BATTLE ROYALE 20




「だぁーっっ。」
「なぁっ!?」
 それは突然の強襲だった。真苗が私―――木滝真紋―――に、襲い掛かってきた。
 といっても、武器やらを手にしているわけではない。ただ、ガバッと飛び掛ってきたのである。
 部屋の中央で掛けられたその強襲。私は完全に油断していた。
 二人、ベッドに折り重なるように倒れこむ。
「…い、ったぁ…。何すんのよ!!」
「えへへ。」
 私が文句を言っても、真苗は緩んだ顔で笑みを返すのみ。
 え。……な、何?真苗、なんか変な物でも食べた?いや、まさか。
 一抹の恐怖を感じた私は、思わずポカン!と真苗の頭を殴っていた。
「痛ぁい!なにするのよぅ。」
「いやだから、それはこっちの台詞だっての!!」
「……むぅ。真紋ってばつれないんだから。」
 完全に真苗にペースを握られているような気がした。
 いつもはすぐ怯んで泣きそうな顔をする真苗なのに、今日は終始笑みを浮かべたまま。
 怪しい。怪しすぎる。
「何考えてるの。言うのよ。言いなさい。」
 ビシッと厳しい口調で言って、少し睨みつける。
 しかし真苗に乗っかられたままでは、どうにもこうにも分が悪い。
「えぇー言っていいのかなぁ。」
 わざとらしい口調で真苗は視線を逸らしては、ポリポリと頬を掻く。
 こ、こいつ……。
「んっとねぇ」
 ニコニコと笑顔を浮かべ、真苗は焦らすような口調で切り出した。
 私は不機嫌に、続く言葉を待つ。
「……エッチしよう。」
「絶対イヤ。」
 真苗の言葉に即答した。
 勘弁してよ。お願いだから。
 最近ようやく大人しくなってくれたと思ったのに………。
「お願いだよぉ。んもぅ、生理ってホント身体疼いちゃってイヤんなっちゃう!ほら、夜這いされるよりマシでしょ?ね?ね?」
 その懇願の言葉には、真苗の中に「エッチしない」という選択肢は存在しないかのよう。
 う。勘弁して下さい。本当に。お願いだから。
 弱みを見せてはいけない。ここは手厳しくあしらうのみだ。
「恋人でもないのにエッチなんて言語道断。帰れ!と言いたい。」
「帰れってどこに帰るのよぅ。わかんなぁい。……恋人じゃなくてもシてくれたじゃない。最初の日。」
「そ、それとこれとは別!」
 今日の真苗はありえないくらい強引だった。
 私は必死の抵抗を試みる。しかし諸に乗っかられた上に体重を掛けられた真苗の身体はビクともしない。
 マズイ。これは果てしなくマズイ。なんとしてでも説得しなければならない。
「こないだのはついやっちゃだけだし。ほら、あの時あんた自分でするとか言ってたじゃない。それなら特別に許すわよ?私は耳塞いで見ない振りしててあげるから。ね?」
 この際それでもいいや、と半分なげやりだった。
 しかし。
「一人なんて味気なぁい。まぁやにして欲しいのっ。」
 と、それすらも認めなかった。嘘でしょ。
 ……必死で思案、二十秒。その間にも真苗は「お願い!」とか「いいじゃない」とか言って来るわけで。
「私はそういうの認めないの。あんた恋人居るじゃない。浮気の手助けなんか絶対しないんだから。」
「浮気じゃないよ?」
「はぁ?」
「息と一緒よ。ほら、なくてはならないもの。」
 めちゃくちゃな論理立てで、「だからいいでしょ?」と真苗は続ける。
 良くない。良くない。良くなーい!
 何故良くないかって。……身体重ねると、情が移っちゃうのよ。
 ……これ以上、真苗のこと好きになったりしたら、それこそ取り返しがつかなくなっちゃう。
「人間ってのはね、性欲は抑制しても生きていける作りになってるの。」
「嘘だぁ。」
「嘘じゃない。」
「あ、じゃあ私はね、そのブレーキが壊れてるんだよ。それなら説明つくでしょ?」
 と、自慢げに言う真苗に、思わず溜息が漏れた。
 何をどう考えたらそうなるのよ。
「お願いです。まぁや様。……あたしにはまぁやしか頼める人がいないの!ねぇ。可愛い真苗ちゃんのためだと思ってぇ…」
「泣き落としなんか通用しない。まずは退きなさい。そしたら冷静に交渉してあげるから。」
「ヤダ。」
「な……」
 ぷい、とそっぽを向いて私の言葉を拒否した真苗に、思わず言葉を失った。
 ま、まずい。とことんまずい。
 根性で押し退ける手もあるけど……さすがに気が引ける、というか……。
「お願いお願いお願ーい!本当に一生のお願いだから!」
「絶対にイヤ!!」
「お願い!!!」

 ………。
 ………。

 ……………
 一時間後。
「お願いだよぉ、まぁや!!」
「あーーもう!」
 こんなに長時間の言い合いを続けても、真苗は一向に退く様子が無い。
 そして私は既に、気力が尽きかけていた。
 というか…お、重くて……。
「まぁやがしてくれなきゃ退かないんだから!」
 そんな真苗の言葉に絶望感を感じた私がバカだった。
「んもぅ……!一回だけよ!?」
 そう言いきった瞬間、真苗がぱぁっと表情を明るくするのと相反するように、私はへろりと力が抜けてベッドに身体を投げ出した。と同時に、深ぁい溜息。
「本当?本当に本当?」
「……ホント。」
 溜息混じりにそう頷いた、次の時――
「ン。」
「……ッ!」
 真苗の唇が私の頬に触れて、不覚にも心臓が飛び上がりそうなほどだった。
 や、ヤバイ。
 真苗と身体なんか重ねたら、取り返しつかなくなるって……――
「まぁや。私がしてあげるね。」
 真苗はどこか妖艶に笑んで、私に言葉を返す隙を与えぬままに唇を寄せた。
 微かに濡れた柔らかな唇。
 あぁ。この感触。
 ゾクンと、震えるような感覚が腰から背に駆け抜けた。
 ヤバイ。ヤバイってば。
 頭の中で鳴り響く警告。身体を動かそうとしたけれど、真苗の体重が長時間掛けられていた所為で、私の身体は思うように動いてくれない。
「ま、真苗……やっぱ、止めない…?」
 と、訴えかける私のその声が、あまりにか細いものであることに驚いた。
 なんでこんなことになっちゃうワケ……。
「止めるわけないよ。…真紋がいいって言ったのよぉ?」
 勝者の余裕がそこにはあった。
 真苗は薄く笑みを浮かべると、私のまぶたに軽いキスを落とす。
 そして彼女の舌先が、私の頬から顎、首筋へと降りていく。
 生温かい感触に、小さく身体が震えた。
「あ、…ッ。……や、…」
 小さく頭を振る私の髪を、真苗の自由な右手が梳いて行く。その指先の動きすらも、どこか妖艶で。
 忘れていた。この子はセックスに関しては、スペシャリストなんだ。
「真紋の感じる姿って……可愛いの。」
 耳元で囁かれる言葉に、身体が熱くなるのを感じた。
 真苗は舌先で私の首筋を丹念になぞった後、そこに吸い付くように、キスマークをつけていく。
 皮膚を軽く甘噛みされれば、信じられない程、その部位が熱を持って行く感覚を覚えた。
 そして真苗の右手は、服越しに私の胸元を探る。
「や、ヤダ……本当に嫌…ッ…!」
「嫌なのは今だけ。すぐに気持ちよくなれるんだから。」
 あぁ、立場逆転とはこのことか。
 真苗の愛撫が、真苗の囁きが、私の全てを打ち負かしていく。
 このまま快感を享受してしまったらどうなる?
 ―――私は真苗から、抜け出せなくなる?
「ハ、ぁッ……ダメ…本当にダメなの……お願い、許してよぉ……」
「こんなに息を乱しておいて?……今止めても、我慢出来ないでしょ?」
 クスクスと真苗の漏らす笑みが、更に欲望を掻き立てた。
 怖い。
 堕ちて、堕ちてしまう―――!
「濡れてるの。」
 耳に掛かる熱い吐息と、囁き。
 薄く開いた目に映るのは、どこかその頬を紅潮させた真苗の微笑み。
 下から聞こえる小さな水音は、誰のもの?
 ただ。探るように触れる指先は、私の敏感な箇所を弄って、高めて行く。
「ま、なえ……壊さ、ないで……」
「まさか。だって、まぁやだもん。とびっきり優しくしてあげる。」
「イヤ、違うのッ……!」
 涙目で懇願しながらも、このまま指を止められてしまったら、と考えると。それは恐怖に他ならない。
 あぁ。止めないで。このまま連れてって。
 いや。お願いだから止めて。これ以上本気にさせないで。これ以上したら私は――。
 いつしか私の瞳から、涙が零れていた。
 それに気付いたのは、頬を伝った温かな水を、真苗の舌が舐め取った時。
「泣いてるの?……どうして?」
 気遣うように囁く真苗の言葉が、益々涙を溢れさせた。
 子どものように、感情を涙でしか語れない。そして与えられる快楽に、逆らえない。
 私の内部で欲情を掻き立てる指先は、止まる事を知らずに。
 溢れる。溢れる。止まらないよ。
「真苗…ッ…」
 しがみつくように、左手で真苗を抱き寄せた。
 あぁ。おかしくなる。このままじゃ。
 壊れてしまう。ねぇ。壊さないでよ。
 私が必死で堪えてる感情。必死で感情を咳き止めてるダム。――壊れて、しまう…。
「真紋…?……大丈夫よ。私はそばにいるし、…ねぇ、何が怖いの?」
「ひっ…ク……。…あ、…ッ ――私は…!」
 だから嫌だって言ったの!!
 情欲が本能を押し流す。理性が弾けて消えてしまう。
 イヤ。イヤだ。 イヤァァァァァァッッ!!

 ―――……。
 ふっと気付くと、明るい天井が目に入った。そのまま視線を窓へ向けると、まだ陽は高い。
 ひんやりとした空気が、身体を這う。そっと左手で腹部に触れた。
 たくし上げられた服と下着。上着だけを少し下ろして、胸元を隠す。
 あぁ。どうやらデニムも下ろされているようだけど、下着はつけられていた。不快感もない。
 私……気をやっていた?……けれど、そこまで長い時間ではなかったようだ。
「真紋。気がついた?」
「あ……」
 掛けられた声に、顔を横へ向ける。私の隣で同様にベッドに身を横たえていた真苗は、私の顔を見て安堵したように小さく微笑んだ。
「心配したんだから。……もう大丈夫?」
「…うん。」
 微苦笑を浮かべ、小さく頷く。
 そんな私の頬に、真苗が静かに触れる。指先で撫ぜた後で、手の平で私の頬を包んだ。
「――嬉しかったよ。」
「え?」
 ぽつりと呟いた言葉を聞き返す。
 その後で、かぁっと頬が紅潮していく感覚。
「ば、バカッ。……普通、そういうこと言う?」
「……だ、だって嬉しいんだもん。」
 互いに、どこか気恥ずかしく視線を逸らした。
 それでも真苗の手は触れたまま。その温もりがどこか嬉しく、私は彼女の手にそっと自らの手を重ねた。
「もうちょっと休んでなよ。……疲れちゃってるんだよ、真紋は。」
「そうね。…あんたが一時間も乗っかってるからでしょ?」
 皮肉を利かせて小さく告げて、私は静かに目を閉じた。
 真苗の言う通り、心も身体も疲れてる。
 ふっと眠りに落ちてしまえそうなほど、まどろみはすぐにやってきた。
 ぼんやりとした意識の中。隣で真苗が何かを言っているような気がするけれど、よく聞こえない。
 ストン。
 呆気なく落ちた眠りの、直前に。
 真苗が耳元で囁いたような気がした。
 ―――きっと幻聴だろう。私は疲れてる。
 それに、真苗がそんなことを言うはずが無い。
 とすればそれは夢の中?
 そう。夢の中ならば構わない。
 夢でいい。せめて夢だけで、囁いて欲しい。
「真紋。……愛してる。」
 あぁ。真苗。
 私も愛してるわ。
 ――……夢の中、だけで。





 管理人室の中でも、ほんのごく僅かなスタッフしか出入りを許されない部屋。
 それは、私―――闇村真里―――の個人部屋である。
 内装は参加者に宛がわれた部屋とそう変わらない。
 違うと言えば、窓に黒いフィルムが張られていないことくらいか。ここからは景色が綺麗に見える。
 この部屋で寝起きするようになって一週間弱。
 私は初めて、このベッドに自分以外の人物を寝かせた。……というのは回りくどい言い方。
 要するに抱いた、ってこと。
「………」
 水夏は上半身を起こし、ぼんやりと外の景色を眺めながら煙草を吸っている。
 ベッドサイドに置いた眼鏡。裸眼の瞳は、その情景がぼやけて見えていることだろう。
 私は彼女の隣で身を丸めて、煙草を吸う横顔を斜め下から眺めていた。
 ――これじゃ、どっちが男役なのかわからないわね。
 まぁ、そんな趣きもたまには悪くないかしら。
「水夏?……終わった後に煙草を吸ったりしている様じゃ、女の子は喜ばないわ?」
「え?…あ、あ、ご、ごめんなさい。」
「不甲斐ないわねぇ。」
 慌てて煙草をベッドサイドの灰皿に揉み消す姿を、クスクスと笑いながら見つめる。
 フリーになった手をパタパタとはたいた後で、コホンと気を取り直すような咳き払い一つ。
 そして水夏はベッドに片手をついて、私の方へと顔を下ろす。
 まだどこか緊張した面持ち。そんな姿が可愛くて、私はするりと彼女の脇腹を撫ぜた。
「!!??」
 突然のことに驚いたのか、目を白黒させながら水夏はピョコンと小さく跳ねた。
 んもぅ。可愛いんだから。
「ウフフ、冗談よ。……さぁ、淑女らしくリードして見せて?」
「は、はいっ。」
 水夏は私の手に警戒しながらも、先程と同様に顔をゆっくりと下ろし、キスを迫った。
 ふっと、至近距離で顔を止めると、水夏は真っ直ぐに私の目を見つめ、
「闇村さん…。……綺麗です。」
 と、言い慣れていないようにぎこちなく囁く。
 彼女の全ての挙動が初々しくて可愛い。素敵だわ十八歳って。
 十代のうちは本当に全てが初々しいのよね。
 ……そう。美雨もあの頃は純粋で可愛かった。
 あの子はファーストキスの時さえも頬を赤く染めたりはしなかったけれど。
 だけど、美雨は感情が揺れ動く時、困った様に小さく呼ぶの。「闇村先輩……」
 そんな美雨が、可愛くて仕方なかった。
 彼女は、―――私が初めて愛した人。
「綺麗、です……」
 水夏は私の髪を梳くように指を滑らせ、そっと唇を寄せた。
 甘いキス。食むようにじれったく触れさせる動きは、一体どこで覚えたのかしら?
 少し強引に求めたいところだけど、今は水夏に任せなくちゃね。
 水夏。貴女は気付かないでしょう。…――貴女のキスを受けながら、私は別の人を想っているのよ。
「闇村さんは、このようなことを何人もの女性と……」
 唇を離して水夏が呟いた言葉に一瞬ドキッとするけれど、それは偶然に思議が重なっただけだった。
 嫉妬。……水夏って独占欲が強いのね。
 そんな感情は、静めるよりも掻き立てる方がずっと楽しい。
「そうよ。葵、美咲、真昼、朔夜、あぁ、涼子もね。」
 水夏が知っているだけの名前を挙げた後、ふっと、言葉を続けるかどうか迷ったけれど。
 今は言わないで置こうと思った。水夏はこの名前を出せば、冷静さを欠く可能性もある。
 心の中で付け加えた。『――……美雨とも。』
「ずるい。……佐久間や、他の二人を消すことは出来るけれど、三宅さんはスタッフだから……」
「消せない?…フフ、そうね。それじゃあ、あの子が私を諦めるように仕向ければいいじゃない。」
「三宅さんを、ですか…?」
「ええ。涼子が私を求めないならば、あの子は用無し。……そうなれば、こちらから“消す”ことになる。」
 微笑と共に告げると、水夏は真に受けたように真摯な表情で考え込んだ後、ふっと薄く笑みを浮かべた。
「貴女には敵いません。……そんなことは不可能です。」
「あら?諦めが早いのね。」
「わかってて言ってるんでしょう?」
 水夏は、「もういいです」と肩を竦めて苦笑しては、両方の手をベッドにつけ、私に覆い被さる。
 再び交わされるキス。会話で嫉妬心を煽られた所為か、水夏は先ほどよりも積極的に私を求めた。
 二つの舌、幾度触れては、絡み合う。
 水夏は頭がいい。涼子が私から抜け出せない領域まで来ている事を理解している。
 故の部下なのだということもね。三宅涼子という人間は既に、私が無ければ存在し得ない。
「ン、…ふぅ。……あなたは不思議な女性です。キス一つで、こんなに狂わせるなんて。」
「こんなに?」
「……。」
 問い返した言葉に、水夏は僅かに頬を赤らめて沈黙する。
 その意図を察して、小さく笑みが零れた。可愛いわねぇ。
 水夏が言っているのはおそらく、“心も身体も”という意味なのだろう。
 そんなことを言われてしまっては、どんな風に狂わされているのかを確かめたくもなるけれど……
 イケナイ。今の私は“受け”なんだから、ね。
「もっと攻めて。女のコにこんなこと言わせちゃダメよ?」
「……はい。」
 彼女の手を、自らの身体に導いて。おずおずと撫ぜる拙い触感を楽しんだ。
 恍惚に目を細め、何度も彼女の名を囁く。
 私は物理的な快楽を。そして彼女へは精神的な快楽を与える。
 一方的に見えて、それは互いを高める行為。
 私は特別なことなんてしていない。
 すごいのは、私の言葉だけで感じることの出来る少女の方なのよ。
 フフ。なんて楽しいのかしら。
 少女の快楽。其処に、洗脳というクスリを含ませて。
「あぁ、…もっと頂戴。……もっと。」
「闇村、さんッ――…!」





 ドキドキドキドキドキドキ。
 あたし―――沙粧ゆき―――は今、人生で一番の緊張を迎えているかもしれない。
 ザァァァ、とシャワーで身体を洗い流している間にも、心臓の動悸はどんどんペースを増していく。
 このシャワールームを出たら。あ、あたしは。…あたしは……!!!
 と、すっぽんぽんで一人、感慨に耽っていた時だった。
「遅すぎるッ!」
 突然バタンと開いたシャワールームのドアから、そんな声。
「わ、わーっっ!」
 と驚きに声を上げつつ、シャワールームの入り口から遠ざかろうとしつつ、振り向こうとしつつ、身体を隠そうとした。そんな色んなことを一気に出来るわけもなく、わけもわからず足を絡めて、あたしはステンッとその場に転んでしまう。
「わ、バカ!危ないだろ。」
 顔を覗かせた霜先輩は少し慌ててあたしに近づき、しゃがみ込んで「大丈夫?」と目の前に手を翳す。
「きゃ、きゃーーーッッ!!!!!」
 目一杯の悲鳴をあげながら、あたしは何とか霜先輩から逃げおおせようと必死。
 だ、だ、だって!恥ずかしすぎる!嫁入り前の裸を見られちゃうなんて!
 …て、言うか、その、い、今から見せる予定ではあったんだけど、けど、でも、そのーーッッ!!
「ええい、うるさいッ!」
 霜先輩に背中を向ければ、その背をペチンッ!と思いっきり叩かれた。
 い、痛ぁーい!絶対今のは手形残ってるよ!うわーん…!!
「……その、私も脱げば問題ないだろ?」
「へ?」
 霜先輩が少し恥ずかしげに切り出したその言葉に、あたしは目を丸くして振り向いた。
 咄嗟のことで忘れていたけど、霜先輩は元々バスタオル一枚を巻いただけの姿。
 そのバスタオルをハラリと外せば――……
 は、外せば……
「霜先輩!パンツは脱いでくださいよぉ!!!」
「う、うるさーい!そんなの私の勝手だ、バカ!」
「不公平ですよぉぉッ!」
 胸元を両手で隠しつつ、ぺたんと座り込んで不貞腐れる霜先輩に大声で叫ぶ。
 大声で。我を忘れて。…… 我を?
「……ゆき。お前、胸ぺったんこだな。あれだ。洗濯板。」
「きゃああぁぁぁぁッッ!!!」
 我を忘れてついでに隠すのも忘れていた胸を、慌てて両手で覆う。
 と同時に、下半身も隠すように足を閉じた。
 あーーんもう!恥ずかしすぎる!!せ、洗濯板とか言われちゃうし…!!
「そ、霜先輩は胸おっきぃですね……」
 ちょっと涙目になりながらも、おかえしとばかりにじぃーと霜先輩の胸を注目する。
 手で寄せて隠しているせいもあるのか、微妙に谷間すら見えたりして。う、羨ましい……。
「………。」
 あたしの言葉に、霜先輩はどこか照れたような様子で視線を逸らした。
 何も言葉を返さないのも、照れているからなの、かな。
 そんな霜先輩が……なんだか可愛い。
 会話が止まった二人。シャワールームにぺたんって座り込んだまま、お互い視線も合わせられずに。
 ただ、心臓だけがドキドキうるさくて。
「…先輩。」
「うん?」
「……あの。」
「…なんだ。」
「……あ、あぅ…」
「…あぅ、じゃわかんないだろ。」
 そんな幼稚な会話を少しだけ交わして、あたしはようやく覚悟を決めた。
 大きく息を吸い込んで、吐き出す。
 大きくー。はー。
 大きくー。はー。
 大き
「何やってんだ、バカ。」
 深呼吸の途中、しかも吸い込んでるところで思いっきり頭を叩かれて、一瞬息が止まった。
 ケホケホと小さく咳をした後、あたしは霜先輩に、
「タ、タイミング悪すぎま」
 文句を言おうとした、けれど。
 またもや、あたしの息は止められていた。
 霜先輩の…胸に、押し付けら、れて。
 ……ン、……!?
「こういうのってやっぱ、年下に言わせるモンじゃない、よな。」
「…うぐ…。」
「だから、その。……つまり。」
「…ン。ンン」
「要するに……ってゆき?ちゃんと聞いてる?」
 霜先輩があたしの顔を覗き込もうとするように腕の力を緩めた、その時あたしはようやく
「ぷはぁっっ!殺す気ですかぁッッ!」
 と息をついて、ついでに文句を言うことが出来た。
 霜先輩はきょとんとした後で、訝しげな表情を浮かべる。ぅぅ、この人はツッコミメインだけど天然だぁ……。
 あたしのついた悪態の後で、霜先輩はふいっと目を逸らして押し黙った。
 ……あ。あれ?
 もしかして、怒らせちゃった……?
「…霜先輩…?」
「……。」
 返事はない。
 ヤバい。本当に怒らせちゃったみたい…!
 あたしと目を合わせようともしない霜先輩は、どこへともなく目を逸らしたまま。
 きゅっと閉じあわされた唇は、緩やかに山のカーブを描いていた。
 うぅ。どうしよぉ……。
 と、あたしが目一杯に困惑していた、その時。
「……ゆき。」
 ぽつんとあたしの名前を呼びながら、ふわりと肩に触れた霜先輩の手。
 固定するようにあたしの両肩に手を添え、少し伏せ目がちにあたしを見る。
 その表情は怒っているんじゃなくて……照れ、てる……?
 そして先輩は、静かに顔を近づけた。あたしが目を瞑ると、そっと額に触れた唇の感触。
 先輩の唇は少し乾いていて、なんだかくすぐったい。
 顔を離すと、見上げるあたしの視線に気付いた様に、言葉なく微笑んだ。
 呆れ顔、気だるそうな顔、退屈そうな顔。いつもそんな顔ばっかりしてる霜先輩の微笑みは、なんだかレアなもののように思えて。そんな表情をあたしに向けてくれることが、何よりも嬉しかった。
 どちらからともなく重ねる唇。互いに慣れてない、そんなキスは、少しじれったくて。
 だけど今まで経験したどんなキスよりも、甘くて心地良いキス。
 キスを続けながら、あたしの肩に触れていた先輩の右手がするりと下りる。確かめるようにあたしの手を緩く握って、あたしもそれに応えるように、ぎゅっ、って握り返した。
 一旦離れた唇は、少しの間を置いた後で再び触れ合う。先輩の左手はあたしの頭を抱いて、深く押し込むように舌を這わせた。恥ずかしさでクラクラしながらも、先輩の舌を味わうかのように、ぐっと吸い込む。
 あぁ、こんな恥ずかしいキスなんか初めてだよ。恥ずかしくて頭がぼんやりして。身体が熱い。
「ゆき、初めてか?」
「……ぅ…?」
 ほわっと蒸発しそうな脳味噌は、少しの間霜先輩の言葉を理解出来なくて。
 あたしの頭を抱いていた霜先輩の手がするりと背中に下りた時、ビクッって、少し身体が跳ねた。
「……。」
 こくん、と小さく頷き返して、片手で霜先輩に抱きついた。
 本当は両手でぎゅってしたかったけど、握ったままの手も離したくなかったから。
「そっか。」
 背中に置かれた先輩の手が、あたしの背骨をなぞるように上下する。
 や…何……?なんか、すごく変な感じッ……。
「ふぁっ…」
 思わず声が漏れた。先輩の指先から、じわじわと広がっていく不思議な感覚。
 変なの、すごく変なのっ。あぁ、骨が融ろけちゃいそう…!
 先輩の背中にしがみついた手、無意識に爪を立てていた。少し、怖い。
「……気持ち、い?」
「…ぅー…ッ…」
「ぅー、じゃわかんないだろ?」
 先輩はいつもの調子で言いながら、すっと手を離した。
 止んだ刺激に、あたしが息をついたのも束の間。
「きゃぁッ!」
 次の場所に触れられた時、思わず高い声が上がる。
 背中とは比べ物にならないくらい、じーんって響くような感覚。
 小さく身体を震わせるあたしに、「大丈夫」となだめるような口調で囁いて、耳元にキスをくれた。
 あぁ、先輩ッ……大丈夫じゃないよぉ…!
「ゆきは感じやすいんだな。……可愛いよ。」
「いやぁ…ッ…」
 先輩の悪戯は続く。
 あたしは、その指先に狂わされていく。
 あぁ、先輩。お願いだから、手を離さないで。
 あたしをずっと、捕まえていて……!





 求める、という表現は違う。
 じゃあ何だろう。この行為は何故、あたし―――佐久間葵―――と彼女との間にあるのだろう。
 きっかけは、彼女――美雨さんが、あたしに触れたから。

 美雨さんと闇村さんとの出会いの一部始終を聞き終えたあたしは、何のコメントも返せずにいた。
 天才同士。あたしにはきっと理解出来ない次元。それは、きっと二人にしか理解出来ない感覚。
 だからあたしは、何も言えなかった。
 美雨さんも淡々と語った後で何か問い掛けるわけでもなく、ふっとあたしを一瞥し、
「出かけて来る。逃げたいのならば、その間に逃げなさい。」
 と、そう言い残して、部屋を出た。
 一人で部屋に取り残されたあたし。
 一度はドアノブに手を掛けたけれど…… それで終わった。
 闇村さんに救いを求めて、それでどうなるの?
 ―――きっと彼女はあたしを突き放す。
 武器も何も持たずに単身で部屋を出て、一人になって。それでどうなると思う?
 しばらく怯え続けていれば、休憩期間は終わって。そしたらきっと美雨さんは、あたしを殺しに来る。
 それならばいっそ、あたしは彼女のそばで怯え続けていた方が良い。
 休憩期間が終わった時に、彼女があたしに手を掛けたとしても。逃げ続けて殺されるよりマシじゃない?
 それに。
 美雨さんはあたしに恐怖を与えると同時に、快楽を与えてくれる。
 彼女がどんなに恐るべき人物だとしても、その指先が生み出す快楽はやはり快楽でしかない。
 ならばあたしは、その快楽に溺れたいと思った。
 だから今、あたしはまだここにいる。
 彼女の帰りを待っていた。
 一時間弱の時間を置いて、彼女は静かに扉を開く。美雨さんはあたしの姿に微笑んで、
「それが葵の答えなのね。」
 と、小さく告げた。
 彼女の微笑がどんなに恐ろしくても。
 その指先を目に止めるだけで、身体が疼いた。
 少し遅れて、美雨さんは着替えるために出かけたのだと気付く。
 血塗れだった衣服は捨てて、彼女は新たな装い。
 黒のハイネックに、すらりとした綺麗な体型がよくわかるベージュのパンツ。
 そしてその上に、眩しいほどに真っ白な白衣を羽織っていた。
「葵も着替えない?」
 と、彼女が差し出した袋には、一着のワンピースが入っていた。
 彼女の白とは相反した、真っ黒のワンピース。胸元に、薔薇の刺繍のワンポイント。
「あたし、こんな大人っぽいの似合わない……。」
「きっと似合うわ。……試しに着てみて。」
「はい。」
 彼女に言われるままに、袖に手を通した。身体にぴったりと密着する伸縮性の富んだ作りになっていて、胸元が強調されるのが少し恥ずかしかったりするんだけど。洗面所にある鏡で確かめると、自分でも驚くほど似合っていて、少し見惚れた。
「…よく似合う。」
 彼女はあたしの後ろに立って、静かに肩に手を添えた。
 ドクン、と、心臓が高鳴る。
 鏡越しに彼女と見つめあった後、あたしはゆっくりと振り向いた。
 そんなあたしの顎に、冷たい指先が触れて。
 互いに引き寄せあうように、キスを交わした。

「ぁッ…!美、雨…さ、…ン……」
 洗面所の壁に手を付いて、声を漏らす。
 微かに反響する声が、すごく淫靡に聞こえていた。
 背後から回された彼女の手が、あたしの身体を蹂躙していく。
 ワンピースの上から、胸元を。
 太股からするりと上がっていく、指先。
 二本の腕が巧みに、絡みつく。
 十の指が、あたしを壊す。
「二人を同時に求めることは出来ない。それは感情の面でだけなのね。」
 耳の裏で囁かれる言葉に、ゾクンと、欲気が走った。
 美雨さんがあたしを蔑む。それもまた一つの煽情となって。
 あぁ、もっとあたしを軽蔑して。誰とでも身体を重ねるあたしを。
 情欲の虜であるあたしを、嘲笑って。
「……あたしはぁ…」
 恍惚の滲む舌足らずな口調で、少しだけ顔を向けて紡ぐ。
「あたしは、…闇村さんのものなんですぅ……。」
 妬いてくれることなんて期待していない。
 ただわかって欲しいだけなの。
 あたしはこんな、最低な女。
「わかってる。……新鮮よ。」
「新鮮……?」
 意図に反して、美雨さんはあくまでも冷静に言った。
 その言葉を問い返した次の瞬間、ドンッと、電流のような快感があたしの身体を貫く。
「私に抱かれても尚、別の人を想っている人間なんて初めて。」
「あぁ……。あたしも、闇村さんがいなければぁ……」
「私に、心を向けていたでしょう。」
 当然の様に言って、舌先であたしの耳をなぞる。
「ンッ……!」
 ゾクン。ゾクン。震えるような快感が、身体中のあちこちで響き渡っていく。
 耳に掛かる美雨さんの吐息が、少し熱く、乱れていた。
 わかる気がする。この、どこまでも冷たい女性が息を乱すという、そのギャップに
 惑わされていくんだ。
「あたしを…虐めないんですかぁ………あたしは、酷い女でしょう…」
「葵は何も悪くないもの。」
「え……?」
「あの女の所為。」
 美雨さんの言葉に、なるほどって思っちゃったり、して。
 確かに、あたしが美雨さんに堕ちることが出来ないのは、闇村さんに捕らえられているからだ。
 だけど、でも――
「虐めて欲しい?」
 クス、と耳元で零される笑みに、思わず上擦った声が漏れた。
 あたしの心を見透かしているように、告げられた言葉。
 少しの躊躇の後で、小さく頷いた。
 ―――あぁ。溺れてしまう。
 虐待という悦楽の蜜に、塗れていく、あたしの欲望。





 思惟はいつしか、追懐へと変わっていく。
 身体を重ねている相手とは別の、遠い情事を思い起こす。
 それは、私―――神崎美雨―――が十六の齢の頃。

「今日も来てくれたのね。」
 放課後の空き教室。
 此処に来るのは何度目か。記憶が確かならば、今日で十七回を数えるはずだ。
「……私が来なくても、先輩は来るんですか。」
「ええ。」
 闇村先輩は常に私より先に空き教室に居て、古びた学習机に腰を掛けて窓の外を眺めている。
 私が静かに扉を引けば、彼女は私へと目を向けて優しい微笑みを向ける。
 それももう、十七回目のこと。
「学校生活は慣れた?」
「はい。問題なく。」
「そう。成績が良いと妬まれないか心配なのよ。」
「それは先輩にも言えるんじゃ?」
「私は大丈夫。…ってことは、美雨も大丈夫ってことよね。」
 そんな、なんてこともない世間話を時折交わす。
 私は先輩が座る机とセットになった椅子を引いて、そこに腰を下ろす。
 私より視線の高い先輩を、いつも見上げていた。
 能動的な先輩と、受動的な私。
 いつも彼女が切り出す会話。私はそれに短く答えるだけなのに、先輩は楽しげな笑みを浮かべていた。
 一度だけ、私から問い掛けた。
「先輩は、私と話していて楽しいですか?」
 するといつも以上に笑みを深め、「勿論よ。」と肯定を返される。
「話さなくてもいいの。ただこうして時を過ごしているだけで、すごく楽しいわ。」
 と、先輩は満面の笑みで告げて、また窓の外に視線を移した。
 見える景色は、校舎裏の寂れた細道とひっそりと佇む木々。
 そんな情景を飽きもせずに眺める先輩は、そこから一体何を感じているのだろうと疑問に思った。
 けれどそれを口にはしなかった。
 私には、理解出来ないような気がして。
「ねぇ、美雨。……恋って何だと思う?」
 不意に彼女が口にした問いかけに、私は暫く言葉を返せなかった。
 それは、私が最も不得意とするジャンル。
「……わかりません。」
 結局、そう言葉を返すのみ。そんな私に先輩はクスクスと笑んで、
「じゃあ、教えてあげましょうか?」
 と小首を傾げて見せた。
 ふわりと揺れる黒髪を眺めながら、彼女の問いに対する答えは今度はすぐに返すことが出来た。
「是非。」
 苦手克服のため。
 この女性は、私が知らないことを幾つも知っている。特に感情の面に関しては顕著に。
 けれど、それだけのために容易く頷いてしまったことが、後々取り返しのつかないことになるのだとは、この時は思いもしなかった。
 先輩は何も言わずに、静かに微笑みを浮かべるだけだった。

 それから一ヵ月後。
 彼女の言う恋は未だにわからないまま、その日もまた放課後の空き教室へと赴いた。
 いつもと違っていたこと。それは私が扉を開けた時、闇村先輩が振り向かなかったこと。
「……失礼します。」
 気付いていないことないはずだが、私は念のために挨拶の言葉を告げ、室内へと足を踏み入れる。
 先輩は私に背を向けたままで、暫く口を開かなかった。
 何故なのだろう。
 理由がわからずに、私は先輩の背中を見つめる。近づくに近づけず、教室の中央に立ったまま。
 それから、五分程が経過した。
 何も言わない先輩へと、私はゆっくりと歩み寄り、
「闇村先輩。……どうかしたんですか。」
 と、抑えた声で言葉を掛ける。
「……美雨。」
「はい。」
 彼女もまたトーンの低い声で私の名を呼び、少しの間を置いて静かに振り向いた。
 その瞳に、涙が見えた。
「……先輩?」
 彼女には余りに相応しくない、その雫。
 表情はどこか悲しげで、真っ直ぐに私を見つめる。
「私、好きな人がいたのよ。」
 先輩がぽつりと切り出した言葉は意外なもの。
 私は続く言葉を待つように、先輩を見つめる。
 ストンとしなやかな身のこなしで机から下りると、先輩は此方へと歩み寄り、間近な距離から私を見据えた。
「でもね。闇村さんのことは友達としか見れない、なんて言うの。……ねぇ、どうしたらいい?」
「……」
 問い掛けられても、私は返す言葉を一切持たない。
 彼女はまだ、恋の何たるかを教えてくれてはいない。だから私にはわからない。
 その時、ふと感じた不快感。その理由がわからずに、戸惑いを抱いた。
 彼女の姿を見ていると、その涙を見ていると、嫌な気分になる。
 だから、すっと彼女から目を逸らした。
「――…美雨、妬いてるでしょう?」
「……?」
 不意に、少し笑みを含ませたような口調で先輩が告げた言葉。
 その意味もわからず、逸らしていた視線を再び先輩へと向ける。
 先輩は指先でその涙を拭うと、小さく笑みを零した。
「今、少ぉしだけ嫌な顔したでしょ?それは嫉妬心。私を、好きになっている証拠ってわけね。」
「……闇村先輩…?」
「第一ステップは完了。じゃあ次は、…フフ、少し飛び級しましょうか?」
 先輩の言っている言葉が理解できなかった。
 嫉妬心?私が、嫉妬?
 彼女の言う「第一ステップ」の時点でまだ私は戸惑っていたというのに、彼女はお構いなしで更なる行動を起こした。
 先輩の指先が私の顎に触れ、僅かに顔を上向かされる。
「闇村先輩…」
「大丈夫よ。美雨は飲み込みが早いもの。」
 先輩はそう微笑んで、ゆっくりと顔を寄せた。
 抗う時間はあったはずなのに、私は動かずにされるがまま。
 そして私の唇に、先輩の唇が触れた。
 くちづけ。知識としてはあるものの、実際に経験したのはこれが初めてのこと。
 触れた時間は数秒。そうして先輩は顔を離すと、にっこりと嬉しそうに笑みを向ける。
 先ほど愁傷に涙を流していた先輩とは別人と思える程だった。
「ドキドキする?…してないみたいね。まぁいいわ。」
「あの、先輩…」
「なぁに?」
「……何をしているんですか?」
 今更とも思える疑問を口にすれば、先輩は私の頭を撫ぜながら笑みを深めた。
「前に言ったでしょ?恋って何なのかを教えてあげる、って。」
「……恋。」
「美雨は着実に、私に恋をしているわ。」
 そう断言されても、私自身にはそんな自覚は一切なかった。
 当然と言えば当然か。私は恋を知らないのだから。
 先輩は髪を撫ぜていた手で私の頭を引き寄せて、抱きこむように身体を密着させる。
 耳元に息が掛かる程の距離で、彼女は囁いた。
「私も、美雨に恋をしている。」
 一体、どんなリアクションを取ればいいのか。
 今、私が感じているこの感情は何というのか。
 何故、彼女は私に恋をするのか。
 わからないことだらけ。
「先輩は、好きな人がいる、と……」
「あんなの嘘に決まってるでしょう?私が好きなのは美雨だけ。……ふふ、信じられない?」
「信じられないというか、理解出来ません。」
「あら。じゃあ、もっと身体で教えましょう。」
 身体で?と、問い返そうと顔を上げた、けれど私が口を開くより早く、彼女は二度目のくちづけを落とす。
 今度は先ほどよりも長く触れ合わせる。そして先輩の舌が、私の口内へと滑り込む。
 これもキスの一つ。
 やはり知識としては理解出来るのだが、経験するのは初めてで。
 この行為にどんな意味があるのか、ということも、まだよく解らなかった。
 「恋」というものが、こんなにも未知の領域だとは予想外。
 ―――微かに、吐息が乱れる。
 心拍数の増加に伴って、血流が早くなる。
「可愛いわ……美雨。」
 囁きながら私を見つめる先輩の目が細められる。
 その温和な表情が、いつもとどこか違って見えた。
 私の背に回されていた先輩の手がゆっくりと動き出し、私の身体を這って行く。
 身体が。……身体が熱を帯びて行くのは、何故。
「闇村先輩……。」
「今から何をしようとしているのか、わかる?」
 意味深なニュアンスの問いに、私は小さく首を横に振った。
 尚も彼女の手は止まらない。擽ったいような不思議な感覚が、体中に駆け巡る。
「――…恋と性行為はね、密接な関係にあるの。」
「性、行為……」
「そうよ。恋は下心なんてよく言ったものよね。」
 どこか楽しげな口調で言いながら、先輩の手は私の制服の中へと入り込む。
 肌に直接触れた指先の感触に、身体が小さく仰け反った。
「先、輩……」
 未知の感覚に恐怖するのは当然のこと。
 抗うように彼女を押し退けようとしたけれど、力が入らない。
「私に身を委ねなさい。美雨。」
 先輩の言葉には有無を言わせぬ重みがあった。
 もう、抗うことさえ叶わない。
 それが、先輩が天才である所以だと思った。
 私を越えるかもしれない?――否、既にこの女性は私よりも遥かに上の人間だ、と。
 この時ばかりは信じて止まなかった。
 ふっと身体の力が抜けた時、先輩は私の身体を緩く抱き上げ、そっと冷たい床へと下ろす。
 私の上半身を片手で抱いて、深いくちづけ。
 スカート越しに触れる床は冷たいけれど、それに相反するように体温が上がっていく。
 制服のブレザーのボタンが外され、Yシャツもまた同様に。
 ひんやりとした教室の空気が、露出した素肌に心地良かった。
「――…あッ…!」
 先輩の指先が、私の熱い肌に潜る。その感覚に、思わず堪えていた声が漏れた。
 これは恐怖という感情か。けれど他にも何か別の、甘美な想いを抱いている自分に気付く。
 鈍い痛み。そしてそれを掻き消すような、快楽。
 わからない。わからない。
 融かされていく……―――。


「これで、恋のなんたるかは理解して頂けたかしら?」
 先輩はポケットティッシュで指先を拭いながら、いつもの温和な笑みを浮かべて問い掛けた。
 私の身体は床に投げ出されたまま、吐息もまだ荒い。
 動くことが侭ならないほど、身体が痺れている。
「初めてにしては、刺激が強すぎたみたいね。」
 微苦笑を浮かべ、先輩は私の顔を覗き込む。
 私の頬に指先を滑らせて、それを何度も繰り返した。
「…先輩……。」
「なぁに?」
「……まだ、よくわかりません。」
 告げた言葉は事実でもあった。けれど、オブラードに包まれた情欲でもあった。
 そんな私の思いを見透かしたように、先輩は薄い笑みを浮かべる。
「いけない子ね。……仕方ないわ。また、補習をしましょう?」
 そう言って、先輩は私の頬へキスを落とす。
 そして耳元へも幾度かのキスを落とした後で、先輩は小さく囁いた。
「美雨、今度は愛のなんたるかを教えてあげる。……私はもう知っているのだけどね。」
「…はい。」
 頷いて、少しだけ顔を上げた。
 先輩は私の顔を掬い上げるように、その手で優しく抱いて、
「愛してるわ、美雨。」
 と、耳に残るような響きの言葉を投げ掛ける。
 交わされるくちづけは、掻き立てるものではなく、温もりを確かめるように。
 それは、とても甘美なキス。

 ―――その時私はまだ気付いていなかった。
 彼女の愛が、どれほど歪んでいるか。
 彼女の愛が、どれほど私を侵蝕していくのかを。



「……美雨さん、……あのぉ。」
 洗面所の床に腰をつけ、葵がおずおずと呼ぶ私の名。
 まだどこか恍惚の残るその表情で、私を見上げていた。
「なぁに?」
 彼女へと目線を落として問い掛けると、葵は照れくさそうにはにかんだ。
 頬を赤らめたその表情は、まだ二十歳という年齢のあどけなさを醸し出す。
「えっとですね、……ぎゅ、ってしてくれませんか?」
「……何故?」
 別に構わないけれど、と言葉を続けてその場にしゃがみ込む。
 葵は身を乗り出して、言葉通りに「ぎゅ」と私に抱きついた。
「こうやってると安心するんですー……。」
 心地良さそうな口調で言って、その顔を私の肩へと軽く押し付ける。まるで甘える猫のような仕草。
 この子は本能に忠実で、自らの快楽を何よりも最優先にする。
 そんな所が―― ……あの女の目に止まったのかしら。
 一体、何の因果なのか。
 あの女と同じものを、私はこの少女に与えている。
 この子は私に何を返すわけでもなければ、想いを寄せるわけでもない。
 裏切る可能性だって充分に在り得る。それなのに何故、私は少女に快楽を与えるのか。
「……闇村真里は、本物の天才ね。」
「え?…えぇ、そうです…。」
 私がぽつりと告げた言葉に、葵は身体を寄せたままで躊躇いがちに返事を返す。
 小さく身じろぎする身体を、戒めるように抱きしめた。このまま殺してしまいたい。
 衝動を堪え、一つ大きく息を吸い込む。
 憎しみの根源とは。
 与えられたタナトスとエロス。
 破壊衝動。
 両面価値への苦悩。
 天才という偏執狂。

「けれど忘れないで。―――私も天才だということを。」








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