚えていないでしょう。すれ違っただけの、私のことなど。
 あれは、私―――水鳥鏡子―――がまだ、罪を被らぬ頃のことです。
 私はある時、都内の総合病院の心療内科へと出向きました。
 彼の……元・旦那のことで滅入っていたため、せめてもの救いを求めて。
 奥のロビーでお待ち下さい、と。そう促され、廊下を歩いていた時でした。
 病院の白い壁面。東向きの大きな窓からは、午前中ともあり、眩いばかりの日光が差し込みます。
 前方から、カツ、カツと、颯爽とした足音が聞こえました。
 歩いてきた女性は、優しげな雰囲気を持つ白衣を身に纏うお医者様。
 彼女は私と目が合うと、柔らかな笑みをたたえて会釈をしてくれました。
 その胸元のネームプレートに、「望月」という名が記されていたこと、今もよく覚えています。
 なぜかって、それがとても綺麗な名前だと思ったからです。
 美しい名を持った優しげな女性はきっと、私とは対照的な人生を歩んできたのだろうと、そう思いました。
 羨望と、憧憬と、そして少しの嫉妬。
 女性は甘やかな香りを残して、私のそばを通り過ぎて行きました。
 それが、私とあなたの最初の出逢いです。
 カウンセリングを受け持って下さったのは別のお医者様でした。
 また来るようにと言われましたが、彼に止められたため、もう病院に行くことは出来ませんでした。
 それから数ヵ月後。
 私の精神は彼の仕打ちに耐え切れず、遂に正常でなくなってしまいます。
 憎しみばかりが溢れて止まなかった。
 私のお腹に宿った小さな命を奪い、そして絶望を与えた男を、許すことが出来なかった。
 彼が息を引き取った時、私は笑みを浮かべて。
 次なる憎しみを抱き、高校時代の同級生達の元へ。
 許さない。私をこんなに不幸のどん底へ落とした人間達を、絶対に許さない。
 彼女達からしてみれば、それは単なる青春の過ちであったのでしょう。
 煙草を吸い、麻薬へと手を出し、お金を得るために身体を売った。
 そんな不良行為に、私を巻き込んだだけだったのです。
 けれど繋げてしまった。そのことで私は“水鳥くん”に出会い、彼に心を許してしまった。
 全ての歯車を狂わせた彼女達もまた、彼と同罪だと思いました。
 だから、殺したんです。
 そこからはもう歯止めが利かなかった。壊れてしまった。
 家族に相談をしようと思い立ちました。殺してしまったのだけど、私はどうしたら良いのでしょう、と。
 すると、両親は同じ言葉を繰り返すのです。
 自首しなさい。自首しなさい。自首しなさい。
 彼らに罪などありません。けれど私を突き放したことが、運の尽きでした。
 今まで有り難う。さようなら。
 確かそんな言葉と共に。
 何人もの血を吸った包丁で、私は実の両親の命すらも奪ってしまいました。
 ごめんなさい。
 謝罪の言葉の意味すらも、私は忘れていたのでしょう。
 思い出そうとするように、何度も繰り返しながら、私は遠くへと車を走らせました。
 ごめんなさい。ごめんなさい。
 警察の人が私を呼び止めた時もまた、そう呟き続けていたような気がします。
 ごめんなさい。
 警察は私を許してはくれなかった。拘束し、責め立てた。
 だから私は言葉を止めた。
 謝罪をしても取り返せないほどの罪を被っているのだと気付いたのは、その頃でしょうか。
 それと共に私は冷静さを取り戻し、逆に計算高くなった部分もありました。
 警察の尋問に、彼の仕打ちを告げなかったのです。情状酌量など必要無いと思ったから。
 少し考えればわかることでした。情状酌量が適用されてしまえば、私は多くの同情を買ったのでしょう。
 それで無期懲役になったって、嬉しくもありません。
 それならばいっそ全ての罪を、自らの死を持って終わらせた方が良いのだと。
 演じていました。
 愉快犯だと。あぁ、人を殺すのが楽しくて仕方が無い、と。演劇部のキャリアが役に立った。
 そうして、死刑という言葉も、冷静に受け止めることが出来ました。
 彼らに踏みにじられ、そして間もなく幕を閉じてしまう私の儚い人生。
 悔しかった、けれど。復讐は既に終わっていた。
 だから私は、ただ静かに時を待とうと思いました。
 そして先に逝ってしまった愛し子と共に、安らかな後生を送りたいと思っていました。
 これ以上の生など望んでいなかったのに、運命は時に残酷です。
 この舞台へと足を踏み入れて、恐怖を感じ、死に怯えた。
 そして貪欲にも、かすかな希望へと手を伸ばしてしまった。故に再び、罪を重ねてしまった。
 絶望に塗れ、プツンと途切れた意識。
 ―――そして目を開けた時、希望にも似た光を持った、あなたの姿が見えた。

「真昼様。……私、…もう、迷いません。」
「……?」
 そばにいてくれる女性は、あの時と同じ優しげな雰囲気を纏い、私を見つめる。
 その笑顔をこんなにも沢山、私に与えてくれるなんて。私を、照らしてくれるなんて。
 なんて悪戯な運命。
 でも、今ならば、その運命に身を委ねても良いと思える。
「あなたのためだけに、生きていきたい。」 
「鏡子……」
「短い時間でこのようなことを言っては、疑われてしまうかもしれません、けど……。でも、あの時に貰ったひだまりのような温もりこそが、私が一番求めるものだったのかもしれないんです。」
「…あの時。」
 ぽつりと復唱する真昼様は、私の言うことが何のことかわかっていないのだろう。
 覚えていなくて当然だ。彼女からしてみれば、日常のほんの僅かな一欠けらだったのだから。
 でも、私にとっては大切な一瞬だった。
 温かい微笑みを、荒んだ私に向けてくれた。
「偽りではなく、本当の気持ちです。……全てを捨てて、ただ、真昼様だけを愛して行きたい。」
 真っ直ぐに伝えた言葉に、真昼様は静かに微笑んで。
 そっと私を抱きしめた。その体温で私を包む。
「鏡子。……あなたと私が出逢えたことは、きっと運命なのでしょう。」
 何もわかってないくせに、と、内心笑みを浮かべながら、私は小さく頷いた。
 あなたは知らなくてもいい。この運命が、どれほどに悪戯なものなのか。
 このまま流されてしまおう。
 彼女だけを想い続けよう。
 裏切られたって構わない。もう痛みなど麻痺してしまった。
 ――ここは、あたたかい。





 “プラトニック”
 そんな言葉がよく似合う関係。
 由伊はまるで、清らかな天使のような少女。
 あたし―――八王子智―――の穢れた手で触れればどうなる?
 汚してしまうね。美しい純白の羽根。
   それが、
      とても楽しみだったんだ。
 時刻は十八時半。人工庭園は既に夜の様相。
 夕暮れの薄闇は、次第にその色を濃くしていく。打ってつけの舞台。
「智さん、ここで良かったです?」
 由伊は、この庭園で摘んだ小さな花束を手に、壁際を指してあたしを見る。
「うん。ここで渋谷が死んだんだねぇ。」
「……はい。」
 愁傷な顔をして由伊はその場にしゃがみ込み、静かに花を供えた。
 見ず知らずの人間の死を悲しむことの出来る優しさ、か。
 馬鹿げてると思っていたよ。そんな無駄なこと。
 だけど由伊は違う。そんな優しさが、この子のステータスだ。
 可愛いナァ、由伊。
「ねぇ、智さん。……どうして、渋谷さんのお墓参りをしようと思ったんですか?」
「大した理由じゃないよ。」
 ひょいッと肩を竦めて見せては、答えるほどのことでも、と言葉を濁す。
 由伊は不思議そうな表情を浮かべながらも、「そうですか」とあたしから目を逸らし、花を供えた箇所へと手を合わせた。
 肩より少し長めに伸びた黒髪は、艶やかで。唇は可愛いピンク。どちらかというと童顔な顔立ちは、その幼気さをより際立たせる。身長が低いのもポイントだ。
 そんな由伊の姿を横から見つめ、思わず笑みが漏れた。
 こんなに可愛い子がアタシのモノだなんて。生きてて良かったぁ。
「チアキよりイイコだよ、ユイは。」
「……はい…?」
「―――アタシを裏切ったチアキよりも、ずっと」
 つかつかと歩み寄るあたしの姿を見上げ、ユイは少しだけ怯えを滲ませた。
 揺れる瞳。
 アァ、まだあたしを完全に許してはイナイ?
 それでもいいよ。
 ずっと。ずっと欲しかった。
 身体を重ねればきっとキズナとかが生まれるんだ。
 そしたら。そしたらきっと、チアキのようにアタシから途切れてしまうことも、ナイ。
「ユイ、解ってたよね?いつか抱かれるんだって、さ?」
 しゃがみ込んだ由伊の顎に手を当てて、ぐっと上を向かせる。
 その表情には、怯え――……
 ――否。
「………。」
 真っ直ぐな、瞳が、在った。
 最初の頃に抗うかのよう、睨み付けている、とも、違う。
 とにかく真っ直ぐに。それは怖いほど、透き通っていて強い瞳。
 あたしは何も言えずに、由伊を見つめ返すだけ。
「智さんは本当にあたしを求めているんですか?……あたしは誰かの代わりなんじゃ…?」
「……何、言ってるの。」
「チアキさんって誰ですか?ねぇ、智さんはまだその人のことが好きなんじゃないですか!?」
 強い口調で問うた後で、由伊はあたしの手を振り払おうとした。
「黙れ。」 
 ドンッ、と由伊の身体を突き飛ばす。
 供えられた花が、グシャリ、由伊の体重で潰された。
 壁際に思いきり背を打った由伊は、痛そうに顔を顰める。
「チアキのことは捨てた。アタシが捨てた。チアキがアタシのココロを捨てたなら、アタシはチアキの身体を捨てた。壊した!グチャグチャに、内蔵も心臓も脳味噌もぶちまけて死んだんだよぉ、チアキは。アタシは」
 あたしを見上げる由伊の視線に、ふっと言葉が途切れる。
 真っ直ぐな目。
 悔しげに少しだけ、眉を寄せて。
 アタシを睨みつける。
「壊してしまったから、新しいチアキさんを探してるんじゃないんですか?あたしはチアキさんの代わりなんかじゃない!」
「黙れ。黙れ黙れ!!アタシに飼われてる分際で何言ってンの?」
「ひどい……。あたしは、智さんのこと……」
「好きだとでも?ハルを壊したアタシを好きだなんて?言えるわけがない。そんなコト、ありえない。」
「――大嫌いです!」
 プツン。
 ユイの言葉で、何かがキレタ。
 座り込んだユイの元へと歩んで、恐怖にうずくまるユイの身体を蹴倒した。
 ドサッと地面に身体を投げ出され、痛みに顔を顰める。くの字に曲った身体、その腹部を更に蹴った。
「ダイキライ?もう一回言ってみな?アタシのことが嫌い?アタシはこんなにユイのことをアイシテルのに?」
「嘘吐き……智さんは、あたしのことなんか一度も見たことないんだ!智さんはあたしを通してチアキさんを見てるだけ!あたしのことなんか愛してない!」
「黙れ!!何を根拠にそんなことを」
「あたしは智さんのこと、いつも見てたじゃないですか!!」
 ドンッ。
 尚も食いつくようにあたしへ言葉を放つユイの顔に、もろに蹴りが入った。
「う、ッ……」
 ユイはその場にうずくまり、顔を両手で覆う。
 ぽたりと、血液が落ちた。

 血。

 ――血が。

 …血、が……

 彷彿とさせる屋上からの惨状。

 一面に血が飛び散った。

 その真ん中に、グチャグチャの死体が。

 死体が。

「ハルのこと、忘れようって頑張ってました……。ハルを忘れて、智さんを好きになろうって。あたしは、智さんと釣り合いたくて、智さんのことを理解したくて……。憎んでた、けど、」
 無様な顔で。
 鼻血を拭いながら、口の端から血を流しながら、そして涙を流しながら、ユイは紡ぐ。
「…あたしは、智さんのことが好きです。」
「どっちだよ。」
 ユイのそばにしゃがみ込んで、懸命に血を拭うユイの手を取った。
 手の平にいっぱい付着した血液を、舌で舐める。
「……チアキは死んだ。」
 少ししょっぱい血。ユイの体液が混じったその血は、酷く、清らかなもののように思えて。
 赤い聖水。
 アタシを清める聖水。
「もう、チアキはいないんだよ。せいせいした。けど、寂しかった。……血を見る度に、チアキの姿が浮かんだ。だから、いっぱい、殺したんだ。……チアキの姿を思い出せなかったんだ。あのグチャグチャだけを、血を見れば思い出せて。だから、チアキの姿、思い出すためにイッパイ殺した。」
「………」
「けどね、ユイはチアキの生き写しかと思った。ユイの顔がチアキと同じなんだ。ユイを見る度に、チアキが横にいるみたいだった。――あぁ、チアキが戻って来た。アタシの横に。」
「……あたしは…」
「ユイは死んじゃ、だめ。……ユイは、あたしのもの。あたしは、ユイがいなきゃ。もう。」
 何を。言ってルン。だろう。
 わかん、ないよ。
 アタシの横にいるのはチアキじゃないのに。
 こんなにイトシイのは何故?
「ユイは、ユイだよ……。」
 抱きしめる。
 ぎゅ。
 体温がある。
 チアキよりも、あったか。
 チアキの匂いと、チガウ。

 此処に居るのは「千明」じゃない。「由伊」。

「智さん……。」
「千明は、あたしのことを智って呼ぶんだよ。智サン、なんて呼ぶのは由伊だけだよ。」
「……はい、智さん。」
「東京。」
「はい?」
 抱きしめたまま。
 不思議そうな由伊に、あたしは少し笑う。
「八王子。渋谷。……だからね、会ってみたかったんだ。」
「…あぁ。」
「納得?」
「……はい。」
 由伊はコクンって頷いた後で、クスクスと小さく笑みを零す。
 何?
「智さんって、やっぱりわけわかんない。……たったそれだけの理由?しかも、今言うことじゃないですよ、それ。もぅ、ホント、わけわかんない。」
 クスクス。
 由伊が漏らす笑みと一緒に、あたしも小さく肩を揺らす。
 クスクス。
 クスクス。
「そんなわけわかんないところが、好き。」
「……好き?」
「好き。……智さんのこと、大好きだから、あたし…。」
「あたしも好きだよ。由伊のことが。……千明はあたしのわけわかんないトコ、嫌いって言ってた。」
 クスクス。
 由伊はあたしが何か言うたびに、笑う。
 由伊が笑う度に、あたしは笑う。
 クスクス。
 クスクス。
「由伊。……アァ、あたしは。……あたしを好きになってくれる由伊が、好き。」





「智さん。」
 一歩前を歩く彼女の名を呼ぶと、ひょい、と独特の動作で振り向いて、
「なにぃ?」
 と、語尾を伸ばして答える。
 彼女の行動は独特だけど一つの筋が通っていて、あたし―――神楽由伊―――はその筋がようやく読めてきたように思う。確認のために名前を呼んだ。それ以上の用事はなかった。
「いえ、えっと、なんでもないです。」
 と言葉と濁すと、智さんは「ふぅん?」と小さく口の端を上げ、またあたしに背を向け歩き出す。
 あの後、すぐに庭園を後にして、あたしたちは一度部屋に戻ることにした。
 部屋に帰っても、多分智さんはまだあたしを抱かない。
 二人して笑い合った。それは清らかな雰囲気で、きっと彼女の情欲も掻き消した。
 想いが通じたようにも見える、そんなあたしと智さんだけれど――
 彼女があたしを想うなら、あたしは彼女を想わない。
 やっと見えてきた。……この人の強さと弱さ。
 諦めなくて、良かった。
 
『チアキのことは捨てた。アタシが捨てた。』
『壊した!グチャグチャに、内蔵も心臓も脳味噌もぶちまけて死んだんだよぉ、チアキは。』
『アタシに飼われてる分際で何言ってンの?』
『黙れ。』

 征服欲。
 唯我独尊。
 千明という一人の女性。
 トラウマ。
 孤独。

 智さんって、なんて弱い人なんだろう。子どもみたい。
 彼女の良い所。悪い所。全部ひっくるめて、子どもみたいなの。
 だけど智さんはすごく頭がいい。だから、質が悪い。
 彼女の裏をかくことは難しいこと。きっと智さんは裏の裏まで見透かすことが出来る人だ。
 ならばあたしは。
 裏の裏の裏まで考えて、考え抜いて!

 やっとここまで来た。
 傍目に見れば、あたしはずっと彼女に征服されているだけだったのかもしれない。
 だけど、あたしの中ではずっと戦っていた。
 時に、戦況不利。このまま彼女に身を委ねてしまえれば楽かとも思ったの。
 ハルはもういない。次第に消えていくハルへの想い、そんな自分の感情が怖かった。
 けれど。
 今、こうして彼女があたしの前で弱さを見せた時、戦況は一気に変わった。
 あたしにも勝機はある。そう確信した。
 もう惑わされたりしない。あたしは、あたしは智さんに屈したりなんかしない。
 そして智さんに勝ってみせる。――絶対に!





 長い休暇は、由伊とのよくわからない喧嘩から始まった。
 喧嘩の後の仲直り。
 由伊は、あたし―――八王子智―――のことを好きだと言い、
 そしてあたしもまた自然に、由伊のことが好きだと、そんな言葉が勝手に零れた。
 これがあたしたちの本音?あたしたちの関係?
 今一つピンと来ないんだけど、もしかしてあたしたちって、両想いってヤツなんだろーか。
 由伊の中にはまだハルが居て、あたしの中にはまだ千明が居る。
 それはトラウマであり、悲しい思い出でもあるはずだ。
 だから、あたしは由伊に癒しを求めている?千明ではなく、由伊という新しい恋人を、心から愛したいとか、そんなことを思っている?
 由伊は?由伊はどうなんだろう?
 きっと由伊はあたしに傾いているはず。じゃないと、好きだなんて普通言わない。憎むべき相手に、笑顔なんか普通見せてくれない。
「……けど。」
 あたしは自室のベッドに腰掛けたまま、伏せていた視線をシャワールームに続くドアへと向けた。
 小さく聞こえる水音、由伊の存在証明のように思えた。
 由伊という一人の人間。彼女の心が何よりも知りたい。
 恋とかそんな次元の話ではなく、それ以前に。――自己防衛のために。
「けど由伊は、あたしを憎んでいるはず。由伊が見せる笑顔が本物なのか。それとも…偽物なのか。」
 これが唯一の恐怖。由伊がもしあたしを裏切ったらどうなる?
 あんな浅はかな子供が。たかが中学生。たかが十五歳。そんな計画的なことが出来るのか。
 今までのあたしならば、ありえない、と安易に否定していたところだろう。世の中は低レベルな人間ばかり。
 あたしのような、ハイレベルな人間は一握り。
 ……だけど。万が一、由伊がそのハイレベルな人間だったら。
 もしそうなら、あの笑顔もあの言葉も、何もかも全て偽物ということだ。
 そんな危惧が、つきまとっていた。
「智さぁん、シャワー浴びますー?」
 そんな声が、ドアの向こう側から聞こえる。とても、策士とは思えぬような、明るい声。
 一人で考え込んでいれば疑心暗鬼になるけれど、実際、由伊と顔を合わせていると、やはりこの子は考え深い人間なんかじゃないでしょーと思い直したりもする。
 今、大事なのはどっちだろう。熟慮の結果か、それとも彼女の笑顔からのインスピレーションか。
「面倒だから後で浴びるぅ。」
 そう言葉を返し、あたしはベッドから立ち上がる。「はーい」と返される返事を聞きつつ、外へと通じる扉のドアノブに手をかけた。と同時に、洗面所のドアが開き、顔を覗かせた由伊が不思議そうな表情を浮かべる。
「智さん?どこ行くんです?」
「……散歩。」
 短く答えて部屋を出た。
「気をつけて下さいね。」
 と、背中に掛けられる声にちらり振り向いて、後ろ手に扉を閉めた。
 ―――パタン。
 廊下の温度は室内よりも少し低い。ひんやりとした空気は、十一月中旬の外の気温とも共通したものだろうか。いい加減、半袖Tシャツの上にジャケットを羽織った格好も寒いとは思うんだけど、CHANELもどきのロゴマークが入ったこのTシャツはあたしのマイフェイバリット。
 そんなことを考えつつ、足を向けたのは十階にある衣服室だった。別に着替えたいとか新しい服が欲しいとか思って部屋を出たわけじゃないんだけど、行く先を考えながら歩いていて、そろそろ新しい服のレパートリーが欲しいかな、とか思ったわけで。
 誰かと遭遇する可能性も頭には入れていたけれど、衣服室までの道中、人影は一つもなかった。
 今は戦闘発生の危険性はないとは言え、なんだかんだで知らない人と顔を合わせるのは気まずいものだ。
 誰にも会わなかったという安堵を感じつつ、衣服室の扉を開けた。
「あ。」
「ぅ?」
「……。」
 一瞬。空気が凍てついた。
 まさか先客がいるとは思わず、しかも、その二人が抱き合っている上に片割れが裸に近い状態なのだから。……そりゃ驚くや。
「あ、あ、あーっと!失礼!!」
 裸じゃない方の女は慌てたように言いながら、裸…上半身が下着のみ、という格好の女を試着室に押し込んだ。
「なんなのよぉ!――きゃわぁっ?!」
 押し込まれる方はそんな不平を漏らした後、悲鳴…と同時に、どすんっと倒れ込むような音が試着室から聞こえた。大方、押し込まれた時にバランスを崩し、中で尻餅をついたって所だろう。
 シャッ、と試着室のカーテンが閉められ、押し込んだ方――…茶髪にピアス、少しルーズな服装のちっこい女は小さく吐息を零す。その後であたしに向き直ると、繕うような笑みを浮かべて、
「あー…誤解しないでよ?ほら、あの、アレだ、えーと……」
 と、何やらぶんぶかとメジャーのようなものを振り回しつつ弁解を始める。
「サイズ測ってたとか?」
 彼女が言わんとすることを察して問い掛けると、彼女はピッとあたしを指差して、「それ!」と頷いた。
 まぁ、事の真相はどうであれ、バッドタイミングであったことは間違い無い。
「……お邪魔してゴメンネ?……キタキマヤさん。」
 小さく謝罪の言葉を述べつつ、あたしは室内を見回し、手近な洋服ラックに歩み寄った。邪魔は邪魔だろうけど、あたしだって目的があってこの部屋に来たわけだから。
「知ってんの?あたしのこと。」
 そんな言葉に顔を向けると、きょとんとした様子で女――キタキマヤは、あたしを見つめる。
「……まぁーね。そこそこに芸能通なモンで。」
 マイナーなアーティストだったなぁこの人も、とか思いつつ、掛けられた洋服を眺める。あたしのお眼鏡に適う服は見当たらない。首を捻りつつ、次のラックへと向かった。
「そりゃ光栄ですこと。天下の少年犯罪者さんに名前知っててもらえるとはね。八王子智、だっけ?」
「呼び捨て?…別にいいんだけどさぁ。」
 そんな会話を交わしつつ服を眺めていると、暫く沈黙を守っていたもう一人の女が、突然声を上げる。
「こらぁーっ!んもぅ、私のことはシカトなのー?まぁやもまぁやだよ!お尻打っちゃったじゃなぁい。」
 やけに猫撫で声というか、いや、元々そういう声なんだろうけど、そんな高いトーンの文句が試着室から聞こえてくる。
「うっさいわね、あんたは早く上着を着なさい。って、こら、引っ張るんじゃないの!痛いってば。」
 喧嘩越しの二人の会話、少し気を引かれて再び目を向けた。試着室のカーテンの隙間から伸びる手と、キタキマヤの……右、手首。今頃になって気付くには、少し目立ちすぎる物質なのかもしれない。
 二人の手を繋いだ、手錠。
「ねぇ……付かぬ事を伺いますが?」
 そう声を掛けると、カーテンからひょこんと顔を出したもう一人の女。少し青みがかった髪に、先程の声色と一致する、どこか猫っぽい雰囲気を持った女。なんだっけ、中谷?とか、そんな名前だった。 
「……それ何?」
 指を差したけれど、この距離で二人の間にある手錠を示すことが成功したのだろうか。二人はきょとんとした様子であたしの差した指の先を目で追っては、二人同時に納得したように「あぁ」を漏らす。
「これはね、ちょっとした事故で」
「これはね、二人の愛の証で」
 同時に聞こえてきた説明に、思わず眉を顰める。
 二人のちょっとした愛の事故の証?一体何のことやら……。
「まぁや、事故ってなによぉ?事故じゃないでしょ、これは私たちの」
「真苗こそ、またそういうわけわかんないこと言って。単なる事故でしょ?どう考えても?」
「違うよぉ、私がわざとやったんだもん。」
「……あぁ、そういやそうだったわね。で、遊びでやったとして、普通、鍵無くしたりなんかする?」
「それはッ……だ、だってぇ…。」
 そんな痴話喧嘩みたいな会話を聞いていてあたしが察したのは、
「こいつら、ただのバカップル?」
 …ということ。
 チラリと二人に目を向けると、今尚喧嘩真っ最中らしく、あたしの呟きは耳に入っていないらしい。
 相手にしない方が吉かも。今がもしも殺しオッケーだったとしても、手を下すことすら馬鹿馬鹿しいような気がする。こんな緊張感のない参加者もいたんだ。……あたしも人のことは言えないかもしれないけど。
 何気なく洋服を眺めつつ、とりあえず髑髏のロゴとか良いかもしれないなんて思いつつ、幾つかの服をチョイスする。あたしはゴシック系かな、やっぱ。……由伊なら、ロリータ?あたしたちを足して二で割れば、丁度ゴスロリが似合うそうな感じだ。あそこに居る中谷ならゴスロリとか似合いそうだけど。
 由伊の服も何個か選んで行こうかな、なんて思いつつ少女趣味のコーナーに移動した時だった。
「ねぇねぇ智ちゃんもこういうの好きなの?」
「はぁ?」
 突然傍から掛けられた声、怪訝に聞き返す。そこには満面の笑みを浮かべた中谷の姿と、手錠のせいで引っ張られてきているキタキの姿があった。因みに中谷は一応上着を羽織っているものの、袖を通していない状態なのでピンク色のブラ丸見えだったり。どうでもいいけど。
「ちょっと意外な感じかなぁ。あ、でも智ちゃんってリボンとかつけたら、案外可愛いかもね?ほら、こんなのどう?」
 言って中谷が手にした服は、フリル付きまくりの少女趣味なワンピース。
「……それをあたしに着ろと?」
「うん。」
「ありえないー。」
 バッサリ却下しつつ、あたしが手にしているのも、また似たような服であって。
 あぁそっか、由伊のために選んでいるんだけど、それを自分用なんだと勘違いしてるのかぁ。
 あたしにリボンなんかつけたら、本当にわけわかんないことになってしまうこと請け合いだ。
「そーゆー服は中谷サンが着れば?そっちの方が断然似合うよぉ。…ねぇ、キタキさん?」
「えッ?な、何が?」
 いきなり会話を振られて戸惑う様子のキタキ。此処で同意されたらバカップル決定なんだけど。
 キタキはあたしと中谷が手にする少女趣味の服を見つめた後、小首を傾げて考え込み、
「真苗はどっちかって言うと、セレブなスタイルが似合うんじゃないの?」
 と、何やら真面目な意見。せ、セレブだぁ?
「そうなの?私ってギャルっぽく見られるんだけど」
「性格はね。でも、着てみると似合うと思うわよ、真苗って人形みたいだから。」
「人形?」
「フランス人形、日本人形、…ある意味ぬいぐるみも含む。」
「はぇ?」
 きょとんとした様子で聞き返す中谷。あたしも同じ感じだ。半分冷やかしで話を振ったのに、こうも真面目に返されるとは思わなかった。
「真苗は和服も似合うと思うし、そういうロリータ物なら、もっと色を押えたやつの方が。それこそゴスロリなんか似合いそうよね。後はフォーマルドレス。一回着せてみたいんだよね。」
「私は着せ替え人形じゃないんだけど……。」
「誉めてんでしょ?あんたは美形だから何でも似合うの。」
 ………。
 バカップル、だと思うんだけど。なんだろう、この冷たい言い草。
 キタキの言ってることは誉め殺しなのに、どうにもこうにもなげやりだ。 
 なげやりなんだけど、キタキの言ってることは納得出来る。中谷のこと、よく観察してるなぁって。
 一体何なんだろう、この二人。―――恋人?恋人じゃない?
「真苗が綺麗なのはね。」
 不意に、キタキが言葉を切り出した。
 自由な左手で何気なく洋服を眺めつつ、ふっと、小さく笑みを浮かべて。
「恋をすると女の子は綺麗になるって、よく言うでしょ?――八王子もさ、もしかして恋してる?」
 いきなり、そんなことを言うものだから。由伊の顔が一瞬浮かんだけど、すぐに打ち消した。
「まさかぁ。こんな戦場で恋なんかしてる暇ないっつーの。」
 そんな風に少し強がりに返したけれど、キタキの微笑を湛えた横顔は、何か見透かしてるような気がして。
 思わず、ガシャン、と音を立て、少女趣味の洋服をラックに戻す。自分では着ることもないような洋服を手にしていることこそ、恋をしていると名言しているようで気恥ずかしい。
 ……やっぱりこの二人は、恋人なのか。
「まぁや。それ、変だよ。」
 少しの沈黙を破ったのは、中谷がぽつりと零した一言だった。
 何が?というように目を向けるキタキへ、中谷は少しだけ困ったような笑顔を浮かべる。
「真紋だって綺麗だもん。…恋、してるの?」
 そんな問いかけ。――え?なに、こいつら?恋人じゃない?ないの?
 中谷の問いに、キタキは小さく片眉を上げ、少しの間押し黙る。そしてふっと吐息に似た笑みを漏らし、ひょいっと肩を竦めてみせた。
「ふふ。私は恋なんかしてなくても綺麗なのよ。」
 はぐらかすような答え。
 ―――なるほど。この二人は恋人じゃないんだ。
 でもさ。見てればわかるよ、こんなわかりやすい態度。
 相思相愛のくせに、どこかで歯車が噛み合ってないんだ。
 ……まるで、あたしと由伊みたい?
「キタキ。」
「ん?」
「恋をしてなくて綺麗って言うのは、嘘だよねぇ。」
「………」
 あたしの言葉に、同じくらいの背丈のキタキは、真っ直ぐに視線を合わせて。
 数秒後、困惑がちに目を逸らす。その視線の先には、あたしたちより少ぉしだけ背の高い中谷の姿。
「嘘なんでしょ?」
「嘘じゃないって。…でも、極めて例外的であることは間違いないわね。」
「あっそ。」
「……何よ。」
 微妙なやりとりの後、あたしは中谷に目を向けた。
 彼女は不思議そうな様子で、あたしとキタキに交互に目を向け、小首を傾げる。
 こいつはこいつで、超が付きそうなほどに鈍いってワケ?
「まぁいいや。とりあえず覚えといてあげるよぉ、その格言。」
 あたしは笑みを一つ浮かべ、二人に背を向けた。
 チョイスした服、紙袋に詰め込んで、それでもう衣服室に用事はない。
 扉へ向かい、ドアノブに手を掛けた時だった。
「ねー智ちゃん。今度この服着てみてよぉ。」
 そんな中谷の声。この服というのはどうせ、さっきの少女趣味だろう。
 目を向けるわけでもなく、
「気が向いたらー。」
 とだけ返し、扉を開く。
 ひゅぅ――と少しだけ冷たい風が、通り抜けた。
 あの二人は、あたしの反面教師だろうか。想い合っているのに通じないなんて、馬鹿げてる。
 そんな無意味な関係の行く末、予想するとすればそれは――バッドエンディング。
 あぁそうか。こんなことを認めるのは少し歯痒いかもしれないけれど。
 ―――あたしは由伊の笑顔を、真っ直ぐに受け止めよう。ハッピィエンドのため、に。
 そんな小さな決意と共に、衣服室を後にする。
 帰ろうか。由伊の待つ自室へと。








Next →

← Back
↑Back to Top