BATTLE ROYALE 13音は、室内だけに響くものなのか。それとも、室外にも漏れているのだろうか。 わからない。わからないけれど気には止めずに。無性に、弾きたくなったから。 この手が奏でるピアノの旋律。Satieのgymnopedie No.1。 あたし―――夕場律子―――がピアノを弾けるなんて知ったら、大抵の人は意外そうな顔をする。 平凡なOL、性格は大雑把でがさつ。実家だって別に名家でも何でもない。 母がクラシックを好んでいた。だからあたしはピアノ教室に通わされた。ただ、それだけのこと。 ここ最近はネイルアートすら縁遠い指先は、汚れていて、真っ白な鍵盤には似合わない。 それでも、この楽器は差別なく、美しい音色を奏でてくれる。 美しい音の世界。響き渡る。 …―――。 何もかもを失ったような気がしていた。 藍子。由子。 あたしにとって最後の仲間は、この手で守ることも、引き止めることもできないままに命を落とし、 ただ一人残ったあたしは、まるで抜け殻の様だった。 嘆きも、自己嫌悪も、後悔も。何もかもが、消えてしまった。 自室が禁止エリアになった時、あぁ、これは運命なんだ、と… そう思った。 あたしは一人で引き篭もる事をやめ、外へと向かう。 何があるかはわからない。けれど少なくとも、一人ではない。 敵なら沢山いるかもしれない。味方はいないかもしれない。 そうして、武器もなにもない、身体一つで。最初に訪れたのは―――音楽室。 こんな殺し合いの場所で、ピアノが弾けるだなんて、思ってもみなかった。 鍵盤に触れた指先の冷たさが、懐かしくて、少し泣いた。 …―――。 繰り返し、繰り返し。 ジムノペディは大好きな曲。静かで、密やかで、穏やかな夜の音。 ピアノのために存在する曲。なんて綺麗なんだろう。 大好きな曲を何度も何度も繰り返しているうちに、時間の感覚すら、麻痺していた。 ようやく音を止めたのは、指先に感じたかすかな痛みから。 久々に弾いた所為か、指が鈍っているようだ。 室内の時計を見上げれば、時刻は午前の二時を指していた。 行く宛てもない。することもない。お腹も空かない。 そう言えばここ最近ほとんど食べ物を口にしていないけれど、不思議と、それが当然の様に思えてしまう。 あたしの中身は空っぽだ。 そんな状態も後から思えば、酷く衰弱し、体力も落ち、勘も鈍っていたのだろう。指先とピアノの音だけに神経を研ぎ澄ましていた所為もあるのか。―――あたしは、気づいて当然のことすら気づけていなかった。 「…綺麗な音。」 呟くように漏れた声は、あたしのものではない。 心底、驚いた。この空間にあたし以外の人間がいるだなんて、思いもしなかった。 慌てて振り向けば、扉の側に見知らぬ女性の姿。小さく隙間の空いた扉を、パタン、と、後ろ手に閉じた。 そう、その扉が開く音、そして彼女がこの部屋に滑り込んだその気配を気づけなかった自分に驚いたのだ。 ガシャン、と、耳障りな音が響いた。驚きの余り思わず身を引いた、その衝撃で押されたいくつもの鍵盤。 同じ楽器から生まれる音でも、無作為に多くの音を一斉に放つことは、音楽とは言えない。雑音だった。 真っ直ぐに私を見据えていた女性は、その音に、不快そうに小さく眉を寄せた。 後ろで留めた長い髪、鋭い眼、美しい造形、だけど表情の無い顔。 初めて目にするその女性は、少しの時間黙ってあたしを見つめた後で、ゆっくりと口を開いた。 「――もっと聴かせてくれない?その音色。」 彼女の言葉に、あたしは返す言葉がない。何を意図しているのか。そこに殺意はあるのか。 そうして躊躇っていると、彼女はゆるりとあたしの方へ歩み寄ってきた。緊張が走り、咄嗟に椅子から立ち上がろうとした。――しかし、ガクン、と崩れ落ちるように、あたしは椅子にへたり込んだ。 予想外の体力不足。いや、エネルギー不足? こんな時にはとても不適切かもしれないけど、ある名作アニメの台詞が頭に浮かんだ。 『頭が汚れて力が出ない〜。』 もとい、お腹が空いて力が出ない〜。そう、まさにこんな感じだ。 あたしはピアノの椅子に座り込んだまま、近づいて来る彼女を目で追う。 彼女はあたしの傍で立ち止まると、あたしを見下ろして不思議そうに瞳を揺らした。その後で、ピアノの鍵盤へと目線を落とす。同時に、彼女の指先が鍵盤に沈んだ。低いシの音が響く。 「ピアノの音色は美しいわ。…けれど」 そう言葉を切って、再びあたしへと向けられた視線。――彼女の目には光が見えない。闇とも違う。そこに映っているのは、なにもない存在。――虚無。 「…けれど…?」 言葉を急かすように、あたしは小さく続けた。すると、ふわりと肩に触れた感覚。 彼女の右手があたしの肩にかかる。それは何かを促すようで。 「……けれど、弾く人の心が反映されるものでもあると、私は思うの。貴女の音色は美しい。」 「あ、ありがとう…。」 緊張の中で、誉められる嬉しさと恐怖、更に空腹や何やらとが綯い交ぜになり、あたしは引きつった言葉を短く返すのみだった。そんなあたしに、また暫し視線を向け、虚無を映した。 視線を返しながら、思った。こんな女性こそ、ピアノがよく似合う。清楚な白のブラウスに、後ろでまとめた髪に、細くて綺麗な指先。二十代そこそこ、なのだろうか。どこを見ても、彼女には隙がない。 なのに何故こんなところにいるんだろう。そんな疑問が浮かぶ。 「La Campanella ……弾ける?」 ぽつりと彼女が言った言葉、考え事の途中だったあたしは半分上の空で。慌てて聴き返した。「Lizst?」 あたしの言葉に肯定するように、こくんと小さく頷いた彼女は、ピアノの横に立ったままで、私の手元を注視する。 「弾ける。」 そう答えて、静かに鍵盤に指を置いた時になって、ふと思い直した。 リストの「ラ・カンパネラ」? ……弾けないことはない、けれど、はっきり言って不得意だ。 突き抜けるような高音と、深く響く低音。細やかにリズムを刻むメロディー、芸術的なその曲は… 難易度が、高い。生半可な素人が弾けるような曲ではないのだ。 それを伝えようと彼女を見上げた。しかし彼女と目が合った瞬間、言葉に詰まる。 あたしの気のせいなのかもしれない。だけど彼女が、あたしの演奏をとても楽しみにしてくれているような、そんな感じがして。 言いかけた言葉は捨てて、あたしは鍵盤を見据えた。こうなったら覚悟を決めよう。 あたしは、一呼吸置いた後で、静かに鍵盤へと指を沈めた。 ――…演奏は、滞りなく進んで行く。 鍵盤を一つ一つ弾くことが緊張の連続となって、幼い頃の発表会よりも、遥かにガチガチだった。 ほんの少しだけ、指が絡まって音を抜かしてしまったけれど、まぁ良い方だろう。 そうして、自分自身は満足な演奏が出来、鍵盤から指を外した。 「どう、だった?」 彼女を見上げ、問い掛ける。彼女は鍵盤に落としていた視線をあたしへと向けると、その目をすい、と細めた。その反応がよくわからずに、あたしは小首を傾げる。弾く側と、聴く側。そのつもりで、彼女と接していた。 「……ごめんなさい。やっぱり、ダメみたい。」 ゆるりと首を左右に振って、彼女は言った。その意味がわからずに、あたしは彼女を見上げるだけだった。 その時、不意に彼女が懐から取り出した物。 彼女はどこまでも無表情で、僅かに視線を落としていて。 そして、その手に握られているのは――…アイスピック。 ヒュッ、と、凶器を握った手を、振りかざした。 「…ッ!?」 突然のことにわけがわからないまま、あたしは咄嗟に彼女から離れようとした。椅子から落ちるように、絨毯の床へと転がった。ドサッ、と身体が床に落ちた時、運悪く右半身から着地したのがいけなかった。 怪我をしていた右手、右肩が痛む。 「………全てが美しいのは、やはり、あの方だけ…。」 ――何、言ってるの? 彼女はアイスピックを握り締めたまま、あたしの方へと回りこんでくる。 スピードなど無い。ゆるりとした動作で、こっちへ。 けれどそこにあるのは、紛れもない 殺意。 「あ、あたしの演奏がいけなかったの?」 慌ててその場から立ち上がり、後退る。彼女が一歩近づくたびに、一歩後ろへ後退。 「gymnopedieの演奏は素晴らしかった。澱みの無い透き通った音を耳にして、貴女なら…と、思えたのよ。」 じりじりと、彼女とあたしの距離は縮まって行く。 「……たかが演奏で…そんな安易に決めるようなことなの?」 ドンッ。突如背に触れた感覚に、驚いて後ろを見遣る。…壁際だ。 「演奏じゃないわ。…美しいか否か、よ。」 彼女の言っていることは、やはり理解出来ない。何を考えているのか、全く読めない。 「あたしは美しくないのね?」 そう問い掛けると、彼女は初めて、フッと小さく笑みを漏らした。 「――…その手首。」 「え?」 彼女に言われて、自分の手首に目を遣った。 あぁ、左手の手首。――自傷の傷が幾重にも。 「リストカットなんて、醜いとは思わない?」 ククッ、と首を傾げては、笑みをたたえたままに問い掛ける。 そんな彼女を、あたしは軽く睨んだ。 「あんたにはわかんないでしょ。あたしがどんな風に苦しんだかとか、あたしがどれほど思い詰めたか。他人の傷を蔑むなんて、趣味が悪すぎない?」 距離は後3メートル程。そこで彼女は立ち止まると、何が可笑しいのか、クスクスと笑みを漏らした。 「蔑んでいるわけじゃないし、その傷の陰に何があるかだなんて知らないわ。…私はただ客観的に言っているだけよ。その傷は醜い、その行為は醜い、とね。」 「うるさい!!!」 その瞬間は、あたしの方が追い詰められているんだとか、そんなことも忘れて、思い切り怒鳴りつけていた。彼女のあたしに対する蔑みの言葉。――悔しくて、堪え切れなかった。 「そんな風に、他人を小馬鹿にしたような態度の方がよっぽど醜いよ…!!」 そう続けて、苛立たしい笑みを浮かべる女を睨みつけた――、しかし。 女は先程とは違って、笑みを消し、その表情は無く――ただ、不思議そうに瞳を揺らして。 「私が…醜い?」 ぽつりと、聞き返す言葉。その言葉に、微かに不安感が混じっているような気がした。 「………醜いわよ。その口が吐く言葉も、その澱んだ目も。……こんな不細工な女、見たこと無い。」 半分は思っても居ない言葉ではあったが、復讐のつもりでそう告げた。 そんな悪口でどうなるものでもないだろうに、と、そう思いながら口にした。 けれど。 「……」 女は、きゅっと眉間を寄せ、不安げな様子を見せた。あからさまに、動揺していた。 片方の手で自らの顔に触れ、確かめるように指先でなぞる。 「……私が?…私が… そんなはずないわ、だって、私は……」 何か言おうとして、口を閉ざす。あたしから視線を逸らしては、困ったように泳がせて。 この女、一体…? 「嘘をつかないで!!!」 刹那、激するように女は怒鳴り、そして前触れも無くあたしに襲い掛かる。 ザンッ。 咄嗟に横にずれた、あたしの真横――壁に刺さったアイスピック。キラリ、光った。 息を呑む。あと一瞬避けるのが遅れていたら……… 「…ッ!」 女はすぐに壁からアイスピックを抜いて、再びあたしに向け振り下ろす。 「やめて…!!」 無我夢中で闇雲に揮った手が、彼女の手に当たった。その拍子にアイスピックを握った手が振り払われる。 ――カンッ。 遠くで聞こえたその音と、止んだ強襲と。一瞬何事なのかわからず、目を見開いたまま状況把握に努める。 そして視界に入った物。ピアノに突き刺さったアイスピック。彼女の手には、何も握られていない。 「!」 チャンスだと理解してから行動に移すまで、さして時間は掛からなかった。 あたしは女に飛び掛かる。もがく彼女の腕を強く握り、その場に押し倒した。 見た目通り、華奢な身体。そんな身体に力があるはずもない。 「う、あ…!」 仰向けに倒れた彼女に馬乗りになって、その首を両手で締めつける。苦しげな声が小さく漏れた。 琥珀の様な色の長い髪が、床に散る。 ――苦しみに歪む表情、綺麗だと、思った。 「……かはっ…」 涙目になってもがき苦しむ彼女――その時ようやく、その要因が彼女の首を締め付けるあたしの手だと気づいて。慌てて力を緩めると、代わりに彼女の自由を奪うように、その両手を掴む。 げほげほと何度も咳き込みながら、その瞳に涙を溜めてあたしを睨む。 あたしは無言で彼女を見下ろした後、ぽつりと、問いを掛けた。 「さっきから、美しいだの醜いだの。…どうしてそんなことを気にするの?」 「……それは」 睨み付けていたその目を、ゆるく、開いて。 真っ直ぐにあたしを見つめているようにも見える瞳。だけど映るのは虚無。 まだ苦しいのか、深く呼吸をしながら、途切れ途切れに言葉を漏らす。 「…私はね…、美しい、空間じゃないと…耐えられないの。」 「……はい?」 怪訝に聞き返す。一体何を言い出すのか。 「――病気なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。…過剰、意識。……汚れているものを見ると、我慢できなく、なる。」 「……」 彼女の話の次元があまりに飛躍しすぎているというか。 理解範疇を超えているとでもいうか。 あたしは返す言葉も持たず、ただ、彼女のその瞳を見つめていた。 「許せないのよ。」 ぽつり、零すように告げて、そうして彼女は目を閉じた。 それはまるで、あたしの視線を避けるかのように。 あたしは。 あたしはこの女を殺すべきなの? 殺さないとしたら、一体どうすればいい? 少しの時間思案して、あたしはふと、彼女に言葉を掛けた。 「名前。…聞かせてもらえる? …あたしは、夕場律子って言うんだけど。」 言うと、彼女はゆっくりと目を開けて、あたしを見つめた。「私は――」と、唇を動かした後で、彼女は少し笑みを浮かべた。…なぜ、そうやって笑みを向けたのかはわからないけど、先程見せた嘲るような笑みではなかった。――綺麗な笑み。 「穂村美咲。」 …と。彼女が名乗ったその名を、口の中で繰り返す。みさき。美咲。 こうして、あたしは彼女の自由を奪ったまま。彼女はあたしに自由を奪われたまま。 唯、彼女と時間を過ごす。 どうしようもなかったから。だから何か思いつくまで。こうしていてもいいんじゃないかと、思って。 刻々と過ぎ行く時間の中―――あたしは今、一人ぼっちじゃないんだ。 禁止エリアになったあたし―――矢沢深雪―――の部屋を出てから、飲食室を経由して。 無事、三階にある螢子の部屋にたどり着いた。それはもう、何事もなく。 部屋の窓に両手をくっつけ、外の景色を眺める。 深夜三時ともなれば人の姿なんてないけれど、それでも眺めていた。 何を見ているのかと問われれば、空気、とでも言うだろうか。こことは違う平穏な空気を。 「…何、見てるんですか?」 不意に、背中にぴとりと生温かいものが触れて、あたしは首だけ軽く振り向いた。 シャワーから上がった螢子が、屈託のない笑顔を向け、あたしを見上げる。 火照った螢子のぬくもりが、妙に心地良い。 「空気。」 スッパリと答えると、螢子はきょとんとして小首を傾げた。そんな螢子の頭を抱き寄せて、「なんでもない」と呟いた。くすぐったそうにしながら、あたしに身を任せる螢子。 ……カワイイ。 顔立ちとかそういう次元じゃなく、その存在自体が、可愛くて仕方ない。 けれど、これは恋じゃない。 言ってみればペットみたいなもの。そういう意味での溺愛だ。―――と、言い訳を繰り返す。 螢子を抱くようになって、徐々に歯止めが利かなくなっているようで怖い。この子が傍に居れば居るほど、恐怖や罪悪感が募る。 「…もう、寝ようか。」 がしがしっと頭を撫でた後、螢子から身を離して言った。そうして、窓際から離れようとした―― きゅ。 しかし、螢子がそれを許さなかった。あたしの上着の裾を掴んで放さない。じぃ、と穴が空くほどにこちらを見ているよう、だった。 その行為に少々驚いて、「何?」と問い掛ける。すると螢子は少しの沈黙を置いた後、 「深雪さん、最近私と目を合わせてくれませんよね。」 と、トーンの低い声で言った。どことなーく恨みがましそうな口調で。 あたしは螢子に目線を向けて、笑みを繕った。 「そんなことないって。気のせいじゃない?」 と。そんなことを言いながらも、実のところは、冷や汗もんだった。 螢子の言う通り。ここ最近、螢子の目を真っ直ぐに見ることが出来ずに居る。 「………いえ。」 螢子はあたしから目線を逸らし、納得したともしていないとも取れぬ返事を返した。 掴んでいた服の裾も手離し、俯きがちに沈黙する。 そんな螢子。本当にペットみたいだと、内心苦笑する。 やたら鋭くて、感情がわかりやすくて。そんなところが可愛くて、そして、痛い。 だけどね、あたしの困惑も理解してよ。あたしの気持ちもわかってよ。あたしだって苦しいの。 心中を言葉にすることはせず。あたしは螢子に背を向けた。わかって、と思っているわりに、それを悟られまいとしているかの、ように。そんな自分が馬鹿馬鹿しくて、自嘲的な笑みが浮かぶ。 締め付けられるような感情を抑えるべく、きゅっと唇を噛んだ時、だった。 ぎゅっと。後ろから螢子に抱きしめられ、あたしは動きを止めた。 「……深雪、さんッ…」 上擦った声は、切なげで、悲しげで。 背中に寄せられているのは螢子の額だろうか。何度も何度も擦りつけるようにして。 あたしの胸元に回された手が、微かに震えていた。 「螢、子……?」 小さく名を呼べば、あたしの声も螢子のそれと同じく上擦っていた。 もしかして螢子もあたしと同じように、胸が締め付けられるように苦しいのだろうかと、そんなことを考える。 螢子の手に、そっと自らの手を重ねた。その震えが、少しでも止まればいいと思った。 「やっぱり、私じゃ、だめですか…?……私は、深雪さんの一番には…」 涙声で、螢子が告げたその言葉に、はっとした。 最後まで言わずに言葉を切って、代わりにぎゅっと抱きついて来る。 「あたしは…」 と、何か言葉を紡ごうとして、詰まる。 あたしはもしかして、今まで螢子に、とても酷なことをしてきたんじゃないかって。 一言一言で、一つ一つの動作で、傷つけてきたんじゃ、って。 本命でもないのに、ずっと傍にいて、抱かれて。――もしあたしが逆の立場だったら、耐えられるだろうか。 もしかして、螢子の様子がおかしかったのもこれの所為? ずっと、苦しい感情を押し込めてたの…? 「……」 そっと振り向いて、螢子と向き合う。 俯きがちな螢子の頬に伝う涙。それを隠すように、螢子はあたしから顔を逸らした。 ―――迷い。 「あたし…ね、好きな人が……恋人がいるって話したじゃない?」 小さく、そう切り出した。 螢子はあたしを見上げ、悲しげな表情を見せながらもコクンと小さく頷いてみせる。 「……好きな人っていうのは、テロ活動を始めるきっかけになった子なの。今もアメリカの本部にいる。」 言葉を紡ぎながら、遠い恋人を思う。もう随分と会っていない、恋人。 「あたしは彼女を裏切ってしまったら、彼女から離れてしまったら…」 瞳を揺らしてあたしを見上げる螢子。その目を見つめていると、一瞬言葉が途切れた。 一呼吸置いて、言葉を続ける。 「……離れちゃったら、あたしには何の意味もなくなるの。」 「…え?」 小さく眉を寄せ怪訝そうに聞き返す螢子に、あたしは苦笑した。 「あの子のためにテロを始めた。あの子のために罪を犯した。……全てはあの子のため。あたしの人生は、あの子のためだけに存在してるのよ。…なのに」 「何言ってるんですか?」 あたしの言葉を遮って告げられた螢子の言葉は、妙に、冷めていた。 螢子は不思議そうな表情を浮かべてあたしを見上げたまま、言葉を続ける。 「そんなの、ただの言い訳です。じゃあ何?もしアメリカのその恋人さんが死んだら、後を追うんですか?それとも、あの子の分も生きよう、とか、そういうこと言うんですか?全部こじつけじゃないですか。」 「……こじつけ、って…」 淡々と反論を並べ立てる螢子に呑まれ、言い返すことも侭ならなかった。その隙に、螢子は更に続ける。 「深雪さんの言い方だと、悪いのはその恋人さんってことになりますよ。唆したから、だからテロをすることになっちゃったんだって。自分の意志なんか全然関係ないみたい。深雪さんは、恋人だったら何でも言うこと聞くんですか?まるで、彼女の命令には逆らえないみたいに。」 「ち、違う… そうじゃなくて、…なんていうか…」 「なんて言うんでしょうね。きっちり説明できないでしょう?深雪さんはずっとその女性に縋って生きてきたんじゃないですか?その女性に依存してたんじゃないですか?自分の意思も何もかも、彼女の物なんだって、そうやってすり替えてる。」 「………」 あまりの迫力に、本当に言い返す言葉もなかった。 いや、迫力というよりも、螢子が述べるその内容に、反論が出来ずに… 「深雪さん。」 「は、はい。」 ガシッと、両腕を掴まれる。 そして螢子は、真っ直ぐにあたしを見つめ、言った。 「そんな人生、捨てちゃえばいいんですよ。」 「捨てる…?」 「過去に縛られるのは、もうやめにしましょう。」 「……でも、あの子のことを捨てたら、そしたら、あたしは」 何もなくなる―― そう、言いかけて、気づいた。 違う。 違うんだ。 今の、あたしには… 「私だけ。」 きっぱりと言って、螢子は小さく笑んで見せた。 『螢子だけ。』…思っていたことを見透かされたみたい。つられるように、あたしも小さく笑う。 螢子には、驚かされてばっかり。あどけないかと思えば、時々わけわかんないくらい頭の回転が速くて。 可愛いだけじゃない。だからこそ、こんなあたしを…洗脳してくれたわけだ? 「………螢子。」 囁くように名を呼んで、そっと小さな身体を抱き寄せた。 「深雪さん…。」 ふわり、と、まるで天使の様な笑みを向けては、すっと、目を瞑る螢子。 その黒髪を指先で梳いて、撫ぜ、愛しむ。 キスを待つ表情が可愛くてじっと眺めていたら、「まだですか?」なんて急かされて。 二人で少し笑った後で、あたしは顔を寄せた。 ああ、きっとこの子が最後の人。 あたしの全ては、この子のもの。 そんな約束を交わすように、そっと、くちづけを落とす。 夢を見た。 いい夢とも、悪い夢とも言えない。よくわからない、変な夢だった。 私―――田所霜―――に、語りかけてくる声。それは間違いなく水夏の声。 場所はよく覚えていない。どんなシチュエーションだったんだろう。 とにかく、水夏の声だけが鮮明に記憶に残っていた。 昨日の夕方に水夏が口にした言葉。その後水夏は、「なんでもない」とはぐらかしたんだったか。 『…霜が好きな人、私、知ってる。』 けれど、夢の中の水夏は、更に言葉を続けた。 『私だろ?』 相変わらず自信満々な口調で言って、小さく笑った。 暫く沈黙した後で、水夏はぽつりと零すように、漏らす。 『――私も、お前のこと、好きなのかもしれない。』 その水夏の口調が、本気じみていたか、それとも冗談ぽかったのか、よく覚えていない。 私は何故かとても複雑で、何も、言い返すことが出来なかったんだ。 おかしな夢だった。 「先輩ッ!霜先輩!起きてくださぁい!!」 人が気持ちよく眠っているというのに、それを妨害するような大声が聞こえてきた。 一度は、その声をかわそうと毛布を被り直したものの、ふと気づく。 今、私の名前、呼んでたか……? 「先輩!大変なんです…!!」 ゆっくりと目を開けると、ゆきの顔が見えた。低血圧ということもあり、私は小さく眉を顰めて、「何だ?」と問い返す。その後で、ゆきの表情が曇っている――いや、今にも泣き出しそうな顔をしていることに気づいた。 「水夏先輩がいないんです!!!」 ゆきがそう口にしてから、その言葉を理解するまで、数秒掛かった。 水夏…? 水夏が… ――いない? 「―――…な、に!?」 その意味を理解した瞬間、一気に目が覚めた。私はガバッと身を起こすと、室内を見渡す。 確かに…、水夏の姿はない。 「さっきあたしが目を覚まして、それでベッドに水夏先輩いなくて…、シャワー室もトイレにもいなくて、それで、それであたし…!」 ゆきも錯乱している様で、何度も言葉を引っかけながら言う。 つまり、ゆきが目を覚ましたのもついさっきってことか? 「ちゃんと探したのか?クローゼットとか、窓の外とか色々あるだろ!?」 私は怒鳴るように言いながら、シャワー室やトイレの扉を開く。 「く、クローゼットは人が入れるスペースとかないです!窓は開きません…!」 泣きそうな声で言い返すゆき。…言われてみればその通りだ。 どうやら私も人のことが言えない程に錯乱しているらしい。 大して広くもない部屋だ。探す場所などすぐに尽きた。やはり、水夏の姿は無くて。 「……せ、先輩!これ!!!」 その時、部屋の出入り口付近に居たゆきが、不意に慌てたような声を上げた。 ゆきは私のそばへ駆け寄ると、一枚の紙切れを差し出す。 「ドアのところに、挟まってました…。」 扉を指差しながら言う。私はちらりと扉に目を遣った後で、その紙切れを受け取る。 パッと見た瞬間に、それが水夏の字だとわかった。 そしてその文字を目で追い、――息を、呑んだ。 「……ちょっと出掛けて来る。……二人は、絶対にこの部屋から一歩も出るんじゃない。……私のことは心配要らない。……もしも、……」 ゆきが、横から私の手元の紙を覗き込みながら読み上げる。 その言葉が、途中で切れた。 見遣ると、ゆきはその手を口許に当て、何かに怯えるような様子で私を見上げた。 少しゆきを見つめ返した後で、再び紙に目を落とし、私が続きを読み上げる。 「…もしも私が戻ってこなかったら、その時は、絶対に二人で生き延びろ。……水夏。」 「そんな…!!」 堪え切れないように、ゆきが声を上げた。 私だって同じような気持ちだ。――そんなバカな。 「どうして!どうして水夏先輩、あたし達を置いてどこかに行っちゃうんですか!?あたしたち、三人一緒じゃなきゃダメですよ!!ねぇ、そうですよね!?」 責め立てるような口調は、私に向けたものではないのだろう。だが、他に向ける相手がいない。 だからゆきは、すがるように私の腕を掴み、そう投げ掛ける。 確かに、ゆきのその言葉をそのままにあいつにぶつけてやりたい。だけど、その答えは、私も知っていた。 「………水夏はな、そういうやつなんだ。」 「え…?」 ゆきとは逆に、あくまで冷静な口調で告げる。 大きな目いっぱいに涙を溜めたゆきを、なだめるように緩く抱いて。 「あいつは、仲間のためなら自分の命すら投げ出すようなやつなんだ。……いや、投げ出しは、しないか。」 「どういう、意味ですか…?」 「私は天才だからな、って、いつも言ってるだろ?水夏の口癖。」 その言葉に、こくんと頷くゆき。私はゆきの頭を撫でながら、言葉を続ける。 「水夏は自分が天才だと思ってる。…実際に天才なのかもしれない。――だけどあいつは、本当の天才じゃない。」 「……本当の、って…」 「神崎美雨。」 そう、名前を口にした時、何とも言えぬ嫌な悪寒が背筋を駆け抜けた。 あの女のことを天才と言うのならば、水夏は凡才でしかないのではないか。 水夏とあの女の力を比べること自体、間違っていやしないか。 「水夏はあの女にも敵うと、思っているかもしれない。」 「それじゃあ水夏先輩は、…死ん」 「死なないよ。」 ゆきの唇に指を押し当て、私は小さく笑む。 水夏の短所もわかっているし、それ以上に、私は水夏の長所もわかっている。 「水夏は頭がいい。きっと無茶はしない。――そのうち、ひょっこり帰って来る。」 言い聞かせるように、ゆきの頭を撫でながら告げた。 その言葉に、ゆきは少し笑んで見せた。強がるような、小さな笑み。 一つ頷き返し、私は繰り返す。 「そのうち、帰って来る。」 それは自分に、言い聞かせるように。 ベッドにうつ伏せたまま、動けずにいた。 酷い頭痛。 ―――…確か、 昨日の昼過ぎに食事に出て、それからここ、私―――叶涼華―――の自室に戻って来て。 それから、…それから、何をしていたん、だろう。 夜に、就寝して。 それから、おそらく今が朝で。 もっと色んなことがあった、はずじゃ……? ああ、何も、考えられない。 バチッ。 時々、電流が走るように首筋が痛む。 何だろう。私は何故、こんなにも酷い頭痛に悩まされているんだろう。 少し、息苦しい。荒い吐息が漏れる。 「涼華……?」 遠慮がちな声が聞こえた。 その声は遠くから私を呼んでいるようだった。 ああ、この声は、確か…――“鴻上さん”…? ふわりと、額に冷たいものが触れる。その直後に、また声が聞こえた。 「すごい熱じゃない…。まさか、この前の傷が…」 心配そうな声は、私を気遣ってくれるもの。 それから少しの間を置いて、私の身体は仰向けに転がされた。 汗をかいているようだ。触れた空気が、やけにひんやりとしている。 まぶた越しに差す光が眩しくて、小さく眉を顰めた後、私はゆっくりと目を開けた。 視界に入るのは、私を見つめる女性の姿。 ああ、私の部下の、鴻上さん、だ。 「……、……おは…よう。」 何か言おうとして唇を開けたものの、すぐに言葉が見つからず。今この状態で言うべき言葉ではなかったかもしれないけれど、私はそう、挨拶を告げた。 鴻上さんは不思議そうに私を見つめた後、ふっと弱く笑みを浮かべた。 「オハヨ。………熱、辛い?」 優しい口調で問い掛けられた言葉。私は少し考えて、小さく頷き返した。 彼女は「そう」と相槌を打ち、私の額を撫でてくれた。 鴻上さんの手は冷たくて心地良く、私は身を委ねるように目を閉じた。 バチッ。 「ッ…!」 刹那、また駆け抜けるように首筋を襲った痛みに、私は眉を顰める。 何だろう。こんな不自然な痛み、初めて感じる。 「涼華?どうしたの?」 突然私が眉を顰めたことに対してか、少し焦ったような声が掛かる。 ふっと目を開けた。 視界に入るのは、私を見つめる女性の姿。 ああ、私の…… 私の恋人の、“光子”だ。 発熱。頭痛。身体のコンディションは最悪だけど、それでも 欲しい。 私はそっと手を伸ばし、彼女の頬に触れた。 熱を持った私の身体は、平熱の彼女が酷く冷たいもののように感じる。 「……なぁに…?」 微かに不安の色を灯して、光子は私に問い掛けた。 「キス、して。」 そう告げながら、手を光子の頭に回し、強引に引き寄せた。 光子は表情を曇らせながらも、「うん」と小さく頷いて、私へと顔を寄せる。 そうして、触れた唇。――時間にして見れば、ほんの数秒。 一度唇を離して、目と目を見つめ合う。光子の目が、一瞬、何かに怯えるように見開かれた。 私はそんなことに構わず、更にキスを重ねようとした。 しかし、 「や、めて……!!」 光子は震える声で言い、後退るように私から身を離す。 それを追おうと手を伸ばしても、光子は素早く、私の手は空を凪いだだけ。 「どうして?…どうして、嫌がるの?」 小さく問い掛ける。本当なら叱咤するところだけれど、今はそこまでの余力がなかった。 光子は部屋の壁に背を付け、怯えたように私を見つめる。 「あなた、涼華じゃないでしょう?!…涼華は、涼華はそんな目をしない。もっと、もっと綺麗で、透明で、真っ直ぐな…」 言葉の途中で、ドサッと音を立てて、その場に座り込んだ。 両手で目元を覆い、肩を振るわせる光子。小さく漏れる、嗚咽。 ナニイッテルノ。ワタシハ涼華。ワタシハ――…… 言い返す言葉も、発する気力が無く、泣き崩れた光子を見つめていた。 バチッ。 「…ッ、ぁ…!」 痛みが、増しているような気がした。 遠くで誰かがすすり泣く声が聞こえる。 けれど、私は、どさりと身体をベッドに沈め、荒い息をつくだけ。 苦しい。熱い。痛い。 あぁ、わけがわからない。ここはどこなの。私は一体どうしたって言うの。 ――鴻上さん? ……どこに、行ったの? 「………どうするつもり?」 沈黙に耐え兼ね、私―――穂村美咲―――は、問いかけた。 彼女――夕場律子は、ピアノに指を落とし、時折単音を奏でるだけ。 『殺さない。殺さないから…』 『絶対に?』 『…ええ。だから、退いてくれない…?』 『絶対に絶対よ?』 そんな口約束の元で、私は約二時間ほどの拘束から解放された。拘束。縄で縛られるような拘束ならば、まだ我慢できただろうが、彼女がずっと私の上に馬乗りになったままで自由を奪われ続けるというのは、お互いに辛かった。身体中が痺れて来るし、軋むような痛みも増すばかりだった。 ようやく自由を与えられたのが、午前の四時頃。そして今は、午前の八時。 四時間も、一体何をしているのか。――否、何もしていない。 私も、そして彼女も、今、一体何をどうすればいいのか解らないのではないだろうか。 そう思って、私は彼女に問い掛けた。 因みに私は、音楽室の片隅に置かれた椅子に座っていて。アイスピックはピアノに刺さったまま。 凶器に近いのは彼女。だけど、彼女には殺意などないのだと思った。 「…そういう美咲は。」 「…まずは律子から聞かせて。」 この問答、実は既に五度目だった。 一度目は彼女から始まった。『穂村さんは…』 二度目は私から。『夕場さんは…』 三度目は彼女から。『美咲さんは…』 四度目も彼女から。『美咲は…』 そうして五度目。 既にお互いを呼び捨てで呼ぶのは、当然のようになっていた。 「そう言えば、美咲。」 「…何?」 六度目の問答…ではなさそうだ。今までとは雰囲気の違う彼女の言葉に、少し期待する。 「美咲って幾つなの?」 「え…?」 しかし、その期待は意外な方向に裏切られた。 私のプロフィールを探ってくるなんて。 彼女は鍵盤に落としていた目線を私に向けると、「いや、ね?」と言葉を続ける。 「美咲って、あたしに対して最初っからタメ口だったでしょ?」 その言葉に頷いて見せると、律子は少し首を捻って思案した後、 「…あたしのこと、年下だと思ってる?」 と、問い掛けた。 ……――何を言い出すのかしら。 「だって、私は二十三よ?…年下でしょう?」 さも当然とばかりに言った後で、ふと、彼女の様子がおかしいことに気づく。 顔を伏せて、震えているような……? 「……あたし今、美咲にちょっぴり殺意抱いた。」 「え…?」 ぽつりと零された言葉を聞き返した、次の瞬間、 大きく息を吸い込んだ彼女は、その分の空気を思い切り吐き出した。 「年下じゃ、なぁぁーーーーいっっ!!!!!!」 ……それは、室内に…下手すると室外にまで及んでいそうなほどの、大声で。 その声量に驚くよりも、彼女に言われたその言葉に驚いた。 「…年下じゃ、ない…?………本気で言ってるの?」 「本気よ!めちゃめちゃ本気!正真正銘の、に・じゅ・う・は・ち!!」 「…………」 言葉を失う、とは、この様な状態のことを言うんだな…と。他人事のように思った。 それは一種の現実逃避だったのかもしれない。 二十八? その数字はつまり、二十八年間という年月を生きているということで、二十八年は時間に直すと二十四万五千二百八十時間……ああ、だけれど閏年を換算していないから正確には…――じゃなくて。 「…う、嘘でしょう!?…ありえない。」 「嘘じゃないってば、本当に二十八よ!免許証…は、もってないけど、ともかく、正真正銘の二十八なの!」 「ありえない。」 「ありえるんだってば!!」 「ありえない。」 「いや、だって本当に二十八なんだよ!?この貫禄!この人生経験豊富な語り口!」 「その小さな身長、その幼い顔立ち、その八重歯、その大きな目に、その貧乳。」 「うっわ、言いすぎ!貧乳は余計だっつーの!!!」 「だってそうでしょう?二十八ならそれ相応の胸の大きさをしてないと…!」 と、強く言い放ってから、ふっと、我に返った。 気づけばその場から立ち上がって、彼女と言い争う形になっていて。 ………な。 何を言っているの?私、一体何を言い争っているの? 「って言うわりに、美咲もそこまで胸が大きくないような…」 「ちゃんとCカップあ…!」 彼女が呟いた言葉にカチンと来て、条件反射の如く言い返そうとした。 慌てて口を噤んでも、ほとんど言ったと同じだった。 きょとん、と私を見つめる律子。 その視線が気になって、思わず両手で胸元を覆った。 「プッ…!」 不意に律子は口許を押さえ、笑みを堪えるようにピアノに寄りかかる。そうして、しばらくはクスクスと含み笑いを続けていたものの、次第に耐え切れなくなったのか、ケタケタと声を上げて笑い出した。 「美咲ってば、最高かもしれない。…可愛いなぁ。」 「……。」 私は言い返すことも出来ずに、ペタン、と椅子に座り込む。 顔に血液が集まり、火照る。 赤くなった頬を隠すように、胸元を覆っていた手を、顔に移す。 どうして私、こんなに動揺しているの……。 「美咲。」 そう掛けられた声は、先程のように笑みは含まれておらず、顔を上げればアイスピックを逆手に持って私の前に立つ律子の姿があった。凶器がその手の中にあるというのに、不思議と恐怖は感じない。 「何?」 尖った先を下に向けて持たれたアイスピックと、彼女の顔を交互に見る。 律子は小さく笑みを向け、言った。 「――……あたしに、協力してくれませんか。」 真っ直ぐに、そう告げた。 私に、向けて…? 「…あたしの。…仲間になってくれませんか。」 律子の真っ直ぐな言葉を、私は受け止めなければいけない。 YESかNOか。 彼女の手にしたアイスピックは、元々は私の物。今は彼女の手の中。 もし私がYESと言えば、あのアイスピックは二人の武器になるのだろう。 もし、NOと言えば? きっと彼女は、その武器を私に返すだろう。…そんな気がした。 それが美しい心だと気づいていた。だから私は、何時間もの間、彼女と時を過ごすことが出来た。 「……袖を。」 ぽつりと返し、彼女を見上げる。 視線はそのままに、私は椅子から立ち上がった。 「その袖を捲くらないでね。――醜い傷を見せないと、約束してくれるのなら。」 そう言うと、律子は少しだけ自らの左手に視線を落とした。長袖の袖口に隠れた傷。 「……うん。」 頷いて、袖を伸ばして見せた。伸縮する服は、引っ張れば左手の指先まで隠してしまう。 その仕草に、私は少し笑う。 “仲間” 言葉で交わす約束に、そんなに力があると…思う? 私は刺客。私はあの方の命令に従って此処に来たのよ。 ――――私はきっと、律子を裏切るだろう。 そんな想いとは裏腹に、アイスピックを握る彼女の手に、自らの手を重ねる。 律子は弱く笑んで、ぽつりと呟いた。 「どこにも行かないで。」 今まで聞いた中で、一番小さな声で。 囁くように、律子は言葉を零す。 「もう、一人にしないで。」 そして律子は、崩れ落ちるように 私に身体を寄せた。 「お願いだから、もう、あたしのそばから離れないで。お願い、あたしを満たして…!」 セツジツ ナ ネガイ。 彼女の中に蓄積されていたもの。孤独。恐怖。哀しみ。空虚。 彼女は私に希望を見出した。 その感情が、醜いのか美しいのか、わからない。 ただわかっていることは一つだけ。 ――――私はきっと、律子を裏切るだろう。 Next → ← Back ↑Back to Top |