千咲ハ十六夜ノ オ人形。
 十六夜ハ千咲ノ 支配者。
 抗ッテハナラナイ。抗ッテハナラナイ。抗ッテハナラナイ。
 脳内ニ刷リ込マレタ メッセージ。
「ちさはいざよいのおにんぎょう」
 十六夜ハ千咲ノ 支配者。
 十六夜ハ千咲ノ 支配者。
 十六夜ハ千咲ノ 支配者。
 十六夜ハ千咲ノ……
「――?」
 何カガ違ウ。
 抗ッテハナラナイ。抗ッテハナラナイ。
 ナゼ?
 ――シロガネ、ミユウ。
 アノ女ガ来タ時カラ、千咲ハ狂イ始メタ。
 十六夜ハ千咲ノトコロニイルハズナノニ
 美憂ガ十六夜ノトコロニイル。
 ナゼ?
 千咲ハ十六夜ノ オ人形。
 ナゼ?
「あたし、は……」
 千咲ハ本当ニ、オ人形ナノ?
 ナニカガ オカシイ。
 歪ンデイル。
 壊レテイル。
 狂ッテイル。
 千咲ガ?十六夜ガ?世界ガ?
「……違う」
 千咲ハ千咲ジャナイ。
 本当ノ千咲ハ コレジャナイ。
 狂ワセタノハ 誰?
 千咲ヲ壊シタノハ……十六夜?
 ソッカ。
「あたしは十六夜に破壊された。今度は、あたしが――」





「千咲ちゃんがいる」
 ぽつりと私―――高村杏子―――の隣で呟いた未姫さんの言葉に、幾つか瞬いた。
 場所は食堂。私は食堂のテーブル席を見渡した、けれど千咲ちゃんの姿は見当たらない。
「あっち、に」
 と、未姫さんが指差したのはキッチンの方だった。
 たった今食堂にやってきた私達が、今から向かう場所。
 見えるのは、少しだけ揺れるピンク色の髪の毛だけ。
 千咲ちゃんはしゃがみ込んで、何かをしているようだった。
 私達はキッチンの方へと歩いていく。
 カツ、コツ、と冷たいフロアに私達の靴音が響く。
 それに気づいたように、ふっと顔を上げた千咲ちゃんは、私達を目にして少し動きを止めた。
「こんにちは、千咲ちゃん。ちょっぴりお久しぶりだね」
 そう声を掛けると、千咲ちゃんはしゃがみ込んだままで私を見上げた後、目を逸らす。
 キッチンのシンクの下にある収納の扉を開けて、千咲ちゃんはその中を見つめていた。
「千咲は、千咲じゃない」
 不意に切り返されたその言葉に、私は返す言葉もなく、しゃがみ込んだ千咲ちゃんを見る。
 千咲ちゃんの瞳はどこか人間離れしている。
 悪い言い方をすれば、虚ろな瞳。
「千咲を構ってはいけない」
 こちらに目を向けるでもなく、ぽつりと言い放たれた言葉。
 私はちらりと未姫さんに目を向けてから、少し視線を交わした後、また千咲ちゃんに目を戻す。
「それは、十六夜さんに言われたのかな?」
 そう問いかければ、千咲ちゃんは暫しの間を置いた後、ゆるり、首を横に振っていた。
 その仕草が、以前千咲ちゃんと会ったときとは、どこか違うような気がして。
 あの時はもっと――そう、機械的で、ぎこちない仕草しか見せなかった。
「じゃあ、どうして?私達は、もっと千咲ちゃんと仲良くなりたいよ。ねぇ未姫さん」
「は、はいッ。仲良しさんは良いこと、です」
 こくこくと頷く未姫さんに「だよね」と相槌を打ってから、また千咲ちゃんに目を戻した。
 千咲ちゃんはフリーズしたように、その動きを止めていた。
 やがて微かに、その唇が開いたように思えたけれど、言葉が発されることはない。
 ――やっぱりどこか機械じみている。
 パソコンの動作にも共通する部分があるのだ。フリーズや、アプリケーションの起動までの時間。
 ハードディスクが唸りを上げて、次なる動作への思考を行なっているかのよう。
 そう思えるのは、以前に十六夜さんの口から告げられた内容が頭に残っているからなのかもしれない。
 『千咲に行なったのは、人体改造。機械を埋め込むことによって生命器官を継続させる禁術よ』
 そう告げてから、私が問うた言葉に十六夜さんは頷いた。
 『千咲ちゃんって、……改造人間、ってことになるんですか』
 機械によって生かされている千咲ちゃん。
 彼女の脳すらも、十六夜さんの手によって修復――或いは、改造されている。
 そのことを知っているのは多分、十六夜さんと私と未姫さんの三人だけだ。
 誰かに話してはいけないような気がする。これ以上追求してはいけないような気がする。
 だから私も未姫さんも、あの日以来千咲ちゃんに関する詮索を止めた。
「千咲は二人の名前を、知らない」
 コマンド、検索。
 検索するファイルまたはフォルダ名、「NAME」。
 ヒット数は幾つか。だけど私と未姫さんのイメージ画像と合致するファイルはゼロ。
「私の名前は、高村……杏子です」
 本当はキョウコなんだけど、この施設の皆にインプットされているのはアンコだ。
 だから少し迷ったけれど、告げたのはアンコの方。
「私は飯島未姫、と申します」
 私に続けて未姫さんもそう名乗れば、千咲ちゃんはようやく私達に目を向けて、幾つか瞬く。
 また暫しの思考の時間。
 千咲ちゃんが押し黙って動きを止めている姿を見ていると、昔のコンピューターを思い出す。
 老朽化したパソコンは、酷く動作が遅くなる。メモリも足りず、次の行動までに時間がかかる。
「高村杏子、飯島未姫――。二人は、千咲には、関わらない方が良い」
「どうして?」
「関係する必要が、ないから」
 消極的に淡々と告げられて、思わず言葉に詰まっていた。
 すぐに、「そんなことないよ」と否定しようとした――けれど。
「あれー千咲ちゃんだ。珍しい」
 と、背後から掛けられた声に遮られ、私の思いが言葉になることはなかった。
 振り向けば、物珍しそうな表情で私達の方へやってくる千景さんの姿。
「千景さん……こんにちは」
「おっす。二人も昼ご飯?」
 ぺこりと頭を下げる未姫さんと、千景さんを交互に見ていると、以前の二人の情事が思い出される。
 あの後、何もないのだろうか。普段通りに振舞っている二人を見る限り、その関係が壊れているようにも思えないけれど。
「千咲ちゃん、何やってんの?」
 千咲ちゃんのそばまで歩み寄っては、軽く身を屈めて問い掛ける千景さん。
 相変わらずしゃがみ込んだままの千咲ちゃんは、千景さんを見上げて小さく首を傾げていた。
 少しの間の後、「あ」と千景さんは思い出したように声を上げる。
「そういや、千咲ちゃんとは自己紹介もまだだったわね。私はこの施設の責任者をやってる、乾千景ってもんよ。千咲ちゃんとは今後も、色々関わっていくこと多いと思うから、覚えといてね」
「……関わっていく?」
「ん?そりゃ一応責任者だし。面倒見させてもらいます、ってか」
 千景ちゃんは明朗にそう告げて「宜しくねぇ」と軽く付け加えつつ、千咲ちゃんのそばから離れてクッキングマシーンの方へと向かって行った。千咲ちゃんの視線が、その後ろ姿を捉えていることなど気付かずに、千景ちゃんは鼻歌交じり。
 何も知らない人は気楽でいいなぁ、なんてこっそり思ったりして。
 かと言って、千咲ちゃんの秘密を知っている私と未姫さんがこれ以上何か出来るとも思えない。
 千咲ちゃんは、頑なに心を閉ざしているようにも見える。
「……未姫さん。私達もご飯作りに行こうか」
「あ、はい」
 そう促して、私達も千景さんの後を追った。
 ちらりと千咲ちゃんに目を向けると、収納棚の奥を見つめて、その奥に手を伸ばす姿が見えた。
 気にはなるんだけどなぁ、千咲ちゃんのこと。
 余り深く干渉しすぎるのは、相手にとって迷惑なのかもしれない。
 実際、千咲ちゃん自身があからさまに私達を拒絶しているのだから。
「千咲は十六夜を……」
 後ろで微かに聞こえた呟きは、クッキングマシーンが立てた音で掻き消されていた。
 もしこの時、千咲ちゃんの言葉を理解していれば、展開は全く違っていたはずなのに――。





 ポーン、と響いたインターフォンに、私―――珠十六夜―――はチラリと顔を上げた後、きりが良いところまでキーボードを弾いてしまおうと思った。最近は銀博士といつも一緒に過ごしている制御室だけれど、銀博士の方が研究優先、来客に対応するのは私の役目だ。
 けれど私の反応が遅れた隙に、
「作業を続けて構わぬぞ」
 と、銀博士がインターフォンに向かっていた。私は少し慌てて銀博士の姿を目で追った後、
「あ……ごめんなさい」
 小さく謝って、また作業を再開した。
 私が見つめるディスプレイには欧州のとある国の衛星画像が映っている。
 キーボードの矢印を移動させて、その各所を見て回った。
 リアルタイムの欧州の状況は、日本国以上に悲惨で、多くの建物が崩壊している。
 トンッ、とキーボードのボタンを押して、別の国のリアルタイム画像も表示する。
 こちらも、やはり悲惨な状況だ。
 二十年前の血の大晦日以来、日本国のみならず世界中で激しい災害が起こっていることは衆知の事実。
 だが、その災害が、ここ数日で更に激化している。
 この施設が拾ったデーターだけでも、ここ一週間以内だけで七ヶ国に及ぶ数の国で、震度七以上の地震を記録している。
 まるで、何かの予兆のようなデーターに、少しだけ恐怖感を煽られた。
 他の国の情報も見ておこうと思ってキーボードを操作しようとしたときにふと手が止まったのは、インターフォンから聞こえた声を耳にした所為。
『イザヨイ……十六夜は、いる?』
 振り向けば、インターフォンの画面に千咲の顔が映っていた。
「うむ。十六夜に用事か?」
『うん……』
 銀博士が私の方へと視線を向けるのを見て、「入れてやって下さい」と応えた。
 席を立って、入り口の方へ向かう。銀博士が開閉ボタンを押すのに合わせて、制御室の扉が開いた。
「十六夜」
 私の名を幼い声で呼びながら制御室へ足を踏み入れる千咲と、丁度手が空いたのか、作業に戻るでもなく私と千咲を見遣る銀博士。私を含めこの三人が時を共にすることは珍しいことだ。
 稀に千咲が制御室を訪れたときは、大抵銀博士は奥の機械室で作業中だった。
 私はちらりと銀博士に目を向けた後、千咲のそばに歩み寄る。
「どうしたのかしら……?何かあった?」
 千咲にそう問いかけながら、少し銀博士の存在を気に掛ける。
 銀博士にはまだ話していない。千咲が私の研究材料であり、機械がその身体に埋め込まれているということ。
 隠しているわけではない。ただ、その話を切り出すタイミングがなかっただけだ。
「身体の調子が良くない、みたい。診る必要が、ある?」
 機械的な口調で告げる千咲の言葉に、僅かに眉を顰めた。
 千咲自身すら自覚するほどの不調。今までになかったことだ。
 症状を問いかけようとして、ふと口を閉ざす。やはり銀博士に知られていない以上、彼女の前で話すのは憚られる。銀博士には今度改めて話すとして、今回は千咲と二人きりで状態を聞いた方が良いだろう。
「わかったわ。医務室にでも行きましょう」
 そう告げて、そっと千咲の肩に手を置いた。
 千咲は小さく頷いた後、ふっとその視線を私より奥へ――おそらく銀博士へと向ける。
「……いつも十六夜を占有してすまぬな?」
 千咲の視線を受けてか、銀博士はそんな言葉を紡いでいた。
 私と千咲が、保護者と子どもという関係であることは銀博士も知っている。
 十六夜を、と私の下の名を呼んだのには、ただ科学者同士としてではなく、プライベートでの関係も示唆しているのか。当然それを千咲が理解出来るはずはないのだが。
「美憂も、理解しているの」
 ぽつりと千咲が紡いだ言葉、私にはその意味がよく解らなかった。
「理解?……まぁとにかく、体調不良ならば安静にすることだな」
 銀博士も千咲の言葉を理解出来ていない様子だったが、さして気にすることもなく、そんな言葉を掛けた。
 私は千咲を促して、制御室の出入り口へと向かって行く。
 扉を開け、くぐろうとしたところで今一度銀博士へ目を向けるように千咲が振り向いた。
「――美憂には出来ないことが、千咲には出来るんだよ」
「え……?」
 思わず足を止める私を、今度は千咲が促して、制御室を後にした。
 音を立てて閉ざされる扉を背に、隣にいる千咲を見下ろす。
 身体の調子が良くない、と言っていた。けれどそれだけではないように感じるのは気の所為か。
 身体だけではなく、脳にも何か不具合が……?
「千咲。……美憂には出来ないことって?」
 身体の不具合よりも、そんな意味不明なことを口走った千咲に対しての疑問が勝っていた。
 問い掛ければ、千咲はトンッと大きく一歩を踏み出して、私の前を行く。
 ……やはり何かがおかしい。
 千咲は、こんな無駄な行動は行なわない。私の前ならば尚更だ。
 千咲は私に従順であらねばならない――千咲の研究を進める上で、暫定的に刷り込んでいたはずの行動。
「美憂だけじゃない。この施設の人間ならば、誰も出来ない」
 紡がれた言葉は、今まで聞いたことのない、響きが湛えられていた。
 聞いたことがない。だけど、当然の響き。
 ――そう、千咲にあるべきではない、人間的なもの。
 とんっ、と跳ねるように、千咲は振り向いた。
 その表情は、薄い笑み。
 ドクン、と、心音がまるで音を増したようだった。
 嫌な胸騒ぎ。
 思わず歩調を緩める私に、千咲はゆっくりと近づいた。
 ふっと表情を消してから、千咲は紡ぐ。
「十六夜にとっては不具合?それとも結果として、失敗?」
「……何の話?」
「千咲の――あたしの話」
 真っ直ぐに見据える瞳に、怯えている私がいた。
 一歩後退ってから、ちらりと後ろに目を遣った。制御室までの距離は十数メートル程。
「何かがおかしいと思い始めた。それを教えてくれたのは美憂。十六夜は千咲を占有する者だったはず。なのに十六夜は美憂に占有された。今まで片時も離れなかった十六夜が、千咲から離れていったことが、おそらくはきっかけなんだろうね。従順だったはずの千咲も、壊れてしまったみたいだよ」
「そ、れは……ッ」
「そしてあたしは復讐する。――あたしを壊した、十六夜に!」
 高らかと宣言した千咲に、ようやく事が尋常ではないことに気がついた。
 まずい、と数歩後退るも、千咲は軽やかに駆け、私へと詰め寄る。
 踵を返して制御室へと戻ろうとした、刹那、ドンッと身体に衝撃が走ってその場に崩れ落ちる。
 振り向こうとすれば、ぐっと体重を掛けられて、私はその場で仰向けになり、千咲に馬乗りにされていた。
「記憶が、戻ったの?貴女が事故に遭うまでの記憶が」
「事故?何のこと?そんなの知らないよ。あたしが思い出したのは、十六夜に対する憎しみだ」
「憎しみ、だけが……?」
 まずい。――これこそが、私が恐れていた事態なのかもしれない。
 千咲の状態はやはり完全ではない。
 そして私にとっては一番不利な部分だけが、千咲の中に芽生えてしまった。
 これは本来の記憶どころか、誤った認識だ。
 研究中、千咲は完全に眠っていたわけではない。
 深い眠りではなく、レム睡眠に近いものだ。
 レム睡眠中も、外界からの情報はその脳に流れ込む。
 私が千咲の身体を修復、或いは構築していたその過程を、千咲は知っている。
 ――けれど、千咲はそれを破壊と認識した。
「十六夜に与えるものはただ一つ」
 冷たく言い放った千咲が、ポケットから取り出したもの。
 ケースを投げ捨て、千咲はその手にぐっと握りしめた。
 鋭利な刃物。鈍く光る果物ナイフ。
「待ちなさい……私は、千咲を壊したんじゃなッ――!」
 そんな反論は、強引にねじ伏せられていた。
 楽しげに笑いながら、大きく振りかぶって。
 ヒュンッ、と空気を裂く音と共に、カーヴを描いて振り落された、凶器。
「――死ね!」
 ドン。
 鈍い音と同時に、腹部に冷たい感触がのめり込んでいた。
 現実感のない光景と、私を現実に引き戻すような激しい痛み。
 嘔吐感に咳き込めば、その度に痛みが増幅し、私を蝕んでいく。
 嘲笑うような声を聞きながら、意識が遠のいていく――刹那。
 ザムッ、と内部で聞こえた音と共に、引き裂くような痛みが腹部を襲った。
 その箇所に手を触れさせれば、服の生地の奥から湧き出してくる、生ぬるい液体の感触。
 一体、どこを刺されたか。ナイフを引き抜かれたことによって、多量の出血に見舞われる。
 体内の臓器類に損傷がなくとも、このままでは失血死に、至っ――……
 冷静に考えられるほどの余地は薄れていった。
 やがて私の上に乗っていた千咲が離れ、重力が減ると同時に、自らの身体も軽くなったように思えた。
 否、重力を重力と捉えることすら出来なくなった。
 とにかく、腹部に置いた手に感じる出血量が半端ではないことだけが、明らかだ。
 このままでは、まず、い。
 意識が薄れていく。
 視覚が途切れ、触覚も次第に消えていく。
 そんな中で微かに、聴覚だけが生きていた。
「……十六夜?――十六夜ッ!!」
 私を呼ぶ、その声は、美憂?
「な、何があった、十六夜?!……ッ、誰か!誰かおらぬか!!」
 美憂の声だ。
 もしこれが、最期ならば……
 その声を聞けただけでも、私は……。





 昼食時も過ぎて、施設の個室前の廊下は静かな空気が漂っていた。
 退屈しのぎには、食堂に集ってお喋りか、自室でお喋りか。
 そんなまったりした時間帯。
 私―――乾千景―――は楠森さんの様子でも覗いてみようかと、十三号室へのんびりと足を運んでいた。
 私と佳乃の部屋である一号室から、十三号室までの一直線ストレート。
 ニ〜十号室の扉を横目に見ながら歩む、少しの距離。
 いずれの部屋も、佳乃が主立って考えてくれた部屋割りで、全て二人ずつで埋まっている。
 二号室は十六夜さんと千咲ちゃんで、七号室は伊純と憐の悪人コンビ。
 三号室は遼と冴月のお子様コンビで、んー九号室は誰と誰だったかな。
 そんな思索に耽りながら廊下を歩いていた私は、少しの間、耳から入る情報を聞き流していた。
 ふと我に返った瞬間、背後から二つの靴音が近づいていることに気付く。
 一つは普通の足取りで、そしてもう一つは駆けているようなペースで。
 やがて近づいた気配にふっと、振り向い――……
「……な!?」
 パァンッ、と後ろから伸びた手が、もう一つの手を掴んでいた。
 一瞬、その状況が理解出来ず、私は目を丸めて言葉を失う。
 振りかぶった一つの手には、赤色のペンキのようなもので染まったナイフ。
 私の真後ろで掲げられたナイフは、振り下ろせば真っ直ぐに私の背中に突き刺さる角度だった。
「危ねぇぞバカ婦警!とんでもないガキがうろついてるっつーのに」
 そしてナイフを握った手の、その手首をぐっと握って食い止めてくれたのは、私に一喝した憐だった。
 いや、止めてくれた憐よりも、私はナイフを握ったその人物に驚いていた。
「ち、千咲ちゃん……?何でこんなこと!?」
 驚きの余りに大声で問う私には構わず、千咲ちゃんは後ろから千咲ちゃんを羽交い絞めにする憐に嫉視を向ける。憐はそんな視線を冷たくあしらい、軽々と千咲ちゃんが手にしたナイフを奪い上げた。
「このナイフについてんのは、珠十六夜の血だ。まだ被害者は一人だけ。……但し、珠は重症だ」
「な、……なにぃッ!?」
「なにぃ?じゃねぇよ、言ってんだろ、このガキはとんでもねぇやつだっつって」
 あの憐が珍しく真面目な顔をして告げる言葉で、ようやく事の重大さを理解する。
 憐が取り上げたナイフについた赤い血液こそが、その証拠のようにも思えた。
 千咲ちゃんを見下ろすと、今までの千咲ちゃんからは想像も出来ないような冷めた表情で、視線を落としていた。
「千咲ちゃん……どうして、そんなことするの?」
「十六夜は、あたしを壊した。だから今度はあたしが十六夜を壊す番だった」
「……。じゃ、どうして私にまで刃を向けるわけ?」
「乾千景。お前も、千咲に関わると言った。――つまり、あたしを壊すんだ」
 淡々とした口調で極端なことを告げる千咲ちゃんに、思わず言葉を失っていた。
 憐は私にナイフを差し出しながら「言ったろ?とんでもないって」と呆れたように漏らす。
 私はナイフを受け取り、半ば呆然で憐に拘束される千咲ちゃんを見つめていた。
「こら、バカ婦警。ぼけーっとしてる場合じゃねぇだろ。コイツはアタシに任せて、医務室に行ってやれ」
 憐の言葉でようやく我に返った私は、コクリと一つ頷いて、ちらりと手の中のナイフに目を遣る。
 幾分乾いてきているものの、まだ生々しく光沢を残すその血液に、一つ息を呑んで。
「わかった。頼んだわよ」
 一つ言い残し、二人に背を向けて廊下を駆け出す。
 最初の目的地であった十三号室を通過し、アップグレードで出来た新しい廊下を更に奥へ。
 医務室の前には、ぽつぽつと血痕が残っていた。それも、先日七緒ちゃんの吐血の際にみたようなちょっとしたもんじゃない。食堂の前の廊下から延々と続く血痕に、改めて事の重大さを認識しながら医務室の扉を開けた。
「おわ、ビックリした!」
「おぉ」
 扉を開けた瞬間、どーん、と鉢合わせしたのは伽世ちゃんだった。
 第一声こそ伽世ちゃんらしいものだったけど、すぐに伽世ちゃんは声を潜めて告げる。
「十六夜さんね、ちょっと、ヤバいみたい。出血量が半端じゃなくてね。ほら、柚里ちゃんって医療分野詳しかったでしょ?だからあの子呼びに行くところ」
「なるほど。……あ、待って、水散さんも呼んできて。医療じゃないけど、あの子も治癒に関しては秀でてる」
「おッ、了解」
 伽世ちゃんは軽く敬礼などして見せたが、はっとそんな状況じゃないことに気づいたか、急ぎ足で廊下へと駆けて行った。
 医務室の中へ入ると、冴月や遼、Minaと和葉ちゃんなど、事件とは関係のなさそうな面々が集っていた。
「皆、どうしてここに?」
 と誰にともなく問い掛ければ、トンッと腰掛けていた簡易ベッドから降り立って、Minaが告げる。
「見たでしょ?Dining hall前を通過した大出血。あれを辿ったのがあたしと和葉」
「で、美憂ちゃんのヘルプに応えて十六夜さんを一緒に運んだのがあたしとセナってわけ」
 続けて告げたのは遼だった。なるほど、確かに遼と冴月の服は血液で汚れていた。
 と、納得している場合でもない。
「十六夜さんは奥の医療ポットだよ」
 という冴月の言葉に「さんきゅ」と返して、奥へと進んだ。
 カーテンで仕切られた医療ポッドのフロア、軽くカーテンを捲って中を覗き見れば、プラスチックの透明の蓋に覆われたポットに寝かされている十六夜さんと、その傍らにつく銀さんの姿があった。
 私に気づいたように顔を上げた銀さんは、「乾か」と短く告げただけで、すぐに十六夜さんに目を戻す。
 それが入ってもOKという意味と捉えた私は、カーテンを開けて中に入っては、またカーテンを閉め直す。
「……幸い、致命傷ではなかった」
 ぽつりと零す銀さんの言葉は、ちっとも幸いそうに聞こえない。
 上体を裸にされて、腹部に生々しくパックリ開いた傷を覗かせる十六夜さんに目を向けながら、
「じゃあ他に問題が?」
 と問い掛けた。って、さっき伽世ちゃんも言ってたか。
「問題は失血だ。一先ず出血は止まったが……おそらく現在は出血性ショックの状態にあると思われる。十六夜の唇が白っぽくなっているだろう。更に体温も低下。現在ポット内の温度を上げて保温してある」
「……で、治せるの?」
 単刀直入に問い掛ければ、銀さんは少しの間を置いた後、ちらりと私を見上げた。
「私は白衣を着ておるが、残念ながら医者ではない。医学分野に秀でているわけでもない。だから私に、その判断は出来ぬのだ」
「ああ、それで柚里ちゃんを呼びに行かせてるってわけ」
「そういうことだ」
 頷きつつも、どこか悔しげな銀さん。真摯な眼差しで十六夜さんを見つめるその表情は、まるで恋人の看病をしているようにも見える。まぁ今はそんな詮索をしている場合じゃないんだけど。
「保科柚里、到着!」
「お、来た」
 相変わらずのテンションで到着を宣言する柚里ちゃんに、ちょっとだけ拍子抜けしてしまう。
 すぐにカーテンを開けてこちらへやってきた柚里ちゃんは、真剣な表情で十六夜さんの傷口を見つめては、すぐに踵を返してどこかへ行ってしまう。
「発見時の状況等の説明を願います」
 ごそごそと音を立てながら、柚里ちゃんはカーテンの向こうから問い掛けた。
「うむ。発見場所は制御室から十数メートルの廊下。刺し傷だが、刃物は見つかっていない。つまり発見当時、既に刃物は引き抜かれており、故に出血が激しく、直径三十センチほどの血だまりが出来ていた。その後、こちらへ移動する際にも出血をしており、現在は出血性ショックの状態に陥っていると推測する。因みに刺されてから発見までの時間は然程経っていないはずだ。十六夜が制御室を出て五分と経たぬうち、私が様子を見に行ったら廊下で横たわっている姿を発見した」
「はい、素晴らしい説明です。発見から今までの時間は?」
「まだ十五分も経っていない」
「宜しいです」
 銀さんと柚里ちゃんのやり取りの後、柚里ちゃんはまたカーテンを開けてこちらへと戻って来た。
 手早く羽織ったのだろう、手術着と手術用のゴム手袋。
 その手には、救急箱とその他医療器具と思われるものが抱えられていた。
 柚里ちゃんはポットの蓋を開け、十六夜さんの傷をまじまじと見つめる。
「位置からして臓器には至っていないと思われます。……が、傷の深さが解らないので、何とも言えない」
 思い悩むように柚里ちゃんが小首を傾げている姿に私は暫し沈黙して、ふと気付く。
「あ、これで解るんじゃない?ほら、血のついてる長さ」
 と、手にしていた果物ナイフを差し出した。さっき憐から預かったことを今まで忘れていた。
「……千景さん、何を出し惜しんでいたのですか。なるほど、この深さならば」
 柚里ちゃんはナイフを受け取って、その血液を見つめては、こくりと小さく頷いた。
 いや、別に出し惜しんでたわけじゃなくて忘れてたんだけど。
 すぐに柚里ちゃんは私にナイフを返し「証拠物品は、警察でお扱い下さい」と小さく言う。
 ふと、柚里ちゃんに言われてようやく気付いた。
 ――柚里ちゃんの言う通りだ。今回の件は立派な傷害罪。或いは、殺人未遂罪だ。
 十六夜さんの治療は柚里ちゃん達に任せて、私達警察は事件の捜査に当たらなければならない、か?
 と言っても、この事件の犯人は既に割れている。既に自供したようなものだ。
 『十六夜は、あたしを壊した。だから今度はあたしが十六夜を壊す番だった』
 改めて考えれば、本当に重大な事件なんだ。
 まさか、この施設の中から犯罪者が出るなんて。
 かといって千咲ちゃんを即逮捕するというわけには……。
 この治安の悪い世の中で、少年刑務所に引き渡すのも気が引ける。
 保護施設以上に安全な場所はないだろう。万一また災害で、刑務所にまで被害が及んで千咲ちゃんの命が奪われたりなどしたら。そう考えると、やはりこの施設内で解決すべき問題なのだろうか。
 しかし悪人を見て見ぬ振りなども出来ない。この場合、一体どうしたら……。
 そんなことを考えていたとき、また医務室の扉が開く音がした。
 水散さんが来たのだろうかと思った、その時、
「離せッ!あたしが壊ッ――」
 ガスン。
 喚くような声がしたかと思えば、突如訪れる沈黙。
 何事かとカーテンを捲って入り口の方を見れば、その場に崩れ落ちた千咲ちゃんと、握り拳を作った憐の姿。
 ついでに、どこかオロオロした様子を見せる水散さんも一緒のようだ。
 どうやら憐が暴力で千咲ちゃんを黙らせたらしい。気絶するほど強烈に殴ったのか。
「警察の目の前でそういう犯罪起こさないでってば……」
 思わず呟きつつ、気を失って憐に抱えられる千咲ちゃんと、十六夜さんとを交互に見遣る。
 本当に大問題だ。一体何をどうしろと言うのだろうか。思わずその場で頭を抱えていた。
 ――だけど。
 私はまだ知らなかった。
 本当の動乱はここから始まるのだと。
 この事件はまだ、動乱の発端に過ぎないのだ、と。





 十六夜を、医療ポットに寝かせてから一時間程が経過しただろうか。
 保科の的確な医療技術によって傷の縫合も終え、私―――銀美憂―――が一息ついたときだった。
「……お前らは、全員、あたしを壊そうとしてるのか」
 カーテンの向こうから聞こえたその声に、ちらりと保科と視線を交わした後、私はポットを離れてカーテンを捲った。簡易ベッドに身を横たえているのは、米倉千咲。それを囲むように幾人もの姿が見える。
 一先ず最初の騒動で集まった蓬莱や三宅、五十嵐や鬼塚は、服の洗濯やら昼食の再開やらで医務室を後にして行った。今米倉の周りにいるのは、乾、小向、蓮池の婦警三人と、騒動を聞きつけてやってきたらしい高村と飯島。更に治癒(?)とやらで呼び出されたがまだその役目を担ってはいない悠祈と、そして萩原。
 声を上げたのは米倉千咲。十六夜を傷つけた張本人だ。
 米倉はベッドから上体を起こすと、鋭い眼差しで囲んでいる七人を睨んで、更に言葉を続ける。
「あたしを壊そうとするヤツは、全員殺してやる!死ねばいいんだ!!」
 激したように喚く米倉に、言葉を返すのは高村杏子。
「千咲ちゃんを壊そうとする人なんて、ここにはいないよ。皆、千咲ちゃんのことだって仲間だと思ってるし」
「綺麗事なんかウザいだけだ!何が仲間だ。善人面して、どうせ最後には裏切るに決まってる!」
「そんなこと……」
「黙れ!!」
 聞く耳を持たない、とばかりに喚き続ける米倉に、立ち上がったのは保科だった。
 保科はカーテンを捲って米倉の方へ近づくと、
「先程あんなことがあったばり。精神的に昂ぶっているんだと。……精神安定剤を注射しましょう」
 淡々とそう告げては「注射は即効性だから」と短く付け加える。
 保科は冷静で、医療に関しての知識も非常に信頼出来る。
「それが良かろう」
 私も同意して、保科の後を追うように米倉に近づいた。
 米倉は、注射を用意する保科を横目で見ては、馬鹿馬鹿しいとばかりに蔑むような表情を浮かべる。
「無駄だよ。注射なんか効くわけがない」
 何故そう言いきれるのかが解らなかった。――数十秒後、までは。
 保科は注射を用意して、米倉のそばに近づく。「腕、出して」という言葉に、米倉は小さく笑んで言葉に従った。
 ぶかぶかの長袖の服を着た米倉。その服には十六夜の返り血も付着している。
 保科は注射をすべく、米倉の腕を取ってその袖を捲った。――そして、ふっと手を止める。
「……え」
 一同、ほぼ同時に息を呑んでいた。それは私も含めてだ。
「ちょっと待て。何だそれは」
「何、これ!?」
「うぇ、お前何者だ?」
 私と乾と萩原が、ほぼ同時に声を上げる。
 他の面々も声こそ上げずとも、驚いた表情を浮かべている。
 ただ高村と飯島だけは、その表情を崩すことはなかった。まるで、知っていたかのように。
 そう。そこには、人体にあるはずもない“接合部”が存在していた。
 私達の反応を楽しむように、米倉はクッと飲むような笑みを浮かべて言った。
「だから言った。あたしは十六夜に破壊されたんだ、って!これが立派な証拠だ」
 米倉が告げた言葉に、同時にかぶりを振ったのは高村と飯島だった。
「違うんだよ、破壊じゃないんだよ、それは……」
「十六夜さんは、千咲ちゃんのためを、想って……」
 と、フォローするように言う二人だったが、残念ながら米倉の耳には届かない。
 ガスン。先程と同じ方法で、萩原は米倉を黙らせていた。
「ったく、わけわかんねぇガキ。……お前ら、知ってたのか?」
 萩原は仰仰しくため息をついては、高村と飯島を見遣る。
 二人はちらりと視線を交わした後、頷きを見せていた。
 二人を代表して告げるのは高村だった。
「十六夜さんに、お聞きしたの。最初は私達も、千咲ちゃんって不思議な子だねって、そう思って。ただ好奇心だけで聞きに行ったのに……十六夜さんに聞かされたのは、千咲ちゃんが改造人間である、ってことで」
「か、か、改造人間……」
 現実味のない話である。乾なんか頭を抱えている始末だ。
 しかし私は他の面々とは別の意味で驚いていた。
 おそらく米倉を改造人間に仕立て上げたのは十六夜――否、敢えてここは珠博士と呼ぶべきだろう。その技術。いわば禁術に違いないが、認められれば大層なものである。科学界で脚光を浴びるのは間違いないだろう。
「十六夜さんは千咲ちゃんの命を救うために、修復をしたんだって言ってたよ。だから決して破壊じゃない。寧ろ逆のことなの、に……」
 高村が残念そうに言うのは、その言葉が米倉には届いていないからだろう。
 突然のことで、言葉を失う面々。そんな中でぽつりと、保科が呟いた。
「機械人形さん。……でもこの子には、心がある」
 保科は気絶している米倉の片腕を取って、その手首に指先を当てた。そして「血もね」と付け加えていた。
 先程の結合部があった腕ではなく、もう片方の腕だ。
 そうか、片腕は人工的なものかもしれないが、もう一方はまだ血も通っているのか。
 米倉は効かないと言っていた注射、だが保科は米倉の腕の部分をゴムチューブで括り、その注射の針先を米倉の腕に沈めていった。注入される液体と、僅かに逆流する血液。
 米倉の血液は赤色。当然のことなのに、それに驚いた表情を浮かべる者も数名。
「この注射を打つと、個人差もありますが、数時間は目を覚ましません」
 そう説明してから、保科は使い捨ての注射器を捨て、米倉のそばを離れて十六夜のところへ戻っていく。
 一人欠けてもやはり人口密度の高い米倉の周りで、皆は暫し沈黙した後、ぽつぽつと席を立ち始めた。
「千咲ちゃんも眠っているのならば、ね。これ以上私達に出来ることもないでしょう」
 婦警の一番お偉いさんでもある蓮池はそう言って、「会議開くわよ」と乾と小向に呼びかけ、医務室を後にしようとした。
 ――しかし。
「ちょっと待ったぁッ!!」
 と、響いた声に、皆一斉に振り向く。
 声を上げたのは、ポットを仕切るカーテンを開けて真摯な表情を浮かべている保科だった。
「どうした?」
 問うと、保科は「ゼハー」と一つ息を漏らしてから、早急に言葉を続けた。
「十六夜さんの病態が急変です。ポットの性能で何とかなるはずだったのですが、予定外に血液が足りません。このままでは出血性ショック死もありうる状況なのです。重症ではなく、重体です」
「なんだと!?」
 思わず問い返して、十六夜の元へ急ぐ。
 私が急いだからといってどうなるものでもない。相変わらず十六夜は、どこか白っぽい唇を閉ざして、意識を失っているだけだった。保科の判断はポットが表示する様々な値から読み取ったものなのだろう。
「どうすれば良い?」
 私が言葉を促すと、保科はこくんと一つ頷き、すぐに答えた。
「方法は一つ。――輸血をするしかないのです」
「輸血……」
 復唱する私を尻目に、保科はポットの操作部に指を伸ばし、ポット内の人物、つまり十六夜のデーターを表示した。そしてすぐさま、医務室にいる全員に告げるよう、声を張り上げた。
「AB型!いませんか?いないなら探して下さい、早急に。見つけたら即、医務室に連れてきて下さい!」
「AB!?また珍しい血液型じゃないの。……ここにはいない、わね?」
 乾は医務室の面々を見回して言った後、「よし」と一つ頷いて医務室の出入り口へ向かいながら告げる。
「全員、手分けしてAB型の人を探して!はい、モタモタしないッ!」
 上司にまでそう言いきって、一番に医務室を後にする乾。
 それを追うように、全員が医務室を後にし、急激に静かになる医務室内。
「銀さんは残って下さい。はぐれると困るから」
 そう言いつつ、保科は簡易ベッドのそばのゴミ箱を漁っていた。
「何をしているのだ?」
「さっき、千咲嬢に注射をした際、注射器に少し残った血液を調べるのです」
「ああ、なるほど」
 納得している隙に、保科はその注射器を探し出し、血液検査機へと向かった。
 米倉が十六夜の血液型と同じという可能性は低いが、もしそうならば皮肉な結果だ。
 自分が殺そうとした相手を、救うことになるのだからな。
 保科が操作する血液検査機を覗き込むが、保科はすぐに顔を上げ、小さく首を横に振った。
「残念、この子はO型」
「そうか。私もO型でな。……役に立てん」
「私はB型なのです。……Aが足りん」
 故意なのか知らぬが、私の口真似をするように深刻そうに告げる保科に、思わずため息を漏らした。
「とりあえず、輸血用のベッドを用意しましょう。ポットの隣に、この簡易ベッドを移動します。手伝って下さい」
「うむ」
 簡易ベッドの端をそれぞれ抱え、ポットのそばへと移動する道中、保科はこんなことを言い出した。
「保科柚里の豆知識」
「……なんだ?」
「日本国の血液型比率には傾向があります。Aが4、Oが3、Bが2、ABが1です」
「……私を絶望させたいのか?」
「逆です。十人に一人はABがいるのですよ。現在の滞在者数が二十五名。少なくとも二人はABです」
「……なるほど?」
「但し異国血統の混血もあり、あくまでも傾向でしかないということをご留意をば」
「……だからお前は、私を」
 言いかけたところで医務室の扉が開いて、飛び込んできたのは志水だった。
 志水は相変わらずもさもさとしたパーマを頭の後ろにくっつけた、少し飛んでいる感じの女であり、「一番乗りー!」と発言もやはり飛んでいる。――が。
「AB型探してるんだってね。千景ちゃんが全員ホールに集めてAB探しやってたのよ。でね、二人いたの、AB型!」
「……な、ッ」
 見事に的中した保科の推測に、私は思わず言葉を失っていた。
 保科は「ふふり」と、言葉で笑んだ。表情は相変わらず無表情だが。
「早速検査を。で、その二名は?」
 簡易ベッドを移動し終え、保科は採血用の注射器を用意しながら志水に問うた。
「一人目はあたし!二人目はその内来ると思う。マイペースな人だからねッ」
「では早速」
 医務室の隅のテーブルセットに志水を座らせ、保科は志水の服の袖を捲り――そして一瞬手を止めた。
 私も採血を傍観すべくそばに寄って、保科が手を止めた理由を察していた。
 そうすぐに解るものではないが――志水の腕に残る、幾つもの、痕。
 保科はすぐに手を動かし、ゴムチューブで志水の腕を括った上で、静かに注射針を近づいた。
「……志水?」
「ん、なに?」
 思わずぽつりと名を呼んでいたが、あっけらかんとした表情で問い返され、「いや」と言葉を濁す。
 採血する以前から、既に、志水の血液が不適合であることが察された。
 保科は手際よく志水から採血し、「そのガーゼ当てといて下さい」と私に言い残して血液検査機に向かった。
 指示された通り、白いガーゼを採血痕に当て、テープで固定する。
「……やっぱダメかなぁ」
 志水が苦笑いで告げたと同時に、血液検査機が音を立てた。
 少しの間を置いて、保科はどこか落胆したような口調で告げる。
「志水さん、不適合。……血液に異物が多すぎます。変なもの摂っちゃ、だめですよ」
「……ん」
 志水は相変わらずに苦笑いで、曖昧に頷いた。
 注射をする前から、幾つも見える注射痕。そして保科の異物という言葉。
 それが意味するところは明らかだが、今はそんなことを追及している場合ではないと判断した。
「それで、志水。もう一人というのは一体誰なのだ?」
「もう来ると思うんだけどなぁ」
 と志水が扉に目を向けたタイミングで、その扉が開いていた。「ほら来た」という志水の言葉に私も扉へ目を向けて――思わず問い掛けていた。
「な、何をしに来た!」
「何をとは何だ。呼び出しておいて」
 怪訝そうに返すのは――私が、この施設の中で最も相性が悪い人物だった。
 可愛川鈴。ま、まさかこやつがッ……。
「本当にお前がAB型なのか。私はてっきりAとかBとかC……いや、Oだと……」
「誰がCか。人間扱いくらいしろ。全く、礼儀を知らぬやつだな。そんなやつの頼みは聞き入れんぞ?」
「……う」
 腕を組んで見下ろすような可愛川に、思わず口を閉ざす。
 よく考えるのだ私。――可愛川こそが十六夜にとって唯一の、生命線なのだ。
 今は相手が馬鹿馬鹿しい職業だとか、そんなことを気にする場合ではないのだ。
 可愛川が善人とは思えぬ。だが、もうこやつにしか託せないッ……。
「す、すまなかった可愛川。謝罪する。本当にすまない。だから……頼むから、一生の願いだから、十六夜に血液を提供してやってくれ!」
 私はそう言って、深く頭を下げた。
 相手の姿が見えぬほど、深く深く。
 可愛川は暫し沈黙を守り、何も返さない。
 やっぱり、可愛川は……
「馬鹿め」
 コツン、と頭を小突かれて、私は顔を上げていた。
 可愛川は間近で私を見下ろしては、
「お前は何か勘違いをしておる」
 と、感情の篭らぬ声で告げた。
「勘、違い?」
 思わず怪訝に問い返せば、可愛川は、ふっと小さく笑みを見せていた。
 今まで見たことのない、その表情に、別の意味で言葉を失う。
「私は悪人ではないぞ。人の命を見す見す捨てて堪るものか。その役目、喜んで引き受けようぞ。血液が適合すれば良いな」
「あ、あぁ……ありがとう」
 なんだか拍子抜けして、気の抜けた声で返していた。
 可愛川と席を代わりながら、
「ライバル、遂に和解?!」
 とかなんとか言っている志水はこの際無視する。
 今は一刻も早く、可愛川の血液が適合するか否かを知りたかった。
 新しい注射器を手にやってきた保科が、可愛川の腕を取った。私は間近で採血の様子を見つめる。
 志水の腕とは違い、まっさらで綺麗な可愛川の腕に、細い針が刺さっていく。
 そしてゆっくりと、注射器の中に血液が流れ込む。
 可愛川は米倉以上に、血液が赤いことに驚きだな。まさかこやつが人間だったとは。
「珠の容態は、そんなに悪いのか」
 保科が血液検査機に向かい、二人残され、可愛川は私にそう問いかけた。
「あぁ。とにかく血液が不足している。輸血しなければ、命すら危うい」
「そんなにも、か。……どうでも良いが、誰か廊下の血痕を掃除すべきではないか?あれは見るからに」
 と、本当にどうでもいい話を可愛川がしていた時、先程も聞いた血液検査機の音を耳にし、私は思わず保科の方へと身体を向けていた。
 保科は血液検査機に向かい、じっとその機械を見つめている。……ま、まさか。
 やがてゆっくりとこちらを向いた保科は、相変わらず感情の読めぬ表情で、告げた。
「エクセレント。素晴らしい血液です。――つまり、適合」
「本当か!」
 その結果に歓声を上げていた。ちらりと可愛川を見遣ると、可愛川もどこか満足げに腕を組んで頷いた。
 これで、ようやく一安心だ。
 安堵に胸を撫で下ろし、小さく吐息を零す。
 保科は私達のそばへ歩み寄り、「輸血の説明を」と切り出した。
「今回の輸血は、はっきり言って時間が掛かります。量が量なので、可愛川さんにも点滴を打ちながら、ゆっくりでないと逆に可愛川さんの血液が足りなくなってしまう。宜しい、です?」
「ああ、構わぬぞ」
 しっかりと頷く可愛川の姿に、また安堵感が溢れ出していた。
 これで十六夜が救われる。
 これで――
 と、私の安堵感が続くのも、これまでだった。

 ビー ビー ビー !!

 突如鳴り響いた音に、私達は顔を見合わせる。
 それは警報にも似た音だ。
「なんだ、これは?」
 怪訝に問う可愛川に、返す言葉はない。ただ、事が尋常ではないことだけは明らかだった。
「制御室へ向かえば何か解るはずだ。失礼する!」
 私はそう言い残し、医務室を後にして制御室へと向けて駆けていた。
 道中、御園と蓮池に出くわす。
「美憂ちゃんも、この音の原因知らないんだね?」
「制御室に行けば、この音の示すところが解るでしょう!」
 二人もこの音の原因を探るべく、制御室へ向かっている途中のようだ。
 私達三人は制御室へと向かい、一斉に奥へと向かって行く。
 制御室に入れば、『機械室へ』と示すように、機械室へ向いた矢印が赤く点滅していた。
 そして機械室に足を踏み入れた瞬間、一斉に赤く点滅するランプに言葉を失った。
 中でも、一番大きなディスプレイに『DENGER』と危険を示す文字が表示されている。
「これは……災害予告だ」
 警報の示す意味を理解し、私は災害予報装置へと向かった。
 御園と蓮池も私のそばに近づいて、手元の画面を覗き込む。
 そこに、表示されていたのは――私達を絶望へと追い込む、予告であった。
「今日の、夜九時……大規模な地震が発生する」
「なんですって?でもまさか、この施設にまで危害が及ぶなんてことは」
 蓮池の言葉に、首を横に振った。考えが浅はかだ。
「もしこの施設が無事ならば、こんなに大袈裟に警報が鳴り響くはずはなかろう」
「じゃ、じゃあどうするんだ……」
 さすがの御園も、今回ばかりは焦った様子で呟いていた。
 絶望――……絶望、か。
 否。決して絶望と決め付けるわけにはいかぬな。
 私の祖父は、このような事態も見越して、この施設を作ったのかもしれぬ。
「詳細はこうだ。本日二十一時二十分、震度七強の地震が発生する。過去にこの近辺で、これほど大きな地震が起こったことはない。少なくともこの施設が出来てからの二十年は、最高で震度六弱だった。この施設は、震度六強の地震にしか耐えられない。――ついでに言うならば、地盤の変動で、おそらくこの施設はペシャンコになるだろう。それ故にこのような警告が出ている」
「……じゃあ、どうすれば良いの?渋谷が震源地なの?」
「いや、違う。おそらく東京市全域を襲う地震だ。逃げる場所は――」
「今から東京市内を出るなんて……」
 御園の言葉に、「難儀だな」と小さく頷いた後、私は災害予知装置を離れ別の装置に向かう。
 不安げについてくる二人に「案ずるな」と小さく告げた。
 そして私が向かった先は、この施設が危機に瀕した際に使うべく装置。
 操作をして、東京市の地図を表示する。その地図には、二つの点が記してある。
「希望は、ある。但しこの施設にいる全員が掴めるかどうかは解らぬ、希望だ」
「……どういうこと?」
 地図を見つめながら言葉を促す蓮池に、私は具体的な説明を始めた。
「これは見ての通り、東京市の縮尺地図だ。西側の点は、この渋谷の施設。そしてもう一つ、渋谷から東南に行ったところに点があるな。ここは――台場だ」
「お台場?あんなところに、何が?」
「この渋谷の施設そのものが、プロトタイプに過ぎなかったのだ」
 そう告げると、御園と蓮池は顔を見合わせた。
 「それって」と瞳に光を点して言葉を促す御園。
 そう、これこそが――
「台場にある施設こそが、私の祖父が残した本当の遺産。そして私達にとっては、最後の希望だ」
 そう言った私の言葉に、安堵したように御園が笑みを見せたのも、束の間。
 蓮池は地図を見つめて考え込んだ後、「確かに微妙だわ」と小さく呟いた。
「ここからお台場まで、普通に歩いて五時間……道路が崩れている箇所もあるでしょうから、六時間強は見ても良いかもしれない。そして今の時刻は間もなく三時。地震まで――約六時間半」
「そう言うことだ。だから早急にこの施設を出る必要がある」
「そうね。――って、待って、十六夜さんの輸血は」
 はっとしたように蓮池が告げた一言こそが、私を悩ませていることだった。
 輸血が終わるまで、少なくとも四時間は掛かる。今から四時間後は午後七時。とてもその時間に出発して台場まで二時間半で辿り付けるはずがない。
「蓮池。警察が使っていたパトカーやバイクはどうした?」
「……ごめんなさい。管理が甘かったから……破壊されていたわ、おそらく米軍に」
「そう、か」
 ため息混じりの相槌を打って、眉を寄せる。
 他に方法など見当たらないではないか。
 ――悩んでいても、仕方がない。
「蓮池、全館内に放送を入れておいてくれ。今すぐホールに集まって、そして出来る限り早く出発するのだ。私は医務室にいる保科達と相談をして来る」
「わかったわ」
 蓮池の短くも確実な返事を聞いて、私は急いで機械室、制御室を後にした。
 廊下には先程の事件の血痕が、まだ生々しく残っている。
 悪いが可愛川、この血痕を掃除している暇などなさそうだ。
 医務室までの廊下を駆けていると、館内放送の音が聞こえてきた。
『施設滞在者全員に緊急のお知らせです。本日午後九時二十分、東京市全域で大規模な地震が発生することが判明しました。お台場にある、新しい施設へと避難します。荷物をまとめて、早急にホールに集合して下さい。繰り返します――』
 簡潔なその放送を聞き終える頃には、医務室に到着していた。
 扉を開ければ、輸血中の二人のそばについていた保科が椅子を立って私を見る。
「今の放送の通りだ。台場までは歩いて少なくとも五時間かかる。保科、どうしたら良い?」
「非常に非常に、困ったことになりました、が。……今、輸血を止めるわけにはいかない」
 保科は真摯な表情で訥々と告げて、困ったように視線を落とした。
 ちらりと、部屋に据え付けられた時計を見る。三時一分前。
 ……方法など、殆ど見当たらないではないか。
 ならば、一番危険で、だけど全員の命を優先する方法を選ぶしか、ないだろう。
 死ぬかもしれない。この場にいる全員が。
 だけど――こうすることでしか、犠牲を出さずに済む方法が見つからない。
「全員が出発しても、私達は暫くここに残ろう」
「……暫く?」
「そうだ。ギリギリの時間まで、ここに留まる。―――しかし、輸血は途中で中止する」












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