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「わーい、伊純ちゃん見つけたぁー」 「……」 今、一番聞きたくない声だった。 それは、アタシ―――佐伯伊純―――が苦手とする甘ったるい女の声だ。 甘えることが上手く、笑顔で人を惑わし、しかも当人には惑わしているという自覚が全くない。 こういうタイプの女が一番嫌いだったはずだ。 なのに。 「ねぇねぇ、ご飯一緒に食べてもいーい?」 「ダメっつったらどうするよ」 女は――小向佳乃は、アタシの言葉にハッと言葉を飲んで固まった。そして目を潤ませて「だめ?」と小首を傾げる。だから、こういうところが苦手だっつーの。 「……ったく。今回だけだぞ」 そして許してしまう自分も嫌だが。コイツの場合、どうもきつく当たれないんだよな。くそ。 「えへへ、ありがとぉ。」 小向はころっと態度を変えて笑みを浮かべ、アタシの向かいの席に腰を下ろした。 時刻は零時を回った頃か。こんな時間に飯を食うやつなんてアタシぐらいだと思ったんだけどな。 薄暗い食堂の片隅で一人で黙々と飯を食っていた時に、コイツが現れたってわけだ。 「こんな時間じゃ一人で食べるしかないかなぁって思ったんだけどね、伊純ちゃんがいて良かったぁ。千景ってば抜け駆けして一人でご飯食べちゃってるしね、私、寂しかったんだよー。」 小向はナプキンで手を拭きつつそんなことを言い、それからパンッと手を合わせて「いただきまぁす」と宣言。飯食うときにいちいち「いただきます」か。久々に見たな、そんなやつ。 小向の飯はサンドイッチだった。晩飯なのか夜食なのかすら微妙だ。因みにアタシは晩飯ということでガッツリ食える鰻重定食。ボリュームにしても小向のとはエライ差だな。 「こんな時間までお仕事だしねぇ、警察って大変なんだよー」 そんな愚痴を漏らしては、サンドイッチにぱくついて幸せそうな顔を浮かべる。小向の表情はコロコロ変わって面白いっちゃ面白い。……でもそんなに表情をコロコロ変えてたら、将来シワが増えそうだな。 「……仕事。そんなにあるのか?」 「うん。保護してる人たちの身辺調査っていうやつをね」 「…………」 身辺調査。そんなあっさり言われても困る。 保護してる人たちってことは、アタシもしっかり身辺調査されてるってことなのか。 「それの書類をまとめたり色々してたら、あっという間に一日終わっちゃうの。疲れたよぉ」 肩がこっていると言わんばかりに、ぐりぐりと肩を回しつつ、小向は溜息を漏らす。 ……察するに、コイツの仕事が遅いとかそういう要因もありそうだけどな。 「そんなに大変なら、警察なんかやめちまえ」 ぽそりと言うと、小向は「とんでもない!」と首をぶんぶか横に振った。 「大変だけど、私は警察っていうお仕事に誇りを持っているのです!だからやめないっ」 「……誇りねぇ」 警察に誇りも何もあったもんじゃないような気がするけど。まぁ小向の場合は別か。 おめでたいというか何というか。こんなやつがいるから、警察も一応『正義の味方』なわけなんだな。 「あ、そうそう、遼ちゃんのことなんだけど」 ふと思い出したように、小向は切り出した。一旦サンドイッチをぱくついてから「えっとね」と続ける。 「親御さんにやっと連絡が取れたのね。遼ちゃんのことを保護してるんですけどーって言ったら、宜しくお願いしますって言われちゃったよ。」 「……マジで?」 「うん、まじ。」 「無責任なやつらだな」 呆れるやら感心するやら。まぁ遼にとっても好都合だろうなと思いながら鰻重をぱくつく。 しかし小向は首を傾げて暫し考え込んだ後、「違うんだよ」とぽつり。 「多分ね、遼ちゃんのご両親は……遼ちゃんのこと、心配なんだと思うよ。」 「なんでだよ?そんな放任主義のやつらが?」 「……うん。でもね、遼ちゃんってお外で遊ぶのとか好きだったみたいだし、ある意味デンジャラスな毎日を送ってたと思うのね」 「ふむ」 「だけどこの施設にいれば……警察の保護下にあれば、今までよりはずっと安全なんだよ」 「……まぁ、そうなるな。」 「だから、親御さん達もそのことをわかってて、宜しくって言ってくれたんじゃないかなぁ」 「……」 小向の推測が、実際のところどうなのかはわからない。 遼の言うように娘に興味がない両親だとすればやはり「宜しく」だったんだろうし、小向の言うように遼を心底心配している両親でも「宜しく」と言ったかもしれない。事実はわからないままだ。 ただ、わかることは、考え方の違いってやつになるんだろうな。 小向の考え方は良心的でもあるし、言い換えれば甘っちょろい。 世の中そうそう良いやつらばかりじゃないということを、小向は知らないんだろう。 「最終的には遼ちゃんの望み通りにもなったんだし、結果オーライだね。ありがとう、伊純ちゃん」 小向はふにゃっとした笑みを浮かべて言った。……ありがとう、だ? 「……礼を言われる筋合いはないぞ」 「何言ってるのぉ。伊純ちゃんのお陰だよ!伊純ちゃんが私を叱ってくれたから、事態が丸く収まったの」 「……叱ってくれたって、お前なぁ。警察が不良に叱られてどうすんだよ」 「え、えぇー?そんなこと言われても困るけどー」 やっぱり不思議だな。なんでこんなやつが警察やってんだろうな。ちょっと呆れる。 「小向は……なんつーか。教育がなってない。乾って先輩なんだろ?あいつに色々教えてもらえよ。」 と、そんなアドバイスをしつつ、それもどうかと思った。 乾は乾で、悪逆非道な警察らしい女だからな。小向まであんなんになってもやだな。 「千景はねぇ……うーん。最初は色々教えてくれてたけど、今はもう、見て覚えなさいって感じかなぁ。」 「じゃあ見て覚えろ」 「うぅ。でも千景って勝手にどんどん進んでっちゃうから、私、追いかけるだけで精一杯だよ」 「……情けねぇ」 思わず溜息を漏らし、小向を軽く睨んだ。小向は「うー」と小さく唸りながら肩を落としている。 そもそも、乾と小向も随分タイプの違う二人だ。乾は「悪人は断ち切る」っていうタイプだし、小向は「悪い人にも何か理由があるんだよ」みたいな感じか。そこまで分析できるアタシにちょっとビックリだな。 「お前ら二人がペアを組んでいる時点で間違ってないか?」 「え?なんで?」 「……気ぃ、合いそうにないし」 実際のところはどうなんだろうと思いながらぽつりと言うと、小向はきょとんとした表情を浮かべた後で、ふっと小さく吹き出した。 「そんなことないよ。千景と私は署内でもナイスコンビだって言われてたんだもん」 「マジ?」 「まじー。」 「そうは見えない」 小向はクスクスと笑いながら「そうかなぁ」と首を捻り、少しの思案の後でこう続けた。 「私は千景のこと好きだもん。」 「……え」 「千景も私のこと、多分嫌いじゃないと思うよ」 「……」 好きって。あぁ、別に恋愛云々じゃないよな。いきなり何事かと思ったぞ。 固まっていたアタシに、小向はハッとして繕うように言った。 「す、好きってアレだよ、恋愛とかじゃないよ?」 「わかってるよ……」 「あ、うん、ならいいけど……」 そう頷きつつも、どこか顔が赤い小向。 ……ん? これはもしかして、もしかするのか? 小向が乾に惚れてるっつーのは、別に不自然ではない、けど。 「あんなやつやめとけよ。乾は絶対恋人なんか省みないだろうしな」 「え?ええ?なんで?」 「なんでって……見りゃわかるだろ。仕事にしか興味がないって感じだし」 「そうかなぁ……」 小向は憮然として首を傾げて考え込み、その後で「ぅ?」と不思議そうに顔を上げる。 「なんでそんな話になるの?」 「なんでって、小向……乾のこと好きなんじゃないのか?」 「…………えぇ!?」 顔を赤くして大声で問い返す小向。そして「とんでもないっ」と首を横に振り否定する。 その様子から、実際はどうなのかはよくわからないけれど…… とりあえず乾が小向に傾いてるってことはなさそうだよな。あいつは仕事が恋人だろう。 「わ、私はね?……もっと……優しい人が好きだし」 「確かに乾は優しくなさそうだな」 「う、うん。恋人にするなら、えーと、伊純ちゃんみたいな!」 「…………」 「優しい人がいいの。」 「お前、頭おかしいだろ?」 優しいなんて生まれて初めて言われたぞ。 一体何を言い出すんだ。コイツ。 ……不覚にもちょっと、ドキッとしたじゃないか。 「あ、今のこと千景には言わないでね?」 「当たり前だ。誰が言うか、んなこと」 突き放すように返しつつも、小向の言葉が頭にこびりついて離れない。 『伊純ちゃんみたいな!』 …………なんで、こんな、馬鹿馬鹿しい冗談に顔が赤くなるのか。 鰻重を一気に掻き込んで、皿をドンッとテーブルに叩きつける。 ビクッと身を竦める小向を一瞥しては、ガタンッと立ち上がった。 「いいか、小向」 「……は、はい?」 「勘違いするな。アタシはこれっぽっちも優しくねーし、お前を幸せになんかする気もな……。」 って、何言ってるんだアタシは。 違う違う、そんなことが言いたいんじゃなくて…… 「とにかく、馬鹿馬鹿しい冗談はこれっきりにしろ。いいな?」 「……う、うん」 睨みをきかせて言いつけると、小向はどこかきょとんとした表情のままでコクコクと頷いた。 「よし。ふざけたことを言った罰として、この食器はお前が片付けておけ。」 「え?ええ!?なんでぇ……」 空になった鰻重定食の食器を指差して言い放つと、小向は不平たらたらの声を上げた。 しかしそんな声は構わずに、アタシは小向に背を向けて歩き出す。 小向と顔合わせてると、イヤになるくらいペースを乱される。 違う。アタシはあんなやつに振り回されるわけにはいかないんだ。 アタシは今までだって一人で生きてきた。他人なんかどうでも良かった。 家族やら仲間やらに囲まれてぬくぬくと生きてきた小向とは人種が違うんだ。 あんなやつと馴れ合うなんて、どうかしてる。 伊純ちゃんって照れやさんだなぁ。可愛いんだから、もうー。 私―――小向佳乃―――が伊純ちゃんと初めて顔を合わせたのは大晦日の日、今でもよく覚えてる。 あの時からちょっとだけ運命感じてたり……なーんてねッ。 「佳乃、なんかあったの?」 ベッドで枕を抱き込んでゴロゴロしてた私に、千景が訝しげな顔をして問いかける。 「あ、ううん、なんでもなーい」 誤魔化しつつ、少し笑って。そしたら千景、益々変な顔をした。 「まぁいいけどさ。あんまヘラヘラしてると警官らしくないわよ」 「う……いいじゃなーい、警官だって嬉しいことぐらいありますよぉーだ」 千景ってば相変わらず、こういうところ厳しいんだから。 確かに伊純ちゃんの言う通り、お仕事にしか興味がない、のかなぁ。 千景ってたまに何考えてるかわかんないけど、やっぱりお仕事のこと考えてるのかなぁ。 「とにかく、明日中には書類もまとまるだろうし……少しは楽になるわよね」 「うん、うん。」 千景は今日まとめた書類を眺めつつ言った後、それをテーブルに置いてベッドの方に歩いてくる。 普段はビシッとしてる千景も、今は制服は脱いでラフなTシャツとスラックスの寝間着姿。私もブカブカパジャマに身を包んで、今にも「おやすみなさい」な勢いだ。 「ところで佳乃。」 「うーん?」 枕抱えてベッドにころんって横になったら、ちょっとウトウトしてきちゃった。 千景の言葉も半分上の空で聞いてると、不意にひょこんと、千景が私の顔を覗き込む。 「あんたさ……家族、どうなってんの?」 「う……?」 千景の問いに少し瞬いてから、私は少し黙り込む。 お父さんとお母さん、それからお姉ちゃん。忘れてたわけじゃない。 ただ、私はやっぱりお仕事を優先しなきゃって思って……。 「佳乃のことだから、後回しにしてるんだろうなとは思ってたけど」 千景はふっと苦笑を浮かべ、私のベッドに腰掛ける。 思いっきり図星の言葉にまた押し黙っていると、千景は私の前髪に触れて、くしゃりと撫でた。 「明日は私一人で書類まとめておくからさ、佳乃は家族のとこ、行ってあげたら?」 「で、でも……一人じゃ大変だよ、千景」 「私を誰だと思ってるの?敏腕婦警の乾千景、あのぐらいの仕事は一人で十分!」 千景は格好良く言ってから、「でしょ?」と同意を求めるように笑んで見せた。 私の髪に触れる千景の指先、なんだか心地良くて、つられて少し笑んでから「そうだね」と頷く。 「よし。じゃあ明日は佳乃は家に帰って……危ないようだったら、佳乃の家族もこの施設に連れてきてね?」 「うん……そうする。ありがとう」 あぁ、私、さっきちょっと嘘ついちゃったなぁ。 千景は優しくない、なんてこと。なんで肯定しちゃったんだろう。 千景は優しい人だよ。とても、とても。 だから私は千景のこと、好きなのに。 「佳乃一人じゃ危ないか……誰か連れていく?都辺りなら頼りになると思うけど」 「うーん」 ここに滞在している面々の顔を思い浮かべ、少しの思案。 確かに都さんでもいいけど……でも、頼りになるって言ったら…… 「伊純ちゃんだ!」 「……え?」 「うん、伊純ちゃんを連れて行くー」 「ま、待ちなさい」 途端に千景は表情を曇らせ、私を制止する。 「なんで?」と問えば、千景は言葉を詰まらせながらも首を横に振った。 「伊純はまずいでしょ……」 「まずくないよぉ。伊純ちゃん、すっごく頼りになるの。強いみたいだし」 「……うー」 なんで千景は伊純ちゃんのこと、良く思ってないのかなぁ。 ここはやっぱり、考えを改めさせなくっちゃ! 伊純ちゃんが私について来てくれて、それで何事もなければちょっとはイメージも良くなるよね。 「じゃあじゃあ、ジャンケンしよう!千景が勝ったら都さん。私が勝ったら伊純ちゃん。」 「……いいわよ。」 千景は渋々といった様子で頷き、いざ勝負!と構える。 「いくよー、ジャーンケーンポン!」 「ポン!」 …………。 …………。 ほら。 「な、なぁっ!?」 信じられない、といった様子で自分が出したグーの手を見つめる千景。 そして私はパー。えへへ、勝った勝った。 千景ってね、単純なんだよ。ジャンケンの時、いっつも絶対グー出すの。なんでだろう。性格的にグーなのかな。だから私はパー出したり、場合によってはチョキを出して勝ちを譲ってあげたりするんだけど、今回はパーを出すしかないでしょぉ。 「……し、仕方ないわね。これも女の約束だわ」 千景ってば、自分がいっつもグー出してることに全然気付かないんだよね。 正々堂々の勝負をして負けた、って感じで千景は溜息をついているけれど、実は正々堂々でも何でもなかったりするんだよ。でも教えてあげなーい。 「じゃあ明日は伊純ちゃんを連れてお家に帰って来るね。なるべくすぐ戻るから」 「はいはい……ちゃんと伊純のこと躾けといてね」 「大丈夫だよ、伊純ちゃんはいい子だもん。」 「……そうかなぁ」 いまいち納得してない感じの千景に少し苦笑いを浮かべつつも、明日は伊純ちゃんとお出かけして、しかも家族にも会えるんだって思うと、つい嬉しくて顔が緩んじゃう。またヘラヘラして、って千景に叱られるかなぁって思ったけれど、千景はベッドに腰掛けて私を見つめ、目が合えばふっと弱く笑んで見せた。 あ、本当は……千景について来て欲しかったかも。 私、いっつも家族に千景のこと話してたから、お母さんもお姉ちゃんも千景に会ってみたいって言ってくれてたし。あ、そっか、この施設に保護っていうことになれば、千景にも会えるんだ。 なんか楽しみだなぁ。早く明日にならないかなー。 灰色の街並に、良い思い出なんてない。 眺めれば眺めるほど、うんざりするような過去を思い出す。 けれど今だって、別段良い思いをしているわけでもなくて――じゃあ一体、いつなら良いんだろうな。 「ねぇ伊純ちゃん」 隣から掛けられる声だって、嬉しいわけでも何でもないし。 かといって不良の奴らに名前を呼ばれたって、嬉しくなんかなかった。 あらゆることがどうでもよくて、過去だって今だって未来だってどうでもよくて。 希望なんかこれっぽっちもないけれど、だから絶望して死ぬ、なんて考えにも至らない。 生死すらもどうでもいいことだ。 「伊純ちゃんってばぁ」 生きていることもうざったいけどな。 こうして隣から掛けられる声だって…… 「ん?」 「伊純ちゃん、私の話全然聞いてないでしょぉ」 ふと窓から目を逸らし、アタシ―――佐伯伊純―――は隣の運転席に座る女に目を向けた。 ここはパトカーの車内。アタシは助手席に座り、そして運転しているのは小向だ。相変わらず似合ってない警官の制服を身につけ、頬を膨らませてこっちを見ている。 今、アタシ達は小向の実家に向かっている途中だ。まだ朝の八時ちょい、普通なら寝てる時間なのだが、小向に叩き起こされた。何事かと思えば「実家に帰るからついてきて」だと。当然断ったのだが、小向は断固として「お願い!」と繰り返す。渋々、ついてきてやったというわけ。 「……小向は全然前を見てねぇだろ」 耳を貸さないアタシよりも、運転中に前方不注意の小向の方がよっぽど問題だ。 指摘すれば、小向は慌てた様子で前方に目を向けてハンドルをグッと握り直す。25キロ毎時そこら走ってんだから、多少の余所見は許されるかもしれないが。 小向は基本的に運転に向いていない気がする。余所見は多いしスピードは遅いしブレーキはいっつも急だし、助手席に乗っていていつ死ぬかもわからない恐怖と隣り合わせだ。と言っても、出発してから既に一時間そこら、コイツの運転にも慣れて来たけどな。 「あのねあのね」 今度はちゃんと前を見つつ、小向は子どものような語り口で切り出した。 「実家に帰るのね、ちょっと久々なんだよ。」 「あぁ?」 「ほら、うちね、遠いでしょ?車で一時間以上掛かるから、忙しい時はなかなか帰れないわけで」 「ふーん」 はしゃいだ様子を滲ませて紡ぐ小向から目を逸らし、溜息一つ。 本当に子どもみたいで、嬉しそうな顔をして言う小向がアタシには理解出来ない。 家族のところに帰る、なんて、家族のいないアタシにはほとほと縁のない言葉だ。 別に――家族が欲しいとか、思っているわけじゃ、ないけど。 だけど小向の様子見てっと、なんかムカつく。 「伊純ちゃん?どしたの?」 「うるせぇなぁ」 執拗に話し掛けてくる小向をギロリと一瞥し、「黙れ」と低く続けた。 小向は不思議そうな顔をして少しの間黙っては、「そうだ!」と何かひらめいたように声を上げる。 どうせろくでもないことなんだろうな、と辟易しつつ、何を言い出すのか聞いてやることにした。 「あのねあのね、伊純ちゃんもうちの家族になればいいよ」 「…………あぁ?」 案の定、小向の言うことは突飛で非常識で馬鹿げている。 コイツとは関わりたくないっつってんのに、なんでコイツはアタシに関わって来るかなぁ。 「お父さんもお母さんもお姉ちゃんも、みーんな優しくてね、伊純ちゃんも気に入ってもらえると思うんだよ、うちの家族。あ!もうすぐ着くからね!」 「……」 一度ガツンと言ってやるべきかと思ったのだが、もうすぐ着くとの言葉に、反論を引っ込めた。 要はこいつの家族をアタシが気に入らなきゃいいわけだ。気に入るわけがない。こんなやつの家族なんだから、ほのぼのして和やかで……アタシとは相性の悪いやつらだろうぜ。 保護するなら保護する、しないならしないでさっさと済ませて欲しいところだな。 ったく、なんで小向の同伴なんか引き受けたんだか。もう、こんなやつと行動を共にするのはやめよう。 「伊純ちゃん、今日はなんだか機嫌悪いよねぇ……」 「まぁな」 「あ、そこが私のお家なのっ!」 「……」 アタシの機嫌が悪い理由なんかどうでもいいんだな。小向は実家に帰ることしか考えてないわけか。 車は入り組んだ住宅地に入り込み、一件の家の前で停車した。 隣の小向を見遣れば、溢れんばかりの笑みを覗かせ「着いた着いたぁ」などとほざく。 ウザいやつ、なんて思いながら小向の実家らしい一軒家を眺めた。二階建てのどこにでもあるような住宅だ。都心から随分離れているということもあり、この一帯は平和な雰囲気が漂っている。 「さぁ行くよ!」 「さっさと行ってこい。」 意気込んで車から降り立つ小向に、吐き捨てるように言葉を投げ掛けた。小向はきょとんとしてアタシを見つめ「伊純ちゃんは?」と首を傾げる。 「行くわけねぇだろ。ここで待ってるから早くしろ」 「ええ!?」 怪訝そうな顔をしたかと思えば、小向は車の前方から回りこみ助手席側の扉を開けた。 「伊純ちゃんも行くのーっ」 「こ、こら、引っ張るなバカ!」 あまりに強引な小向に、さすがのアタシも気迫負けして車の外に引っ張り出されていた。 ま、またか……こいつのペース、どうやったら乱せるんだ……。 「ほらほらッ、早く早く」 小向は浮き足立って、アタシの腕を引っ張りながら住宅の門をくぐった。 玄関の扉のそばには『小向』という表札が掛かっている。それを目にした時、こいつの家族が待ち構えているのかと思って……一抹の不安を感じずにはいられなかった。小向みたいなやつが何人もいるんだよな。やだなそれは。特に小向の姉ってやつなんか要注意だよな……。 「お母さん達いるかなぁ。なんか久々すぎてちょっぴりドキドキ」 小向はそんなことを言いつつ、扉の前に立って呼鈴を押した。家の中でピンポーンと響く音を耳にしながら、隣で笑みを浮かべる小向を見遣る。 「そんなに久々なのか?」 「うんとね、二週間ぶりぐらいかな。最近忙しかったからね」 「ふーん。……忘れられてるんじゃねーの?」 「そ、そんなわけないでしょぉっ!」 アタシの言葉を本気にしたのか、慌てふためく小向に肩を竦める。いや、実際こいつの家族なら娘の存在を忘れるなんてこともありうるような気が……。 一体どんな家族が出てくるのやらと、少し腰が引けつつ待っていた。しかし、小向が幾度か呼鈴を押しても中から人が出てくる気配はない。 「出かけてるんじゃねーの?」 「うん……そうなのかなぁ」 小向は首を捻りつつ、ドアノブに手を掛ける。 カチャ、リ。――扉に鍵は掛かっていなかった。 ゆっくりと扉を開いて、小向は玄関に足を踏み入れる。 「ただいまぁー……」 小向はそう言いながら、ふっと不安げな表情を見せた。 それも当然か。誰もいない様子なのに鍵が掛かっていないなんて、普通あることじゃない。 物騒な今の世の中、鍵もかけずに外出する人間なんか滅多にいないものだ。 「鍵、掛け忘れて出かけちゃったのかな。……あ、伊純ちゃんもどうぞ」 小向はアタシを促しつつ、靴を脱いで廊下に上がる。 屋内も至って普通の住宅だった。玄関から奥まで真っ直ぐ伸びた廊下、その左右におそらくリビングや個室に続いているのであろうドアが幾つか。奥には階段も見える。 アタシも小向に続いて廊下に上がった。屋内に入ってもやはり人の気配はなく、小向の言う通り、鍵を掛け忘れて出かけたという推測が当たっているように思える。 「お母さーん?」 小向は一足先に廊下を進み、一つのドアを開け――そしてふっと、息を飲んだ。 開け放ったドアの向こう側を見つめ、動きを止める小向。 その様子、尋常ではなかった。 「どうした?」 小向の後を追ってドアの向こうを覗き込み、思わず眉を顰めていた。 その光景を目にした時、鍵を掛け忘れて出かけたなどという推測は掻き消えた。 おそらくはリビングだったと思われる部屋、ソファやテーブル、タンスといった様々な家具が、 ―――無残なまでに、荒らされていた。 「なんだ、これ……」 ソファは鋭い刃物で切りつけられたように中から綿が零れているし、タンスの引き出しという引き出しは引っ張り出され、その中身がぶちまけられている。床に敷いたカーペットには、黒ずんだ染みが見えた。アタシは染みのそばにしゃがみ込み、指先を触れさせる。この染みはおそらく、そばに転がったコーヒーカップに入っていたのであろう液体が染み込んだもの。既に染みは乾いており、液体が零れたのは随分前ということになる。 この家に住んでいた人物が、家の中を荒らすなんて考えにくい。とすれば、第三者が…… 「お母、さん……?お父さん……お姉ちゃん!!」 小向は混乱の滲む声を上げ、不意にアタシのそばから離れ別の部屋へと駆けた。 「待て、小向!!」 慌てて小向の後を追い、隣の部屋を覗き込んでいた小向の腕を掴んだ。 和室の部屋は、別段変わったところもなかった。部屋の隅に畳まれている二つの敷布団から見て、この部屋は小向の両親の寝室だろうか。 「ど、して……どうしてこんなッ……」 小向は怯えきった目でアタシを見ては、微かに震える唇を閉ざす。 小向の恐怖は理解出来る。こんな状況で住民が今どうしているか。考えられるのは二つ。 一つは既に避難しているというもので――もう一つは、既に、殺されているというもの。 「伊純ちゃん……私……怖い、よ……」 「……。」 何も言えず、ただ小向の手を取って別の部屋を見て回る。一階にあるのはリビングと、ダイニングと和室、そして洗面所や浴室。荒らされていたリビング以外は別段変わったところもなかった。 後は二階か。……何もなければ、良いが。 「上には何があるんだ?」 「二階は……私と、お姉ちゃんの部屋が……」 不安げに階段の上を見上げる小向に、アタシは少しの間逡巡し、そして小向の手を離した。 「お前はここで待ってろ。いいな?」 「う、うん……」 厳しく言いつければ、小向は弱々しい頷きを見せる。 それを見届けてから、アタシは二階へと続く階段を上がって行った。 先ほどから感じていた、妙な匂いと、嫌な予感。 気のせいだったら良い。だけど――長年培ってきた経験というやつは正直だ。 この感覚。人間が死んだ時の感覚に、酷似している。 階段を上がれば、二つのドアがあった。それぞれに「佳乃」と「雪乃」というネームプレートが掛かっている。雪乃というのが小向の姉だろう。 生憎、先ほどから感じていた匂いは二階に上がると益々強くなっていた。 まずは手前の小向の部屋。ドアを開いて覗き込むと、ふっと柔らかいポプリの香りが鼻腔をくすぐった。 小向らしい、シンプルだが女性らしい部屋の風景。しかし今はそんな風景を眺めている暇はない。 すぐにドアを閉じ、隣にある小向の姉の部屋に向かう。 「……。」 出来ることなら、このドアノブを回したくはない。 だけど確かめなくちゃいけない。真実を見据えなければいけない。 握ったドアノブをゆっくりと回し、扉を開けた。 薄暗い室内。目に飛び込んできたのは、小向の部屋よりは幾分大人びた雰囲気。 開いた瞬間、アタシが見なくてはいけないものは、死角に存在していると悟った。 室内に足を踏み入れ、奥にあるベッドへと向かう。 「……小向、雪乃か。」 呼びかけるような呟きが、相手に届いていないことはわかっていた。 ベッドに身を横たえている若い女。 光の当たらぬそこで、目を閉じ、仰向けになって、まるで眠っているようだった。 近づいて、そっと手を伸ばす。小向と姉妹とは思えない筋の通った顔立ち。 触れたその頬――冷たかった。 女の身体を覆っている毛布、捲ればしなやかな肢体が目に映る。身体の所々に残っている痣は抵抗した跡だろう。おそらく、この家に押し入った何者かに犯されたんだ。 掛けられた毛布は、強姦魔の僅かな慈悲か。ナイフで切りつけられた跡、致命傷と思われる深い傷も毛布の影に隠されていた。 そっと毛布を掛け直し、女の死体から一歩退いた。 その時、扉の方から聞こえた微かな物音。ギシ、と軋むような音にはっとした。 「来るなッ!」 慌てて振り向き、言いつけた。しかし――もう遅かった。 瞬きもせずに、じっとこちらを見つめる小向の姿。 暫しの間動くことすら忘れたように立ち竦み、やがてゆっくりと首を左右に振った。 「お姉ちゃん……?」 覚束ない足取りでベッドのそばに歩み寄り、息絶えた姉の身体に手を伸ばす。 そんな小向の行動を制止することなど、アタシには出来なかった。 「お姉ちゃ……ッ、……嘘……嘘だよ、こんなッ……!」 ガクンと膝をつき、ベッドに縋って掠れた声を上げる。小さく震える肩に、掛ける言葉すら見つからない。 身内を亡くして悲しむ人なんて、何度も見てきたはずだった。なのにどうして今、こんなに息が詰まるのか。 小向の泣きじゃくる声が、痛いほどに耳につく。 なのにアタシは――何も、出来ない。 こんな時、一体どうしたらいいかわからないんだ。 慰めの言葉も、何も、知らないんだ。 アタシはただこうして、小向の横で立ち竦んでいることしか――出来ないんだ。 ふわふわと、空には雲が浮かんでいたりして 早すぎるぐらい、景色がどんどん流れていって。 ぼんやりと眺めながら、微かな絶望感に蝕まれて、苦しくて息が続かない。 「小向。」 隣から掛けられた声に、私―――小向佳乃―――はゆっくりと運転席の方に目を向けた。 いつもは千景が座っているその場所に、今は伊純ちゃんがいて。 本当は私が運転しなくちゃいけないのに、何故か、まだ十七歳の伊純ちゃんに運転を代わってもらって。 全てに現実感がなくって、なんだかすごく変な感じだよ。 ついさっき、実家に帰って、そしたら……雪乃お姉ちゃんが、もう、生きていなくて。 わけ、わからなくて。悲しくて泣きじゃくって、それでも涙って枯れちゃうものなんだね。 お姉ちゃんの遺体を、伊純ちゃんと一緒にお庭に埋めた。 本当は火葬とか、しなくちゃいけないのかもしれないけど、お姉ちゃんを燃やすなんて出来なかった。 土の中に転がるのは、毛布に包まれて顔も見えなくなったお姉ちゃんの遺体だったけど 私にはそれがお姉ちゃんだっていう実感が湧かなくて、時々何を埋めてるのかわからなくなりながら 二時間ぐらい掛けてようやく、土葬を終えた。 身体がおかしくなっちゃって、私、何度か胃の中の物を吐き出して それでも微かに残った嘔吐感、どうやって静めればいいのかわからない。 もう。わからないことだらけだよ。 そうだ、わからないことといえば、お父さんとお母さんがどこに行ったのかもわからない。 あの後伊純ちゃんが家中探してくれたけど、結局お父さんもお母さんも見つからなかった。 だから私達は、私の実家を後にして、パトカーで皆のいる地下施設に戻っている、途中。 「……辛いか」 ぶっきらぼうに掛けられた言葉は、もしかして私を心配してくれてるものなのかなぁ。 だとしたら、悲しいけど、少しだけ嬉しいなぁ。 「うん」 頷き返すと、伊純ちゃんは少しの間押し黙ってから、「そうか」と小さな相槌を打つ。 そんなちっぽけなやり取りの後、車内はまた沈黙に支配されて、二十分。 あとどのぐらい経ったら、この苦しみから解放されるんだろう。 もうお姉ちゃんは戻って来ない。お父さんもお母さんもいなくなっちゃった。 今の私には、一体誰がいるんだろう。 ――……誰が? あ、私、やっぱりすごく変なこと考えてる。 普通だったらすぐに気づくことなのに。 ほら。私の隣には、伊純ちゃんがいてくれるよ。 「伊純ちゃん」 「……なんだ?」 「あのね」 あぁ、少しだけ怖いなぁ。 伊純ちゃんってぶっきらぼうで素っ気なくて、照れ屋さんで。 ちょっと意地悪だし、冷たいときもあるし、また「うるせー」って言われちゃうかな。 でも。 もう私、耐えられないや。 一人でいるのが怖い。 誰かがいないと生きていけない。 だから私、伊純ちゃんに依存しても、いいかなぁ。 「……どうした?」 伊純ちゃんはどこか心配そうな顔をして、ちらりと私に目を向けた。 そんな横顔が愛しくて、なんだか温かくて。 だから私、こう言った。 「私、……私ね、伊純ちゃんが好きかもしれない」 「……は?」 ドキンッて、胸が少し熱くなっていた。 伊純ちゃんは呆気にとられたような顔で私に目を向けた後、慌てて前に目を戻し、少しスピードを緩めながら「何言ってんだ?」と小さく問い返す。 「あ……私、変なこと、ゆってる?」 「……。」 伊純ちゃんに問いかけながらも、自問に似た言葉だった。 黙りこむ伊純ちゃん。私も少し黙って答えを探す。 だけど気を抜くと、恐怖と絶望が押し寄せて、苦しかった。 「伊純ちゃん……やっぱり、これ変じゃない。私の本当のきもち」 「小向……?」 「私、伊純ちゃんのことが好き。……お願い、私の気持ち、見ない振りしないでッ」 「……見ない振り、してるわけじゃない、けど。……でも、小向」 拒絶されることが怖い。これ以上突き落とされたら、私はもう、壊れちゃう。 だから強引に、伊純ちゃんの腕をギュッて握って、引き寄せた。 「わ、危なッ……!」 キィィッ、と大きな音がして、急ブレーキで車が止まる。 伊純ちゃんは呆れたような顔をして、「バカ」と呟きながらハンドブレーキを引いた。 停止した車の中、エンジンの音が微かに唸る。伊純ちゃんは曇った表情で私を見つめ、何かを言いかけた。だけど、だけど私が欲しいのは一つだけ。伊純ちゃんがいないとだめだから。 「好きって言って。」 座席に手を置いて、伊純ちゃんに身体を寄せた。 ハンドブレーキ越し、少し苦しい。 だけど近づいて、真っ直ぐに伊純ちゃんを見上げた。 伊純ちゃんは困ったように表情を曇らせてから、私の額に手を置いて少しだけ力を加える。 押し戻されながらも、必死に抵抗して、もう一度繰り返そうとした。「好き、って――」 言葉続かなくて、代わりに溢れて来る涙が伊純ちゃんの手を濡らす。 そしたら、私を押し戻そうとする伊純ちゃんの手から力が抜けて、額から手が外されたかと思えば、伊純ちゃんの指先が私の涙を拭ってくれた。 「小向。お前は本当にアタシでいいのか?お前には――」 「伊純ちゃんが好きだよ。……伊純ちゃんは私のこと、嫌い?」 「……嫌いじゃない。」 すぐそばにある伊純ちゃんの唇が、躊躇するように微かに震え、きゅっと閉じあわされる。 鋭い瞳には、涙でぐしゃぐしゃになった私が映ってて、我ながら少し情けなかった。 「こんな私じゃ、だめかなぁ。……でも私、伊純ちゃんが欲しい、よ」 「……だめなんて言ってねぇだろ。」 伊純ちゃんの目は悲しそうだった。 だけど、口元に小さな笑みを湛えて、「バカ」と笑う。 「欲しいなんて言うなよ……お前みたいなやつ、嫌いだったのに」 「……嫌い?」 「嫌いじゃない。」 今度はさっきよりもはっきりと言ってくれた。 伊純ちゃんの手が私の頭を軽く抱いて、引き寄せる。 不意に距離を縮め、そして私達は、小さなキスを交わしていた。 「伊純ちゃ……?」 「んなこと言えるか。――好きなんて」 「照れてるの?」 「……黙れ」 少しだけ赤くなった伊純ちゃんが、可愛くてどうしようもなくって、私はもう一度キスをせがんだ。 何も言わずに、ただ唇を合わせるだけの、ぶっきらぼうなキス。 嬉しくて、同時にきゅって胸が締め付けられるような切なさを感じて、私は弱く笑う。 「離さないでね。……一人にしちゃ、や」 「……わかってる」 ほら。大丈夫。 お父さん、お母さん、お姉ちゃん。 伊純ちゃんが隣にいてくれるから、私は大丈夫だよ。 やっぱり悲しいし、苦しいし、怖いけど―― 私、頑張って生きてくから。……伊純ちゃんがいてくれる、から。 これで、いいんだよね……? 『なんですって?』 「その、つまり……佳乃のお姉さんが……」 『……亡くなった、ということ。』 「はい。」 こういうこと、報告するのはやっぱり気が重いものだ。 電話の向こうの蓮池(ハスイケ)課長は、神妙な様子で暫しの間黙り込んだ。 私―――乾千景―――が佳乃と伊純から報告を受けたのはつい先ほどのこと。昼過ぎになっても戻って来ない二人の身を案じていた頃、ようやく佳乃達は帰還した。そして佳乃が告げたのは、“最悪の事態”だった。佳乃のご両親は行方不明、そして姉である雪乃さんは死亡……物騒な今時分、ありえない話ではなかったけれど、まさか現実になるなんて。 佳乃と伊純は休ませることにして、課長へ報告は私が行なう。科学者の十六夜さんの手配で、建物内から外に電話が繋がるようにしてもらった。そして今こうして、地下施設入り口すぐのホールに設置したテーブルから、上司である蓮池課長に電話を掛けている、というわけ。 『ご遺体はどうしたの?』 「佳乃と伊純、あぁ伊純は佳乃に同行した子なんですけど、その二人が佳乃の家の庭に土葬したそうです」 『土葬……仕方ないわね。』 本来ならば、法律によって土葬は禁止されている。しかしそんな法律も今となってはあってないようなものだった。火葬場を使うのはそれなりにお金がある人達だけで、それ以外は地面を掘って埋めたり、或いは遺体を放置してしまう例も多い。 「佳乃のお姉さん、雪乃さんって言うんですけど、彼女……どうやら強姦されたらしいんです」 『強姦?……他殺なの?』 「おそらくは。腹部に致命傷と思われる刺し傷もあったそうです」 『殺人事件として捜査すべき……だけど』 課長は弱い口調で言って、ふっと言葉を切る。課長の気持ちはよくわかる。私だって佳乃のお姉さんを殺したやつを何としてでも捕まえてやりたいところだ。しかし、それを出来なくしてしまったのは佳乃だった。 「遺体が残っていないんじゃ……。掘り起こしても良いですけど、そしたら佳乃達も」 『変死者密葬の罪に問われることになる。……私達は見て見ぬ振りをすることしか出来ないようね』 「……はい。」 見て見ぬ振りなんてこと、警察としてあってはならないことだ。 しかし今時分、細かい犯罪に口出しをしていてはとても追いつかない仕事量になってしまう。 身内だから、だとかそんなんじゃなくて、あくまでも状況を考えての決断だ。 『この件は不受理ということで良いわね?』 「そうして下さい。」 『それじゃあ乾ちゃん、小向のこと、宜しくお願いね』 「……、はい。失礼します」 最後に掛けられた一言に言葉が詰まりながらも、私は通信を終えてふっと溜息を零す。 宜しく……か。 今こそ、私が佳乃の面倒を見なきゃいけないはずだった。肉親を亡くしてどんなにショックなことか。 それなのに、佳乃は気丈な笑みを見せていた。 あんなに弱くて頼りなくて、私に甘えてばっかりだった佳乃が、「大丈夫だよ」なんて言って笑んでいた。 無理をしているのか。或いは―― 「伊純……?」 佳乃と同行した少女の名、ぽつりと呼んで眉を寄せる。 テーブルに肘をつき、手の平で額を覆って少しの間考え込んだ。 自分の不甲斐なさにじわじわと苛まれながらも、頭を巡らせ推測する。 私は伊純のことを最初っから悪いイメージでしか見ていなかったけれど、もしかしてあの子、結構良いところとかもあるんだろうか。伊純がいてくれたから、佳乃は今、笑っていられるんだろうか。 不良だという先入観だけで伊純を見ていた私。だけど佳乃はいつも言っていた、「伊純ちゃんはいい子だよ」と。佳乃の言葉こそが正しかった?佳乃はちゃんと伊純の人間性を見ていたの? 私が間違っていたのかもしれない。薄々気付きながらも、それを素直に肯定するのも歯痒かった。 伊純には、感謝しなきゃいけないのかもしれないけど。……でも、やっぱ悔しい。 「ッ……不謹慎。」 今は、悔しいとか言ってる場合じゃない。自分の感情で動くべき時じゃない。 私は佳乃のことを想って、佳乃の気持ちを汲んであげなくちゃ。 ガタンと音を立てて椅子から立ち上がり、携帯電話をポケットに仕舞って足早に廊下に向かう。まだ仕事も沢山残ってるし、佳乃の様子も見ておきたいし。ぼやぼやしている暇なんか私にはないんだから。 真っ直ぐに廊下を歩きつつ、今後のことを考える。とりあえず皆にも、佳乃のことを伝えておくべきだ。周囲の気遣いというのも、心の傷を癒すことに重要な役割を担う。それから、佳乃の分の仕事も私がちゃんとフォローして―― 「……あ」 巡らせていた思索が不意に途切れたのは、廊下の壁に背を凭せ掛けて佇んでいた人物が目に入ったからだった。足取りを緩ませて、その人物へと近づいた。 「伊純」 「……あぁ」 伊純は私に気付くと、相変わらず気だるそうな顔を見せつつも、壁際から離れ私に近づいた。 まるで、私を待っていたみたいだ。 「なぁ乾。小向の様子をどう思う?」 「え……?」 突然掛けられた問いに、言葉が詰まる。 何故伊純からそんなことを問われるのか、そしてその問いに対する答えもすぐには浮かばない。 「お前の相棒だろ?あいつの様子がいつもと比べてどうなのか、って聞いてんだよ」 「どうって……いつも通り、ね。当然、ショックはあるみたいだけど」 「……いつも通り?」 私の答えに、伊純は表情を曇らせて聞き返す。伊純の意図が掴めず、戸惑いながらも小さく頷いた。 「本当にそれでも相棒か?……お前な、小向のこと面倒見る気はあるのか?」 「……」 責め立てるような口調で投げ掛けられる言葉に、何と返せば良いのかわからない。 胸の奥でふつふつと湧き上がる憤りを堪え、くっと拳を握り締めた。 「とにかく、あいつのことは……」 「伊純」 苛立った声を遮るように、相手の名を呼んだ。 私だって、佳乃のことが心配で仕方ないの。だけど、佳乃は。 佳乃は私以外の人に、面倒見てもらいたい、みたいだから。 「佳乃のこと、宜しくね。」 「……?」 「伊純がいてくれて助かった。佳乃って手が焼けるっていうか……あの子、弱いから。でも私だって佳乃の分の仕事もしなきゃいけないし、忙しい、し……だから、佳乃のことは伊純に任せるから……」 と、言葉にしている内容と、私が本当に考えている内容、合致しているのかどうか自信がなかった。 悔しくて。頭が煮えて来て、自分でも何を言ってるのかよくわからない。 感情的になるべきじゃない。なのに、私。……伊純に嫉妬してる。 「乾は本当にそれでいいんだな?」 「……いいに決まってるじゃない。あんたのこと信用して言ってるんだから」 「そうか。」 伊純は冷たい眼差しで私を見つめ、やがて踵を返し、背を向けて歩いていく。 あの子の背中は、そんなに大きいのかな。 佳乃が、凭れることが出来るくらいに。 ……もしそれなら、私は、佳乃が落ち着ける場所に居させてあげたいから。 邪魔、しないから。 「……ッ」 佳乃は、お姉さんを亡くして、本当に辛いんだってば。 なのに私は自分の感情にばかり振り回されて、情けない。 こんな私よりも、伊純の方が佳乃に相応しいんだろうね。 私は、ちゃんと仕事の先輩として、佳乃のことを労わっていくから。 自己中心的な嫉妬なんて、ちゃんと押し殺すから。 「乾は本当にそれでいいんだな……」 先ほど放った問いかけを、一人になった今、もう一度繰り返す。 呟きには誰も答えない。一人きりの個室で漏らした問いは、自分自身に向けたものだったのかもしれない。 アタシ―――佐伯伊純―――は本当にこれで、いいんだな……? 小向のことを嫌っていたはずだった。警察なんて、真っ当な正義の人間なんて、人に甘えてばかりの依存心の強い人間なんて――嫌いだったはず、なのに。 嫌いだからあいつに干渉したくないと、そう思い込もうとしていた。だけど実際は違った。 アタシは、小向に惹かれていく自分が怖かったんだ。 あいつの体温に触れるたびに、あいつと言葉を交わすたびに、ヤバい、って思った。 このアタシが警察の人間を好きになる?そんなことがあっていいのか? アタシは世の中の裏側で生きてきた汚れた人間だ。あいつとは生きてきた世界すら違う。 いつか相違を実感する日が来る。それに、アタシと一緒にいれば、小向は汚れちまうかもしれない。 ……葛藤から逃げるために、あいつから離れようと思ってた。 「伊純ちゃぁん……」 不意に廊下の方から聞こえた情けない声に、はっとして顔を上げる。 急いで入り口へ向かい扉を開ければ、泣きそうな顔をした小向の姿。アタシと目が合えば、ふっとその表情を和らげた。 「会いたかったよぅ」 「……さっきまで一緒だったろ」 「でも会いたかったのっ」 甘ったるい声で告げられる言葉が、本当にアタシに向けられているものなのか、少し自信がなかった。 だけど小向はそれが本物だと証明するように、アタシの胸に飛び込んでくる。 「……小向、ここはまずい」 「うぇぇ」 鼻なんか啜りつつ涙目できょとんとしてアタシを見上げる小向に、苦笑混じりの溜息を漏らした。 緩く小向の身体を抱いて、室内に引き寄せる。 パタン、と扉を閉めれば、この部屋はアタシと小向、二人だけの空間になる。 腕の中で、小向の華奢な身体がアタシに縋りつく。 指先に触れる柔らかい髪と、微かに漏らす嗚咽と、ぎゅっと纏わりつく体温と。 そんな存在に嫌んなるほど、惹かれていく自分に気付く。 「……乾とは会ったのか?」 「千景?会ってないけど……」 「そうか。ならいい」 こうやって小向を抱きしめて、慰める役ってのは乾のものだと思っていた。 だから本人に聞くために廊下で待ち伏せ、直々に問い掛けた。 乾の答えには、幻滅した。 『佳乃のこと、宜しくね。』と、乾の告げた言葉は、小向を突き放したのと同じことだ。 乾があんなに無責任じゃ、小向が頼れるやつなんか存在しない。 それならアタシが、その役を引き受けてもいいんだな。 アタシが小向のことを抱きしめて、髪を撫でてもいいんだな。 「小向、お前は……本当にアタシで良かったんだよな?」 「……ぅ?なにが?」 「なにがって、……こう……なんつーか」 「……恋人?」 不思議そうに瞬きながら、ぽつりと口にされた一言に、不覚にも心音が速まる。 恋人なんて言葉が、アタシと小向に適応されて良いものか。 現実感のない響きに暫し押し黙った後、「それ」と小さく頷いた。 小向は弱い笑みでアタシを見上げてから、微かに震える唇をアタシの頬に触れさせる。 「だって私は、伊純ちゃんのことが好きなんだよ」 「……嘘くせぇ」 「う、嘘じゃないよー!」 なんでこう、疑心暗鬼になるかな。 未だに信じられない。こいつがアタシなんかに惚れるなんて。 「伊純ちゃんだって、本当に私でいいんだよね?ね?」 「……う、それは」 「いい、んだよね?」 追求するようにじっと見上げる小向の目に、どう答えれば良いのかわからない。 アタシが小向のことを、好き、なのか。 「お前が……欲しいなら、くれてやる」 「伊純ちゃんの気持ちを?」 「……そうだ」 小さく頷き返し、じっと小向を見つめ返した。 瞬きすらもせずに、まるで睨み合いのように視線を交わした後で、小向はアタシの頬に両手を宛がった。 「……欲しい」 甘美な囁きと、甘ったるいくちづけ。 小向がくれたそのキスが、――嬉しい、とか思うのは やっぱりアタシが、小向を好きだってことになるんだろうか。 こんなやつに惹かれる理由を、キスを受けながらぼんやりと考えた。 小向佳乃って女は、普段はふにゃふにゃしてるくせに、たまに見せる真剣な瞳が怖いくらいに真っ直ぐで。 他人の幸せなんかのために精一杯で、バカみたいに頑張ってる。 他人に優しく自分に厳しく、そんな無茶な格言を、全うしようとしているやつ。 小向は、アタシのことすらもちゃんと人間として見てくれた。 優しいなんて言われたの、生まれて初めてだった。 アタシは優しい人間なんかじゃないってつっぱってたけど、でも心のどっかで、小向の言葉が嬉しかった。 自分の核心に触れてみれば――アタシを理解してくれる人間を、心の底で求めていたのかもしれない。 嫌いだったはずなのに。こんなやつ、関わりたくもないと思っていたのに。 なのに今、こんなにも求めてる。嫌んなるぐらい、惹かれてく。 「伊純ちゃん、もっといっぱい、して」 「キス?」 「……ううん、全部。」 |