頭の中をぐるぐるぐるぐるぐるぐると回り続ける一つの言葉。
 もう、この言葉だけに支配されてしまっている感じで他のことに頭が回らない。
「ね・む・た・い、よぉ〜」
 事情聴取のために持ってきたテーブルにべったりと伏せて、私―――小向佳乃―――はそんな言葉を漏らしていた。昨日は朝早くから避難令のために走り回って、それからずぅっと起きっぱなし。もうすぐ二十四時間ぶっ続けぐらいになるんじゃないかなぁ。
 事情聴取が終わってから、簡単な説明の後で解散して、今この地下施設に入ってすぐのホールには私と千景しかいない。皆は今頃、この施設の各お部屋で休んでいることだろう。一応、洋服をお洗濯する部屋とかお食事の部屋とかの説明もしたんだけど、上の空だったんじゃないかなぁ。説明してた私すらわけわかんなかったもんねっ。
 即席調書になったノートをパラパラと捲っていた千景は、私に目を向けて苦笑を浮かべた。
「私も眠ーい……。疲れたわね、さすがに。」
 千景もべったりとテーブルに伏せようとした、けれど、ふと思い出したようにポケットから携帯を取り出す。
「最後の仕事が終わったら休みましょ?」
 私達は所詮、警察の中でも下っ端だ。だから、逐一上司に連絡を入れなくちゃいけない。
 千景はカチカチと携帯を操作して発信しようとしたみたいだけど、「あれ?」と首を傾げた。
「この建物の中じゃ通じないみたい……あ、そっか、ここ地下だっけ」
 思い出したように言っては、ガタン、と席を立ち、相変わらずべったりとテーブルに突っ伏している私の頭に手を置く千景。
「外で課長に連絡入れてくる。佳乃は先に休んでていいよ」
「うぇ?……いいの?」
「佳乃は体力ないもんね。先輩に任せなさい」
 千景は時々こうやって先輩っぽいことを言ってくれる。たった一歳しか違わないのに、ずっと千景に追いつけないのはやっぱり性格的なものなのかな。私の頼りになる先輩であり、相棒。今じゃもう敬語なんか使わなくなっちゃったけど、心の底ではこっそり敬っていたりもするわけで。
 こんな状況でも、千景はあんまり疲れた顔をしない。千景はすごく、強い人。
「お外、まだ米軍の兵士さん達がいるかもしれないから気をつけてねぇ……?」
 頭を押さえつけられたまま、視線だけを上に向けて千景を見上げる。千景は「ん」と小さく頷いて見せ、それから外に続く扉の方へと歩いていった。
 ぼんやりと背中を眺めて、千景の姿が見えなくなった頃に扉が開く重々しい音が響く。
 そして再び訪れた静寂の中、私はふっと目を閉じた。
「……眠、たいよぅ……」
 そんな独り言を漏らしながらも、千景の言葉に甘えることはしなかった。先に休んでていいって言ってくれたけど、やっぱり同じお仕事をする相棒として、最後の仕事が終わるまでは待ってなきゃって思うから。
 目まぐるしかった一日ももうすぐ終わるんだって思うと、なんだか安心しちゃって気が抜ける。テーブルに突っ伏してうとうとしながら、今日一日のことを考えていた。
 突然任されてしまった、避難令の指揮。これは私達の功績を買ってだとかそんなんじゃなくて、単なる人員不足。警察官って基本的に男の人が多いから、徴兵されちゃって今は婦警しか残ってなくて。とても婦警だけでこなせる仕事量ではないんだけど、出来る限りは精一杯やんなくちゃいけない。だから今回の指揮や誘導も、精一杯頑張ろうって思ってた。
 ……だけど。今回は完全に警察側の不手際だった。この地下施設への鍵の入手が遅れたから、たくさんの人が死んでしまう結果になった。少し考えればわかるようなパスワードだったはずなのに。本部からの連絡を待つんじゃなくて、私か千景がパスワードを見つけ出していれば、こんなことにはならなかった。
 争いが絶えない今、誰かのせいで誰かが死んでいく――それは、日常茶飯事とも言えること、だけど。
 やっぱり、痛いよ。
 私がもっとしっかりしていれば、こんなことには……。
「……ふ、ぁ」
 溜息が零れる。それと同時に、耐えられない重圧に息が詰まる。
 さっき和葉ちゃんが言ってくれた、誰かが悪いわけじゃない、と。悪者を追及することは容易なことだけど、そんなことをしたって苦しみが増すばかり。そうわかっていても、一番悪いのは私なんじゃないかなって、そんなことを考えてしまう。「佳乃は失敗に対してネガティブすぎる」と千景に言われたことがあった。
 警官である以上、量りきれないほどの責任を背負って仕事をこなしていかなきゃいけない。そんな中で、多少の失敗は仕方が無いことだと、千景も課長も言ってくれた。その言葉を自分自身に言い聞かせながら、私は警察の仕事を続けてきた。今回だってそうやって乗り越えなきゃいけない試練だ。今は落ち込んでる場合じゃなくて、保護下にある女性達を責任持って守っていくっていう義務をこなさなくちゃ。
 それでも落ち込んでしまう私を、千景はまた励ましてくれるのだろう。私は千景がいてくれたから、今もこうして警察のお仕事を続けられているんだから。千景に甘えてばかりも、いられないけれど。
「頑張らなくちゃ……うん、頑張ろう」
 自分に言い聞かせるように呟いて、テーブルに突っ伏していた身体を起こす。
 いつも気丈に見える千景も、やっぱり疲れているはずだし、私以上にたくさんの責任を背負ってる。おんなじ立場の警官である私が迷惑を掛けるわけにはいかないから。 
 千景が戻ってきたら、「お疲れ様」って言葉を掛けて、それから一緒に休んで。
 目が覚めたら、また気を取り直して頑張ろう。
 ……それにしても。
「千景ぇ……?」
 出て行ってから、どのぐらい経ったのだろう。もう十分間以上は経っているような気がする。
 今後のことで課長と話しこんでいるのかもしれないけど……なんだか、嫌な、予感。
 もう少し待っても戻ってこなかったら、様子を見に行こうかな。
 ……。
 ごめん。私まだ、弱いよね。
 千景がいなくなったら、って、そう考えるとすごく不安で、怖くなるよ……。





「……We was completely destroyed.」
 現状を言葉にしたところで、それが現実であるという事実に対する感覚は変わらない。
 我々は全滅した。たかが日本人に、反撃されて。
 薄っすらと明るんだ空の下で立ち竦んだまま、なげやりな気持ちを抱かずにはいられなかった。
 第四歩兵師団、第二大隊B小隊。今まで歴戦を共にしてきた盟友達が、皆、死んでしまった。
 それなのに何故、たった一人、あたし―――Mina=Demon-barrow―――は、生き残ったのだろう。
 いっそ、共に死んでしまった方が楽だったのに。今から軍に戻れば、どんな目で見られるだろうか。女・子どもばかりの日本人達に反撃され、滅された小隊の生き残り――……クズも同然だ。
「good for nothing.....!!」
 自嘲の言葉を漏らし、コンクリートのビルの壁に手をついた。
 人間のクズ、なのは、落ち延びたからじゃない。自分の命が惜しいばかりに逃げ出したからだ。
 死んでいく仲間達に手を差し伸べるわけでもなく、ただ、迫ってくる殺意に恐れをなした。
 軍人として、絶対にしてはならないことをしてしまった。
 ……もう、戻れない。
 どさりとその場に座り込み、冷たい壁に背を寄せる。荒れたアスファルトに手をつくと、硬い飛礫が手に刺さる。微かな痛みも、朝方の冷たい風も、何もかもが非現実的にしか映らぬ現実だ。
 これからどうするか、なんて、考えたってちっとも道は見つからない。
 行先も、戻る所も失った今、私なんか生きていたって仕方がないじゃない。
 ……こんなことになったのも、全ては日本人の所為。
 あの日本人どもが武装などしていなかったら!
 反撃なんかしなかったら!
 そう、したら……こんなことには、ならなかった……!
 そもそも日本人が素直に降伏さえしていれば、米軍だってこうして牙を剥く必要なんかなかったんだ。
 あたしの仲間達も皆、死ぬことなんてなかったんだ。
 愚劣な日本人ども。皆殺しにしてやりたい。
 あたしの命に代えてでも、殺してやりたいッ……。
「……、……」
 沸々と湧き上がる憎しみ、そんな感情にきゅっと拳を握り締めた、その時だった。
 どこからか聞こえてきた声音に、僅かに身が竦む。
「――あ、なるほど、わかりました。じゃあ一先ずは現状維持、ですよね。……はい、じゃあ頑張って保護します。はい」
 日本語だ。若い女の声。
 あたしは静かに身を起こして立ち上がり、足音を忍ばせて声がする方へと近づいていく。
 ビルの向こうをそっと覗き込むと、どうやら携帯電話で会話をしているらしい、日本人の女の姿があった。
 ――あ、あの女は……!!
 そうだ、さっきの強襲の時、反撃してきた日本人の一人だ。
 あの女の拳銃で、あたしの仲間がッ……!!
「朝早くにすみませんでした。……はい、失礼しまーす」
 女は通信を終え、携帯電話を仕舞って歩き出す。
 待、て……殺さなきゃ……殺してやる!!
「ッ!」
 ガツッ、と。
 ホルダーから取り出そうとした拳銃、はやる心を抑えきれずに、手元が狂う。
 拳銃はホルダーから零れ落ち、音を立てて地面に落下していた。
 そこまで大きな音ではなかった。しかし静寂の中ではよく響く。
「誰?……誰かいるの?」
「ッ……」
 気付かれた。
 あたしは地面に落ちた拳銃を拾い上げ、中に残った銃弾を確認する。大丈夫、今は満タンに充填されている。後は――あの女に武器がなければッ!
「日本人なら警戒しなくても大丈夫よ、私は警察の者だから。米軍の人間なら、……言葉通じてない、か。」
 警察――とすれば、あまり良い状況ではないかもしれない。
 日本の警察は全員拳銃を所持していると聞いた。つまりあの女も恐らくは……
 どうする……?自分の命の危険を考えれば、ここは逃げ出すべきだろう。あの女も深追いしてきそうな殺気は今のところ放っていない。
 けれど。
 ――今更また、逃げてどうする?
 あたしはもう、逃げる場所なんかなくて。どこまで行っても、あたしを迎えてくれる人なんかいなくて。
 それなら、もう。
 いっそ、命懸けで戦った方が良いじゃない。
 仲間を殺したあの女を、殺す!
「……ッ!」
 仲間達の仇を討ってやるんだ――!!





「……眠れないの?」
 薄闇の中で、ぽつりと掛けられた声を耳にした。
 私―――悠祈水散―――は顔だけを隣のベッドに向け、幾つか瞬いた後、
「はい……あの、真田さんも……?」
 と、小声で言葉を返す。
 真田さんは「うん」と頷いて、上半身を起こし、こう言った。
「色んなことがありすぎて、頭が麻痺してる。」

 真田命(サナダ・ミコト)さん。今宵、同じ一室で夜を過ごす人物。
 先ほどの事情聴取の後、解散ということになって一同は自由に空いた部屋で休むことになった。この建物に用意されている個室は十部屋で、幾人かは一人で個室を使うことも出来たけれど、この先更に人が増えるとすれば部屋を空けておく必要もあると考えた。けれど私は一人でここに来ていて、知り合いもいなくて。戸惑っていた私に声を掛けてくれたのが、真田さんだった。
 彼女の誘いを受けて、私達は同じ部屋で休むことにした。血塗れの衣服を洗ってから眠ろうか迷ったけれど、「明日でいいんじゃない?」と真田さんの言葉を受け、今夜は服は脱いで下着姿でベッドに潜る。なんだかスースーするけれど仕方がない。普段の老朽化したベッドよりも、ずっとふかふかで心地良いベッドだし。
 そうして今までには経験したこともないほどの良い睡眠環境で目を瞑った、なのに、不思議と睡魔は訪れない。このベッドに潜ってかれこれ三十分ほどが経っただろうか。今日のことや、置いてきてしまったシスターや子ども達のこと、色んなことに頭を巡らせていたそんな時、声を掛けられたのだった。
 真田さんは隣のベッドから降り立つと、私が身を横たえているベッドに軽く腰をかけた。そばにいる真田さんを見上げ、薄闇の中で浮かび上がるシルエットに少し見惚れる。細い身体と長い髪と。しなやかなシルエットをした人だと思った。
「悠祈さん、……水散さんって呼んでもいい?」
 真田さんは私の方に顔を向け、そう問い掛ける。彼女の顔は影になって見えないけれど、口調はとても柔らかなものだった。先ほど婦警さん達と話していた時とは、別人のように。
「はい、もちろんです。好きなように呼んで下さい」
「ん。水散さんも良かったら、真田さん、じゃなくて、命って呼んで?」
「あ……はい、それじゃあ、命さん。」
 ベッドの中で小さく頷いて名前を呼ぶと、彼女は小さく笑んでくれた、ような気がした。
 その後で不意に、私の顔に伸ばされる彼女の指先。少しだけ身構えて、何事かと、事の次第を見守った。
「……血、……ついてる」
 命さんはぽつりと言いながら、私の頬を少し強く擦った。
 そう言えば、今まで鏡なんか見なかったし……ちっとも気付かなかった。
「あ、ありがとうございます……」
 おずおずと言葉を返せば、私の頬から血を拭ってくれた指先を口に含みつつ、「ん」と彼女は軽く頷く。
 誰の血液ともわからぬそれを、口に含むなんて。少し驚いて彼女を見つめていれば、命さんはどこか可笑しそうに肩を揺らしていた。
「水散さんってさ……」
 囁くように告げられる言葉にドキッとしながら、シルエットの彼女を見上げて言葉を耳にする。
「……こういう、血塗れの現場とか。あんまり慣れてない、よね?」
「あ、はい……あんまり。……眩暈、起こしそうでした」
「よく頑張ったね」
 命さんは優しげな声で言って、私の頭に手を伸ばし、指先で軽く撫ぜてくれる。
 突然のことに少しだけ身を硬くして、黙り込んだままで彼女の感触に目を伏せた。
 嬉しかった。けれど、私は、誉められるようなことなんかしていない。
「……命さんは、慣れてるんですか?……血塗れの現場」
 目を開くと、命さんは天井を見上げていた。微かに入り口の方から差す光を浴びた彼女の横顔が一瞬見えたけれど、命さんが私の方を向けば再びその姿はシルエットに変わる。
「慣れてるよ。あたしの周りでたくさんの人、死んでいったから」
 冷めた口調で返された言葉に、私はまた黙り込んでいた。
 もしもその現場に私がいたならば、少しでも多くの人を助けられただろうか。
 ――だけど。今回のように逃げてばかりで、やはり何も出来なかったのではないだろうか。
 シスターに「神の子」と言って頂いた、そんな私なのに。
 私は神から授かった力を、少しも使うことが出来なかった。
「命さん……私……」
 ゆっくりとベッドから上半身を起こし、彼女と視線を合わせる。
 その先の言葉が出ずに、また目を伏せて黙り込む。
 不甲斐ない私。……本当ならばこんな柔らかいベッドで眠ることなど、許されない。
 この力を。
 多くの人々に使ってこそ意味がある。
 それなのに――……
「どうしたの?……何か、不安?」
 命さんが心配そうに私の顔を覗き込む。
 彼女の優しげな口調が嬉しくて、それと同時に切なかった。
 何と言って良いのかわからなかった。だけど彼女に何かを告げたくて。
 ふっと唇を開いた、その時だった。
「誰かッ!誰か助けて……!!」
 と、廊下から大きな声が聞こえてきて、私と命さんは顔を見合わせる。
 おそらくあれは、婦警の佳乃さんの声だ。幾度か繰り返された「誰か!」と助けを乞うようなその声に、私達はすぐに事が尋常ではないことを察する。
「命さん!」
「うん。行こうか。」
 命さんは私とは違い、至って冷静な口調で小さく頷いた。
 私はベッドから降り立って入り口へと向かおうとしたが、ぽつりと命さんが言った言葉に動きを止めた。
「服。着なきゃ」
 そ、そう言えば私、下着姿……!
「……はい。」
 命さんはクスクスと笑いながら、ベッドサイドに畳んでいた私の服を投げてくれた。
 恥ずかしくなりつつ、慌てて服を身につけ、ぺこりと頭を下げた。
 命さんも自分の衣服を身につけ、そしてすぐに私達は部屋を後にして廊下に出る。そこには泣きそうな顔で廊下を見渡す佳乃さんと、突然の騒動で廊下に出て来ていた幾人かの姿があった。
「べ、米軍の兵士さんがッ!今千景が応戦、してるんですけど……!」
 佳乃さんは私達に駆け寄り、そんな言葉を投げ掛けた。
 命さんは言葉を聞くや否やすぐに廊下を駆け出していた。いつしか手にしていた鎌を構え、臨戦状態に持って行く。私と佳乃さんも命さんの後を追いかけた。
「……誰か呼んできて、って言われてッ……うぅ」
 佳乃さんは泣きそうになりながらも、腰に据え付けた拳銃を手に取ってきゅっと唇を閉じ合わせる。
 彼女も不安だったことだろう。同僚を残してこうして助けを呼びに来たのだから。
 ――やがて私達が、先ほど事情聴取を行なった広いホールに到達しようとした、その直前。
 パァンッ!!
 と、大きな銃声が響き渡る。
 突然のことに身を竦ませたのは私だけで、佳乃さんは足を速めてホールの方へ駆けて行った。
「水散ちゃんは待ってた方がいいわよ!」
 と、背後から掛けられた声に振り向く。先ほどの佳乃さんの要請を受けて私達の後を追っていたのだろう、怪盗Happyさんこと、伴都さん。伴さんはポンッと私の肩を叩いた後、佳乃さんを追うようにしてホールに飛び出していく。
 待ってた方が、いい?
 そ、そんなこと……言われてもッ……。
 伴さんの姿も見えなくなり、ぽつんと廊下に取り残される。
 後ろから聞こえた幾つかの足音に振り向けば、また幾人かの人たちが騒動を聞きつけて応援に来たようだった。ちらりと私に目を向けては、すぐにホールの方へ駆けていく。
 ……皆、誰かの為に戦っている。
 それなのに。
 私は。
 私は、無力なの?何も出来ずに、こうして待っているだけなの?
 ――違う。
 私には力があるはずだ。
 神に授かった力。私にしか使えない、力があるはずだ。
 パァン!
 二発目の銃声の後で「命さん!」と、誰かの声がした。
 その瞬間、私は駆け出していた。「救わなくちゃ」――ただ、その一心で。
 ホールに飛び出すと、そこには。
 二人の人物が、血を流して横たわっていた。
「……命さん!!」





 米軍の強襲に、私―――乾千景―――は完全に不意を突かれてしまった。
 外で課長に連絡を取った後、聞こえた物音に警戒したのは事実。
 しかし――その物音を発したであろう人物は、こう言ったのだ。
『なんでもありません。お騒がせして、申し訳ありませんでした』
 日本人の女性ならば私は保護すべきだった。だから物音がした方へと足を向け、ビルの陰を覗き込んだ。
 しかし、そこには誰もいなかった。
 不思議に思いながらも、踵を返して地下施設へと戻った。パスワードを入力して扉を開き、施設の中に足を踏み入れた、その時だった。――突然背後から、殺気を感じた。
 一発の銃弾。それは私のそばを掠め、カツンと壁にぶつかっていた。振り向けば、深く被ったヘルメットに軍服姿という、一目見ればわかる米軍兵士の姿があった。荒い呼吸で、私に銃口を向けていた。
 この施設の中に米軍の人物を入れるわけにはいかなかったけれど、入り口は兵士に塞がれていたから仕方なく中へと逃げた。入り口を入ってすぐのホールでは、先ほど事情聴取を行なったテーブルで佳乃が待機してくれていた。私は佳乃に叫んだ。「誰か呼んできて!早く!!」
 助太刀が欲しかったのも事実だけど、それ以上に、鈍くさい佳乃をこの場にいさせることに抵抗があった。だからそう言いつければ、佳乃は驚いた様子を浮かべながらも私の言葉に従った。
 ホールの入り口、直角の角をバリアにして兵士は私に狙いを定める。私も兵士を狙い銃を構えていた。
 暫しの沈黙。互いにタイミングを計りながら心理戦が続く。そして先に動いたのは兵士の方だった。
 兵士は室内に飛び出すと、私に銃を向け弾丸を放つ。私も応戦したが、互いの弾が相手を捉えることはなかった。
 その時、廊下から姿を現したのは命さんだ。兵士が命さんに気を取られたその一瞬。
 私は兵士に向けて銃弾を放ち、それは確実に兵士を捉え、ダメージを与えた。
「……もう終わったの?」
 なんて、命さんは物騒なことを言う。兵士は壁際にどさりと身を落とし、そのまま動かないように見えた。
 致命傷には至っていないはずだけど、ショックで気絶でもしてしまったか。私がふっと安堵の吐息を零し、後からぞくぞくと姿を現した佳乃や都さんに目を向けた。
 ――刹那。
 突然響き渡った銃声に、驚かずにはいられなかった。
 笑みに歪んだ口元は――米軍の兵士のもの。
 気絶したように見えたのは、私達を油断させるための罠だった。
 兵士は確かに私の銃弾を受けていた、それでも尚――
 銃を構え、引き金を引いた。
「……命さん!!」
 命さんは衝撃でドンッと背を壁に打ちつけ、そしてその場に崩れ落ちた。
 兵士が放った銃弾を受けたのは命さんだ。急所から外れていることを祈りつつ、銃を構える。
 彼女の安否よりも先に、私は兵士を大人しくさせなければならないッ……!!
「ッ、くらえ!!必殺、拳銃投げ!!!」
 直線にすっ飛んでいく私の拳銃本体は、スコーーン!と、見事に兵士の頭にヒットした。
 ヘルメット越しでも確実にダメージを与える!これぞ我が最終奥義!!
 なんて冗談めかしている場合ではない。私は兵士のそばに近寄り、恐る恐る手を伸ばす。
 今度こそ、兵士は気をやっていた。ヘルメットを外すと、そこには――
 綺麗な顔立ちをした、若いアメリカの女の姿があった。長い睫毛が、伏せられた双眸に影を落としている。
 正直なところ驚いた。相手は小柄な男かと思っていたのだ。
 こんな若い女の子まで、戦闘に参加しているなんて……。
「千景ぇ!どうしよう、命さんがっ……!!」
 不意に聞こえた佳乃の泣きそうな声に、私は我に返る。顔を上げると、壁際に崩れ落ちた命さんの姿が目に映った。
「は、早く手当てを!医務室とかあるんでしょ!?」
 私が急かすようにそう言ったが、返って来た声は意外な人物が発したものだった。
「必要ありません。」
 悠祈水散(ユウキ・ミチル)さん。……大人しそうな女性。そう、彼女は確かシスターの元で働いていたという女性だ。水散さんは命さんのそばにしゃがみ込み、腕に負った傷を見るように命さんの服の袖を捲くる。
「必要ない、って……?でも怪我を手当てしな、きゃ……」
「いえ。今すぐ、治せますから」
 水散さんはちらりとこちらに目を向け、ふっと弱い笑みを見せた。
 その後、彼女は命さんの傷口に手を翳し、目を伏せた。
 今すぐ……?どういう、こと?彼女の言葉が理解できず、疑問の言葉を向けようとした。
 しかしその意味は、彼女自身が行動で表してくれたのだった。
 彼女が翳した手の平から――ふっと、柔らかな光が生まれた。
 光は命さんの傷口を包み、そのまま暫し、静寂が流れる。
 誰も口を開くことが出来なかった。
 それも当然のこと。――目の前で起こっていることが、そう信じられるものでは、ないからだ。
 水散さん達からは少し離れたここでもわかる。
 彼女の手の平から生まれた光によって――……命さんの傷口が、塞がっていく。
「……そんな」
 奇跡、という他に何と言えば良いのだろうか。
 そう、まさにそれは奇跡。物語に出てくるようなこと。……『治癒能力』だ。
 暫しの時間、水散さんの生み出す光によって命さんの傷の『治癒』が行なわれる。
 やがて、水散さんは静かに手を下ろし、
「一先ずはこんなところで良いと思います。後で集中して治癒を続けますね、おそらく完治出来ると思いますから」
 と、奇跡とは程遠いような口ぶりで言って弱く笑んだ。
 気を失っている命さんはその奇跡を目の当たりにはしていないけれど、目が覚めた時に驚くことは間違い無いだろう。確かに撃たれたはずなのに――って、ね。
「そちらの方も、怪我をしているんですね?」
 水散さんは立ち上がり、私の方へと歩み寄る。彼女に言われるまですっかり忘れていた。ついさっき、私が銃で撃ち、更には拳銃投げで思いっきりダメージを食らわせた女性兵士。
「怪我、してるけど……この子、米軍の人間よ……?」
「……」
「……水散さん?」
「米軍だから。日本人だから。……神はそのような差別は好まれません。この力は万人のために使うべきものなんです。」
 水散さんはきっぱりと言って、兵士の女の軍服のボタンを外し、傷を負った肩口を露わにしていく。
 そして手を翳そうとする水散さんに、私はぽつりと問いかけた。
「水散さん……その、力は……」
「……これは」
 水散さんは顔を上げ、柔らかな微笑を見せる。
 例えるとしたら、聖母のような、微笑み。
 そして彼女は手の平に光を生み出しながら、答えた。
「神に授かった、“奇跡”です。」





 酷い頭痛がする。
 ズキン、ズキン。
 断続的に現れる頭痛に、あたし―――Mina=Demon-barrow―――の眠りは妨げられる。
 眉を顰めながらゆっくりと目を開き、ぼやけた光景を暫し眺めた。
 どこかの、フロア。広々とした空間であたしは横になっているようだ。
 頭痛に耐えかねて頭に手を伸ばそうとした。しかし、出来なかった。
 両手を身体の前で括られて、自由が利かない。
「ッ……?!」
 やがてあたしは、今自分自身が置かれている状況を把握すべきだということに気付く。
 ここは、どこ?
 確かあたしは、日本人の婦警の姿を見かけて……そしてあの女の姿を追って、地下の施設に足を踏み入れた。そして入り口のところで戦闘になって、それから……
 そうだ。確か肩のところを撃たれたはずだった。けれどあたしは更に銃で攻撃を重ね、別の女を撃つことが出来たんだ。その直後に、――意識は暗転した。
 『必殺、拳銃投げ!!!』と、それが最後に聞いた言葉だ。
 そ、そんな妙な技にやられたの……!?
「……」
 悔しさに歯噛みしながら、なんとか手の拘束を外そうともがく。
 しかし紐で括られた手は、一向に自由を得ることが出来なかった。
「……あ、おはようございます!」
 と。不意に掛けられた言葉に驚いて顔を上げる。
 そこには、にこにこと笑顔を浮かべてあたしを見る日本人の女の姿があった。
 この女は初めて見る女だ。昨日の戦闘の場にはいなかった。
「あれ?あ、そっか、おはようございますじゃだめなんだ。えっと、グッドモーニング?」
「……」
 女は悠長な口調で首を傾げながら、たどたどしい英語で挨拶を言いなおす。
 当然、そんな言葉に応えることなどせずにあたしは女を睨みつけた。
 鎖骨ほどまで伸ばされた日本人らしい黒い髪と、黒い瞳。まさに日本人の典型とも言える姿。
 日本人らしい、か。日本人の黒は悪魔の黒だもんね。
「ええと、うーんと。あ、そうだ、千景さん達呼んで来ますね!」
「……」
 女はまた笑みを見せ、あたしのそばを離れていく。部屋を出ようとして、ふと何かを忘れたように引き返した。そして女が手にしたのは、大きなプラカード。『戦争反対』という文字が見える。
 女はプラカードを手にして嬉しそうな表情を見せながら、今度こそは部屋を出て行った。
 ――戦争反対?
 日本人のくせに一体何をほざいているんだか。
 戦争は日本人が降伏しないから起こっているだけで、米国だって最初はもっと和平的な手段で交渉したのに。日本国がそれに応じなかったから戦争が起こっただけだ。そのくせ戦争反対だなんて、むしの良すぎる話としか思えない。
 日本人はなんて残虐なんだろう。いっそ、昨日の時点で私を殺せば良かったのに。
 それなのにこうして生かして……今から一体、何をするつもりなのだろうか。
 拷問?しかし私は別に吐くことなんかない。
 とすれば――……単なる嗜好の為に、痛めつけられる、か?
 きっと奴らは、あたしをギリギリまで痛めつけるんだ。けど絶対に殺さずに、精神的に追い詰めて……
 そして飽きた頃に殺すなりなんなりするんだろう…… ッ。最低な日本人ども。
 あたしとしたことが!一生の不覚!!
 日本人に捕まって、散々侮辱されて弄ばれるなんて真っ平だ!!
「ふあ、ぁ……」
 足音が聞こえたかと思えば、先ほどの女が姿を消した所から、昨日の『拳銃投げ』の婦警がやってきた。婦警の女は欠伸などしながら、あたしの姿を見れば「グッモーニン」と軽い口調で言う。
 更に婦警の後に続いてもう一人、セーラー服の少女が歩いてきた。婦警は二十代半ばといったところだろう、それに比べてセーラー服の少女は随分若い。十七、八といったところだろうか。あんな若い少女すらもあたしを弄ぶなんて……。
「遼、英語できる?」
「うえ?……英語はちょっとねぇ。まぁそれなりにってとこ?」
「この兵士の子と話してみ。実践、英会話講座!」
 婦警とセーラー服の少女はそんな会話を交わしながらあたしのそばに近づいた。
 婦警は早速あたしに手を伸ばし――嗚呼、始まってしまう!屈辱の日々がッ!
 と思いきや、婦警はあたしの肩に手を掛けて、「上半身起こすわよ」と言いながらあたしを起き上がらせる。
 抵抗……する必要もないようなので、あたしはされるがままに上体を起こし、背を壁につけた。
 ――まだ、始まらない?ははぁん、そうか、まずは言葉責めってわけか。
 受けて立つ。絶対に口は割らないわ。
「じゃあまずは初歩的なところからね。My name is Haruka Miyake.Nice to meet you.」
 セーラー服の少女……ハルカは、そう言って笑みを見せた。
 確かに初歩的だ。これは日本人が英語を習う上で一番最初に覚える言葉だったはず。
「うんうん。初歩中の初歩ね。因みに私は……My name is Chikage Inui.」
 と、婦警の女は言った。イヌイ・チカゲ、か。
 ハルカとチカゲ。その名前、死ぬまで――否、死んでも忘れない。
 辱めを受けて死んだ暁には、必ず呪いに呪ってやるんだからッ!
「What your name?」
 ハルカは決して流暢とは言えぬ英語であたしに問い掛ける。
 名前を聞かれたってあたしは答える筋合いなどない。ぷい、と顔を背ければ、突如あたしのこめかみに冷たいものが触れた。
「千景ちゃん、ちょっとは手荒でもいいよねぇ?」
 ハルカは満面の笑みでチカゲを見上げてそんなことを言う。あたしのこめかみに当てられているのは銃口だ。ほら来た。遂に日本人の残虐な本性を表した。
「……まぁ、ちょっとだけなら、ね。」
 チカゲは肩を竦めながら、一歩退いたところからハルカとあたしのやりとりを眺めている。
「I dislike……んーと、not gentle」
 ハルカは首を傾げながら微妙な英語を紡いだ。
 うーん、つまり、紳士的じゃない行為は嫌い、か。要するに名乗れと。
「……」
 やはりあたしはそんな言葉に従うわけにもいかない。
 べぇ、と舌を出してハルカに小さく反抗した。するとハルカは、細い紐で括られている私の手を取り、指をくっと握って満面の笑みを浮かべる。
「This is japanese 'Yubitsume'」
 ――ゆッ、指詰め!!!?
 ハルカはぐぐっと力を入れて、あたしの指を反り返らせる。
 って、ちょ、ちょっと待った。これは痛ッ、痛いッ……!
「あ、……I'm Mina. My name is Mina=Demon-barrow」
 慌ててそう口走った後、我に返る。しまった。早速相手の思う壺だ。
 ハルカの浮かべる「よく出来ました」という笑みが物ッ凄く悔しい。
「ミナ・デーモンバレーね。遼ぁ、ついでに年齢と職業も聞いてくれるー?」
 チカゲはなにやらノートに書き記しながら、そんな言葉を投げ掛けた。
 うぅ、酷い。日本人って最低。指詰めなんてそんな痛いことしなくてもいいじゃない!!
「How old are you?」
「……I'm twenty-two years old」
「二十二歳だってー」
 うう、こんなに従順に答える予定じゃなかったのに……。
 ハルカが反らせたあたしの中指がキリキリと軋み、しきりに「Help!!」と訴えるんだもの!
 その後もハルカは幾つかの質問を投げ掛け、そしてあたしは愛しい中指のために情報を売ってしまった。
 軍の所属部隊、家族、ここに辿り着いた経緯。家族なんか今はもう死んでいないし、経緯は二人も察している通り、強襲部隊の生き残りだ。それだけ話すと、チカゲは「オッケー」と笑みながらノートを閉じた。
 そしてハルカを退かせ、あたしの肩に手を置く。
「……ここにいる人たちに、手出しはさせないわよ」
 今までよりも、どこか真剣な表情で告げられた言葉。
 思わず返す言葉を失い、あたしはチカゲから目を逸らす。手出しなんて、こんな状況で出来るわけがない。
 ――でも、もしも。この拘束が外れて自由になった暁には。
 絶対に復讐してやる。
 絶対、絶対に。
「私の言った意味、わかったの?」
「……、……」
 次に掛けられた言葉は、どこか不思議そうなニュアンスを含んでいた。
 あ……。
 言葉の、意味、は。
 ………。
「もしかしてMina、日本語、わかるの……?」
「……」
 わか、
 ワカラナイ。
 あたしは……
 あたしは米国人だもの。
 日本人が使う、野蛮な言葉の意味なんて。
 ワカラナイ。わかりたくもない。
 わかりたくなんか、ないのに。
「まぁいいわ。しばらくは頭冷やしてなさい。……遼、行くわよ」
「え?もう終わりー?つまんなぁい」
「放置プレイってやつよ。」
 二人はそんな会話を交わしながら、ちらりとあたしに目を向け、そして部屋を後にした。
 放置プレイ、って?
 ……バカみたい。バッカみたい。
 あたしにはなにもわからない。
 やつらが吐く暴言も侮辱の言葉も何も、理解なんか出来ないんだから。
 言葉の通じない人間なんか相手にすることはない。
 さっさと、殺してしまえ……
 これ以上、日本語なんか聞かせないでッ……。





「でーきたぁっ」
 ぽむ、と手を合わせて一言。お仕事が終わった瞬間っていうのはやっぱり嬉しいなぁ。うん。
 私―――小向佳乃―――の目の前には、たった今作り上げたばかりの『部屋割り』がある。昨日調書で使ったノートに書いたのだ。私がものすごぉく頭を捻って作り上げた部屋割りー!
 これが私の本日一個目のお仕事。昨日眠ったのは結局朝の七時頃だったかな、それからお昼過ぎまで眠って、目を覚ましたのは十三時。それから顔洗ったり制服洗ったりして、この部屋割り作りに取り掛かったのが、十三時四十五分ぐらいで、えーと、だから……十五分間の集大成!
 問題はないかなぁと思いながら部屋割り表を眺めていると、カチャリと音がして個室の扉が開く。ここは私と千景が二人で寝泊りしている個室だから、ノックもなしに入ってくるような人と言えば千景しかいない。
「おはよう、佳乃。よく寝てたわね」
 千景はパリッとした警官の制服に身を包み、私のいる部屋の隅のテーブルセットの方に歩み寄ってきた。
「おはよう……って!私、一時間前には起きてたんだよぉ。それで早速お仕事してたのっ」
「私は二時間前から早速お仕事してたの。」
 う、なるほど。さすが千景。既に制服着てる辺りが偉い。
 私はと言えば、制服は未だに乾燥機の中、代わりにお洋服が揃えてあったお部屋から調達したワンピースに身を包んでいる。
 千景は丸いテーブルを挟んで向かいの席に腰を下ろし、ふぅ、と小さく吐息を零す。
「とりあえず昨日の米軍の子ね。あの子の名前はMinaっていうらしいんだけど、彼女と少し話をしてきたわ。それから制御室でごそごそしてた十六夜さんと話して……十六夜さんってアレね、マッドっていうか……」
 そんな千景の報告を聞いて、私は唯一空欄だった部屋割りの箇所に「Minaちゃん」と名前を書き加える。
 制御室の十六夜さん……あぁ、あの科学者さんかぁ。千咲ちゃんの保護者さんだ。
「で、佳乃は何の仕事をしてたの?」
 千景は私の手元を覗き込みながら問いかけた。
 ふふふー。と堪えきれない笑みを漏らし「じゃじゃーん!」と部屋割り表を千景に差し出す。
「何?部屋割り?」
 千景は部屋割り表を受け取ってまじまじと見つめた後、不意にはたりと動きを止めた。
「……何かおかしいとこ、ある?」
 私が問うと、千景は暫し沈黙した後で、大きく大きく頷いた。
 えぇ?なんだろう?ちゃんと確認したはずなのに……。
「ここ!Minaちゃんて何よ!」
 バンッとノートをテーブルに叩きつけるようにして、千景は部屋割りの一箇所を指差した。
 『Room06 五十嵐和葉&Minaちゃん』って書いてあるところ。別に変なところなんて……
「別に変なところなんてないよぅ……とか思ってんでしょ」
 千景は私の思いを見透かしたように物真似なんかして、はぁ、と溜息をつく。
「な、なんでわかるのー。でも本当に変じゃな」
「変でしょどう見ても!なんであの米国兵の名前が部屋割りに組み込まれてるのよッ」
「……」
 ……。
 …………。
 …………あ、そっか。
「気付いた?気付いたわね?今のは「あ、そっか」みたいなこと思った顔でしょ?」
 やっぱり千景は私の思いを見透かしていた。私ってそんなに顔に出るのかなぁ。
「忘れてたよ……」
「でしょ?そうでしょ?そうよね?おかしいわよね?米軍兵の名前がここにあるなんて」
「あのね、これは和葉ちゃんにお願いされたの。」
 ビシバシと追求してくる千景の気迫にちょっぴりだけ圧されながらも私は答えた。
 すると千景は動きを止め、「は?」と怪訝そうな顔をする。
 そう。大体の部屋割りは仲が良さそうな人とか、今同じ部屋に泊まってる人たちをくっつけたんだけど、このRoom06だけはリクエストにお応えして決めたのだ。
 和葉ちゃんがこの部屋を訪れたのは、私が起床してすぐのことだった。ちょっぴり寝惚け頭でノックに答えて扉を開けると、「おはようございますっ!」と爽やかな笑顔を浮かべる和葉ちゃんがいた。そして和葉ちゃんは「千景さんいないんです?あ、佳乃さんでもいいんですっ!あのですね!」とシャキシャキ江戸っ子みたいな口調で切り出した。朝から元気だなぁと思いながら話を聞いた。その内容は、昨日からいらっしゃる米軍の方と相部屋にして欲しいんですけど、というもの。学校の席替えでリクエストに応えるのはなんだかズルい感じがするけど、今はほら、皆知らない人ばっかりっていうのもあるし、ここ、学校でもないし。別にいっかなぁって思って了承したわけで。
 そのことを千景に話すと、千景は暫し無表情で私を見つめた後、突然「バカー!!」と怒鳴りつけた。
「う、うぇ……?」
「かッ、和葉ちゃんも何か間違ってる気がしなくもないけど!それをOKするあんたはもっとバカーッ!」
「なんでなんで?だってMinaちゃんも保護するんでしょ?」
「……保護、っていうか……あれは保護じゃなくて、捕虜。」
「はぇ……?」
 ホゴとホリョ。その違いに少し悩む。ホは同じだから大差ないような気もするけど。
 保護と捕虜。あ、漢字は違うなぁ……。
 だめなのかなぁ……また失敗しちゃったかなぁ……。
「あ、あのね、そんな真剣に悩むことじゃないの。Minaはあくまでも米軍の人間で、おそらくは日本人に敵意を抱いてる。昨日だってそうだったでしょ?私達に向けて発砲した挙句に命さんを怪我させて。まぁ水散さんがいたから事なきを得たんだけれども、でもやっぱりMinaが危険人物ってことに変わりはないでしょ?だからあの子を自由にするわけには、い・か・な・い・のッッ!!」
 千景は早口で捲くし立て、「良い?」と確認するように付け加える。
 呆気に取られて聞いていたので、聞きながら内容を理解出来なかった。たった今言われた言葉を頭の中で反芻し、ようやく私は千景の言いたいことを察する。
「要するに……Minaちゃんは一人にしなくちゃいけない、ってこと?」
「そういうことね。だから、六号室は和葉ちゃん一人にして……Minaはとりあえず十号室で軟禁する。それなら丸く収まるわけよ」
 そう言いながら、千景は制服の胸ポケットからペンを取り出し、Room06のMinaちゃんの名前に棒線を引いて、Room10の方にMinaちゃんの名前を書き加えた。うーん、部屋割りって難しいなぁ。
 千景に修正を入れられた『部屋割り』を眺め、「そっかぁ」としみじみ納得。だけどMinaちゃん、一人ぼっちで寂しそうだなぁ。和葉ちゃんもやっぱり寂しいんじゃないかなぁ。
「あ、そうだ、それじゃあ和葉ちゃんと伊純ちゃんを一緒にしたら……」
 ふと思いついて告げた私の提案に、千景は「却下」と即答した。
「伊純だってある意味危険人物でしょ……。と言うより、伊純は一人部屋希望でしょ、あの性格だし」
「う、うぅん、そうなのかなぁ……」
 やっぱり難しい。私は尚も、もっと丸く収まる方法はないかと部屋割りと睨めっこしていたが、突然千景が部屋割りを書いたノートと取り上げ席を立つ。
「これで決定。あれこれ悩んでても仕方ないでしょ?不満があれば改めて考慮すればいい話なんだから」
「う、うん……」
「じゃ、部屋割りの内容を皆に伝えに行くけど、佳乃もついて来る?」
「あ、私お洗濯してた制服取りに行かなくちゃ。途中で寄ってくれるならついていくよ」
「オッケー。」
 千景は相ッ変わらずサバサバした物言いで、今からすべきことを簡潔に告げて入り口の方に向かって行く。
 私は慌てて椅子から立ち上がり、千景の後を追いかけた。
 うーぅ。千景ってば、なーんでこんなにお仕事早いのかなぁ。
 いっつもこやって、後を追いかけてばっかりだし……
 ……ちょっぴり自信とか、なくしちゃうわけで。





「ぷー。さっきはオッケーしてくれたじゃないですかぁ」
「ぴー。それは佳乃の独断よ。警察の視点で改めて熟慮してこうなったの。」
「ぱー。ご、ごめんねぇ和葉ちゃん……」
 ぷー。なんか解せないよー……。
 私―――五十嵐和葉―――が頬を膨らませると、二人ともわけわかんないこと言うし。
 ぴーって。ぱーって。しかも真顔で。
 お昼に佳乃さんに「アメリカの兵士さんと同じ部屋にして下さい!」て言った時は「いいよぉ」ってあっさりOKしてくれたのに。なのに。……うぅ。米国の人と仲良くなるチャンスだと思ったのになぁ……。
「そんなわけだから、当分は一人部屋で我慢してね。もし、どうしても一人部屋が嫌っていうんなら伊純と一緒にしてもいいけど、伊純が嫌っていうのは目に見えてるし……」
 千景さんは困ったような表情で言って、先ほどコピーして来たという部屋割り表を私に手渡した。
 Room06。今、私が一人で滞在しているこのお部屋だ。お部屋でのんびりしていたらノックが聞こえ、扉を開くと婦警のお二人、千景さんと佳乃さんの姿があった。二人の用件は「部屋割りを届けに来ました」というもので、期待したのも束の間だった。私のリクエスト、見事に却下されちゃってた。
 兵士さん――Minaさんの名前書いてあるのに、棒線で消されちゃってる。なんかこういうのってショックだなぁ。どうしてこう、国境の壁が出来ちゃうのかなぁ。
 人類皆平等であって!争う必要もなくて!!
 それなのに、理不尽なことばっかりで落ち込んじゃいます。はぁ。
「一人部屋でいいです、けど……Minaさんと一緒が良かったなぁ……」
 落胆は正直なところ隠せない。こう、一度期待しちゃっただけにショックは大きいのだ。
 がっくりと肩を落としていると、心配そうな表情で私を見ていた佳乃さんが、不意にぽむっと手を打った。
「そうだ!お部屋は一緒じゃないけど、Minaちゃんのお部屋に遊びに行けば……」
「バーカ」
 と、佳乃さんの提案の途中で、千景さんがパコンッと佳乃さんの後頭部を叩く。
「残念ながらRoom10の鍵は私が管理してあるのよ。言ってるでしょ?あのMinaって子は私達に危害を加える恐れがあるから、こうやって隔離してあるの。そりゃ、Minaが改心でもすれば話は別だけどさ……」
 千景さんはどこか呆れすら混じった口調で言っては、「宜しい?」と私と佳乃さんに目を向ける。
 佳乃さんは私の味方だと思ったんだけど……千景さんの力って大きいみたいだ。
 「はぁい」と素直に頷いている佳乃さんを見て、彼女を頼ることは無理だと悟った。
 とすれば……
「和葉ちゃんも、宜しい?興味があるんだかなんなんだか知らないけど、Minaは危険な女なの。」
「……はい。わかりました。」
 千景さんの言葉にこくんと頷いて見せれば、ようやく千景さんは軽い笑みを見せ
「素直で宜しい。んじゃ、そういうことだから宜しくね」
 と言い残し、佳乃さんを促して廊下を歩いていく。
「か、和葉ちゃん、ほんとーぉにごめんねぇッ」
 佳乃さんはぺこぺこと頭を下げた後、慌てふためいた様子でさっさと行ってしまう千景さんを追った。
 私は廊下に顔を出して二人の姿を見送り、やがてその姿も見えなくなった頃、そっと廊下に足を踏み出す。
 あの二人がMinaさんに会わせてくれないなら!私は別の方法でMinaさんに会ってやるんだからッ!
 千景さんには理解出来ないみたいだった。私がどうしてもMinaさんと仲良くなりたい理由。
 それはすごく単純で簡単なこと――だと思っていたけれど、千景さんの言い方を聞いていると、それが単純なことではないようにも思えてきた。「危険な女」……かぁ。
 米国が日本に戦争を仕掛けている今、その二つの国には大きな溝がある。
 日本人は米国人に怯え、そして米国人は日本人を目の仇にする。
 だけど――日本人が米国人に怯える理由も、米国人が日本人を憎む理由も、とても馬鹿げたものなんだ。
 兵士さんも、国民も、国が決定したことに怯えているだけ。じゃあその“国”ってなぁに?
 それは、ほんの一握りの偉い人たちの一存でしかない。
 どうして“国”なんかに惑わされてしまうんだろう。米国人も日本人も、同じ人間なのに。
 どうして人間同士が憎しみあわなくちゃいけないんだろう。それこそ理不尽極まりないことだ。
 ――……恨みがある、から、憎む。
 千景さんの言い分だって、理解、出来ないわけでは、ないの。
 米国人は国に踊らされ、そして日本人に牙を剥いた。
 日本人は何も知らない米兵に、大切な物を奪われた。
 そこに恨みが生まれるのは当然だ。
 だけど。そうして膨張していく憎しみに歯止めを掛けることが出来るのは、踊らされている国民自身。
 だからこそ、私達は――……人間を殺すのではなく、憎しみを殺さなくてはならない。
 まずは踊らされていることを自覚するの。そうしなきゃ、また無意味に人が死んでしまうのだから。
 Minaさんと仲良くなりたいのもその一つ。彼女は米国人である前に、人間なのだから。
 それを私達が知る。そして、Minaさん自身に知ってもらう必要がある。
 千景さんに説得するよりも先に、Minaさんが変わらなくちゃ始まらないんだ。
「……」
 Room08――目的の人物がいるお部屋の前に立って、深呼吸を一つ。
 私のこの想い、理解してもらえるだろうか。そして協力してもらえるだろうか。
 そんな不安もあるけれど――まずは話してみよう。
 コンコン、と扉をノックすると、程なくして「はぁーい?」と声が返って来た。
「あの、私、五十嵐和葉と申しますッ!都さん……いえ、怪盗Happyさんに、お話があるんですけどッ」
 緊張で少しだけ声を上擦らせながらそう告げると、少しの間を置いて扉が開いた。
 私よりも幾分背の高い綺麗なお姉さんが姿を現す。
「おやおや。可愛い子に遊びに来て貰えると嬉しいわねぇ。私に用事?」
 彼女が怪盗Happyこと、伴 都(ハン・ミヤコ)さん。
 怪盗Happyはとても名高い泥棒さんで、少し世間に疎い私すらでもその名前は知っている。最初は「泥棒」という響きに良いイメージが持てなかったのだけど、Happyの噂はどれも、彼女を褒め称えるものばかり。
 泥棒は泥棒でも、良い泥棒さん。いわゆる義賊さんなのだ。
 米軍の基地から食料や金銭を盗んで貧しい人に分け与えたとか、米軍に人質に取られていた人を助け出したとか、彼女の武勇伝は数知れない。Happyは正義をよく理解している。
 ―――正義の本当の意味を、知っているはずだ。
「お願いがあります。……盗んで欲しいものが、あるんです」
 そう切り出して、私は思いの全てを話し、そして頼み込んだ。
 和解のため。平和のため。――彼女から見れば、正義のため。
 真剣に私の話を聞いてくれた都さんは、やがて静かな笑みを浮かべ、呟いた。
「……可愛い子のお願いなら、聞かないわけにはいかないわね。」





 バフッとベッドに倒れこむと、色んな疲れが一気に出てきたようで、ふにゃりと身体の力が抜けてしまう。
 つい先ほどまで括られていた両手は、今、自由を手にしている。手を伸ばせば頭の天辺だって足の先だって届く……けれど。手の自由を得た代わりに行動の自由が制限された。
 あたし―――Mina=Demon-barrow―――が今動けるのは、このホテルのような一室のみだ。いわゆる軟禁というやつである。まぁさっきみたいに手ぇ括られて転がされてるよりはよっぽどましだけど。
 しかし改めて思う。日本人とは意味がわからない人種だ、と。
 てっきりあたしを辱めたり、侮蔑したりするものだとばかり思っていた。しかし彼女達はあたしに手を出すことはせず、「しばらく待機してて」とだけ言って、この部屋に置き去りにしたのだ。さすがに扉の鍵は開かなくて、そこまでお人よしってわけではないようだけど。
 目が覚めた時に名前や年齢、所属などを聞かれた他は何も……そんなにあたしに興味がないわけ?
 ハッ!まさか、このまま部屋に放置プレイで食事なんかも与えなくて、餓死させよう、とか……!
 あぁ、やっぱり日本人って残酷だ。奴らは徹底的な苦痛の上で死に至らせるつもりなんだ。ありえないッ!
 それならいっそ、この舌を噛み切って死んだ方がよっぽど良い。
 ……。
 舌を、噛み切る、って。
 こう、舌を出して歯を合わせてみるけれど――ど、どうやったら噛み切れるんだろう。
 もっとぐっと力を入れて、いや、それより思い切りガチッとやるべきなのだろうか。
 どっちにしても痛そう……いやいやいや!そんなことで躊躇っている場合じゃない!
 今思い切らなくちゃ、後々、それ以上の苦痛の日々が待ち受けているのだから……!
 行け、Mina。今こそ全ての勇気を振り絞って、日本人に知らしめてやるんだ。
 米国人の潔さというものを!!
 せーのッ

「みーぃな、さぁーん」

 ガ、チッ。
「ッ!ぅ〜……!」
 思い切って舌を噛み切ろうとした、その瞬間。
 突然、入り口の方から緊張感のない声が聞こえてきて、妙な風に力が抜けた。
 その所為で八重歯が舌を傷つけ、ちょっと痛い。
 血、出たかも。やっぱ噛み切るなんて出来ないかも。……痛い。
「あ、あのぉ……失礼しますッ」
 扉の向こうの人物は若干の躊躇いを滲ませながら言葉を発す。そしてカチャリと、扉が開く音がした。
「……ぅ……?」
 口を手で押さえながら、ベッドから身体を起こして入り口の方に目を向ける。
 そこには、いそいそと室内に入ってはパタンと扉を閉め、「ふぃ」と安堵の吐息を零す女の姿があった。
 この女、確か……今日目を覚ました時、そばにいた女だ。『戦争反対』のプラカードを手にしていた女。
「あ、あ、あのっ、突然お邪魔してごめんなさい!えっと、私……」
 黒髪黒目の日本人然とした女は、しどろもどろになりながらあたしの方に歩み寄る。その手には、おそらくこの扉の鍵なのであろう、カードキーが緩く握られていた。
「本当は、ここ、来ちゃだめなんです。けどッ、その、怪盗Happyさんに、鍵……盗んでもらっちゃった」
 女は伏せ目がちに紡いだ後、上目遣いでちらりとあたしに目を向ける。
 突然の訪問者と舌の痛みとで、あたしはしばらく彼女に対するリアクションというものを忘れていた。
 盗んでもらった?何それ?何のために?
 ――ハッ!!もしかしてこの女、そうまでしてあたしを侮蔑しようと!?
 あぁもしかして今からあたし、この女に陵辱されてしまうんじゃ……!!
「あ、あぁそうだった……私、英語喋れないんです……えっと、アイ、キャノットスピークイングリッシュ」
「……。」
「どうしよう……話が通じないんじゃ……こ、困ったなぁ。」
 この女、一体何しに来たんだろう。
 侮蔑するにしても陵辱するにしても、もう少しそれなりの態度を取ってもらわないと困るというか。
 女は女で頭を抱えて考え込んでいるし、あたしはあたしでどう対応して良いかわからない。
 暫しの沈黙の後、女はおずおずと口を開いた。
「あ……アイ、ライク、ピース。アイディスライク……ウォー」
 平和が好きで、戦争が嫌い、か。
 本当に低レベルな英語力なのだろう。それでも女はしきりに考え込んでは、ぽつぽつと言葉を漏らす。
「アイウォント……アンダースタンド、ユー…………アンド、ミー?」
 ――何が言いたいのか、よくわからないけど。
 この女、侮辱のためにここに来たわけではないようだ。
 そう思わせるのは、女が浮かべる真剣な表情だった。
 もしかしてこの女、……日本人にも極稀に存在する、良い人間、とか……
「アイライクユー……アイラブ、ユ?」
「は……」
 待て待て待て。
 良い人間って。前言撤回。
 いきなり愛の告白をされても困る。ものすごく困る。
 えぇ?あたしたちは今日会ったばっかりだし、第一会話すらしてないのに好きになるわけが……
 ――ハッ!!いけないわMina!こんなバカ女のペースに巻き込まれてはダメ!
 こういう女は無視するのが一番なのよ!
 だからこう、女の言葉なんか全然理解出来ないような素振りで怪訝そうな顔をして、その後プイッと顔を背けて……そう、これでいいの。そしたらこの女だってどうしようもなくなって部屋を出て行くに決まってる。
 プイッと背けて……
 背けて……
 出て行くに……決まって……
 決まって…………
 …………。
 …………。
 …………。
 …………で、出て行かない!?
「……」
 恐る恐る、再度女に目を向けた。
 女は尚もその場に直立不動のまま、
 ……その瞳に、涙を浮かべていた。
 な、なんかあたしが悪者みたい。何もしてないのにッ!
「うぅ……どうしたらいいんですかぁ、もう、Minaさん日本語ぐらい理解してくださいよぉ!」
 んな無茶な!!自分が英語喋れよ、と!!
 ――…に、日本語なんて。
 日本語なんて絶対、喋るもんか。
 日本語なんか絶対、理解してやるもんか。
 あたしはッ――

「……う、ぶ!?」

 突如、ガスッ、とタックルを掛けられて私はベッドの下に転げ落ちた。
 あまりに突然で身構える暇もなかった。隣にもう一つあるベッドに軽く頭を打つが、大して痛みはない。
 顔を上げれば、涙目の女の顔が至近距離にあった。
「あ、わわ、ごめんなさい!こ、こんな押し倒すつもりじゃ……!」
 女に言われて気付く。た、確かに押し倒されてるみたいだ。
 覆い被さられて、女の体重が身体に掛かる。
 華奢な身体してるくせに、胸だけは大きい――とかそんなことはどうでも良い。
「み、Minaさん……あの、あのですね」
「……」
「私……私ね、こ、こんな……Minaさんが拘束されたり、酷い目に遭ったりするの耐えられなくて……日本人とか米国人とか、そんな視線でしか物事が見れないことが悲しくてッ……」
 女はあたしに覆い被さったまま、上擦った声で言葉を零す。その瞳に溜まった涙が一筋零れ落ちれば、女は慌てて手の甲で涙を拭い、それから真っ直ぐにあたしを見つめた。
 黒色の瞳が、あたしを、見つめる。
 悪魔の黒――そのはずなのに。
 何故こんなに、澄んでいるのかが、あたしには理解出来ない。
「ねぇMinaさん……どうしてMinaさんは日本人を殺そうとするんです?どうして日本人を憎むんです?何か恨みでもあるんですか?」
 この女、私が問いかけの意味を理解するとでも思っているのだろうか。
 私に通じているとでも思っているのだろうか。
 ここの人間が知っているはずがない。――私が日本語が理解出来ることなど、知るはずもない。
 なのに何故、この女。こんなにも日本語で訴えかけるのか。
「ねぇ、私……」
 悲しげに伏せられる瞳に、何故か胸が詰まって。
 なんだろう、この、ぐちゃぐちゃの感情は。
 あたしが日本を憎む理由?日本に恨み?
 そ、れは――!
「ッ、黙れ!!!」
 ガッ、と、女の首に手を掛け、力任せに押し倒した。
 女はあたしの日本語にか、それとも行動にか――驚いたように目を見開く。
「恨み、なんて!山ほどあるに決まってる!あたしの仲間達がどれだけ日本人に殺されたと思ってるの?この戦争で、あたしがどれほどのものを失ったかわかる?!仲間も、帰る場所も、何もかも失って!!!」
「ッ、ぅ……」
 あたしは怒鳴りつけながら、女の首を締め付ける。
 女は何かを言いたげに唇を震わせるが、それは声にはならなかった。
 聞きたくない。日本語なんか聞きたくない!!日本人なんか――!!
「……ぁ、ッ……、……!」
 女は微かに息を漏らしながら、声にならぬ声で叫んだ。
 その瞳から幾つも、大粒の涙を零しながら。
「……泣く必要なんかないでしょ?笑えばいいのよ!!この哀れなアメリカの女を笑えばいい!!いっそ殺してくれればいいのにッ!!」
 そう言った時、不意に、口の中に血の味が広がり、吐気を催す。
 先ほどの傷から、血が一気に流れたか。耐え切れず咳き込んだ、その拍子に女の首に掛けていた手の力も抜けてしまう。
「ケホ、……ッ、Minaさん、血が……」
 女は苦しげに息をして、自らも咳き込んでいるというのに。
 あたしの口から零れる数滴の血液に目を見張り、心配そうな表情を浮かべていた。
 どうしてそんな顔ができる?たった今自分を殺そうとした相手なのに?
 この女、一体何を考えて――
「Minaさん……ごめんなさい……ごめ、ん、なさいッ……私、……」
 女は震える指先をあたしの口元に伸ばし、そっと撫ぜた。付着した血液を拭ったのだろうか。ほんの少しの間口元に触れた指先は、次の時には、くしゃりとあたしの髪を撫ぜていた。
「……私も、アメリカの人を……憎んでしまいました」
「え……?」
「殺してやりたい、と、思ってしまいました……ごめんなさい……」
「……なら殺せばいいじゃない。私のことだって殺せばいいじゃないッ!」
「違ッ……」
 女は途切れ途切れに言葉を漏らしては、ゲホゲホと苦しげに何度も咳き込む。女の首に残った赤い痣、そうすぐには消えないだろう――それはあたしの憎しみの痕だ。
 それでも女は、気丈に弱い笑みを見せ、あたしの髪に滑らせた指でそっとあたしを抱き寄せた。
 ぽすん、と、いとも簡単に女の胸元に沈んでしまう私の頭。
 ――抵抗。
 しなきゃ、いけない、のに。
 心のどこかであたし自身にロックを掛けてしまったようだ。
 身体が、動かない。
「私の家族……米国の人に、殺されました」
「……」
「私にわかるのは、あの核爆弾を落としたのが米国の誰かだということだけ。――いいえ、それすらもニュースや人伝で聞いたことです。一体誰に殺されたのかすらも、私にはわからないんです」
「……核爆弾?あれは政府の命令で――」
 と、そんなあたしの言葉を遮るように、女はあたしの頬に手を置いた。
 その手があたしの顔を上げさせると、ほんの数センチの距離で視線を交わす。
 ――ずっと感じていた違和感は、これか。
 私の仲間達は、こんな綺麗な瞳をした人に殺されたはずが、ない。
「もうどうでもいいんです。誰が殺したかなんて……そんなこと求めて、どうなるんですか?」
「……どうなる、って……復讐して……」
「復讐してどうなるんです?それで気が済むと思いますか?」
「……」
 復讐して、そして、その後。
 そんなこと、考えたこともなかった。
 ただ衝動的にあたしは――復讐だけを生きる糧にしていた。
 だってもう他に、あたしには何も残っていない。
「憎しみは憎しみを生んでいく。Minaさんが私を殺せば、きっと誰かがMinaさんを憎むでしょう。そうして膨らんでいく、ループでしかないんです。……憎しみの後に残るのは、憎しみと悲しみです」
「……じゃあ許せ、って言うの?仲間達を失った、その犯人すら許してしまったら……」
 許してしまったら。
 許してしまったら、あたしは。
 あたしはもう。
 もう、
「何もなくなるのよ。」
 そう、言葉にすることが怖かったのに。
 この女の前では余りにも、簡単に、そう紡ぐことが出来ていた。
 あたしの言葉に、女はどこか不思議そうにあたしを見つめ瞳を揺らす。
 やがて――微笑んだ。
「……?」
 あたしにはその微笑の理由がわからなくて、その答えを求めるように女を見つめることしか出来ない。
 やがて女は、示して見せた。
 その答えを――あたしへの、くちづけという行為で。

「って、えぇ!!?」
「……あ、ごめんなさい、突然」
 今、確かに触れた。目の前にいる女の唇が、あたしの唇に。
 あまりに唐突過ぎて、雰囲気ぶち壊しの素っ頓狂な声を上げてしまう。
 女はどこか照れくさそうに自らの唇に触れた後、ふっと柔らかく微笑んだ。
「ほら。」
「ほら、って?」
「あるじゃないですか。許した後に、残るもの」
「……今のキス、が?」
 未だによくわからずにきょとんと問いを重ねるあたしに、女はクスクスと小さく笑った。
 「教えなさい」と急かすあたしに、女はやがて表情を和らげると、その両手をあたしの頬に宛がい、真っ直ぐな綺麗な瞳であたしを見つめながら言った。
「貴女が貴女、私が私であるという事実。アメリカ人でも日本人でもなく、私と、Minaさん。それだけです」
「……」
 今、女の言っていることって、簡単なこと?
 あたしにはまだ、上手く理解出来ていない、けれど。
 なんとなく。それとなく、理解出来そうな気はするんだ。
「ね、Minaさん。」
 女はふわりと微笑んで、ゆっくりと身体を起こした。
 そして私の前髪を撫ぜると、chu、とくすぐったい音を立てて額にキスを落とす。
「……少し考える時間をくれる?」
 そう問いかけてから、あたしはお返しとばかりに、女の顎に唇を寄せた。
 食むようなキスの後で顔を離せば、女はにっこりと笑んで頷き、こう言った。
「じゃあ、Minaさんがその答えを見つけた時、私の名前を呼んで下さいね。……待ってますから」
「名前……?」
 問い返すあたしの言葉には何も答えずに、女は立ち上がってあたしに背を向ける。
 そして繰り返す言葉、「待ってます」と一言だけ。
 あたしはぼんやりと女の後ろ姿を見送り、やがてパタンと扉が閉じるまで、何も言葉を返せなかった。
「…………って!!ちょ、ちょっと待ち、なさいッ!!名前知らないっつーの!!」
 慌てて扉に投げ掛けた声、女には聞こえているだろうか。
 もし聞こえていたとすれば、可笑しげにクスクスと笑っていることだろう。
 ったく。無理難題を押し付けやがってー。
「……ま、いっか」
 時間はたっぷりありそうだ。
 あたしは彼女の言葉をじっくりと考えながら、過ごしていこう。
 いつか呼んであげる。
 黒い綺麗な瞳をした女――大和撫子の、ホントの名前。





「ごめんなさい」
「……なさい」
 和葉ちゃんと怪盗Happyこと都が口々に謝るも、私―――乾千景―――はご立腹である。
 当然だ。警察の所有物であるカードキーを盗んだ上、捕虜であるMinaに勝手に会ったと来た。これはもう立派な窃盗罪+αである。和葉ちゃんがおずおずと差し出したカードキーをパシッと取り上げて、溜息一つ。
「あのねぇ。さっき言ったばっかりでしょ?Minaは危険な女なんだって」
 食堂で食事中だった私は、箸を動かすのもすっかり忘れて、肩を落とした和葉ちゃんと目を逸らす都を見上げ、ガミガミと叱りつける。すると更にしょんぼりする和葉ちゃんを見て、少しだけ言葉を止める。
「……まぁとにかく、座りなさい」
 向かいの席を示せば、二人は「はぁい」と声を揃えて椅子に腰を下ろした。
「何事もなかったから良かったけどさ……」
 言いつつカツ丼のご飯を箸で摘み、口に運ぶ。まったく、内心辟易だ。
 都は和葉ちゃんに言われて、私の持っていたカードキーをいつのまにやら盗んだのだろう。気付きもしなかった辺りが悔しいけれど、ともかく都の罪はそう重いわけでもない。しかし主犯である和葉ちゃんに関しては、ちょっとばかし厳しくお灸を据えなくては。一体どんな言い方をすれば理解して貰えるのだろうか。
「そ、そう、何事もなかったんですよ!だからほら、全然危険人物じゃないですよね?」
 和葉ちゃんはドドンと身を乗り出して私に訴えかける。ほら、この様子じゃ全然懲りてなさそうだ。
「だからってね……」
 言いかけてふと、今まで見覚えのなかった痣に気がついた。和葉ちゃんの首にくっきりと浮かび上がる赤い痣……さっき、部屋割りを渡した時にはこんなものはなかったはずだ。
「和葉ちゃん。何事もなかった、ってのは嘘でしょ?」
「え……?」
「その首の痣、さっきまではなかったわよね?……Minaにやられたんでしょ?」
「あ!こ、これはそのッ……」
 案の定だ。しどろもどろになる辺り、わかりやすすぎるリアクションである。
 和葉ちゃんは私の目から隠すように両手で首を覆いながら、ふるふると小さく頭を横に振った。
「ち、違うんです、これはMinaさんじゃなくって」
「嘘吐きは泥棒の始まりよねぇ?」
「うっ……」
 正義感の強い和葉ちゃんには、こういう言葉がよく効くらしい。黙り込んで顔を伏せる和葉ちゃんに、また一つ溜息を零さずにはいられなかった。
「これでわかったでしょ?Minaはやっぱり殺意を持って……って、あ、あれ?私のお漬物……」
 言葉途中で、小皿に盛っていた漬物が消えていることに気付く。
 はっとして都に目を向ければ、ボリボリと音を立てながらそっぽを向いて口を動かしていた。
「こら都ー!人のもの勝手に盗まないの!」
「え?何が?一体何のことだか私にはサッパリ」
「思いっきりボリボリ言ってるじゃないッッ!」
 カツ丼にお漬物は欠かせない。少し油分の多いカツとサッパリしたご飯、それだけでも絶妙なハーモニーを奏でるのだが、そこにお漬物がついていると最高だ。肉汁が微かに残る口内に、シャキシャキの漬物、これはもう病みつきになる美味さである。――なのに!!!
「私のお漬物を返せ!」
「もう食べちゃったもーん」
「こ、このやろー……」
 やはり高名な怪盗だけある。侮れない。
 最後の仕上げとも言うべきお漬物を失い、落ち込みながら残りのカツ丼を掻き込んだ。
 その時不意に、ドンッ、とテーブルを叩く音。ドンブリの影から見れば、和葉ちゃんが顔を伏せたまま、ワナワナと震えているではないか。少し驚きながら、ドンブリを下ろして「どした?」と小声で問う。
「千景さん!!もっと真面目に考えてくださいよ!!お漬物なんか、どうでもいいじゃないですか!!」
「真面目にって…………ど、どうでも良くない……」
「どうでもいいですよ!!お漬物とMinaさんと、どっちが大事なんですかッ!!」
「……う」
 こ、これは逆ギレというやつ、だろうか。
 あまりの剣幕に言葉が返せず、私は静かに箸を置いて、恐る恐る和葉ちゃんの様子を見守るのみ。
 都はといえば、面白くなってきたと言わんばかりの表情で私と和葉ちゃんを交互に眺めている。
 和葉ちゃんはふっと、一つ大きく息を吸い込んだ後、口を開いた。
「Minaさんに殺意があって、それで軟禁するのは仕方ないかもしれませんけど!じゃあ何です?千景さんたちはMinaさんの殺意を和らげるために何かしましたか?彼女の憎しみだとか殺意だとか、その理由を知った上でこんな酷いことするんです?確かに米国は日本に戦争を仕掛けて、多くの人間の命を奪いましたよね、でもそれは米国の命令に従った兵士達が仕方なくやったことであって、命令を受けただけの彼らにそんなに大きな罪があると言うんです?いわば洗脳されているのと同じようなことでしょう?それならば私達はその洗脳を解くべきではないですか?そうですよね?」
 と、思い切り捲くし立てた後で息継ぎし、更に大声で私に怒鳴りつけていた。 
「生まれもっての悪人なんてこの世には存在しません!米国軍の中にも、平和を愛する人、嫌々罪を犯している人だっているんです!!」
 ……以上。和葉ちゃんは言いたいことは全て言い切った、とそんな様子で深い呼吸をし、反論を待つように私を見つめる。
 彼女の言っていること、穴も多いし、反論の余地は大いにある。
 しかしすぐに冷静な反論が出来ないのは、彼女が放った気迫だった。
 これほどの情熱で、あのMinaという女を助けようとするなんて。
「……そうね。確かにMinaだけを悪者にするのは間違ってるし、私達日本人だって単なる被害者ってわけじゃない。Minaの仲間を殺したのは他でもない、私達だもんね」
 和葉ちゃんの言い分を消化しながら、出来る限り冷静に言葉を紡ぐ。
 私の言葉に、和葉ちゃんはどこか意外そうな顔をしながらも、何も言わずに耳を傾ける。
「Minaには私達を憎む理由がある。だから危険人物だって言ってるの。……あの子が米軍兵士だとか、そんなことは二の次なの。ただ私は――ここにいる人たちに危害を及ぼす恐れがある人物を野放しには出来ない、それだけなのよ。」
「……そう、だったんですか。私はてっきり、Minaさんが米軍の人だから差別しているものだと……」
 和葉ちゃんは顔を伏せて小さく言った後、「ごめんなさい」と謝罪した。
 その言葉には首を横に振り、口調を和らげて言葉を続ける。
「そう思われても仕方ないしね。でも実際は違う。それだけはわかってね。」
「はい……」
「それから。Minaの殺意を和らげるために何かしたか、って話だけど」
「はい。」
 申し訳なさそうな表情を浮かべながらも、私の言葉に期待しているような眼差しを向ける和葉ちゃん。
 その瞳に言葉が詰まってしまうけれど、一呼吸置いてから私は言った。
「警察側はそこまでは関知しないのよ。反省があれば許すけど、そうでなければ許さない。それだけなの」
「……」
 案の定、落胆の表情を浮かべる和葉ちゃんに、私はどんな言葉を掛ければ良いか迷ってしまう。
 その時、私達のやりとりを傍観していた都が口を挟んだ。
「それは和葉ちゃん自身が、なんとかすればいいんでしょ?そのために、私に鍵まで盗ませたんだから」
 軽い口調で告げる都の言葉に、和葉ちゃんははっとしたように顔を上げた。
「その通り、ですよね。そうです、実際にさっきだって、Minaさんは私の言葉をちゃんと受け入れてくれましたから!……だから私、もう少し彼女を説得して……」
 真摯な表情で言葉を零す和葉ちゃんに、私はふっと一息ついた。
 ここまで頑なになられては、私も止めようがない。
「鍵はもう盗ませないわよ。……でも、扉越しでも会話は出来るでしょ?」
「は、はいッ!」
 和葉ちゃんはこくこくと頷いた後、ようやく小さな笑みを見せた。
 この女の子ならMinaの殺意を和らげることもそう難しいことではないのかもしれないと――そんなことを思いながら、彼女の笑みに一つの頷きを返す。
 和葉ちゃんは笑みを深め、そして真っ直ぐな瞳を見せながらこう言った。
「私が必ず。Minaさんの心のナイフを、壊してみせます。」












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