一月十八日。
 蓮池先輩達と一緒に、私―――小向佳乃―――が地下施設に戻ってきてから一晩を明かし、午前十時。
 いつも通りの、だけどどこか心の奥が重苦しい朝を千景と一緒に過ごしていた。
「とりあえずはこんなもんで良いと思う。後は、皆に反対意見がなければ決定ね」
 Room01の片隅のテーブルで、私と千景が視線を注ぐのは新たに作った部屋割りだった。仲の良い人同士とか相性の良さそうな人同士とか、バランスを取りながら。部屋割りって結構神経使うんだぞぉ。
 そして粗方出来上がった部屋割りを前に、私と千景は視線を合わせて「うん、オッケ」と頷き合う。
 その後でふっと、二人一緒に目を向けた先はベッドサイドのデジタル時計だった。
 『10:03』、約束をした人物がこの部屋にやってくるはずの時間から三分経過。そろそろ来る頃だろう。
「遼……受け止められるかな」
 千景は溜息を吐きながら小さく漏らす。
 そう。何よりの不安はそのことだった。
 もうすぐやってくる遼ちゃんに、楠森さんのことを話さなくちゃいけない。
 楠森さんが負った心の傷。傷をつける原因となった悲しい事件。
 遼ちゃんにとっては、本当に辛いことを話さなくちゃいけないんだ。
「受け止めてもらうしか、ないんだよね。……私達も出来る限りフォローして」
 そう言うと、千景は弱い笑みを見せて「そうね」と小さく頷く。
 私も千景も黙り込み、少しの沈黙が流れた頃、
 コンコン。
 部屋にノックの音が響き、千景が席を立つ。
 私も背を向けて座っていたドアの方に目を向け、千景がドアを開く様子を眺めた。
「おはぁ」
 開け放ったドアの向こうに、どこか眠たげな遼ちゃんの姿があった。
 千景は「入って」と遼ちゃんを中に促しドアを閉じる。
「また申請の書類がなんとか、ってやつ?」
 と不思議そうな遼ちゃんの背中を千景が押して、先ほどまで千景が座っていた椅子、私の向かい側の椅子に座らせた。私も千景も、つい沈痛な表情を浮かべてしまう。それを見て、遼ちゃんは怪訝そうな顔をした。
「真面目な話よ。心して聞いて」
 千景が重たい口調で切り出すと、遼ちゃんは僅かに表情を曇らせて「はぁ」と気の抜けた相槌を返す。
 千景がちらりと私を見た。こういう時、決まって重大な話を切り出すのは千景の役目だ。
 だけど、あんまり千景ばかりに嫌な役目を押し付けるのも良くないと思った。
「えっとね」
 私が言葉を発すると、千景は少しだけ意外そうな顔をして口を噤む。
 心臓に鉛を乗っけているような、重たい感覚がするけれど、私は静かな口調で話し始めた。
「遼ちゃんの学校は、港区立第一高校で間違い無いよね?」
「ん」
「それで、二年生のクラスの担任は……」
「楠森深香、二十六歳。……それが?」
 あまり興味のなさそうな様子で遼ちゃんは私の言葉に相槌を打つ。
 だけどそんな顔をしていられるのも、多分今のうちだけ。
 私が続ける言葉を聞けば、遼ちゃんはきっと動揺するだろう。それが私には怖かった。
 口を開こうとした時、すっと千景が私に手を伸ばして言葉を制した。
「楠森深香さん。彼女を今、この施設に保護してるのよ。けど問題があってね」
 千景は私の役割を奪いそう告げて、瞬く遼ちゃんを前に一呼吸置いてから言った。
「生徒から集団暴行を受けて、精神的に病んでいるの。今も人とは話せない状態なのよ」
「……本気で、言ってる?」
 遼ちゃんは怪訝そうに眉を潜め、ふっと視線を落とす。
 ほら、やっぱり。担任の先生がそんな状態にあるんだもん、ショックじゃないはずないがない。
 暫しの沈黙の後、遼ちゃんがふっと顔を上げた。
「……ぅ?」
 その表情があまりに予想外だったから、私は思わず小さく声を漏らしていた。
「何、それ報告するためだけに呼んでくれたの?別に、単なる担任のことなんて興味無いしさ、わざわざ呼んでくれなくても良かったのに。まぁクラスメイトもバカばっかだったしね。話はそんだけでしょ?」
 ガタンッ。
 素っ気なく言い放って、遼ちゃんは椅子から立ち上がる。
 馬鹿馬鹿しい、とでもいうように肩を竦めては「帰るよ」と言い残して出入り口へと歩いていった。
「は、遼?本当にそんなリアクションなわけ?」
 逆に面食らった私達、千景が代表して問いかける。
 遼ちゃんは振り向きもせずに「別に」とだけ小さく零して部屋を去っていった。
 パタン。締まった扉の音の後、あまりの呆気なさに私と千景は顔を見合わせて押し黙る。
「……遼って、案外冷たいやつ、なのかな」
 ぽつりと千景が漏らした一言に、首を横に振りたかった。
 だけどそれが出来なかったのは、さっきの遼ちゃんの態度を目の当たりにしていたからだ。
「まぁ、気にしないなら、それでいいんだけど、ね……」
 私は小さくそう返しながら、テーブルの上に広げっぱなしだった部屋割りの書類をまとめていった。
 遼ちゃんが来る前とは違う、別の重たい空気が充満している部屋で、私は三つぐらいの溜息を零した。





 冗談じゃない!
 あの楠森先生が、生徒に集団暴行を受けて精神的に病んでるだぁ!?
 あたし―――三宅遼―――がそんなの、許せるわけないじゃないッッ!!
 きっと千景ちゃんや佳乃ちゃんはあたしを先生と会わせる気はないはずだ。
 だからあんな風に演技してみせたけど、あたしはしっかりこの目に焼き付けた。
 テーブルの上に無造作に広げられていた部屋割りには13号室に「楠森深香」の名前が書いてあった。
 あたしは千景ちゃん達の部屋を後にして、それから廊下をダッシュする。
 目的は当然、楠森先生に会うために他ならない。
「遼、うるせーぞ、何血相変えて走ってんだ」
 すれ違おうとした途端、伊純に引き止められる。
「うるさぁい!今は伊純なんか構ってる暇ないんだっつーの!」
「その慌てっぷりが怪しいっつーの。何かあったのか?」
 伊純はあたしの腕を掴んだまま離さない。一刻も早く楠森先生に会いに行かなきゃいけないと焦る気持ちを察するように、腕を掴む力は強くなる。
「だって、先生が!あ、あたしの先生が酷い目に……許せないよ!!お願い、離してってば!!」
「お前、混乱してるだろ。落ち着け。いいから落ち着け」
 伊純はあたしを包み込むようにガシッと腕を絡めるけれど、そんなことに構っている余裕すらなかった。
 ドンッッ!
 あたしは思い切り伊純を突き飛ばし、先を急ぐ。
「バカヤロー!後悔しても知らねぇぞ!」
 背中に掛けられる声も無視して13号室へ急いだ。
 扉の前に立ってドアノブに手を掛けたが、ガチャガチャと音がするだけで開く気配はない。
 仕方が無いので、コンコンとノックをした。
「はい、どなたかしら?」
 そんな声が返って来る。当然楠森先生のものではない。
 さっきの部屋割りに書いてあった相部屋の人物、蓮池式部とかいう人物のものだろう。
 あたしが暫し黙り込んでいると、カチャリと扉が開く。
「……!」
 蓮池さんはノックの正体があたしと知った瞬間、僅かに目を見開いた。
「入れて下さい!」
「……だめよ。貴女は楠森さんに会うべきじゃない」
「お願いだから!!」
「だめなものはだめ。楠森さんのためにもならないし、貴女のためにもならな――」
 蓮池さんが説得している、けれど残念ながらあたしは聞く耳を持たない。
 ドンッと蓮池さんを突き飛ばして、あたしは部屋の奥へ進んだ。
「待ちなさい!」
 そんな声と同時にあたしの目に映った人物。
 見慣れているはずなのに、まるで別人のような人物。
 ―――楠森先生だ。
「……」
 先生はベッドの縁に腰を掛け、虚ろな目でゆっくりとあたしを見上げた。
 キュッと瞳孔が開くかのように、あたしを見た瞬間先生は表情を強張らせる。
「先生?ね、先生?わかるよね?あたし、三宅遼だよ、ねぇ、なんか言ってよ」
 弱い笑みを浮かべて訴えかける。しかし楠森先生はあたしを拒むようにゆるゆると首を振り、後退るようにベッドを後ろに這って行く。それは今まで見たこともない、楠森先生の怯えの表情だった。
 なんでそんな顔するの?
 なんであたしを受け入れてくれないの?
 なんであたしに、あの笑顔を見せてくれないの?
 あたしの惨苦は行動となって、思わずベッドを這いずり先生に詰め寄った。
「……な、いで」
 ギリギリまで後退った先生が、微かに漏らした声にあたしは動きを止める。
「殺、して」
「ッ……?!」
 何かを否定している言葉、そう、あたしを拒絶している言葉だと思ったのに。
 突如告げられた言葉に思わずあたしは目を見開く。
 今、先生何て言った?……コロシテ?
「ッ、あぁッ……嫌……もう嫌……!いっそ殺してくれれば、いいの……お願い、死なせて」
「……」
 目の前にいる先生が、あまりに意外すぎてあたしは言葉を失った。
 そんなあたしの両肩に背後から手が添えられ、すっと後ろに引き寄せられる。
 振り向けば、どこか愁傷な表情を浮かべた蓮池さんの姿があった。
「わかったでしょう?彼女がどんなに深い傷を負っているか。辛い出来事から来るトラウマと、激しいストレスから来る鬱病。……これ以上彼女を苦しめないために、貴女は居てはいけないの」
「……」
 きゅっと唇を噛んだ。慟哭に身を任せたい程、苦しくて悔しくて悲しいのに。
 居てはいけない。その言葉が、あたしにとってどんなに辛いものなのか。
 だけど――あたし、楠森先生のことが好きなんだ。
 だから、あたしは。
 先生のために、出来ることをすればいいんだね。
 ……わかったよ。
「もう先生には近づかない」
 小さく、だけどきっぱりと言い切った。
 それと同時に、今までの明るくて優しい先生の姿が思い出された。


『ここが試験に出ます。……って、皆聞いてますか?』
 黒板をチョークで指し示しながら言う楠森先生。
 先生はきょろりとクラスの様子を見渡しては、ふっと困ったような表情を見せる。
 それもそのはず。誰も、先生の話なんか聞いていない。
 クラスメイトはバカ話に華を咲かせているし。
 そしてあたしは、可愛い楠森先生に見惚れていた。
『あーえぇと、ここを覚えておけば、今度の試験では20点ぐらい取れます、から』
 そんな一方通行の授業はいつものこと。
 うろたえては、小さく溜息を零してまた黒板にチョークを走らせていく。
 あたしはただ、そんな先生の姿を眺めているのが好きだった。
 先生は生真面目だけど、ドジなところもあって憎めない。
 見ているだけでも飽きない、そんな可愛い人。
『というわけで、昔の文明のお話をさせて頂いたんですけど。……聞いてくれました?三宅さん』
 ふと目が合って、彼女はあたしの名前を呼ぶ。
 それがなんとなく嬉しくて、笑みを浮かべて小さく答えた。
『――若干は』
 実際、先生が言っている内容なんかはあんまり理解してなかったわけだけど。
 先生の声も、仕草も、表情も、あたしはずっと見つめていた。
 この授業が終わらなかったらいいのに。先生がずっとあの教壇に立っていてくれたらいいのに。
 ずっと、ずっと先生のことを見ていたかった。
 あたしは、先生に対して仄かな恋心すら抱いていた。

 ――だけどそんな日々も、終わりがやってきた。
 米兵が教室に攻め入って、クラス中に戦慄が走った日。
 或いは、あたしが米兵を撃ち殺した日。
 敵が殺意を持っている以上、応戦するのは当然だ。
 警察だってあたしのことは正当防衛として扱った。
 だけど、クラスメイト達の恐怖は米兵ではなく、あたしへと向けられた。
 クラスメイト達はその場から逃げ惑い、米兵の死体と、あたしと、そして先生とだけが取り残された。
 先生は突然のことで微かに震えていたようにも思う。
 だけど、静かにあたしの方に歩み寄り、どこか悲しげな笑みを見せた。
 眼鏡の向こうで揺れる瞳。その時あたしは、先生の意図が全く掴めずに戸惑った。
 先生は何かを言いたげに震える唇を開いたけれど、言葉が出ないようにすっと閉じられて。
 そして先生はそっとあたしのことを抱きしめた。
 血の匂いが充満した教室で、あたしは先生の胸に身を委ねていた。

 先生の身体は、温かかった。
 だけど。
 心は冷たいような気がして――怖かった。





「保健担当の保科からアドバイス。鬱病の場合、心安らぐ場所での時間を掛けた治療が必要。また、投薬による治療も効果あり、なので。私が薬を選ばせて頂きます。お任せあれ」
 保科さんは淡々とそう告げて、楠森さんの顔を覗き込むように緩く首を傾げて見せた。
 彼女の言葉は信頼に値する。
 楠森さんも困惑したような表情を覗かせながらも、保科さんの言葉に小さく頷いていた。
「ありがとう、保科さん。貴女がいて助かったわ」
 私―――蓮池式部―――がそう声を掛けると、保科さんは顔をあげて首を横に振る。
「いえ。私は当然のことをするまでです。礼には及びません」
 謙遜する言葉のようにも聞こえるけれど、彼女はそういった言葉を述べる人物とは違う。
 あくまでも本心だとばかりに、さらりと言ってのけた。
 保科さんは楠森さんのベッドに腰を下ろして、暫し楠森さんに視線を向けては小さく頷く。
 聞くところによると彼女は医療分野に関して非常に秀でているという。免許こそ持っていないものの、その知識には信頼性があった。
 楠森さんのことは、保科さんに任せて問題は無いようだ。
 後は――三宅さんのことか。
 『もう先生には近づかない』
 きっぱりと言い切ってこの部屋を後にしたけれど。
 彼女だって心苦しいに決まっている。彼女が見せた悲しげな表情がそれを物語っていた。
「……三宅さんは」
 ぽつりと、不意に言葉を零した人物に少し驚いた。
 今まで無言を保っていた楠森さんが、小さく言葉にした。
 私と保科さんは黙って、彼女に注視する。
「三宅さんは、何も悪くないのに。ごめんなさい……私の所為で、人を傷つけて、しまう」
「楠森さん……」
「怖くて仕方ないんです。学校が、生徒が、怖くて……もうあんな目に遭いたくない」
 ぽつりぽつりと告げる楠森さんは、その指先を自らの頬に触れさせた。
 今も深い傷跡が残る頬、その傷跡を辿るように指先を滑らせては、ふっと嘆息を零す。
「皆さんにもご迷惑をお掛けしてばかりで……私なんか、もう死んだ方が良いのに……」
 幾分冷静にはなれたようだった。だけど彼女が口にするのは、誤ったこと。
 私は楠森さんの言葉を否定するように首を横に振って言った。
「死んでも何も解決しないわ。寧ろ、三宅さんを始めとする皆を悲しませてしまうのよ。貴女は生きているだけでも、十分に価値があるの」
「……でも、こんなに苦しい気持ち、耐えられない」
 嘆くようにかぶりを振って、楠森さんは俯いた。
 涙を堪えているかのように、微かにその身体を震わせて。
 そんな楠森さんにすっと手を伸ばしたのは、保科さんだった。
 保科さんの手が楠森さんの肩に触れると、楠森さんはビクリとその身体を強張らせる。
「病気、なんです。死魔に取り付かれているだけなんです。……私が絶対に、治してあげる」
「……」
 伏せ目がちだった楠森さんが、僅かに顔をあげて保科さんの姿をその瞳に捉える。
 保科さんは相変わらず無表情で、笑みを見せることなどないけれど。
 真っ直ぐに、真っ直ぐに見つめているようだった。保科さん自身の言葉を確定付けるかのように。
 そんな保科さんを目にして、楠森さんはほんの僅かだけど、相好を崩したようにも見えた。
「助けて下さい……お願い」
「助けます。絶対に。私に、任せて」
 その言葉に根拠はあるのだろうか。
 保科さんは絶対という言葉を口にして、楠森さんの肩を撫ぜた。
 根拠なんかなくても、良いのかもしれない。
 保科さんの言葉で、或いはその行為で、どこか安堵した表情を見せる楠森さんがいるのだから。
「頼りになる名医が見つかったわね」
 そう声を掛けると、楠森さんは俯きがちながら、小さな頷きを見せてくれた。
 大丈夫。楠森さんには保科さんがついていてくれる。
 私があまり余計に世話をする必要もなさそうだ。
 私は別のことに携わるとしよう。
 そう。もう一つの心配事。三宅さんの心のケアに関して。





 一月十九日。
 遼への告知から丸一日と少しが経った頃、私―――乾千景―――と佳乃は蓮池課長とミーティングを開くことになった。場所はプライバシーを考えて私と佳乃の部屋。
 内容は、遼の心のケアに関して、とのことだった。
「……遼が、そんなことを」
 昨日私達の前で見せた素っ気ない遼とは全く違う様相を蓮池課長に聞いては、驚くやら安心するやら。
 結局、遼は意地を張ってただけだったんだなって、十七歳の女の子らしくて少し笑えた。
 だけど笑っている場合でもない。遼は今回のことで、本当に深い傷を心に負ってしまった。
 そんな遼をどうやって助けるか。それが今回のミーティングの主な議題だ。
「私ね、さっき冴月ちゃんから報告を受けたんですよ」
 不意に切り出したのは佳乃だった。佳乃は遼のことを事前に知っていた様子で、蓮池課長の報告にもさして驚いてはいなかった。
「冴月ちゃん、遼ちゃんと相部屋じゃないですか。それで気づいたらしいんですけど……夜にね、遼ちゃんが泣いてたって」
「遼が?」
 思わず問い返す。普段の意地っ張りな遼からは想像も出来ない。あの遼が、泣くだなんて。
 少しの沈黙の間、私は思索に耽った。遼が何故昨日の告知の時、あんな気丈な姿を見せたのか。
 その理由は、案外単純なもののように思えた。
「遼は私達……警察のこと、あんまり信用していない」
「それは同感ね。私達では、どうしようも出来ない問題なのかもしれない」
 蓮池課長は私の言葉に頷いて、神妙な面持ちで視線を落とす。
 ある意味、屈辱にも近いものだ。私達はあの子のためを想ってる。
 なのにそれを拒絶されるなんて。
「でも、出来ることはしたい。そう思うでしょう?」
 気を取り直すように言った蓮池課長の言葉に、私と佳乃は揃って頷いた。
 私達を信頼していない遼のために、私達が出来ることとは一体何か。
 考えてはふと、一つの案が浮かんだ。
「私達以外の誰かに、依頼してみたらどうっすか?私達じゃ無理でも、他の人なら遼が心を開いてくれるかもしれない」
「それ、名案かもしれない!」
 佳乃がすぐに同意してくれた。
 蓮池課長も少し考え込んだ後、ふっと笑みを見せて「そうね」と頷く。
 そうして私達は、遼ちゃんの力になってくれそうな人物を挙げていった。
 絞った結果、浮かび上がったのは四人の女性。
「和葉ちゃんか杏子さんなら、きっと力になってくれる」
 私の一押しはこの二人だ。二人とも心優しい女性だし、きっかけぐらいにはなれるだろう。
「私はねぇ、命ちゃんか柚里ちゃん辺りが頼りになると思うなぁ」
 佳乃の一押しは少し意外な人物でもあった。命さんってあんな残酷な性格してるし、柚里ちゃんに関しては実のところ未だにその性格をよく掴めていない。
「じゃあ、その四人に頼んでみましょう。三宅さんの心を解かしてくれる人がいたらいいわね」
 蓮池課長はまとめるように言って、小さく微笑む。
 その後の話し合いによって、それぞれ私の一押し人物、佳乃の一押し人物に依頼をすることが決まった。
 さぁ、これで吉と出るか凶と出るか。
 遼の心を巡っての戦いが今始まる……!なんて、ね。





「あ、あの、遼ちゃん」
 千景さんの依頼からすぐのこと。私―――五十嵐和葉―――は偶然食堂で見つけた目的の人物に、おずおずと声を掛けていた。詳しいことは聞かされていないけれど、遼ちゃんは今心に深い傷を負っているとのこと。
 私もそういう話をされては放っておくわけにはいかない。人々の笑顔こそが、平和に繋がるものだから。
 傷は痛みを生じ、痛みは負の感情へと傾かせてしまう。
 なんとしてでもそれは阻止して、遼ちゃんに笑顔を取り戻してもらいたい……!
 と思った、のだけど。
「はぇ?どうかした?」
 遼ちゃんはきょとんとした表情で私を見上げ、軽く小首を傾げる。
 千景さんが言っていたように、深い傷を負っているようには……見えないんだけど。
「えっと。……あの、最近元気がないように思えたから、心配になって。大丈夫……かな?」
「元気ないって、あたしが?いやいや、全然元気だよ?」
 遼ちゃんはさも当然とばかりの口調で言っては、手元のコーヒーを揺らす。
 全然元気、て。千景さん、話が違うよぉ。
「それなら、いいんだけど……何かあったら、私に言ってね?出来る限り、力にはなるからッ」
「あー。ありがと。でも、どしたの?唐突に」
「え、ええ?!や、なんとなく元気なさそうに見えただけで……」
 思わずしどろもどろになってしまう私に、遼ちゃんはけたけたと声を上げて笑った。
「それ気のせいだって。見ての通り、全然普通じゃん」
 と言われてしまえば、本当の本当にどうしようもないわけで。
 もしかして千景さん達が既に勘違いしてたんじゃないかなぁって思うぐらい、遼ちゃんは普通だった。
 さすがにこれ以上の追及も出来ず、「そっか」と相槌を打って私は一歩後ろに下がる。
「なんか変に気、使っちゃってごめんね。もし何かあったら、力になるから」
「ありがとぉ。ま、あたしのことだから滅多なことじゃ凹まないと思うけど」
 最後まで飄々とした遼ちゃんに、私は退散を余儀なくされたのだった。
 ――撃沈。



「はーるかちゃんッ」
 廊下で待機していた私―――高村杏子―――は、目的の人物がやってくると一歩踏み出して声を掛けた。
 千景さんから依頼された、「遼ちゃんを元気付けよう大作戦」を実行するためだ。
 千景さんまでああやって頼むぐらいだから、重症なのかな、と思ってたんだけど……
「あれ、杏子さん?どうしたんですか、そんなとこで」
 受け答える遼ちゃんの様子は、いつもと違っているようには見えなかった。
 あっれ、おかしいなぁ。もしかして遼ちゃん、意地張って普段通りに振舞ってるのかな。
「んーとね。遼ちゃんを待ち伏せしてたの」
「あたしを?何か用事でも?あ、セナのこと?」
「違う違う。遼ちゃんのことだよ。いつもとちょーっと調子違うなぁと思って気になってたの」
「へ?そう?……別に、いつも通りだけど」
 やっぱり意地張ってるんだろうなぁ。
 セナちゃんも交えて話す時によく出てくるもの。「遼は意地っ張りだからね」って。
「いつも通りに振舞ってるけど……実は何かあったんでしょ?私、こう見えても鋭いんだよ」
 敢えて深くまで追及する。それで遼ちゃんの機嫌が損ねられることも、想定してのことだった。
「何かって……もし何かあったとしても、自分で解決できる問題だもん。あたしそんなにガキじゃない」
「自分で解決出来ない問題っていうのも、存在するんじゃないかなぁ?」
「大丈夫なのッ!……変に心配しないで、下さい」
 やっぱり逆上した。遼ちゃんはどこか苛立った様子を見せて、つっけんどんに返す。
「私はただ、遼ちゃんのことが心配なだけだよ。自分のこと、追い詰めたりしないでね」
「わかってます!誰に入知恵されたか知らないけど、……杏子さんには関係無い」
「……そ、そっか」
 遼ちゃんの意志は強靭だった。私じゃとても介入出来ないような問題を抱えているように思えた。
 千景さんには申し訳無いけど――これ以上、私が余計なことを言ったら、逆に遼ちゃんのためにならない。
「余計な心配しちゃってごめんね。でもあんまり、一人で苦しまないように」
「……はい」
 俯きがちに頷いて、暫し押し黙った後で遼ちゃんは歩を進める。
 私は去っていく遼ちゃんの背中に、これ以上掛ける言葉を持っていなかった。
 ――撃沈。



「遼。一言物申したいことがある」
「……は?な、何か?」
 腕を組んで遼の部屋の前で待ち構えていたあたし―――真田命―――は、密かな自信を抱きながら遼に声を掛けた。遼は怪訝そうな表情を浮かべながら、あたしの手前で足を止める。
「実は昨日一月十八日。あたしこと真田命の誕生日だったのよ」
「……あ、そうなの?おめでとう」
「二十歳になったの。これで若かりし十代にもおさらばね」
「ふぅん。いいじゃん、大人の仲間入りって感じで」
「そう!そんな大人の命ちゃんから一言物申す!」
「え……まだ何か」
 物怖じするように身構える遼を前に、あたしは笑みを深めて言った。
「遼は何か隠し事をしている。誰にも言えないような、とびっきりのシークレットを」
「……何の話?」
 あくまでもとぼける様子らしい。
 あたしは遼のそばに詰め寄ると、どん、と遼を壁際まで追い詰めた。
 その背中を壁に付け、些か怯えた様子すら見せつつ遼は目を逸らす。
「その秘密。あたしに話してみる気はない?勿論秘密は厳守。それに誰かに打ち明けるべき秘密だってことも、あたしにはお見通しなのよ」
「秘密ねぇ……別に、隠すようなことでもないんだけど」
「ほぅ?じゃあ話してみ?」
「あたしの以前の担任が、この施設に保護されたの。先生は前とは打って変わって別人のようになっていた。それであたしはショックを受けましたとさ。……そんだけの話だよ」
「ショック受けてんじゃん。それで凹んでるんじゃないのー?」
 と、遼が抱いている傷の理由までは聞き出した。
 しかし遼自身が、全く傷を負った様子というものを垣間見せない。
 あくまでも飄々と、あたしから目を逸らしながら告げる。
「凹んだけど、だからどうって問題でもないでしょ。事実を変えることも出来ないんだし。あたしはその辛い現実を受け止めて、頑張って行きます。以上」
「……あー、そんなもんなの?遼的にはそれでオッケー?」
「オッケーも何も、そうするしかないじゃん。現実は世知辛いねぇってハナシ」
 悟ったように言う遼の言葉に、納得しているあたしがいた。
 確かに現実は世知辛い。その現実を見ない振りするか受け止めるかってのは個人の自由。
 こうして考えてみっと、佳乃ちゃんの方がお節介なんじゃないかと思えてくる。
 別に、プライベートな領域まで警察が世話焼く必要なんかないじゃん。
「なるほどねぇ。わかった。あたしも余計な口出しだったみたいね。……まぁ頑張れぇ」
 この問題はあたしが関与するものではないと判断し、早々と遼の前から立ち去ることにした。
 元々、人の世話焼くの好きじゃないしさー。ってことで、
 ――撃沈。



「うぉわッ!」
 突然背後から襲われて、あたし―――三宅遼―――はその場で羽交い絞めにされていた。
 ええ?!何事?!
 平和の中の平和とも言える施設内の廊下で、突如誰かに襲われるなど思いもしない。
「失礼。後ろからゴキゲンヨウ。初めましての保科柚里と申します」
「は……ご、ごきげんよう?」
 羽交い絞めにしながらゴキゲンヨウもないんじゃないか。
 そんなことを思いつつも、呆気に取られることしか出来ない。
 振り向くことも侭ならず、あたしは僅かに身じろぐだけだった。
「申し訳無い。こうでもしないと君は逃げてしまうように思ったから」
「逃げる理由もないけど……何か用事、です?」
「楠森先生のことで」
 突然出されたその名前に、条件反射の如くビクッと小さく身体が震えた。
 な、なんでこの人、楠森先生のことを……?
「話の筋は大体お聞きしています。私は楠森さんの病気に関して、治癒を任された者。それと同時に、君の……遼の心のケアもすべきだと、判断した次第です」
 保科さんはそう告げた後、ぽつりとこう付け加えた。「実際は、佳乃ちゃんに依頼されたのだけど」
 その言葉で、ようやく理解した。今日一日、やたらとあたしにお節介焼いてくる人が多いのは、佳乃ちゃん達の指示によるものなんだと。全く、余計なことをしてくれるものだ。
「心のケアって何。これはあたし自身が解決する問題であって、他人に口出しされる筋合いは……」
「一人じゃ解決出来ない問題というものも存在します」
 さっき杏子さんに同じことを言われたばかりだ。
 だから同じ言葉を繰り返すことになるけれど、
「それは保科さんには関係のないことッ。余計なお世話なの!」
 と、少し語気を強めて言った。
 これで諦めてくれればいいと思った。
 だけど保科さんは、杏子さんよりも強引だった。
「関係あるのです。この施設に滞在することになった以上、私と遼は関係のある人間。他人じゃない」
「……でも、どうやって解決するって言うの?あたしですらわかんないのにッ……!」
「遼はわからないけど、私ならわかる。ほら、一人じゃ解決出来なくても、二人なら解決出来る」
「……じゃあやって見せてよ。あたしの問題ってやつを、解決してみせてよ」
 あくまでも反発して、あたしは冷たく言い放った。
 するとあたしを羽交い絞めにしていた腕が解かれたかと思うと、不意にふわりと、その腕があたしの身体を緩く抱きしめていた。
「遼は、好意を寄せていた人物に拒絶されたことによって心に深い傷を負った。傷を負った人物は渇望するものです、癒しというものを。私は、それを与えることが出来る」
「癒し……?」
「人間なんて単純なモノ。失ったものは、別のもので補えばいい。……こうして体温を与えられて、嫌な気分に、なる?」
「……」
 確かに。こうやって緩く抱きしめられてるのは、嫌じゃない。
 その体温が楠森先生のものじゃないと解っていても、尚、心のどっかで嬉しいとか思ってる。
「苦しいとか、悲しいとか、そういう感情は抑えつけるべきものではない。どこかにぶつけて発散するべき感情です。心の捌け口というものを遼は持っていない。故に強がって、余計に自分を苦しめている」
 まるであたしの心を見透かしたような言葉。
 強がってなんかない。苦しくなんかない。そんな思いすらも、強がりなのだと見透かされている。
 やり場がなくて抑え付けていた感情が、ふつふつと湧き上がってくる感覚を覚えた。
「保科は、遼が苦しいことを知っている。無理に自分を抑えつけないで。心の赴くままに言葉にしてごらん。捌け口になってあげる」
「……なんで、保科さんは。あたしのために、そんな優しい言葉掛けてくれるの?」
「私は人を幸せにしてあげたいだけ、です。それじゃあ、理由にならない?」
 あたしを抱きしめている腕を緩く握って、そっと離してからあたしは保科さんに向き直る。
 初めて見る、その人の姿。
 白い髪に、端正な顔立ち。表情はない、けれど、どこか優しげな雰囲気を纏っていた。
 少し躊躇ったけれど――ストン、と、彼女の腕の中に収まっているあたしがいた。
 ずっと抱えてたもの、苦しくて悲しい感情を、この人は受け止めてくれると言う。
 それが、どうしようもなく嬉しくて。
「あたしッ……先生のこと好きだった……っていうか、今でも大好きで……。拒絶されたんだから、あたしが出来ることは先生に近づかないことだって思った……だけど、それ、凄い苦しいことで……あたし、どうしたらいいかッ……わからないよ」
 言葉が溢れるように、とめどなく零れ出た。
 保科柚里。まだ会ったばかりの女性に、心を許している自分が少し不思議だった。
 保科さんはあたしのことをそっと抱きしめて、髪を撫ぜてくれる。
 低温だけど、温かい優しさが嬉しかった。
「いつか楠森さんは笑えるようになる。遼のことも受け入れられるようになる。その時までは、待つ時なんだと思う。……大丈夫、必ずその時は来るから。そのために私、頑張るから」
「……保科さん」
「苦しい時は、私のところに来ればいい。愚痴でも何でも聞いてあげる。遼の気が済むまで、そばにいてあげる」
 掛けられる言葉はどれも優しくて、あたしは思わず涙を流していた。
 苦しいっていう感情を理解してくれること。悲しいっていう感情を受け止めてくれること。
 たったそれだけのことが、こんなにも嬉しくて。
 意地を張っていた自分が、少しだけ馬鹿馬鹿しく思えてきた。
 皆、あたしのこと心配して声掛けてくれたんだって気付いて。
 なのにあたし、皆のこと突き放して一人でなんとかしようともがいてた。
 一人で解決するのは、とても苦しい問題だったのに。
「……保科さんの理由、なんだか不思議だよ。他人のために、そんなことまで出来るの?」
 あたしに優しくしてくれる。そのこと自体はとても嬉しいことだ。
 だけど今まで虚勢を張って生きてきたあたしは、優しくされることに少しだけ恐怖を感じていた。
 優しい人間の心ってやつが、理解出来なかったんだ。
「私のこと、聞きたい?」
「うん」
 少し顔を上げて、保科さんの顔を目に留める。
 本当に無表情で、あたしの視線にも緩く小首を傾げるだけ。
 だけど彼女はその指先でふわりとあたしの髪を撫で、愛しんでくれる。
 それが不思議で、彼女のことをもっと知りたいと思った。
「人は皆、傷を抱えて生きている。私は色んな意味で、その傷を癒せる人になろうと決意したのです。医療も勿論のことだけど、心の面でも、癒せる人になれたらいいと、そう思って」
 あまりにも、清らか過ぎて少し信じられない部分もあった。
 そんなことを思うあたしの表情を読み取ったのか、保科さんは少しだけ表情を和らげて続ける。
「私が生きている理由。いわば運命。それはね、たった一人の女性と“再会”することなのです。昔はそのためだけに生きているんだと思っていた。ある意味、エゴイストだった」
 再会。それが彼女の人生の目的なのだろうか。
 たったそれだけのため?
 疑問を抱いたあたしを否定するように「でも」と彼女は更に言葉を続ける。
「それだけが、生きるということの全てではないと気づいた。目的を達成する以外に、他にも私に出来ることがあるんじゃないかと思った。それで考えた末に決めたのは、人々を笑顔にするという二つ目の目標」
「笑顔……」
「あくまでも、ついで、でしかない。だからやっぱり私はエゴイストなのかもしれないけれど。……でもね、人々の笑顔を見ていると、私も幸せな気持ちになれる。だから、私はこんな生き方をしている」
 そんな話を聞いて、この人は――保科柚里という人物は、とても大きな器を持った人なんじゃないかと思った。
 人の笑顔で幸せになれる、なんて。あたしには正直言って考えられない。
 その考え方こそが、この女性に宿った優しさであり、強さでもあるんだと、そう思った。
 少しの沈黙を置いた後、保科さんはふっと目を細める。
「私のことよりも、今は遼のことを考えよう。……泣いたらいいよ、そしたらすっきりする」
「……ん。ありがとう」
 あたしも弱く笑み返して、それから再び彼女の肩口に額を寄せた。
 先生のこと、他にも色んなこと、ふつふつと思い出されては涙腺が緩んでくる。
 不思議なこと。普段は泣くことなんて滅多になかったのに。
 保科さんに抱かれてると、泣くっていうことがとても自然なように思えてくる。
 保科さんの肩を濡らしながら、あたしはその柔らかい温度に身を任せた。
 そんなあたしに、保科さんは優しい言葉を掛けてくれる。
 胸が熱くなるような、優しくて愛しい言葉。
「泣いたら、いつか笑える」












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