「セナちゃん。
  そこにいるの?
  ねぇ、覚えてる?
  セナちゃん。
  私のこと、覚えてる?」
 
 懐かしい人の声がする。
 懐かしい人の温度が触れる。
 懐かしい人の微笑みが見える。

 知りもしないはずなのに。
 声も温度も、彼女の顔すらも、何も知らないはずなのに。
 不思議とそれが、とても近くにあるようで。
 長い時間、名前を呼ばれていた。
 だけど、呼び返すことが出来なかった。
 彼女の名前、知っているのに。
 何故言えなかったんだろう。
 ――月見夜さん、と。


「セナ、いい加減起きろぉ」
 安眠を妨げる声に、あたし―――蓬莱冴月―――は小さく身じろいだ。
 ゆさゆさと身体を揺さぶられ、ようやくあたしは目を開けて邪魔者の姿を捉える。
 あたしのことを本名ではなくハンドルネームの『セナ』と呼ぶ人物は一人だけだ。相変わらずセーラー服に身を包んでいる人物。昨日と違うのは、その服が血塗れではなく新品のようにピカッピカということか。
「……う、ぃ。おはよーございましゅ……」
 二度寝したい衝動に駆られながらも、寝惚け声を返して眉を寄せる。
 闇に慣れた目に射してくる光が眩しい。ふっとその光が遮られ、幾度か瞬くと遼があたしの顔を覗き込んでいた。猫目がちな瞳がパチパチと瞬いてあたしを見ては、目を覚ましたことを確認してか顔を離した。髪も昨日と同じように一個にピョコンと結われていて、少なくともその髪を結う時間ぐらいはあたしより先に起きてたってことになる。
「起きたね?もう何時だと思ってんのー。遼ちゃんは五時間前には起きてたぞッ」
 カツンッと額を小突かれ、「うぅ」と唸りながら寝返りを打った。
 五時間だぁ?何時って……今まで寝てたんだから知らないよ……。
「はい、起きた起きた!まったく、若い子はよく眠れて羨ましいよ。あたしなんかもうオバサンでさぁ。六時間も寝たら目ぇ覚めちゃうっつーの」
「一個しか違わないくせに……」
 十七歳なのに本当にオバサンみたいな遼にジト目を送りつつ、のそりと上半身を起こして、時計を探す。
 あ、発見。ベッドサイドテーブルにデジタルの時計が置いてある。『17:34』――夕方だ。
 かれこれ十時間かそこら寝てたんだろうか。そりゃあれだけ起きっぱなやってれば眠いって。
「さぁ晩ご飯食べに行くよー。あ、セナは朝ご飯かぁ」
 皮肉めいたことを言われつつ、「服はあそこ」と遼が指差すテーブルを見る。
 昨日は血塗れになった服を脱いでそのままベッドに潜り込んでいた。綺麗に畳まれた服を広げれば、そこに昨日の血はついていない。おそらく遼が洗ってくれたんだろう。
「お腹空いたッ。ほら、セナぁー、早くぅー」
 と、やたら急かす遼に「はいはい」とテキトーな返事をしつつ、あたしは服を身につけた。

 三宅遼(ミヤケ・ハルカ)。昨日の米軍の強襲の際、隣のビルから一緒に様子を眺めていた女の子。
 変な縁とも言うべきか。彼女は親もいれば学校にまで通っていた裕福な女子高生で、はたやあたしは親もいなければ学校なんて全くもって縁遠い、いわゆる孤児と呼ばれる存在だ。ただ唯一の共通点は、年齢が近いということ。十六歳と十七歳、その所為かこの施設に入っても、何かと行動を共にすることが多い。
 千景ちゃん――もとい、婦警のお姉さんや、他の人たちは「十六・七の子達」みたいな視線であたしと遼を見る。だけど、あたし、それがちょっとだけ納得できなかったりもするんだなぁ。
 十六歳と十七歳には、すごく大きな差があるんだと思うわけだよ。
 具体的に何が違うかって言われると言葉に困るけれど。一年の差っていうのは、あたし達ぐらいの年齢だと結構大きいもんじゃないかなぁ。……だから、なんか、こう。
 遼は大人っぽいなぁとか、思うわけ。

「遼って、お家帰らなくていいの?」
 昨日、婦警コンビの片割れの佳乃ちゃんが説明してくれたご飯製造マッシーンでオムライスが出来上がるまでの待ち時間、あたしは遼にそんな問いを投げ掛けた。
 遼は「ん?」と顔を上げた後、ひょいっと軽く肩を竦めて見せる。
「いいのいいの。あんなやつら放っといても全然問題ないから。多分気付いてないんじゃない?あたしがいなくなったことなんか」
「そ、そうなの……?」
「そうだよ。あ、それにあたし、無断外泊とか多かったから。日常茶飯事っていうか」
「ふぅん……」
 いいのかなぁ、と首を傾げていた時、ピーッと音を立ててクッキングマシーンの戸が開き、会話は中断する。
 湯気が上がるオムライス二皿、それぞれお盆に乗せてから、テーブル席の方に向かった。
 あぁ、こんな美味しそうなご飯なんか久々だよ。涎出そう。
 遼と向かい合わせに席についてから、あたしは幸せを噛み締めるようにオムライスを見つめていた。この赤いケチャップの掛かり具合なんかもう最高。
「セナ、食べないの?冷めちゃうよー?」
 あたしの感動などどこ吹く風といった様子で、遼はすでにオムライスにぱくつきながら不思議そうな顔をする。むむ、遼ってばご飯のありがたみがわかってないなぁ。
「もちろん食べるともッ!いや、ちょっと感動に浸ってたのっ」
 そう言ってスプーンを手に、ふんわり卵と、中に詰まったチキンライスとを掬い上げ、そっと口に運んだ。
 口の中で半熟の卵が震えたかと思えば、ほくほくのチキンライスが溢れ出す。そして酸味の利いたケチャップが最高にエキサイティングだ。嗚呼、なんて幸せなんだろう。
「感動?別にそんな凄いオムライスでもないと思うけど。うちのお手伝いさんが作ったオムライスはもっと美味しいよ?」
「……」
 遼の言葉は皮肉でも何でもない、それは遼が浮かべる不思議そうな表情から読み取れる。
 しかし、なんだろう、こう、当然のように言われてしまうとちょっと悔しい。
 お手伝いさんなんて言葉が出てくるところをみると、遼って良いとこのお嬢さんってやつなんだろうなぁ。
「このケチャップ、もちょっと酸味押さえたらオムライスの味が引き立つと思うんだけど」
 そんなことを言いつつオムライスを口にする遼に、思わずぷーっと頬を膨らませた。
「美味しいじゃんっ。贅沢だよ遼ッ」
「そう?美食を追求するのは人間として当然じゃない?」
「……あたしはご飯食べられるだけで十分です」
 なんか遼って、こういうとこがムカつくなぁ。世間知らずなのか何なのか……。
 ご飯とか食べさせて貰ってるくせに、親のこと悪く言うのとかも、ちょこっと許せない感じ。
 あたしに親がいないからそんなこと思っちゃうのかな。親がいたら、それはそれで大変なのかな。
「っていうかさ……素朴な疑問なんだけど」
 不意に遼は頬杖を付き、どこかに目を向けながら切り出した。ちらりと遼の視線を追えば、入り口から入ってきた伊純さんの姿があった。佐伯伊純(サエキ・イズミ)さん、噂の不良少女さんだ。遠目に見ても細くてスタイルいいし、顔立ちもキリッとしてて、更には二の腕のタトゥーなんかもう最高に格好良い。不良少女さんは十七歳って言ってたかなぁ。遼と同い年にも見えないよなぁ。あたしが一年経ってもあんな風にはなれないような気がするしー……。
 そんなことを考えながら伊純さんに見惚れていると、「ふー」と溜息のように息をつく遼に気付いて、慌てて伊純さんから目を逸らした。見惚れてたなんて気付かれるとなんか恥ずかしいし。
「疑問って?」
 あたしは遼に目を戻して問い掛ける。すると遼は「はー」と仰仰しく溜息をついて見せ、こう言った。
「なんでここには男の子がいないワケッ!」
「……え?なんで?」
「なんでって、これ一大事でしょ。」
「……なにが?」
 大問題と言わんばかりの遼の口調に、あたしはわけがわからず首を傾げた。
 遼も、あたしが何故わかっていないのかというような訝しげな顔をしながら言葉を続ける。
「男の子がいないってことは、恋が出来ないってことよ?」
「……恋、ですか」
「恋はしなくてもいいけど!……ヤりたくならない?」
「……」
 しばらく、遼の言葉の意味がわからなかった。
 ヤ?やり? ……や?
「ブぅッ」
 思わずオムライスを吹き出して、慌てて口元を拭う。
 な、なな、なななななな、何を言い出すかなこの人は!!!
「そんな驚くことじゃないでしょー。セナってばウブなんだからぁ」
 遼はケタケタと笑って言った後、はぁ、と溜息をつく。
 ヤ、ヤヤヤヤ……ヤ、……。
「可愛い男の子いないかなぁ」
 遼、ってば。ちょっと。これ。どうかと思うよ。 
 な、なんていうか。あたし、そういうの疎いし。わかんないし。
 ただその。道徳的にっていうか。
 ――どうかと思うよ?
「セナ、食べないの?冷めたら不味くなるって」
 そんな遼の言葉にあたしは我に返り、慌ててオムライスをぱくついた。
 しかしオムライスが美味しいとかそんなのはどっか遠くに吹き飛んで、遼の一言だけが頭を回る。
 『ヤりたくならない?』
 エッチ、てこと、だよね。
 あたしそういうの……したことない、とか言ったら、バカにされるのかなぁやっぱ。
 遼って、そういうの好きなのかな。したことある、んだよね、もちろん。
 ――あぁ、まただ。この置いていかれてるような感覚。
 遼って色んな意味で大人っぽいよ。あたしの持ってないものを、たくさん持ってる。
 家族も、友達も、経験も――明らかに遼の方がたくさん持ってる。
 あたしって今まで一人でいることが多くて、恋とかも縁遠いものだったし、
 憧れなかったと言えば嘘になるけど、でもそんなこと、してる余裕なんかなかった。
 あたしは生きていくだけで精一杯だったんだ。
 ただ一度だけ。たった一度だけ、恋のようなものをしたことがある、けど
 それは一方通行で、相手に気持ちすら言えなくて。いや、それ以前に、相手の顔すら知らなかった。
 あたし、もしかしてなんにも持ってないのかな。
 遼が知っているような色んなこと、なにも知らずに生きてきたのかな。
 ――なんか、すごく悔しいよ。





 ヒュンッ!と耳の真横で空を切った刀に、アタシ―――佐伯伊純―――は一歩退いて体勢を立て直す。
 自らも握った刀、グッと強く握り直した後で、思い切り地を蹴って女に切りかかった。
「甘い!」
 女は横に跳んでアタシの攻撃を軽々と避けたかと思えば、キュッと音を立てて踏みとどまり、そして間髪入れずに次の攻撃を仕掛けてきた。攻撃の慣性で受けに入れなかったアタシは、その攻撃を避けることが出来ず――バシンッ!と大きな音を立て、アタシの握っていた刀が吹っ飛んだ。
 少しの間の後、離れたところに落ちた刀を横目で見遣り、「降参」と呟いた。
 武器を失ってはどうしようもない。自分の負けを認めざるを得なかった。
「ふふん、才能はあるみたいね。練習すれば強くなるわよ」
 女は息一つ乱さずに余裕の笑みを浮かべていた。女――こと、伴都(ハン・ミヤコ)。
 アタシもこの女の噂は聞いたことがあった。怪盗Happy、名前こそふざけているが、義賊と呼ばれる名高い怪盗だ。この女に声を掛けられたのは、食事を終えて廊下を歩いていた時だった。「不良少女、手合わせ願おう!」などと意気込んだ言葉に一瞬無視するという選択肢も浮かんだのだが、巷で噂の怪盗Happyの腕前はいかほどかと、少しばかり気になった。そしてアタシはHappyの挑戦を受けたのだった。
 場所は事情聴取を行なった広いフロア。Happyがどこからか持ってきたのは竹刀という、竹で出来た模擬刀だ。互いの武器は竹刀一本のみ。ルールは無し。そうして一対一の勝負を始めたわけなのだが、Happyの強さは予想以上だった。
「なるほどな……確かにその強さは認める」
 乱れた息を整えながらそう告げると、Happyこと都は、「潔い!」と笑顔で一言。
 アタシも今まで喧嘩は絶えなかったわけで、それなりに経験は積んでいるつもりだ。いつの間にか「不良少女」などというふざけたあだ名まで付くほどに、望まずと有名にもなってしまった。しかしそんなアタシでも太刀打ちできないレベルで都は強かった。
「伊純、まだ十七でしょ?鍛えれば私以上に――いやいや、私ぐらいにはなれるかもね」
「……言い直す必要ないだろ、そこ」
 都の言葉に肩を竦めながら、落ちた竹刀を拾いに行く。
「リベンジする?」
 と背中に掛けられる言葉に少し思案するが、その気にもなれなかった。
「や。かったりぃ」
「えー?私はまだまだ元気なのにぃッ」
「知るか、んなこと。」
 竹刀を拾い上げ、都の元に戻ってそれを差し出した。まぁ気が向けば、また手合わせしてやっても良いかもな。……負けるだろうけど。
「ん。じゃあ伊純の代わりに遼ちゃんにリベンジしてもらいましょーか」
 都は竹刀を受け取ることはせず、笑顔でそんなことを言う。「ハルカ?」と眉を顰めれば、
「隠れて見てたんですけどー」
 と、廊下に続く入り口の方からひょこんと顔を出す女が目に映った。
 ハルカ……名前なんか覚えてなかったが、今時女子高生なんかやってる奇特な女、ということは印象に残っている。今日も遼は制服姿で、女子高生っぷりをアピールしていた。
「いや、でもさぁ、不良少女さんでも勝てないのに、あたしが勝てると思うー?」
 遼はこっちに歩み寄ると、満更でもないような様子で首を傾げた。
 黙って竹刀を差し出すと「仕方ないなぁ」と言いながらもちゃっかり受け取りやがる。なんだコイツ。
「おや、冴月ちゃんは一緒じゃないのね?」
「セナは満腹で眠くなったとか言って、先に部屋に戻っちゃった。お子様だねー」
 都の言葉に、遼は竹刀を構えながら答えた。お子様って、こいつも十分お子様だけどな。
 冴月とセナ……名前が二つあるらしい。冴月っつーと確か、この遼と一緒に事情聴取受けてたガキか。ガキっちょ同士、似合いの二人組だ。
 遼とアタシも同い年ではある、けれど。他で見る十七よりもガキっぽく見えるんだよな、この遼ってやつ。
 バカっていうやつがバカと同じ原理だ。ガキっていうやつがガキ。……んじゃアタシもガキか。
「都ちゃん、手加減してね?」
「……私をちゃん付けするのは遼ちゃんが初めてね」
 都はにっこりと笑みながら、遼と間合いを取って竹刀を構えた。あ、こいつ絶対手加減しない。
 アタシは二人の勝負を安全に見守るべく、部屋の隅に置いてある椅子に腰掛けた。昨日事情聴取の時に使ったやつだ。机に肘をついて、既に結果の見えきった勝負を傍観する。
「どちらかが降参と言うまでが勝負。それじゃあ行くわよ。――始め!」
 都がそう言い放った……刹那、ふっと空気を圧すような気迫が都から感じられた。
 あれが都の強さだ。
 絶対的な自信と、それに伴う実力。確実に獲物を仕留めるその目は、まるで豹のようだった。
 遼も気迫に押されたか、勝負開始の一秒後には後ろに一歩退いていた。負けは見えたな。
 都は一気に地を蹴って、遼に詰め寄る。遼はそれに負けじと――後ろにダッシュした。
 ……あ、ありえねぇ。
「ちょ、ちょ、ちょっとタンマ!!都ちゃん手加減するって」
「言ってないわよそんなことー」
 ヒュンッ、と鋭い音がするが、遼はからがらで都の攻撃をかわしていた。そして次の瞬間には、完全に都に背を向けて逃亡する。あ、あれはルール違反、じゃないのか?や、ルールは無しだったか……。
「わーーん!伊純ちゃん助けてーーっ!!」
「ちゃん付けするな」
「わーーー!!」
 アタシの反論を聞いているのかいないのか。遼は壁に沿って猛ダッシュ。そして都はその現状を楽しんでいるかのように、笑顔で遼を追い掛け回しているのだった。勝負というよりも鬼ごっこだな、これは。
 やがて都は、足取りを緩めることもなく竹刀を掲げた。遼の後頭部にお見舞いか……ご愁傷様だ。
 都はタンッと一つ地を蹴って、遼に切りかかろうとした――が。
 遼はそんな後ろの状況など気付かずに逃げていた途中、足を絡めたか、「わ!」と声を上げながらその場でバランスを崩していた。
「うぇ……!?」
 都もさすがにそれは予想外だったのだろう。
 勢いが治まるわけもなく、狙いを定めた場所にターゲットはいない。
 ヒュンッと振り下ろされた竹刀は空を切り、地についた。
「……隙あり?!」
 遼はわけもわかっていないような表情のまま、バランスを崩して凭れた壁から離れると、当てずっぽうに竹刀を振りかぶる。――そして、運良くか、運悪くか。
 スコーンッ、と、都の額に直撃していたのだった。
 暫しの沈黙の後、都はその場に尻餅をつき、微かに打ち震えながら額を押さえた。
 あ、あれは痛いよな……実に良い音がした。
「わ?大丈夫!?ごめんなさい!」
 遼は慌てたように都のそばにしゃがみ込み、その顔を覗き込む。
 アタシのいる場所から、二人の顔は見えない。
 暫しの沈黙が流れ、――そして。
「……し、死ぬかと思った」
 と、都が立ち上がり、「ふぅ」と息を零す。
 しかし。遼はその場にしゃがみ込んだまま、立ち上がる気配を見せなかった。
 都はちらりとアタシに目を向けると、微苦笑を浮かべて見せる。
「――ごめんね、遼ちゃん。……今の、条件反射で、ついね。わざとじゃないのよ?」
 都はどこかわざとらしい口調で言いながら、手に握っていた何かを懐にしまった。ほんの一瞬しか見えなかったけれど、キラリと光ったその切っ先は、おそらく小さなナイフだろう。
 都が遼から離れて竹刀を拾い上げると、ようやくアタシのところから遼の姿が見えた。遼は喉元を押さえて微かに震えている。
「ひ、どい……本当に、死んじゃう、……」
 遼は声を震わせ、どこか怯えたような眼差しで都を見上げていた。その様子を見て、先ほどの沈黙に二人の間で何が起こったかを察した。
 なるほど、な。
 遼が無我夢中で放った一撃が都を捉えた、そこまでは都も計算外のことだったのだろう。
 しかし都はそれだけで終わらなかった。警戒心をなくして都に近づいた遼に――あのナイフを突きつけた。
 喉元に、そして遼の様子からして、ギリギリのところに。
 大人気ないと言ってしまえばそこまでか。だけど、違う。
 都は見せ付けた。実践の恐ろしさというやつを。
 もしもこの場が実践の場だったのならば、間違いなく遼は死んでいたところなんだ。
 都は勝負の前に言った。「降参と言うまでが勝負」と。
 つまり、遼の一撃が決まっても勝負は終わっていなかった。
「降参する?」
「……う、ぅ。……降参」
 遼がそう漏らすと、都はふっと小さく笑んで遼の頭を軽く撫でた。
「ごめんね。――でも、実践じゃ他人は容赦ないよ、ってこと。」
 都はどこか冷たい口調で言って、二つの竹刀を拾い上げ、遼のそばから離れていく。
「……」
 遼は喉から手を離し、都の背中を見上げていた。瞳に宿った怯えは今も消えていなかった。
 やっぱりな。遼は世間知らずのガキでしかないんだな。
 それを身を持って教えつけた……さすがは都センセー、ってか。
「伊純ぃ。後宜しくぅ」
 都はブイサインなど向けてアタシに言いつけ、ホールを後にする。あいつもなかなか容赦がない。
 宜しくって言われたって、な。
「…………」
 未だに座り込んだまま黙り込む遼のそばに近づくと、その目に涙を浮かべていることに気付く。
 そんなに怖かったのか。……まぁ、相手が都じゃ仕方ないな。
「ッ……あんなの、卑怯だよ……」
「卑怯じゃない。」
「でもッ……!」
 遼はキッとアタシを見上げ、鋭い眼差しを向ける。その目に一筋零れ落ちる涙に、呆れながら顔を背けた。
「ガキ。」
「……が、ガキじゃないもん」
「ガキだよ、お前は。」
「……うるせー」
 強がるように涙を拭い、遼は立ち上がる。
 アタシが歩き出すと、後を追うようにして一歩後ろをついてきた。
 遼は尚も「ガキじゃない」と呟きを漏らし、グスンと鼻を啜っている。
 ――微妙なところではあるんだろう。
 十七歳。
 子どもとも大人とも言えない年齢に立たされると、二つの感情が生まれるようだ。
 子どもじゃない。大人になんかなりたくない。
 そういう、思春期から青年期に移る途中のジレンマってやつが――あるらしい。
 アタシには関係無いけどな。そういうもんには興味がない。
 ガキでいて不自由することも、大人になって不自由することも特にないだけだ。
 だけど、理解出来ないわけじゃない。
 ガキ扱いも大人扱いも、妙にムカつくもんだってことは、な。





 ブクブクブクブク……水中に幾つもの気泡が生まれては弾ける、その繰り返し。
 鼻から酸素を吸い込んで、口から二酸化炭素を吐き出す。……ブクブクブクブク。
 意味のない遊びにも飽きた頃、あたし―――三宅遼―――は水中から顔を上げ、ふっと息を吐き出した。
 今あたしが浸かっているのは、セナが今まで知りもしなかったという、お風呂。確かにこれ、今の日本には殆ど存在しない希少価値な物である。時代が変化すると共に、お風呂の必要性がなくなり人々はハイテクなシャワーを使うようになった。確か二十年前の文明が最先端だった頃の日本にもお風呂は殆ど残っていなかったらしいけど、とすればこの地下施設を作った人物はよっぽどの物好きだろうか。
 指先でお湯を掬えば、チャプ、と音を立てて滑り落ちていく。水分に満たされた四角い空間の中に、昔の人々はこうして浸かっていたのだろう。ま、なんていうか、身体全体が温かいお湯に包まれて、プカプカやってる感じは嫌いじゃないけどね。
「遼ぁ、タオル持ってきたよー。置いとくねー」
 洗面所の方から掛けられた声に顔を上げると、擦りガラスの向こうにセナのシルエットが浮かぶ。
「ありがとー」
 軽く言葉を返して、ガラスから目を外した。
 先ほど言いつけた、「備品室からタオル取ってきてもらえる?」そんなあたしのお願い……いわばパシリ行為を、セナはあっさり承諾してくれた。セナってば素直なんだから。あたしもお願いした時は、別にパシリ行為だとかそんなこと考えもしなかったんだけど、お風呂に入ってから「自分ですべきことだっけかなぁ」と思い出した。シャワーの後のタオルなんて、いつもお手伝いさんが用意しといてくれたから、人に何か頼む時の恩だとか?そういう感覚、麻痺しちゃってるのかもしれないなぁ。
 ぼんやりと湯船に浸かって、物思いに耽る。セナのこと、それからさっきの勝負のこと。ご飯食べた後、ぐらいから、妙に重たいものが心に圧し掛かっているような、そんな不思議な感覚に捉われていた。
『美味しいじゃんっ。贅沢だよ遼ッ』
『ガキだよ、お前は。』
 一個下のセナ。同い年の伊純。
 二人の言葉が理解出来なかったのは何故だろう。
 たかがオムライスで、たかがご飯であんなに感動するセナだとか。
 あたしの知らない何か知ってるような顔して、あたしのことをガキ呼ばわりする伊純とか。
 なんでそんなこと言うのか、あたしにはちっともわかんない。
 ―――これは、疎外感のようなもの。
「……うー」
 煮え切らない感情に苛立って、あたしは湯船に頭まで潜り込んだ。
 足の先から頭の天辺までお湯に包まれ、ふわふわと緩い浮力に抵抗する。
 コポコポと口から零れる空気が、あたしの頬を滑って水面へと上がってく。
 少し息苦しくなったところで、プカッと顔を上げて大きく息を吸い込む。
 何の意味もない行為、少しだけ弱い笑みが漏れて、湯船の縁に凭れかかった。
 なんでこんなに心が苦しいんだろう。今のあたし、別に何の問題もないはずなのに。
 家族なんか捨てて、この施設にお世話になって。セナだってあたしのこと慕ってると思うし、他の人たちとだって上手くやっていく自信もあるし。何も、問題なんか―――
 『遼って、お家帰らなくていいの?』
 ……お家って、何だっけ?
 帰る家?家族?
 そんなものあたしには、なくったって、良いのに。
 実の娘に何の興味も持っていない両親なんか、要らない。
 要らない。
 あんなやつら捨てて、あたしはこの新しい場所で生活を始めたい。
 でもそんな望みは――叶わない。
「……大人だったら、良かった」
 十七歳。
 あたしがどんなに大人びていようと、経験積んでようと、自活能力があろうと、そんなものは関係ない。
 世間はあたしを子ども扱いするんだ。お父さんとお母さんのところに帰りなさいって。
 どうせあの婦警の二人だって、そのうちあたしにそう言いつけるに決まってる。
 十七歳だから。たったそれだけの理由で。
 ―――帰りたくないよ。
 あたし、もう、あんな家に帰りたくないよ。





「忘れもの……?」
 突然の訪問者があたし―――蓬莱冴月―――に差し出した、一冊の小さな手帳。
 受け取ってパラパラと開けば、最後のページに『三宅遼』という名前が記してあった。表紙には『生徒手帳』って書いてある。
「さっき暴れた時に落っことしたんだろうな。遼に渡しとけ」
 遼の生徒手帳をわざわざ部屋まで届けてくれたのは、意外や意外、不良少女の伊純さんだった。
 ちょっとびっくり。だってほら、不良って言ったら、人の手帳とか拾ったら笑いながらライターで火とかつけるイメージだし。或いは生徒手帳ネタにゆするとか。ネタにゆするって、どんなネタなのかもわかんないけど。
「あ、ありがとう。遼、今お風呂に入ってるけど……」
「や、別に会う必要もないしな。お前に預かっといてもらえばいいし」
「あー……うん」
 あたしが頷いてみせると、伊純さんは「それじゃ」と短く言って廊下を歩いていく。
 学生手帳。遼。不良少女。……うーん。
「あ、あのー」
 あたしは部屋を出て、伊純さんを呼び止めていた。伊純さんは振り向くと、「他にも何か?」と素っ気なく問い返す。うぅ、やっぱちょっと怖いなぁ不良さん。
 見下ろすような視線であたしを見る伊純さんに怖気づきながらも、あたしはおずおずと言葉を発す。
「遼と、知り合い?っていうか……暴れた、って?」
「あぁ。知り合いじゃない、さっき初めて話した。……都に剣の修行、してもらってな」
「都さんって……あ、Happyか。修行?」
「そう。アタシが相手になってもらった後、遼が来て。一戦交えたんだ」
 さっきご飯を食べた後、あたしが先に部屋に戻ってからの話かな。ご飯食べた後は眠くなっちゃうとか言って、実際寝たわけじゃないんだけど(さっき起きたばっかりだし)。遼は一時間ぐらいして部屋に戻って来たかと思えば、「タオル取ってきてもらえる?」とだけ言ってお風呂に入って行っちゃった。
 遼の性格的に、報告して来そうなもんだけど。ご飯食べに行く途中にも、「朝にMinaさんと英語で話しちゃってさ」とか何とか言ってたし。
「で、どうだったの?遼って強いの?」
 あたしが問いを重ねると、伊純さんはふっと口を噤んで目を逸らす。
 その後でぽつりと続けた言葉は、意外なものだった。
「全然。……都にナイフ突きつけられて泣いてたぞ」
「へ?遼が泣いたの?」
「そ。ガキみたいにな。」
「ふぅん……遼って意外と子どもっぽいんだ……」
 なんだか意外な一面って感じだった。
 道理で報告しないわけだ。そういう一面は見せたくないんだろうなぁ。
 遼って、パッと見た感じは大人っぽいし経験豊富って顔してるけど……
 意地っ張りな部分ってのも、結構あるんじゃないのかな。
「……年齢相応だろ、あいつの場合。お前の前だと背伸びしてるかもしれねぇけど」
「うんうん、遼らしいよねっ。やっぱ子どもだなぁ」
 何故だか嬉しくなって、こくこくと頷いていた。
 すると、伊純さんは黙り込んであたしを見つめた後、ピッ、と人差し指をあたしのおでこに突きつけた。
「――お前も、な。」
「え?な、何が?」
「お前もガキだ、ってこと。」
 素っ気なく言い放たれた言葉に、何も返せなかった。
 そ、そりゃあたしは子どもだけど、でも面と向かって言われるとやっぱ悔しい。
 十六のあたしが子どもで、十七の遼も子どもなら、伊純さんだって子どもじゃん、とか思うんだけど。
 でもそれを口に出来ないのは、心の中ではそうじゃないかも、とか思ってるからだった。
 伊純さんは、遼と同い年なのに……子どもって感じ、全然しない。
 あーやっぱ伊純さんも経験あるのかなぁ。やっぱこう、エッチの回数ってのは比例するもんなのかなぁ。
「あ、あのぉ、伊純さん、あのね」
「……まだ何か?」
 用件は終わったとばかりに行きかける伊純さんを慌てて引きとめた。
 今度は先ほどよりも気怠げな顔で振り向き、用があるなら早く言え、と言わんばかりのオーラを放つ。
「うぅ、あのね、あたしと遼と伊純さんの違うとこって何だと思う?」
「あぁ?」
 うっわ、こわっ。
 伊純さんって機嫌悪くなると不良になるんだ。きっとそうだ。
 こんなこと聞くべきじゃなかったかなぁ。あぁでも伊純さんぐらいにしか聞けないしなぁこんなのっっ。
 伊純さんは不機嫌そうにあたしを見つめた後、「なんだろうな」とぽつり呟く。
「顔も名前も性格も違うんじゃねぇ?」
「そ、それはッ……」
 そうなんだけどー!
 あたしが聞きたいのはそういうんじゃなくて、えっと、大人とか子ども、の違い、みたいなッ……
「あぁ、お前あれか、大人になりたーい、ってやつか」
 伊純さんはふっと小さく笑みを浮かべると、あたしの考えてることを悟ったように言った。
 そう、それ!知ってるなら教えて下さい!とあたしは伊純さんを見つめていた。
「大人になるなんて簡単だ」
「ど、どうしたら……!」
「それはな」
 伊純さんはクッと笑みを漏らしてあたしに背を向け、そして焦らすような間を置いた後、告げた。
「男を知ればいいんだよ」
「……………ま、マジっすか!!!」
「……多分」
 そうして伊純さんは曖昧なようで明確な答えを残し、あたしに背を向けて歩いていく。
 その後ろ姿を見つめながら、あたしはぐっと拳を握り締めていた。
 男。
 男、だってよ。
 男を知れば!
 ――……ええぇぇぇぇ!!!?
 それってご飯の時に遼が言ってたじゃん!男なんて、ここ、いないしッ!
 それ以前に男の人ってあんま好きじゃないしなぁ。
 うー。男の人なんてやだなぁ。好きでもない人にそんなのなぁ。
 大体、エッチって痛いって聞くしなぁ。怖いなぁ、っていうか第一、相手いないことには始まらないよなぁ。
 あたしにも選ぶ権利があるけど、相手も選ぶ権利とかってあるだろうしー。
 うーん。
「…………セナ、何やってんの?」
「おわ!?」
 廊下で立ち尽くして考え込んでいたあたしの背に掛けられた声。驚いて振り向けば、火照った顔を手の平でパタパタと仰ぎながら怪訝そうな表情を浮かべる遼の姿があった。
「ああ、あ、あああああ、なんでもないッッッ!!はいこれ、遼の生徒手帳!伊純さんが届けてくれたよ!ああああ、あたしもお風呂入ってくるッ!!」
 ものすんごいどもりながら、あたしは遼に生徒手帳だけ押し付けて、逃げるようにして部屋に戻った。
 だって。だってそりゃあ!!
 遼は、そのぉ、男?とか知ってるのかなぁとか思うと、すっごい微妙な気持ちになるっていうか。うぅぅぅ。
 とにかくこう、今は落ち着かなきゃ、とその一心で、あたしはバスルームに駆け込んだのだった。





 うーむ。
 アタシ―――佐伯伊純―――としたことが、妙なお節介をしてしまったかもしれない。
 あの冴月とやらのリアクションを見てると、ついからかいたくなってしまう。許せ。
 本気にしてなきゃいいけどな。男を知ったら大人なんて、嘘に決まってるっつーの。
 もしそれがホントなら、アタシなんかどうなるんだよ。ガキの頃から大人じゃねーか。
 ったく、なんでここは精神的にガキっちょなやつばかりなんだろうなぁ。アホくせー。
 と、そんなことを思いながら、アタシは廊下を歩いていた。まだ時刻は九時頃だし、寝るには早すぎる。
 かといってすることもないし、抜け出して外でもうろつこうかと考えていた。
 そんな時、廊下の向こうから歩いてきた人物にふっと目を奪われる。婦警の小向佳乃、か。
 もう一人の婦警である乾千景に比べて頼りないことこの上ない、婦警という職業がこれほどまでに似合わない女はいないんじゃないかと思うほどに婦警らしくない婦警である。小向はしきりに首を傾げながら、ノートと睨めっこしながら廊下を歩いている。小向の進行方向にバナナの皮でも置いてやりたいところだ。
「……困ったなぁ」
 小向はノートを畳んで溜息を零す。その時ふっと小向と目が合った。
 あまり関わりたくない――と思っていた矢先、
「伊純ちゃん!いいところに!」
 と、脳天を突き刺すような言葉を投げられていた。アタシ、そんなに良いタイミングで通りかかってしまったのか?あいつにしてみれば幸運にも、アタシにしてみれば、どうしようもなく不幸にも。
「相談に乗って下さい!」
「いやだ」
 駆け寄りざま掛けられた言葉に、アタシは一言だけ言い放つ。
 小向は「うっ」と一瞬怯んだような様子を見せるも、すぐに気を取り直してパンッと両手を合わせた。
「お願いッ!伊純ちゃんの立場からの意見を聞きたいの!この通り!」
「……内容によるな」
 どうせろくなことでもないんだろうと察しつつ、ぽつりと問い掛ける。
 すると小向はぱぁっと表情を明るくして、
「それでこそ伊純ちゃん!はい、こっちこっち、とりあえず落ち着けるところでね、あ、今千景はいないからッ」
 と、アタシの腕を引いてどっかの個室に連れ込んだ。
 引き受けるとはまだ一言も……。
 しかし連れ込まれては仕方ない。とりあえず部屋の隅の椅子にドカッと腰を下ろし、軽く室内を見渡した。
 千景はいないとの言葉から察するに、ここは小向と乾が使っている個室だろう。
 小向は機嫌も良く、アタシの向かい側の椅子に腰を下ろしてノートを広げた。
 あぁ、このノートは昨日の調書で使ったやつか。小向が広げたページには『三宅 遼(ミヤケ・ハルカ)』の名前と、その下に年齢やら職業やら、昨日質問攻めにされた内容が記してある。
「あのねぇ、遼ちゃんのことなんだけどね」
 やはり婦警とは思えない、のんびりとした口調で小向は切り出した。
 小向が指差すのは家族の欄、『家族:お母さんとお父さん(仲良くないみたい)』という記述の部分。
 仲良くないみたい、って……いいのかそれで。そんな表現でいいのか警察。
「私達、避難してきた人達は保護することになってるんだけどね。その人に家族がいたら、その家族の方達も迎えに行って一緒に保護しなさいっていう命令を受けてるの。だから本当なら、遼ちゃんのご家族も迎えに行かなくちゃいけないのね。」
「ふむ」
「でも、その……少し調べさせてもらったんだけど、遼ちゃんのご家族って、有名な実業家さんなの。だから私達が避難を促しても、きっと受けてくれないと思うんだ」
「だろうな」
「でね、もしそうだとしたら……ちょっと困ったことになるんだよ。」
 小向はそこまで話して、小さく溜息を零す。
 テーブルに頬杖を付き、ノートを見下ろしながら言葉を続けた。
「遼ちゃんは保護者のいる未成年……だから、親御さんのところに返さなくちゃいけないの」
「……なるほど。」
 小向の言いたいことを理解して、一つ頷く。
 昨日の遼の様子からして、あいつは両親と上手くやっているとは思えない。
 『気が向いたら家に戻ってやってもいいけど、あんまり好きな人達じゃないし、いないことにしておいてもいいよ?』
 そんな強がりを言っていたけれど、あいつの性格だ、実際は帰りたくなくて仕方ないんじゃないだろうか。
 遼、なんだかんだでここが気に入っているようだしな。その辺はおそらく小向も察している。
「そのこと、遼には話したのか?」
 問い掛けると、小向は少し黙り込んだ後、首を横に振った。
「まだ話してないの……一旦は受け入れたのに、お家に帰りなさい、なんてやっぱ、言われる方は嫌だよね。遼ちゃんは冴月ちゃんとも仲良しさんみたいだし」
「それは……どうか知らねぇけど」
 先ほどの冴月の様子を見ていると、何やら微妙な感じもする。
 ガキ同士、上手くいくこともあればそうじゃないこともある、ってか。
 こんな時、乾なら「仕方ないでしょ、そういう決まりなんだから」とか何とか言って、強引に遼を追い出すような気がする。しかし担当したのは小向だった。これは人選ミスとも言うべきだ。
 こいつ、人道的な部分を重視しすぎる婦警だな。乾ぐらいにさばけてないと、話が進まないことこの上ない。
 アタシだって千景が言いそうなアドバイスをすることは可能だ。
 しかしアタシに求められているのは警察からの意見ではなく、アタシの意見、だな。
「邪魔者は消す。それがアタシのやり方だ。」
「……え?」
 きょとんと不思議そうなする小向に、きっぱりと言ってやった。
「遼にとって邪魔な両親だろ?小向にとっても、遼が孤児なら何の問題もないわけだ。なら、実際にそうすればいいんだよ」
「……ちょ、ちょ、ちょっと待って、伊純ちゃん、それ無茶苦茶……」
「無茶でも何でも、アタシはそうやって生きてきたんだ」
 それだけ言い切り、もう用事は終わったと席を立つ。
 小向は困ったような表情を浮かべ、「待ってよぅ」とアタシを呼び止めた。
 振り向くのもなんだか癪だ。そのまま部屋を立ち去ろうとすれば、ガシッと後ろから腕を掴まれる。
「どうしてそんな物騒なこと言うの?もっと平和に解決することも出来るはずだよ。そんなだから、千景に目の仇にされちゃうのっ」
「……うるせぇ」
 バシッと小向の手を振りほどき、表情を曇らせた小向を睨みつける。
 こいつもお嬢様育ちってやつか?何もわかってない。
「警察のやつらが偉そうにしてること自体おかしいんだろうが。自分らで作ったルールを破りながら、一般人にはそのルールを押し付けやがって。昨日の避難のせいで死んだやつらは誰が殺した?お前らが殺したようなもんだろ?」
「……そ、それは……」
「そのくせ、たかがルールごときに神経質になって、バッカみてぇ。お前らがそんなにルールルール言うなら、自分らもそのルールとやらを守ってみせろ。……それが出来ないような無能に保護される筋合いはない」
 そう言い放って、部屋を後にしようとした。いや、このまま施設を後にしようとすら考えた。
 よく考えればアタシがバカだったよ、なんでこんなやつらに保護されなきゃいけない?
 警察はアタシの敵だったはずだろ?
 なのにッ――
「行か、ないでッ!!」
 突然、後ろからガバッと身体を締め付けられる。
「ッ、離せ!」
 無理矢理振りほどこうとしたが、小向はそれを許さなかった。
 華奢な腕で必死に、アタシの身体に縋りつく。
「ごめん、ごめんなさい、本当にッ……昨日のことは、……私だって、本当に悔しくて……償えるなら、そうするよ!でも、……でもッ、私達には他にしなくちゃいけないことが、あって……皆のこと、守らなくちゃいけないの!ルール破っちゃったのは認めるし、本当に、どうやって謝ればいいかもわかんないしッ……」
 小向は次第に上擦ってくる声で言葉を紡ぎ、その後でぎゅっとアタシに絡めた腕に力を込める。
 久々に触れる、人の体温。振りほどきたいのに振りほどけないのは、小向の体温の所為だ。
「……警察のお仕事は、皆を幸せにすることなんだよ」
「ならそれを実証して見せ――」
「でも、ね」
 カツン、と、後頭部に寄せられたのは小向の額だろうか。
 悲しげな声に、ふっと返す言葉を失った。
「でも、私……幸せにするどころか、どんどん、不幸にしてっちゃう……。遼ちゃんにだって、遼ちゃんが一番幸せだって思える場所に居て欲しいんだよ。なのに、幸せにするためのルールが、それをさせてくれないの」
「……幸せにするため、か」
 小向は生真面目で、それでいて心優しい人間ってやつだろう。
 警察に一番向いていない種類の人間だ。
 警察ってのは、残酷で非人道的で、それでいて不真面目で。
 そういう、人間の良心を捨てた腐った人間ばかりの集団だと思ってた。
 でも、こいつは違うんだな。
「小向は警察のルールに従いたいのか、それとも幸せにするためのルールってやつに従いたいのか。」
「そ、それはもちろん、幸せにするためにッ……」
「それなら」
 ちらりと振り向いて、涙を溜めた小向の瞳と、少し視線を交わして。
 小向を振り切ることは案外簡単なことだった。離れていった体温に少し妙な気分になりながらも、小向から数歩離れて、それから小向と向き合った。
 不安げな表情の中、どこか真摯な光を持つ小向の瞳。
 こいつなら警察の本分を――幸せにすることってやつを、やってくれるような気がした。
「誰も幸せになれないような警察のルールなんか破っちまえ。――幸せにしてみせるんだな、お前が。それが、死んでったやつらの償いにもなるんだろ?」
「……幸せ、に。」
「そうだ。乾みたいな腐ったやつには、出来ないだろうよ。でもお前なら――」
 と、言いかけて、なんだか余計なことまで言っているような気がして言葉を止めた。
 もう言わなくても小向はわかってるさ。警察として本当にすべきことってやつをな。
「伊純ちゃん」
 ぽつりと名を呼ばれ、「何だ」と小さく返す。
 小向は微笑んで、それから深く頭を下げた。
「色々、申し訳ありませんでした!……それと、ありがとう、ございました!」
「……う、うん。」
 改めて言われると、なんかちょっと、照れるっつーか。
 不良少女の名で鳴らしたこのアタシが、警察に頭下げられるなんてな。
 ――ったく。今日のアタシはお節介が過ぎてるみたいだぜ。





「はぁ、つまり十七の時はもう……」
「経験してたわよ、そりゃ。十七っつったらもう子どもじゃないんだから」
 なにやら真剣な表情でメモを取る女の子に、あたし―――真田命―――は少し呆れつつ言葉を返す。
 メモ魔の女の子の隣には、下らなさそうに頬杖をついてどこやらを眺めるもう一人の女の子。
 突然廊下で二人の少女に呼び止められ、食堂に引っ張り込まれたのはつい先ほどのことだ。
 確か、サツキとハルカ、とか、そんな二人組だったか。真剣にメモを取っているのは冴月嬢の方である。
 そして何に呆れるかって、真剣な顔して「重要なお話があるんですけど」とか言われちゃって何事かと思ったら、「十七歳の時、経験ありましたか!?」と来た。もう何がなんだか。
 十九歳の今、十七の時と言ったらもう遥か彼方の過去のように感じられる。その頃のことを根掘り葉掘り聞かれても、記憶とかあんまり残ってないわけだし。十七……うーん、リューちゃんと遊んでた頃になるかな。
「十七歳って微妙な年頃ですよねぇ、あたしも十七になったらわかるのかなぁ」
 冴月嬢はしきりに首を傾げては、「うーん」と唸り声を上げる。
 そんな冴月嬢を横目に見遣り、「セナ、これ何?」と遼嬢は怪訝そうな表情を浮かべていた。
 ってことは、これは冴月嬢の一人走りってやつか。いきなり巻き込まれている遼嬢には同情する。
「いや、あのね」
 冴月嬢は仕切りなおすようにポンッと机に手を置いて、切り出した。
「今のあたしの最大の疑問は、十七歳ってどんな年頃?っていうことなの!伊純さん曰く、男を知れば大人になれるって話なんだけどね、でも遼もあれでしょ、男……」
「……知ってるけど」
「だよね?だよね?でも同じ十七でも、伊純さんと遼って、その……」
「……同い年に見えない?」
「そう!その違いは何なのかなって思ってね、それで十代の命さんなら何か知ってるかなって思って」
「……聞きに来た、わけ?」
「です!」
 妙に張り切っている冴月嬢と、怪訝そうな遼嬢のやりとり。
 あたしもようやく冴月嬢が何を言わんとしているのか、理解――したような、してないような。
「セナさぁ……なんか、お風呂上がってから?あたしのこと見る目ぇ変わったよね。何、あたしそんなにガキっぽいですか?」
「え?!そ、それはその……」
「ガキっぽいですか。」
 冴月嬢のリアクションはわかりやすすぎる。遼嬢、納得した様子で言って溜息を零した。
 その後、「あのねぇ」と呆れたように言葉を続ける遼嬢。
「そりゃあたしはセナと一個しか違わないガキですよ?えぇその通り。でも何?セナよりは色々経験あるつもりだし、その明らかにガキを見るような視線はやめてくれる?セナだって十分ガキだっての」
「う……遼に言われたくないよ、そんなの。あたしはただ、遼って思ってたよりも年齢相応なんだなぁって思っただけで、別に子どもだって思ってるわけじゃないし」
「でも伊純よりは明らかにガキっぽいって思ってんでしょ?差別反対ー」
「さ、差別とかじゃなくて!!」
 ……。
 ……あ、あのさ。
 この子達、十六、十七だっけか。
 たったニ、三個しか違わないあたしが言うのもアレなんだけど。
「あんたら、ものっすごく低レベルな話してると思うわよ。」
 ……と、突っ込まずにはいられなかった。
 二人は憮然とした顔であたしを見て、その所以は?!と問いたげな視線を投げ掛ける。
「いや……年齢とか、拘ってる時点で何か間違ってると思うし。サツキはサツキ。ハルカはハルカ。ミコトはミコト。イズミはイズミ。……みたいな。そんなもんでしょ。」
 あっさり言って、二人のリアクションを眺める。
 冴月も遼も黙り込み、返す言葉がないようだ。
 その時、背後から別の声がした。
「その通り。なんでお前らがそんなに年齢に拘るのかが理解できねぇな」
 振り向けば、鋭い眼差しでテーブル席のあたしたちを見下ろす女――あぁ、噂をすればの伊純嬢だ。
 伊純嬢はあたしたちのそばに近づくと、ちらりと遼に目を向ける。
「お前が拘る理由は、なんとなくわかるけどな。……保護者云々が関わってるんだろ?」
「あ……それは……」
 遼はどこか驚いたように伊純嬢を見上げた後、戸惑いを滲ませながらもコクンと小さく頷いた。
 保護者……?
 あたしが遼と伊純嬢を交互に眺めていると、伊純嬢はあたしの隣に腰を下ろし、
「遼は家に帰りたくないんだろ?」
 と、言葉を続けた。その言葉に、遼は顔を伏せたまま、また小さく頷いて見せる。
「あいつらの……ところなんて。帰りたくないよ。……でも、……でも警察のことだもん。無理矢理にでもあたしのこと家に帰そうとするに決まってる。……せめて十七じゃなかったら。大人だったらこんなことには……」
 ははぁん、なるほどね。
 あたしはテーブルに頬杖をつきつつ、遼のお悩みをほんのり察していた。
 確かに未成年って不自由よね。あたしもそれが嫌で家出したんだし、遼の気持ちはよくわかる。
 親なんかいなきゃ良かった、って、ね。
「……でもさ。無くしてみると親って案外、ありがたいもんなんだよ」
 あたしはそう口を挟み、僅かに眉を寄せてあたしを見上げる遼へと、軽く笑みを向けた。
「一人で食べて行くこととか、寝る場所もないこととか、そういうのって凄く大変。最初は軽い気持ちで考えてたんだけどねぇ……実際に家を出てみると、帰る場所があるってことがどんなに大事かよくわかる」
 そう言ってから、ちらりと冴月に目を向ける。確かこの子は孤児だった。事情聴取の時、ずっと一人ぼっちだったと話してた。冴月からしてみれば―――遼が帰りたくないなんて言ってることが、どんなに癪だったか。きっと冴月はずっと、家族だとかそういうもんに憧れていたのだろう。
「遼もさ、親がいない子の気持ちも汲んであげなよ。……でも、家を出たいってのもわからなくはないから」
 ね?と小首傾げて見せると、遼は口を閉ざしたままであたしを見た後、冴月へと目を向ける。
 冴月はふと顔を上げ、遼と目が合えばヘラリと笑った。
 その情けない笑みは、遼に対する許しのようなものだろうか。
「それとな、遼」
 次に口を開いたのは伊純嬢だった。遼が伊純に目を向けると、伊純は何かをはぐらかすように目を逸らしながらこう言った。
「警察のやつらは、何とかしてくれるはずだ。……お前がしたいようにすればいい。」
「え……?」
「小向佳乃とかいうお人よしが、計らってくれるだろうよ」
 そんなぶっきらぼうな話し振りを聞いて、ははぁん、と内心ほくそ笑む。
 これはあたしの推測でしかないけどさ。……何か計らったのは、この伊純嬢なんじゃないかなってね。
 一応この場では最年長のあたしだもの、そのぐらいのことは見透かせる。
「ほ、本当に……?佳乃ちゃん、何かしてくれるの?」
「詳しくは本人から聞け。……アタシからはそれだけだ」
 と、伊純嬢はそれだけを言って席を立とうとした――が、ふと止まる。
 遼のお悩みは大体解決したようだ。となると……伊純嬢の視線の先にいるのは、冴月。
「冴月も聞いて欲しいか?お前が年齢に拘る理由ってやつ」
「え?あ、あたしは別にいいよ。そんな大した理由じゃないから」
 冴月はふるふると首を横に振った後、乾いた笑みを浮かべた。
 うーん。怪しい。これは間違いなく何かあるって感じよね。
 ここはやっぱりお姉ちゃんに任せなさいッ!
 あたしは目を細め、まじまじと冴月を見つめる。そして――見えた!
「さては、仕事関係ね?」
「え?違うよ」
 ……あれ。
 冴月が嘘を吐いているようにも見えない。
 遼と伊純嬢の白い目がちょっぴり痛いけど気にしない。
「じゃあ友達関係」
「違うよー」
 ……ん?
 おかしいな、私の目は確かなはずなのに……
「家族関係?」
「違うってば」
「わかった!法律関係でしょ?ほら、未成年じゃ煙草吸えないとか」
「ちーがーうー」
 ……。
 ……。
 おかしいな。
「んじゃ、恋愛関係」
「………………え!?あ、そ、そ、そ、それはその、っていうか、何、えーと」
 ほら。
 ほーら。
 ほら来たァッ。
 冴月のわかりやすすぎるリアクションに感謝である。
「下手な鉄砲も数撃てば何とやら、だな」
 伊純嬢の呆れたような突っ込みに思わず言葉に詰まりつつも、「でも当たったし」と呟いた。
 ともあれ、冴月のお悩みの原因は見えた。
 恋愛関係だったかぁ。なるほどねー。
「って、何!?セナの恋愛!?そんなの初耳だよー」
 先ほどの落ち込みっぷりはどこへやら。遼は楽しげに冴月に詰め寄った。
 伊純嬢は特に興味なさそうな表情をしながらも、ちらちらと冴月に目を向けている辺りが可愛い。
「あ、あの、えっと、いや、その、恋愛って言っても……」
 冴月は困ったように頬を掻き、あたしたち三人を見回す。
 なんだか話題が突然乙女ちっくになったわね。良いことだわ。
「は、話してもどうしようもないの!相手はめっちゃ年上な人だし、会ったこともないし、顔も知らないし、っていうか連絡すら取ってないしもうどうでもいいのッ!」
 ドドン!と、冴月はテーブルを叩きつけながら立ち上がり、顔を真っ赤にして再度あたし達を見回した。
「年上……?」
「会ったこともない……?」
「顔も知らないの……?」
 あたしと伊純嬢と遼とは、口々に冴月の言葉を復唱する。
 他人に言われてか、冴月は益々顔を赤くし、
「も、もういいじゃん!過去の話だよーっ!!」
 と叫びながら逃亡した。
「あ、あ!待てコラ、セナ、聞かせろバカー!」
 遼が慌てて立ち上がるが、既に冴月は食堂の入り口を飛び出し、姿を消していた。
 ほ、本当に逃げるなんて。
 残されたあたしたち三人は、言葉を失って顔を見合わせるだけだった。
 ……あの子、大丈夫かなぁ。
 過去の話だの言ってたけど、彼女が今も年齢に拘ってるということは、その恋を忘れたわけではないのだろう。あのウブな子の恋愛話なんて、気にならないわけではないけど……当人が消えちゃったし、ね。
「ま、とりあえず……一件落着ね。」
 あたしが言うと、伊純嬢も遼も互いの顔を見ながら、こくりと一つ頷いて見せた。
「では、手を合わせて」
 パンッと両手を合わせ、
「ごちそうさまでした。」
「ごちそーさまでした。」
 と、最後のご挨拶をした後で、パコンッと頭を叩かれる。いったぁい。
「な、な、何させやがるんだ、てめぇ」
 伊純嬢がわなわなと震えながら手をグーに握り締めていた。
 したんだ。
 ちゃんとしてくれたんだ。
 両手を合わせてごちそーさまでした。
 してくれたんだ……!!
「だから、なに感動してんだよ!」
 パコンッ。
 合計二個のたんこぶを作り、トホホ、な命ちゃんでした。
 めでたしめでたし。 
「めでたくねぇっつーの!!」












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