地下施設で初めて顔を合わせてから一週間。第一印象から一週間。
 一週間という期間があれば、人間関係はある程度築かれて、そこに好きや嫌いの感情が生まれてくる。
 好きな者同士、或いは共に過ごす時間が長い相部屋同士などが、次第にグループ化してくるものだ。
 私―――乾千景―――が保護責任のある者として、十四名をそれとなく監視してきた一週間。
 私も含めて十五名、現在の人間関係を私から見た概観でまとめてみることにする。

 グループ01.遼と冴月のコンビ+杏子さん。
 杏子さんは未姫さんと相部屋とあり、この二人も仲は良いのだが、ここでは未姫さんは省いて考える。
 十七歳と十六歳の遼と冴月は相変わらずの名……迷コンビ。たまにプチ口喧嘩のようなものも目にするが、基本的には馬が合うようだ。喧嘩するほど仲が良い、ってか。
 そしてこの二人と杏子さんが、時々食事を一緒に取っていたりして、よくわからないけど仲が良い。どうやら杏子さん、冴月と話が合うようだ。二人共パソコン関連の話をよくしているように思う。そして二人の会話に入れずに拗ねる遼。そんな食事光景を度々見かける。

 グループ02.十六夜さんと千咲ちゃん。
 二人はこの施設に来る前からの知り合い、というか“保護者と子ども”なのでグループ化してみたが、実際一緒にいるところを見ることはあまりない。相部屋なんだから十六夜さんが部屋に戻れば会話も発生しているはずだけど、十六夜さんは殆どの時間を制御室で一人で過ごしているようだし、十六夜さん曰く千咲ちゃんはずっと部屋に篭っているとのこと。この二人は他の人との干渉も少ないみたいで、千咲ちゃんに至っては私ですら一度も話したことがない。マッドサイエンティストもとい科学者と、大人しすぎる十五歳の少女。謎に満ちた二人である。

 グループ03.命さんと水散さん。
 相部屋の二人は仲が良いようだ。いつも食事は一緒だし、廊下でばったり会う時も二人は一緒。見ようによってはラブラブにすら感じられる。……どうなんだろう。
 命さんは、私が個人的に苦手なので話す機会は少ないが、他の面々とはそれなりに仲良くやっているらしい。十九歳の彼女は、十代組のリーダー格というか黒幕というか。遼や冴月に対して何やら教授している姿もたまに見るし、伊純とも仲が良いらしい。伊純と命さんって話が合いそうよね。会話には絶対混ざりたくないけどさ。
 水散さんは大人しい性格みたいだし、そこまで社交慣れしている雰囲気ではないけれど、たまに都とか杏子さんにちょっかいをかけられている。まぁ水散さんには命さんがいるから、別に問題はないようね。

 グループ04.Mina+和葉ちゃんと都+伽世ちゃん。
 まず、Minaと和葉ちゃんが毎日べったり。というのも私の言葉を受けてのことで、先日Minaに「和葉ちゃんから一時も離れないように」と言った時から、本当に一時も離れていないような気がする。まぁMinaも和葉ちゃんには懐いてるみたいだし、別にいいんだけど。
 問題は都だろうか。都は何かと和葉ちゃん贔屓。ルームキー窃盗事件も、無断で抜け出し事件も全ては和葉ちゃんのために起こした事件だった。本当に問題があるのは和葉ちゃんなのかもしれない。ともあれ、都は「可愛い子のためならなんだって」とか言ってるけど、実際は「和葉ちゃんのためなら」なんじゃないのかなぁ。そうそう、最近都が私に冷たいんだ。「なんでMinaと和葉ちゃんが相部屋なのよぅ」とか言って、チクチクチクチク文句を言われる今日この頃。……んなこと言われても。
 そんな都は、最近は伽世ちゃんとよく一緒にいるみたい。相部屋だからってのもあるんだろうけど、伽世ちゃんは伽世ちゃんで「都姉さん」なんて呼んでるし、仲良しっていうよりは師弟って感じ、か?

 グループ05.伊純と佳乃、千景と未姫。
 こんな括りになるかなぁ。ちょっと複雑だけど、冷静に考えてみるとしよう。
 伊純と佳乃は最近本当に仲が良い。ご飯も一緒、自由時間も一緒……私と佳乃が一緒にいる時間より長いんじゃないかな。私が佳乃と話してても、佳乃の話題といったら何かと伊純のことばっかりで、返す言葉も見つからない。……佳乃は何とも思ってないのかな。伊純と佳乃が仲良くなった代わりに、私と佳乃の間に溝が生まれてるような気がする。
 私だって人間だ。散々惚気られた挙句に一人ぼっちにされて、辛くないわけないじゃない。そんな時に決まって私は、未姫さんの部屋を訪れる。杏子さんがいる時は三人で話したりもするし、未姫さんだけの時は二人で話すし、杏子さんしかいなかったら杏子さんと話す。他愛ない、私と未姫さんの関係だけど、私は少なからず彼女に癒されているんだろう。
 佳乃を裏切ってるかもしれない。そんな罪悪感を抱きながらも、……佳乃だって、同じだから。

「千景……?」
 恐る恐るといったふうに背後から掛けられた声に、私は「ん、どした?」といつもの調子で振り向いた。
 佳乃は少しの間私の顔を見つめては、ふっと表情を和らげて「なんでもない」と目を細める。
 ちらりとベッドサイドの時計を見遣れば、『20:07』とデジタルの表示。今日もぼちぼち仕事をこなし、ようやく一日が終わるって感じね。この施設に来たばかりの頃に比べれば仕事の量も若干減ったし、一人でこなすには少々厳しい量だけれども、そこは私の力の見せ所。佳乃なんかいなくたって大丈夫。
「千景、ごめん……最近、私お仕事あんまりしてないね……」
 個室の隅のテーブルで作業をしていた私の手元、佳乃は覗き込みながら、「ごめん」と繰り返す。
「いいのよ、別に。大した量じゃないんだし、佳乃はゆっくりしてなさい?」
「……うん」
 佳乃への負担はなるべく減らそうと思っていた。お姉さんを亡くしてまだ数日、佳乃がショックから立ち直れているはずもない。だから私は佳乃の分も頑張って、この子に楽をさせてあげたいし。
 今は、佳乃がしたいようにすればいいと、思うし。
「ね、千景……」
「んー?」
 手元の書類、最終確認ってことで眺めながら、佳乃から掛けられる声にも応える。頭の半分以上は書類に向いてるわけだけど、佳乃の言うことなんてそんなに重要じゃな……
「最近、少し冷たいよね」
「…………」
 ふ、と手を止めて、佳乃の言葉で書類のことも頭ん中から消えちゃって、私はその場で少し固まる。
 冷たい?……私が?……ばか、なこと言わないでよ。
「そんなことないわよ。いつも通りにしてるつもりだけど」
 気のない素振り、わざと手元の書類捲ったりしてるけど、本当は書類なんかちっとも見ていない。
 今はただ、佳乃の言葉から、逃げたいばっかりだ。
「でも、千景……最近私と話してても、あんまり楽しそうじゃないよ……」
「……」
「すぐ、どっか行っちゃうし……避けられてるみたいだよ」
 背中に投げ掛けられる声を耳にして、震える手を、佳乃に気付かれないようにぎゅっと握った。
 憤りが胸の中で渦巻く。でも、今私が怒ったら、佳乃はきっと傷つくだろう。
 佳乃だって同じじゃない。私と話してたって伊純のことばっかり。どっか行っちゃうのは佳乃の方でしょ?
 ――なんて、口に出来るはずもない。
「佳乃……あのね」
 手がつかなくなった書類をまとめてから、私は立ち上がり、佳乃を見据えた。
 捨てられた子犬みたいな目ぇして、こんなんだから佳乃はッ……。
「……本当に、私はいつも通りだから。佳乃の方が参ってるんじゃない?」
「千景……そ、そうなのかなぁ」
「そうよ。変に疑ったりしないでよね、バカ」
 ふっと零すように笑って、佳乃の額をコツンって小突いてから、私はそのままベッドの方に歩む。
 どさ、と倒れこんで、このまま眠ってしまいたかった。着替えてもないのに、もうなんか、どうでもよくて。
「……。……私、でかけてくるね」
 言い残すように告げられた言葉を耳にして、私は顔を上げていた。
 既に扉の方へ向かっているのか、佳乃の姿は見えなかった。
「伊純のところ?」
「……うん」
 思わず問い掛けて、言い難そうに肯定を返されて、ドンッ、って。
 突き落とされるような感覚に、息が詰まる。
 パタンと扉が閉じる音の後、静寂。
 私はベッドにうつ伏せたまま、もう、動くことも億劫で。
 だけど心が叫んでる。
 苦しいよ、助けてよ、一人は嫌だよ、って。
 こんなにも、孤独で乾いてる。
 手も伸ばさずに求めてた存在は、もうどこか遠くへ行ってしまった。
 だから私は嘘を吐く。





 コンコン、と小さく聞こえたノックに顔を上げ、ベッドから身を起こした。
 相部屋の杏子さんは出かけてる。誰かとお話でもしているのか、もう二時間ぐらい戻って来ない。
 少しだけ一人が寂しかった部屋で、私―――飯島未姫―――は微かな期待を胸に、扉を開けた。
「千景さん……」
 そこにいたのは、私が誰よりも待ち望んでいた人物だろうか。
 彼女の姿が目に映った時、胸が高鳴ると同時に、きゅ、と締め付けられるようだった。
「……未姫さん、今、大丈夫?」
「あ、はい。……あの、杏子さん、出かけてます……けど」
「……入れてくれる?」
 いつもとはどこか違う、淡々とした口調で告げられた言葉を不思議に思いながら、彼女を室内に促した。
 扉が閉じると、不意に、きゅっと私の腕を取る。そうして千景さんは、呟いた。
「お願い、助けて」
 俯いた彼女の表情は見えなかった。
 ただ、何かに怯えるように震える彼女の指先が、心許なくて。
 今まで見たことのない千景さんの弱い姿が、今、私の目の前にある。
「……何か……あったん、です……?」
 小さく声を掛けると、千景さんは暫し押し黙った後で、首を小さく横に振った。
 ゆるりと視線を上げ、私を見る瞳。涙で潤んでいるように見えた、けど、それも一瞬で。
 次の瞬間には、千景さんがぎゅっと私に抱き縋っていた。
 突然のことで押されてしまい、私は部屋の壁に背を付いた。彼女の体温を感じながら少しの逡巡。
 だけど怯えるような千景さんの様子を感じていると、理性的に、冷静に考えることなど出来なくて、
 私はそっと彼女の背中に手を回し、抱き返した。
「千景さん……何に、怯えて、……何が、怖い、です……?」
「……孤独」
 短く返された言葉の後、千景さんは微かに身体を揺らして笑い声を漏らす。
「自分でも情けなくてイヤんなる。こんなに誰かの体温を求めたの、多分、初めてよ」
「……私で、いいんですか?」
「未姫さんがいいの」
 彼女は躊躇いもなく、はっきりと私の名を呼んだ。
 千景さんは身体を離して、私の目を見つめてから、そっと顔を寄せた。
 心のどこかで期待していたことが、今、私の身に起こっている。
 千景さんが私の頬に唇を寄せ、彼女の指先が私の髪を梳き、身体がぎゅっと密着して――
 心音まで伝わりそうだった。私がドキドキしてる音、きっと千景さんには聞こえてる。
 でも、千景さんの心音は、私のところには伝わってこなかった。
「……奪わせて」
 囁きは有無を言わせぬ響きがあった。
 千景さんは私の答えを待つこともなく、親指で私の顎を持ち上げる。
 鋭く、突き刺さるような瞳の力に、欲気にも似た寒さが背筋を駆け抜けた。
 彼女の瞳に力があるのは、――なのに、こんなにも悲しそうなのは、何故?
「ん、ッ……!」
 強引に唇を塞がれて、思わず抵抗するように身を捩ったけれど、千景さん手を振りほどくことなど到底叶わない。壁際に押し付けられ、一方的な深いキス。――これは、交わすものではなく、奪うものだ。
 私、今、千景さんに奪われてる。
 強引で乱暴なキスなのに、そんなキスに酔わされていくようだった。 
「……やッ。……ち、かげ、さん……待って」
 唇が離れてから、一つ大きく息を吸い、そして私は声を上げた。
 微かな恐怖に、思わず声を上げていた。
 彼女と交わしたい。だけど、奪われるのは怖い。
 彼女の肩に手を置いて、ぐっと離して。濡れた唇を拭ってから、千景さんの姿を見上げる。
 その時、彼女はとても悲しそうに、涙を流していた。
 何故、悲しそうに目を細めるんだろう。
 こんなにも悲しそうに、私を求めるんだろう。
「千景さん……?」
「私、すごく酷いことしてる」
「……」
「……嫌なら、抗って」
 その一言が最後の情けだった。
 どんっ、と壁に押し付けられた上、足を引っかけられて私はその場に崩れ落ちた。
 千景さんは私に覆い被さって、もう一度強引なキスを寄せる。
 頭を押さえつけられて、上から流れ込む唾液を飲み込んだ。
 それでも尚、溢れて、唇の端から零れて落ちていく。
 千景さんの指は私の身体を這い、少し爪を立てて痛みを残した。
 服の裾から滑り込んだ手が、私の肌に直に触れて、強引に暴いていく。
「ッ……ひど、い……こんなこと」
「なら、抵抗してよ……」
「……」
 嫌じゃない。怖いけど、彼女から奪われるのは嫌じゃない。
 千景さんは優しい人。彼女にあるのは悪意なんかじゃない。
 ――ただ、何かに怯えて、奪うことしかできないの。
「……千景さ、ん」
 彼女の手首を握ると、千景さんはビクッと身体を震わせて動きを止めた。
 目からぽろぽろと涙を零して、まるで子どもみたいなのに、私のことを奪おうとしてる。
 何がそんなに悲しいの?どうして私を奪おうとするの?
「私のこと、好き、じゃない……でしょう?」
「……好きよ。じゃなきゃこんなこと」
「好きな人を抱くときに、そんなに悲しそうな顔を、するわけが……」
 握った彼女の手を、そっと自らの身体に導いて、私は少しだけ笑う。
 私だって悲しいのに。千景さんが考えているのは私のことじゃないんだって、わかってしまって。
 切ないのに、苦しいのに、――もっと奪って欲しくて。
「誰かの代わりでも構わない……奪われるだけでいいの……私だって、同じ」
「未姫さん……?」
「……誰でも良かったのかもしれない」
 そう呟いたら、千景さんはふっと目を逸らして、微かに唇を震わせた。
「ごめん」
 彼女は一言だけ謝って、そしてまた、私の身体に身を寄せる。
 さっきよりも少し優しい行為が、更に重ねる彼女の謝罪のようにも思えて、なんだか悲しかった。
 首筋に舌が這って、痕の残らないキスをした。
 きっとこの行為が終われば、何事もなかったかのように、振舞うようになるんだと、そう思った。
 ―――だけど。
 ガチャ、と扉が開く音はあまりに唐突で、その瞬間は息をすることすら忘れていた。
 顔を上げれば、二メートルほどの短い距離で、目が合った。
「……杏子、さん」
「わ……ご、ごめん!!」
 相部屋の彼女が戻ってくることは予想できたはずなのに。
 情事に夢中で忘れていた。だけど心のどこかで、覚悟していたようにも思う。
 杏子さんは慌てた様子で踵を返し、部屋の外に出て扉を閉じる。
 私の首筋に顔を沈めていた千景さんは、ゆっくりと身を起こし、困ったように息を零した。
「……終りに、しよう」
「……はい」
 行為が途中で途切れてしまったこと、私の身体が奪われなかったことは、仕方がないことだけど、
 千景さんの涙を止めることが出来なかった。それだけが、悔しくて。
 千景さんは袖で涙を拭いて、それから私の目元に指を伸ばし、「ごめんね」と呟きながら私の涙も拭ってくれた。私が泣いているのは千景さんのせいじゃないと告げたかったけれど、そのタイミングも逃してしまう。
 千景さんは立ち上がり、きゅっと唇を閉じ合わせた。
 彼女の背中に掛ける言葉も見つからず、千景さんが部屋を後にするまで、私は動けなかった。
 千景さんの指先の感覚が、まだ少し残ってる。
 それをなぞるように自らの胸に指を這わせて、きゅっと握った。
 もう、千景さんが私を奪うことは、ないのだろう。





「杏子さん」
 ギクッ。
 廊下に逃亡したは良いものの、結局行くあてもなく廊下をウロウロしていた私―――高村杏子―――は、背後から掛けられた声に振り向いて良いのかどうかすらわからなくて、廊下で立ち竦んでしまう。
 私って本当にタイミング悪すぎだよ。まさかあんなシーンを、目撃しちゃうなんて思わなかったし。
 あ、あんなところでしてるのも悪いけど。……私も悪くないとは言えない、かなぁ。
「……千景さん」
 恐る恐る振り向けば、落胆した様子の千景さんの姿。
 千景さんはちらりと私に目を向け、一つ息を吸い込んでから、パンッとその両手を合わせて言った。
「ごめん!あんなところで……なんていうか……驚いた、わよね?」
「う、ううん、気にしないで……私もタイミング悪かったんだし」
「いや、杏子さんは全然悪くない……」
 こ、こういう時ってギクシャクするのは普通だよね。だってついさっきまで、その、未姫さんと……“そーゆーこと”をしてた人が目の前にいて、しかも謝られちゃってるし、謝られても困っちゃうというか。
「えっとね、わ、私は気にしないから。……邪魔した私を恨まれちゃうと困るけど」
「恨まない。……寧ろ、止めてくれて良かった」
 千景さんは俯きがちに言ってから、ふっと顔を上げ、気にするように辺りを見回す。
 そして声のトーンを落とし、こう続けた。
「未姫さんとの、こと。出来れば誰にも言わないで。……特に都には」
「都さんが知ったら、あっと言う間に噂になっちゃうだろうね。うん、言わない」
 一つ頷いてから「口は堅いの」と付け加えれば、千景さんは弱い笑みを見せて「ありがと」と頭を下げた。
「未姫さんのこと、お願い……」
 千景さんは最後にそれだけ言い残し、私に背を向けて歩いていく。
 どこか覚束ない足取りに心配になりながらも、未姫さんのことも心配になって私は部屋へ急ぐ。
 千景さんがいるわけはないけど、念のためにノックしてから部屋の扉を開けた。
 さっき目撃しちゃった情事から、まだ五分も経っていない。未姫さんは先ほどと同じ場所に座り込んで、私を見上げては、ぱちぱちと何度か瞬いた。
 ……と、いうか。
 未姫さんの服は乱れたまま。ドアを開けてすぐ目に入る光景としては、刺激的過ぎるのではないか。
 だけど数秒、目を離せなかったのは、その姿があまりに色っぽくて綺麗だったから。
 裸体そのものよりも、服が乱れてるってのは色々……
 と、とにかく、私は未姫さんから目を逸らしつつ言ったのだった。
「……未姫さん、服」
「…………あ」
 当の未姫さんはあんまり気にしていないような素振りで、ぱたぱたと服を戻してから、ゆるりと立ち上がる。
 そして私へと目を向けると、どこかばつの悪そうな表情で謝罪した。
「ふぁ……杏子さん、ごめんなさい……」
 吐息の漏れる音が混じっている辺り、未姫さんらしいなぁとも思いながら。私は未姫さんに近づき、少しだけその身体に目を向けてから、改めて彼女の目を見つめた。
「あんまり、私が立ち入っちゃいけないこと、のような気もするんだけど……」
「……」
「……無理矢理、みたいに見えたの。」
 それだけが心配で、私は真っ直ぐに彼女に問い掛ける。
 千景さんのことを疑いたくはないけれど、万が一がないとは言えない。
 未姫さんは私を見上げてきょとんとした後、ふわりと、弱い笑みを零していた。未姫さんの笑顔、なんて、あんまりしょっちゅう見れるものじゃない。このタイミングでそんな笑みが出てきたことに驚きながら、彼女の言葉を待った。
「千景さんは、可愛い人、です。」
「……え?」
「彼女には……もっ、と、相応しい人がいるんです。……千景さん、怖かったんですよ、きっと、多分。」
「……そうなの?」
 相変わらず、テンポの掴みづらい語り口で未姫さんは紡ぐ。
 彼女の視線は宙に向けられ、何も捉えていない、ようだった。
「……私、は」
 未姫さんはふっと私に目を向けて、その目を笑みに細めた。
 それと同時に、彼女の目から零れ落ちる涙。
 悲しそうに笑って、キラリと光る涙を隠そうとしない。
 綺麗な顔立ちが益々綺麗に見えて、私は思わず彼女に見惚れていた。
「千景さんのことを、好きになりたかった」
「……」
「……」
 その時、未姫さんの切なげな笑みが胸に突き刺さるようで、私は何も言えずに彼女を見つめていた。
 未姫さんは視線を落とすと「でも」と小声で言葉を続けた。
「いいんです、これで。私と彼女は、相応しく、ないんです」
「未姫さん……」
「……そうですよね、杏子さん。私にはもっと、もっと素敵な人、現れるから」
「……うん。」
 事情は掴めないけれど、未姫さんの言葉は未姫さん自身に言い聞かせているように聞こえて、だから私もその言葉を肯定し、彼女につられるように少しだけ笑んでいた。
 未姫さんは満足げに笑みを深めて、「シャワー、浴びます」とだけ言葉を残し、私の前から消えた。
「……未姫さん」
 彼女が求めているものって、何なんだろう。
 多分彼女は、私が知らない何かを知っていて、だからこそそれを心底求めていて。
 求めてるくせに、失うことに怯えている。……そんなふうに、見えるんだ。
 私はいつか、心から幸せそうな未姫さんの姿を見ることが出来るだろうか。
 きっと、多分。……ううん、絶対。
 あの子には、幸せになって欲しいから。





 ドンッ、と思いっきり突き飛ばされて、私―――小向佳乃―――はベッドから落っこちていた。
「ッ、いったぁい……」
「元はお前が悪いんだろ?」
 苛立ったように言い放たれる伊純ちゃんの言葉に、私は泣きそうになりながらも必死で堪える。
 どして、こんなふうになっちゃうのぉ。
 私はただ、伊純ちゃんに甘えたかっただけなのに。
 伊純ちゃんなら、私のことぎゅってしてくれると思った。ただそれだけだったのに。

「ねぇ、伊純ちゃん、ちゅーして」
 最初に伊純ちゃんが嫌そうな顔をしたのは、私のそんなおねだりを耳にした時だった。
 えっちの後、私と伊純ちゃんは裸のままでベッドでイチャイチャしていたわけで。
 私って、恋人さんとはいっつもイチャイチャしてたいタイプで、一緒にいるのに触ってないのとかも嫌だったりして、伊純ちゃんと過ごす時、私はいっつも伊純ちゃんに甘えるように抱きついたりしていた。
 伊純ちゃんがぶっきらぼうでクールなのはいつものことだし、いやよいやよも好きのうちって言うし!
 だから私は、伊純ちゃんも本当は嫌じゃないんだろうなぁって思って、いっぱい甘えてた。
 ほら、なんていうか、えっちの後ってイチャイチャしたくなるっていうのもあるし。
「……さっきしたろ?」
「もう一回しようよ。ね、お願い」
「……」
 なのに伊純ちゃんってば、今回は本当に乗り気じゃなくって。
 そりゃ、私が無理矢理しちゃったのも悪いかもしれないけど、でもあんなふうに言わなくたって。
 私は伊純ちゃんにぎゅーってして、私からキス、しようとした。
「……やめろ。ベタベタすんな、っつってんの」
「やぁだ。べたべたしたいのっ」
 そうやって強引にほっぺにちゅーしたら、伊純ちゃんってば本気で私の頭殴るんだよ。バシッって。
 痛かった。だから私、余計……拗ねちゃう、っていうか。
「伊純ちゃん、殴ることないよぉ」
「うるせぇ。無理矢理されるのは嫌だっつーの」
「でも殴らなくてもいいじゃないッ!今の本当に痛かったのに……」
「……」
 伊純ちゃんは呆れたように溜息をついて、ごろんってベッドに寝転がった。
 私もその隣に身を寄せて、伊純ちゃんの腕に抱きつく。
「……だから、くっつくな。うぜぇ」
「伊純ちゃん、私のこと好きって言ってくれたのに」
「それとこれとは全くもって別問題だ。」
「同じだよっ。ねぇ、もっとぎゅってしてよぉ……」
 そう言うと、伊純ちゃんは私から逃げるように身を起こし、じとーっとした視線を私に向ける。
「……お前さ、恋人に振られた回数、多いだろ?」
「う?……な、何回か」
「お前、ウザい。もっと相手のこととか考えろ」
「……そ、そんなぁ。私、ぎゅってして欲しいだけなんだよ?」
 私が伊純ちゃんの背中に縋ると、伊純ちゃんは本気で私を振りほどくようにして身体を離す。
 そんなことされると余計、悔しくなっちゃう。だから「なんで逃げるの?」って詰め寄った。
 ――そしたら、ドンッ、て。伊純ちゃんが私のことを突き飛ばした。
「ッ、いったぁい……」
「元はお前が悪いんだろ?」
 ベッドから落っこちて、肘を思いっきり打って痛かった。床に座り込んだまま伊純ちゃんを見上げると、伊純ちゃんは冷たい眼差しで私を見下ろしていた。
「じゃ、じゃあ私はどうしたらいいのッ。」
「あのなぁ、相手が嫌がってることをすれば、嫌われるってことぐらいわかるだろ?ガキじゃねぇんだから」
「……伊純ちゃん、私のこと、嫌いになった?」
 泣きそうになりながら問うと、伊純ちゃんは溜息を一つ零してから、私から目を逸らす。
「今のお前は嫌いだ。……前から思ってたけど、小向みたいなヤツってどうも苦手なんだよな」
「じゃあ……なんで伊純ちゃん、私に好きって言ってくれたの……」
「……お前の甘ったるいところ以外は、嫌いじゃない」
 伊純ちゃんはベッドの下に落ちていた洋服と下着を拾い上げ、私に投げつける。ばさっと私に降りかかった洋服で視界を失いつつも、「なにそれ」と言葉を返した。
「でも、私って千景とか伊純ちゃんみたいにしっかりしてないし……」
「誰もしっかりしろとは言ってない。……ただ、アタシはイチャイチャするのが嫌いだって言ってるんだ」
「……うぅ」
 相手の気持ちを考えなさい、って、お母さんに何回も言われて来たし、そうしたいところ、だけど。
 でも、私、伊純ちゃんにぎゅってして欲しくて、伊純ちゃんのそばにいるのに。
 伊純ちゃんがぎゅってしてくれるのが嬉しいから、恋人、なのに。
 そんなことまで、私は我慢しなくちゃいけないのかなぁ。
「アタシが持ってないものを求められても困るんだ。……わかるな?」
「伊純ちゃんだって、ぎゅってするぐらい、出来るでしょ……?」
「……あのなぁ」
 伊純ちゃんは仰仰しく溜息をついてから、「とりあえず服着ろ」と私に指図する。
 私は仕方なく下着と服を身につけつつ、「質問に答えて」と催促も忘れない。
 伊純ちゃんは私より先に下着と服を身につけてから、ベッドから下りて、私のそばに歩み寄った。
「アタシの気持ちも考えろ」
「……」
「出来ないなら、出て行け」
「そ、んなッ……」
 思わず反論しようとしたけれど、伊純ちゃんの目は冷たかった。
 伊純ちゃんの気持ち?私、伊純ちゃんの気持ちがわからないよ。
 好きなのに。どして、ぎゅってしてくれないの?
 ……伊純ちゃんの気持ちなんか、わからないよ。
「ッ、伊純ちゃんのバカ……」
「泣き落としも嫌いだからな。……お前が切羽詰ってるのはわかるけど、アタシはそんなに優しくない」
「……」
「そんなに誰かに甘えたいなら、あいつのところに行け」
「あいつ……?」
「――乾のところ。」





「佳、乃?……何やってんの?」
「うぇ……?」
 時刻は既に、零時を回った頃。私―――乾千景―――が部屋に戻ってから、三時間以上が経つ。
 未姫さんとのことで、考え込んでいた。後悔もないわけじゃないし、……うぅん。
 佳乃に顔を合わせたくなかったし、さっさと寝ちゃおうとか思ってたはずなのに。
 こんな時間になっても戻って来ない佳乃のことが心配になって、でもその心配も無意味なんじゃないかとか色々考えて。佳乃のことだから伊純と一緒に一晩過ごして、明日の朝にはまたいつもの調子で「泊まってきちゃった」なんて言うのかと、思って……そしたら余計苛立って、いっそ伊純の部屋まで行こうかと考えた。
 実際、ノックできるわけもないかな、なんて自嘲の思いに囚われながら部屋を出た、と同時に
 目に入ったのは、扉のそばでちょこんと体育座りをしていた、佳乃だった。
「……千景ぇ……私、どうしたらいいんだろう」
 佳乃は赤く充血した目で私を見上げ、ぐすん、と鼻を啜る。
 てっきり伊純と一緒だとばかり思っていたから、佳乃が廊下で体育座りしてるなんて予想外にも程があるし、それに佳乃がこんなに泣き腫らした目をしていることだって、驚くし、心配だし……。
「どうしたらも何も、なんで部屋に入んないの?こんなとこに座って……寒いでしょ?」
「うぅ……だって、千景……」
「……私と一緒は、いやなの?」
 思わずぽつりとそんな問いが零れていた。あぁ、こんなこと言ったら、また佳乃のリアクションで痛い思いすることになるのに!……と、後悔したのも束の間だった。
 佳乃は私の問いに、ぶんぶかと首を横に振り、「いやなわけないよ!」と否定していた。
「……え?」
「……う?」
 わけがわからなくて問い返すと、佳乃もきょとんとして首を傾げる。
 少しの間沈黙した後、私は佳乃に手を差し伸べた。
「とりあえず立って。部屋に入んなさい。話はそれからよ」
「うぅ……」
 佳乃は小さく唸りながら、私の手に、そっと自らの手を重ねた。
 そしてふと顔を上げると、「お姫様みたいだね」と小さく呟く。
 こんなウサギみたいな目ぇしてるくせに、変なところで乙女よね。佳乃って。
「……王子様」
「ん?」
 佳乃は小さくぽそりと何かを呟いて、立ち上がる。
 そして私と視線を合わせると、弱い笑みを見せ、重ねた手をぎゅっと握った。
「千景……。私ね、もう……壊れちゃいそうだよー……」
 佳乃の手を引っ張って室内に連れて行く途中、不意に佳乃が漏らした言葉に、私は振り向いた。
 とりあえず佳乃をベッドに座らせて、私は自分のベッドに座る。……ン? 佳乃、今、何て言った?
「伊純ちゃんには振られるし……」
「振られた!?」
 と思いっきり問い返しつつ、プッ、と吹き出した。
 佳乃はぷくっと頬を膨らませ「笑い事じゃないよぉ」などと言うけれど、いや、だって。
「振られたの?伊純に?なにそれ?」
「なにそれって……伊純ちゃんはね、ベタベタするのがいやなんだって……」
「あー、そうだろうなぁ。で、振られたの?ベタベタすんなって?」
「……う、うん」
 こくん、と頷き返す佳乃に、私はけらけらと笑いながら「バーカ」と当然のようにからかった。
 こういう時は笑いながらバカにする癖がついちゃってるんだ。佳乃相手だと。
 あんま、笑ってる場合でもないような気がするけど。
「じゃ、どうすんの?伊純がいなくなったら……佳乃は」
「うぅー……」
 佳乃は唸り声を上げながらごろんとベッドに横になり、目元を両手で覆った。
 佳乃の様子を見てると、少し混乱してくる、けど。
 伊純に振られたって、……私それ、すごく嬉しい。
「ねぇ千景、……戻って来てよぅ」
「……もど、って?」
 ぐすぐすと鼻を啜る音、その後で佳乃はガバッと上半身を起こし、涙目で私を見つめていた。
 でも、佳乃の言葉の意味がわかんなくて、私は小さく問い返すのみ。
 すると佳乃は落胆したように目を逸らし、呟くように続ける。
「……千景も、その、私のことどうでもよくなっちゃうぐらい、素敵な人とかいるのかなぁ」
「え……?」
 素敵な人――そう言われた時、ふっと浮かぶのは未姫さんの顔だった。
 私は未姫さんを奪おうとして……既に十分、酷いこと、した後だ。
 なんで私、あんなことしたんだろう。……佳乃のせい?
 違う。佳乃に置いてかれて、一人ぼっちに耐えられなかった私のせい。
「……何か、誤解してない?」
「ほぇ?」
 今、未姫さんのことを話すと、余計にややこしくなってしまいそうだった。
 隠しておくことじゃないかもしれない。だけど今は佳乃を不安がらせたくなかったから。
「私がどこに行くと?戻るも何も、私はずっと佳乃のこと……待ってたのに」
「……う、そ。嘘だよそんなの」
「なんで嘘って決め付けるの?」
「だって……だって千景、最近、すごく冷たくて……」
 佳乃って、本当に鈍いなぁ。頭が痛くなるほど鈍い。
 誰のせいで、私が苦しんだと思ってるの。……バカ。
「嫉妬ぐらいするわよ、私だって。」
「しっと?」
 きょとんと私を見つめる佳乃に、べー、と舌を出してそっぽを向いた。
 本当は赤くなる顔を見られたくないだけなんだけど。
「千景、私のこと、好き……?」
「え……」
「ねぇ、嫉妬するってことは好きってこと?」
「……」
 そんなこと、言えるわけ、ないじゃん。
 ちらりと佳乃に目を向けると、佳乃は白い頬をそれとなく赤くして、私の答えを待っているみたい、だった。
 でも答えに困ってまた目を逸らすと、沈黙の後、ぎし、とベッドが傾いた。
「ね、ね、千景ッ」
 佳乃は私のベッドに乗っかって、ずずいっと詰め寄ってくる。
 目を逸らしつつ更に押し黙っていれば、突如胸元にドカーン!と頭突きをかまされた。
「千景は、私のこと、好き?」
「……い、いや、だからそれは」
 ベッドに倒れこんだ私の上に乗っかって、佳乃はしきりに問いを繰り返す。
 しどろもどろになる私を、佳乃はじーっと見つめた後、不意にぽすんっとその顔を私の胸元に寄せた。
「……何、やってんの?」
 顔だけ起こして、私の上でぺたんこになってる佳乃を見れば、佳乃も少し顔を上げて微笑んだ。
「千景、好きッ」
「……え!?」
 突然爆発しそうなことを言われて、真っ赤になったのも束の間。
 佳乃はにへらーっとしまりのない笑みを浮かべて言葉を続ける。
「やっぱ千景は千景だね。今までと同じだよね?私はそういう千景のこと好きだよ。先輩としてっていうか、友達としてっていうか」
「……あ、あぁ」
 何なの、このありがちなシチュエーションは。
 先輩として、っていうか友達として。……あぁ。そういう意味ね。
「私も好きよ……後輩としてっていうか、友達としてっていうか」 
 物凄く気力を削がれ、へろっとした口調で返せば、佳乃はまた嬉しそうに笑っていた。
 それから私の身体に抱きついて、「ぎゅ」と小さく呟く。
 ……佳乃は、こんなことで嬉しいの?
 こんなことで、そんなに嬉しそうな顔をしてくれるの?
「……ねぇ佳乃」
「うんー?」
 私は佳乃の細い肩に手を添えて、よいしょ、と上体を起こし、「佳乃の欲しいものってなに?」と問いかけながら、ベッドの上で胡座をかく。佳乃はすぐに私の上にちょこんと座って、「ぎゅー」と、一言答えた。
「千景、ぎゅー、してくれる?」
「……私でいいの?」
「千景がいいの」
 佳乃は笑う。私を見て、嬉しそうに笑う。
 私はそんな佳乃に告げるべきことがたくさんあった。
 佳乃が伊純のところに行ってしまったから、私は苦しくて、寂しくて、耐えられなかったの。
 それで未姫さんに触れてしまった。彼女に、酷いことをしてしまった。
 私はあの時、未姫さんを奪うという方法しか見つけられなかった。……求めることも出来なかった。
 ずっと心の中には一人の女性がいて、私はその人を忘れることが出来なくて。
 だから未姫さんを求められなかった。奪うことしか出来なかったの。
 ……でも結局、奪ったって満たされないと、知って。
 私はもう、心の中の一人の女性にだけ、心底狂わされてるんだって、気付いたの。
 その人がいないとだめで、その人がいないと、苦しくて、おかしくなる。
 ぎゅっ、て身体を抱きながら、その背中を撫でて、――本当は告げたかった。
「……佳乃、私ね」
「うん?」
「佳乃がいないと……」
「……うん」
「…………仕事が進まないの!!お願い手伝って!!」
「え」
 ――でも言わない。まだ言えない。
 佳乃のことが心底好きで、佳乃の一挙一動で惑わされてる私がいて。
 私がもうちょっと強くなったら、佳乃のこと、守る自信がついたなら
 その時には言うかもしれない。言えるようになるかもしれない。
 佳乃のこと、全部愛してる、って。
「や、やだよぉ……折角公認でサボってたのに」
「何が公認よ!私が佳乃の分までやってただけだっつーの」
「千景、一人で大丈夫だって言ってたよぉー」
「そ、それはそれ、これはこれ!」
「ごまかさないのー」
「うるさいなぁもう、バカーッ!」
 まだ、時間はかかりそうだけど。
 そのうち私も素直になれるの、かな。
「バカって言う人がバカなんだよぉ千景」
「ば、バカって言う人をバカって言う人がバカなのよッッ」
 …………なれないような気もするなぁ。





「おはよう」
「おはよー」
 廊下をのんびり歩いていれば、後ろで交わされる挨拶を耳にして、ちらりと振り向いた。
「あ、伊純ちゃんもおはようー」
 遼と冴月が眠たそうな顔で手を振っているので、アタシ―――佐伯伊純―――は軽く手を挙げて応える。
 面々が向かう先は同じ。事情聴取が行なわれた広いホールだ。
 全員が集まることの出来る場所といったら、食堂かあのホールぐらいしかないからな。
 午前八時。朝っぱらから呼び出しやがって、と内心悪態を吐きつつも、しっかり参加してしまう自分が悔しい。ちなみに呼び出しの放送が入ったのは今から三十分前、朝七時半のことだった。
 『八時から朝の会を行います。場所は、えーと、事情聴取を行なったホールです。皆様、ご参加下さーい』
 間の抜けた放送は間違いなく小向の声だった。
 ……だから、行く、ってわけでもないけどな。まぁ様子は見ておきたい気もする。
 昨日は少し厳しく言いすぎた。
 『――小向が欲しいもんは、アタシ以外にも持ってるやつはいるだろ』
 ……乾のことを言いたかったわけだが、あの後乾がちゃんと小向に対応したか否か。
 もし乾にまで見放されていたら救いようがないからな。
 まぁ、さっきの放送の声を聞く限り、落ち込んでいるふうでもなかったけど、……と。
 噂をすればというわけでもないが、ホール手前の廊下には、小向と乾の姿があった。朝の会の打ち合わせでもしているのか、二人は何やら話しこんでいるようだ。
「……」
 アタシは小向に背後から近づいていく。乾がアタシに気付いて顔を上げるが構わない。
 ペシンッ!……うむ。今日も良い後頭部だ。
「い、いったぁい……何するのぉ……?」
 小向は打ち震えながら振り向いて、犯人がアタシだとわかれば、ふっと小さく息を飲む。
 一応、昨日のことは気にしているらしいな。
 アタシの後ろを歩いて来ていた遼と冴月が「暴力反対ー」なとど茶々を入れながら通り過ぎていく。やがて二人がホールへ姿を消すと、コホン、と一つ咳払いをしてアタシは切り出した。
「小向に話がある」
「……う?私?」
 きょとんとした小向に頷きつつ、ちらりと乾に目を向ける。乾はどこか複雑そうな表情でアタシと小向を眺めていたが、ふと気付いたように「外そうか?」と気遣い発言。それには首を横に振り、
「折角だから乾も聞いてろ」
 と言ってから、ほんの少しの躊躇。だけどここまで来たんじゃ、今更言わないわけにもいかないよな。
 ……小向はやっぱり、警官同士がお似合いだろうよ。乾には勿体ない女だけどな。
「実は、お前との付き合いは、遊びだったんだ」
「うん、……うぇ!?」
 一度頷いたくせに聞き返しやがる小向の額を、パコンッと叩く。
 何故、こいつを見てると殴りたくなるんだろうな。
「やっぱり誤解してたな。お前のことだからありうるだろうとは予想しつつ……」
「……ご、誤解?」
「ったりめーだろ。このアタシがお前ごときに本気になるとでも思ってんのか?」
「……え、えええ!!?」
 目を見張る小向の額、もいっちょパコンッと叩いてから、乾に目を向けた。
 乾は何も言わずに小向とアタシを交互に見ては、ふっと口元に笑みを浮かべ、「バーカ」と声に出さずに口を動かす。そのバカは何だ、アタシに向けたバカなのか?
「……とにかく、小向にはもう飽きたからな。そんだけ」
 言い放って、これで、用件は終わった。
 小向との関係も、何もかも、終わった。好きだったけどな。
 ……アタシはやっぱり、悪役が似合うだろう。
 主役は腐れ正義の味方の乾に譲ってやる。ヒロインの小向を大事にしてやれよ、と。
 やっぱり悪役じゃ、ヒロインは幸せに出来ないもんだ。
 だからな、乾。お前がヒロインのこと守ってねぇと、また悪役が攫っちまうぞ?
 ――なんて、な。自分で言っててちょっと寒いぜ、ちくしょう……。















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