施設内の探検に散っていた一同は、やがて一室に集められることになった。
 地下施設の部屋の中で一番広いのは、頑丈で警備厳重な入り口を入ってから10メートルほど進んだ先にある玄関とも言える広々としたスペースだった。婦人警官二人がどこからか小さなテーブルセットを持ってきて、向かい合うように四つの椅子が並べられる。
「もう朝になるわね……皆も疲れてると思うけど、もう少しだけ頑張ってね。」
 婦人警官である千景はそう言って、どさりと椅子に腰を下ろした。隣の椅子には同じく婦人警官の佳乃がちょこんと腰掛け、彼女の前のテーブルには一冊のノートとペンが置かれている。
「今から何するの?」
 Happyは佳乃の手元のノートを覗きこんだが、それはまだ白紙だった。どうやらこの施設の備品室から調達したばかりの物のようだ。佳乃は真新しいノートを開きながら、「千景が得意なアレです……」と、ぽつりと答える。Happyはその答えで理解出来るはずもないのだが、疲れた様子の佳乃に何も言い返せなかった。
「得意なアレって何。あ、変なことじゃないわよ。事情聴取ってやつ。一応ね、警察の監視下に置く以上、皆のことは知っておかないといけないの。」
 千景のフォローにHappyは納得した様子で「そーかそーか」と相槌を打った後、はっと顔を上げて入り口へダッシュしようとした。そんなHappyの腕をガシッと掴んで引きとめたのは、平和大好きっ子の和葉だった。
「う、うぇ?」
「今からどこに行くんですか……外はまだ危険かもしれませんよ!」
「……うっ」
 潤んだ瞳で見上げられ、Happyは言葉に詰まる。和葉の目が潤んでいるのは欠伸の所為だなどということは、Happyは知る由もない。
「はい、そんなわけでまずはあなたからどーぞ。怪盗Happy?」
「知ってたの?私の正体」
 窘めるように言う千景に、Happyはギクッと身を竦ませながら小さく返す。
 和葉に後ろから押されてしまい、Happyは渋々といった様子で千景に対面する椅子に腰を下ろした。
「勿論。その皮のつなぎにゴーグル。それに加えて機敏な戦闘を見てれば警察なら誰でもわかるわよ。」
「あっははーん、私も有名人なわけね」
「ま、そういうことね。名前と年齢と職業。それから家族についてと、ここに来た経緯。ちゃっちゃと吐いてもらいましょうか?」
「は、吐くだなんてやぁねぇ婦警さんってば。私はなーんにも悪いことなんて……」
 しどろもどろになりながら乾いた笑みを浮かべるHappyを、千景はジロリと一瞥し、
「なら、そのゴーグルは外せるんでしょうね?」
 と肩を竦めながら問うた。
 Happyは「うっ」と唸り少しの間沈黙した後、また「あははー」と乾いた笑みを浮かべる。
「えっとねー、名前は怪盗Happy……」
「本名でお願いします」
「え、えええ……」
 ビシバシと隙のないオーラを放ちながら千景は進めて行くが、Happyはなかなかに口を割ろうとしなかった。千景はふっと小さく溜息をつき、
「逮捕しようってんじゃないの。窃盗罪に関しては残念ながら証拠もないし。だから警戒しなくて大丈夫よ」
 と、幾分穏やかな口調で言った。するとHappyは「なんだ、警察も案外捜査が遅いのね」などところっと態度を裏返し、目元を覆うゴーグルと皮のフードをバサリと外した。
「……あ、れ?」
 露わになった素顔に、千景は思わず目を丸めていた。隣の佳乃も、「ほぇぇ」と声を上げながらHappyに見惚れる。それもそのはず、Happyはゴーグルなどで隠すなんて勿体ないと言いたくなるほど、綺麗な顔立ちをしていた。アップにしている薄茶色の髪に、猫目がちな琥珀色の瞳。言動こそおちゃらけて子どもじみているが、細められた瞳や笑みを浮かべる口元は、大人の女のそれだった。
「フフン、見惚れた?見惚れた?でしょうねぇ」
 当然、ゴーグルを外したからといって性格が変わるわけでもないのだが。
 言うことは相変わらずな様子に、千景は気が抜けたようにふっと笑って言った。
「まぁ……巷で噂の怪盗Happyの素顔が期待を裏切らなかった、ってことは良いことね。」
「どういう意味よ。」
「マスクマンがものっすごい不細工だったら世間は愕然とするでしょう?」
「あぁなるほど。世間は世界ナンバーワンの美女を予想していた!フフン、つまり予想通りってわけね」
「誰も世界ナンバーワンとは……」
 千景とHappyが微妙なやりとりをしていると、佳乃がペンの先でチクチクと千景の頬を刺す。
「早くしないと、皆眠たいよぉ……」
 自分も眠たいと言わんばかりの表情で千景を見遣っては、「まだ白紙だよぉ」といつもに増してまったりとした口調でノートを指す。
「あぁごめんごめん。それじゃあHappy。名前、年齢、職業をお願い。」
「ハイハイ。名前は伴 都(ハン・ミヤコ)。人が半分の者にβ(ベータ)みたいなやつ。」
「……はい?」
「ニンベンに半分の半。者にβ」
 おそらくHappy――もとい、都は真剣だ。彼女は自分の漢字を説明するのに、この方法が一番相応しいと思っているに違いない。しかし眠さがピークの佳乃は容赦がなかった。
「京都のトって言えばわかるに決まってるよぉバカ……」
 思わず千景と都は言葉を失ったが、ふっと顔を見合わせると、慌てて事情聴取を再開した。
「で、えーと、都さんの年齢と職業は?」
「年齢は二十五。職業は見ての通りの怪盗よ。」
「………」
 千景はつっこもうと口を開いたが、不機嫌な佳乃に気付いて言葉を止めた。
 佳乃は「怪」と書いたところで訝しげな表情を浮かべ千景を見遣る。
「そこはフリーターって書いときなさい」
 という千景の指示を受け、「はぁい」と頷きながら佳乃は書き加える。
 『怪フリーター』。
 あながち間違いじゃないなと思いながら、千景は構わずに先に進んだ。
「家族についてと、それからこの施設に来た経緯。避難なら避難でいいからね」
 最後の言葉は全員に向けたものだろう。千景はそう問いかけては、チラリと佳乃を見遣る。
 佳乃自身も気付いたのだろう。怪フリーターじゃ確かに怪しすぎる。なので、なにやらちょこちょこと書き加えているが、既に書いているものを消すつもりはないらしい。結局、
 『怪盗☆フリーター』
 になっていた。そのネーミングがちょっとだけ格好良く思えてしまった自分が恥ずかしくなるのは、怪盗☆フリーターではなく、怪盗Happy。せめて『怪盗☆Happy』にしようか、などと思っていたところで、ダンッと千景に机を叩かれて我に返る。
「あ、あぁえっとね、家族は死別。経緯は正義の味方だ、から……当然……その……」
 また曖昧に言ったところで、千景にはギロッと睨まれ、佳乃にはじとぉとねちっこい視線を向けられた。
 都は慌てて咳払いをし、言葉を改める。
「たまたま通りかかったら凄い殺気を感じたから、隣の廃ビルにいたお子様二人組を連れて助太刀したのよ。うん、それだけ。簡潔に述べました。宜しい?」
「はい、宜しい。」
 ようやく千景にOKを貰い、都はほっと安堵の溜息を零した。
 それほどに、佳乃が放つオーラは恐ろしいものらしい――。

『名前:伴 都(ハン・ミヤコ)
 年齢:25歳
 職業:怪盗☆フリーター
 家族:なし
 備考:仮面を外すと意外に綺麗なドロボーさん』



「ぷー」
「ぷー」
 と、頬を膨らませている二人がいた。お子様二人組扱いされてしまった遼と冴月だった。
 都が席を立つと、二人はジーと嫌味な視線を浴びせ掛ける。
 しかし都も慣れたものだ。たった今まで佳乃の恐ろしいオーラを体感していたからか、二人の視線など何ともないといった様子で余裕の笑みを浮かべている。
「はい、次はそこの膨れっつらの二人、いらっしゃい」
 千景に言われて二人はプシューと頬から空気を抜くと、二つの椅子に並んで腰を下ろした。
「まずは制服の子からね。名前と年齢と職業。」
「はい、あたしは三宅遼(ミヤケ・ハルカ)。……サンタクリョウって書くの。」
「三択漁」
「違う、三宅遼」
「サンタクロー……」
 遼の漢字の説明もやはり伝わり難い。千景は眉を寄せて「サンタクリョー」と考え込んでいるが、佳乃はノートにサラサラと「三宅」と書いて、
「リョウはどんな字?ハルカだから、之繞がついたやつかな?」
「そう、それそれ」
 と、見事に話を合わせていた。千景は信じられない物を見るような視線で交互に二人を見つめる。
 そんな様子を頬杖を付いて眺めていた冴月は、
「ハルカとリョウっていう読み方をする漢字を考えればいいんだね。婦警さん頭いーぃ」
 と、笑みを浮かべた。勿論冴月が言う婦警さんは佳乃のことである。
 千景は今一つ納得の行かぬ表情ながら「次!」と遼を急かす。
「婦警さぁん、あんま生き急いだら老けちゃうよ?遼ちゃんはまだ十七歳よ。職業、女子高生。」
「……なァッ」
 薄い笑みを浮かべてサクサクと遼が告げた言葉に、千景は言葉を失った。
 この差は。佳乃は頭が良いと誉められ、そして千景は老けると脅され。
 千景は反論も出来ずに打ち震えるのみだった。
「家族は両親が健在。気が向いたら家に戻ってやってもいいけど、あんまり好きな人達じゃないし、いないことにしておいてもいいよ?それからここに来た経緯は、避難命令が出たっていうから野次馬根性で隣の廃ビルから見てたわけ。そしたらHappyに連れて来られちゃってね」
 遼は千景が急かすまでもなく、問われるであろう内容を先回りして述べた。
「わぁ、遼ちゃんってば偉いねぇ。千景ってしょっちゅう脱線するから、こうやって言ってもらえるとお仕事も早く終わって助かるよ」
 佳乃がにっこりと笑みながらノートに記していく様子を、千景は未だに打ち震えながら眺めていた。
 誰のせいで脱線すると思ってるのよ……と言いたかったが言わなかった。つい乗ってしまう自分の性格も悪くないとは言えないからだ。結局そんな葛藤を、はぁ、と溜息に乗せて吐き出したが、ふっと目の端に入った佳乃作の調書に、更に「ブッッ」と吹き出し、ほんの少し酸欠になった。

『名前:三宅 遼(ミヤケ・ハルカ)
 年齢:17歳
 職業:女子高生
 家族:お母さんとお父さん(仲良くないみたい)
 備考:千景よりも大人っぽくて優秀な高校生』



「ち、ち、ちちち、千景よりもって……!!」
「次、あたしの番だよね?名前言っていい?」
 ガクガクと戦慄きながら千景がノートを指差すも、佳乃は不思議そうに「う?」と首を傾げる。
 そして冴月も千景の様子など気にもせずに、勝手に話を進めていた。千景はほんの少し厳しく感じる世の中の風当たりに切ない気持ちになりながら、唇を富士山型に曲げてコクンと頷く。
「名前と年齢と職業……」
「はい!名前はね、蓬莱冴月(ホウライ・サツキ)。逢う来るに草冠ね。サツキは冴える月って書くの」
「ふぅん、綺麗な名前ね」
 今度はわかりやすい、と頷きながら千景は佳乃を見遣った。
 佳乃は『蓬莱冴月』と書いている――千景はそこで勝利を確信し、口を開こうとした。しかし。
「婦警さん、ちゃんと漢字知ってるね。“あうくる”って言うとたまぁに、人に“会う”のあうっていう字に草冠つけちゃう人がいるんだよ。そんな字ないのにねぇ」
「ホウライって言われれば普通これだよ。そんなおバカさん滅多にいないでしょぉ」
 そんな冴月と佳乃の会話に、千景は口を半開きにしたままで動きを停止していた。
 言えない。言える訳がない。今まさに二人が言っているおバカさんが自分だなんて。
 その時ふっと、千景と、千景の目の前に座っている遼との目が合った。遼は「ふ」と鼻で笑って、薄笑みのままで目を逸らす。その瞬間、佳乃が書いていた『千景よりも大人っぽくて優秀な高校生』という言葉が誤りではないと、千景自身気付いてしまった。千景はちょっぴり泣きたくなったが、「千景泣かない。女の子だもん」と心の中で繰り返して、ぐっと堪える。
「年齢は十六歳。職業は無職かなぁ。保護者もなし、小さい頃から一人だったよ。それと、ここに来た経緯は遼と同じね。」
 冴月もまた、千景に問われる前に全てを答え終え、「おしまい」と一つ笑んだ。
 そこはかとなく敗北感を感じながら「宜しい」と千景は頷き、次の人物を呼ぼうとして、ふと止めた。
「……冴月ちゃん?もしかして、怪我、してない?」
 眉を顰めて千景が見つめるのは、七部袖から伸びた冴月の左手首。先ほどの戦闘で返り血を浴びているからか、確かにそこは最近傷だらけになったようにも見えた。
 冴月は小さく首を横に振り、
「これは……なんていうか。古傷みたいなもん」
 と誤魔化すように笑って、ガタンと席を立つ。
 千景は尚も聞きたそうにしたが、その腕をぐっと佳乃が握った。千景が佳乃と視線を合わせれば、佳乃は弱く微笑んで、ぽんぽん、と宥めるように千景の手を撫でた。

『名前:蓬莱 冴月(ホウライ・サツキ)
 年齢:16歳
 職業:無職
 家族:なし
 備考:落ち着いた感じの女の子。(自傷癖があるみたい?)』



「……んーと、それじゃ次は、不良少女行っとく?」
 千景は尚も気にするように冴月の手首にちらちらと目を向けていたが、あまり気にするべきじゃないと自分でも判断したのだろう。すぐに気を取り直したように、部屋の隅でじっとしていた不良少女――伊純に声を掛けた。
「黙秘権があれば行使してやりたいところだな」
 やれやれといった様子で伊純はテーブルに近づき、どかっと腰を下ろす。じろ、と千景に厳しい視線を送っては、ふと動きを止めた。それは、千景が浮かべる満面の笑みに怯んだからだった。
「会いたかったわよ、い・ず・みぃー?」
「……何、言ってんだ?お前のことなんか知らねぇ」
「あんたは知らなくても、私はあんたを逮捕したくてしたくて……」
「逮捕……?」
 伊純はその言葉を聞くや否や席を立とうとしたが、突如背後から思いっきり体重を掛けられた。怪盗Happyこと、都。彼女もまた逃げそびれた人物だ。
「私が逃げらんなかったのに、不良少女が逃げるなんて許さなーい」
「ちょっと待て、その考え方は偏ってると思うぞ」
「うっさい。大人しく自供しなさい!」
 先ほどのしどろもどろのHappyはどこへやら。きっとHappyは自分に甘く他人に厳しく、そんな性格だ。
 伊純は背後から掛けられる言葉に怪訝そうな顔を浮かべた後、裏肘で思いっきり都を突いた。
 言葉なく後退る都を見遣るでもなく、伊純は腕を組みなおして千景を見据え、言った。
「どうせさっきのHappyと同じで、証拠も何もないんだろう。」
「……まぁね。残念だけど現時点での逮捕は不可能ね。」
「なら問題ない。――名前は、佐伯伊純(サエキ・イズミ)。漢字ぐらい知ってるな?」
 そんな伊純の問いと共に、千景と伊純、二人の視線が佳乃に向けられた。
 ……こく、……こく、……こく、…………ガツン!!
 うとうとと舟を漕いでいた佳乃が、突如机に突っ伏せたかと思えば、涙目になって顔を上げる。
 額を押さえつつ、「な、なぁに?」と状況が掴めていない様子で辺りを見回した。
「寝てるし!」
「頭打ってるし!」
 伊純と千景が思わず声を上げれば、佳乃はきょとんとした表情の後、首を傾げる。
 そして、ぽむっと手を打ち、転がっていたペンを持ち直した。
「さえきいずみちゃん。イズミのイって、伊東さんの伊だよね。」
「伊東さん……間違ってはない……」
 伊純はどこか悔しげに肯定し、「伊東か……」と呟く。
 そしてまた首を捻ったりしながら、名前が綴られていく様子を眺めていた。
「さすがの不良少女も佳乃のペースには巻き込まれるみたいね。……で、年齢と職業、その他諸々。」
「え?あ、あぁ……年齢は十七。職業、無職。」
「ふむふむ。家族はいたの?」
「いや。施設育ち。……で、追い出された。」
 千景の言う通り確かに佳乃のペースに巻き込まれてはいるようだが、それでも淡々と言葉を返し、「じゃあ経緯」と千景に問われれば伊純はふっと目を逸らす。
「別に理由はない、けど。たまたま通りかかったら外人がたくさんいたから……」
「……たくさん、殺せる、と?」
 ぽつりと続けた千景の言葉の直後、バシッ、と音を立ててノートの角が千景に襲い掛かった。
「千景、どうしてそんなこと言うのかなぁ。伊純ちゃんは助けてくれたんだよ」
 膨れっ面でノートを広げ直すのは佳乃だった。千景は何も言えずに叩かれた頭を押さえ、僅かに眉を寄せる。伊純はどちらの言葉を肯定するでもなく、ガタンと音を立てて椅子から立ち上がった。
「言っとくけど、指図されるのは真っ平だからな。――今回のことだって、てめぇらが避難命令なんか出したから人が死んだようなもんだ。……なぁ、無能な警察サン?」
 クッ、と薄い笑みを向け、そうして伊純はテーブルから離れていく。
 千景と佳乃はその背中を見つめた後、表情を曇らせて顔を見合わせた。

『名前:佐伯 伊純(サエキ・イズミ)
 年齢:17歳
 職業:無職
 家族:なし(施設育ち)
 備考:街で有名な不良少女(ホントは良い子だと思うんだけどなぁ)』



「佐伯さん……」
 もう一人、その背中を見つめていた人物がいた。『戦争反対』のプレートを手にした女性、和葉だ。
 どこか悲しげな表情で、首を小さく横に振り、
「……誰かが悪い、わけじゃない……」
 独り言のようにぽつりと零しては、自らの身体についた他人の血液を見遣り、きゅっと唇を閉ざす。
「和葉ちゃんだったわね。……座って」
 千景はそんな和葉に呼びかけ、対面の席を示した。和葉はすぐに顔を上げて「はい!」と頷き、椅子にちょこんと腰を下ろす。おずおずと二人を見ては、「お願いします」と頭を下げた。
「そんなに緊張しなくても、逮捕しようってわけじゃないんだから。名前と年齢と職業、お願い。」
 和葉が落ち込んでいる様子は、千景にも伝わっているのだろう。千景はいつも以上に優しげな口調で問い、微笑んだ。「あたしらの時とはえらい違いだよー」という遼のぼやきには、ギロリと睨みを利かせるが。
「名前は五十嵐和葉(イガラシ・カズハ)と言います。五十の嵐に、平和の和に、葉っぱの葉です。」
「わかりやすい!!」
 和葉の自己紹介に、千景は感動すら覚えて手を合わせた。千景にも間違えようがない、単純でわかりやすくて素晴らしい名前だ。しかしそんな感動の一方で、佳乃は和葉に言われた通りの名前を記しつつ「いいから早く進めようよ」と急かす。そのつっこみに千景はやはり世間の風当たりの厳しさを痛感するのだった。
「年齢は二十二歳。職業は……その、普段は平和活動ばかりしてるんですけど……えっと……」
「うん?」
 口篭る和葉に、千景は軽く首を傾げて続く言葉を待った。和葉は一時目を伏せた後、
「嘘はいけませんよね……嘘吐きは泥棒の始まりですよね……」
 と、僅かに打ち震えながら呟く。幾人かの視線が怪盗Happyに向くが、当のHappyこと都は、「うんうん。嘘はいけないわね」と和葉の言葉に激しく同意していた。冷たい視線など気付きもしない。
 やがて和葉は決意したように、真面目な表情で告げた。
「実は私、風俗に……勤めて、ました。……生きていくためにお金が必要だったっていうのもあるし、その、だからッ……」
 衝撃の告白とばかりの口調に千景は圧されたが、少し考え込んだ後、「ちょっと待って」と首を捻る。
「それは別に、何も問題ないわよ。風俗嬢だから悪人だなんてこと、少しもないし」
 と千景は宥めるように言って「そんな身構えないで」と軽く笑んだ。内心では、この平和大好きっ子が風俗嬢というのもかなり意外ではあったのだが、それを口にするとまた誰かに怒られそうだ。
「和葉ちゃんも苦労してるんだろうしね。……じゃ、気を取り直して、家族と、ここに来た経緯を。」
「あ、はい!……えと、家族は今はいません。経緯は……」
 和葉は相変わらずどこかおずおずとした様子で、千景を見上げる。千景は和葉の視線を受けてしばらくきょとんとしていたが、ふと思い出したように手を打った。
「あぁそうだ、和葉ちゃんは私が連れてきたんだった。平和活動してる途中の和葉ちゃんを見かけて、バイクの後ろに乗っけてきたの。そうよね?」
 当人にも確認を取りながら、千景はそう告げた。佳乃はなるほど、と頷きながら調書に書き記していく。
「じゃあ和葉ちゃんはおしまい。次は……って、コラ佳乃ーーっ!!」

『名前:五十嵐 和葉(イガラシ・カズハ)
 年齢:22歳
 職業:フリーター(風俗)
 家族:なし
 備考:平和活動に燃える女の子。乾千景に拉致された』



「拉致じゃないわよ!拉致って……!」
「うー?でも間違ってはないんじゃないかなぁ……」
 千景の反論にも、佳乃はゆるりと首を傾げるだけだった。こうして不思議そうな顔で流されるのは千景と佳乃のいつものやりとり。結局、間違いを指摘できない千景がわなわなと打ち震えることになる。
 しかし今日は違った。クスクスと笑いながら「拉致ね」と佳乃の調書を覗き込む女性の姿。
 黒髪を後ろで結い、柔らかな笑みに目を細める。全員が返り血で血塗れな現在、一番血塗れ姿が似合わないのはこの女性ではないだろうか。ほんわかとした雰囲気を醸し出す、優しげな大人の女性だ。
「拉致の定義は、『無理やりに連れて行くこと』。……相応しい?」
 女性の言葉に、佳乃はきょとんとし、そして千景はぶんぶかと首を横に振る。そして拉致されたと書かれた和葉自身は「無理やりではないですね」と否定した。
 そのリアクションに女性はまた微笑んで、
「じゃあ拉致っていうのは間違い。帯同した、ぐらいが丁度良いんじゃないかな?」
 と、やんわりとした口調で正しい言葉を教授する。「帯同の定義は『一緒に連れて行くこと』ね」と、言葉の意味を付け加え、微笑む。そんな姿に、佳乃も千景も感心した表情を浮かべていた。
「あ、じゃあ物知りなお姉さん、次どうぞ。」
 千景はそう言って女性を椅子に促し、それから佳乃に向けて「タイドウ、ね?」と満面の笑みを浮かべた。
 佳乃は「はーい」と頷きながら、『拉致された』の一文を横棒で消し、『帯同された』と書き加える。
「はい。名前は高村杏子(タカムラ・キョウコ)。杏子はアンズに子どもの子ね。年齢、二十六歳。職業は小説家ってことにしておいて?自称だけどね」
 杏子はそう言って、また柔らかな微笑みを向ける。佳乃は彼女の言葉通りに名前の漢字を記し、「アンコさん」とぽそりと呟いた。「アンコさん」と千景もぽつりと復唱する。「アンコさん?」「アンコさん」と、なぜかその響きが感染するように、面々は口々に「アンコさん」と異口同音に彼女を呼んだ。本当は「キョウコ」なのだが、「アンコさんかぁ」「アンコさんって可愛い名前」と、既に間違ったインプットすらなされている気配である。
 呼ばれている当人はきょとんとして面々を見渡し、「タカムラアンコ……?」と自らも復唱していた。
「まいいや、えっと、杏子さんは小説家?」
 千景は仕切り直すように言った、が、やはり「アンコさん」と呼んでいる。杏子は若干複雑そうに小首を傾げたが、「まいっか」と微笑みを浮かべていた。当人がアバウトならば、名前の読みなどどうとでもなるものだ。
「そう、小説家。……もちろん、それでしっかり食べていけるものでもないけどね。本業は小説。」
「ふぅん、道理で物知りなわけだ。」
「それほどでも……」
 杏子は照れくさそうに微笑み、「唯一の取り柄かな」と小首を傾げる。
 既にこの時点で、彼女のことを「キョウコ」と思っている者はいない。彼女はタカムラアンコという名で大決定だ。杏子自身が間違いを指摘するか、佳乃が調書に書いたフリガナを思い返さない限り、そこに疑問の余地はないだろう。
「家族はね、十代の頃に災害に巻き込まれて死んじゃった。ここに来たのは避難のためね。住居と、商売道具のパソコンまで米軍に奪われちゃって、どうしようもなくなってたの。」
「ふむふむ、なるほど。災害に米軍に……ちゃっかり巻き込まれちゃったのね……」
 千景は小さく頷きながら杏子の話を聞き、佳乃が記していく調書を横目で見遣る。
 ふと、佳乃が先ほどから記している備考欄に疑問を抱く。
(警察の調書って、こんなんで良かったっけか……?)

『名前:高村 杏子(タカムラ・キョウコ)
 年齢:26歳
 職業:小説家
 家族:なし
 備考:のほほん物知りお姉さん』



「あ、そうだ。私達、お二人の名前をまだ知らないのよね。途中だけど、良かったら自己紹介して頂けない?」
 ぽむ、と手を打ちながら杏子が言った提案に、他の一同も賛同した。
 千景と佳乃は顔を見合わせ、「そう言えば」と今頃になって思い出したようだ。千景は一つ頷き、
「すっかり忘れてたわ。じゃあ私から」
 と、席から立ち上がって一同に一つ礼をした。
「私の名前は乾千景(イヌイ・チカゲ)。乾燥の乾に、千景は千の景色。年齢は二十四歳で、職業は見ての通り警官やってるわ。」
「千景って、むかぁしの大臣さんの名前と一緒なんだよね」
「……」
 なぜ佳乃は、そんなマイナーなことを知っているのだろうかと、千景は常々疑問だった。しかしそれは「佳乃だから」で解決する疑問でもあった。
「家族はなし。経緯は説明しなくてもわかるわよね。……以上。」
 簡潔な自己紹介を終え、「宜しくね」と軽く礼をして千景は腰を下ろす。尚も楽しげに「こくどこうつうしょうの」と昔の大臣を引っ張り出す佳乃を肘で小突くと、佳乃は「あ」と我に返った様子で、立ち上がった。
「うんと、私は小向佳乃(コムカイ・ヨシノ)って言います。歳は二十三歳で、千景のお仕事の後輩なのです。」
 にこりと微笑んで自己紹介をし、そして佳乃ははた、と動きを止めた。定例の漢字紹介に悩んでいるのだ。
 小向佳乃、と頭の中で漢字を浮かべ、首を捻りながら口を開く。
「小さいに、向かう……で、小向でしょぉ。それから、ヨシは……ええと、人偏に土二つのやつで、ええと……ノは……ええと……、の、乃木大将の乃?」
 誰!と、口には出さないものの殆ど者が心の中でつっこんだ。乃木大将と言えば日露戦争で活躍した有名な軍人ではあるのだが、現代日本国では、その人物を知識として知っている者とは歴史分野を深く深く修学した人物ということになる。要するに歴史マニアじゃないと知らないような名前だということだ。
 そして千景はようやく悟った。「佳乃ってもしかして歴史が得意だった?」
「え?……う、うん、歴史はなんか好きだったなぁ。時事関係って、どんどんお話が進むから苦手なんだけど、歴史は絶対に内容が変わらないからね」
「数学だって、絶対に法則は変わらないわよ?」
「そうなんだけどぉ……歴史っていっぱいあるでしょ?だからね、私、歴史をマスターするのに何年も掛かっちゃって、それで数学やってる暇がなかったんだよねぇ……」
「…………」
 佳乃は基本的にのんびりしている。そしてペース配分というものが凄く苦手だ。
 実に佳乃らしい、と千景は内心で納得しながら、「乃木大将ね……」と呟いた。
「うん、で、えっと、家族は両親と姉が健在です。ここには、上からの命令で皆さんの誘導にやって参りました。こんなとこかな?」
 佳乃は小首を傾げては、「うんうん」と自己完結したように頷き、「宜しくお願いしまぁす」と笑んで見せた。
 そうして腰を下ろすと、千景と佳乃、二人分の調書を記し始める。

『名前:乾 千景(イヌイ・チカゲ)
 年齢:24歳
 職業:警察官
 家族:なし
 備考:後輩苛めが盛んな姉御的婦警さん』

『名前:小向 佳乃(コムカイ・ヨシノ)
 年齢:23歳
 職業:警察官
 家族:お父さんお母さんとお姉ちゃん
 備考:先輩に苛められながら頑張る健気な婦警さ』




 佳乃が『ん』を書き終える前に、バコン!と小気味の良い音が響いた。
「いったぁぁぁい……」
「な、な、何が後輩苛めよ!!何が健気な婦警さんよ!!調書に偽りを書くのは罪なんだからね!!」
 千景が薄い携帯電話を手に、ぷるぷると打ち震えている。
 そして佳乃はと言えば、後頭部を押さえてこちらもぷるぷると打ち震えている。
 ……訪れる静寂。
 誰が最初につっこむのか、と。
 携帯電話で後頭部を殴るのも立派な罪だ、と。
 残念なことに、そんな猛者は現れなかった。少しの沈黙の後、ふと千景が我に返ったように顔を上げ、
「あ、ごめんごめん。事情聴取続けましょうか」
 と仕切りなおして手近にいた女性をチョイチョイと手招いた。
 呼ばれたのは、薄茶色のボブヘアに黒よりは茶に近い瞳、全体的に色素の薄い感じの女性。真っ白だったのだろうハイネックの上着は、今はべっとりと血液がついているけれど、彼女自身に怪我はないようだ。長い睫毛の瞳、パチパチと瞬いて千景を見つめた後、すっと椅子に腰を下ろした。
「……悠祈、水散(ユウキ・ミチル)。二十歳です。」
 水散はぽつりと名乗った後、おずおずと千景を見つめ、何か言いたげに唇を動かす。
 千景がそんな様子にきょとんとしていれば、水散は茶色の瞳を細め、こう言った。
「主は仰いました。右の頬を打たれたならば、左の頬をも差し出しなさい、と。……」
 千景はその言葉が暫し理解できなかった。携帯で打たれた頭を擦っていた佳乃は、ふと気付いたように顔を上げ、「叩く?」とノートを差し出す。佳乃は水散の言葉を理解したのだろう、柔らかな笑みを湛えて告げられた言葉に、千景は更にきょとんとするばかり。
「ごめんなさい、お二人の喧嘩が本気じゃないことはわかっているんです。ただ、昔聞いた言葉をふと思い出したものですから。……以前はシスターの元で、働かせて頂いていたんです」
 水散はそう言って、差し出されたノートにクスッと小さな笑みを零した。彼女はシスターと共に、子ども達の世話をしていた女性だ。心優しそうな柔らかな雰囲気も、以前と変わっていない。
 ノートを開き直し、「ユウキ、さん……」と漢字を書きあぐねている佳乃の様子に気付いてか、水散は慌てて補足する。
「悠祈は、悠久の祈り……水散は、水神の散れ。」
「あかれ……?」
「散る、という字を書きます。水神は散れ、世界は炎に包まれる――……昔の預言者の言葉なんです。」
「水散さんが生まれたのって、血の大晦日の後になるのかな?」
 佳乃は水散の言う漢字を忠実に書き記しながら問い掛ける。水散は首を横に振り、
「いいえ。血の大晦日から一年ほど前……二月生まれですから。預言者の言葉は真実になり、確かに世界は炎に包まれた。……皮肉な名前です」
 そう言って、弱い笑みを見せた。
 「ふぅん」と、佳乃も千景もどこか複雑そうな表情で感心し、そのまま口を閉ざしていた。
 どこか沈痛な雰囲気を作ってしまったと、水散は慌てて言葉を続ける。
「あの、それで、……えっと。職業は無職になります。平和だったら、私もシスターの後を継がせて頂く予定だったんですけど」
「それで、主が、って話が出てくるわけね。……じゃあ、家族は?」
「家族は血の大晦日の後、……母親だけが生き残ったのですが、彼女は私を育てていくことが出来ないほどの酷い怪我を負ってしまったらしいんです。それで、シスターに預けられて……今までずっと。」
「なるほどね。じゃあそのシスターが親代わりみたいなもんだ?」
「はい。私はずっとシスターのお力になれたらと、そう思っていたのですが……危険だから逃げて欲しい、と。シスターに言われて……それで、こちらに避難させて頂こうと思ったんです。」
「そっかー……」
 千景は水散の話を聞き終え、ふっと小さく息を漏らした。ゆるりと室内を見渡せば、自分も含めて十四名の女性の姿がある。その全員に、それぞれの経緯があって、それぞれの人生があり、それぞれがここにいる理由がある。そう考えるとなんだか途方も無く大きなものを背負っているような、そんな気がして息が詰まった。

『名前:悠祈 水散(ユウキ・ミチル)
 年齢:20歳
 職業:無職(最近まで教会で働いていた)
 家族:なし(幼い頃に教会のシスターに預けられる)
 備考:神様に近い女の子』



 外見的に、或いはその手にしている物が非常に目立つ人物、四名。
 金髪と散切りの黒髪が混じっている人物や、派手なピンク色の髪をしている人物、或いはギターや大きな鎌を手にしている人物――……一体どこから突っ込むべきかと、千景は思案する。どうにもこうにも、全員が取っ付き難い雰囲気を持っているのだが、そんなことで躊躇をしているわけにもいかない。
「じゃ、じゃあ……えっと、鎌のお姉さん。」
 つい先ほど、思いっきり怒鳴られたばかりの相手ともあり、千景はどこか逃げ腰だった。そんな態度に冷たい眼差しを向けながら、鎌の女性は椅子にすとんと腰を下ろす。
「真田命(サナダ・ミコト)、十九歳。戦場の死体から備品を調達して、それを売っ払って食ってる。」
「……犯罪、ですけど」
「そんなことしなきゃ生きていけないんだから、仕方ないでしょ?」
「まぁ、ね……」
 千景が逃げ腰な理由はもう一つあった。先ほどから命は決して鎌を手放さない。対面して座っている今、その切っ先は非常に至近距離にあるのだ。
「っていうか、ミコトさん?お願いがあるんですけど……」
「お願い?」
「一つは佳乃に名前の漢字を教えてやってほしいこと。もう一つは……その鎌、下ろしてくんない?」
「……あぁ」
 命はようやく気付いたといった様子で、パチンと鎌の中央を折りたたみ、器用に小さく収納していく。
 鎌って折りたためるんだ、と妙なことに感心しながら、千景は内心安堵の吐息を零した。
「真田はわかるでしょ?真実の真。……ミコトは、イノチっていう字。」
 命はつまらなさそうに頬杖を付いて、佳乃にそう説明した。
 「命……?」と、感心したような声は、意外なところから上がる。声の主はたった今事情聴取を受けたばかりの水散だった。命と目が合えば、「素敵な名前ですね……」と、弱く笑んで見せた。
 冷たい表情を浮かべていた命は、その時ようやく笑みを見せる。
「ありがと。水散さん、だったわね?貴女も綺麗な名前。」
 そう返された言葉に、水散はどこか照れくさそうにはにかんだ。
 幾分表情の晴れた命は、視線を千景へと戻し、「次は?」と先を急かす。
「あ、えっと、家族とここに来た経緯を……」
 千景は慌てて言っては「お願いします」と畏まった言葉を付け加える。五つも年下の少女だというのに、どうにもこうにも怯えが抜け切らない。
「家族は知らない。十四の時に家出してね、それ以来疎遠なの。死んでるかもしれないわね。」
 命はあっさりとそんな言葉を口にし、「経緯は……」と軽く考え込む。
「――……退屈だったから、かな。」
 ぽつ、と零された言葉。その後で命はガタンッと席を立ち「もういいわね?」と確認するように問い掛けた。
 そんな命を、千景は少しの間見上げて、「あと一つ」と小さく言葉を掛ける。
「……凄い返り血ね。」
「え?……あぁ、これ?」
 命は怪訝そうな表情で、黒い服や髪にべったりとこびりつく凝血に触れた。
「鎌は拳銃やナイフに比べて、明らかに返り血が多い武器。それだけが唯一の欠点ね。」
 簡潔に説明した後、「くだらない」と零すように吐いた言葉はかろうじて千景の耳にも届いていた。
 それ以上の追求を許さないようにテーブルを離れていく命を、千景はじっと眺めてから、ちらりと佳乃に目を遣った。佳乃は調書の「備考」の欄に何を書くか迷っているようだ。
「貸して」
 と千景は佳乃からペンを取り上げ、備考欄に文字を記した。

『名前:真田 命(サナダ・ミコト)
 年齢:19歳
 職業:フリーター(死体の武具拾い)
 家族:疎遠(14歳の頃に家出)
 備考:鎌を装備。人を殺すことに抵抗ナシ?』



「……千景」
 佳乃が表情を曇らせて千景の袖を引く。どこか悲しげな視線を向けては、小さくかぶりを振り、
「警察は、何事も公平に、だよ。……冷静になってね」
 と、それだけを一方的に告げ、千景からペンを取った。
 そうしてすぐに顔を上げると、「次はギターのお姉さん行っちゃいます?」と明るい口調で投げ掛ける。
 そんな佳乃の様子に、千景は微苦笑を浮かべ「了解」と呟いた。
「ギターのお姉さんは私だけよねッ?はい、志水伽世(シミズ・カヨ)、いざ事情聴取参りますッ!」
 千景の不安感をも吹き飛ばすような明るい調子で、ギターを手にした女性が席につく。ニッと浮かべた笑みと、ふわふわと頭の後ろで揺れるくるくるパーマのかかった髪と、大人っぽさを醸し出す口元のホクロと。また妙な人物だと、千景は弱く笑みを浮かべながら向かいに座る女性を眺めた。
「カヨさんね。えーと、どんな字ぃ書くの?」
「シミズはね、志しに水っていう字。カヨは……人偏に加えるって書いて伽。ヨは世界のセ、ね。」
「うーわ、説明上手ですねぇ……」
 佳乃は感心したように、説明された字を調書に記していく。「あんたが下手なだけだってば」という千景のツッコミに、「う。」と口篭ったりもしつつ。
「二十三歳のミュージシャン。」
「ミュージシャン。」
「そう、ミュージシャン。」
「………」
 職業が「ミュージシャン」というのは前代未聞だ。千景は「ミュージシャン」と今一度復唱する。
 杏子の小説家というのも結構なものなのだが、ミュージシャンはそれを上回って非常識だった。この時世、エンターテイメントの世界で生きている人間はそうそういない。
「それって、食べていけるものなの?」
 率直な疑問とばかりに千景が問えば、伽世はにっこりと笑んで頷いた。
「モチロン。アメリカ人は音楽に乗ってくれる人多いしね。音楽は世界共通の文化なのよ。」
「へーぇ……私もなんか歌おうかな」
「才能と努力と音楽が愛する心があれば、ゼヒ」
「……」
 千景は少し考え込んだが、結局諦めることにした。努力と愛する心は何とかなるかもしれないが、生まれ持った才能ばっかりは今から用意できそうにもない。
「才能はやっぱり力になる。私を産んでくれた両親に感謝よね。……死んじゃったけどね。」
「私も両親には……うーん、才能を何かくれたかどうかは微妙だけどなー……。あ、他に家族は?」
「いないいない。結婚してます、ぐらい言えたらいいんだけど」
「何言ってんの、たかが二十三でさぁ」
 まるで昔からの知り合いのような二人の会話。佳乃は微笑ましく眺めていたが、ふぁ、と小さく欠伸を漏らしてからハッと気付いたように手を打った。
「千景ぇ、そんなのんびりお話してる場合じゃないよぉ。私も眠たい!」
 佳乃が「も」と言っているのは、既に部屋の壁に寄りかかって目を瞑っている人物がいるからだ。ピンク髪の少女が、くーくーと寝息を立てている。遼と冴月もその近くの壁に背を寄せ、今にも眠りそうな勢いだ。
「あ、ごめんごめん。じゃあ最後に、ここに来た経緯ね。」
「はーい。東京って殺伐としてるのね。最近こっちに来たばっかりなんだけど、なかなか音楽に耳を傾けてくれる余裕がある人いなくってさ。ちょっと食い扶ちがヤバくなってきたから、避難してみたの。」
「あぁなるほどね。……じゃ、今度聞かせてよ。その自慢の歌声ってやつ。」
「オッケー。期待しといてね。」
 伽世はパチリとウィンクを飛ばし、席を立った。殺伐としている人もいれば、伽世のようにあっけらかんとした人もいる。本当に様々だと、千景は室内を見渡して、軽く頬杖をついた。

『名前:志水 伽世(シミズ・カヨ)
 年齢:23歳
 職業:自称みゅーじしゃん
 家族:なし
 備考:ギターでじゃかじゃか路上らいぶ?』



 佳乃の書く調書にひらがなが目立ってきたのは、佳乃が眠たいからだろうか。カタカナもひらがなも画数は大差ないのだが、気分の問題なのだろう。
 ふわー、と欠伸を漏らすのも佳乃だけではなく、この場にいる殆どの人物が眠たげな様子を見せる。千景も欠伸を噛み殺しながら時計を確認した。時刻は間もなく朝六時になる頃、昨日からずっと起きっぱなしの面々は、眠さがピークに達していた。
「も、もうひと頑張り……そこの、金髪みたいな感じの……ビーズくっつけたお姉さん」
「……ぁ、はいっ」
 呼ばれた女性、反応が少し遅れたのは、慌てて欠伸を噛み殺したからだろう。少し恥ずかしそうに口元を覆いながら、千景の向かいに腰を下ろした。
 向かって右側の髪は美しい金髪で、左側は散切りの黒髪。後ろから見ると、金色と黒色とが混ざって不思議なことになっている髪形だ。金色の髪の方には、幾つかの赤いビーズがぶら下がっている。
 この女性は、以前に北海道市核爆弾被害の碑の前で涙を流していた人物だった。あの時よりは幾分しっかりとした様子だが、どこか伏せ目がちで弱々しい印象を受ける。
「えと……飯島未姫(イイジマ・ミキ)と言います……。」
「飯島さんね。ミキはどんな字?」
「未来の未、に……ひめ、です」
 ぽつぽつと零すような口ぶりで、未姫はそう紡ぐ。「綺麗な名前ですよねぇ、未姫さんって」と佳乃の言葉にも、未姫は弱々しく微笑むだけだった。
「年齢は、二十四歳で……職業、は……なんでしょう?……なんにもしてない、です」
「じゃあ無職で良い?」
「……多分」
 未姫は、こく、こく、と頷いて、小さく首を傾げては、再度こく、と頷いた。
 挙動不審とも言える仕草に、千景は少し不思議に思いながらも事情聴取を進めて行く。
「家族は?」
「死にました。」
 即答されて、千景はふっと言葉を失う。
 未姫は思い詰めたような表情で顔を伏せ、「三年前に」と付け加える。
「そっか……。じゃあ、ここに来た経緯を教」
「あ、あの!」
 千景の言葉を遮るように、どん、と未姫が身を乗り出す。
 何か言いかけたように唇を開くが、その先の言葉が出ない。
「……未姫さん?……そんな不安そうな顔、しないで。大丈夫だから。」
「ご、ごめんなさい……核爆弾、で……あぁ、そうじゃなくて、私……」
 支離滅裂な言葉の中、「核爆弾」というキーワードで千景はようやく理解する。
 三年前に死んだ彼女の家族は、恐らく北海道市に投下された核爆弾によって命を落としたのだろう。
 千景はそっと未姫の肩に手を伸ばし、落ち着かせるようにぽんぽんと撫でた。未姫は僅かに身体を震わせたが、何度か呼吸を繰り返し、やがて落ち着いた頃に言葉を続ける。
「……PTSDって、ご存知でしょうか。」
「PTSD……?」
 最近聞いた気がする、と千景は首を捻る。佳乃も同じような様子だった。
「posttraumatic stress disorders……心的外傷後ストレス精神障害。いわゆるトラウマのようなものよね」
 横槍を入れたのは物知り小説家の杏子。いつものののほんとした表情ではなく、どこか真面目な眼差しで言って「最近増えているらしいわね」と付け加える。
 未姫はこくんと頷きながら「トラウマです」と小さく零し、目を伏せた。
「……核爆弾。あの時のショックで、PTSDと呼ばれる精神障害に陥ってるんです。……だから、私……皆さんに、ご迷惑をお掛けしてしまうかもしれない……」
「あぁ、そういうことか」
 千景はようやく合点がいったと頷き、その後で小さく笑んで見せた。
「心配しないでいいわ。こうして保護した以上は、責任持って面倒見るから。迷惑なんて、いくらでもかけちゃってよ。ね?」
「……」
 未姫は尚も不安げな表情で千景を見つめた後、じわりとその瞳に涙を滲ませる。
「私……私、もう、誰もいないんです……助けてくださ……」
 そう言葉を零す未姫の髪を、ふわりと撫ぜる細い指先。千景が顔を上げれば、「大丈夫よね?」と目を細める杏子の姿があった。杏子は未姫の顔を覗き込み、
「婦警さんが見捨てても私がついてるわ」
 と冗談めかして微笑んだ。
「こら、未姫さんを面倒見るのは私らだっつーの」
 千景は杏子を見上げて頬を膨らませた後、未姫に向き直って「大丈夫」と真っ直ぐな笑みを向けた。
 そんな二人の言葉に、未姫はようやく小さな笑みを点らせた。
「……ありがとうございます。」
 か弱い女性に向けられる、幾つもの眼差し。理解か、共感か、同情か、或いは蔑みか。
 けれど少なくともこの二人――千景と杏子は、心の底から理解者になってくれる、と。
 未姫はそう信じて疑わなかった。故に微笑んだ。
 ようやく身を委ねるべき場所を見つけた、安堵の微笑みを見せた。

『名前:飯島 未姫(イイジマ・ミキ)
 年齢:24歳
 職業:無職
 家族:なし(2098年の北海道市核爆で他界)
 備考:精神障害・PTSDを発症している』



「……あと二人、なんだけど」
「寝ちゃってるねぇ……」
 千景と佳乃の視線の先には、壁に寄りかかってすやすやと安らかな眠りにつく少女の姿があった。小さな身体を丸め、柔らかそうなピンク色の髪が頬に掛かっている。絶対に起こしてはいけないような、可愛らしい寝顔だった。
「保護者が代理じゃだめかしら。」
 少女の隣にいた女性が、ツカツカと千景達のいるテーブルに歩み寄る。すらりとした長身に、切れ長な瞳に眼鏡。少しきつい感じの美女は科学者であり、血のついた白衣を羽織っている。
「いいっすよ、この際。お掛け下さい。」
 相手が明らかな年上だからか、千景は珍しく敬語を使ってそう促した。女性は席につくと自然に足を組み、
「まずは私から自己紹介するわね。珠十六夜(アカイシ・イザヨイ)……」
「あかいしさん。」
「こういう字よ。」
 十六夜はテーブルに指先を滑らせ、王と朱という字を書いてみせる。
「王朱」
「じゃなくて、珠。一文字の方」
 佳乃もわからないほど、珍しい名字だ。
「あぁ、普通はタマって読むやつですね」
 ようやく合点、と佳乃は名字を綴り、続いて「イザヨイ?」とまた首を傾げた。
「ジュウロクヤと書いて十六夜。」
「ほぇぇ、格好良い名前ですねぇ」
 名字と名前の漢字がわかると、綴った文字を見て感嘆の声。千景も佳乃が綴った調書を覗き込み、「へぇ」と声を上げた。
「十六夜さんですね。……あの子の保護者、って言ってましたよね?」
「ええ。」
 千景はすやすやと眠り続けるピンク髪の少女に目を向けた後、一時黙り込む。
「親じゃないわよ。」
「……え。」
「私のこと、幾つだと思ってるのかしら?」
「……あ、いや」
「あんな子どもがいる年齢とでも?」
「……」
 にっこりと笑みを浮かべる十六夜に、千景はまたも黙り込む。母親なのだろうかと思っていたのは事実だった。よく考えれば、確かに年齢的に厳しい気もしなくもないが、母親と言われていればそれで納得しただろう。
「二十九歳、科学者。子どもはいません。旦那もね。」
「は、はい。ごめんなさい」
「どうして謝るの?」
「……」
 千景と十六夜は暫し見つめ合った後、「コホン」と同時に咳払いをした。
「千咲……あぁ、あの子のことね。米倉千咲(ヨネクラ・チサ)。チサは、数字の千に咲くという字を書くわ。あの子はただ預かっていただけなのだけれど、私の研究室兼自宅を米軍に占拠されてしまって、どこか落ち着けるところを探していたの。そして避難令を聞いたからこちらにお邪魔したわけね。」
「ふむふむ。十六夜さんと千咲ちゃんは親戚か何か?」
「いえ……ちょっとした知り合いよ。私は一人身、千咲は預かった時にはご両親が健在だったのだけど、亡くなって……今は一人ね。後々、私の元から離れる予定ではあったのよ。これだけ治安が悪化するとは思わなかったから、今後のことは考えていないけれどね」
「預かってるだけ、かぁ。」
 なるほど、と頷きながら、千景は調書を埋めていく佳乃を見遣る。大体の内容は今の話で把握できた。ただ一箇所だけ埋まっていないことに気付き、千景はちらりと千咲に目を向けた。
「千咲ちゃんは幾つ?」
「あぁ、千咲は十五歳。一応中学生ということになるわね」
「十五?……もっと若いかと思った」
 身長が低いからか、或いは幼げな顔立ちからか。千景の言葉には佳乃も同意していた。
 よく考えれば妙な二人だ。二十九歳の美人科学者と、幼げな十五歳の中学生、接点など見当たらない。
 更につっこんで聞いてもみたかったのだが、周りからは「この事情聴取が終われば眠れる!」というオーラがひしひしと伝わってきていた。千景はふっと吐息を漏らし、「私も眠いしね」と内心で呟く。
「オッケー。それじゃあ事情聴取は全員おしまい。」
 そう言って千景が笑むと、殆どの者がほっとしたような表情を見せたのだった。

『名前:珠 十六夜(アカイシ・イザヨイ)
 年齢:29歳
 職業:科学者さん
 家族:なし
 備考:千咲ちゃんの保護者さん』

『名前:米倉 千咲(ヨネクラ・チサ)
 年齢:15歳
 職業:中学生
 家族:なし(最近ご両親が他界)
 備考:ピンクの髪の女の子』












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