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今日の日付、一月十日。 地下施設――あの時はまだ“09跡地”でしかなかった場所への避難令が出てから一週間弱。 私―――五十嵐和葉―――が千景さんのバイクの後ろに乗せて貰ってこの施設に来てから、まだ四日しか経っていない。なんだかあっという間の四日間だったように思うし、だけどとても長い四日間だったようにも思う。 私を取り巻いていた環境もがらりと変わった。つい先日までは、お店に通いながら平和活動に従事する日々を送っていたけれど、薄々、その毎日が終わることを覚悟していた部分も否めない。一緒に平和活動をしていた人たちも、いつしかその数を減らし、二週間前には最後の同志だった仲間達も活動をやめて故郷に帰ってしまった。お店では米国の人とのトラブルが起こって、巻き込まれないようにと、しばらくお休みさせてもらって。そして一昨日、都さんと一緒にお店に行ってみれば――そこには、誰もいなかった。 だから私は、他に行くところがなくなった。この施設だけが私の居場所になった。 それが悲しいこととは思わない。寧ろ喜ばしいことなのだろう。暖かい施設の中で美味しいご飯も食べられて、ふかふかのベッドで眠ることが出来て。千景さんや都さん、他にも私に良くしてくれる人は沢山いるし、冴月ちゃんや遼ちゃんといった可愛いお友達も出来た。そしてMinaさんとも毎日扉越しの会話を続け、互いに心を許していく。 今まで経験したこともないような、心地良い空気の中で生きている。 今まで抱いたこともないような、穏やかな気持ちで在れる。 こうして私がぬくぬくと暮らしている間にも、世の中の多くの人が冷たい空気の中で生きていて、死んでいく人がいて――……それはとても悲しいことなのだけど。 こんなに平和な空間にいると、危機感というものが麻痺していく。 外で起こっている悲しい出来事を、現実的に見れなくなっていく。 私はこのままで良いのだろうか。本当はもっとすべきことがあるのではないか。 そう、思いながらも。温かい空気を纏ってしまうと、そこから抜け出したくないと、そんな思いに捉われる。 自分本位な私自身に少し呆れてしまう、……だけどもう少し。 この安らぎの空間の中にいさせてもらっても、良い、だろうか。 私はこの幸せから離れたくないと、そう思うばかりで、動けない。 「まだゼンゼン眠いんだってば……」 ドアの向こうから聞こえてくる言葉に笑って、 「全然眠いって何ですかぁ。そういう時は全然眠くないって言うんですよ」 と返せば、「眠たいんだってばー」と尚も不服そうな声。 もう朝の十時過ぎだというのに、ドアの向こうのMinaさんは「寝かせて……」と、そんな寝惚けた声を上げている。私も一応、あんまり早く来すぎたら迷惑かなって思って起床してから二時間ぐらい待っていたし、この時間になってもまだMinaさんが寝起きだとは思わなかった。 Room10の扉に背中をくっつけてその場に座り込み、Minaさんが眠ってしまわないかとハラハラしながら言葉を交わす。時折、扉越しにゴンッと振動が伝わってくるところを見ると、うとうとしているのは事実みたい。 「夜更かししちゃだめですよ、Minaさん。何時に寝たんですか?」 「……夜の九時、ぐらい」 「ね、寝すぎですそれは」 彼女の気持ちもわからなくはない。この施設のベッドって本当に気持ちよくて、油断すると二度寝なんかしちゃいそうになる。だけどそこはちゃんとメリハリをつけて早起きしなくっちゃ。私は出身が北海道市だから、日の出は東京市よりもずっと早かったし、自然と早起きが身についているっていうのもある。 「ナデシコは、なんでそんなにいつも元気なわけー?」 Minaさんは怪訝そうな声で言った。ナデシコというのは私のあだ名だ。Minaさんはまだ私の名前を知らない。だから彼女は勝手に私のことをナデシコって呼んでいる。理由は大和撫子みたいだから、って。そう言われちゃうと、なんか嬉しくもあり照れくさくもあり。 「大和撫子は清楚で可憐で元気なものなんですッ」 「……カレンと元気は全然別物だと思うけどー」 「そんなことないですよ。ニッポン女子はパワフルなんです」 「アメリカ女子だって負けないもん。なんたって食べ物が違うしね、日本の米とアメリカの肉!この差は大きいわよ」 「Minaさん、お米をバカにしちゃだめですよ?」 ビシッと指摘しつつ、ふと常々抱いていた疑問が思い浮かぶ。 「そうそう、Minaさんに聞きたいことがあったんです」 「What? スリーサイズは教えられないわ」 「そんなことじゃないですってば」 陽気で気さくなMinaさんとは話していて飽きることがない。初めて会った時はコミュニケーションを取ることにすら躊躇したというのに、今や彼女とはごく自然に言葉を交わすことが出来る。 それはMinaさんの流暢な日本語のお陰だった。もしMinaさんが英語しか話せないのなら、英語が話せない私は今のように彼女とコミュニケーションを取ることは出来なかっただろう。 「Minaさんの日本語って、どこで習得したんですか?すごく上手だし、訛りもあんまりないし、不思議だったんです」 「そりゃ当然。ナデシコと話してるうちに覚えたのよ。頭脳明晰なあたしなら当然……」 「う、嘘ですよぉ。私、頭脳明晰なんて言葉使った覚えありませんッ」 「……バレた?」 扉の向こうのMinaさんは、軽い調子でケラケラと笑った。 相変わらずだなぁと苦笑いをしながら、「ホントはね」と続くMinaさんの言葉に耳を傾ける。 「あたしのgrandfather……つまりおじいちゃんが、日系二世なの」 「じゃあMinaさんも日本人の血が混じってるってことです?」 「そういうこと。おじいちゃんって何かと日本贔屓でね、日本語も教えてくれたわ。」 「へぇ……そうだったんですか」 意外な事実に驚きながらも納得する。道理で日本語がペラペラなはずだ。 よほど日本が大好きなおじいさまだったんだろうなぁ。 「因みに。」 「はい?」 「おじいちゃん命名の、あたしの日本名ってやつも存在してるのよ」 「日本名?わっ、聞きたいですそれ」 Minaさんの日本名…… やっぱりこう、Minaさんの性格とか容姿とかを表している名前になるのかな。 光とか、凛子とか、麗美とか。そんな、芯があって綺麗そうな名前……と、予想した。 しかし、そんな私の期待をあっさり裏切りながら彼女は告げた。 「オニヅカ・ミナ。」 「……ミナ、って。そのまんまじゃないですか!!」 「そりゃそうよ、日本名にも出来るようにってMinaって名づけられたんだから」 「は、はぁ……」 なんだか少し拍子抜けしつつも、確かに普段も「ミナさん」って呼んでるんだし、その方が自然なような気はする。それにそれに、きっと漢字は綺麗なんだ。美奈とか、美那とか、実成とかも可愛いかなぁ。魅奈とかだったらどうしよう! 「漢字はね」 「は、はいッ」 「箕星のミ。わかる?竹冠に其れっていう字書くんだけど」 「……箕?」 Minaさんに言われるままに漢字を思い浮かべ、手の平に書いてみる。あんまり馴染みのある漢字ではないけれど、どんな意味があるのかな。 「箕星っていうぐらいですし、なんかこう、綺麗な意味がある漢字なんですよね?」 「箕っていうのは、農具の名前、らしいわ。」 「…………農具?!」 また予想もしない単語が出てきて、思わず聞き返していた。 箕。ミ。……箕? 「ナは、ね。カタカナで、ナ。……実はあたしも、よくわからない。I can't understand.」 『箕ナ』と手の平に書いてみるけれど、確かにMinaさんの言う通りよくわからない名前だった。いや、きっとMinaさんのお爺さまも何か意味を込めて名づけたんだと思うけれど、でも、うーん。 「鬼塚箕ナ。それがあたしの日本名よ。まぁMinaでも箕ナでも好きに呼んで貰えれば……」 「どっちも響きは殆ど変わらないですしね。箕ナさん。Minaさん。……うーん」 日本語の箕ナさんで呼んでみても、英語のMinaさんで呼んでみても自分で言ってて同じに聞こえる。Minaさん本人が言ったら、舌の使い方とかが違うらしく、ちょっと響きが違うんだけど。 名前も奥が深いなぁと感心していた、その時だった。廊下の向こうから聞こえた靴音に顔を上げると、Room08の個室に入ろうとしている人物の姿。彼女は私の姿に気付くと、ふっと小さな笑みを浮かべてこちらへと歩み寄ってきた。 「おはよ。またMinaと話してるの?」 「都さん、おはようございます。はい、いつも通り」 今まで何かとお世話になった都さん。彼女は職場に付き添ってくれた後も、お食事をご一緒したりと仲良くさせてもらっている。……その、お仕事、の一件でお互いに照れちゃうこともあったけれど。最近は幾分慣れて、自然にお話ししたりも出来る。都さんは私にとってはMinaさんの次ぐらいに仲良しの人、だと思う。 都さんは「通い妻ね」などと苦笑しつつ私のそばにしゃがみ込み、Minaさんには聞こえないよう小声で言った。 「Minaの調子、どう?」 その問いに、私は笑んで頷く。Minaさんとは日に日に仲良くなれている気がするし、順調だと思う。 きっとMinaさんの心のナイフが消える日も、そう遠くはないはずだ。 「ナデシコぉ、誰と話してるのー?」 扉の向こうからの不服そうな声に、私と都さんは顔を見合わせて笑う。 都さんはコホン、と一つ咳払いをした後で、声色を変えて扉へと語りかける。 「Minaさん、実は私、お話ししていなかったことがあるんです」 と、都さんが紡いだ言葉に驚いた。否、言葉というよりも――声に。 「What?突然どうしたの、改まって」 Minaさんも、今の言葉が都さんの紡いだものだとは思っていない。それも当然のことだ。 だって今の都さんの声……わ、私の声にそっくりで! 都さんは私に向け、唇に指を当てて「静かに」と示す。 そして明らかに楽しんでいる表情で、都さんは言葉を続けた。 「私、本当は……好きな人がいるんです!」 「……す?」 聞き返そうとする私の口をガバッと塞ぎ、都さんは更に続ける。 「相手は三つ年上のお姉さんです……薔薇のように美しく、聖水のように澄んだ心を持ったお方。私は彼女をッ、都さんを愛してしまったのですっ!」 「んーッ、んぐぅっ」 「……はぁ?」 私はそんなこと言った覚え、ないんですけどぉッ。都さんの声真似が本当の本当にそっくりだから、Minaさん信じちゃってるみたいだし!そ、そんな誤解を招くようなことを……! 「まぁ和葉ちゃんったら大胆ね。本人の目の前でそんな告白するなんて。照れちゃうなぁ」 「照れちゃうなぁじゃないですよ!今のは私が言ったんじゃなくて、あぁんっ、違うんですよMinaさん!」 地の声に戻して意地悪くからかう都さんに、私は彼女の手を振りほどいて反論した。 扉の向こうのMinaさんはただただ沈黙を守るばかりで、うぅ、絶対誤解されちゃってる。 誤解されて困る、とかじゃないけれど、やっぱり嘘は良くないし!泥棒の始まりだしッ! 「そんなわけだから和葉ちゃんのことは諦めてね?」 「諦めてもなにも!私とMinaさんはそんな関係じゃなッ……」 言いかけてふと、どこからか聞こえた微かな声音に耳を澄ませた。 それは、含み笑い、か。可笑しげに笑う声は、扉の向こうから聞こえてくる――。 「……ぷ、はははは!二人ともバカじゃないの?」 「え?」 「な、なにが?」 Minaさんの言葉に私と都さんは顔を見合わせた。 何かおかしなことをしてしまっただろうか。いや、都さんはおかしなことをしすぎだけれど。 また扉に目を向けて、Minaさんの声を耳にする。 「今の会話で、致命的なミスを犯したわね。前にした約束を忘れたとは言わせないわよ……カズハ?」 「……あ」 言われてようやく気がついた。以前に、Minaさんと交わしていた約束。 『Minaさんがその答えを見つけた時、私の名前を呼んで下さいね。』 Minaさんはあの約束を交わしたときから、既に“その答え”を見出しかけている、そんな気がした。 だけど具体的にまだ見えていない。もっと鮮明になるまでに時間が掛かる。 確固とした答えが存在しない限り、過ちを犯す危険性は消えるとは言えない。 私はMinaさんに敢えて名前を教えなかった。考える時間、という意味で。 いつかMinaさんの心のナイフが壊れ、本当に私達に心を許してくれた、その時に。 私の名前、教えようと思っていたのに。 「名前を呼んでくれたってことは、前に言っていた“答え”を、見つけてくれたんですよね……?」 静かに問うと、「of course」と軽い言葉が返って来た。 Minaさんって、気さくで良い人ではあるんだけど、少しだけ軽率な節もある。 だから、彼女の本心が時々わからない。今、Minaさんが何を思っているかがわからない。 私は逡巡しながら都さんを見上げた。 都さんはちらりと私と視線を交わすと、よく通る声で扉へ向けて告げる。 「じゃあ答えは何?Minaが自由を手にするための、正当な理由とは?」 「それはね。……日本人は日本人、アメリカ人はアメリカ人。そんな差別なんかバカバカしいと思ったからよ。だってあたしたち、同じ人間だもの!そうでしょう?」 「…………わ、わざとらしい」 がくりと壁に手をつく都さんは、弱い溜息を漏らしつつ私を見る。 どうして……都さん……そんなリアクションを取るんだろう。 だって今の、今のMinaさんの答えは―― 「素晴らしいじゃないですかぁッ!!Minaさん、ついに改心してくれたんですね!私、本ッ当に感激です!」 「もちろんよ和葉!人類皆兄弟!平和万歳!そうよね!!」 「はいっ!そのとおりです!」 扉の向こうのMinaさんと心から意気投合して、私は幸せでいっぱいだった。 米兵として私達に強襲したMinaさんがッ!今はこうして、私と同じように平和を祈ってくれるんだもの! こんなに嬉しいことが他にあるだろうかっっ! 「…………和葉ちゃん。本当に、いいのね?」 「勿論です!私、千景さんのこと呼びに行って来ますね!鍵開けて貰わなきゃっ」 と浮き足立って駆け出そうとする私を、都さんが引きとめた。彼女の手には細い針金。 そして都さんは真っ直ぐに私を見つめ、先ほどの言葉を繰り返す。 「本当の本当にいいのよね?Minaは自由を得る権利があるのよね?」 「……はい。」 確かな頷きを返せば、都さんは「わかったわ」と小さく言って、針金を扉の鍵の部分に差し込んだ。 カチャカチャと音が聞こえてから少し。ガチャ、と一つ大きな音がした。鍵が開いた音だった。 都さんはドアノブに手を掛け、ゆっくりと扉を開く。 開け放った、扉の向こう。……数日ぶりに見る、Minaさんの姿。 「……和葉。」 Minaさんは私と目が合うと、小さな笑みを見せてくれた。 キラキラと輝く瞳。あぁ、きっとこれは平和に目覚めたMinaさんの新たな姿。 「Minaさん……」 うっとりと見惚れながら、私も一つ笑み返す。 平和を願う同志が増えるということは、最高の幸せだ。 やがてMinaさんはゆっくりと私に歩み寄り、その手を伸ばす。 確かめるように肩に触れ、緩く撫ぜ、そしてぎゅっと掴んだ。 「……?」 とん、とん。Minaさんに押されて数歩後退れば、背中が廊下の壁につく。 どこか厳しい表情で、鋭く私達を見る都さん。 そしてキラキラ……否、どちらかというとギラギラした瞳が、目の前に―― え? 「和葉ってホント、単純ね」 「……Mina、さん?どうしたんです?」 「あんな猿芝居に引っかかるなんて」 「……!?」 Minaさんの指先が私の頬に触れ、やがてそれは首筋を伝い、背中へと。 細められた目が、ほんの数センチの距離。Minaさんの吐息までもが感じられて、ぞくん、と震えた。 「答えなんてもっと単純で、人間的なものなのよ」 囁かれた言葉の裏に潜む、Minaさんの本当の意図。 今までとは全く違う彼女の口調に、少しだけ怯えてしまう。 微かな恐怖に目を瞑った、その時。 私の身体に纏っていた彼女の手が、ぎゅっと力を込めた。 「あッ……Minaさ、ッ……!」 「………………。」 私―――伴都―――が思っていた通りだった。 きっとMinaの言葉の裏には、何か別の意図があるはずだと気付いていた。 Minaがいきなり「平和万歳」なんて言い出すはずがない。 和葉ちゃんはこういうところが世間知らずというか、夢見がちというか。それが可愛いんだけど。 しかし和葉ちゃんはもう少し現実を見据えるべきだったのかもしれない。 もしそうだったら、きっとこんなことには、ならなかったのに……。 「み、都さぁん……そんな神妙な顔してないで、助けて下さいよぉ……」 「ふふ。逃がさないわよ、和葉。」 そんな二人、和葉ちゃんとMinaの姿を眺め、私は暫しの思惟に耽る。 この二人を何かに例えるならば、一体何が相応しいのだろうか。 殺人鬼と抵抗する女の子。……否。 強姦魔と帰宅途中だった女子大生。……否。 猛獣と小動物。……否。 違う。そんなに鬼気迫る状況ではないのだ。 もっとこう、のほほんとしていて微笑ましくて……そうだ! 「飼い主とペット」 これだ。間違いない。今の二人の状況はまさしくこれなのだ。 部屋を出たMinaは、じりじりと和葉ちゃんを追い詰め、そして突如和葉ちゃんを抱いて座り込んだ。 廊下に胡座をかいて、その上に和葉ちゃんをちょこんと座らせる。 しっかり両手で和葉ちゃんの身体を抱いて自由を奪った上で、Minaは満足げに言ったのだ。「うん、幸せ」 Minaの気持ちはよぉぉぉくわかる。女の子を膝の上に乗せるという行為がどれほど幸せなものか。 乗っかっている和葉ちゃんは不思議そうな顔で「私がペットですか?」などと問いかけるけれど、後ろからMinaに頭を撫でられてくすぐったそうに肩を竦める様子なんかを見ていると、満更でもないようだ。 「Minaもなかなかのバカよね……」 私はぽそりと呟いた。すぐに「Why?」と怪訝そうな声が返って来る辺り、自覚すらないということか。 「和葉ちゃんは真剣に“答え”ってやつを考えて欲しかったのよ?」 「考えたわよ、ちゃんと。……和葉に触りたいっていうのが答えなのッ」 「だからバカっつってんの。バカバカバーカ」 「う、うるさい」 ついつい喧嘩腰になってしまう私とMinaを交互に見て、和葉ちゃんは暫しきょとんとした後、クスクスと可愛らしい笑みを見せた。「いいんじゃないですかぁ」と、気の抜けたような声を漏らしながら、和葉ちゃんはMinaに身体を寄せる。……私はこれが気に入らないんだけど。目の前でイチャイチャしやがってー。 「触りたいってことは、もう私に敵意は持ってない、ってことですよね?Minaさんが触りたかったのは、日本人の五十嵐和葉じゃなくて、単なる五十嵐和葉でしょう?」 「……うん。多分そんな感じ」 「なら、いいんです」 和葉ちゃんはふわりと柔らかい笑みを見せると、Minaに寄りかかったまま、くい、とMinaの頭を抱いた。 「和葉って、見かけによらず大胆よね」 というMinaの呟きに心の中で同意しつつ目を逸らす。 けれど耳にはしっかり届いてしまう、ちゅ、と小憎たらしい音が。 「……ついでに、キス魔だし」 こんなことで妬いちゃう自分がちょっぴり情けない。私は初耳だぞ、和葉ちゃんがキス魔なんて。 「Mina、ずるーい……」 思わずそんな不平を漏らすと、和葉ちゃんは顔を上げて小首を傾げ、 「都さんにも、しますか?」 などと可愛いらしい問いを投げ掛けてきた。 思わず即答YESと返すところだったが、そこはぐっと堪えて堪えて。都さんは大人の女ですから。 「後は若い二人に任せて、私はお暇するわよー」 「はい、またね。Goodbye、ミヤコ」 これじゃあ大人の女どころか、ご年配の方みたいになっているぞ私。 しかもMinaってば、まるで邪魔者を追い払うようにあっさりと。ちょっぴり切ない。 「都さぁん、私のこと放置ですかぁー」 最後の最後までそうやって引き止めてくれる和葉ちゃんが愛しいわ……クスン。 ほんのりセンチメンタルになりながら、私はその場を後にしたのだった。 …………あれ、なんだろコレ。私本当に嫉妬してない、か? 可愛いもんね、和葉ちゃん。……反則、ってぐらい。 「本当の本当に大丈夫なんでしょーね?また勝手に部屋のロック解除したりして、もし次に何か起こったら注意だけじゃ済まないわよ?というよりも、何か起こる前に私達は手を打たなくちゃいけないの。だからやっぱりMinaのことは心配で……」 「大丈夫だってば。No problem.」 表情を曇らせて矢継ぎ早に文句を零す婦警千景へと、あたし―――Mina=Demon-barrow―――はひらひらと手を振りながら言った。本人が大丈夫っつってんのに、なんで聞かないかなぁこの婦警は。 あたしの隣には和葉の姿。和葉はまるで恋人のようにあたしの腕を抱きながら、千景に負けじと言い返す。 「ロックを解除したのは都さんなんですッ!いえ、その、都さんが悪いっていうわけでもないんですけど、だからつまり、安全だっていうことが確信できたから都さんもロックを解除してくれたんだと思いますし!ほら!現にMinaさんは改心して、今じゃこんなに仲良しなんですよッッ!ねぇMinaさん?」 「う、うん。まぁね。」 和葉の仲良しの定義があたしにはよくわからない。というよりも、和葉のキスはどの程度のキスなのかがあたしにはわからない。やっぱり親しい友人にするものか、それとも挨拶に交わすようなキスと同じ程度なのか。少なくとも恋人同士じゃないとしちゃいけない、といった古風な考え方ではないのは間違いないだろう。 「仲良しねぇ……」 千景は今一つ納得出来ない様子で首を捻る。 因みにここは婦警二人の部屋らしく、扉のところで千景と立ち話をしているわけなのだが、部屋の奥には隠れているつもりなのか何なのか、壁のところから顔を覗かせるもう一人の婦警の姿があった。しばし眺めていると、奥の婦警ははっとしたように壁の影に隠れた後、少ししてひょっこりと顔を出す。 「……Minaちゃん、だよね?」 おずおずと掛けられた声。千景も「ん?」と振り向いて、「佳乃、何やってんの?」と怪訝そうな声を掛けた。 あの女が佳乃か。和葉と扉越しに話していた時、この施設にいる人々のこともある程度は聞いていた。のんびりしていてあんまり婦警さんらしくない婦警さん、と和葉が言っていたが、既にそんな雰囲気がひしひしと伝わってきている。 「私もお話しに混ざっても大丈夫?」 佳乃は少しずつ距離を縮めながら、おずおずと問う。 あまりに遠慮がちな様子を見ていると、素直にYESなどと出てくるはずもない。 「Noって言ったらどうする?」 「…………言われるような気がしたよ」 がっくりと肩を落として引き返そうとする佳乃を、千景と和葉が慌てて引き止めた。 「い、いいわよ別に、うん、佳乃が入れば話も早く進みそうだし」 「そうですよ!佳乃さんのお力を貸して下さい!」 二人のフォローじみた言葉の後、ポカンッ、とグーパンチがあたしの頭を襲う。 え?え?何?なんであたし、和葉に殴られてんの? 「み、Minaさんッ、今は佳乃さんのことを労わって下さいねっ」 和葉は小声であたしに言ってから、「つい殴っちゃった」と反省の言葉を付け加えた。許す。 労わるって何事かしらと疑問に思いながら、ゆるりと振り向く佳乃の姿を眺める。 「Minaちゃん、これからは閉じ込めてなくてもいいのかな?」 佳乃はころっと態度を変えて、弱い笑顔でそんなことを言いつつあたしたちの方へ歩み寄った。 その言葉に、「そうです!」と頷く和葉と「いや、それは」と言葉を濁す千景。 フフーン?この佳乃って女が混ざった途端に空気が変わった。特に目立つのは千景の態度が弱くなった部分だ。何かあるわけね、この女。 「ねぇ佳乃、千景にも何か言ってあげてよ。あたしのことは心配しなくても、ぜぇーったい危害なんか加えないからさぁ」 千景の態度が弱くなる、ということは、佳乃に味方についてもらえれば事が上手く進みそうだということだ。 あたしは早速、佳乃に媚を売ろう計画を発動した。 「あたしを自由にしてくれたら、佳乃にも本当に感謝するしー。」 「……や、その、感謝されるようなことはしてないですけどぉ」 「ううん、佳乃は影であたしのことを労わってくれたのよ。……多分」 「そ、そう言われればそうかもしれないけど……えへへ」 佳乃とやら、なかなか単純な女である。もう一押し! 「冤罪は警察として許されないことだと思わない?あたしは心底改心したわけだし、罪のないあたしを軟禁すること自体が罪だとは思わないッ?」 「Minaさんの言う通りです!!」 「……う、うん」 和葉まであたしにしっかり同意してくれるし、佳乃もかなりあたしに傾いている。 しめしめ、この調子で…… 「調子に乗ってんじゃないわよ」 「ぐぅっ!?」 突如、ビシッと言い放たれた千景の一言に、あたしは思わず唸り声を上げていた。ち、千景ってば、そろそろ押されて来た頃だと思っていたのに、寧ろ吹っ切ったかのように迷いのない表情を見せている。……ち。 「保護している警察の代表として、そして佳乃の先輩として、全ての判断は私が下すべきなのよ」 「……マジ?千景ってそんな偉い人なの?」 「当然!」 バンッ、と千景は壁を叩き、睨みを利かせるようにあたしを見つめる。 そして千景は勝手に、あたしへの処置を言い放った。 「軟禁は解除する。……その代わり、一時も和葉ちゃんのそばを離れないこと。」 「……ン?」 「え、私ですか?」 あたしは思わず和葉と顔を見合わせ、千景の言葉に首を傾げた。 千景は尚もきびきびとした調子で言葉を続ける。 「そうすぐに平和云々を掲げるとは思えない。Minaの本心は、そんな善人的なものではない、と推測する。」 「失礼な……」 「とすれば!Minaの目的はただ一つ!和葉ちゃんでしょう!」 「……えぇ?」 千景の推理、微妙すぎ。当たってないこともないけど、別にあたしは和葉が欲しいわけじゃ……こうやって和葉とギューしてるのは楽しいけど、でもだからって目的が和葉ってのはいくらなんでも……。 和葉はきょとんとした表情であたしと千景を見比べているし、佳乃に至っては何が何やらわかってもいないような表情で首を傾げているし。 暫しの沈黙が流れた後、最初に口を開いたのはあたし。 「……和葉がいいなら、あたしはそれでO.K.よ」 「あ、私も別に構いません」 千景の提示した条件、考え方としては突飛なような気もするが、中身を見ればあたしにとって何の不利益もない。和葉とずっとくっついてるのも嫌じゃないし、和葉もO.K.してくれてるし。 「なら決まりね。和葉ちゃん、Minaの監視は頼んだわよ。今後は六号室に二人で滞在すること!」 と千景に言い放たれ、あたしと和葉は揃ってコクンと頷いた。 すると千景はチラリと室内の佳乃に目を向けてから、「話、終わったわよね?」と確認し、あたしたちの横を通って廊下に出た。まるで佳乃から逃げるかのように見えるのは、あたしの気のせいか。 足早に廊下を歩いていく千景の後ろ姿を見送った後、室内に取り残された佳乃に目を向ければ、 「……千景ってば」 と、不満げに呟く姿があった。 軟禁されてたから外の状況ってやつをあたしは殆ど知らない。佳乃と千景にも色々問題があるわけか? …………ま。あたしの知ったこっちゃないけどねー。 「んじゃ和葉、あたしたちの愛の巣へLet's go!!」 「あ、愛の巣って……」 佳乃に変に口出しするのも良くないと思い、あたしは和葉を引っ張って婦警達の部屋を後にした。 これからはずっと和葉と一緒。そう思うと、なんだか妙に嬉しくなってしまうのはなんでだろ? 「ふー」 部屋の扉が開いたかと思えば、間髪入れずに聞こえてくる溜息。 私―――志水伽世―――は何事かと、ギターの弦を弾くのを止めて顔を上げた。 溜息を漏らしたのは、相部屋の都姉さんだ。都姉さんはとぼとぼと室内に入ってくると、私の姿を見止めて「よっ」と弱く声を掛けた。 「おかえり、姉さん。……ナニナニ、その溜息。何かあったの?」 「べっつにぃー」 口を尖らせてそっぽを向くあからさまなリアクションに、思わず吹き出しながら「わかりやす」と呟いた。 都姉さんは尚も不満そうな表情を浮かべつつ、私が腰掛けているベッドにどっかりと倒れこむ。 うつ伏せのままで約五秒。やがて息が出来ないとばかりに「ぶはっ」と顔を上げ、姉さんは上体を起こす。 「伽世ちゃぁーん、都姉さんは複雑よぉー」 「なーにがー?」 「和葉ちゃんがさー」 姉さんはあたしの背中にペッタリと額をくっつけ、また一つ溜息を漏らす。 和葉ちゃんねぇ。都姉さんの話題のうち、十回に一回ぐらいは和葉ちゃんの名前が出てくる。私は和葉ちゃんと話したこともあんまりないし、よく知らないんだけど。なんでも都姉さんのフェイバリットだとかで。 「Minaと仲がいいって話したじゃない?でさ、Minaも和葉ちゃんのこと気に入ってるみたいでね」 「へぇ。相思相愛、ってヤツ?」 「…………」 何気なく返した言葉に、都姉さんは黙り込む。あっちゃぁ、痛いところ突いちゃったか? 失言だなぁと思いつつも、姉さんの様子が可笑しくって思わずクスッと笑ってしまう。背中にガツンと頭突きをかまされながらも、姉さんの意外な一面を見ちゃったようで、また少しだけ笑った。 都姉さん、と呼んでいるけれど、私と都姉さんは以前から交流があったわけではない。この施設に来てから知り合って四日、今ではすっかり仲良しだ。最初に彼女と言葉を交わしたのは、事情聴取の後、休む部屋を見繕っていた時に声を掛けられた。 『そこのギターウーマン、私と相部屋しなーい?』と、まるでナンパのような第一声に、私は吹き出した。 事情聴取の時も都姉さんの聴取は聞いていたけれど、私は最近上京したばかりとあって『怪盗Happy』の話は知らなかった。だけど東京市では結構な有名人らしいし、少し興味もあったわけ。気さくそうな人だし、こういう人なら気を使わないで済みそうだと、そんなことを思いながら相部屋を受け入れた。 そして四日間、あたしは姉さんの面白さを次々と発掘して行った。 部屋で退屈していた時には、『面白いことしてあげる』といって手品なんか見せてくれるし、物真似もありえないぐらい上手い。楽しませてもらったお礼に私がギターを演奏すれば、彼女は心から楽しげにギターの音色に耳を傾けてくれて、弾いてる方も嬉しくなる。 私は彼女の人間性に惹かれ、都姉さんも『伽世ちゃんのギターが好き。っていうか伽世ちゃんが好き』と真っ直ぐに言ってくれる。明るくて優しくて、本当に素敵な人。だから私は二日目に彼女に言った。『姉さんって呼ばせて下さい!』ってね。都姉さんもあっさりOKしてくれて、『これからは可愛い妹ね』などと笑っていた。 そんな明るい姉さんなのに、今日は少し様子が違う。和葉ちゃんのことで溜息なんて、これはもしかしてもしかすると恋煩いってやつですかっ? 「和葉ちゃんって可愛いし……皆から好かれるタイプだと思うのよ……Minaも別に恋愛云々の感情を抱いてるわけでもないだろうし……でも……何……」 姉さんは自分に言い訳するような呟きを私の背中で漏らし、終いには「伽世ちゃーん」と背後から抱きつかれる。思わず苦笑を漏らしつつ、私に絡みついた姉さんの手をポムポムと撫でた。 「はいはい……つまり都姉さんは和葉ちゃんのことが好きってコト?」 「……え!?」 「違うの?そうとしか聞こえないわよ?」 「い、いやいやいやいやいや」 そこで思いっきり否定する辺りが余計にアヤシイ。姉さんもなんだかんだで乙女よね。カーワイイ。 「和葉ちゃんはさ……なんつーか……可愛い妹、って感じなのよ」 「妹は私じゃないの?」 「うっ。伽世ちゃんも可愛い妹だけどぉ」 ぎゅー。背後から抱きつかれると、どう返せば良いのか迷う。少し考えた後、私はギターを傍らに置き、背後にぐぐぐっと倒れこんだ。姉さんは少しもがいていたが、結局押されるままにベッドに倒れこむ。 そうして二人でベッドに寝転んで、顔を見合わせ少し笑った。 「伽世ちゃんはさ、好きじゃない人とキスできる?」 「キス?」 突然の問いかけにきょとんとしつつ考える。だけどその問い、考えずとも答えはすぐに見つかった。 「……私はそういうの、あんま気にしないかな。余程嫌いじゃない限りは出来るかも」 「へーぇ?伽世ちゃんって遊んでる?」 「遊んでるってわけじゃないけど……」 苦笑して言葉を濁す。好きじゃない人とキス、ってのは、今までもしょっちゅうしてたこと。だけどそのことを姉さんに言う気にもなれなくて、曖昧な言葉しか返せない。 そんなあたしの様子に気付かずか、姉さんは戯れるように身体を寄せて「ちゅー」と唇を突き出した。 タコみたい、とか思いつつ、ちゅ、と軽く唇を寄せて「姉さんも出来るんじゃない」と額を小突く。 「……うぇ?ホントにするとは思わなかった」 姉さんはパチパチと瞬いてから、「照れるじゃん」などとケタケタと笑う。 「照れてるようには見えないわよ。っていうか姉さんが照れてるとこなんか想像できない」 「姉さんだって照れることもあーるのっ。マジちゅーしたら照れるかも?」 そんなこと言いつつ、ちらりと向けられる視線を受けて、「はいはい」と笑いながら姉さんに顔を近づけた。 「……本当にする?」 「照れてるとこ、見たいもん」 確認するような軽い会話の後、また軽いキスを交わして、それからぴたりと唇を密着させる。 リクエスト通りのマジちゅー。遊びでこんなこと出来るの、都姉さんぐらいだなぁ。 深いキス、舌の動きなんか感じてると、相手の経験がどのぐらいかってのは大体わかるもんだけど、姉さんのキスは思いの他、拙かった。 「んー……」 鼻に掛かった声なんか漏らされると、相手が年上だってことも忘れて、可愛いなぁとか思っちゃう。 長いキスの後、「ぷは」と唇を離して、見つめ合ってから小さく笑った。 「……伽世ちゃん、小慣れてる?」 「まぁねー……」 どさりとベッドに仰向けになって、新鮮な空気を吸い込んだ。まだ少しだけ、自分のとは違う唾液が口の中に残ってる。姉さんが朝ご飯の時に飲んだのか、ほんのりコーヒーの味がする。 「照れた?」 「……うん、ちょっと」 隣を見れば、本当に頬を赤くしてる姉さんに「カーワイイ」と漏らしながらクスクスと笑った。 大人びている人だと思ってた。だけど今の姉さんは、なんだか女の子って感じがして新鮮だ。 赤くなった頬に手を当てて、「恥ずかしぃ」とか言いながら、その視線は宙を泳ぐ。 少しの沈黙。今、姉さんは何を考えているんだろう。やっぱり可愛い和葉ちゃんのことかな。 「恋、してみたら?」 黙りこんでいる姉さんに、私はぽつりとそう言った。 姉さんは視線だけを私に向け、「伽世ちゃんに?」と的外れなことを言う。 上体を起こし、「バカー」と笑いながら姉さんの額を小突いて 「和葉ちゃんに決まってるでしょうッ!妹分の志水伽世、心から応援するッス!」 と、冗談めかして明るく言った。 こういう時、変に明るくしすぎるの、私の悪い癖かもしれないけど。 姉さんはふっと弱く笑んで、口元に笑みを湛えたまま、その腕で目元を覆う。 「この歳になると、恋するの、少し怖くなる」 「……失恋するのが?」 「かもね」 彼女の口元は笑ってるけど、覆われた目元は見えなくて、その目は笑ってないんだろうなと思った。 私はそっと身体を落とし、不意打ち、とばかりに四回目のキスを落とす。 「……じゃ、恋じゃないキス、してればいい」 「ン……?」 少しだけ冷たくなってしまった私の言葉。 都姉さんは腕を外し、眩しそうに瞬いて、「恋じゃないキス?」と問い返す。 「私もマジコイなんて、今じゃ出来ないよ」 そんな言葉を返して、姉さんから目を逸らした。 恋をするって怖いこと。姉さんの気持ちは痛いほどによくわかる。 恋なんかしなくていい。恋なんかしなくたって、こうしてキスすることは出来るもの。 「それなら別に……」 姉さんは上体を起こし、私と視線の高さを合わせて弱く笑む。 そして私の唇に指を伸ばし、つ、と触れた上で一度切った言葉を続けた。 「和葉ちゃんじゃなくて、いいような気がする。……伽世ちゃんとキスしてる」 「……私なんかでいいのー?」 「伽世ちゃんのこと、好きだからね」 あっさりと告げられる言葉に、思わず小さく吹き出した。 「告白みたいよ、ソレ」 「うん、そんなもん!伽世ちゃん、惚れたぁーっ」 姉さんは楽しげに言って笑う。どこか空っぽな笑い声を上げる。 冗談めかした言葉と、遊びで交わすキスと、埋まらない心の隙間。 この人は私と同じもの抱えてる人なのかなって、そんなことを思って。 本気の恋をすることを恐れ、つい遊びに走っちゃって、どっか空虚な気持ちを抱えて。 ――でも私、それじゃダメだって、わかってる。 「……都姉さんは和葉ちゃんのこと、諦めない方がいいわ」 「伽世ちゃ?どしてそんなこと言うのぉー」 「だって……」 だって、単なる遊びががホントの恋になることも、ありえないわけじゃ、ないからね。 私が本気で姉さんに惚れちゃったら、取り返しがつかなくなるような気がする。 彼女には、やっぱ他の人のこと惚気てて欲しい。私は「はいはい」って流しながら、その話を聞く役目が相応しい。―――私は、恋なんかしない。 「……姉さんと和葉ちゃん、お似合いって感じだし」 と、繕った言葉を告げれば、姉さんはどこか不思議そうに瞬いた後、「そっか」と小さく頷いた。 姉さん知ってるはずだ。私は姉さんと和葉ちゃんのツーショットなんか見たことない。 和葉ちゃんのことは殆ど知らない。お似合いなんて言えるはずがない。 姉さんはそのことを知っているのに、納得したような素振りを見せてくれる。 「そうよね!和葉ちゃんには私しか!……だったらいいなぁ」 姉さんは楽しげに言って、またどさりとベッドに倒れこんだ。 私はその姿を微笑ましく眺め、彼女がいつか本気の恋に落ちればいいと、そんなことを願った。 人の幸せはダイスキ。 自分の幸せだって、ダイスキ、だけど。 もう私は、幸せになる権利、どっかに無くしちゃってるから。 私は、幸せになるよりも、人の幸せを祈ってる方が似合ってる。 「ぎゅー」 「……ぎゅーって」 なんで私―――五十嵐和葉―――は、Minaさんをおんぶしてるんだろう。 しかも移動中とかじゃなく、お部屋の中で。身長は同じぐらいなんだけど、Minaさんは筋肉とか付いてる感じだから、私より体重は上かもしれない。だから、その、お、重たいんだけどッ……。 「Minaさん……か、代わって……」 懇願すると、Minaさんは軽い調子で「ン」と頷き、私の背中から降り立った。 そして今度は彼女がしゃがみ込み、私がおんぶされ―― 「ちょ、待って下さい。代わってっていうか、なんで私達はおんぶのし合いっこなんでしょう?」 「だって千景が、一時も離れるなって言ってたじゃない」 「それは!!意味が違いますッッ!!離れるなと言っても、常に密着している必要は……!!」 日本語を誤解してたんだと思って慌てて訂正すると、Minaさんはニヤッと笑みを浮かべる。 「わぁーッてるわよ、そのぐらい。和葉とくっついてたかっただけ」 「……」 か、確信犯だ。 私は思わず脱力して、その場でガクリと膝をついていた。 そんな私を、Minaさんは「和葉ってば単純なんだから」などと言いつつ抱きすくめる。 はぁ。単純っていうか何ていうか。……元はと言えばMinaさんが誤解してる素振り見せるからぁ。 おんぶ疲れもあって、私はMinaさんにぺたりと凭れ、小さく溜息を零す。 「なんだかんだ言って、和葉もあたしにぎゅーってしてくれるのよねッ」 「ぎゅーってするのは、好き、です」 「よしよし」 ぎゅー。お部屋の真ん中で意味もなく抱き合って、確かにこうやって人の体温を感じているのは好きだけど、何か間違っているような気もしなくもない。 「Minaさん!ぎゅーも楽しいですけど、何かこう、もっと別のことしましょうよ!」 「他にすることがないから、ぎゅー、してるのに」 「……そ、それはそうですけど」 Minaさんのペースに巻き込まれっぱなしの私だけど、彼女の言うことはもっともだった。とりあえず身体を離して、何かないかと思案する。 「別にそんなに考え込まなくても」 Minaさんは軽い口調で言いながらベッドに腰を掛け、私も座るようにと促した。私がMinaさんの隣に座ると、Minaさんは満足げに私の肩を抱いたりしつつ切り出した。 「お話しよう。Let's talking.」 「あ……そうですね。なんか、今までと同じですけど」 「でも、こうやってくっついてtalkするのは初めてでしょ?」 クスッと小さな笑みを向けられて、私もつられて笑んでいた。そう言われみると、こうして相手の顔を見ながら、相手に触れながら話すのは初めてなんだ。今まではずっと、扉越しの会話だったから。 「あたしね、扉の向こうのナデシコがどんな顔をしてるのか、ずっと知りたかった」 「それは私もです。……不思議ですね。たった扉一枚なのに、すごく遠い気がして」 「うん。だけど今はこんなにそばにいるし、……嬉し?」 Minaさんのスキンシップって、アメリカ流、なのかな。何気なくふわっと髪に触れる指先とか、時々顔を近づけてみたりとか、そういう行為にドキッとする。Minaさんは自然にやっているふうに見えるのに、ドキドキしてるのは私ばっかり? 「……嬉し、です、けど……ちょっと照れるなぁ」 髪に触れていた指が首筋を掠め、くすぐったくて身を捩る。そんな私にMinaさんはクスクスと笑いながら、「可愛い」と耳元で囁いた。だ、だから照れるってば……。 「和葉が人のものじゃなかったら良かったのに」 「……人のもの?」 Minaさんの言葉、何のことかわからなくて問い返すと、Minaさんもきょとんとして私を見る。 「さっき和葉が言ってたじゃない。都さんのことを愛してしまったんです!って」 「あ……!!」 「もう、あんな衝撃的な告白したくせに忘れてたの?」 「ち、違うんです、あれはッ……」 忘れてた。あの時、誤解されたままだったんだ。 私は慌てて訂正しようとした、が。 ――ふと。 疑問を抱いて、黙り込んでいた。 さっき、都さんはなんであんなこと言ったんだろ。 私をからかうため?……にしても、あんなこと言わなくてもいいのに。 まるでMinaさんに誤解させるために……でも、私が誤解を解くチャンスはあったんだし……。 「和葉?」 「あ?……あ、あの、私……」 「都とはいつからあんな関係なの?話してくれたって良かったじゃない」 不思議そうなMinaさんの表情を見つめ、私はまた考え込む。 確かに、私。Minaさんに都さんのことを話さなかった。……どうして? 「……一昨日です」 「へぇ?最近ね」 「あの時、私は……」 都さんと恋人になれたらいいのに、って、思ってた。 まるで恋人同士のような時間だった。都さんが愛しかった。 あの夜。私と都さんは、お仕事でもなく、遊びでもないキスを交わした。 恋、にも似た、キスだった。 「……」 黙りこんでしまう私に、Minaさんは怪訝そうな顔をする。 だけど構わず、私は考えた。都さんとの関係、私、すっかり失念してた。 怪盗FBって人が邪魔をして、それでうやむやになってしまった関係――。 「……ち、違うんです!!」 と、声を上げればMinaさんは益々怪訝そうな顔。 「あ、あの時、私達は……私達の関係はうやむやになって、だから……こ、恋人じゃないんですよ?」 「……違うの?」 結論付けるように告げた言葉に、Minaさんは意外そうに私を見つめ、「本当に?」と確認するように問いを重ねる。私は一つ頷き返し、「さっきのは冗談なんです」と付け加えた。 「……和葉、それじゃあ話が、違う」 「え……?」 「あたしはてっきり、二人が恋人だと思って……だから、触れなかったのに」 「……今、触れてるのに?」 「そ、……あ、あれ?」 私も都さんとのことで少し混乱しているけれど、Minaさんも混乱しているようだった。 なんだか話が噛み合ってない。 私達は見つめあい、互いの瞳に答えを探すように、暫し黙り込む。 「……あ」 Minaさんの手が、私の手に触れ、きゅっと握った。 私。――私は、都さんにもドキドキしてた、だけど。 Minaさんにも、ドキドキ、してる。 これって、おかしいことなのかな?なんだか、心がぐらぐらする。 「……じゃ、和葉に求めたいことが、あるんだけど」 「求めたいこと……?」 「うん。一つは、和葉と都がしたことを、あたしにもして、欲しい」 「……」 それ、は。 都さんとしたことって言ったら、お仕事……つまりエッチってことなんだけど。 でもあれはお仕事だ。プライベートとは別物だ。 じゃあ、私が都さんと、プライベートでしたこと? 「……キス」 「都とキスしたのね?……じゃ、あたしにもして」 「欲しい、です?」 「……うん」 Minaさんはどうして私に、そんなこと、望んでくれるんだろう。 都さんも、どうして私にキスをしてくれたんだろう。 なんだか突然わからないことが溢れて、ちょっとだけ怖くなった。 都さんにしたことを、Minaさんにもするっていうことは、おかしくないことかな? 私は多分、二人に同じような感情を抱いている。 だってほら、私は都さんにもMinaさんにもドキドキしてるから。 なら、別におかしく、ないんだよね……? 「……Minaさんから、して、下さい」 「いい?」 「……はい」 Minaさんが私にキスを求めてくれることって、嬉しいことだと思う。 都さんにキスをされた時も、私、嬉しかった。 「……その前に、もう一つ」 Minaさんは私の頬に触れ、す、と顔を近づけてからぽつりと言う。 「何ですか?」 「……都にしてないことを、あたしにして欲しい。」 そう告げられた時、私はてっきり、身体を求められたのだと思って。 迷った。都さんに身体を委ねたのは、あくまでお仕事の上、だった。 もし今、Minaさんとそんなことをしてしまったら。――何か、おかしくなってしまうような気がした。 だけどそんな私の危惧は無駄に終わった。Minaさんが求めたことは、少し意外なことだった。 「あのね。……和葉は都のこと、都さんって呼ぶでしょ?」 「……はい」 「あたしのことも、Minaさんって呼んでるでしょ?」 「……はい」 「都よりも一歩リードさせて欲しいの。……あたしのこと、Minaって呼んで。もっと和葉と親しくなりたい」 「…………そ、それだけですか?」 拍子抜けして、思わず素っ頓狂な声で問い返していた。 Minaさんはクスッと小さく笑むと、「それだけ」と頷く。 「そんなことで良かったら……Mina……」 「……うん」 「呼び捨てするのもなんか、不思議な感じが、する」 「同い年なんだから、呼び捨ての方が自然でしょ?」 「……そう、だね」 気を使って、敬語を抜かして頷いた。するとMinaさんは……Minaは、嬉しそうに目を細める。 私と親しくなることが、Minaにとっては嬉しいこと? それがまだ少し不思議だけど、Minaの言う通り自然なような気もして、「そっか」と納得した。 それからまた少し見つめあうと、なんだか気が抜けて、ふっと自然に笑みが漏れていた。 私、変なことを気にしすぎてるのかな。恋愛感情みたいなものを混ぜちゃうからややこしくなる。 もっと自然な形で、Minaは私を求めてくれているのかな。 なら、私はそれに応えたいと、思うから。 「Mina……キス、してくれる?」 「……させてくれる?」 私達はそんなことを言い合って少し笑ってから、そっと唇を触れ合わせた。 Minaと、唇同士のキスをするのは二度目。 さっき、私のことをキス魔だなんて言ってたMinaだけど、Minaだってきっと同じ。 好きだから、触れていたい。好きだから交わしたい。 それが恋じゃなくったって、自然なことなんだよね? きっとこのドキドキは恋じゃない。 Minaにも都さんにも、ただ単純に好きっていう気持ち、抱いているだけなんだ。 そんな答えを自分の中で導き出して、ようやく心が落ち着いた。 そしたらもっともっと、好き、を確認したくなっちゃって。 「ねぇMina、もっと、して?」 そんなおねだりをしたら、Minaはクスクスと笑って言った。 「やっぱり和葉ってキス魔よね」 「うぅ……」 否定出来なくてちょっぴり悔しい。でも、否定しなくていいのかも。ううん、肯定すべきなのかもしれない。 だって私、こうして唇を触れ合わせる、その行為が好きなんだもん。 「だから、もっと、して」 「……うん」 |