BATTLE ROYALE 12




「…姉妹なのに、恋人?」
「そうよ。血の繋がりなんて関係ないの。ましてや、姉妹として育てられなかったのならば尚更ね。」
 琴音さんは、穏やかな微笑を浮かべて言う。
 相槌を打ちながらも、私―――渋谷紗悠里―――には、今一つピンと来ない話だった。
 時刻は、夜の十九時を回ったところ。神崎美雨の宣戦布告から約六時間が経過した。まだ、あの女が姿を見せることはない。私達三人は二人ずつ交代で見張りをし、一人が壁際で休む、という形で落ち着いた。
 琴音さんは(あまり似合わない)銃を肩に掛け、私は無意味ながらも彼女の隣にぼんやりと立っている。緊張感を忘れるわけではないが、こうも何事もなく時間が経過してしまえば、それとなく世間話も始まってしまうというもの。
 彼女達との遭遇が熱烈なラブシーンだったのは、私には少し衝撃的だったというか…生であんなシーンを見たのは初めてだったから。そこまで興味があったわけではないけれど、全く無関心というわけでもない。星歌さんに尋ねるのも何だか気が引けたので、星歌さんと琴音さんが交代した今、彼女に訊いてみたというわけ。訊いた後で、そこからノロケに発展してしまわないかと危惧したものの、琴音さんは特別そういう話し方をするでもなく、ありのまま、といった様子で教えてくれた。
「――ということは、私、お邪魔ですよね。想いが通じたばかりの二人の間に割り込むなんて。」
「気にしなくていいのよ。貴女の命だって、とっても尊いもの。」
 琴音さんは、どこまでも優しい人。その微笑が絶えることはなく、言葉にも刺がない。
 そんな聖母のような人間がいるはずはないとわかっていても、彼女にはつい騙されてしまいそうになる。
 心の奥底の醜い感情を持っていないはずがない。だけれど、彼女はそれを微塵も感じさせないのだ。
「…紗悠里ちゃんは、恋人はいないのかしら。」
「いるように見えます?」
 ――思わず即答してしまった。あまりに馬鹿げた問いだと思った。
 しかし、琴音さんは不思議そうな表情を浮かべ、
「ええ?見えるわ。…だって、紗悠里ちゃん、可愛いもの。」
 と、当然のように返した。その返答に、不思議な表情を浮かべるのは私となった。
「お世辞なんか言っても何も得しませんよ?」
「どうしてそう思うの?私は正直に言っただけよ。」
 フフ、と可笑しそうに小さく笑みを浮かべては、私の顔を見つめ、彼女は更に言葉を続ける。
「…上品な顔立ちって言うのかしら。インテリジェンスな魅力があるの。」
「インテリ、なのは否定しませんけど… そんな褒められるような顔、してませんから。」
「してる。睫毛も長いし、少しミステリアスな雰囲気もあるわよね。…綺麗よ?」
 私と彼女の意見は真っ向から対立するばかり。私がいくら否定しても、彼女は笑顔で肯定論を述べてくる。
 ―――その尽きない語彙に敬服するほどだ。
「…琴音さんこそ、綺麗ですよ。自分でも否定出来ないでしょう?」
 自分の容姿のことから話を逸らそうと、私は彼女にそうふった。
「ふふ、ありがとう。…嬉しいわ。」
 彼女は、私のように頑なに否定したりはしない。素直にそう言って、嬉しそうに笑んでくれる。
 ――その笑顔が、本当に綺麗なのだと、私は思う。
 自分でも気づかないままに彼女を見つめていれば、私の視線に気づいてか、彼女は微かに悲しげな笑みを浮かべた。その理由が暫しわからなかったけれど、彼女が気にするように撫で付けた前髪―― その行為で、ようやくわかった。
 片側だけ目を隠すように垂らした前髪。こうして間近に見ればすぐにわかる。彼女はその瞳を、失っているのだと。そのことが彼女のコンプレックスなのだろうか。…もしそうだとすれば、私の言葉に彼女が素直に喜べたとは思えなかった。
「……綺麗、なんですよ。」
 言葉を探しても見つからずに、私は念を押すような言い方しか出来なかった。しばしの間を置いたせいか、彼女は不思議そうな表情で私を見つめた。
「…どうして、そんな風に言ってくれるの?嬉しいけど、でも… でも、私は醜いわ。」
「そんなこと――…」
 否定しようと彼女を見上げた時、ふっと言葉が掻き消えた。
 見つめられる、片方だけのその瞳が余りに真っ直ぐで、突き刺されるようだった。
「貴女は優しい人ね。誰かに愛されるべきなのに… どうして、こんなところに…。」
 何故、そんな悲しげな表情をするのか。
 優しい?愛されるべき?…この、私が?
 そんなバカな。
「たった数時間一緒に過ごしただけで、あなたに私の何がわかると言うんです?」
「え?…あッ、ごめんなさい。」
「……いえ。」
 言った後で、自分の言い方に嫌気がさす。どうして、こんな刺のある言い方しかできないんだろう。
 それでも微笑んでくれる彼女は、私とは比べ物にならないくらい――魅力的な人。
 嫌になるくらい、素敵な人。
「だけどやっぱり、自分を卑下してはいけないわ。貴女は――」
「綺麗事、なんて」
 耳を塞ぎたかった。それをしない代わりに、私は彼女の言葉に被せて、言った。
「聞きたくないんです。私はそんなこと、聞きたくなんか…」
 魅力的な人の隣に居れば、自己嫌悪が加速する。だから私は一人でいたかった。
 ああ、なんて澱んだ感情だろう。だから私は他人が嫌いなんだ。 
「愛されたいと思う?」
「…え?」
 突然投げ掛けられた質問に、私は彼女を見上げて小さく聞き返した。
 す、と伸ばされた手が、私の頬に触れる。
 温かい手。
「貴女、愛されたことがないんでしょう?いつも一人だったんじゃない?…違う?」
「……。」
 その通りだった。
 言葉を返すことは出来なかったけれど、彼女は沈黙を肯定だと取ったのだろうか。
「三人姉妹だったら良かったわね。」
 と、彼女は微笑んで言った。
 姉妹だったら。
 こんな人が、私の姉だったら――… 私は、思い留まっていただろうか。
 こんなゲームへの参加権を得ることもなかったのかもしれない。
「……もしそうだったら、きっと、こんな所で会うこともなかったと思います。」
 その方が良かったと、その想いは込めずに告げた。
 だけど彼女は、クスクスと笑って小さく頷く。
「それもそうね。姉妹じゃなくて良かったわ。」
 その言葉を聞いた瞬間、意図の食い違いに、すぐに気づいた。食い違いには気づいても、彼女の意図が掴めなかった。次の言葉を聞くまでは。
「他人だから、私は貴女を殺さなくても済むんだもの。」
 事も無げに告げられたその言葉を、頭の中で反芻し、解釈に努めた。
 ―――思わず、私は後ろで休んでいる星歌さんの方へ目線を遣った。眠っているようだった。
 その後、琴音さんへと目線を戻し、私は小さく問い掛ける。
「…殺すんですか…?」
「誰を?」
「…星歌さんを。」
 私がその名を出すと、琴音さんは不思議そうに私を見つめた。
 すっと目線を逸らし、ふっとまた笑みを浮かべる。
「どうかしら。…殺すかも知れないわね。」
「…どうして…?」
「あの子は絶対に死ななければならないの。…でも、他人に殺させるなんて悔しいでしょう。」
「“絶対に”?」
「絶対よ。」
 あまりにあっさりと頷かれ、私は絶句する。
 人間の命には限りがあるとか、そんなうんちくの次元でないことはわかっている。
 唯はっきりしていることは、彼女に、迷いが一切無いということだった。
『絶対ニ死ナナケレバナラナイノ。』
 ――…この人。
 もしかしたら、少し危ない人、かもしれない。
 いや。そもそも、殺人を犯すような人間の中で、まともな人間などいるのか。
 星歌さんは彼女の命令に従った筈だ。そんな命令に従ってしまうことも異常。
 じゃあ、彼女は何故そのような命令を下したのか。
 ―――異常だからだ。
 一瞬、背筋が凍るような寒気を覚えた。
 今はまだ味方だとしても、この人は異常なんだ。いつ敵になるかもわからない。
 少しでも、「魅力的」だと思った自分を悔いた。
「不知火の血は、絶対に絶やさなくちゃいけないの。そうじゃないと呪いでね、災いが齎されるのよ。」
 この女だって異常者だ。
 ―――神崎美雨と変わらない。





『次に会う時、万が一お互いに敵意がなかったら…』
『…仲間になろうね。』
 彼女の言葉にあたし―――吉沢麗美―――はそう続け、一つ、笑みを交わした。
 そして、あたしと彼女は背を向け、別の道を歩き出した。
 水鳥鏡子。孤独を内に秘めたその女性は、真っ直ぐな笑みをあたしに向けた。
 ――あぁ、あの子とあたしは似ているんだと、思った。
 医務室で少しの時間を共有しただけなのに、強く、親近感を抱いた。
 共鳴、という言葉がしっくり来るかもしれない。
 死に怯えて、それと同時にちっぽけな戦意を抱いて、今もまだ生き続けている。
 誰も居ない。側にいてくれる人なんて居ない。
 きっとあたしと彼女は同じ思いを抱いたのだろう。一人と一人が、二人になることが出来たら、と。
 だけど、言い出せなかった。あたしも、彼女も。
 まだどこかで怯えてたんだ。――知り合ったばかりの人を信用することなんて、出来ない。
 あたしの足の傷の手当てが済んで、医務室でほんの少しの休憩を取った後、あたしたちは一緒に医務室を出た。そして扉の前で彼女の告げた言葉に、あたしはまるで彼女の考えを読めたかのように、言葉を続けることが出来た。…考えてることは一緒だった。
 だけど、誰かを信じることは難しいこと。
 それと同時に、自分を信じることも出来なかった。
 あたしは彼女を裏切らないとは―――言い切れない。
「…フッ…」
 食べ物を調達するために、傷を負った足を引きずりながら人気のない廊下を歩く。小さく笑みが漏れた。
 泣きたいくらいに胸が締め付けられるのに、相対した笑みが漏れた。
「もう、イヤ…。」
 頭がおかしくなりそうだ。
 いつ、私の命は消えるの?
 あの子はいつまで生きているの?
 ―――先に死ぬのは、どっち?
 少しでも彼女に心を許してしまったことで、私の心には隙間が空いた。
 『一人は怖い』なんて、とうの昔に忘れたはずの感情を思い出してしまった。
 麻痺していた痛みが、急激に痛み出したような感覚。
 怖い。怖い。怖い。気が狂ってしまいそうなほどに、怖い。
 誰か。
 誰か、あたしを助け

 ―――ドンッ。

 それは、突然のことで 何が起こったのか理解できなかった。
 背後から突き飛ばされるように、そして油断していたあたしはいとも簡単に
 前のめりにその場に崩れ落ちた。
 ガラン、と大きな音を立てて、手にしていた金属バットが廊下を転がった。

 突き飛ばされただけだと思ったんだけど、―――違った。
 背中から何かが、あたしの中にのめり込んでいる。
 冷たい、金属のようなものが。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめッ、ん、なさい…」

 まるで呪文のように繰り返される言葉を耳にした。
 その声に聞き覚えがある。 聞き覚えが――…

「…鏡子……?」

 名を呼んで、ゆっくりと振り向いた。
 そう、そこには いくつもの言葉を交わし、心すら許しかけた女性の姿があった。
 見開いた目であたしを見下ろし、尚も呟き続けている。「ゴメンナサイ」、と。
 あたしはそのまま静かに腹部へと手を遣った。
 チクリ、と何か尖ったものが触れて、あたしは何だろうと、そこへ目を遣る。

「私、あなたに殺されル 殺さ 殺されるから、だから、だからね、その前に殺せば、あなたはうら、う、ウラギ、裏切ら、なくて、わ、私は傷つかなくて済むから、だから、だから…」

 その鋭利な金属は、あたしの腹部から突き出ていた。
 赤い、血の色を纏い、ぬらりと光る。
 後ろにいる鏡子は尚も何かを呟き続けていて、あたしには何を言っているのか、よく理解できなくて。

「殺し、ころ、殺したら そしたら私、殺されない、殺されないから、だか、ら――」
「…ころ、したの?」

 あたしは小さく問い掛けて、彼女を見上げる。
 あたしの言葉を耳にした途端、鏡子は何も言わなくなった。
 少しの間を置いて、「あぁ」と小さく、掠れるような声を漏らした。

「あ、ああ…イヤ、…イヤァ…!!!」

 鏡子は頭を抱え、ガクンとその場に膝をついた。
 焦点の合わぬ目で、震える唇で、何か言葉を発する。
 彼女の答えを待っているあたしは、聞き取り難い彼女の言葉を理解しようと、耳を澄ませた。

「だ、だって、信じた… 信じた人、みんな、皆私を裏切るんだもん、だから、だから殺したの。あの人も、あの人たちとか、私を裏切ったのが悪いのよ、だから、殺されて当然だから。……レミィさん、とか、私、私ね信じちゃったから、だから、きっときっと私のこと殺すの、絶対にね?だから、だから殺したの…!!」

 ……あの子、壊れてる。
 頭が壊れてしまってる。
 だから私の身体を、壊すの、ね。

『次に会う時、万が一お互いに敵意がなかったら…』

 ………私って、いまだに日本語があんまり得意じゃないもんだから。
 万が一っていう言葉の意味、理解してなかったな。
 万に一つって、とんでもなく少ない数じゃない。
 10000のうちの9999の確率で、この子はあたしを殺したってワケだ。
 …なるほど、ね?

「……って、ちょっと待って、よ。」

 一度は納得しかけたものの、ふと疑問を覚え、口を開く。
 壊れたあの子に、聞く耳があるかどうかは知らないけど。

「あたしまだ死んでないわ。…勝手に殺さないで。―――死にそうなのは、間違いないけど、ね。」

 ズクン。
 背中から腹部を貫通したその包丁は、刻々とあたしの体力を奪っていく。
 血が。さっきから血が、口の中からどんどん溢れて、涎みたいに零れていく。
 だけどまだ生きてるんだってば。

「…鏡子、あたしは、…あたしは、鏡子のこと 信じ」

 ようと思ったのよ。
 その言葉を口にしようとした時、鏡子はあたしの体内から包丁を抜き取った。
 薄い一枚の金属が体内から消えると、その空いた穴から 血が噴き出す。
 待って。
 もう一言だけ、言わせてよ。

「信じたか、った、のよ。」

 顔の筋肉をどうやって動かすのか忘れてしまった、けど、あたしは鏡子に笑みを向けた。
 次の瞬間――

 その鋭利な刃物は、あたしの心臓を貫いた。










「ッ?」
「何?」
 突然、響き渡った女の悲鳴。
 私―――望月朔夜―――とお姉ちゃんは、その声に思わず顔を見合わせる。
 間もなく夜の九時になろうとする頃、私達は食料調達の為に部屋を出た。
 事が起こったのは五階から四階へと下る階段に差し掛かった時。
 悲鳴は四階の廊下から。…近い。
「――行こう。」
 私はそう小さく言って、気配を消し、階段を駆け下りる。躊躇いを覗かせながらも私の後を追うお姉ちゃんをチラリと見遣った後、私は静かに、悲鳴の聞こえた場所へと向かった。
 見通しの悪い廊下。曲り角からそっと、悲鳴の聞こえた場所を覗き見る。
 そこには――二人の人間の姿があった。
「…。」
 私は人差し指を唇に当て、静かにと示した後、此処で待っているようにジェスチャーで示した。お姉ちゃんは困惑の色を見せながらも、コクンと一つ頷き返す。
 私に支給された武器は、鎌。武器として扱うには少々心元ないが、お姉ちゃんに支給されたおもちゃの水鉄砲よりはマシだ。
 視界に留めた二人の女の姿。無防備にも廊下に座り込んでいたり、寝転んでいたり。 
 ―――フフ。一人が死んでいることは明白だ。死んでいるのは寝転んでいる方だろう。
 とすれば座り込んでいる方があの女を殺したという可能性が極めて高いのだが、その生きている方の女の戦闘能力は低いと見える。廊下に広がった血の海からして、寝転んでいる女が死んだのは随分前のこと。悲鳴が聞こえたのはついさっき。つまり悲鳴を上げたのは座り込んでいる女ということになる。
 悲鳴を上げる――それは、他の参加者に自分の居場所を堂々と告げるようなもの。殺して下さいと言っている様なものだ。もしもあの女が、誰かをおびき寄せるために悲鳴を上げたのだとすれば。つまり計算づくだとすれば少々厄介ではあるが、もう一つの可能性、我を忘れて悲鳴を上げたのならば、その戦闘能力は極めて低下していると言える。
 まぁ、万が一前者だとしても… なんとかなる。
 というわけで、私は鎌を手に曲り角から飛び出した。
 足音を消すという行為は、道具――つまり足音を消せる仕様の靴と、そして技術とがあればそこまで難しいことではない。幸い、座り込んだ女は俯いており、その視界にこの曲り角が見えてはいないだろう。
 要するに、相手に感づかれぬままに、間近の距離に行くことが私には出来るわけだ。
「動かないで下さいね。」
 私がそう言葉を発した時には、私は女の真後ろまで来ており、女が少しでも妙な動きを見せればその瞬間に相手の命を奪う準備が出来ていた。
 血の海に伏した女は、予想通り絶命していた。金色の長い髪が血の海に広がっていた。その身体にはいくつもの刺し傷が見える。―――酷いな。鋭利な刃物で何度も何度も突き刺したような痕だ。…そう、例えば、女の死体の側に転がっている包丁だとかで、ね。
「………?」
 座り込んでいた女は、もたげていた頭をゆっくりと持ち上げた。突然背後から声がすれば驚きそうなものだが、女は驚いた素振りなど一切見せなかった。ふと気に止めるような、そんな様子で顔を上げた。
 振り向こうとしたので、私は手で女の頭を掴み、そのまま固定する。
「動かないで下さいね。」
 念を押すようにもう一度告げた後、私はそのまま今後の策を練った。飛び出したのは良いが、その後どうするかを考えていなかった。あまり長い時間考えあぐねていても、待機しているお姉ちゃんの命が危なくなるだけだろうし。
 トンッ。
 私は軽く女の首に手刀を入れ、気絶させる。まぁとりあえず、っと。
 ガクン、と重たくなった女の身体を持ち上げ、女を背負ってお姉ちゃんの元に戻った。
 ああ、勿論、血の海に転がっていた包丁の回収も忘れずに。
 何か聞きたげなお姉ちゃんを手で制し、
「この女で遊ぼう。」
 とだけ告げ、私は歩を進める。この女を背負ったままの食料調達は少々不利ではあるが、まぁ誰かに見つかった時はこの女を捨てて応戦すれば良い話だ。
 お姉ちゃんは私の後をついてきながら、小さく、不安げに声を上げた。
「朔夜。遊ぶって…まさか。」
「さっき話したでしょ?アレ、実行してみようよ。」
「でも…本気なの?」
 今一つ納得してくれないお姉ちゃんに、私は顔を向け問題ない、とばかりに笑みを向ける。
「闇村さんが望む事を実行するまでだよ。――まさかお姉ちゃんは、生き残って欲しいだとかそんなことを望まれているとでも思ってる…わけ、ないよね。」
「…それは…」
 やっぱり、人間というのは死をそばにすると性格が変わってしまうんだろうか。
 聡明で頭の良いお姉ちゃんなのに、此処に来てからは口篭ったり沈黙したり、そんなはっきりしない答えしか出さなくなってしまっている。私にはよくわからない感覚だ。
「盛り上げるんだ。より面白く、より盛大に。―――ゲームは楽しいに越したことはないよ。」
 私は当然のことを告げたまでなのに、お姉ちゃんは沈黙し、イエスともノーとも返さない。
 ったく、困ったなぁ。
「思ったことはちゃんと口にしようね?お姉ちゃん。」
「……そうね。…異議はないわ。」
 皮肉を込めた私の言葉に、お姉ちゃんは小さく肩を竦め、渋々といった様子で頷いたのだった。





 人工庭園には、人工の夜がやってくる。
 窓のないこの庭園は、ありとあらゆるものが造作的だった。光も、闇も。
 月明かりに照らされたような薄暗い闇。草木をざわめかせる微かな風。
 造作的でありながら、まるで本物の自然の様。それは、妙な違和感として存在する。
 今の時刻がはっきりとしない。夜の十時頃か、当にそれを過ぎているか、それとも、まだ陽が落ちてそこまで時間は経っていないのだろうか。時間の感覚があやふやではあるが、唯、長い長い時間が経ったように感じられた。
 私―――櫪星歌―――は壁際の一角で、銃を手に、辺りを警戒している。少女…渋谷紗悠里と見張りを交代してから、数時間は経過したと思う。少女は少し離れた場所で眠りについているようだった。
 琴音様は隣に腰を下ろし、私に軽く身を凭れている。
「…なかなか、動かないわね。」
 ぽつりと零された言葉に、「ええ」と小さく頷き返した。琴音様の言いたいことはすぐに察した。
 神崎美雨。…一体、どこで何をしているのだろうか。無謀にもメス一本で私達の命を奪うなどとのたまった女。この人工庭園のどこかに身を潜めていることは間違いない。
 来なければいい。来るならば早く来い。そんな、二つの思いが交錯する。
 命を奪われる恐怖は拭い去ることは出来ないが、かといってこのまま現れなければ、私達は一体どうすれば良いのか。
「……ねぇ、お腹空かない?」
 小さく顔を上げて小声で言う琴音様に、私は少し躊躇った後、コクンと頷き返した。
「琴音様も、空腹でしょう。……持久戦に持ち込まれると、難儀しますね。」
「そうね。もしかしたら、向こうもそれを狙っているのかも知れないわ。」
「……しかし、状況は同じはずです。神崎美雨だって人間ですから、お腹も空くでしょうし」
「それを見越していたと、したら?」
 私の言葉に被せるように、琴音様は言った。その表情に、いつもの穏やかな微笑は無い。
 見越して?そう小さく聞き返すと、琴音様は重く頷いた後、口を開いた。
「彼女は確かに人間だけど、とても頭の良い人よ。あらゆる事態を予測して行動しているかもしれない。例えばこんな風に、どこかに隔離される事。」
「…予測、ですか。」
「ええ。彼女がもし、何らかの携帯食を携えていたとすれば…明らかに不利なのは私達ね。ここには食べるものなんて何もないもの。」
「……確かに。」
 もしそうなれば――メス一本どころか、彼女は一切手を下さぬままに、私達の命は尽きてしまう。
 いや、私達かて忠犬の如く待ち続ける訳では無いだろう。食べ物を探して、ここを離れる。
「待っているのかもしれないわ。私達が、何らかの動きを見せる事を。さすがに待ち伏せされては、あの女も手を出す術がないでしょうし、ね。」
 琴音様の言う通りだ。
 とすれば…――此処に居ても、埒があかない。
 それどころか不利になるばかりだ。空腹では、本来の力を発揮することも出来ないではないか。
「……どうすれば。」
 眉を寄せ、私はそう呟いた。あの女に勝つ術を考えるんだ。あの女にだけは殺されたくない。
「逃げていては始まらないわ。」 
 すっとしなやかな身のこなしで立ち上がった琴音様は、私を見つめ、肩に手を置いた。
 私よりも少し身長の低い彼女を、目線を下げて見つめる。
 琴音様は優しい微笑を見せると、そっと背伸びをして、顔を寄せた。
 ―――なんて、美しいお顔なのだろう。
 間近で見れば見るほど、彼女の一つ一つが、高貴で美しい。
 片手でそっと彼女の頭を抱いて、その赤い唇に、自らの唇を寄せた。
 暫しの時間、くちづけを続け、そして静かに顔を離す。
「……これが最後のキスかもしれないわね。」
 少し寂しげに目を細め、琴音様が告げる言葉に少し驚き、私は言葉を返そうとした。
 しかし彼女はそれを手で制し、そして、小声で続けた。
「――居るような気がする。私の気のせいじゃ、なければ。」
「…!?」
 琴音様のその言葉に、私は慌てて周囲を見渡そうとした。
「見てはだめよ。」
 それを制すような言葉に、私は動きを止めた。小さく息を飲んで琴音様を見下ろしていると、琴音様は私にふわりと身を寄せ、背に手を回して抱きしめた。――その行為がカムフラージュなのだと、すぐに察した。
「いい?あの女が姿を現しても、決してうろたえないで。あの女は運動も出来るようだけど、星歌だって負けないわ。――相手は人間だってこと、忘れちゃだめよ。」
 私だけに聞こえるような小声で、忠告をしてくれた。はい、と言葉には出さず、頷き返す。
 その時、背に回された手にきゅっと力が篭った。
 …カムフラージュ?否、それだけではないのだと、気づく。
 琴音様だって不安なのだ。
 私はそっと彼女の肩を抱いて、その温もりを感じた。
 ―――その時だった。

『禁止エリアを告知します。』

 突然、静寂の中で響いた声に、私は少し驚いて顔を上げる。
 琴音様も同じように顔を上げた後、険しい表情で周囲を見渡した。

『1−C、3−C、6−A、』

 機械の声で告げられる禁止エリア。記憶しなければならないが、私達にそのような余裕はなかった。
 放送が邪魔で、辺りの物音が掻き消される。
 その分、目で警戒しなければならない。
 私も琴音様も、周囲を見渡し、異変がないか探した。

『6−E、7−C、8−B、』

 ザァッ――
 機械の声音に混じって、聞こえて来た木々の葉が共鳴するような音に、
 私と琴音様とは同時にその方向へと目を遣った。
 林の一角で何かが蠢いていた。
 薄闇の中で、そこで一体何が起こっているのか、私には理解出来なかった。
 銃を構え、その方向へ向ける。
「無駄撃ちはだめよ。」
 釘を差す様な琴音様の言葉に頷きながら、私は引き金に指を掛け、林を注視した。

『11−B、11−C、13−B、』

 ザァ、ザァァッ
 別の場所から、また葉が擦れ合う音が聞こえる。
 先程の林も、そして別の林でも―――何かが、蠢いている。 
 何だ…!?一体、どうなっている…!?

『―――16−A。』

 林が。
 まるで生き物のように、蠢く。
 葉が擦れ合う音は、まるで激しい雨のように、鳴り続けていた。
 頭がおかしくなりそうな程、耳障りな音。

『以上の10エリアです。午前0時から十一時間が、禁止時間となります。』

「星歌!!!!」
 ざわめきに支配されかけていた脳内。
 様々な音に混じって聞こえた声は、私の名を呼んだ。
 その時ハッと我に返り、声の主を見――…
「…ッ…!!?」

 そこには。
 少し離れた場所で、喉を反らせて苦しげに私を見る琴音様と、その喉につきつけられたメスと、
 ―――女の姿が、あった。
 わけが、わからなかった。

 いつの間にその姿を現したのか。
 私達はちゃんと見張って… ――いや。
 私は、あのざわめきに、林の蠢きに、視覚も聴覚も支配されていた。
 本当ならば、視界の狭い琴音様の分までカバーしなければならなかったのに。
 短い時間だったかもしれない。けれど、女が素早い動作で近づくことが出来た、少なくともその時間。
 私は、見張りを怠っていた。

『繰り返します。1−C、3−C、6−A、』

 林のざわめきは次第に治まり、放送の声だけが響く。
 女――神崎美雨は、琴音様の背後からメスを握った手を伸ばし、そのメスの刃先は琴音様の喉元に。
「撃ちなさい、星歌!!!」
 琴音様の言うその言葉が理解出来ずに、私は二人を見つめていた。
 撃つ?一体何を?
 ――この銃を?
「星歌!!!」

『6−E、7−C、8−B、11−B、11−C、13−B、16−A。』

「そうすれば、貴女の愛する女性は死んでしまう。貴女のその手で殺すことになる。」
 冷たい声は、私に向けられたものなのだと、すぐにわかった。
「星歌、撃って!私の命なんか構わない!!この女を殺しなさい!!」
 二人は、違うことを言っている。
 一人は撃つなと。
 一人は撃てと。
 私が従うべき人は、一人だけ。
 琴音様、だけだ。

「一人だけ、生き残るつもり?」

 引き金に掛けた手が、その声に、ピタリと止まる。
 引き金を引けば、私だけが生き残る?
 生き残る?私が?
 ―――琴音様は死んでしまうのに?

「私は…」

 小さく口を開いた。
 その続きが何なのかよくわからぬまま、私は二人を見つめ、口を開いた。

「星歌!――星歌ぁっ!!!」

 私の名を呼ぶ彼女の頬は涙に濡れ、
 悲しげな瞳で私を見つめる。

「私は…」

 琴音様の後ろで、女はスッと目を細めた。
 あの女を殺す。
 あの女に殺される。
 ――どっちが良いかと問われれば、答えなど一つしか無いに決まっている。

「私は、撃てません。……私には、琴音様を差し置いて生き延びることなど出来ません。」

 銃から手を離し、私は笑みを向けた。
 刹那、琴音様の喉元に当てられたメスが―― スッと、引かれた。
 琴音様の命が奪われる瞬間。
 それを見ても、私は銃に手を伸ばすことはしなかった。

 ドサリ、と。
 琴音様の身体が地面に投げ出され、女は静かに私の側へと歩み寄る。

「――殺して下さい。私を。」

 そう告げて、女を見据えた。
 女は小さく笑みを浮かべ、私の首筋に手を当てた。
 なんて、冷たい手なのだろう。
 頭をその手に抱かれ、身体を寄せられる。
 ――首筋に冷たい金属が触れた。

「…お望みのままに。」

 そんな囁きと共に、冷たい刃物が、私の血管を切り裂いた。
 ああ、これで…
 私は、いつまでも、琴音様と共に――。










「……ッ。」
 人工庭園の壁に背を付け、体育座りで一部始終を見つめていた。
 琴音さん、星歌さん。あの二人の悶着の間に逃げてしまえば良かった?
 出来ることならばそうしたかった。
 ……けれど、出来なかった。
 私―――渋谷紗悠里―――は、壁に手をついてゆっくりと立ち上がり、神崎美雨を、見据える。
 喉元を切られ(おそらくは呼吸器官をやられたのだろう)、多量の血液を噴き出して息絶えた琴音さんと。
 星歌さんは、首筋の血管を。
 メスで殺すということは、身体の管を断ち切ることなんだな、と、思った。
 二人の返り血を浴びた神崎美雨は、頬に付着した血液を無造作に拭った後、私へと目線を向けた。
 血塗れだ。
 二人の多量の返り血もある。けれど、それだけじゃない。
 神崎美雨自身の血液も、あの中には混じっている。
 ―――彼女の血が赤色だと言うことだけでも、驚くべきなのかもしれない。
 あの女が林の中に潜んでいることは明白だった。その殺気、尋常じゃない。
 二人が気づいていたのかどうかはわからない。悠長に抱き合っていたけど、あの二人も鋭い人だったもの。気づいていたからこそ、最後の抱擁でもしたのかもしれない…なんて。
 眠っているふりをして、私は考えていた。三人の女がいる。皆、死んで当然の異常者ばかりだ。
 この三人が死んで、そして私だけ生き残る方法は無いか、と。
 林の中に潜んでいた女は、おそらく、見張りをしていた二人を先にターゲットと見なしたんじゃないかと推測した。私の寝た振りに気づいていたかどうかはわからないけど、順番からしてあの二人からなんじゃないかなって。
 とすれば。私は、今だけはあの女のターゲットから外れていて。
 ―――やるなら今しかない。そう思った。
 自分の力量は認識している。だからこそ、全力で行かなければ無理だった。
 木々へ下した命令。

 『切り裂け。』

 その鋭い葉を、降らせて。
 林に潜んでいるあの女を、切り裂いてしまえ。
 ズタズタにして、あの女を殺してしまえ。

 ―――浅はかだったのは、私。
 まだ、あの女を甘く見ていたなんて。
 逃げ延びたのか、何かで防いだのかはわからないけれど、女はほんの少しの傷だけで林から飛び出した。
 私の力で騒ぎ出した林に、二人が気を取られたのがいけなかった。
 或いは。
 もしも星歌さんが冷静であれたなら、その銃で神崎美雨を撃ち殺すことだって可能だったはずなのに。
 死者に文句を言ったってどうしようもないことはわかっている。
 だけど。今のこの状況は極めて不利であり、何かを責めることでしか、逃げ道を見出せない。

「すごいわね。」
 ポツリと、神崎美雨が私に投げ掛けた言葉に、小さく眉を寄せる。
「…貴女に、傷を負わせたから?」
 そう問い返すと、彼女は首を横に振り
「その力よ。」
 と、私を真っ直ぐに見据えたまま、言った。
 おおよそ10メートルの距離を持って、私と神崎美雨は見つめ合う。…睨み合うという表現はしっくり来ない。彼女は感情の無い瞳で私を見ているだけ。そして私もまた、彼女へ向ける視線に何の感情を込めることも出来なかった。
「超能力のようなものかしら?珍しい力ね。……貴女のような人、殺すのは勿体ないわ。」
「……それなら、生かしてもらえるとありがたいんですけど。」
 自棄、とは、このような状況を言うのかもしれない。
 もう、私に力は残っていない。彼女に抗う術は、一つもない。
 『力』も、そして力によって消費された体力も、気力も、何もかも。
 ―――極めて近い未来に、あの女に殺されてしまうことは、もう明白だ。
「貴女の脳を見てみたい。」
「え…?」
 神崎美雨が口走った言葉に、思わず小さく聞き返していた。
 脳。…私の脳?
「どんな仕組みになっているのか、どんな形でそんな力が使えるのか。どこからその力は生まれるのか。私だって、わからないことは沢山あるの。」
「……貴女らしくもない。」
「でしょう?」
 ふっと小さく笑みを浮かべる女。冷笑、というべきなのか。
 可笑しいわけでもないのに、笑みを浮かべているような、そんな印象を受ける。
 まるで、仮面のような笑み。
「……ところで」
 ――あの女に、訊きたいことがあった。
 今、二人と対峙したあの女を見ていて、思ったんだ。
 不思議で不思議で仕方がなかった。
「今のやり方こそ、貴女らしくないと思うんですけど。…星歌さんが引き金を引いたら、どうしたんです?」
 そう問い掛けると、神崎美雨は表情を崩さぬまま、ゆるく首を傾げて見せた。
「私のやり方は一切崩していないわ?…だってあの子は、絶対に引き金を引かないと思ったもの。」
「…絶対に、ですか?」
「ええ。」
 そう頷いた後、神崎美雨はその足を、一歩、私の方へ向けて踏み出した。
 無意識の内に身が竦む。
 それでも、私は問いを重ねた。
「人の心に絶対なんてないと思います。もしも私が星歌さんだったら、私は絶対にあの時引き金を引いていました。」
「矛盾してるじゃない。」
「え…?」
「貴女は、私を前にして、もしも銃を手にしていたら、“絶対”に、その引き金を引くんでしょう?」
 そう言われて、はっと言葉を呑んだ。
 …彼女の言う通りだけど。なんだか揚げ足をすくわれたようで悔しい。
「確かに100%の確率なんて、人の心には存在しないのかも知れないわね。…じゃなきゃ、私が貴女を殺すこともなかったわ。」
「…どういう、意味です?」
 そう聞き返した時には、ゆっくりと私の方へ向かって来ていた神崎美雨は、ほんの1メートル程の距離まで近づいていた。初めて、間近で見る彼女の顔。―――とても、綺麗な人。
 何に怯えていたんだろう。そんな疑問が浮かぶほどに、あれほどまでに恐れていた女が目の前に居るのに、以前に感じた壊れそうな程の恐怖はなかった。
「一人の人間の心理を読み違えなければ、私はこんなところで殺し合いなんかしていない。今も、誰にも気づかれないまま殺人を続けていたでしょうね。医者として、賞賛を浴びながら。」
 そう言えば、何故彼女は捕まったのだろう。そのきっかけは何だったんだろう。
 なんだか、好奇心が次々と湧いてくる。
 自分の命よりも、何よりも。
 私、今、目の前にいるこの女性のことが――知りたい。
「女子大生と刺し違えた、って、ニュースで言ってましたけど。…彼女のことですか。」
「――…いいえ。」
 彼女は少しの間を置いた後、ゆるりと首を横に振った。
「それじゃあ…」
 誰なんですか、と言葉を続けようとして、途切れた。
 それは、不意に彼女の手が、私の唇に触れたから。
「貴女は知らなくていい。……私のことよりも他に気にすることがあるでしょう?」
「自分の命とか。」
 彼女の意図を察してそう続けた後、それを否定するように、私は更に言葉を続けた。
「こんなに…、こんなに他人に興味を持つなんて、自分でも信じられないんです。でも、でも私、…貴女のことが知りたいんです。…美雨、さん。」
 そう、名前を呼んで、初めて 今まで私は、彼女を人間だと思っていなかったことに気づいた。
 殺人者。異常者。狂った女。私は彼女を「敵」としてしか見ていなかった。
 だけど、こうして触れられて、言葉を交わしているうちに… 信じられない程、彼女が…
 …彼女が、愛しくて。
「紗悠里。……もう何も考えなくていいわ。私に身を委ねなさい。」
 そんな囁きに、私は小さく頷いた。
 唇から、頬へと移った彼女の手に、自らの手を重ねる。
 冷たいのに。
 なのにどうしてこんなに、温かいの。
「…いい子ね。」
 神崎美雨――― いや、美雨さんは
 私にそっと顔を近づけ、そしてそっと、キスをくれた。
 あぁ。触れた唇が、どうしようもなく甘くて、切なくて。

 静かに、私の首筋に冷たい金属が触れる。
 私、殺されるんだ。
 美雨さんに殺されるんだ。

 ―――…残念なことと言えば、このキスが終わってしまうことくらいで。
 不思議なことに、悔いはない。
 私、この人に殺されて、幸せなのかもしれない。

 金属が、皮膚を切り裂いて血管にまで至る。
 甘い甘い、キスの中。











「16−A?」
 深雪さんが怪訝な顔をして呟いた言葉に、私―――茂木螢子―――は首を傾げる。
「どうしたんですか?」
「…十六階なんてあったっけ?」
 深雪さんは、禁止エリアをメモした手元の紙をペンで指しながら言う。
 その言葉に私は少し考え込んだ後、
「なかったと、思います。…聞き間違いじゃないですか?」
 と返した。けれど深雪さんは今一つ納得出来ない様子で首を捻っては
「だって二回言って、二回ともちゃんと書いてるのよ。ほら。確かに言ったんだって。」
 と言って、どうだーっ、とばかりに私にその紙を突きつけた。確かに、二回繰り返された放送を、しっかり二回書き留めているその紙には、「16−A」という文字が二つある。…うーん?
「聞き間違いじゃなかったら、言い間違いじゃないですか?ほら、機械の声を編集する時に間違えたとか。」
 深雪さんはどうしても自分のミスを認めたくない様子で、私の言葉に「それだきっと」と頷く。
 まぁ別に、15−Aだろうが16−Aだろうが、私達には関係のないことだと思うけど。
「それよりも問題は6−Aですよ。」
 そう。悠長に話をしている場合ではないのだ。
 今私達がいるこの部屋も、あと四十五分ほどで禁止エリアになってしまう。
「…そうね。今からどうする?」
 ようやく真剣な表情になってくれた深雪さんは、私を見てそう問い掛ける。
 私は作り付けのクローゼットを開き、建物内の地図を取り出した。
「ご飯食べましょう。それから、三階の私の部屋に行けばいいんです。えっと、三階の飲食室も禁止エリアになっちゃいますけど、十二階の飲食室まで上がって、それからまた三階に降りるのは面倒なので、早いうちに三階の飲食室に行って、それから私の部屋に行けばいいですよね。」
 地図の各部屋を指差しながら言った後、「因みにご飯はテイクアウトで」と付け加える。
 私の言葉を聞いていた深雪さんは、何故だかその表情を曇らせた。
「何か問題ありますか?」
 と私が首を傾げると、「そうじゃないんだけど」と言葉を濁した後、じっと私を見つめ、
「螢子、なんか変わったわね。」
 とだけ言って、簡単な荷物整理を始める。
 変わった?
 私が…?
「深雪さん。私、どんな風に変わりました?…変ですか?」
 武器のチェックを行う深雪さんの背中に問い掛ける。
 彼女が手にした散弾銃が、チャキッ、と乾いた音を立てた。
「変っていうか…まぁ変って言えば変ね。……螢子、もっと頼りない女の子だと思ってたのに。少し会わないうちに、自立出来た?」
 深雪さんは私に目を合わせることなく言って、「螢子も準備しなさい」と促した。
 私は自分の武器である拳銃を手に取っては、それを手の平で遊ばせつつ、深雪さんの姿を眺める。
 準備って言っても、この銃と深雪さんが居ればそれで十分だから。
「…それって褒めてますか?」
「………そうね。」
 私の問いに、考えるような間を持った後、小さく頷き返す。
 深雪さんはふっと私に目線を向けると、更に言葉を続けた。
「いいことだと思うわよ。肝が据わってきたっていうか。…最初に会った時みたいに、ビクビクしてる螢子はもう居ないみたい、だし。」
「私、そんなにビクビクしてましたっけ?」
「かなりね。…だから、守ってあげなきゃ、って思ったわけだけど。」
「じゃあ今は守ってくれないんですか?」
 真っ直ぐに見つめて問い掛けると、深雪さんはじっと私を見つめ返したまま、少しの間沈黙する。
 そして、ふっと小さく笑みを浮かべた。どこか、自嘲的な笑みを。
「螢子に銃を向けられた時、あたし自分が恥ずかしくなったの。…螢子はあたしが思ってるような弱い子じゃなかったんだって。あたしが守ってあげなくても大丈夫なんだって。―――自分を守れることはいいことよ。」
 深雪さんはどこか悲しげで、私にはその理由がよくわからなかった。
 今の私じゃだめなんですか?
 今の私って …そんなに、オカシイですか?
 浮かんだ疑問を打ち消して、私は時計を見上げた。
「行きましょう。」
 そう促した私に、深雪さんはどこか寂しげに目を細めて、「そうね。」と頷いた。
 …どうして、そんなに悲しい顔、するんですか?





「高見沢亜子。佐倉莉永。幸坂綾女。加山了一。榎本由子。不知火琴音。櫪星歌。渋谷紗悠里。」
 前回のプロジェクトも含め、今まで美雨に殺された参加者は八人にも及ぶ。
 全死亡者が十二人。その内の八人もが、美雨に命を奪われた。
 素晴らしい成績だ。
 ――けれど、このプロジェクトは何人殺すかではない。
 最後まで生き残る。目的はそれだけ。
 だからこそ他の参加者の成績が伸びない、ということもある。
 はっきり言って、殺すことに抵抗の無い参加者の方が少ない。戸惑いを抱いていないのは、朔夜くらいではないだろうか。八王子智もそう言った感情は見受けられないが、彼女は人を殺すことにも前向きではない。
 恋人や友人と共に部屋で過ごす者。或いは、一人で怯えている者。
 それぞれの感情の変化はデータとして、あまりにありきたりなのだ。
 もっと死の淵で現れるそれを見たい。様々なシチュエーションで。
 ――要するに、美雨が淡々と人を殺して行くだけじゃ面白くないのだ。
 それに。美雨に殺された女性達の死ぬ間際の感情。皆、よく似ている。同じパターンとでも言うべきか。
「…本当に行かれるのですか。」
 側に立つ部下が、遠慮がちに口を開いた。この後のことは、彼女に任せる予定になっている。
 三宅涼子、三十二歳。…勿論、洗脳済みである。
 私―――闇村真里―――は彼女ににっこりと笑みを向け、ぽん、とその肩に手を置いた。
「管理の方、宜しくね。あなたのことだから問題ないと思うけれど。」
「…はい。どうかお気をつけて。」
 尚もどこか不安げな彼女に、ふふ、と私は笑みを零す。
「私を誰だと思っているの?こんなところで死ぬわけがないじゃない。」
「…はい。」
 彼女は小さく頷いて、それもそうですね、と微笑んだ。
 私よりも年上なんだけど、いい子なのよね、この子。美咲と同じくらいお気に入りなの。
「さてと。…零時になったら、メール送っておいてね。そろそろ行くわ。」
 時刻は二十三時三十五分。
 この管理人室―――『16−A』は、あと二十五分後に禁止エリアになる。
 と言っても、参加者に埋め込まれたチップに反応するっていう話だから、部下達がそこに居ても何ら問題はいんだけど。
「…こちらが、支給武器になります。」
 涼子の差し出したのは、片手に収まるほどの拳銃。扱いやすそうね。
 それを受け取り、「ありがとう」と告げれば、彼女は小さく礼をした。
「いってらっしゃいませ。」
「行って来ます。」
 私は微笑んで、もう一度だけモニターに目を遣った後、管理人室の扉に手を掛けた。
 零時になればそれから十二時間。私は此処に戻ってくることが出来ない。
 私は、此処に居てはいけない。
 私は、「参加者」なのだから。

「美雨。―――今、行くわ。」




途中経過





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