抱き合う二人の女の姿が目の端に入っていた。
 廊下で、身を寄せ合うようにして、二人は何か会話を交わしている。
 でもあんなところで抱き合われても。逢引をされても困る。
 私―――逢坂七緒―――にとっては、単なる通行止めにしか感じられない。
 別段用事があったわけでもない。これは部屋に戻って大人しくしていろということだろう。
「……くだらない」
 小さく呟いて、私は踵を返す。
 人間ドラマ?恋愛感情?
 私には一切関係のないことだ。
 きっと私は一生を一人で過ごすのだろう。
 いずれこの施設からも出て行くつもりだし。
 別にそれで構わない。寧ろその方が好都合だ。
 一人の方が良い。
 ――否、戒斗(カイト)と二人きりの方が。
 私のそばにはいつも戒斗がいてくれる。
 だから私は生きていける。
 戒斗がいれば、それだけで……。

「……おや、もう戻って来たのか」
 部屋に戻って早々、掛けられた声に顔を挙げる。相部屋の可愛川鈴さんだ。
 確かに、「ちょっと出かけて来ます」とこの部屋を後にしてから五分も経っていない頃。
 ただ退屈だったから、部屋を後にしたのだけど。
 可愛川さんとも、余り話が合うようには思えないし。
「廊下を通せんぼされてしまったもので」
 短く返して、ふっと嘆息を零しながら私のベッドに腰を下ろす。
 この部屋に居ても、施設内をうろついても、退屈に大差はないだろう。
 持て余す時間。
 どさりとベッドに身を横たえ、二度目の溜息を零していた。
「逢坂、一つ気掛かりなことがあるのだが」
 不意に可愛川さんが、やけに真面目くさった口調で切り出した。
 身を起こす気にもなれず、視線だけを可愛川さんに向ける。
 可愛川さんは何やら怪しげな道具をベッドの上に広げ、それを整頓しながら言葉を続けていた。
「お主、死者に恨まれるような覚えはないか?」
「はい?」
 突飛な話に、思わず怪訝に問い返していた。
 可愛川さんが怪しい人だってのは薄々解ってたんだけど、面と向かってこんなことを言われると怪訝に思うのも当然だろう。
 確か最初の自己紹介の時、“陰陽師”などと名乗っていたか。
 怪しさ爆発の肩書きを聞いて、余りこの人には関わらない方が賢明だとは感じていた。
 しかし問いを掛けられた以上、言葉を返さないわけにもいかないだろう。
「別に……」
 素っ気なく返しては、少しの追憶に耽る。
 死者に恨まれる覚えなんて、はっきり言って数知れない。それは以前に行なっていた仕事柄。
 だけど死人にくちなしって言うじゃない。……戒斗は、別だけど。
「そうか。余計な危惧だったらすまない。この部屋に来て――逢坂と相部屋になってから、良からぬ霊気を感じるものでな。何か気になる点があったら、すぐに言って欲しい」
「はぁ……解りました」
 曖昧に返答を返し、彼女に気付かれないようにまた小さく溜息を零す。
 なんで私、こんな変な人と相部屋になっちゃったわけ?
 警察の部屋割りってやつを、少し恨まずにはいられない。
 誰も私に深く干渉しないで。どうせこの施設にいる期間なんてたかが知れているんだから。
 放っておいてよ。
 私と戒斗、二人だけの世界を邪魔しないでよ。
「……逢坂」
「まだ、何か」
 素っ気なく言葉を返し、私はベッドの上で身を縮めた。
 そんな時不意に、肩をぐっと掴まれてベッドに身体を沈められる。
 何を、と抵抗の言葉が出かけて、ふっと止まるのは、真っ直ぐに私を見据える眼差しの所為か。
 可愛川さんはじっと私を見つめた後、「失礼」と手を離して目を逸らした。
「今はまだ良いだろう。しかしいずれ、詳しく話を聞かせてもらうことになる」
「……そ、ですか」
 何なのよ、一体。うざったいなぁ。
 私の世界に半端に関わって来る人間なんて、全員排除してしまいたい。
 何の問題もないんだから。私は戒斗と二人で生きていくって、心に決めているんだから!





 ふんわりと、穏やかに流れていく時間の中で、愛しい人の面影を目で追いかける。
 相変わらず子どもっぽいんだから、と内心苦笑しながら、屈託のない笑みに小さく笑み返した。
 今は一人きりの部屋で、私―――三森優花―――はそっと手を伸ばす。
 触れるのは彼の体温。温かい、少年のようなその体温。
 一人ぼっちであるはずのこの部屋で、私がちっとも寂しいと感じないのは、
 彼が今でも、私のそばにいてくれるからだ。
 優しい彼はいつも私に微笑みかけて、時折その体温を私に触れさせる。
 彼の温もりが、彼の重力が、彼の優しさが今でもこんなにすぐそばにある。
 不思議なことだけど、私は、この現実が愛おしい。
 彼とは、いつか結ばれるのだから。
 私はとても幸せです。
 貴方と一緒だから――ねぇ、直瑠(ナオル)?

「ただいまぁ、っと。三森さーん、見て見て」
 部屋の扉が開いて、姿を現したのは相部屋の御園秋巴さん。
 どこか少年っぽい雰囲気を持つ彼女は、それとなく直瑠とも似た雰囲気があって好きなタイプ。
 勿論、浮気しようだなんて考えているわけじゃない。ただ相部屋の人物としては良かった、というだけで。
 秋巴さんはどこかはしゃいだ様子を見せて、「じゃーん」と握った拳を私に差し出した。
「何ですか……?」
 ベッドに腰掛けている私は、長身の秋巴さんを見上げながら問いかける。
 秋巴さんは小さく含み笑いを漏らした後で、「手ぇ出して」と悪戯っぽく促した。
「手?」
 そっと両手を差し出すと、秋巴さんは紳士的な態度で私の片手を取り、そしてそっと手の内を見せた。
 そこにあったのは、小さな指輪。
「備品室で遊んでたらね、いいもの見つけちゃった。誰かの忘れ物かもしれないけどねぇ」
 そう言いながら、秋巴さんは私の手に指輪を嵌めようとして、ふと動きを止める。
 不思議そうな眼差しの先には、私の左手の薬指に嵌められたマリッジリングがあった。
「……あり?先約入ってるの?」
 秋巴さんはきょとんとした表情で、私に問い掛ける。
「ええ、まぁ。それに秋巴さん、私なんかに指輪をプレゼントしちゃだめですよ。本命の人にあげてください」
「それが今は見当たらないから三森さんにあげようと思ったのになぁ」
 秋巴さんは残念そうに告げて、「先約ありなら、やめとこ」と手にした指輪をポケットに仕舞い込む。
 そんな秋巴さんの言葉に、思わず小さく笑みが漏れていた。
 先約かぁ。それならとっくの昔に入っている。残念だけどこの指輪だけは絶対に外せない。
 まだ、果せていない約束、だけど。
「三森さんって、もしかして既婚者だった?」
「いえ、そんなことないですよ。まだ独身です」
「じゃあ、その指輪は?恋人同士のラブラブの証ってやつぅ?」
「……恋人、というか。本物の婚約指輪です」
 そっと左手を右手で包み込みながら小さく告げると、秋巴さんはその目を丸くして私を見つめ、少し言葉に詰まっていた。あんまりつっこめる話ではないかもしれない。
「そう、だったんだ。婚約してるんだ……?」
 幾分控え目になった問いかけ。秋巴さんなりの気遣いなのだろう。
 私も余り上手く説明出来そうにないから、この指輪のことは深く触れて欲しくはなかった。
 言ったところで信じてもらえるはずもないだろう。
 既にこの世を去った人物であるはずなのに、その人物は今でも私のそばにいて。
 以前と変わらぬ様相で、お揃いの指輪を嵌めてくれている、なんて。
 でも、誰に理解してもらえなくても構わない。
 私にあるのは、直瑠がそばにいるというこの愛おしい現実だけなのだから。
 いつか結ばれると、愛を誓った人がそばにいる。私はそれだけで、十分に幸せだ。





「遼ちゃんと楠森さんのことは、柚里ちゃんと蓮池先輩に任せるとして……」
 どさりと、ベッドに腰を下ろしながら、佳乃は不意に切り出した。
 制服の上着を脱いだ私―――乾千景―――は、Yシャツのボタンを幾つか外しながら、
「ん。で、他に何か?」
 と佳乃の言葉を促した。
 遼の身を案じて、蓮池課長を交えてあれこれと論議した日の夜のこと。
 先程「報告に参りました」と私達の部屋を訪れた柚里ちゃんの言葉で、ようやく私と佳乃は安堵の吐息を零すことが出来た。
 意外や意外、不思議系の柚里ちゃんこそが遼の心を解きほぐすことの出来た人物だった。
 私はその報告に驚きながらも、内心嬉しくも感じていた。これで心配事が一つ減ることになる。
 楠森さんと遼の、元教師&生徒という関係の修復までには至っていないけれど、これは佳乃の言うように、柚里ちゃんと蓮池課長に任せておけば良い問題だろう。
 そうして少し気分が楽になった夜だったのだが、佳乃の表情は今一つ晴れていなかった。
「気になるのはね、三森さんと七緒さんのこと」
「あぁ、保護監察の必要があるっていう二人?」
 すっかり念頭から外れていたその二つの名前を耳にして、私は佳乃から視線を外しその二人の人物を思い浮かべる。実は私はこの二人のことをあまりよく知らない。蓮池課長と佳乃が渋谷署から連れてきた二人なのだけど、詳しいことはまだ聞いていなかった。
「千景、二人のこと書いてある書類読んだ?」
「……読んでない」
 そう言われてみれば、楠森さんも含め保護した三人、その経緯が書かれた書類のコピーを先程蓮池課長が届けてくれたんだったか。まだ目も通してないんだけど。
「やっぱりそうだと思ったぁ。もう、千景ってばたまに大雑把なんだから」
「ごめんごめん。楠森さん達のことで頭一杯だった」
 テーブルに置いてある書類を取りに行く佳乃に、一つ苦笑を返す。
 確かに佳乃の言う通り、大雑把なのは私の長所であり短所でもある。
 一つの仕事を確実に終わらせてから、次の仕事に向かうっていうのが私のスタイルでもあるんだけど、たまには息抜きってやつも必要だ。今夜は勝手にその休息の時間と決めていたのだが、佳乃はそれを許さない。
 佳乃は私のこと、仕事に一生懸命だとか言ってくれるけれど、佳乃だってそれは同じ。もしかしたら私以上に、佳乃は仕事に対して一生懸命かもしれない。私が私情を挟まない主義に対し、佳乃は私情たっぷりで仕事に取り組む。そんなんじゃ疲れちゃうんじゃない?って思う部分も否めないんだけど。
「はい、これ。三森さんと七緒さんとファイル」
 言って、佳乃が差し出す書類を受け取った。佳乃がまた私の隣に腰を下ろす様子を横目で見つつ、書類も斜め読みして「ふぅん」と小さく相槌を打った。
 三森優花、24歳。三年前に家族を亡くし、現在身内はおらず。精神病棟に入院していたが、病院の閉鎖に伴い保護に至る。
 逢坂七緒、18歳。家族は行方不明。2100年12月、少年院から出所。半年間の監察期間中の為、保護に至る。
「精神病患者と、少年院上がりねぇ。で、どういうふうに心配なのかな?」
 少し偉そうに佳乃に問い掛けてみた。この書類に簡単に綴られている内容だけでは、二人の問題を把握することは出来ない。制服のブレザーのボタンを外していた佳乃は、「うーん」と一つ唸ってから手を止める。
「私もそれ以上詳しいことはよくわかんないの。七緒さんに関しては、どういう罪状で少年院に入ったかもわからない。しっかりしてる子だとは思うんだけどね」
「確かに、したたかそうな子よね。蓮池課長に聞いたら罪状もわかるんじゃない?」
 軽く返す私を他所に、佳乃の視線は七緒ちゃんのファイルではなく、その隣の三森さんのファイルに注がれていた。「コッチ?」と三森さんのファイルを佳乃に差し出しながら問い掛ける。
「……うん。千景は気付いてないと思うけど、三森さんの左手の薬指に指輪が嵌めてあるの。気にならない?」
「婚約指輪ってこと?いいじゃん、お幸せで何より」
「鈍いなぁ」
 む。佳乃に鈍いとか言われるとちょっと心外だぞ。
 佳乃は「うーん」と首を捻りながら、手にした三森さんのファイルを凝視する。
「婚約者がいるんなら、保護される必要なんかないんじゃないかな?」
「……それもそっか。その婚約者がどこで何してるかが問題ね」
「それは……多分」
 と、佳乃は何かを言いかけて、口篭る。
 続きを促すように佳乃へと目を向ければ、佳乃は言い辛そうに言葉を続けた。
「もう、いない。それがどういう意味かは、わからないけど。相手はいないのに、あんなにも幸せそうな三森さん」
「いない?振られたってこと?」
「わかんないよ。わかんないけど、ただ……嫌な予感がする」
 不安げに告げる佳乃に、私は少し沈黙して三森さんのファイルへと目を向けた。
 三森さんに関しても、どういった精神病で入院していたのかは明らかになっていない。
 嫌な予感、ね。
 まぁこういうのは、もうちっと詮索しないと進まない問題だと思うし。
「じゃあ、本人に少し話を聞いてみる必要がありそうね」
「うん」
 私の提案に、すぐさまコクリと頷いて見せる佳乃。
 そんな様子に少し思案してから、バンッ、と佳乃の背を叩いた。
「でもこういうの私苦手だから!任せた!」
「うぇ、私!?……ま、任されたっっ?」
 若干疑問系ながら、任されたと言い切った以上、三森さんの問題は佳乃に一任ということにする。
 私はこういうメンタル的な問題ってどうも苦手だ。
 悪人を相手にしてる方がよっぽど気分も楽というもの。
 そういう意味では、私が担当するのは七緒ちゃんってことになりそうだけど。
「佳乃は三森さん担当。私は、七緒ちゃんに関して探ってみるから。それで良いでしょ?」
 軽い口調で投げ掛けつつ、ベッドサイドテーブルの時計に目を向ける。既に23:38を示すデジタル表示に、一つ吐息を漏らしてベッドから立ち上がる。
「反論があればまた明日。今日は疲れたからこれで終り!」
「う、うん、いいけど……」
 相変わらずファイルに目を落とす佳乃に、ふっと苦笑して。
 仕事バカなのはどっちだ、って話よね。それが佳乃の良い所でもあるんだけどね。
 とにかく本日のお仕事は終了だ。
 私は一日の疲れを洗い流すべく、佳乃を残して浴室へと入っていった。





「一体いつまで、こんな閉鎖された場所に居なきゃいけないの……」
 今日も今日とで、溜息を漏らしながら廊下を歩く。
 やっぱりこの施設はどうも性に合わないようだ。部屋にすらプライバシーもあったものじゃない。
 余計な詮索を入れてくる可愛川さんと相部屋では、特にそう感じるのかもしれない。
 彼女と一緒じゃ、戒斗との幸せな時間すらも、意のままに割くことが出来ない。
 こんなことなら、まだ少年院の個室に入れられていた頃の方がよっぽどましだ。
 そんなことを考えながら廊下を歩いていた私―――逢坂七緒―――は、ふと、足を止めた。
 周囲を見回せば、人影はない。時刻は丁度お昼頃、面々は食事でも取っている頃だろうか。
 こんなチャンスを逃す術はないと、私は普段服の下に隠しているペンダントをそっと取り出した。
 十字架を模ったペンダントに触れながら、廊下の壁に背を寄せて、静かに目を瞑る。
 ――戒斗、聞こえる?私の声が聞こえる?
 もしそばにいるなら、返事を頂戴。やっと貴方と会える隙を見つけたの。
 と、脳内で語りかけるように念を送ると、いつも決まって戒斗の声が返って来る。
 それはきっと、私の脳内だけで響くもの。
 戒斗はこうして二人きりの時だけ、私のそばに降りて来る。
 けれど、今日に限って、幾ら呼びかけても戒斗の声が返って来ることはなかった。
「戒斗……?」
 不安になって小さく呼びかけ、返答を待った。
 何故、今日は降りてきてくれないの?
 考えられる理由なんて数少ない。戒斗に都合なんて無いはずだし、としたら他に考えられるのは――
「七緒ちゃん?何してるの?」
「ッ!」
 これか。
 戒斗が降りてこないのは、邪魔者が近づいている時。
 戒斗に呼びかけていたから気付かなかった。
 いつの間にか、私のそばまで歩み寄っている人物の存在に。
 警察の制服に身を包んだ女。渋谷署から同行した二人とは別人だ。
 この女、確か乾千景とか言ったか。何にせよ警察の人間だから、信頼に値しないのは当然だけど。
「何でもないです」
 簡潔に言い切って、彼女の横を通り過ぎようとした。
 その時不意に、とん、と肩に手を置かれ、私はその場に立ち止まる。
 ちらりと目を向ければ、千景さんは私をその場に留めたまま、軽い笑みを投げ掛けていた。
「綺麗なペンダント、付けてるのね。恋人からのプレゼント?」
「……ええ、まぁ。恋人の遺品と言った方が正しいでしょうけど」
「遺品、ね。そんなに大切そうにしてるってことは、今でもその恋人のことが好きなんだ?」
 可愛川さんとは別のタイプだが、この女も私を詮索しようとしているのか。
 遠回しな言い方ではあるが、警察の人間特有の鋭い眼光が私を捉えている。
 更正して少年院から出所した今になって、一体何を詮索するつもりなのかは知らないけれど。
「関係、ないでしょう?私が誰を想っていようと、それを貴女にお話する筋合いはありません」
 きっぱりと言い切って彼女を振り切ろうとしたが、肩に置かれた手に軽く力を込められて、私は軽く後退っていた。千景さんは行動とは裏腹に、「まぁまぁ」と宥めるような口調で言って言葉を続ける。
「七緒ちゃんの場合、まだ人生長いんだからさ。昔の恋人に縋るような真似はしない方が賢明だと思うけどなぁ。七緒ちゃんなら、そのぐらい解ってるかな?」
「……だから、そのお言葉が余計だということが理解出来ませんか?」
 思わず苛立った口調で返せば、千景さんは薄い笑みを浮かべて私から目を逸らす。
「ごめんね。この歳になると、余計なお節介焼きたくなっちゃうもんなのよ。でもね、この歳だから解ることってのもあるの。七緒ちゃんはまだ十八だから、過去の恋愛を引きずっちゃうのも解らなくはないけど」
「私は貴女みたいな大人にはなりたくない。恋人が死んだら、それで恋は終わりなんですか?第一戒斗は過去の人なんかじゃッ……!」
 ――あ。
 一瞬、冷静さを忘れて零れた言葉に後悔が過ぎる。
 同時に、鋭さを秘めた眼光が私を見遣るその姿に気付いていた。
「カイト。七緒ちゃんの恋人の名前ね。覚えとこ」
 一番触れられたくないところを、ずけずけと口にする千景さんに、私は小さく歯噛みしてその手を振り切った。
 今度は先程と違い、するりとあっさり解けた手。
 まるで証拠を掴んだかのように、千景さんは小さな笑みを浮かべる。
 そんな姿を一視してから、私はすぐに彼女に背を向け早足にその場を後にした。
 一体何なの。戒斗のことなんか詮索して、何の意味があるの。
 とにかくこの人には関わるべきじゃない。これ以上詮索される訳にはいかない。
 戒斗は私だけのもの。誰にも、その存在を教えたりなんかするものか。





「乾、今この辺に逢坂がいなかったか?」
「へ?なんでわかるの?」
 七緒ちゃんとほぼ入れ違いで、足早に廊下を歩んできた人物。
 その人物が口にする名前に、私―――乾千景―――はまるで先程のシーンを見透かされていたようで、内心驚いていた。といってもこの人物ならありえないこともないだろう。人知を超えた能力を手にしたこの人ならば。
「可愛川さんも、七緒ちゃんに用事?」
「ああ。前々から気にしてはおったのだがな、つい先程になって今まで無いほどの大きな霊力を感じた。発生源は逢坂と見て間違いないだろう。して、逢坂はどの方向へ?」
 可愛川さんは急いでいるといった様子で早口に告げた後、既に歩き出しながら私に問い掛ける。
 私は慌てて可愛川さんの後を追いかけながら言った。
「多分、食堂の方。私も七緒ちゃんのこと気にしてるんだけど、ついてっても良い?」
「構わん。但し気性の荒い娘ゆえ、何を言われるかは解らぬぞ?」
「大丈夫だって。たった今、思いっきり突き放されたばっかりだし」
 そんなことを返しながら、ホールを通り過ぎ、私達は食堂の方へと向かって行く。
 昔の恋人に、強い霊力に。七緒ちゃんはどうやら、ただの少年院上がりの女の子って訳じゃなさそうね。
 まだ蓮池課長に会ってないから、七緒ちゃんの罪状については聞いていないんだけど。
 とりあえずこうして可愛川さんについて行けば、更に解ることもあるだろう。
「おおさ、か……?」
 食堂に入って早々、可愛川さんはその凛とした声で七緒ちゃんを呼びつけようとしたが、最後の方は疑問系になっていた。広々とした食堂内、佳乃や伽世ちゃんを含め何人かが食事を取っている姿は見えるものの、そこに七緒ちゃんの姿はなかった。私達の姿にきょとんとしている伽世ちゃんを捕まえて、問い掛けた。
「伽世ちゃん、今七緒ちゃんが食堂に来なかった?」
「うんにゃ、今日は見てないし、食堂にも来てないよ。あたし、廊下の方見てたけど、食堂の前を通り過ぎてすらいないし」
「あれ?」
 伽世ちゃんの返答に、私と可愛川さんは顔を見合わせる。
 食堂に来ていないとしたら、一体どこへ消えたのか。
 七緒ちゃんが制御室の方に向かうとは考えづらい。まさか、さっきの私に怒ってこの施設から出て行った?
「ヤバい、かも」
 私がぽつりと告げたとほぼ同時に、可愛川さんは踵を返し今来た道を戻っていく。
 てっきり施設の出入り口へ向かうものと思ったけれど、それ以前でふっと可愛川さんは足を止めていた。
 場所は洗濯室の扉の前の廊下。
「……乾、これを見ろ」
 低い声で可愛川さんが指し示す先は、廊下のフロア。
 気づき難い位置に、ぽつりぽつりと落ちている液体。
 それは白い廊下で際立つ、赤い血痕。
「血?どうしてこんな所に?」
「この中か!」
 この血痕が七緒ちゃんのものとは考えもしなかった。だってついさっきまで、あんなにも気丈に私に言い返していた七緒ちゃんが突然血を流すことになるなんて考え難い。
 けれど可愛川さんは確信したような口調で言って、洗濯室の扉を開け放った。
「七緒、ちゃん……?」
 洗濯室は、幾つかの洗濯機が置いてあるだけの簡素な空間。
 その中にも、七緒ちゃんの姿は見当たらなかった。
 代わりに、点々と落ちた血痕が奥の扉へと続いている。
 洗濯室は、衣服室にも繋がっているんだ。
 可愛川さんは今度は言葉無く、真っ直ぐに衣服室へ続く扉へ向かい、またその扉を開け放った。
 衣服室は、洗濯室と違って部屋中に衣服が掛けられた見通しの悪い部屋。
 だけど、可愛川さんが扉を開けた瞬間に、部屋のどこかで人の気配がした。
「……逢坂。居るのは解っている。早く姿を現せ」
 衣服室にも先程の血痕が続いていた。それが人物の居場所を示している。
 慎重な足取りで血痕の後を追いかけていると不意に、「ゲホッ」と咳き込むような声が部屋の奥から聞こえた。
「七緒ちゃん!?」
「来ないで……!」
 私が少し慌てて足を速めたと同時に、聞こえてきたのは拒絶の声。
 可愛川さんの確信通り、その声は七緒ちゃんのものだった。
「来る来ないの問題じゃないでしょ、怪我してるんじゃないの?」
 そんな私の問いに被せるように、すっと可愛川さんが一歩前へ踏み出した。
「その吐血、霊の仕業だな?」
「と……」
 吐血!?
 思わず問い返す言葉が出かけ、慌てて口を紡ぐ。
 いつもになく、否、いつも以上に厳しい表情で可愛川さんは部屋の奥へ向かって行く。
 その後を追いかければ、やがて黒衣に身を包んだ少女の姿が目に映った。
 衣服室の隅で膝をついて、苦しげに顔を伏せている少女。
 その手や口元には、血液がべったりと付着していた。
 七緒ちゃんはちらりと視線だけを私達に向けた後、手の甲で口元を拭って小さく息を吐く。
「どういうことよ……」
 思わず小さく呟く私に、答えをくれたのは七緒ちゃん当人ではなく、可愛川さんだった。
「逢坂に取り憑いているのは悪霊だ。故に逢坂を苦しめ、亡き者にしようと企んでいる。違うか、逢坂!」
 最後の言葉は七緒ちゃんに言い放つようなもの。
 七緒ちゃんは壁に手をついて、ゆらりとその場から立ち上がる。しかしまた小さく咳き込むと同時に、バランスを崩してそばの壁に身を凭れていた。
「何が、悪霊ですか……戒斗のことを言っているの?」
 薄い笑みを伴って告げられた言葉で、二つのキーワードが交差する。
 昔の恋人。そして悪霊。
 つまり可愛川さんは、七緒ちゃんの昔の恋人が、悪霊だって言ってるわけ?
「戒斗?それが霊の名か。心当たりがあるのだな、逢坂」
「心当たりも、何も……」
 訥々と喋っていた七緒ちゃんが、不意にその剣幕を強めたのは可愛川さんが一歩七緒ちゃんの方へと足を踏み出した時だった。七緒ちゃんは言葉を途切れさせ、キッと鋭い眼差しを私達に向けてから、叫ぶ。
「来ないで!!」
 部屋中に響くような声に、さすがの可愛川さんも動きを止めた。
 七緒ちゃんはまた小さく咳き込んでは、その顎に血の雫を滴らせながら告げる。
「私から戒斗を奪わないで。私達は、愛し合っているのよ?どうして、それを引き裂く真似なんか」
「愛し合っている?馬鹿なことを言うな。悪霊を相手に」
「悪霊なんかじゃない!戒斗だって昔は、人間だった……!」
「故に庇うか。しかし逢坂」
 諭すような可愛川さんの言葉にも、七緒ちゃんは聞く耳を持っていない様子だった。
 胸元に垂らした十字架のペンダントを握りしめ、七緒ちゃんは一方的に言いつけた。
 信じられないような、事実を。
「愛し合っていた……誰にも引き裂けない愛だったのよ。だから、私が、戒斗を殺した」
「……殺、した?」
「そう。だから永遠に戒斗は私のもの。もう誰にも触れさせはしない」
 淡々と告げた後、七緒ちゃんはすっとその目を細めて見せた。
 笑んでいるようにも見えるし、そうでないようにも見えた。
 ガクン、と七緒ちゃんはその場に崩れ落ちる。
 視線を落とし、血が散ったフロアに座り込んだまま、七緒ちゃんは呟くように告げた。
「……戒斗がいないと、私……生きてゆけない……」





「私のフィアンセ……ですか?」
 食堂で、一人昼食を取っていたとき、私―――三森優花―――の向かいの席を陣取った佳乃さん。
 最初は他愛もない話をしていたけれど、不意に彼女は視線を気にするように辺りを見回した後、抑えた声で小さく問い掛けた。「三森さんのフィアンセさんのこと、少し聞いてもいい?」
 突然の問いに私は瞬いて、佳乃さんを見つめた。佳乃さんは真剣そうな眼差しで私を見ては、ふっとその視線を落として言葉を続けた。
「聞き難いことだけど。その彼は今、……なんていうか」
 口篭る佳乃さんを前に、少しの葛藤に苛まれる。
 彼のことを、話すべきか否か。
 少し悩んだけれど、ふっと私を見つめる真剣な眼差しに気が付いた。
 佳乃さんは警察の方でもあるし、渋谷署で出会った頃から何かと優しくして頂いた。
 それに佳乃さんは警察の方だからこそ、あまり隠し事をするのも良くないと思った。
 信頼に値する人物だと思っているし、彼女ならば本当のことを話しても多分馬鹿にはしない。
「……佳乃さんが言いたいことは解ります。私だって解っているんです、……彼が死んだことぐらいは」
「死……?そうだったんですか?」
 僅かに目を見開いて問い返す佳乃さんに、私も少し驚いていた。
 警察の方だから、ある程度の事のあらましはご存知なのだと思っていた。
 病院でも話したことだった。だけど佳乃さんにまでは伝わっていなかったか。
「知らなかったんですね。なら、何故彼のことを?」
「“もういない”としか、聞いてなかったの。でも、三森さんは今でもその婚約指輪を嵌めてる。だから気になって」
「なるほど」
 箸を手にした、私の利き手でもある左手に目を落とす。
 確かにここには、“もういない”はずの彼との絆が、今でも輝いている。
 かたん、と箸をトレイに落として、私は右手できゅっと左手を握り締めた。
 微かな不安感に襲われたとき、こうして彼との約束である指輪に触れる。
 そうすれば幾分、気分も落ち着くような気がしていた。
 気を落ち着けて数秒。私は静かに口を開く。あくまでも冷静に、事実だけを述べよう。
 真っ直ぐに見つめてくれる瞳に応えるように。
「……同じことですね。もういない人と、何故結ばれるのか。そう問いたいんですよね?確かに彼は死にました。爆発事故に巻き込まれて、一瞬だったそうです」
「そうだったんだ……。それで、その」
「死んだはずの彼が、何故今も私のそばにいるのかは解りません。だけど、存在しているんです」
 淡々と言葉を告げると、佳乃さんは不安げにその瞳を揺らしていた。
 馬鹿にはしないけれど、彼女にとっても理解し難い話には違いないだろう。
 だけど私自身、これ以上どう説明して良いのかが解らない。ただ存在している、それが事実なのだから。
「じゃあ、聞いてもいい?」
 少しの沈黙を置いてから、佳乃さんは控え目な声のトーンで投げ掛けた。
 また辺りを気遣うように視線を少し巡らせた後、ぽつりと、彼女が放つ問い。
「……その彼はどこに存在しているの?」
 核心を突くようなその問いかけに、私はふっと小さく吐息を零す。
 やはり理解してもらえないかもしれない。私の紡ぐ言葉など戯言にしか聞こえないかもしれない。
 蔑まれても仕方がないことだと自身に言い聞かせ、そして私は言葉を返す。
「佳乃さんにも見えないんですね。ここにいる、彼の姿が」
「……!?ここって?今もその人はここにいるの?」
「はい。ここに。彼はいつも、私のすぐそばに」
 信じられないとばかりに私を見つめる丸い瞳。その視線が耐えられず、私はすっと目を伏せる。
 信頼を寄せていた佳乃さんにすら見放されてしまったら、正直なところ辛い部分がある。
 だけど、私は。
 彼を裏切るような真似だけは、絶対に出来ないから。
「理解して頂かなくてもいいんです。私は、彼がそばにいる、その現実だけで幸せだから」
「……三森さん」
 どこか苦しげに、私の名を呼ぶその声。
 理解されない。理解してもらえない。彼の存在を否定されてしまう。
 それだけが少し怖くて、耳を塞ぎたかった。
「私は、一体どうしたらいい?」
 だけど投げ掛けられた問いは、私を気遣うような優しいもの。
 視線を上げて佳乃さんを見れば、彼女はどこか表情を曇らせながらも、真っ直ぐに私を見つめる。
 あぁ、私の目の前にいる人は、やっぱり優しい人なんだ。
 こんな私のために、まだ何かしようとしてくれている。
 私は彼女に感謝したい。
 だけど、方法が解らない。
「私のことは、放っておけばいいんです。彼と二人きりにして頂ければ、それで……」 
 結局、突き放すような言葉しか出なかった。
 どこか悲しげな表情を浮かべる佳乃さんに、「ごめんなさい」と小さく呟いた。
 私は、直瑠の存在を守るためならば、全ての存在を拒絶する覚悟もある。
 佳乃さんのような優しい存在すらも、拒絶して、突き放して、そして直瑠と二人の世界を貫きたい。
 罪なことなのかもしれない。だけど私は、直瑠だけは裏切れない。
 こんなにも愛してやまない人なのだから。
「彼とのことに、これ以上関わらないで」
「……」
 沈黙する佳乃さんを置いて、私はガタンと席を立つ。
 これ以上、佳乃さんの悲しげな沈黙を聞くことも耐え難いことだった。
 折角理解しようとしてくれたのに。それなのに、私はこんなことしか言えない。
 せめてもの謝罪を、と。最後にもう一度呟いて、私は佳乃さんに背を向けた。
「……ごめんなさい」





「もう手を打ってくれていたのね……二人共、いえ、可愛川さんも含めて三人共、ありがとう」
 それぞれの報告を受けて、私―――蓮池式部―――は苦笑混じりに礼を告げた。
 謙遜のような姿勢を見せる三人を横目に、今回の問題について頭の中で整理する。
 私が渋谷署にて保護していた三人。その内の一人である楠森さんに関しては、保科さんに治療の方を一任するということで一先ず話は落ち着いていた。そして残る二人、逢坂さんと三森さんのこと。
 時が来れば乾ちゃんと小向にも話すつもりだったけれど、予想よりも早く時は訪れ、そしてそれに対して二人は既に手を打ってくれた後だった。特に逢坂さんに関しては、可愛川さんにも感謝しなければならない。
 気を失った逢坂さんをベッドで寝かせ、私達は部屋の隅のテーブルを囲んで簡単な会議を開いていた。
 ここはいつもの会議場所である乾ちゃん達の部屋ではなく、十号室、可愛川さんの逢坂さんの部屋である。
 楠森さんと相部屋の自室にて今後のことを考えていたときに、ドアをノックしたのは乾ちゃんだった。そして彼女に連れられて向かった先が、この部屋。偶然私に報告に来ていた小向も交えて、急遽会議を開くことになった。逢坂さんの件で深く関連性があると見られる可愛川さんも含め、四人での会議だった。
「まずは逢坂さんの件から話しましょうか」
 私が切り出すと、可愛川さんと乾ちゃんが真っ直ぐに私を注視する。小向は気遣うようにベッドに横になった逢坂さんをちらりと見遣った後で、ワンテンポ遅れて私に目を向ける。
「彼女が言う、戒斗という人物に関しては警察側にも情報が入っていない。霊魂云々も当然警察の情報には出てこないわ。だからこちらで解っていることだけ、教えておきましょうね」
 乾ちゃん達にコピーを渡した書類を広げながら告げる。この書類には、重要なことは書いていない。故に乾ちゃん達も状況把握に戸惑ったことだろう。私はペンを取り出して、今から告げる情報を書類に追記の形で書き記しておくことにした。
「逢坂七緒さん、十八歳。少年院を出所とあるけれど、そこのところをもう少し詳しく話しておくわ」
 興味深げに私の話に聞き入る乾ちゃんと可愛川さんにそれぞれ視線を向けてから、一息ついて、言葉を続けた。余り大きな声で話せる内容ではない。故に、少しだけ声のトーンを落とした。
「彼女の罪状は、売春法違反幇助。実刑としてはそこまで重たいものではないの。……当然、殺人でもない」
「殺人ではない?では、一体何の罪だというのだ?」
 怪訝そうに問い返す可愛川さんに、私は一つ頷いて言葉を続ける。
「逢坂さんはね、とある男の補助という役割を担っていた。その男こそが売春法違反として捕まった主犯でもあるの。売春法と言っているけれど、具体的には――人身売買を行なっていた」
「じ、んしん売買……?」
 僅かに上擦った声で小向が復唱する。
 人身売買。それは闇ルートで、人間を物のように売り買いする商売。
 売買されるのは若い女性であることが多いのだが、逢坂さんの場合は違った。
「逢坂の場合は、少年の売買を専門に取り扱っている男の元で働いていた。だから逢坂さん自身は無事だったのかもしれないけれど、ね」
 彼女の自供によると、逢坂さんは主犯の男に育てられた、いわば義理の親子のような存在だった。だから逢坂さんも男の仕事を手伝わざるを得ない状況下にあった。もしも主犯の男が、少年専売ではなかったら、逢坂さんかて危うい状況だったのだろう。彼女のように綺麗な少女が、売買のターゲットにならないはずはない。
「そうして、逢坂さんは幼い頃から主犯の男の補佐として働いていた。しかし主犯の男は逮捕され、皮肉にも彼女を保護する人間はいなくなってしまった。監察期間中だということもあるけれど、逢坂さんはまだ若干十八歳の女の子でしょう?そんな彼女を野放しにするわけにはいかない。だから警察で保護することになったのよ」
 私が知っている逢坂さんの情報を全て告げると、三人は難しそうな表情で押し黙っていた。
 逢坂さんは理知的で聡明な少女だ。そんな彼女が、闇の世界で生まれ育ったとは思いもしないだろう。
 私自身、初めて逢坂さんに会った時には驚いた。ただ男の指示に従って生きてきたのならば、こんなにも強さを備えているとは思えない。彼女は男の指示に従いながらも、内心で抵抗心を芽生えさせ、いつかは男から解き放たれる時を待っていたのではないかと、そんなことを感じさせた。
「七緒ちゃんは、人身売買の世界以外、外界と接触する機会はなかったんです?例えば学校に通っていたとか」
 という乾ちゃんの言葉に、私は首を横に振る。
「逢坂さんはその男の元を離れることは許されなかったそうよ。軟禁にも似た状況下で、ずっと少年売買の管理という業務の補佐を行ないながら生きてきた。これは逢坂さん本人と、男の供述で明らかになっているわ」
「じゃあ、七緒ちゃんの昔の恋人って……?」
 ベッドに寝かされた逢坂さんに目を向けながら、ぽつりと零す乾ちゃんの問いに返す言葉を持っていなかった。
 逢坂さんの人生の中で、恋人に恵まれる機会などあったのか。
 或いは――
「少年売買を行なっていたならば、逢坂が恋人にしたのは、その売買の対象である少年と考えることは出来ないだろうか」
 私の考えと同じことを口にしたのは可愛川さん。
「その可能性は否定出来ないわね。他に思い当たるところがないもの」
 可愛川さんの言葉に同意して、「真実はまだ解らない」と付け加える。
 今回の逢坂さんの件は、警察側も把握出来ていない部分で動いているもののように思えていた。
 全ては、戒斗という人物が鍵を握っているのだろう。
「七緒ちゃんに直接聞くしかないみたいね。とりあえず、蓮池課長の情報も留意しつつ」
 まとめるように言う乾ちゃんの言葉に頷いて、今一度逢坂さんに目を向けた。
 今はまだ意識を取り戻さぬ彼女。全てを明らかにするためには、逢坂さん自身の言葉が必要だった。
「じゃあ、三森さんの件に移りましょうか」
 そう告げると、一際身を乗り出してくるのは小向だった。小向はどちらかというと三森さんのことの方が気掛かりといった様子で、「お願いします」と真摯な表情を見せる。
 三森さんの書類を取り出すと、そこに綴られている一文、『精神病棟に入院していた』という部分にペンの先を当てる。
「この精神病に関して。彼女は元々、軽度の鬱病として病院に通院していた。まだ、彼女の婚約者である新山直瑠氏が生きている頃からね」
「鬱病っていうと、楠森さんと同じ……?」
「そう。ストレスなどが原因で、気分が落ち込んでしまう心の病気。けれど楠森さんのように重たいものではなかった。少なくとも、彼女の婚約者が死亡するまでは」
 この場にはいない三森さんの姿を思い浮かべながら、私が知っている情報を一つ一つ口にしていく。
「三森さんに入院の必要性が出てきたのは、新山直瑠氏が死亡した直後。当時は大変塞ぎ込んでしまって、その彼の後を追うと、何度も繰り返していたそうよ。実際、家族や恋人との死別も鬱病の大きな原因とされている」
「じゃあその当時はまだ、婚約者さんがそばにいるとか、そういうことは言ってなかったんです?」
 話の区切りで問いを入れる小向に、小さく頷き返す。あくまでも私が彼女の主治医であった人物から聞いた内容でしかないけれど、小向は私の口にする内容がとても重要だとばかりに、身を乗り出して話を聞いていた。
「三森さんの状態が落ち着いたのは、入院からしばらく経ってからのこと。主治医も驚いたらしいわ。突然落ち着きを取り戻して、生きていくことに対して前向きになった三森さんの姿にはね」
「でも、それは……」
「そう、おそらく小向が思っている通り。三森さんに、死亡したはずの婚約者の姿が見え出した、というのもこの時期。死んだはずの人物が見えるだなんて、通常有り得ることではない。幻覚・幻聴が症状として表れる統合失調という病気も疑われたけれど、結局のところは解らないまま」
「幻覚と、幻聴?じゃあ三森さんは病気のせいで、いるはずのない婚約者さんが見えているんでしょうか」
「解らないのよ、詳しいことは。あくまでも可能性の次元での話だわ」
「……そうですか」
 曖昧な語り口で返す私の言葉に、小向は一先ず納得したような様子を見せて口を閉ざした。
 けれど尚も、真摯な表情で考え込む。
 小向は本当に、心の底から三森さんのことを心配しているのね。
「以上が、私が三森さんに関して知っている全て。残る疑問は、本人から聞き出して解決の糸口を探すしかないと思うわ」
 そう区切りをつけて、それぞれ考え込んでいる三人に目を向ける。
 少しの沈黙の間、私も今回の二人の件に関して思案に耽る。
 逢坂さんの言う戒斗という人物。そして三森さんの死別した婚約者である直瑠という人物。
 乾ちゃんや小向の報告と組み合わせると、今回の二人の件はよく似ている問題のようにも思えていた。
 既に存在していない人物に、二人は依存している。
 死亡した人間が、まだ存在しているはずなどないのに。
 ただ、二人の違いは可愛川さんの言葉にあった。
 逢坂さんからは強い“霊力”を感じるが、三森さんにはそれがないということ。警察の立場から見れば、霊という存在を容易に信じることも出来ないけれど、可愛川さんの言葉には説得力がある。
「逢坂に関しては、私の力で何とかしてみせよう。しかし申し訳無いが、三森は私の力ではどうにもならん」
 一番最初に結論を導き出したのは可愛川さんだった。
 ここは、可愛川さんの主張する霊というものを信じてみるのも一つの手なのかもしれない。
 可愛川さんの霊能力に関して肯定的である乾ちゃんも、可愛川さんの言葉に同意するように頷きを見せた。
「逢坂さんの件は、一先ず可愛川さんと乾ちゃんに任せましょう。後は三森さんね。……彼女に考えられるのは、やはり精神病の類になるのだけど」
 と、今も尚考え込んでいる様子の小向に目を向けながら告げる。
 眉を寄せて視線を落としている小向を横目に「一意見だが」と切り出したのは可愛川さんだった。
「専門外の話になるが、三森に関しては心の持ちようではないか?誰かが三森に対して積極的に関わってやれば、心変わりというものもあるかもしれん」
 そんな可愛川さんの言葉に、小向がふっと顔を上げた。
 責任感の点る強い瞳を見せて、小向は可愛川さんと私を交互に見ながら言った。
「三森さんのことは、私に任せてもらえませんか?具体的な解決法が浮かんだわけじゃないですけど、私、三森さんの心を解いてあげたいって思うんです」
 真摯に告げられるその言葉に、「うむ」と可愛川さんは同意していた。
「乾はともかく、小向ならばそれも可能かもしれん。役割としては適当だろう」
「ありがとうございます!」
「……私はともかくって」
 隅で不貞腐れる乾ちゃんはともかくとして、三森さんの件は責任感のある小向一人に任せてしまっても大丈夫だろう。小向の力が及ばないならば、またその時に私や乾ちゃんがフォローすれば良い。
 これで、逢坂さんと三森さんの問題を共に抱える適任者は決定した。
 死者に依存する二人の女性。その心を解き放てるのは、ここにいる三人なのかもしれない。
 それぞれが見せる責任感ある表情に、私は一つ頷いて、
「頼んだわよ、皆」
 と、激励を送ったのだった。





 気がつくと、ふわふわと靄がかかったような世界にいた。
 私―――逢坂七緒―――が、見慣れぬその世界で恐る恐る歩を進めていると、
 不意にどこからか、聞き覚えのある愛しい声がした。
 それはいつも聞いていた、脳内に響くようなものではなく、
 私の耳に届いて、鼓膜を震わせる、懐かしい響き。
 声変わりもしていない、幼い声。
 それは確かに私が愛した人の声。
「七緒。僕を愛してくれた人。僕の大切な人――」
「戒斗……?どこにいるの?」
「僕の愛する七緒。こっちへおいで。僕と一緒に暮らそう」
「一緒に?」
 愛しい戒斗の声に、はやる気持ち。
 足取りを速めようとしたけれど、地を踏んでいる感覚がない。
 ただ、聞こえる声を頼りに、私は進んでいく。
「七緒、早くこっちへ……」
 戒斗の声。
 静かで、呟くように
 小さく、微かに。
 だけど優しく語りかけてくる。
「僕と、一つになろう」
 ドンッと心臓を射抜かれるような、その言葉。
 私、戒斗を殺したことで戒斗と一つになったような気がしていた。
 だけど、違った?
 戒斗はどこか遠くにいる。
 手を伸ばしても届かぬほど、遠いところに。
 だけど戒斗の声に従って、この靄のかかる世界を進んでいけば
 その先に、戒斗が待っていてくれるのね?
「今、行く」
 そう告げて、歩み始めた、
 その時不意に――
 誰かが私の手を掴んでいた。
「行ってはならぬ!現世(うつしよ)に戻れ、逢坂!」
 ふっと振り向いた、その先に在ったのは
 私を真っ直ぐに見据える、真剣な眼差しだった。
 ぐいっと引き戻されるように、私が幾つか後退ると共に
 靄のかかった世界が暗転していく。

「――逢坂、気がついたか?危ういところだったな」
 目を覚ますと、あの世界で見た真っ直ぐな瞳が私を見ていた。
 違うのは、その瞳が柔らかく細められていることだろうか。
 ここは、あの施設の中。身体が覚えている感触は、あの施設の部屋のベッドの柔らかさ。
 戻って、来てしまった。
 戒斗の呼びかけを遮って、私を止めたその声。
 未だぼんやりとした意識の深くで、ふっと湧き上がるような温かい想い。
 遮られて、止められたにも関わらず、その声の主を憎めないのは何故だろうか。
「あの夢の中で私を止めたのは……貴女だったんですね、可愛川さん」
「そうだ。あそこで死に招いていた少年が戒斗とやらか」
 可愛川さんの言葉に、小さく頷く。
 戒斗の姿まで明らかになった今、これ以上隠しても仕方のないことだと思った。
 現実感のない現実の中、ぼんやりとベッドに身体を委ねていると、いつしか私の手を握っていた可愛川さんの手に、きゅっと力が篭る。
「逢坂に一つ謝罪せねばならない。戒斗という少年、あれは悪霊ではなかった。決め付けて悪かったな」
「え……?じゃあ、戒斗は……?」
「あの霊は純粋に逢坂のことを愛するが故、お前と同じことを言う」
「一つに、なりたいって……」
 そんな戒斗の想いを突きつけられて、ふっと胸が詰まるような思いがする。
 悪霊じゃない。ただ戒斗は、霊という不安定な存在になっても尚、私のことを愛してくれている。
 私と同じことを思ってくれている。
「悲しい話だ。……お前がどうしても、あの少年の後を追うと言うのならば、私にそれを止める権利はない」
 可愛川さんは今までとはどこか違う、抑えたような声のトーンで淡々と告げる。
 戒斗の後を、追う。
 それでも良いかと、天井を眺めながら思っていた。
 だけど、そんな私を止めるように、私の手を包む温度が強くなる。
 私の手を、ぎゅっと両手で包んでいる可愛川さんの温度。
 ふっと可愛川さんに視線を戻すと、彼女は私を真っ直ぐに見つめたまま、その表情を和らげた。
「しかし。出来るならば、私は逢坂に生きて欲しいと願う」
「生きる……?でも私に、生きる価値なんて、もう」
 見当たらない、と声を擦れさせた。
 私を止めてくれた可愛川さんに、安堵感すら抱いている。
 だけど同時に、何故あの時私の手を引いたのかと、疑問も抱く。
 私を生かしたって、もう、何の意味もない。
 私は戒斗と一つになるために生きていたのに。
 それすら叶わないならば、死んだ方が良いんじゃないかなって。
 そんなことを思うと、何故か目頭が熱くなって、きゅっと目を閉じた。
 もう、生に対する執着なんか一つもないはずなのに。
 それなのに何故私は……。
「逢坂には未来がある」
 真っ直ぐに言い放たれた言葉に、私はゆっくりと目を開けた。
 穏やかな表情で、私の手を片時も離すことなく、可愛川さんは語った。
「お前には何故私が、霊という存在を払っているのかが理解出来るか?」
「霊を、成仏させるため……?」
 問いかけに、あまり考えもせずに小さく答えていた。彼女の言葉の続きが知りたくて。
 可愛川さんは「それもある」と頷いた後、再度私を見つめてこう続けた。
「しかしな、私は思うのだ。現世にしがらみを残して今も留まる霊達は、現世に生きる人間のためにはならない。現世の人間を幸福にすることなど出来ない」
「……」
「私は霊を、あるべき場所に戻してやる。そして、現世の人間を幸福にする。それこそが、私の役目だ」
 きっぱりと言い切った可愛川さんの言葉を、頭の中で幾度も反芻する。
 私は、戒斗と幸せになりたかった。
 霊と生身の人間だけど、幸せになれると思っていた。
 だけど、それを否定されて、少し戸惑っている。
「幸せに……」
 小さく呟くと、何故か不思議と心が温まるような気がして、同時に頬を涙が伝う。
 私には戒斗しかいないと、思っていたのに。
 こんなにすぐそばに、私に生きて欲しいと願ってくれる人がいる。
 私に幸せになって欲しいと、願ってくれる人がいる。
 本当に不思議だけど、今、私は、――嬉しいと、そう思っている。
 頬を伝う涙を、そっと拭ってくれる指先の温度に、また涙が溢れて止まらなかった。
「可愛川さん、私は……」
「うん?」
 一つの結論が見えたような気がして、少しだけ笑う。
 戒斗だけではないのかもしれない。その結論へと、私を導いてくれる人物は。
 今更になって、気付かされる単純な本音。
 私はそれを、ありのままに言葉にすることが出来る。
「……幸せに、なりたいだけなんです」
 そう告げてふっと弱い笑みを零すと、可愛川さんは柔らかな表情を絶やさずに、確かに一つ頷いた。
「それで良い。逢坂はきっと、幸せになれる」
「……幸せ、に」





「幸せになりたいんですよね?」
 部屋の扉を開けるとそこには、真剣な表情を浮かべた佳乃さんの姿があった。
 開口一番で問い掛けられたその言葉に、私―――三森優花―――は戸惑いを隠せない。
 だけど小さく頷いた。幸せになりたくない人なんて存在しない。
「どうして、そんなことを?」
 ぽつりと問うと、佳乃さんは真っ直ぐに私を見つめたまま、確かな口調でこう告げた。
「三森さん。あなたのそばにいるフィアンセは、……存在しません」
 断定するように言い切る一言に、思わずカチンと来る。
 直瑠はここにいる。
 佳乃さんには見えないけれど、今だってすぐそばで腕を組んで、私達の姿を見守っている。
 直瑠はいつもの屈託のない笑みではなく、佳乃さんの言葉に複雑そうな表情を浮かべて、押し黙っている。
「……。前にも言いましたよね?佳乃さんには見えなくても、私には見えるんです」
 ちらりと直瑠に目を遣った後、私はきっぱりと言い返した。
 佳乃さんは一瞬の私の視線を見逃さなかったかのように、私の視線の先を追いかけては、すぐに私に目を戻した。佳乃さんが見遣った先には、何の変哲もない壁面が広がっているだけだったのだろう。
 佳乃さんは、先程の食堂のやりとりの時よりもずっと真っ直ぐな目を見せて、しっかりとした口調で紡ぐ。
「私にも、それがどういうことなのかは解らないけれど。過去の人に縋りつくなんて、三森さんのためにならないと思う。……責めてるんじゃなくて、私はね、三森さんに幸せになって欲しいだけなんです」
「私は、彼と幸せになれるから……」
 頑なに言い返す私に、佳乃さんは小さく首を横に振った。
 なんて頑固な人だろう。
 佳乃さんも私に対して、同じことを思っているかもしれない。
 互いに理解しあえない次元で、私と佳乃さんは生きている。
 解り合えなくても良いの。私はただ、彼と幸せになれれば、それで良いんだから。
 確かに彼は、私のそばにいるのだから。
「……その彼は、三森さん自身が作り出している幻です」
 私の現実を否定するように、佳乃さんはきっぱりと言い切った。
 幻?
 違う。直瑠はここにいる。
「彼はそばにいる。今だって私達のことを見ています。こうして、手を握り合うことも出来る、そんな彼を幻だなんて言わないで下さい。私にとっては、この彼の温度こそが、現実なのだから」
 そっと左手を上げて、直瑠へと目を遣った。
 直瑠はすぐに私に応えるように弱い笑みを浮かべて、そっとその手を差し出す。
 ふわりと、触れる温かい体温。確かめるように、ぎゅっと握った。
 彼の温度も、彼が嵌めている指輪の感触も何もかもが、私にとっては現実に他ならない。
「本当に現実だって言い切れますか?三森さんの目の前にいる、そのフィアンセよりも、もっと現実に存在している人間、いるんじゃないですか?」
 佳乃さんは何かを言いたげに捲くし立てるけれど、しばし彼女の意図することが掴めなかった。
 ただ、直瑠の存在に対して否定的なことだけは理解出来る。
 そんな彼女に見せ付けるように、彼と握り合った手を佳乃さんに差し出した。
「じゃあ逆に聞きますけど、どうしてこれが幻だって言い切れるんです?佳乃さんの見えているものだけが、全てではないんです。私は、……」
 パシン、と、乾いた音に私の言葉は遮られていた。
 一瞬、目を疑うような光景に、息を呑んだ。
 たった今まで、直瑠と握り合っていたこの手。
 今は――佳乃さんの手が、私の手を掴んでいる。
 そんな、馬鹿な。
 私は今確かに、直瑠の手を掴んでいたはずだった。
 それなのに。佳乃さんの手が伸びて、直瑠の手と重なるか否かの瞬間
 直瑠の姿がふっと掻き消えた。
「悲しいの。一人で笑う三森さんの姿が私は悲しい。三森さんの笑顔はすごく素敵なのに。どうして、もっと私達に見せてくれないのかなって、そんなこと思って、悲しいの……」
 佳乃さんは、小さく笑む。どこか悲しげに、私に笑みかける。
 ぎゅっと、私の手を掴んだままで。
 言葉をなくした私を前に、佳乃さんは少しの沈黙の後、もう一方の手も差し出して私の手を包んだ。
「私の温度、解るよね?現実感のある温度、私にも伝わってくるんだよ。三森さんの手は、こんなに温かい。私の温度も、きっとその彼よりも」
「温かいです……けど、私……」
 突然のことで、混乱に陥っていた。
 直瑠の姿を掻き消したのは、この佳乃さんの温度だったのだろうか。
 わからない。どうして、この人の手は、こんなに温かいの?
 どうして直瑠を振り切ってまで、私に温もりを与えてくれるの?
 直瑠を掻き消したことに対する憤りよりも、その温度に驚いてばかりで。
 これが、現実……?
「私じゃ、だめですか?」
「……」
「私が三森さんのことを、幸せにしてあげる」
「え……?」
 思いもよらぬ言葉に、私は佳乃さんの真っ直ぐな眼差しに見入っていた。
 私を、幸せに?この人が?
 どうしてそんなことを、言ってくれるの?
 佳乃さんはふっと笑みを和らげると、私の手を包み込んだまま、優しくその手を胸元に導いた。
「昔のフィアンセなんかに、私は負けない。その彼みたいに、三森さんを愛したりは出来ないけれど。私はこうやって三森さんに温もりをあげられるよ。それだけじゃ、だめかなぁ」
「佳乃さん……?」
「私、なんか変なことゆってる?」
 思わず小さく名を呼んだ私に、逆に佳乃さんの方が不思議そうな顔をして聞き返してきた。
 少しの沈黙の後、私は首を横に振った。
 変なこと、確かに言っているかもしれないけれど、だけど彼女の真っ直ぐな気持ちは嬉しい。
「佳乃さんの優しさは、嬉しいです。だけどまだ、戸惑っているの。どうしたらいいか、解らなくて」
「ん」
 私の戸惑いすらも受け容れるように、佳乃さんは小さく笑んだ。
 可愛らしい笑みを見せる人だと思った。直瑠とは全然違うタイプの、優しい笑み。
 女性特有の柔らかさが、そんなふうに見せるのだろうか。
「三森さんは心配しなくていいよ。私が勝手に、こうして触れて、三森さんの話し相手になりたいだけ。直瑠さんのことを忘れろとは言わないから。少しだけ、三森さんの時間を私に頂戴」
「佳乃さんは……どうして、そこまでしてくれるの……?」
「だって私、ほら、三森さんのこと好きだから。それだけッ」
「……」
 あっさり告げられて、思わず言葉を失った。
 佳乃さんはこんな場面で、ふにゃっとした笑みを伴ってドキッとするようなことを言う。
 ある意味、変なことを言っているのかもしれない、この人。
 だけどそれが嫌だとは思わなかった。寧ろ、嬉しいと感じていた。
「佳乃さんって、やっぱり変な人……」
「うぇぇ?そうかなぁ?」
 と小首を傾げる佳乃さんに、ふっと小さな笑みが漏れていた。
 建前上で笑むことは簡単だったけれど、今まで私は本当の笑みを直瑠だけにしか見せなかった。
 なのに今、こんなにも自然に、佳乃さんを前にして笑みが零れる。
 不思議なこと。
 佳乃さんの真っ直ぐな意思が、私を思ってくれる心が、私の笑みを呼び起こしたのかもしれない。
「……解りました。直瑠のことは、そうすぐには消せないと思うけれど。佳乃さんとの時間も、少しずつ割いていきたい。……大切にしていきたい」
「はいッ、約束です。私も三森さんとの時間、大切にしていきますからねッ」
「……はい」
 こくん、と一つ頷き返すと、佳乃さんは嬉しそうに表情を緩ませた。
 そんな笑みを見せられると、温かい気持ちになっていく。
 この真っ直ぐな笑みこそが、佳乃さんの魅力なのだろう。
「責任、取って下さいね?」
 小さく告げると、佳乃さんはそっと私の手を離してから、静かに微笑んだ。
 佳乃さんの手から離れて、自分の元に手を戻して。
 ふっと壁の方へ目が向いたけれど、やはり直瑠はそこにはいなかった。
「三森さんもね。私との約束、守ってね。私、三森さんともっと仲良しさんになりたいから」
「仲良しさん……」
 彼女らしい表現だと、少し笑った。
 すると佳乃さんはまたきょとんとして、
「私、なんか変なこと言いました?」
 と不安げに問い掛ける。
 その姿に笑みを深め、「どうでしょうね」とはぐらかす。
「うぇぇ……三森さん、ちょっぴり意地悪……」
 そんな佳乃さんにクスクスと笑んで、膨らんでいく頬を見つめた。
 可愛い人。
 直瑠を掻き消して、私に現実感のある体温を与えてくれた人。
 この人なら、私を、幸せにしてくれるのだろうか。
 直瑠よりも、もっともっと、幸せにしてくれたり、するのだろうか。
 解らないけれど。
 この人なら、それが可能なんじゃないかって、そんなことを思って。
「……幸せ、に」
 言いかけて、ふっと直瑠のことが気になった。
 この想いを口にしたら、直瑠を裏切ることにはならないだろうか。
 だけど。もう想ってしまった。
 この感情を抱いた時点で、既に裏切ってしまったことになるのかもしれない。
 直瑠は裏切られてもきっと、笑っていてくれる人だ。
 直瑠は私の幸せを、誰よりも願ってくれる人なんだ。
「幸せに、して下さい」
 真っ直ぐにそう告げて、佳乃さんの瞳を見つめた。
 濁りのない、綺麗な瞳が揺れる。
 佳乃さんは私の言葉に、その瞳をすっと細めて。
「はい。頑張ります!」
 力強い返答に、ふんわりと安堵感に包まれた。
 この女性ならば、直瑠が出来なかった何かが出来るのではないかと、そんなことを思って。
 これから佳乃さんと育んでいく友情に、期待を膨らませている私がいた。
 彼女ならば、きっと大丈夫。
 悪い方向には向かわない。彼女に任せていれば。
 ――佳乃さんなら私のことを、幸せにしてくれる。
 不思議と、そう信じて止まない私がいた。
 直瑠という存在に捕えられていた私を、解放してくれる革命者。
 そんな人物を目の前にして、私は溢れる笑みを止めることが出来なかった。
 幸せに、なりたい。
 佳乃さんは、そんな願いを叶えてくれるかもしれない、強くて優しい人。
 ほんの少しの時間で、打ち解けていく心。
 それがごく自然なように思えて、私はまた一つ笑みを零した。
 佳乃さん。私にとって、いつしか大きな存在になりつつある、一人の女性。
 この、想いを。委ねてみようと思えていた。
 私は幸せになりたいから。
 幸せを、掴んでみたいから。
 出来ることならば、佳乃さんと、一緒に――。












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