BATTLE ROYALE 18




 ここは、天空の城。
 その名の通り、空にぼんやりと浮かぶ大きな城。それは重力や力学云々の理屈を超越した存在。
 そんなことを想像したこともなかったし、もしそんな話を聞いたとしても在り得ないと否定しただろう。
 こう見えてもリアリストなんや!…なんて言い張っていた所だけれど、実際にこうして宙に浮かぶ城に居てみれば、信じざるを得ないというもの。ここでは、現実論も通用しない。
 ……此処は、黄泉の世界? …いや?
 こないだ綾女さんに訂正された気ぃする。まだ天国とかそんなんやなくて、いわば「査定所」とかなんとか。
 この城にいられる期間は短いらしく、行く先が決まったら、またどっかに旅立たなあかんのやって。
 その先に何があるのかはわからへん。天国?地獄?はたまた宇宙?
 あ、因みにここで「未練タラタラ過ぎや!」て言われたら、霊になってまた下界に戻れるんやで。
 めんどくさいんやな。うちの親の宗教やったら、死んだら宇宙行って、生まれ変わって終りやったんに。
 ん。まぁ、それでも私らにとってはありがたいシステムなんかもしれん。
 なんといっても、例のプロジェクトをこうやって見守れるんやからなぁ。

 私―――高見沢亜子―――は今こうして、中途半端な場所、「天空の城」に居る。
 あっさり戦線離脱した私やし、印象が薄かったかもしれないので自己紹介でもしとこぉか。
 高見沢亜子、通称アッコちゃんは今をときめく二十七歳☆
 もとい享年二十七歳。…なんや、あんま笑えん。パソコンの扱いだけは誰にも負けないスペシャリスト。クラッキングでオイタした所為で死刑になんかなってもうたんやけど。ま、それは昔の話ってことで置いといて。
 死ぬ直前に、最初で最後の恋をした。相手は神崎美雨という天才殺人者。ものっそい美人なんやで。
 そして彼女の手によって、私は死んだ。……本望だった。
 こんなに幸せに死を迎えられるなんて、あの暗い人生から思えば意外過ぎる結末だ。
 私はきっと、ずっと美雨さんのことを愛してる。死んでもずっとって言うても全然大袈裟やない。むしろ事実。
 今もこうして草葉の陰から彼女の事を見守れる。幸せや。
 そりゃまぁ、佐久間葵とか言うどこの馬の骨とも知れん女を抱いたりしとるの見るのは辛いんやで?
 でも、それも愛があれば乗り越えられる試練なわけで。

 あ、そうそう。
 この城にいるのは私だけやない。
 実は例のプロジェクトで死亡した人らもおったりする。
 これは神様のサービスなんかな?プロジェクトが終わるまで見守らしたる!なんて、気の利く神様やなぁ。
「亜子。例の相関図、出来た?」
 と。不意に後ろから掛けられた声に振り向いた。そこには、下界の時と同じように白い修道服に身を包んだ綾女さんの姿があった。よく考えたら、「綾女さん」って呼ぶようになったのもここに来てから。死んでから仲良くなるいうのも、なんや変な話やけど。
 私が今いるのは、城の中のちょっとした広間。大きな机がどどんと置いてあったり、ソファやらチェスやらなんやらあったり。いわば中世ヨーロッパな雰囲気の部屋。
 で、なぜか場違いに置いてあるパソコンに向かって、私はある物を鋭気製作中やったわけや。
「出来たで。ほら、なかなかの力作や。」
 言いつつマウスを操作して表示させたのは、つい先程完成したばかりの「プロジェクト人物相関図」だった。
 実はこれ、さっき綾女さんとレミィさんと三人で話しとる時に盛り上がって、勢いで作ってみたのであるッ。
 一時間弱もあればちょちょいのちょいや。フフン、任せとき!
「……へぇ。なかなか拘ってるのね。」
 綾女さんは画面を眺め、感心したように言う。当然や当然や。
 私が鼻高々に胸を張っていると、ふと、綾女さんはゆるりと首を傾げ、
「これ、なに?」
 と、相関図の一部を指差した。それは、私と綾女さんの関係を示す矢印。
「あ、これな。どういう関係か悩んだんやけど、これが一番しっくり来るかなぁと思うて。」
「……火花バチバチ?」
「せや!火花バチバチ。」
 彼女がぽつんと読み上げる言葉に、にはりと笑んで頷くと、綾女さんは複雑そうに首を捻る。
 む。何があかんのや。
 暫く沈黙を守る彼女をじぃーと見つめる。
 綾女さんはそんな私の視線に気づくと、じぃ、と私を見つめ返した後で、
「……あながち、間違いではないかもしれない。」
 と小さく言っては、薄く笑みを浮かべた。
 「やろ?」と笑んで、再び綾女さんと見つめ合う。
 今度は違う意味での見つめ合いだった。あ、それこそ火花バチバチや。
「そうやって二人が火花を散らしている間にも、愛しの美雨さんは佐久間葵とラブラブなんだけどねー?」
 突然、背後から皮肉たっぷりの横槍が入る。
 振り向けば、クスクスと楽しげな笑みを浮かべる榊千理子の姿があった。
「ラブラブ。……それは違うわ。きっと美雨さんは彼女を利用しているだけなのよ。」
 綾女さんが真剣に返す言葉に、どことなく嫉妬が滲んでいて面白い。
 千理子も可笑しそうに笑みを堪えつつ「どれどれ」と私の作った相関図を覗き込む。
「……って、コラ、高見沢!これ何!アタシ、救い様ないじゃん!繋がってんの瑞希だけだし、しかも瑞希からの矢印『憎しみ』とかになってるし!」
 千理子はポカッと私の頭を殴りつつ、不満げに「憎しみじゃなくてコレもハート!」などと付け加える。
「私は客観的な見聞を書いとるだけや。……殺されたくせに。」
 ボソッ。最後の言葉は聞こえないように言ったはずなのに、更にポカンッ!と後頭部を殴られる。
 じ、地獄耳め…。
 尚も不満げにしていた千理子は、ふと嘲るような笑みを浮かべ、
「っていうか高見沢もさぁ、自分で『同情と蔑み』とか書いてんの?まさしくその通りなんだけど、普通自分で書くかぁ?」
 と、渋谷紗悠里から私へと伸びた矢印を指差しては、「うははは」と高笑い。
「私も死んでからちょっとは達観したんや。」
 ここは大人っぽくクールにあしらって、中指でクイッと眼鏡を上げた。
「達観ね……。」
 ぽつりと綾女さんが復唱する言葉が今一つ腑に落ちなかったりもするが、気にしない。
 その後しばらく三人で相関図について論議した後で、突っ込み所もなくなった頃、ふと綾女さんが千理子に目線を向けた。
「そう言えば貴女、横山さんにはお会いしたの?」
 そんな問いに、私も千理子に注目した。
 千理子は視線を向ける私ら二人を交互に見て、真顔で少しの間沈黙した後、ひょい、と肩を竦めて見せ、
「まーだ。……どんな顔して会えって言うの?憎まれてるのに。」
 と、さして気にしていないような素振りを見せながら、相関図を顎で示した。さっきはあんなことを言ってたけれど、やっぱり千理子もわかっているんだろう。ここに来ると「達観する」というのは事実なのだ。
 全てが真実なのだと受け止めることが出来る。楽しく笑い話として済ませることは出来るが、ここで憤りや怒りをぶつけることなどない。ここで、ドラマは起こらない。
 それでもやはり。戸惑いは生じる。それは、達観した者同士として再会する恐怖なのかもしれない。
「会わないというなら、それも選択肢の一つね。」
 綾女さんの言葉に、私も小さく頷いた。
 ここでは会いたくない人物には不思議と会わない。会うことが出来ない。
 実際、私もまだ渋谷紗悠里とどんな顔をして会えば良いのかわからない。
 そんな都合が通るここは、不思議すぎる空間だった。
 ――否。もしかするとここは、実在などしない空間なのかもしれない。
 ここは夢の中で。綾女さんも千理子も、私の想像が勝手に生み出している人物でしかないのかもしれない。
 それならば全てが納得出来る。
 もしそうなら、寂しい気もするけれど……
 でも、それならそれで開き直って、今を楽しむべきなのかもしれない。
 ここは、とても居心地が良い。
 だからこそ。

 天空の城は此処に在る。
 下界の様相を映し出しながら、人々が安らかに暮らしている場所。





 触れた唇の感触が、今もまだ残ってる。

 幼い頃、お姫様になるのが夢だった。
 お城の窓から外を眺めて、白馬に乗った王子様を待っていたいと思っていた。
 いや、王子様は必ず現れるのだと信じていた。
 王子様がどんな顔なのかわからなかったけど、いつしかそのぼやけたヴィジョンが鮮明になって行く。
 現れた王子様は、お兄ちゃんと同じ顔。
 私―――悠祈藍子―――は、部屋の窓に頬杖をついて、ぼんやりと外を眺め続けていた。
 ここから見えるのは、見渡すばかりの青空と、そして美しい庭園。
 あの庭園の石畳を、王子様が白馬に乗って駆けて来る?
 そんなことを考えて、ふっと小さく笑みが零れた。私を迎えに来る王子様など、いるはずがない。
「綺麗……。」
 庭園はいつも穏やかな春風が吹いていて、美しい花が咲き乱れる。
 その情景を眺めることで、私の中の長い時間が流れていく。
 こんなに穏やかな世界。こんなに穏やかな心。
 私今まで、知らなかった。

 トントン

 遠慮がちなノックの後で、「お邪魔してもいいですか?」と小さく声が聞こえた。
 私は窓の外から部屋の扉へと視線を移し、「どうぞ」と声を返す。
 少し開いた扉からひょこんと顔を覗かせたのは、綺麗な黒髪の少女。少女は照れくさそうに微笑んで、「お邪魔します。」と礼儀正しく部屋へと足を踏み入れた。
 ある日、庭園の石畳からこの城へとやってきたのは、王子様ではなく一人の少女だった。
 白馬に乗っているわけでもなければ、凛々しさと強さを兼ね備えているわけでもない。
 非力で幼く、ただ、ためらいがちな笑顔が可愛らしい少女。
 名前は、由子。
「藍子さん。今日もお外見てたんですか?」
 彼女は私の座るそばへと歩み寄ると、窓から外の景色を見渡した。優しく吹いてくるそよ風に心地良さそうに目を細めては、私に再び目を向けて、嬉しそうに微笑んだ。
「……飽きないの。変わらないようで、少しずつ変わってるのよ。今日はね、あそこの白い花が咲いたわ。」
 私が指差すと、由子は身を乗り出してきょろきょろと辺りを見回す。そして小さく首を傾げ、
「藍子さん、目、いいんですね。」
 と感心した様に言う。「そんな問題じゃないでしょう?」と笑いながら、彼女の横に立って、
「ほら、あそこ。…薄紅の花が咲いてるでしょ?その隣の花壇。」
 そう言いながら、私も身を乗り出して指し示す。
「わ!藍子さん、危ないッ…!」
 不意に、ふわりと身体が抱かれ、一瞬状況が掴めなかった。
 気づくと私は後ろから抱かれる形になっていて、驚いて振り向けば由子と目が合う。
 二人、きょとんと見つめ合った後、同じタイミングで吹き出した。
「そう簡単に落ちたりしない。」
「す、すみません…つい。」
 赤くなって謝る少女が可愛くて、おそらく忘れているんだろうけど、抱いたままの手も温かい。
 「あ。」と声を上げて慌てて手を外そうとする、その手をきゅっと握りしめて、阻んだ。
 彼女が私を緩く抱いたまま、手を重ねて。
「……藍子さん?」
 恥ずかしそうに小さく声を上げる由子に、私は顔だけ振り向いて微笑を向け、重ねた手を握りなおした。
「このままでいて。……もう少し。」
 甘えるような言葉もすらすらと出てくる自分が不思議で、だけどそれがすごく自然に思えた。
 由子は何も言わず、返事の代わりにぎゅっと、強く優しく抱きしめてくれた。
 まるで夢のよう。ここがどこなのかだとか、少女が何故こんなにも従順でいてくれるのかだとか。
 もう、そんなこと何も考えずに、ただ自然に在れる。ここは全てが満ち足りていた。
 全て……と、言えるのか。……ふっと疑問に思う。
 このまま抱かれているだけでも幸せ。だけどもっと欲を言うならば
 あの時のくちづけを、もう一度―――。

 少女に、他に想い人がいることは知っていた。
 ずっと見つめていた。
 病に伏した女性を必死で看病する姿も、野蛮な男と言い争う姿も、そして最後の遺言も。
 少女は私のことなどすぐに忘れてしまったのかもしれない。
 だけど私は、ずっとずっと、死の間際に触れた唇が忘れられなかった。

「夢でもいいの。」
 ぽつりと呟いた言葉、少女が反応を示したのかどうか、私にはわからない。
「嘘でもいい。偽りでも構わない。だから」
 回された手を強く握って、少し切なく、言葉を紡ぐ。
「……もう一度、キスを下さい。」
 ゆっくりと振り向いた。
 少女は不思議そうに私を見つめた後、優しく微笑んだ。

 穏やかな風が吹く。
 春の香りがする、やわらかな時間。
 甘く、優しいぬくもりの中で。





 ガシャンッ。
 重く冷たい金属質な音を立て、私―――横山瑞希―――は扉を押し開けた。
 こんなにも美しく豪奢な城であっても、そこに光がある限り“闇”は存在する。
 長い階段を地下へと下って行けば、燭台に灯る炎だけが唯一の光となる。
 炎が消えれば侵蝕されてしまいそうな程の、重苦しい闇。
 そしてその先に、この頑丈で冷たい扉がある。
 ここは地下牢。
「……またお前か。」
 冷たい視線は、唯一の男から向けられた。
 看守のために備え付けられた木製のデスクセットに腰を下ろし、いつも読書に耽る男。
 眼鏡越しに鋭い視線で私を見上げると、嫌悪感を滲ませて僅かに眉間を寄せた。
 すぐに興味を失ったように私から視線を逸らし、手元の厚い本へと目を戻す。
「目が悪くなるわよ。」
 彼のそばに立った燭台に歩み寄り、油を注ぐ。縮小していた炎は小さく揺らめいた後、その大きさを増した。
「余計な世話だ。」
「……加山。」
 つっけんどんな男の名を、呼びつける。
 見下すようにその姿を見つめていれば、加山はちらりと私を見上げ、
「なんだ。…横山。」
 と、同じように私の名を呼びつけていた。
 少しの間、睨み合いが続いた後で、先に折れたのは私。
 フッと笑みを漏らしては、冷たい壁際に背を寄せ、腕を組む。
 彼を眺めながら「私はね」と小さく紡いだ言葉に、加山は本へと戻そうとした視線を、私に向けた。
「イイ男だと思っていたのよ。加山のこと。」
 ポケットから煙草を取り出しながら告げると、加山はちらりと私を見上げ、怪訝そうな表情を浮かべた。
 煙草を咥えながら、「いかが?」と加山に箱を差し出せば、加山は礼も何もなく一本の煙草を抜き取った。
 そんな無愛想な様子に苦笑しながら、燭台の炎で煙草に火を灯す。
「お前は最初から反吐が出るような女だったな。」
 その顔を笑みに歪めながら、加山も立ち上がって煙草に火を点けた。
「失礼ね。」
 ジリ、と小さく焼ける音がして、ゆらりと烟る煙を眺めながら、つられるように薄く笑む。
 フッと加山が漏らした笑みもまた、私の秘書として豪腕を揮っていた頃の加山など微塵も彷彿させぬ、下衆じみた男の笑みだった。
「騙されていたわ。気づけなかった私が浅はかだった。……貴方は貪欲な男。」
「今更だな。もう欲など消えた。此処にあるのは抜け殻だ。」
「……そうは思えないけど?」
 チラリと、彼が読んでいた厚い本に目を向けた。
 加山は私の目線の先を追いかけた後、肩を竦めて見せる。
「欲はない。だから面白い。抜け殻は何だって吸収するさ。」
「娯楽として。」
「そうだ。」
 彼が求めていたのは地位か、金か、名誉か。
 上を目指して突き進んでいた男は、休息など持たなかった。
 張り詰めたものがプツンと切れた時、男は悟った。もう終りだと。
 そこに絶望。そして希望。
「貴方は恋なんて、したことがないんでしょう。」
「……どうかな。」
 とん、と指先で煙草の灰を落とし、加山は目を細める。
 ギシッと軋ませながら椅子に腰を落とし、また、煙草を吸った。
 そのままぼんやりと宙を眺めた後、ぽつりと言葉を続ける。
「お前のことを妬んでいた。貪欲な女だと、軽蔑した。」
 武骨な指で眼鏡を外し、鼻の付け根をきゅっと指先で押し付ける。その仕草が、まるで涙を堪えているようで可笑しかった。そんなはずはないのに。
「自らの欲するものを、確実に手中にしてきたその実力を、羨望した。」
 どこか空虚な笑みを浮かべては、煙草を床に落とし、キュッと靴先で押し付ける。
「だからこそ突き落としてやりたかった。……醜い感情だな。」
 潰れた吸殻を一瞥し、肩を揺らして音もなく笑んだ。
 そんな姿が幼く、拙くて。一瞬、彼が少年のように見えた。
「人間とは醜い動物よ。」
「いや、それは違う。天使のような人間だっている。俺やお前が穢れているだけの話だ。」
「……そんな人と出逢えたの?」
 そんな問いかけの後、暫くの沈黙。
 男はその手で額を覆い、顔を伏せる。
 表情は見えず、微かに震える肩が何を意味しているのかわからない。
 笑っているのか。泣いているのか。
「恋とは……何だ?」
 ぽつりと彼が零した呟きは、自問にも似た響き。
 私は答えを持たず。とっくに火の消えた煙草のフィルターを床に転がした。男の姿を見つめていた。
「―――残酷な程に、美しい感情だな。」
 そうして男が導き出した答えこそが、彼が求めていた最後の想い。
「残酷な程に」
 復唱して、目を閉じた。
 私はそれを知っている。
 憎しみと狂気が綯い交ぜになった、狂おしい程に残酷な恋慕。
 この手で殺めた少女を、遠くに想った。





「双子が生まれた…!?」
「……そんな…。」
 レミィと紗悠里は、あたし―――佐倉莉永―――を見つめて目を丸くした。
 しばらく沈黙した後で、ガクリ、と項垂れる紗悠里。
「……もう既に、三人の子どもがいるんですよね?なのに何故?」
「何故?って言われても困るんだけどぉ。」
 沈痛な面持ちの二人とは打って変わって、あたしは満面の笑顔で言葉を返す。
「とんでもない強運の持ち主よね、リエって。……ありえない。」
 レミィはそう呟きながら、目を伏せた。
 そして二人は、同時に「はぁ」と溜息を零す。
 何よぅ。出産なんて超おめでたいのにッ!
「……五人も養っていくのは大変ですよ。養育費だけでバカになりませんし、食費もかさみます。子どもが高校や大学に進学する頃までには多額の学資金を準備しなければなりません。私立なら尚更です。もし国公立を目指すならそれ相応の教育が必要になりますから、塾や家庭教師……」
 ぼそぼそと呟き続ける紗悠里の頭を、紙幣の束でスパコォン!と叩く。
「紗悠里、うるさぁーい!子どもの進学なんてイベントないもん!ほらほら、出産祝い二人分!」
 ピシッ!とあたしが指差して見せたのは、車が止まったボードのマス。
 そこには確かに、『双子が生まれた。全員から出産祝いを貰う。』という指示が書かれているのだ。
「……約束手形を。」
「わ、私も……」
 しょんぼりと手を伸ばしつつ、また二人一緒に「はぁ」と溜息を漏らす。
 そんな二人を尻目に、あたしは数え切れない程の紙幣の山の中でウハウハなのである。
「ハイ、次!借金地獄の紗悠里の番だよー。」
「……一言余計なんですけど。」
 ―――というわけで。あたしたち三人は、天空の城の娯楽室で、人生シミュレーションボードゲームで遊んでいる真っ最中なのだ。ものすごぉく変な話ではあるんだけどね。
 まさかここでレミィと再会できるとも思わなかったし、紗悠里なんか死ぬまで……っていうか、死んでも関わり合いのなさそうなタイプかなぁなんて思ってたのに。ところがどっこい、会って話してみると、これがなかなか面白い子なんだなっ。ちょっと頭固くて暗いけど、つっこみが鋭くて、話してて楽しかったりする。
 三人でギャーギャー騒ぎながらゲーム囲んで遊んでるなんて、意外過ぎる展開。この楽しいっていう感情すら、なんだか不思議に思える。―――あたしたちは死んでるのに、笑ってる。
 昔、人間は死んだら一体どこに行くんだろうって考えてたことがあった。誰も教えてくれなかった。いや、誰も知らなかった。
 そんな中であたしがぼんやりと考えていたのは、「人は死んだら天使になるんだ」って。
 白い羽根が生えて、神様の下で楽しく遊んで暮らすんだって、そう思ってた。
 そんな推測が、「ハズレ」だとわかるのがこんなに早かったのは予想外。

 あたしは死んだ。
 神崎美雨という女の手によって、体中に穴を空けられて。
 沢山の傷。沢山の血。どんどん奪われていく体温。
 痛みや苦しみはぼんやりとしか覚えていなくて、
 あたしが伸ばした手を握ってくれた、あの人の手の温度だけが、印象に残ってる。
 走馬灯。
 話に聞いたことはあったけど、実際にそんなのあるんだなぁって死んでから思った。
 色んな景色。色んな言葉。色んな人たち。頭の中に巡ってた。
 中でも、不思議と一番大きく、そして長く出てきたのが、レミィだった。

「あーんもう、惨敗!リエってば強すぎ。」
 何枚もの約束手形をヒラヒラさせながら、レミィは苦笑を浮かべて言った。
 綺麗な金色の髪は、床に腰を下ろしている所為で毛先が床に散っていた。金色にキラキラ光る髪。
 青色の目は、いつ見ても不思議な感じ。カラコンしてる人は沢山見てきたけど、レミィのような天然ものは一味違う。それは本当に綺麗な青。
 どちらかというと華奢な身体つきは、スラリとしたカッコイイ印象を与えるんだ。バイクの後ろに乗っけてもらった時も、手を回したらやたら細くて羨ましかったっけ。
 あたしが今まで生きてきた次元とは段違いに、レミィはカッコイイお姉さんだった。
「リエ?あたしの顔に何かついてる?」
 不思議そうな顔であたしを見つめるレミィ。その時ようやく我に返り、ふるふると首を横に振ってみせた。
「な、なんでもなーい。……じゃッ、負けた人は片付けよろしくねー!」
 笑顔で言って、あたしは立ち上がる。「どこ行くの?」と掛けられた声には「ちょっと」と言葉を濁した。
 娯楽室を出れば、真っ直ぐに伸びた廊下。小走りに駆け、向かう先はテラス。
 廊下の突き当たりにあるテラス、硝子の扉を押し開けると、心地良い風が吹いた。
 風にさらわれそうになる髪を押えつつ、あたしは目を細める。
 どこまでもどこまでも、ずっとずっと続きそうな青空は、上にも横にも、そして下にも広がっていた。それがきっと、ここが「天空の城」と呼ばれる理由なのだろう。
 都会育ちのあたしにとって、こんなに気持ちいい風はすごく珍しい物。大きく息を吸い込むと、煙草で汚れた肺の中まで清めてくれるような気がする。テラスの手摺に腕を乗っけて、静かに目を閉じた。
 心地良い静寂の中。物思いなんてカッコイイもんじゃなく、ただぼんやりと――…

 ドンッ。

 突然背中を襲った衝撃に、慌ててガシッと手摺に掴まる。本当に突然で驚きながら、振り向いた。
 そこには、薄い笑みを浮かべた紗悠里の姿があった。
「まだ死んでなかったら、殺してます。」
 冗談めかした口調で呟いて、紗悠里はあたしの隣へと。手摺に背をつけ、風に心地良さそうに目を細めた後で、ふとあたしに目を移す。しばらくあたしを見つめた後で、「怒りました?」と小さな問い。
 そんな紗悠里の挙動の間、あたしは表情を変えずに紗悠里を見つめていて。だからそんな問いが向けられるのも当然のこと。
「………紗悠里とあたしは、なんで出逢ったのかな。」
 あたしが返したのは問いかけに対する答えではなく、新たな疑問。
「…そう、ね。」
 紗悠里はぽつんと短く答えた後、あんまり不思議そうじゃない様子で「不思議」と小さく呟いた。
 その後の沈黙は、一分間か二分間か。
 長いような短いような時間が過ぎた頃、先に口を開いたのは紗悠里。
「悲しそうな顔をしてる。……こんなに穏やかな場所なのに、どうして?」
 そんな言葉を耳にして、感じた違和感の理由。少し考えてわかった。紗悠里が敬語じゃないからだ。気づいた時ふっと、胸があったかくなるような、そんな嬉しさを覚えた。なんだか仲良しの友達と話しているような感じがする。
「嬉しいのにね、悲しいの。」
 上手く答えが返せずに、ちょっと困った笑みを浮かべた。
「悲しい理由は?」
「きっとレミィのせい。」
「……麗美さんの?」
 よくわからない、といった様子であたしを見つめる紗悠里に、も一個笑みを向けた後、視線を景色に移す。
「生きてる間に、もっと話せてたら良かったのに。もっといっぱい好きになれてたら良かったのに。今じゃもう、意味ないよね。……今更、会ったって」
「好きにもなれない。……想いは移ろわない。」
 あたしの言葉を続けるように、紗悠里は呟いた。見れば、紗悠里も広がる景色をぼんやりと眺めていた。
 その表情がどこか切なげで、あぁ理解してくれるんだ――と、少し嬉しかった。
「中途半端な想いを抱えたままじゃ、ずっと、苦しいままね。だけどそれも仕方がないこと。」
「……だね。」
 素直に頷いた自分が、なんだか可笑しかった。
 納得なんてせずに生きてきた。決まりは破って、定義なんか蹴散らして。
 なのに今、あっさりと現状を受け入れていることが、あたしじゃないみたいに思えて笑った。
 想いは移ろわない。
 紗悠里の言葉を頭の中で繰り返す。あぁ、その通りなんだ。
 だからあたしはこれからも笑う。もう泣かない。
 泣いたってどうにもならない。だから。
 ――…だから悲しいのにね。





 死人(しびと)現世(うつしよ)の夢を見るか。
 幾度となく思索を巡らせたけれど、その答えが出ることはなかった。――生きている間は。
 否、今だってその答えは持ち合わせていない。
 変わったのは、生か死か。その違いだけだった。
 私―――不知火琴音―――とは、何故生きていたのか。何故死んだのか。
 頑なに信じていたのは、「不知火の血を絶やす使命」。
 それだけのために生きていたような気さえした。その為に私は生まれたのだと思っていた。
 私が、あの女――神崎美雨の手によって死んだ、その直後に
 使命は果たされた。
 星歌の命が絶たれた瞬間、私はそこに居なかったはずなのに、それなのに知っているのは何故か。
 死んでも尚、こうして思索を巡らせることが出来るのは何故なのか。
 ―――死者は幻の現世を顧みる。
 それが、推測として出した一つの答え。

「琴音様。……オレンジペコで宜しかったですか?」
 琥珀色の液体が揺れるカップを差し出すのは、死のその瞬間まで思い続けた女性。…星歌。
 午後のカフェテラスで、心地良いティータイム。星歌は自分のカップもテーブルに置くと、私の向かいの席に腰を下ろす。そんな姿を見つめて、微笑んだ。
「……?」
 私の視線に、不思議そうに視線を返す星歌に、笑みを深める。
「いちいち聞かなくても知っているでしょう。オレンジペコが一番好きなんだって、いつも言ってるわ。」
 そう告げると、星歌はどこか気恥ずかしそうに微笑んで、「はい」と小さく頷いた。
 死の瞬間。――それが全ての終りなのだと思っていた。
 しかし違った。再びこうして星歌と過ごす時間は、穏やかで幸福で、満ち足りている。
 もう、こんな風に微笑み合えることもないと思っていたのに。
『お許し下さい。貴女を守ることの出来なかった私を、どうかお許し下さい。』
 再会の時、星歌が膝をついて告げた言葉。
 涙が溢れて止まらなかった。穏やかな温かい涙だった。
 十分よ。貴女が此処に居るだけで、私は十分なのよ。
 伏せた星歌の顔に触れ、頬を撫ぜ、くちづけた。
 ああ、なんて幸福な時間なの。――ここは、もしかして天国なのかしら?
「琴音様……紅茶が冷めてしまいます。」
 じっと星歌の顔を見つめていた私に、星歌は遠慮がちに小さく言っては不思議そうに瞬いた。
 それでも私は星歌から目を離すことはなく、テーブルに頬杖を付いて微笑む。
「冷めても美味しいもの。今は星歌を見ていたいの。」
「……私などの顔を見て、…その」
「卑下しないの。もっと自信を持ちなさい?…星歌は可愛いわ。」
 躊躇いがちな星歌へと真っ直ぐに告げれば、星歌はそれ以上返す言葉もないといった様子で、僅かに頬を赤らめる。そんな様子が益々可愛い。
 このままずっと見ていたい。このまま、ずっと。
 星歌と時を過ごせること。全てを忘れて星歌で満たされること。
 それこそが、私が生まれてきた意味なのかもしれない。
 使命を終えて、ようやく気づけた真実なのかもしれない。

 全てが夢だとしても、構わない。
 今、こうして私のそばにいてくれる星歌が幻だとしても。
 この幸福な時間が泡沫なのだとしても。
 そんな夢ならば、ずっと見続けていたい。
 何も変わらずに、ここにいたい。





「ごめんね。……ごめんね、涼華。」
 何度も何度も繰り返し、同じ言葉を紡ぎながら、光子は涙を流していた。
 天空の城の庭園は、緑の香りがする。
 隅にある小さな墓標は、光子が作ったものなのだろうか。
 その墓標の前に座り込んで、光子は何度も繰り返す。 「……ごめんね。」
 私―――叶涼華―――は彼女に差し伸べる手もなければ、掛ける言葉もない。
 遠くから、彼女を見守ることしか出来ない。
 それは光子が望むこと。だから私は彼女の想いに従うだけだ。
「信じてあげられなかったあたしを許して。耐え切れなかったあたしを許して……。ごめん。ごめんね。ごめんね。……涼華、ごめんね。」
 力なく垂らされた両手は、もうその涙を拭うこともせずに。
 枯れ果ててしまいそうなほどに涙を流し続けた瞳は、赤く。
 濡れた頬は乾くことなどなく、ずっと涙が通い続ける。
 見ているのも辛い。だけど、何も言えずに。私は光子のそばに佇んでいるだけだった。
 光子は私の姿が見えていない。彼女も私も、死人であるはずなのに。
 なのに光子はまるで現世の人間の様で。私は、彼女のそばに佇む幽霊。

 光子に殺されたと知ったのは、既に命が尽きた時。
 不思議と、何も思わなかった。
 生きていればショックも受けただろう。光子を憎みすらしたかもしれない。それは、裏切りなのだから。
 けれど死人である私は、その事実を知っても尚、何も感じなかった。
 彼女が何度謝ったところで、許すわけじゃない。
 許すも何も、私は怒ってもいなければ憎んでもいない。許すことそのものがない。
 それはあまりに不可解な感情だった。

 私の心は凍りついた。
 命が消えたその瞬間から、心は動かなくなった。
 だから私は今も、死んだあの瞬間の想いを常に抱き続けている。
「――…愛してる。」
 その想いが、光子に届いているのかどうか。
 私にはわからなかったし、だから今もわからない。
 恐怖と隣り合わせの愛で、想い続けている。
 全てが理解できているはずなのに。私の感情は機械によって動かされ、光子はその所為で私を憎んだ。
 光子が私に抱いた殺意。その理由もなにもかも、理解はできているのに。
 なのに、納得することが出来ない。だからずっと続く「恐怖」。

 光子へと伸ばした手。
 あの時私は光子を求めていたけれど、それは支配なんかじゃない。
 ただ純粋に、彼女に触れたかった。
 もし死の瞬間にあの機械が働いていれば、私は死しても尚、光子を支配することを望み続けただろうか。
 そう考えると恐ろしくなる。それと同時に、安堵に似た感情を抱く。
 光子を純粋に愛するまま、死すことが出来て本当に良かった。
 もう、絶対に変わらない想い。
 彼女の不透明な想いに怯えながらも、
 私は永久に、光子を愛し続けるだろう。

 そっと光子に手を伸ばす。
 触れようとした指先は、すっと、彼女の身体をすり抜けた。
 彼女の涙を止めることが出来ない。それだけが、悔しくて。
「……泣かないで。」
 一方通行の言葉は、光子の嗚咽と混ざって、風に消えた。





「……ッ、う…ぁ…」
 目元を覆って、堪えても尚溢れる涙。
 何故だろう。ずっと止まらない。
 私―――望月朔夜―――は、ずっとずっとこうして、涙を流し続けていた。
 様々なことを想いながら、泣いていた。
 涙を流すだなんて、今まで考えられなかったのに。
 涙なんて忘れたと思っていたのに。
 長年、ずっとずっと溜まっていた涙が一気に溢れ出すように、いくら泣いても止まらない。
「闇村さん。」
 彼女に与えられたものは、とても大きい。
 私をあの国から連れ出してくれたこと。お姉ちゃんと会わせてくれたこと。
 私を愛でてくれたこと。私に笑みを向けてくれたこと。私に期待してくれたこと。
 最期の時、私の我が侭を聞いてくれたこと。
 いくら感謝してもしきれないほど、あの人は大きな人だった。大切な人だった。
 服従。そんな言葉で済ませられるだろうか。経験はないけれど、恋とも違うような気がする。
 おそらくあれは“支配”。深く深く、私の心の全てを覆い尽くすような支配。
 彼女に支配されたことは、私の誇りだ。
 なんて幸せな、支配だったのだろう。
「鴻上……」
 彼女が見せた感情は、一体何と言うのだろうか。
 様々な教育を受けたけれど、心のことだけは理解出来ない。
 私が彼女に向けたのは微かな憎しみ。
 些細なプライドを傷つけられた、たったそれだけの理由であの女に挑んだことは、正しかったのだろうか。
 正々堂々と戦いを受ける彼女の姿が、少しだけ眩しく見えた。
 彼女が戦う理由。私にはわからないけれど。
 彼女の様な人間と戦えたことは、暗殺者としての幸福に値する。
「……宮野…」
 完全にノーマークだった。
 まさかあんなに呆気なく、致命傷を食らうだなんて。
 私も、闇村さんの前で緊張していたということか。
 穂村や佐久間、私と同様に闇村さんに支配された人間と接する機会はあったけれど、私達はいがみあったりなどしなかった。一体、どんな違いだったのか。
 同等の愛情を注がれ、同等に扱われ、私達は互いの存在を、同レベルの人間だとしか思っていなかった。
 だから、か。 
 宮野に注がれた闇村さんの愛情が、以下か、もしくは――以上だったとすれば。
 それならば在りうるかもしれない。宮野が私を憎む理由。私に殺意を抱く理由。
 ―――貪欲な女。
 私を殺したところで、余った愛情が宮野に向くというわけでもないだろうに。
 今こうして考えたところで、あの女の意図ははっきりとはわからないまま。
 悔しいけれど、私の負けだ。
「――お姉…ちゃん…。」
 そう、彼女を呼んだのは ―――…何度だろう?
 再会から数ヶ月。こんなにも呆気なく、終りは訪れた。
 私はちゃんと、満足な『再会』が出来たのだろうか。
 お姉ちゃんは私と再会出来たことを、喜んでくれたのだろうか。
 今はもうわからない。曖昧なままで終わってしまったから。
 だけど、私は。
「…お姉ちゃん…、お姉、ちゃん…。」
 何度呼んでも足りないくらい、呟いて、それでも足りずに大声で叫んで。
 そう呼ぶことが嬉しい。そう呼んで振り向いてくれる、そんなお姉ちゃんの存在が嬉しかった。
 嬉しい……か。
 やはり私は感情というものが今一つ理解出来ずにいる。どんな時に嬉しいというのか、どんな時に悲しいというのか。心の動きと言葉とが一致しない。だからわからない。それはまるで言葉を知らぬ動物の様。
 だけど今の思いはきっと、「嬉しい」と「悲しい」なんだ。
 確信は持てないけれど、嬉しいから笑う。そして悲しいから泣く。
「お姉ちゃんと会えて、嬉しかった。」
 ……
「お姉ちゃんと別れるのは、悲しい。」
 二つの感情。
 他にももっと複雑なものが渦巻いている様にも思えるけれど、私が理解出来るのは二つだけ。
 それで充分なのかもしれない。
 あぁ、これが感情。
 ここに来て、一つ確信出来たこと。
 それは今まで抱いていた想いに気づいただけに過ぎないかもしれないけれど。
 私は、
 私は…
 ――…おねえちゃんのことが だいすきだった。





 あの人のために死を選んだはずなのに。
 あの人には会えず、そして
 私―――榎本由子―――は、違う人を想っている。
 私の短い人生の中、関わった人なんて数少なくて。そんな中で出逢えた人々は、本当に尊いものだった。
 どんなにレベルの高い進学校に通っていようと、将来有望だと言われようと、そこに希望は見えない。
 虚ろな日々の中で見つけた希望は、全て「人」が与えてくれたもの。
 人生とは、人と人とが作り出すものなのだと、今になって思う。
 それならばもっと多くの出会いを求めるべきだったのかもしれないけれど。
 だけど、きっと私の人生の中にあった出逢いは、充分すぎる程に素晴らしいものだったのだと思える。
 小難しい言葉を並べ立てるよりも今は、出逢いに感謝すべきなのだと、思う。
「宮村…木綿子。……初恋の、ひと。」
 この城から旅立った先に、彼女はいるのだろうか。私のことを覚えてくれているだろうか。そして私に、またあの笑顔を向けてくれるだろうか。
 今もまだ彼女に恋をしているのかと訊かれれば、私は答えを持たずに沈黙するだろう。
 大好きだけど……彼女のくれたキスから、時は流れ過ぎた。盲目的な恋は、時間と共に薄れていった。
 そんな私の隙間に入り込んできたのが、明るい笑みを持つ女性と、憂いを秘めた女性。
 死という願望の共鳴。
 二人に出逢う前に一人で命を絶っていれば、こんなにも想いは移ろわなかった。
「……律子さん…」
 恋なのか、私にはわからない。
 けれど心の底から思った。―――彼女のそばにいたい、と。
 故に危険も省みずに部屋を出た。彼女を守りたい一心だったのに、私は彼女を一人残して逝ってしまった。
 私の命を奪った女性を恨みはしない。それは運命だったのだと、今なら思える。
 律子さんのことが好きだった。大好きだった。
 そばにいられなくて、ごめんなさい。
 私の分まで、生きて。生き抜いて。
 それが、生ある彼女に向ける、私の願い。
「…藍子さん、は…」
 私にとってどんな存在なんだろう。
 深い感情は無く、どこまでも不思議な女性だと……そう思った。
 彼女の裏切りはショックだったけれど、彼女を責めるつもりもない。
 ただ、彼女が欲した最後のくちづけが、頭から離れない。

 ちっぽけな人生。
 だけど私の大切な人生。
 死にたいという願いを後悔しているわけでもないのに、生きていて良かったと思える。
 どこまでも穏やかに、生を顧みる。
 彼女達がくれた希望を、私は忘れない。
 それはとてもちっぽけな、永久不変の想い。





「……吉沢麗美とか、言ったわね?」
 廊下を歩いていた時、不意に背後から掛けられた声。
 私―――吉沢麗美―――の名を呼ぶその声に、振り向いた。
 そこには、黒いウェーブヘアの女性が、壁に背を預け佇んでいた。
「あなたは、確か……」
「矢沢深雪。……印象は薄いだろうけど。」
 女性が名乗ったその名にピンと来る。――テロ組織、キノフロニカ。
 日本では馴染みは薄いだろうけど、アメリカ人ならば記憶に染み付いて消えない名称。
 この人は、あの残忍なテログループの……
「……何、怖い顔してるの。」
 ぽつんと彼女が呟いた言葉で、ふっと我に返る。
 慌てて笑みを繕っては、数歩、彼女のそばへと歩み寄った。
「矢沢さん。……あたしに何か用事でも…?」
 首を傾げて問い掛けると、ふっと口許に笑みをたたえ、彼女はあたしの方へと歩み寄った。
 すっと伸ばされた手に思わず身を引いた。すると彼女はクスクスと可笑しそうに肩を揺らし、
「怯えなくても大丈夫よ。取って食うわけでもないんだし?」
 と軽い口調で言って、伸ばした手であたしの頬に触れた。
 するりと撫ぜる指先に、おずおずと自らの手を重ね、そっと引き剥がす。
 あたしの手の中に残ったままの彼女の手、不意にきゅっとあたしの手を握り締めた。
 彼女の意図するところがわからずに、繕った笑みを消し、彼女を見つめた。
「用事なんかないの。……一人でいるのが退屈だっただけ。」
 警戒するあたしとは対照的に、彼女は薄い笑みを浮かべてあたしを見つめ返す。尚もあたしが沈黙していれば、見つめるその目をすっと細め、「イイ女」と彼女は呟く。
 パシン。微かな音を立てて握られた手を振り払うと、あたしは彼女を睨みつけた。
「……ふざけ、ないで。」
 憎しみを抱く理由は、おそらく彼女の肩書きの所為。あんなにも残虐に人々の命を奪っていったテロ組織の人間に、そう簡単に心を許すことはできない。
 ……そう、思っている私は、きっと彼女と和解することはないのだろう。
 死した今、感情は動かないのだから。
「ふざけてなんかないけど……、そう。仲良くなれそうにはないわねぇ。」
 ひょい、と肩を竦めて見せ、彼女は私の隣を通り過ぎた。
 そのまま過ぎ去ろうとする彼女の足音を少しの間耳にした後で、ふっと口を開く。
「待って。」
 呼び止めたのは、ちっぽけな正義感からか。
 こんなところで説教をしたって何の意味も無いことは、わかっているんだけど。
「……何か?」
 先ほどあたしが返したような言葉を、背中に返される。
 なんて飄々とした人だろう。そんな調子で、躊躇いも無く人を殺めていったのか。
「天誅が下ったのよ。――あなたみたいな人、死んで当然なの。」
 そんな言葉を投げ掛ければ、少しの沈黙の後で「ヒュゥ」とからかうような口笛の音。
「言ってくれるじゃない。ひき逃げ殺人常習犯の吉沢サン?」
「……あたしはあなたとは違う!確かに許されることじゃないけど、でもあたしは…」
「人を殺したことに違いはないのよ。ちょっとばかし規模は違うけどねー。」
 そんなの言い訳。彼女の言葉に、胸の内で反論は尽きない。
 あたしはあんな人とは違う。違うのよ。――あたしは……
「そうやって自分の行為を正当化しようとしてるのね。大方、あれは病気なんだ!とか思ってんじゃないの?」
「…ッ…!」
 思わず振り向いて、彼女の背中を睨み付けた。
 そう、病気よ。あたしは病気だからあんなことをしてしまった。正当化なんかじゃないッ…!!
「結果に変わりはないでしょ。あたしもあんたも天誅が下った。だからこんな所にいるの。」
「………」
 おかしい。反論が溢れるはずなのに、言葉が出ない。
 彼女は廊下に佇んだまま、私に背を向ける。そのままでしばらく沈黙した後、ふっと肩を竦めた。
「どうして死んだの?誰に殺られた?」
 彼女から向けられる問いかけに答える筋合いはあるだろうか。
 そんな疑問が浮かんだけれど、他に返す言葉も見当たらない。
「……信じようと思った子に、殺されたのよ。……狂ってた。」
「ふぅん。」
 さして興味なさそうに相槌を打ち、「つまんない死に方ね」と嘲るような言葉を続ける。
 ツマンナイ、なんて言われるとムッとする。
「そう言う矢沢さんは?……それなりに自慢できる死に方をしたんでしょ?」
「……さぁね。」
 どこか笑みを含ませた声で答えながら、ふっと彼女は振り向いた。
 目が合う。
 ――振り向いた彼女の顔は、どこか悲しげで。
「アメリカってさ。」
 そんな表情で、突然彼女が口にした言葉に、あたしは怪訝に眉を顰める。
 言葉を急かすように黙っていると、彼女はまた薄い笑みを浮かべ、
「……過激よね。」
 と、言葉を続けた。
「過激?…何が?」
 わけがわからず問い返すと、彼女は笑みを深め、どこか卑しい笑みであたしを見つめる。
「性行為ってヤツが。……大学時代に留学してたんだけどさ、最初はビックリしたのよ。」
「……」
 世間話でもするような口調で言う彼女の意図が図り切れずに、私は怪訝な表情のままで沈黙していた。
 それをいいことに、尚も彼女の言葉は続く。
「軽いSMも日常茶飯事って感じ?あたしが付き合った連中がヨゴレだっただけなのかもしれないけどね。」
「……日本よりは、バリエーションも広いでしょうけど。」
「バリエーション。」
 思わず返してしまった言葉、彼女は小さく復唱しては、クスクスと可笑しそうに笑みを零す。
 そんな様子に耐えかねて、「何が言いたいの?」と問い掛けた。
 すると彼女は薄い笑みのままで、
「日本でそんなことが経験できるなんて思っても見なかったの。そりゃ、そういう嗜好の人間が日本にもいることはわかってるんだけど、実際目の当たりにするとは思わなくてね。」
 と、やはり世間話のような調子で言う。
 何が言いたいのかさっぱりわからなかった。
 そんなあたしの怪訝な様子を見かねてか、「要するにね」と彼女は前置きし、今までよりも真っ直ぐな口調で告げた。
「可愛い女の子にね、縛られて放置プレイ。……そのまま死んじゃった。」
「……え?」
「こんな死に方、聞いた事ないでしょー?」
 自慢げな口調で言いつつ、再び彼女はあたしに背を向ける。
 一瞬見えた彼女の笑みが、どこか悲しげに見えたのはあたしの気のせいなのだろうか。
「……天誅。あんたの言う通りなのかもね。」
 ぽつりと言葉を残し、彼女は歩き出す。もう、あたしに用は無いといった様子で。
 あたしの中の憎しみはやはり消えることはなく、微かに抱く疑問も、押さえつけた。
「死んで当然、だったのよ。」
 そんな言葉が彼女に届いているのかどうか、わからないけれど。
 遠ざかる背中を、ずっと見つめていた。
「……あたしも、ね。」
 続く呟きを漏らしたのは、彼女の姿が随分と小さくなり、やがて消えた頃。
 一人きりの廊下で、ふっとその場に座り込む。
 憎しみ。悲しみ。そして後悔。
 ―――わかってる。病気なんかじゃない。殺人は、あたしがどうしてもやめられなかった嗜好。
 死んだ今になって気づく。……ううん、きっとその行為に耽っている頃から気づいていた。
 人を殺める快感。同時に抱く罪悪感。無意味な正義感。
 歪んだ人生には終止符が打たれる。
 それは狂った人間による、神の裁き。
 きっと、彼女もあたしも同じこと――。





 此処が幻想の空間だと知っているのは、何人居るのだろうか。
 此処が、現世に残した想いを振り返る場所であり、満たされなかったものを満たすための場所だと知っているのは、何人なのか。
 それは私―――幸坂綾女―――のように知識ある者でないと理解出来ない次元なのかもしれないし、もしかすると全ての死人が理解している事なのかもしれない。
 会いたい人に会えることも、会いたくない人に会わないことも。
 その全ては、自身の望みを具現化したに過ぎない。
 高見沢亜子に会いたいと思ったのは、彼女もまた、あの人と共に時間を過ごした共有者であるから。
 私が殺めた人々や、裏切った教会の神父などには会いたいとも思わない。
 そんな願望が形として存在する、それがこの城。
 此処で、唯一つの制約がある。
 それは、現世の人間との逢瀬を許されぬということ。
 私が誰よりも会いたいのは、神崎美雨という女性。けれど彼女は決して現れない。
 彼女は生を全うする人間。故に彼女と関わることは、出来ないであろう。
 ―――彼女が死す、その時まで。
 それが近い未来なのか、それとも遥か遠い未来なのか、私にはわからない。
 けれど私は此処で待ち続けるのだろう。彼女と会い、再び彼女と触れ合うその時まで。
 幻でも構わない。それが願望を具現化した、私の作り出す存在でも構わない。
 彼女に会いたい。私は、美雨さんに会いたい。
 夢を見る時まで、夢を見続ける。
 此処は、死人が作り出す幻の城。

 死人は黄泉の夢を見るか。
 死人は現世の夢を見るか。

 此処は、願いを持つ死人達が、夢を叶える最後の時間。








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