BATTLE ROYALE 19自らの髪に触れた時、それが、いつになく傷んでいることに気付いた。 心の状態は身体にも現れる。それを示しているようで、苦笑が浮かぶ。 正午を回った頃のシャワールーム。 音が反響する小さな部屋で、静寂を掻き消すようにコックを捻った。温かいシャワーの雨が素肌を打つ。 こんな空間にいると、何かをしていないと気が触れてしまいそう。 私―――望月真昼―――にとって、バスタイムとはリラックスタイムであったはずなのに。 今は全く逆の物のように感じられた。酷く切羽詰った時間。 シャンプー、リンス、トリートメント。何度もポンプを押して、とろりとした液体が手の平一杯に溢れるまで。 考えれば、それは明らかに正常な量ではないのだけれど、そんなことを思いもしなかった。 何かがおかしくなっている。そう気付いたのは、部屋にいる鏡子へ向けて声を掛けた時。 「鏡子、悪いんだけどトリートメントの替え、取ってくれる?」 そう告げた時にふっと、我に返るような感覚がした。 手の平を覆うほどの量の、白濁した液体。きゅっと握り締めると、指の間から零れて落ちた。 見れば床のタイルには、同様の液体が散らばっている。 そう。思えばシャンプーポンプの中身は私達がこの部屋に来た時に満タンだった。たった数日間でそれがなくなるなど有り得ない話。消えた中身は、今、タイルに散らばっているそれだった。 「………」 言葉もなく静かに開かれたドア。一本のシャンプーポンプを手に、鏡子は不思議そうに私を見つめる。 「…あ…ありがとう。」 一瞬、裸身を見られることに抵抗を抱いたけれど、相手は女性。すぐに笑みを向け、彼女へと手を伸ばす。 「……後で、片付けておきます。」 鏡子は無表情にタイルを見回し、ぽつりと呟いた。 その後ふと、伸ばされた手に気づいたように、手にしたトリートメントを私に渡す。 「いいのよ。…私が、掃除しておくから。」 彼女は私の召使でも何でもない。考えるまでもなく私は首を横に振ったが、鏡子は「いえ」と否定を返した。 その虚ろな瞳はタイルの液体を捉え、そして再び私に目を向ける。 「お姉ちゃんは精神的に参っている様です。……ですから、私に任せて下さい。」 「……お姉ちゃん、ね。」 鏡子の言っている内容よりもその言い方を聞いて、私は少し笑った。敬語なのに、呼称だけはお姉ちゃんなのね。朔夜が闇村さんへと言葉を向けているような口ぶり、なのに呼ぶ時だけは違う。そんな違和感が妙に可笑しかった。 「呼び名…お気に召しませんか…?」 私を見て、鏡子は小さく瞳を揺らして問いかける。小首を傾げると、短いポニーテールが揺れていた。 「そういうわけじゃないんだけど……なんだか少し複雑。」 「それじゃあ……真昼様?それとも、お姉様?」 と、鏡子の提案する新たな呼び名に私は小さく吹き出した。 笑みを堪えながら少しの間考えて、 「鏡子の好きなように呼んでくれればいいわ。」 と答え、笑みを向ける。鏡子は困惑がちに目線を落とした後、「はい」と一つ頷いた。 そんな鏡子をじっと見つめていて、ふと思う。 この子はどこまでが自分の意思なのだろう。どこまでが催眠による行動なのだろう。 「ちょっといい?こっちへ来て。」 私は鏡子を呼び寄せ、その首元を軽く抱いた。身長が同じ程の彼女は、目の前の私を真っ直ぐに見つめて不思議そうな表情を浮かべる。 虚ろな目?――けれど、こうして間近で見てみると、それはとても透き通った瞳のようにも思えた。 「鏡子、あなたのフルネームは?」 「望月鏡子です。」 それは簡単なテスト。刷り込んだ内容を彼女が躊躇いなく口にするかどうか。そして誤った認識を刷り込んではいないか。……一時は、彼女の洗脳が解けていようとも構わないと思ったけれど、そこから「裏切り」に発展してしまう可能性は、万が一とて拭いきれない。 「あなたが従うべき人物は誰?」 「望月真昼様、朔夜様。」 「あなたに姉妹はいるのかしら?」 「……」 その問いに、鏡子はふっと言葉を詰まらせた。―――何故? 家族のことは、私は何も吹き込んでいない。彼女はこれまでの記憶通りの答えを返すはずなのに。 そんな私の狼狽に気付いた様に鏡子はゆるりと首を傾げて、 「問うほどのことではないと…思いますけど。真昼様が一番よくご存知でしょう?」 と、逆に問い返すように告げて、真っ直ぐに私を見つめた。 鏡子の意図が出来ない。けれど私は彼女の視線に答えるように、 「一人っ子だったと思うけれど記憶は確かじゃないの。」 と言った。鏡子はその言葉に、不思議そうに眉根を上げる。 「一人っ子?何を仰るのですか?」 「え……?」 互いに相手の言葉が理解出来ない、そんな様子で鏡子は私を見つめ、そして私もまた彼女を見つめた。 暫しの沈黙の後、先に口を開いたのは鏡子。 「私は真昼様の妹でしょう?」 と。耳にして、小さく目を見開いた。彼女が紡いだ言葉に、私は一寸の驚き。 待って。私はそんなことを教えていないわ。何かの命令を取り違えて、彼女が誤った意識を持っているというの?けれど同じ名字だと思わせただけで、鏡子が「姉妹なんだ」と思い込むのもおかしい話。 「……妹?」 肯定も否定も出来ずに、私は小さく問い返すだけだった。 鏡子は事も無げに「はい」と頷いた後、ふと私の身体へと目線を下ろし、 「冷えてしまいます。お早めに上がられてくださいね。」 と気遣うように告げ、私から離れようと一歩退いた。 「待ちなさい。」 首に回した手に力を込め、彼女を再度引き寄せる。それが唐突だった所為か鏡子は私に抱きつくような形になり、少し慌てたように顔を上げた。身体を密着させたまま、不思議そうに私を見つめる鏡子。 「――鏡子?あなたは一体……」 言葉と同時に、彼女の眼前に手を翳し、それを揺らした。 ふ、っと力の抜ける彼女の身体を抱き止めて、私はそのまま暫し動くことをやめた。 意識の消えた鏡子の身体は重く、裸身のままの身体に開いたドアから吹き付ける風が冷たく。小さく膝が笑うけれど、それでも私は鏡子を抱いたままでいた。 この子が、妹? もし朔夜がいなくなったとしても、この子は私の妹でいてくれる……? そんな思索を巡らせて、ふっと我に返る。 いけない。 私は、…私は朔夜から遠ざかろうとしている。 真実が怖くて。本当のことを知りたくなくて。 いけない。このままじゃないけない。 このままでは、私は鏡子を求めてしまう。この子だけで生きて行こうとしてしまう。 「…朔夜を」 言葉が続かないのは何故だろう。 言いたくない。けれど言わなくてはならない。 「――探しに行きましょう。」 呟いた後、酷く気が重いのは何故だろう。 ……。 人の本心とは、時になんて残酷なのだろう。 「すっごーい……!!」 とててて、と足取りを速めて窓際へと駆けたゆきは、そこから望む光景に感嘆の声を零す。 私―――田所霜―――はそんなゆきのそばへと歩み寄り、低い位置にある頭をガシッと掴んだ。 「遊びに来てるんじゃないんだからな?」 「…あ。ごめんなさい。」 ゆきは私を見上げると、ばつが悪そうな様子でちょこんと小さく舌を出して見せた。 叱咤はしつつも、ゆきが感嘆する景色へ目を向ければ、「ほぅ」と小さく感嘆を漏らしてしまう。 このビルの最上階にある展望室。大きな硝子張りの窓から望むのは、遠くまで見渡せる都会の景色。この辺りはこのビルよりも更に高いビルもあるのだが、その合間を縫って見渡す景色。都民とは言え田舎者の私やゆきにとっては、それは嘆息に値する景色なのだ。 「……水夏先輩、居ませんね。」 景色を眺めていた私の耳へ、ぽつりと零すゆきの声が入ってくる。その言葉にゆきへと目線を移し、 「そうだな。」 と短く答え、私はまた景色へと目を戻した。 今は昼の一時過ぎといった頃か。管理人の言う「休憩期間」ということで、私達は十一時頃に部屋を出た。 水夏は部屋を出るなとメモに残していたけれど、それは私達の身を案じてのこと。今ならば命の危険もないのだから、水夏とて目くじらを立てることはないだろう。 五階にある水夏の部屋を出て、一階から隈なく探した。当然、各個人部屋には近づかないようにしたが、それ以外は徹底的に洗ったつもりだ。殆ど使われていない様子の自由室、広い人工庭園、その他諸々。 ゆきに言われて私の部屋である「5−B」も覗いたが、やはりそこは以前と変わらず、整えられたベッドや水気の一切ないシャワールーム。水夏がいた痕跡は微塵もなかった。 そしてここ、展望室が最後の部屋。僅かな望みを掛けてこの部屋へ足を踏み入れたが、その望みすらも呆気なく打ち砕かれる結果になった。 ――……本当は、わかってるんだ。いくら探しても無駄だということ。 水夏はきっと管理人室にいる。 「………。」 ゆきが沈黙を守る中で、私は展望室の窓へと手をつき、軽く凭れかかる。 ひんやりとした窓の感覚。十一月の外の気温はどのようなものなのか。僅かに肌寒い季節、か。 あぁ……なんだろう。この感情は。 この窓のように、ひんやりとしている。冷たい感情。 少しずつ薄れていくんだ。―――水夏のあの笑顔が。 会いたい。会いたいよ、水夏に。 またバカなボケを放って、笑わせて欲しいよ。私は一体何のためのツッコミだと思ってるんだ? 「管理人室。……どこにあるんでしょうね。」 ぽつりとゆきが呟いた言葉に、緩慢な動きで顔を向ける。 ゆきはいつもよりも真剣な表情で、窓の外を見つめていた。 「……それがわかれば苦労しない。」 私が短く返すと、ゆきはその手の平を窓硝子に付けては、言葉を続ける。 「わからないんなら、どうしようもないですよね。」 「……そうなるな。」 「探しようもないですよね。」 「……そうだな。」 「管理人室がこのビルの外にある可能性もありますよね。」 「……ああ。」 「そうなら、いくら探しても無駄ですよね。」 「……まぁな。」 「諦めません?」 ――…ッ? ゆきが、淡々と言葉を返す中で、不意に口にした言葉。 私は一瞬その意味がわからずに、固まった。 諦める?……水夏を諦める? 「水夏先輩はあたしたちを置いて勝手に出てっちゃったんですよ?こんなに心配掛けておいて何の音沙汰もないし、しかも管理人室にいるみたいだし、わけわかんない。……水夏先輩のことなんか放っ」 パンッ、と、乾いた音を立てた。 ゆきの言葉の途中で、その肩を引いて。一瞬目を見開いたゆきの、その頬を手の平で打った。 半分は無意識に。衝動的に。その言葉を止めてしまいたかった。 けれどゆきの言葉は既に、私の脳裏に染み付いて離れない。 『諦めません?』――余りに軽い言葉で、ゆきは確かに言った。 「ふざけるな。……お前はそんな軽い感情で水夏を慕ってたのか?」 「……ッ…」 ゆきは僅かに赤くなった頬をその手で覆い、悔しげに眉を寄せる。 「あいつがどんなにお前のことを気に掛けてたか知ってるか?お前が休んだ日はいつも、ゆきどうしたんだろうなって言ってたよ。試験の時も、あいつは自分の勉強そっちのけでお前に教えてたんだぞ?そのせいであいつは満点を逃してた。水夏にとっての99点が私達の欠点よりも低いもんなんだって、知ってるか?」 一気にまくし立て、ふっと息を吐く。 まだ足りない。胸の中の憤りをぶつけたい衝動ばかりが先走っていく。 「わかってます!!あたしは水夏先輩に散々迷惑掛けてるってわかってるし、あたしだってそんな水夏先輩が大好きです!けどッ…!」 「けど、なんだ?」 ゆきを真っ直ぐに睨みつけ、静かに問い返す。 その瞳いっぱいに涙を溜めて、ゆきは悲しげに私を見上げていた。 何も言おうとしないゆきに、更に言葉を続けようと口を開いた、その時だった。 突然、私の身体が温かな存在を纏う。 「ゆ、き?」 私はそれを…私の身体に抱きついたゆきを見下ろして、小さくその名を呼んだ。 突然過ぎて混乱していた私に、ゆきはぎゅっと強く抱きついたまま。 「……好きなんです。…あたし、霜先輩のことが大好きなんです。」 「え……?」 混乱に拍車を掛けるような言葉を、ゆきは小さく紡いだ。 その声は切なげで、悲しげで。 私はただ、ゆきが告げたその言葉が信じられずに、立ち尽くすだけだった。 「水夏先輩がいなくなって、あたしだっていっぱい心配しました。今だって、心配で仕方ないんです!だけど、あたしは………」 「……ゆき」 その先の言葉が、予測できてしまう。それ以上言うな、と、私がゆきの口を塞ぐ前に、 「霜先輩のこと一人占め出来るんだって思って、嬉しかった。」 と、ゆきは零すように告げていた。 私の胸元に顔を押し付けているために、ゆきの声は僅かにくぐもっていて、どこか現実味が欠ける。 ―――水夏は、邪魔者だったってことか。 「……」 突然の告白と、それと同時にぶちまけられたゆきの感情。 それは私にとってあまりに驚くべきことが多すぎて、驚きという感情が麻痺してしまったようだ。 ぼんやりとゆきの姿を見下ろし、その肩を抱いた。 「もう、我慢出来なかったんです……。」 悲しげに零すゆきの言葉が、酷く心に痛い。 微かに漏れる嗚咽を耳にして、ゆきの背中をぽんぽんと撫でた。 「ゆきは、水夏のことが好きなんじゃないかと思ってたんだよ。私は。」 「……霜先輩、鈍いんだから。」 「うるさい。」 背中を撫でていた手でポンッとゆきの後頭部を叩けば、ゆきは微かに笑みを漏らすように身体を震わす。 その後でゆきは顔を上げて、ほぼ真下から私を見つめる。ゆきの目からはぽろぽろと涙が溢れているというのに、その口許は相反した笑みを浮かべていた。 「霜先輩が水夏先輩のことを好きなのは知ってます。」 「……。」 「……だけど、今だけでいいんです。水夏先輩を想っててもいいから、だから……」 「だから?」 問い返した私の口調が酷く冷たく感じられたのは、言葉を発した後だった。 ゆきは怯むように一瞬笑みを消すも、すぐにふっと空虚な笑みを繕って見せた。 「あたしを……」 「……。」 「―――恋人にして下さい。」 なんて、ゆきの言葉はやはり、現実味がない。 その真っ直ぐな眼差しさえも、何も伝わってこないんだ。 水夏。水夏はどこにいる?ゆきは私の目の前にいるよ?水夏は?水夏はどこだ? ……見回して探そうともしなかった。この部屋の中に水夏がいるはずないじゃないか。そう思って。 ただゆきを見つめたままで、少しだけ水夏を想って、薄く笑みを浮かべた。 あぁ、水夏は私から離れてしまったのか? ……そうか、そうなんだな。 「いいよ。」 短く返して、ゆきへと笑みを向けた。薄い笑みは自嘲じみているだろうか。 笑うといい。こんな私を笑えばいい。 水夏を信じることの出来ない私を。すぐそばにある温もりに惑わされてしまう私を笑えばいいんだ。 「……本当ですか?」 ゆきは、きょとんとした表情を浮かべて私を見つめる。 その問いかけに一つ頷いて、ゆきの頬に手を当てた。 「私もゆきのことが好きだから。」 嘘の言葉が嘘なのかさえ、わからずに。 顔を近づけて、唇を合わせる。 「……」 一瞬だけ、触れて離れた唇。 その温もりが、冷えた心を溶かす熱のように思えて仕方がない。 あぁ。私は誰でも構わないんだ。 空っぽの心を満たしてくれるのは、水夏とは限らないのかも知れないな。 それなら、申し出を断る必要などないじゃないか……。 「…好き、だから。」 言い聞かせる様に繰り返して、また、ゆきの唇を奪う。 柔らかい唇が、切なくも温かくて。 ついばむように何度も触れては、その感触を愛しんだ。 「霜、先…パ、イ……」 躊躇いがちに名を呼ぶゆきを、強く抱いて。唇の間から零れる吐息が熱い。 「あぁ…可愛いよ、ゆき……」 甘い言葉を囁いては、 ―――深く深く、くちづけた。 闇村さんが、私―――宮野水夏―――へと下した命令。 それは、『佐久間葵と接触せよ。』というものだった。 佐久間葵。闇村さんのペットとしてこのプロジェクトに参加したにも関わらず、あの女――神崎美雨に半分飼われているような状態の、浮気性な女。 闇村さんがどのような意図で「接触」を命じたのかはわからないし、それを尋ねもしなかった。ただ言えるのは、彼女がそれを望んでいるということ。 私自身、その命令は歓迎だ。あの女には一度会ってみたい。そして問い質したい。 お前は一体誰の物なんだ?……と。 しかしこの命令には一つのリスクがある。それは、神崎美雨とも接触してしまう蓋然性の高さである。 正直な所、あの女を前にして冷静でいられる自信がないんだ。理由の漠然とした憎しみに支配されてしまいそうな気がする。 そんな不安感に駆られる私に、闇村さんは微笑んだ。「殺さないようにね?」 彼女の言葉に返せるのは、乾いた笑みだけだった。……。 単身で管理人室を出たのはつい先程。そしてもう少し歩いていけば、すぐに神崎美雨の自室にたどり着く。そこに、神崎美雨も佐久間葵もいるはずだ。管理人室の一階下というのは、近いのは良いがいかんせん考える時間を取れない。うだうだと悩んでいても仕方ないことなのかもしれないが、やはり心の準備というのは必要だと思う。 一寸、展望室にでも行って心を落ち着けようかと考えもしたのだが。あまり時間を取るのも良くないだろうと考え直し、真っ直ぐに神崎美雨の自室へと足を向けた。躊躇っている間に二人が外出してしまっても困る。 そうして少しの歩を進めているうちに、私は15−A、神崎美雨の自室の扉の前へとたどり着いていた。 中から物音はしない。この扉は防音だったか?など思考が逸れるも、すぐに我に返り頭を振った。 ええい、なるようになれ!! 私は一つ深呼吸をした後で、コンコン、と扉をノックした。 「……はぁい?」 中から返って来たのは、どこか気の抜けたような声。耳にした瞬間に、それが佐久間のものだとわかった。 返事されたは良いものの、更に何か返す言葉も見つからない。ここで「宮野水夏と申しますが」など名乗るのもどうか。 「どなたですかぁ……?」 遠慮がちな声は、先程の声よりも近い位置から聞こえたように思えた。 おそらく、扉一枚挟んだ場所に佐久間は居る。 「――闇村さんの命により、佐久間葵に会いにきた。」 少し悩んだ後、私は声のトーンを抑えてそう告げた。 すると、躊躇うような間の後で、カチャリと扉が開かれる。目を真ん丸にして、おずおずと顔を覗かせた女。 間違いない。佐久間だ。 「……神崎美雨はどこにいる?」 「え?…あ、あの…美雨さんは、シャワー…」 佐久間は目一杯に戸惑いを露わにしながら、チラリと室内に目線を向けた後で「浴びてます…」と続ける。 ドアを少しだけ開けて覗かせるその姿。見れば、どうやら裸身にバスタオルを巻きつけているようだった。露になった肩は、どこか紅潮しているようにも見えた。 「そうか。ならいい。お前に用があるんだ。………出て来い。」 「や、やですぅ。」 「なにぃ?」 「だってこんな格好で廊下になんか出たら…」 悠長な言い訳に、思わず溜息が漏れる。少し厳しい眼差しで佐久間を睨みつけ、 「闇村さんとのことを神崎美雨にバラしてもいいのか?」 と、脅すような口調で言った。その言葉に佐久間はきょとんとした後で、チラリと室内に目を遣った後、おずおずと廊下へ出てくる。やはりバスタオル一枚の姿は、ひんやりとした廊下では少し寒いようだ。「ふぇ」と情けない声を漏らしながら身体を抱きつつ、 「用事ってなんですか……?」 と、恨みがましそうに私を見る。余程寒いのか。 何と言われてもな、と私が少し思案していると、 「あ、そうだ。さっき、闇村さんのことって言ってましたけど」 と佐久間は思い出した様に言葉を続け、クス、と小さな笑みを浮かべた。 「バラされても困りませんよ?だって美雨さん、全部知ってますし。」 「……全部?」 「はい。あたしがペットとして飼われてることとかぁ。ていうか、お姉さんも闇村さんのものとかだったり?…あれ?なんであたしが闇村さんのペットってこと、知ってるんです?」 佐久間は話題をあちこちに振り回しながら、不思議そうに小首を傾げる。 若干呆れつつ、どこから返事をしようかと考え、一つ一つ順序だてることにした。 「まず、神崎美雨はお前が闇村さんのペットだってことを知ってるんだな?それはわかった。次に私のことだが、名前は宮野水夏という。言っとくけど、お前より年下だからな。それからお前がペットだと知ってるとは一言も言ってない。今、自分で暴露しただろ。」 ――元々知ってはいたけど。と内心つけくわえつつも、あまりにこいつのボケっぷりが見事なので敢えて言わないでおく。佐久間は予想通り「あれ?」と目を丸くして、その後「不覚ぅ」と、しょんぼりと肩を落とした。 「ば、暴露っていうかぁ…別に隠すことじゃないもん。で、水夏ちゃんは闇村さんのペットなのね?ね?」 しょんぼりしたかと思えば、今度は目を輝かせて問いかける。しかも敬語抜けてるし。ちゃん付けだし。なんなんだこいつは。バカか。要するにバカなのかッ。 「ペット……まぁな。お前と一緒だな。」 「へぇ、そうなんだぁ。可愛がってもらってるの?」 「あぁ。…って、そんな同朋みたいな話し方をするな。何を話しに来たか忘れそうだ。」 「そうそう。何か用事あるんだよね?なぁに?」 佐久間はひょこんと意味もなくジャンプした後、笑顔まで浮かべて問いかける。 何故こんな女が闇村さんのペットなのかがわからない。実に不思議だ。 まじまじと佐久間を見つめていると、「ほぇ?」とまたよくわからない声を上げて首を傾げた。 少し、気力を削がれるものの。私は女を見据え、口を開く。 「裏切り者。」 低く告げた。すると女は―― ふっとその表情を変え、真っ直ぐに私を見つめた。 「………」 そんな顔が出来るのか。まるで別人のように、大人びて冷たい表情だった。 一瞬、その様子に怯むものの、すぐに切り返し女を睨みつける。 「私と一緒だと言ったな?ならばお前は闇村さんに忠誠を誓っているはずだ。それなのに何故、神崎美雨のような女に現を抜かす?……お前は一体誰のペットだ?」 「―――今すぐに消えなさい。」 「なんだと?」 冷たく言い放たれた言葉を、眉を寄せて聞き返す。 女はフッと薄笑を浮かべ、蔑むように私を見据えるその目を細めた。 「貴女に話す筋合いは無いってコト。用件はそれだけなんでしょ?なら、あたしはノーコメントっていう答えを返す。それでいいでしょ。」 「……良くないよ。その答えじゃ納得できない。」 威圧的なオーラに、後退りそうになる足を何とか留める。 何だ、この女は。本当にさっきのバカっぽい女と同じ人物なのか? 「じゃあ答えてあげる。……闇村さんに言われたの。“葵は過度の享楽主義者ね”って。」 「……享楽主義?」 その言葉は、つい先日に別の人物から聞いたばかりだった。 闇村さんだ。彼女は自分自身のことを享楽主義者だと言った。――そしてこの女にもまた、同じ言葉を? 「快楽のままに生きているだけ。それだけよ。……他人に口出しされる筋合いはない。」 「自分の快楽のままに生きて、人を傷つけることにはお構いなしか。」 「傷つける?…誰を?」 「………」 佐久間が裏切った人物。――闇村さん? 彼女が、この女ごときに裏切られて傷つくわけがない。 ならば…… あぁ、この女は誰も傷つけていない?いや、だとしても…! 「それにあたしは裏切ってなんか、ない。………そうそう、闇村さんに伝えて欲しいんだけど。」 私を手玉に取るような女の言葉。狼狽を感じながらも、厳しい目線で女を見つめた。 「裏切ってない?行動と発言が矛盾している。――伝言はなんだ。」 佐久間は薄い笑みを浮かべたまま、寒そうに身体を抱いたその指先を、自らの二の腕に押し付ける。 何かを堪えるようにしながら、その爪を皮膚に食い込ませていた。 ……その意図は? 「あたしは闇村さんを愛してるわ。……そう伝えて?」 確かな口調ではっきりと言いながら、不意に佐久間は私の手を取った。 私の首筋に彼女の吐息が掛かる程の距離にまで引き寄せられて、咄嗟に身体を離そうとした。 しかし。「それと」 ……女が私の耳元で呟いた声に、動きが止まる。先程の自信に満ちた言い方とは、明らかにニュアンスの違う弱い響きだった。 「――…助けて、って。」 ぽつりと耳元で呟いて、佐久間はすぐに私から身体を離す。 「それじゃあね、水夏ちゃんッ!……闇村さんに可愛がってもらいなさいね?」 年上ぶった口調で佐久間は告げ、その目を笑みに細めた。どこか引き攣った笑みに見えるのは私の気のせいか?――いや… 「……バイバイ。」 言葉を残して、佐久間はドアを開け室内へと駆け込んだ。 パタン、とすぐに閉まったドアを、私は暫し見つめていた。 “助けて”? あんなに小声で。今思えばどこか怯えたようなニュアンスが篭っていたような気がする。 廊下を見渡しても、憚るべき人物など居ないというのに、何故佐久間は小声で告げ… ………… ……そうか。 ある事に気付いた時、私の視線は再び、「15−A」と書かれたプレートの掛かる扉へと向けられていた。 廊下じゃ、ないんだ。 佐久間が怯えていたのは。……このドアの一枚向こうに居た、人物なんだ。 神崎美雨なんだ。 佐久間は。佐久間はあの女のそばに自ら望んでいるのではないのかもしれない。 捕えられているのか。そうなのか? そう気付いた瞬間、なんとも言えぬ寒気が背筋を駆け抜けた。 息の詰まるような恐怖。それと同時に欲しくなった、あの人のくれる安堵。 私は駆け出した。 優しく微笑んでくれる、主人の下へと。 ウキウキ☆休日計画 その1 ● 娯楽室で遊び倒す その2 ● 建物の中を探検する その3 ● 飲食室でお菓子三昧 その4 ● 大浴場でカポーン その5 ● 展望室デート その6 ● 衣服室で第二回ファッションショー その7 ● 墓参り ………。 ………。 ………。 あたし―――神楽由伊―――が食い入るように見つめていた紙が、突然パシッと奪い取られた。 「あ…。」 手を離れて上がっていく紙を目で追って、そしてその先に居る人物に言葉を失う。 そこには、満面の笑みを浮かべた智さんの姿があった。 「由伊ちゃぁーん?何見てたのかなぁー?」 智さんは引き攣り笑顔で言いながら、奪い取った紙をくしゃりと握り締めポケットに押し込んだ。 ど……どんな顔をすればいいんだろう。正直言って吹き出しそうなんだけど、ここで吹き出してしまうと智さんは間違いなく怒ると思う。だからあたしも智さんを見上げて、引き攣った表情でいることしか出来なかった。 奪われてしまってもう見ることは出来ないけれど、しっかりと脳裏に焼き付いたメモの内容。間違いなく智さんの字で書かれたそのメモには、楽しげな様相がありありと浮かんでいた。ウキウキ☆とかって書いてあったし。文字の周りには楽しげな星マークとかハートマークとかよくわかんないイラストがいっぱい書き加えられてたし。智さんは「休憩期間になっても今までと大差ないよねぇ」なんて言っていたはずなのに。なんだかんだで嬉しいんだ。……嬉しいんだぁ。 「プッ。」 堪えきれず、あたしは吹き出していた。その次の瞬間には、ポカン!と頭を殴られる。痛ぁい……。 「わ、笑うなバカぁ。」 見上げると、智さんは真っ赤になってそっぽを向いていた。そんな様子が益々可愛くて、あたしはクスクスと零れる笑みを止められない。すると今度は両頬をグニッと摘まれ、そのまま左右に引っ張られてしまった。 「ひぇ、い、いたいれすよぉ……」 「うるさぁーい!勝手に人のメモを見たりしちゃう悪い子にはお仕置きだぃ。」 「うぐー……」 ほっぺたを摘まれながら智さんを見上げると、智さんはそのほっぺに空気を入れてリスみたいな顔になりながら、恨みがましそうな目線であたしを見下ろしていた。 そんな智さんを見ていて、ふっと温かい気持ちになる。 智さんって、やっぱり一個上の十六歳でしかないんだよねって思って。 子どもっぽい部分も沢山あって、それがいつものギャップもあって余計可愛くて。 あたしの頬を掴んでいた手をパッと離すと同時に、智さんのほっぺに詰まっていた空気も抜けた。 智さんがふっと零した笑みに安堵して、あたしもつられて小さく笑む。 「見られたモンは仕方ないけどぉ。ま、そういうわけだから、お休み中は目一杯デートするよ。」 「……はいっ。」 「宜しい!」 あたしの返答に満足げに頷き返し、智さんは部屋の時計を見上げた。 時刻はお昼の一時半。時間はたっぷりある。 娯楽室でゲームでしょ。それからファッションショーも書いてあったっけ。どこから行くのかなぁ。 先程のメモを思い起こしながら考えていてふと、ある一行を思い出した。 「あの、智さん。……墓参りって言うのは…」 小さく問い掛けると、「ん?」とあたしに目線を向けて、 「あぁ、あれはねー。渋谷紗悠里の。」 と、さらりと答えてはノートパソコンへと歩み寄る智さん。起動したままのパソコンからメールソフトを起動すると、「見てみ」とあたしを手招きする。 「渋谷紗悠里さん……?お知り合いなんですか?」 首を傾げつつ、招かれるままに智さんのそばへ。「これ」と智さんが指した画面を注視する。 一通のメールが開かれているようだった。差出人は…「管理人」。 『>渋谷紗悠里が死亡した場所を教えて欲しいんですけど、お願いデキマスカ? >by 八王子 お答えします。 渋谷紗悠里は人工庭園のD区域で死亡しました。 壁面から程近い林に、葉が大量に落ちている場所があります。 その場所から20メートル程向かった壁面が、渋谷が絶命した場所です。 もっと詳細な場所が知りたい場合は地図にポイントを記して送信しますが、如何しますか?』 そんな内容のメールだった。 智さんは椅子に掛けてマウスを操作し、メールの「返信」ボタンを押す。 「知り合いじゃないよ。全然。」 と言いつつ、智さんは素早いキータッチで文章を打ち込んでいく。 『管理人様へ 情報漏洩、有り難うゴザイマシタ☆ 地図は要らないdeath(○∀○)!! 世の中なんてアバウトでオールオーケィ』 智さんが打ち込んだのはこんな内容。そして「送信」ボタンを押す。…で、death? 「知り合いじゃないんだけど、ちょっとねぇ。……会ってみたかったんだぁ。」 カチッ、とメールソフトを閉じた後、智さんはあたしを見上げてニコリと笑みを浮かべた。 その表情に、ほんの一瞬見惚れてしまう。ニコリなんて。こんな笑顔を智さんが見せること、滅多にない。 なんて不思議な人なんだろう。あぁ、あたし一日に十回は、智さんのことを「不思議」って思ってる。 そもそも知り合いじゃない人の墓参りなんていうのも、ちょっと考えれば不思議だし。 何を考えているんだろう。 「由伊はさぁ。」 「はい?」 「……アレだね。イマドキっ子だね。」 「はい?」 二度同じ返事を繰り返したけれど、一度目は純粋に「なんでしょうか」という意味の返事。 二度目は、また相変わらずに不可解なことを言い出す智さんの言葉を聞き返す意味での返事。 「んーなんていうかぁ。ジャーニーズとか好きでしょー。」 「……は、はい。」 「やっぱりねぇ。」 智さんはコクコクと頷きながら立ち上がり、あたしの肩を抱いてベッドの方へと歩みつつ言葉を続ける。 彼女の言うジャーニーズは、若手の男の子が集う芸能集団。女の子ならば一度は憧れる美男子揃い。 「そういうの、大衆心理とかって言うのかなぁ。周りの子達が好きなモノをね、一緒に好きになってたら安心するんだよ。」 「そうなんですか?でも、ジャーニJrの高沢くんとか格好良いですよ…?」 「高沢!?趣味悪ッッ!」 「ええー?」 憧れの人をばっさりと切り捨てられてしまえば、表情が曇るのも当然のこと。 智さんひどぉい……。 「よく考えてみって。彫り深いとか言われて誉められてるけどさ、目ぇ奥まってて無駄に鼻高いだけでしょ?」 「それが格好良いんですよぉ!」 「いーや。ハルの方がよっぽどカッコイイ。」 「――…え?」 比較するようにおもむろに智さんが出した名前に、動きが止まる。 智さんはあたしの肩を抱いたまま、ほんのちょっとだけ高い視点からあたしを見つめ、 「そう思うよねぇ?ハルは可愛いともちょっと違ったかな。美男子顔っていうの?」 と、飄々とした様子で告げる。あたしは何も返せずに、智さんを見つめ返すだけだった。 「だから惚れたんじゃないの?」 ズキン。 智さんは尚も世間話のような口調で続けるけれど、その言葉があたしの心に突き刺さる。 どうして。どうして今になってその名前を出すのかわからない。 折角、忘れかけていたのに。折角…… 「ハイ。そこでストップ。」 ぱちん、と目の前で鳴らされた小さな音。智さんの親指と人差し指が奏でたその音に、ふっと我に返る。 「ストップ?」 と、問い返して智さんを見れば、智さんはにこにことした表情であたしの視線に応えた。 先程の思索を一瞬忘れそうなほどに、楽しげな笑顔がそこにあった。 「由伊は本当に考えてることがすぐ顔に出ちゃうんだねぇ。」 そう言われてなんだか恥ずかしくなり、思わず手で自らの頬を覆った。少し、熱い。 「まだハルのこと考えてるんだ。でもハルのこと忘れたいんだぁ。」 ―――見透かされてる。 「もしかして忘れつつあった?でも今ので思い出しちゃったから嫌な顔した?」 「………」 あぁ、見透かされてるよ。あたしの心。 お見通しだって言わんばかりの智さんの笑みが、少し悔しい。 「忘れさせてあげるよ。」 「……智、さん…」 「あたしのことを受け入れなさい。」 智さんはその目をすっと細め、微笑んだ。 あ、ぅ。 あたしは、自分の心がよくわからない。 もしかしたら智さんの方が、あたしのことわかってるんじゃない?っていうくらい。 「返事は?」 「……はい。」 何故頷いたのかも、自分ではよくわからないけど。 きっと智さんはその理由を知っている。 「宜しい。……キスしてい?」 「……はい。」 また、頷いた。 今までと少し違うのは、そのコクンっていう動作に躊躇いがなかったこと。 嫌々だったはずなのに。あたしの心。変わってる。 クッとあたしの顎に手を添えて、顔を少しだけ上向かせる。そして智さんは顔を近づけた。 いつもはされるがままだったキス。 今日は少し違う。あたしは自らの手を智さんの頬に添えて―――引き寄せていた。 どちらからともなく触れ合った唇は、今までのようにそれだけで終わらなかった。 あたしは智さんへと顔を押し付け、智さんもまたあたしの頭を抱いてキスを何度も繰り返す。 「……あたしは由伊のことが好き。わかる?…あたしの愛、感じる?」 キスの合間に紡がれる言葉。緩く伏せていた目をそっと開け、コクンと小さく頷いた。 智さんは「宜しい。」と言う代わりに、またキスをくれる。 何度も、何度も。 「由伊の想い人になるためなんだよ。…こう見えてもアタシ、努力してる。」 「ふぁ……」 融ろけるような甘いキスの後は、吐息を漏らすことしか出来ないあたし。 智さんの言葉は真っ直ぐで、同じことしてるのに、なんだかずるい。 だけどその真っ直ぐな言葉が、不思議と、心に響く。――嬉しい。 「由伊はまだハルのことを見てる。……妬けるんだから。」 「そん、なこ、と……」 「嘘吐かなくていい。由伊はわかりやすいんだってば。」 こつん、と頭を小突かれて、少しだけ冷静さを取り戻す。 クスクスと笑みを漏らす智さんにつられるように、小さく笑んだ。 「――愛してるよ。ユイ。」 「あッ…!」 不意に腰を撫ぜた智さんの指先に、ビクンと身体が震えた。 焦らすように指先はあたしの身体を辿りながら、キスがまた始まる。 触れ合わせただけの唇。緩慢な愛撫。そんな行為が徐々に堪えきれなくなって。 両手で智さんの頭を抱いて、舌を僅かに差し出した。 ピチャリと触れた二人の唾液。それが引き金のように。 ――今までにないくらい、深いキスを交わした。 「ユイ。…ユイ…」 「智、さ…ん……。……ぁ、ッ…」 唾液に濡れた二人の唇。長い時間、離れずにいた。 あぁ、離さないで。もうこのまま。 あなたで満たして。 美雨さんは、部屋のドアのすぐそばに佇んでいた。その背を壁に預け、まるで煙草を吸う仕草のように、指先を口許に触れさせていた。その目は鋭くフロアを見据えたまま。何か考え事をしているように見える。 「……これで、良かったんですか。」 あたし―――佐久間葵―――はベッドに腰を掛けて、数メートル向こうの彼女を見上げて小さく問い掛けた。あたしにとっては恐怖の対象である女性。彼女はそんなあたしの思いすらも察しているのだろうか。 美雨さんはフロアに落とした目を薄く細め、 「そういう貴女は、これで良かったのかしら。」 と、低いトーンの声で言う。 その言葉が何のことなのかわからず、あたしは彼女を見つめたまま、返す言葉を持たない。 あたしに、すっと視線が向けられた。鋭く冷たい目に、ゾクン、と寒気が走る。 「私から逃げる恰好のチャンスだったでしょう。」 そう告げて、美雨さんは薄い笑みを浮かべた。 「闇村の配下の女――つまり貴女の味方ともなり得る宮野も居た。」 続けられた言葉で、確信した。 ……気付かれてる。 あたしの中に芽生えた恐怖。 隠し通そうとしていたけれど、あたしの嘘なんか彼女には通用するわけがない。 あぁ、この本心を知られても尚。あたしは美雨さんのそばにいなくちゃいけない。――酷なこと。 「それなのに、逃げなかった理由は何?」 淡々とした口調の中で、そう続けられた問いかけにあたしは顔を上げた。 逃げなかった理由? 自問するようにぽつりと復唱して、彼女から目を逸らす。 「――…あなたを裏切ったら。」 「殺されるとでも?」 「……ハイ。」 そう頷いた後、彼女が何を口にするのかが怖くて。 彼女から逸らして床へと落とした目を、きゅっと瞑った。 ――沈黙。 まぶたの裏の薄闇の中、その壁の向こうからぼんやりと差す光。 不意に、遮られた。 「そんなに、闇村のことが恋しい?」 小さな声で問い掛けられる言葉と同時に、冷たい手が、あたしの頬に触れた。 目を開けて、目の前へとやってきた女性を見つめる。 その冷たい瞳。見つめられると逸らしたくなるような重圧に堪えた。 「美、雨…さん。……あたしは、…あなたのことを一度、天才だと思いました。」 「……。」 「だってあたしを……。闇村さんに支配されたあたしの心を、動かしたんだから。……だけど、」 真っ直ぐにあたしを見つめる目が僅かに細められた時、思わず言葉に詰まる。 怖い。押しつぶされそうなほどに、怖い。 あぁ、こんな時あたしが求めるのは…… 「やっぱり、あたしの心は闇村さんのものなんです。」 言い切った。と同時に。 恐怖と、想いの確信と、狂おしい程の愛が綯い交ぜになって、壊れてしまいそうな感情を抱く。 頬に添えられていた手が、静かに下ろされた。 「……正直者。浮気も出来ない程に夢中なの?」 彼女はあたしから一歩遠ざかり、顔を逸らす。 その行動もまた、恐怖から何も言えなくなりそうなあたしの感情を察している様だった。 「二人を同時に求めることは……できません。―――あなたは彼女を憎んでる。」 そう告げた瞬間、美雨さんは微かにその目を見開いた。 「……私があの女に憎しみを抱いていると…言うの?」 「そう見えますけど……。」 今まで見せたこともないような、――人間っぽさ。 美雨さんは不思議そうな表情であたしを見つめた後、考え込むように目線を落とす。 「あの。……何が、あったんですか?高校時代に何かあったんですよね?」 その問いには好奇心。 『絶対に許さない。』と、確かに告げておきながら。 彼女は理解していない?自らの憎しみの理由を?……何故? 「聞きたい?」 表情なく問い返す彼女の言葉に、一つ頷き返す。 美雨さんは暫しの沈黙を置いた後で、どさりと、ベッドに腰掛けるあたしの隣に腰を下ろした。 ふっと伏せられたその瞳が捉えるのは、過去の、憧憬か。 「入学式の日。あの女に話し掛けられたの。―――それが、全ての始まり。」 今から十三年前のこと。 それは、私―――神崎美雨―――と闇村真里とが、初めて会った時のこと。 「貴女が神崎さんね。」 入学式の後。校舎内の廊下を歩いていた時、背後から掛けられた声。 振り向くと、この学校の生徒の姿があった。制服を着こなしている様から見て上級生だと察する。 長い艶やかな黒髪を背中に流し、その表情は温和な笑み。黒い瞳は眼鏡越しのもの。 知的で優しげな女性だった。 彼女は緩やかな足取りでこちらへ歩み寄り、少し高い目線から微笑みを向けた。 「はい。…何か?」 猫を被るとまでは行かずとも、社交的な笑みを浮かべて応えた。 そんな私を、彼女はまじまじと見つめて、 「予想通り。…いいえ、それ以上。」 と、小さく呟いた。私には一体何のことなのか解らない。 すぐに切り返すように、彼女はその目を笑みに細め、「なんでもない」と言葉を続けた。 「私は二年の闇村真里。お噂は兼兼伺っていたわ。」 そう言って、彼女は握手を求めるように手を差し出す。 「一年の神崎美雨です。」 自己紹介を返しながら、彼女の手を握った。 握った時、ふわりと包み込まれるような心地良い温度を感じる。 そんな温かな手に一瞬目を落とした後、「噂、とは?」と問い掛けた。 私の言葉に、彼女はクスクスと笑みを零す。 「超難関と呼ばれるこの私立校の入試を満点で通過したのは、貴女でまだ二人目。」 「そう、ですか。」 そのことか、とすぐに思い当たる。 学校長直々にお褒めの言葉を頂いた。別に、嬉しいとも思わなかったけれど。 私にとっては当然の結果。 だって私は――… 「貴女は天才なのね。」 ぽつりと、彼女が呟いた言葉。それは私の心を見透かしたような言葉。 彼女はその背を廊下の窓へと凭れながら、嬉しそうに目を細める。 私は女性の姿を、廊下に佇んだまま目で追った。 「こうして言葉を交わしていればよくわかるわ。……同じ人種だってことがね。」 そう言って彼女が浮かべた薄い笑みで、全てを察した。 彼女から目が離せない。 「最初に満点を出した人物は……闇村先輩?」 「そういうこと。」 やっとわかってくれた、と。彼女は小さく呟いて、私を見据える。 眼鏡の奥の瞳。その黒い瞳は、突き刺さりそうな程に真っ直ぐに。 ―――刹那、芽生えるのは微かな後悔。 この学校に来るべきではなかった。この学校に来てはいけなかった。 私は、この女性に出会ってはいけなかった。 「天才同士。仲良くしましょう?」 「……」 彼女の浮かべる笑み。嘲笑に見えるのはきっと私の気の所為。 わかっている。わかっているのに。 この人は、今まで誰しもが為し得なかったことを為せる人間だ。 この人は、私を―――越えるかも知れない。 彼女の言う通り。言葉を交わしていれば見えてくる。 同じ人種だということが。 「私だけが貴女を理解し得る。」 「……」 「そして私もまた、貴女だけが理解し得る存在。」 午後の校舎。入学式に出席した新入生達は既に帰ってしまったのか。 此処は静寂。まだ少し肌寒い季節。窓の外には桜の花びらが舞う。 どこからか吹き込んだ風が、足元で薄く揺れた。 女性は、私の傍へと歩む。冷たい廊下にキュッと響く、上靴の足音。 ほんの数十センチの距離。彼女の吐息すら感じられた。 私のそばにいるのは、今まで一度として関わったことのない種類の人間。 その出会いが、私にとっての喜びとは思えなかった。しかし恐怖とも違う。 「―――もう、私と貴女は離れられない。」 耳元で囁かれた言葉。 脳の奥にまで染み入るような、深みを持った言葉だった。 その言葉が真実ならば。私はこの女性を受け入れる他ないのだろうか。 見上げれば、女性は温和な微笑で私を見つめていた。 「闇村、先輩…」 名を呼んだ声が、微かに上擦る。 続く言葉はない。女性の姿を見つめたまま、目が離せない。 あぁ、既に私は、この女性に引き込まれている。 「――放課後、旧校舎の一階の隅にある空き教室で待っているわ。……いいわね。」 「ハイ。」 素直に頷いたのは、このまま彼女から離れることなど出来ないと感じたから。 彼女の言葉を鵜呑みにするのは良くないかもしれない。けれど私には解らないことばかりだった。 互いに理解し得る関係など、あるはずがないと思っていた。 だけれど。彼女が同じ人種ならば、或いは有り得ることなのかもしれない――。 そんな期待を、込めて。 「貴女のこと、美雨って呼んでもいいかしら。」 先輩は私から身体を離しながら、ふと思い出した様に問いかける。 私が頷くと、彼女は満足げに微笑みを向けた。 「待ってるわね、美雨。――…ありがとう。」 そう告げて、すっと踵を返す先輩の姿を目で追った後、ふっと我に返るように口を開いた。 「……こちらこそ。」 呟きが彼女に届いたかどうか、わからなかったけれど。 来た時と同じように緩やかな歩調で歩んでいく先輩が、微笑むように肩を揺らした。 その姿を、見えなくなるまでずっと見つめ続け、見えなくなっても尚、彼女が消えた曲り角から視線を外せない。そんな自分の行動に、少し驚いた。 「……」 私も静かに踵を返し、廊下を歩んでいく。 闇村先輩。 彼女と出会いたくはなかった。 けれど、出会ってしまった。 ―――私は、もう戻れない。 Next → ← Back ↑Back to Top |