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2100年12月31日、午後23時55分。 世界中を震撼させた大地震の日、『血の大晦日』から二十年の年月が過ぎた。 東京市は――否、地球全体が、二十年前に存在していた人類の進歩や科学を、見る影もなく失っていた。 閑散とした街。うっすらと霧のようなもので濁る空気。建物が崩壊し、そのまま放置された瓦礫の山。人影はなく、時折カサカサと地を這って行くネズミぐらいしか、目立った生命体はない。 吹き荒れるのは冷たい風。聞こえるのは物悲しい風の音。見えるのは灰色の景色。 けれどそこは確かに、二十年前には明るく賑やかだった渋谷709の前であった。 あの大地震で709は崩壊し、今ではその跡地に二階立ての建物が一つ、ポツンと立っているだけだった。 廃墟にも似た建物は、やはり人の気配はなく、建物の所々にひびが入っている。 その時。静寂と濁った空気の向こうから、それを破る音が近づいて来た。 ウゥー…… 遠くから微かに。それは次第に音を増し、けたたましく辺りに鳴り響くサイレン。 冷たい空気にピリピリと響き渡る音が、辺りを震わせる。 少しして、その音源である一台の小さな車が姿を現した。 荒れた道を、土煙を上げてかなりのスピードで走ってくるその軽乗用車は、白と黒の塗装が施され、車の上には赤いランプが光っている。いわゆるミニパトというやつである。 「……で、どんな事件だって?」 荒々しい運転をしながらそう問うのは、少し切れ長の瞳の女性。肩までの黒髪をばらしている。どことなく粗野な印象を受ける。年齢は二十代半ばといった所だろうか。 「えっと、3丁目で喧嘩。人数ははっきりしてないけど、大した数じゃないと思うよ。」 助手席に座る女性はそう答えた。 鎖骨より長い程度の美しい薄茶色の髪を緩く結っている。たれ目がちだが、その瞳には意志の強そうな光が灯る。隣の女性と同じく、二十代半ばほどに見える。 二人は紺色の婦警の制服に身を包み、その腰元にはそれぞれの拳銃が顔を覗かせる。よく整備されているように見える二人の拳銃。中には銃弾もしっかりと詰め込まれていた。 しかしこの時世、たかが拳銃ごときで安心はできない。理由は、日本の銃刀法が改定され、今は米国と同じように一般人でも拳銃や刀の所持を許されているからだ。 自己防衛のためという形で改定された銃刀法だったが、それによって犯罪が急増しているのも事実だった。 日本国民が自己防衛を必要とする理由。それは「戦争中」だからである。 世界的な均衡の崩れた地球では、国際平和条約、国連といったものも、意味を為していなかった。 血の大晦日から始まり、地震に引き続いて起こったさまざまな災害(火山噴火・巨大台風・地盤沈下・飢饉など)で、国家的な力が弱まった各国。それを一番に恐れたのは世界一の大国である米国だった。 米国は他国の侵略を恐れ、また別の目的も持ち、日本国を攻めてきたのだ。 唯一所持していた核爆弾を切り火にし、士気の落ちた日本国へここぞとばかりに大軍を送り込んできた。 島国日本国。その主要港は占領され、米国軍の猛攻は日々着々と進んでいた。 日本国の災害による被害は大きく、人口は見る見るうちに減り、今や兵力など殆ど残っていない。 何故、米国が弱小国家日本国に戦争を仕掛けたのか。その理由を知る者は数少ない。日本国国家と、日本国へ戦争を仕掛けた米国の国家のみであった。 米軍の兵士の多くは、その理由を知らず、生きる糧を得るためだけに戦争に参加しているのだ。 目的も不透明な米軍の強襲に、日本国国民は怯えていた。 しかし国民のわずかな期待も空しく、日本国国家は沈黙を守るのみだった。 パトカーは、治安の悪いとされる地域へと向かって行く。 治安が悪い――裏を返せば犯罪を起こす人間はいる、その地域。先ほどの709前とは違い、ちらほらと人間の姿が見えた。好奇の視線でパトカーを眺める者、警察に怯えるかのようにそそくさと逃げていく者。反応は様々だが、共通しているのは、皆裕福そうな身なりではないということだった。 「あそこだね!」 パトカーの助手席に座る女性は、人間数人が固まっている街角の一角を指差し言った。 「オーケィ。」 運転席の女性は一気にアクセルを踏むと、急ハンドルを切り、車体を軋ませつつ横滑りの状態で人間が数人集まる場所へと車を寄せた。そんな荒々しい運転に怯むこともなく、助手席の女性は颯爽と車から降り立った。 「警察です!」 胸ポケットから取り出した手帳には、鈍く輝く日本国警察の紋章が見える。 警察手帳をその場にいる数人の人物に向けながら、改めてその数人を見る。 男が三人。何れも人相の悪い男達のうち二人がナイフを所持し、そのうちの一人は腕から血を流していた。 そして、その三人に囲まれるように女が一人。女も腕や顔の数箇所から血を滲ませながらも、鋭い瞳でナイフを構えている。女性――…否、少女と言うべきだろうか。 不良じみた雰囲気の少女は、警察の二人に鋭い視線を投げかけた。 そんな視線に気付いているのかいないのか。助手席から降り立った婦警は小さく眉を寄せ、 「3対1!?なんて卑怯なの!」 キッ、と男達を睨みつけ、すばやく拳銃を構える。 その銃口は、明らかに少女を囲んでいる悪者と思しき男たちに向けられた。 「ま、待てよ、婦警サン。」 男達は困惑した様子で、互いの仲間を見遣っている。そんな様子に益々表情を険しくし、 「撃つわよ!死にたくなかったら、こんな事二度としないと誓った上で去りなさい!」 と、よく通る声で婦警は告げた。 「チッ。おら、行くぞ。」 リーダー格らしき男が舌打ちして言うと、二人の男性は婦警と少女に白眼視を向けながら、ぞろぞろとその男について行く。 男達の姿が見えなくなったところで、頬に掛かった薄茶の長い髪を耳にかけながら、婦警は少女に声をかけた。 「大丈夫?怪我、手当てしようか?」 「………。」 少女は首筋から流れる一筋の血を手の甲で拭いながら、何も言わず、警官二人に背を向けた。 「待って……。ね、歳は幾つ?保護者はいるの?」 問いを重ねる婦警に、小さく肩を竦めた少女は振り向くと、冷たい瞳で婦警を睨みつけた。 「うるせーよ。ほっとけ、バカ。」 少女は吐き捨てるように言うと、そのまま婦警に背を向け歩いていく。 「ま、待ってよぅ!」 婦警は少女に駆け寄ろうと一歩踏み出した、しかし、 「佳乃、行くよ!」 と、運転手の婦警はそう言い放ち、車に乗り込んだ。 「え?ちょ、ちょっと!そんな…」 佳乃(ヨシノ)と呼ばれた婦警は慌ててパトカーに戻り、助手席に乗り込む。 運転席の女性は喧嘩の現場であった場所に一旦目を向けた後、すぐに車を発進させた。 少女はそんなパトカーを一瞥し、すぐにまた背を向け、歩き出す。 「……千景、どういうことなの?子供を放っておくなんて。」 少し怒った様子で、佳乃は言った。 「あんた、知らないワケ?」 「何を?」 千景(チカゲ)と呼ばれた運転席の女性の言葉に、佳乃は小首をかしげる。 「あの子。この辺では有名な不良だよ。何人殺してんだか…ってね。」 「……不良?」 「佐伯伊純(サエキ・イズミ)。歳は十七かそこらだったかな。裏で色んな犯罪に手ぇ染めてるって言うけどね……一般市民にはそうそう手は出さないし、警察側としてはまだ逮捕には踏み切ってないんだけど。」 その言葉に、佳乃は小さく眉を顰め、少女の姿を追って後ろを振り向く。 千景は佳乃につられてバッグミラーで後ろをチラリと見遣った後、その姿がないことを確認し、 「関わらない方が賢明ッ。」 と断言した。 「……うー、そうかなぁ…?」 それでも尚引き下がらない佳乃に、 「ったく、その変に強すぎる正義感、どうかした方がいいんじゃないの?」 と、千景は鼻で笑って言う。 「……。」 佳乃は不満そうだったが、言葉を返すことはせず、ぼんやりと車から見える外の景色を眺めていた。 「……おっ。」 しばしの静寂の後、千景が口を開いた。 「……なぁに?」 「日付、変わってる。」 車に付いた電光ディスプレイの時刻は、24時を過ぎてから20分経過していることを示していた。 「あ、ホントだぁ。2101年かぁ。今日から22世紀だね……。」 「うん。あけましておめでとう、今年も宜しく。」 「千景、全然おめでたそうじゃないよー……。」 「……まぁね、言ってみたかっただけ。」 「今年はどんな年になるのかなぁ……。」 「日本国の歴史が終わる、記念すべき年になったりして?」 「不吉なこと言わないでよぉ……」 「……うん。」 そんな言葉を交わしながら、パトカーは二人の所属である警察署へと戻っていく。 ―――二人は、気づいていた。 それが、事実になる可能性が、高いということ。 日に日に衰退していくこの国は、そう長くは持たないということ。 自らの命すらも、いつまで続くかわからぬ、この国で。 都心から少し離れた場所にある高等学校。 外観は荒れ、中には幾つか割れたまま放置されている窓さえある。 活気のない高校の一つの教室に、教師が一人、生徒が五人。 教壇に立った若い女教師と、あまりやる気の感じられぬ生徒達と、一方的な授業が進んでいた。 昼下がりの頃と言うのに、窓の外は灰色の霧で覆われ、日光は届かない。教室の中央で小さく燃える手作りの暖炉だけが、六人に暖をもたらす唯一の物だった。 この時世、学校などに通う子どもは非常に少ない。大抵の親は子どもを家の外に出さないし、親がいない子どもは遊んでばかりだからだ。しかし学校の制度に関しては話し合う機会もなく、そのままズルズルと続いており、物好きと呼ばれるごく僅かな子ども達が勉学を学んでいる。 正月早々。この時世に今が正月だと認識している人間も滅多にいないが、そんな、閑散とした学校のとある教室での出来事だった。 ガラガラッ、と大きな音を立てて開かれた教室の扉。 何事かと、教室に居た人々は一斉に扉の方へ目を向けた。 「Hold up!!」 そこには、いかつい体型の武装した外国人兵士の姿があった。重々しげな銃を構えて高らかと言ったのだった。明らかな敵意を、剥き出しにして。 本来、一番に対応すべき教師はまだ若い女性であり、わけもわからずその兵士をぽかんと見つめていた。 「Hold up!!」 兵士はもう一度繰り返す。 女教師が黒板に書く途中、手にしていたチョークが、カツン、と音を立てて折れた。 「あ、あわわ……」 女教師は慌てふためいて両手を上げる。その様子を見て兵士は生徒達に目を向け、ガキどもも手を上げろ!と、英語で怒鳴りつける。 英語のニュアンスをなんとなく理解した生徒達はおずおずと、一人一人手を上げていった。 しかし一人の女生徒だけは、じっと兵士を見つめたまま机の下に入れた手を上げようとしない。 色を抜いた髪を後ろで結っている。猫目で、美少女に分類されるタイプである。 「Do you want to die?(死にたいのか?)」 見下すような視線を向けながら、兵士はゆっくりと少女へ近づいていった。 少女はぼんやりと、感情を消した瞳で兵士を見つめる。 「……。」 じっと、見つめる。 「…Hey, you.」 兵士が牽制するように掛けた言葉。 少女は僅かに瞳を揺らすだけで、尚も無言で見つめる。 「Hey!!」 兵士はまた一歩近づきながら、怒気はらんだ声で怒鳴りつけた。 ―――キュンッ 刹那。耳につく高い音が教室で響き渡る。 その直後、兵士はガクリと崩れ落ちた。カンッと音を立て、兵士の手にしていた銃が少女の足元に転がる。 兵士の太股辺りから、血が流れていた。微かに震える太い指が、血の滲むズボンへと伸びる。驚愕にその目を見開いて、何があったのかと、そんな様子で。 女生徒は、いつの間にかその手に握っていたレーザー銃を軽く見遣り、とん、と机の上に置いた。周りの視線は兵士から少女へと移る。その視線に気付いていないかのように、何事もなく椅子から立ち上がり、足元に転がった兵士の落とした銃を拾い上げた。 カチャッと小さく音を立て、外れる安全装置。そして表情を変えず、その銃口を兵士に向けた。 兵士は我に返るように顔を上げる。怯えるようにその口を震わせた、その時。 フッ、と、少女の唇が笑みに歪んだ。 「……死ね。バーカ。」 「...!!」 パンッ!! 容赦の無い音が、響き渡る。 昼下がりの教室は、血に染まった。 ピピピピピ ヴーン―― ピッ……ピッ……ピッ…… さまざまな機械音が、薄暗い室内に籠もる。そこまで広さのない部屋の中は、所狭しと不可解な機械で埋め尽くされていた。部品、オイル、様々な配線。無機質な部屋の中央に、一台のコンピューターがあった。 コンピューターとは言え、昔一般的に普及したパーソナルコンピューターのそれとは違う。剥き出しの配線、画面には黒い背景に白色の文字だけが表示された、アナログ的なコンピューターである。 カタカタカタッ、と短い間隔で弾かれるのは、横長のキーボードだった。一つ一つのキーを確実に叩いていく細い指先は、白衣に身を包んだ女性のもの。彼女の目はディスプレイに表示されていく文字を追いかけ、止まる事を知らない。 歳の頃は二十代後半といった所か。切れ長な鋭い瞳にノンフレームの薄い眼鏡。知的な美女、という言葉が良く似合う風貌ではあるが、一つ間違えればマッドサイエンティストとも言い換えられる。 「心拍値が安定してきたわね……もう少し……。」 女性は艶やかなハスキーボイスでそう呟くと、手元のキーボードを叩き、そして斜め前に目線を遣る。 彼女の視線の先には、透明の筒状の管があった。太さは横幅2メートル弱。天井まで届く高さのそれ。中は水分で満たされているのか、こぽこぽと小さな気泡が上がっていく。この部屋で唯一、異質の存在感を放つものだった。 「………」 女性は筒の中で眠る存在を見つめ、薄い笑みを浮かべた。優しげとも冷酷とも取れる笑み。 タンッ、と区切りをつけるようにキーボードのEnter Keyを押し、席を立つ。 様々な部品が散乱した通路をカツカツと数歩歩き、女性はゆっくりとその管に近づいた。 「明後日にはお目覚めね、私のbaby。」 細い指先で管を撫ぜ、囁くように告げては、静かに管にくちづけを落とす。赤い唇の跡、彼女の熱い吐息が薄く管を曇らせた。 そして踵を返すように管に背を向けると、女性は電気を落として部屋を出た。 パタンとドアが閉まると、人の体温を一つ失っただけだというのに、随分と冷たい空気が室内を満たす。 けれど、常に機械が動作する部屋に静寂が訪れることはない。 時折点滅するランプ。低く唸り続けるファン。 そんな中。機械音に阻まれる事もなく眠り続ける一人の ――…少女の姿。 管の中で全裸のまま目を瞑る。 柔らかそうな薄紅色の髪が、液体で満たされた管の中で揺れていた。 その少女の右肩や左胸の上部には、金属の部品が宛てがわれている。そして通常の人間よりも尖った耳。 人間なのか否か、それを知っているのは先ほどの女性と、この少女のみである。 眠り続ける少女。目覚めの時を待つように、その唇から小さな気泡が零れ、弾けた。 ひゅぅぅぅ――…… 絶え間なく、冷たい風が吹く。 少し行けば断崖絶壁、そしてディープブルーの海が広がる。 そこは、見晴らしの良い丘だった。 荒れ果てた街とは違い、この丘には所々に緑の姿が見える。 空は青色を保っているものの、今は厚い雲が日光を遮っていた。 青色の空と緑色の丘。そして真っ白のワンピースに身をつつんだ一人の女性の姿。 二十代前半といった頃だろうか。どこからともなくやってきたかのように、覚束ない足取りで丘を登っていく。 そして女性は、丘の先端の方にある一つの石碑の前で足を止めた。 文字の彫られた石碑を一寸見上げた後で、静かに目を閉じ、手を合わせる。 女性はじっと黙祷を捧げている様だった。 「……っ、……」 目を瞑る女性の、その瞳の端から、一筋の涙が零れ落ちる。 少しして、微かに漏れた嗚咽。 すとん、と崩れ落ちるように地面に膝をつくと、支えるように地についた手で雑草をギュッと握り締める。 その瞳から、幾つもの雫を零した。 「どうして……、どうして私を……置いて、行ったの……?」 伏せた顔にはただ悲しみが満ち溢れ、開く唇は嘆きを漏らすだけ。 女性の髪の先についたビーズのようなものが、ぴと、と濡れた頬に張り付いた。 女性はそれを指でそっと掬うと、角度に寄って色を変えながら光る赤色のビーズを、じっと見つめる。 「……約束したじゃない……ずっと一緒だって……。」 呟くように言って、指先でビーズを揺らした。ゆらり、ゆらり。 その軌道を追い、懐かしむように細めた目。追憶は微かな笑みを、そして多くの悲しみを彷彿とさせる。 少しの間止まっていた涙が、また溢れ出した。 手で顔を覆って頭をもたげた時、彼女の髪がふわりと風に撫ぜられる。 なびく髪は、金色と黒が混じる。――彼女は不思議な髪色をしていた。 向かって右側の髪は美しい金髪のセミロングヘアで、その毛先にはいくつかのビーズが揺れている。 しかし左側は、耳より少し下の首筋辺りで散切りにされた黒色の髪。 故意に作られたものにしては手が込みすぎている。その髪色の理由が彼女の口から語られることはない。 女性はただ、石碑の前で泣き崩れて、嗚咽を漏らすだけ。 冷たい風が女性に吹き続ける。ザザ、と、少し遠い波の音。 石碑にはこう書かれていた。 『 2098年12月 北海道市核爆弾投下 被害者の冥福を偲ぶ 』 東京市少し離れた場所、昔は銚子という地名がついていた場所にあるこの丘。 丘から見える海の遠く、ずっと先には、 米国軍の核爆弾によって完全に荒れ地と化した、北海道市という広大な大地があった。 カタカタカタッ。 夜の中、寂れた廃屋の屋内。 闇が支配する薄汚い空間、その一ヶ所からぼんやりと光が上がっていた。 光は一台のノートパソコンが発するもの。そしてそのパソコンの光によって浮かび上がるのは、一人の少女の姿。まだあどけない顔立ちで、十代半ばと言った所か。赤みがかった茶髪は、肩につかぬほどのボブヘア。耳に光るは黒耀石のピアス。ディスプレイの光を浴び、鈍い輝きを見せていた。 カタカタと鳴り続けるのは、少女が押すキーボードの音。 手慣れた動作でキーボードとそばのマウスを使い分け、何事かを行なっているようだった。 大きな瞳は終始、ディスプレイに釘付けである。 ポンッ。 パソコンが音を発したと同時に、ディスプレイには『通信回線の接続が完了しました。』の文字。 「不法侵入完了……。」 少女はぽつりと呟くと、インターネットブラウザを開く。テレビのように一瞬で開く画面は、二十年前までに築かれてきた文明の賜物であろう。衰退したとは言え、やはり文明の片鱗は所々に残っている。 英語でびっしりのページ。少女は「world affairs」(世界情勢)と書かれた文字をクリックする。 そして開いたメニューから、「Attack situation」(進軍状況)をクリック。 「……。」 少女は開いたその画面を食い入るように見つめる。 アルファベットで長々と羅列された文字、少しばかり頭を捻りながらも、少しずつ少女は読み進めて行く。 暫く経って、怪訝そうに眉を顰め、 「米軍は、東京市への大規模な進軍を開始?」 呟いた後、はぁ、と小さく息を吐く。 「――ヤバイじゃん。」 諦めにも似た投げやりな言葉を発したその時だった。 ポンッ。 と、パソコンが音を発し、「mailを受信しました。」の文字が画面の隅に表示される。 「……メール?」 少女は眉を顰め、「珍しい……」などと呟きながら受信したメールを開いた。そこには日本語と英語で、 『心のオアシス!乾いた心を潤してみませんか?』 という文字と、一つのURLが記されている。 「……?」 少女は眉を顰めたまま、カチ、とそのアドレスをクリックしていた。 パッ、と開かれる画面。そこには、 『大人の小説★無料体験版』 という、妙に妖艶に飾られた文字があった。 「はい?」 少女は思わず怪訝な声を零していた。さらに眉間に皺を寄せながらも、ついついEnterを押してしまう。 この少女、十八歳未満の閲覧は禁止します、という文字には見向きもしなかった。 「……。」 小説メニューが目に入り、エロティックなタイトルに思わず頬を赤く染めてしまったりしながら、戸惑いを露わにする。最初のタイトルに「無料体験版」とあったり、「有料版はこちら」という表記があることから、この管理人はおそらく小説でご飯を食べているのだろうということは察しつつも、この時世に小説で?という戸惑いも少なからずある様だった。 ふと、「管理人のプロフィール」という文字に目を止めて、それをクリックする。 開いた画面に、少女は釘付けになった。好奇心ではなく、何か別の驚きを感じたように、小さく息を呑む。 『HN・月見夜 職業・脚本家(今は小説家かな?) 年齢・秘密♪』 「……月……見夜……!?」 月見夜(ツキミヨ)。 その名前に、少女は聞き覚えがある様で、フリガナ表記もないその名を反芻するように小さく呟いていた。 マウスから手を離し、そっと画面の文字を指で辿る。 月見夜、という文字をなぞった後で、フッと小さく息が漏れた。 どこか悲しげな、切なげな、そんな吐息。尚も少女はプロフィールのページを眺め続ける。 しかし、物思いに耽る少女を遮るように、 ダンダンダン!!という扉を叩く激しい音に、少女ははっと顔を上げた。 「Is someone there!?(誰かいるのか!?)」 聞こえた声は男のもの。自然な英語から、すぐに少女は察したようだった。 (米国軍…!) そう思うが早いか、少女はパソコンを閉じて脇に抱え、ポケットの中にある物をぎゅっと握り締めて扉へ向かった。足音も息も殺して、扉の向こうにある気配を探る。 「Hey,Come out!」 男の声は尚も続いていた。死にたくないならば出て来い、と、物騒な異国語を少女が理解したのか否か。 ただ、張り詰めた表情で。扉の真横で息を殺した。手には強く握り締めた小さな武器がある。 「Let's rush in.(突入するぞ)」 という仲間内の言葉が聞こえ、少女は目を見開いた。 タイミングを計るように、呼吸を整える。 頭の中で予測したカウントとほぼ同時に、 ダンッ! 激しい音がして扉が蹴り開けられると共に、踏み込む米国兵士。 そして、タンッと飛び出した少女。 「―――?!」 米国兵士は何が起こったかわからない、といった様子で硬直した。 兵士の首にめりこんだ物――小さな女性用の剃刀から手を離し、少女は男を押しやって走り出した。 「Shoot! kill that child!(撃て!あのガキを殺せ!)」 男の後ろにいた兵士がそう怒鳴る。少女はパソコンを手に一気に駆ける。 荒れたアスファルトを蹴る。足元は闇に覆われていてよく見えない。 一瞬、石に躓いて少女が体勢を崩した時だった。 キィン! 耳障りな音。パソコンの表面が黒くかすれていた。 足元の石に感謝ッ。 少女はそんなことを思いながら、物陰へ飛び込み身を潜めた。 もし真っ直ぐに駆けていれば、パソコンを掠った銃弾は少女の身体を貫いていたかもしれない。 「っ!……はぁッ」 乱れた息、出来る限り抑えながら、少女は瓦礫の隙間に身を伏せる。 やがて、徐々に近づいてくる怒鳴り声。 あのガキはどこに行った!?と、英語でがなりたてる男の声はすぐ間近で聞こえた。 神に祈るしかない、とばかりに少女は物陰でその手を組み、きゅっと目を閉じた。 ―――やがて、遠ざかっていく足音。 「……ふは。」 少女は小さく安堵の吐息を零す。 ようやく訪れた静寂の中、物陰に身を縮めたままでポケットに手を伸ばした。 先ほど兵士に一撃を見舞った武器、剃刀。それは数ある中の一本であり、少女のポケットの中にはまだ数本の剃刀が残っている。その一本を取り出すと、ケースから取り出し、闇夜の中の月明かりに鈍く光る刃先を見た。影になった口許、薄い笑みを浮かべているようにも見える。 刃先は静かに少女の腕へと滑り、ス、と鋭く傷を作る。それはミスでも何でもない。故意の動作。 その傷は白い肌に一本だけ――というわけでは、なかった。 少女の姿の中で何よりも目を引くのは、七分袖から伸びた手首に残る、幾重にも重なった傷痕。 手首だけではなく、袖の辺りまで数十の傷がある。全て、鋭利な刃物で切ったような傷だった。 そう。例えば今使った、剃刀だとか。 「……くっそ、……。」 少女はどこか悔しげに小さく零すと、ゆっくり立ち上がり、身体についた埃を払った。 大切そうに抱えたパソコンと、ポケットに仕舞った数本の剃刀。 たったそれだけの小さな荷物で、少女はどこへともなく夜の闇に消えて行く。 東京駅という、日本国でも一番主要である大きな駅がある。 殆どの交通機関は米国兵が占領しているが、ほんの数本の電車だけは日本国の人間も使用して良いことになっていた。とは言え米国兵がのさばるこの国で、もしも米国兵と顔を合わせれば、そのまま生かしておいてもらえることはあまりないのが実状だった。――何か、命と引き換えに取引をしない限り。 そのような事情から、日本国人専用の東京駅着の電車にも、乗客は殆どいない。閑散とした駅のホームに、電車から一人の女が降り立った。 女はその手に大きなスーツケーツとギターケースを持っている。そんな大荷物以上に目を引くのは、女が後ろで結った髪だろうか。流れるようなストレートという言葉の裏側に存在するような髪型である。くるくるとパーマがかけられたその髪は、まるで――後ろ頭にアフロヘアーをくっつけたような感じだ。 「やっぱり東京市は酷い状況みたいねぇ」 きょろりと辺りを見渡してはのほほんとした口調で呟き、そして女はどさりとコンクリートの汚れた床に腰を下ろした。胡座をかいて落ち着くと、ギターケースの中からギターを取り出す。それを肩にかけ、弦に指先を滑らせては、ポーン、と単音を一つ響かせた。 人の少ない駅のホーム、先ほどの電車から降り立った日本人達は、女のことなど気にもかけずにそそくさとホームを後にする。残るのは、停車中の電車に残っている日本人の車掌ぐらいのものだ。車掌は電車の窓から不思議そうに女を見遣り、何をする気かと、そんな様子で眺めていた。 「♪Nuit tu me fais peur Nuit tu n'en finis pas……」 女は不意にメロディを口ずさみ、ギターの弦を弾いた。 古い曲だった。穏やかで優しげな曲を、よく通る声で口ずさみながら和音を奏でる。 いわゆる弾き語りと言われるものだ。この時世に、そんなことをする人間などそうそういない。 車掌も、もしかしたら初めて見たのかもしれない。きょとんとした表情で女が弾き語る姿を暫し眺めた後、時計を見遣ったのは発車時刻を確認するためか。やがて車掌はホームへ降り立つと、女のそばに歩み寄った。まだ三十代そこそこの若い男の車掌だった。 「何をしているんだい?」 車掌は女に問う。一時奏でるメロディは止まなかったが、女は車掌を見上げて悪戯っぽい笑みを浮かべた。そうしてきりが良い所で音を止めると、女は答えた。 「歌ってるの。ギターを弾きながらね」 「……」 見ればわかる、といった表情で車掌は押し黙った後、ちらりと階段の方を見遣る。改札には米軍兵がたむろしていることだろう。妙なことをしていれば、彼らに目をつけられるのも当然だ。 「車掌さんこそ、こんなあたしに関わってると仲間と思われるよ。聴くなら遠くから聴いた方が……」 と、女が言い終わるよりも先に、階段の方から靴音が聞こえてくる。 二人は階段に目を向け、「言わんこっちゃない」と女は笑う。 車掌はばつの悪そうな表情ですぐさま引き返し、電車内へと戻っていった。程なくしてやってきたのは、予想通り、軍服に身を包む米国兵だった。 「………」 車掌は電車の中から女と米国兵との様子を見つめていた。 米国兵は座り込んだ女に声を掛け、怪訝そうな表情を浮かべている。腰に据え付けたホルダーの中の拳銃に手を掛けている姿から、車掌は焦った。もしかしたら間もなく、あの女は殺されてしまうかもしれないと。 しかしそんな心配を他所に、女は明るい笑顔を見せて笑った。その笑い声は電車の中にもかすかに聞こえてくるほどだ。そして女は荷物を探り、何かを取り出したようだった。 車掌のところから、その何かを確認することは出来ない。おそらく女の手の中に入る程度の小さな物。 女はそれを米国兵に手渡し、ギターを仕舞って立ち上がった。荷物を両手に抱え、米国兵と幾つか言葉を交わすと、米国兵と女は、並んで階段の方へと歩いていく。 「……何なんだ、あの女」 車掌はぽつりを呟き、二人の姿が見えなくなるまでその背中を見つめていた。 女が、米国兵に何かを手渡し、それによって命を助けられたのは明白だ。 車掌はふっと息を吐いて、車掌室へと戻っていく。 「世の中には世渡り上手ってやつがいるんだな」 それが彼が導き出した結論だろうか。 結局のところ彼は何も知らない。何も知ることができない。 米国兵の命令に従って電車を走らせ、用がなくなれば殺される。 それが、米国兵に傅いてしまった日本人車掌の運命でしかないのだから。 某所に設営された巨大なキャンプ施設。幾つもの多くのテントが立ち並び、そこには大勢の人間がいる。 しかし日本人の姿は全くといって良い程見当たらず、米国兵の軍服を来た人間ばかり。 つまりここは、米軍のキャンプ施設なのである。 その片隅で、慌てた様子で猛ダッシュをする米国兵の姿があった。 その兵士はしきりに何事かをがなりたて、何かを追っている様子だった。 怒鳴っている内容は、「待て」だの、「止まれ」だの、そんな言葉。 兵士の言葉に応えるように呟いたのは、一人の女。 「待てって言われて待つバカがどこにいるっつーの。」 空を舞う一羽の鳥。……いや、やはり鳥ではない。一人の女だ。 鳥型の簡易飛行機で女が空を飛んでいる。ゴーグルや皮のつなぎで全身が覆われ顔は見えないが、覗く口元に引かれた赤いルージュや、その唇から発せられた声が人物を女と特定する要素である。 その女の背中には、膨れたリュックがあった。たった今、米国軍の基地から盗んだ食料や金銭である。 そう、この女はあろうことか米国軍に盗みを働いたのだ。日本人が米国人に逆らえば即刻殺される、それは既に常識的なもの。しかし女はそんなことに怯えるでもなく、不敵な笑みで空を舞う。 パンッ!と響いたのは銃声。米軍の兵士が空を舞う女に向けて放ったものだった。 女はチラリと地上を見遣った後、簡易飛行機のアクセルを一気に捻った。 「Happyを撃ち落そうなんて、とんだスナイパーね」 女がそんなことを呟いている間に簡易飛行機は加速して、あっという間に兵士の視界から消えた。 唖然と、女が消えていった空を眺めていた兵士は、ふと何かに気付いたように瞬いた。 ヒラヒラと舞い落ちる何かを見つけた兵士は、爆弾かと身構えたが、爆発する様子もない。 地面に落ちたのは一枚のカードだった。 兵士は恐る恐るそのカードを手に取り、そこに記された文字を目にし、読み上げた。 「“The precious article was got from Mr.fool. By phantom thief "Happy"」 言葉にした後で、わなわなと兵士は打ち震える。ぐしゃ、とその紙を握り潰して地団駄を踏んだ。 カードには日本語でも、こう書いてあった。 『怪盗Happy参上★ おバカさんから、お宝頂きます♪』 落胆を露わにして、兵士はとぼとぼと基地に戻っていく。 上官から何を言われるかもわからない。日本人の強盗に基地の食糧や資金を奪われたのだから。 そうして男の兵士は自らが所属しているテントに戻ったが、そこには誰もいなかった。 「……?」 待機しているはずの兵士達が、いつの間にか出払っている。気付けば、外がなにやら賑わしい。 不思議そうにしながら兵士が外に出ると、ばったりと女の兵士と出くわした。 「Mina, What's all this noise?」 どうやら二人は知り合いらしい。男の兵士が何の騒ぎだと問い掛けると、Minaと呼ばれた女の兵士はクスクスと楽しげな笑みを漏らし、そして突然手にした銃を男に向けた。 「Hold up!!」 冗談めかした口調で言っては、「なんてね」と笑みを漏らす。Minaの冗談に、男兵士は怪訝そうな表情のまま肩を竦めて見せた。 Minaは事情をわかっていない男兵士に説明を始めた。内容はこのようなことだった。 東京一区の日本人が緊急避難を開始した。その場所の情報を掴んだので、強襲を掛ける計画が練られている。この基地の米軍の多くを動員する、大規模な強襲になりそうだ。 「……Really?」 Minaの説明に、男兵士は喜びとも悲しみともつかぬ複雑そうな表情を浮かべていた。 その理由は、彼自身が大規模な戦闘に関わったことがないからだ。この計画によって、米軍が日本征服に向けての大きな一歩を踏み出すことは間違いない。米軍にしてみれば喜ばしいことだ。しかし慈悲の心も携えていた男兵士は、計画を素直に受け入れることが出来なかった。いや、自分自身の死に怯えているだけかもしれないが。 そんな男兵士とは相反し、Minaは浮かれた様子でジャキンッと銃を構えたりしている。戦闘が嬉しくて仕方ないとでも言いたそうだ。 浮かれた女と複雑そうな男、そんな凸凹コンビの兵士二人も、やがて集合した兵士達の中に紛れていく。 日本人を殺め、この国を米軍のものにするため。彼らは日夜、無抵抗な人々を殺し続ける。 そんな米軍たちに反感を抱いている日本人は多く存在する。 強大な力を持つ彼らを前に泣き寝入りする者も多いが、歯向かっていく少数派も、確かに存在している。 「だからっ!日本国の自衛隊はどうなってるのかって聞いてるの!」 「……お引き取りください。」 「なんでよ!?国民の疑問にもちゃんと答えなさい!米軍の侵略で、もう何人死んだと思ってるの!!」 「お答え出来ません。お引き取りください」 一方的な口論が行われているのは、日本国の要、国会議事堂の来客口での事だった。 受付の女性が質問を一切受け付けない中、怒気をはらんだ口調で尚も言葉を続ける若い女。 やがて女はため息をついて肩を竦めると、 「お答え出来ませんってね、別に貴女に聞いてる訳じゃないんだよ?受付風情に最初から期待してるとでも思ってんの?」 と、嘲るように言う。人を小馬鹿にしたような態度だが、その瞳は真摯だった。 「……。」 「誰も通すなって言われてるのね?」 「………。」 尚も沈黙する受付の女性を見下し、怒りを込めた拳を受付の台に落とした。 バンッ、と乾いた音が響き、来客口にいる何人かの人間がそれに注目した。 「国家には失望した。元々、あってもないようなモンみたいだけどさ。」 腰まで届きそうなほどの綺麗な黒髪をした女。やや猫目気味で、その挙動からもクールな印象を受ける。十代後半か二十代前半か。若いが、大人びた雰囲気を持っている。 女は国会議事堂の来客口に背を向け、歩き出した。 「……ッ、アタシはいいけど、非力な人間はこんな世の中で生きてい」 悔しそうに唇を噛んでは小さく漏らす呟きは不意に、男の声によって掻き消された。 「freeze!!」 議事堂の来客口に響く男の声。 女の真正面の入り口に、銃を構えた二人の米国兵士。女はまた唇を噛んで、ゆっくりと両手を上げた。兵士はまばらにいる数人に銃を向けながら、先ほどまでこの女が話していた受付の女性の元へと歩いていく。 女は眉を寄せながら、米軍兵士と受付女性とのやり取りを見遣った。 どうやら、議員や責任者を出せ、という要求らしいが、受付の女性は先程と同じように「出来ません」という言葉を返し、首を横に振っていた。 一人の兵士が受付の女性とやりとりをするそばで、もう一人の兵士は回りを見張る。ふっと、女と目が合うと、兵士は一歩近づいて、文句でもあるのか、とそんなことを英語で言った。女の鋭い目つきの所為か、気に障ったのだろう。女は兵士を睨み、馬鹿にするように言った。 「アイキャノット スピークイングリッシュ。」 「Do you want to die?(死にたいのか?)」 「ノー」 ふるふると首を振りながら、一歩・二歩、後ろに下がる。悔しげに、微かに唇を震わせて。 その時、一際大きな怒声が響いた。受付の女性と話していた兵士が業を煮やしたのだろう、銃を構えて今にも受付の女性を殺さんばかりの勢いで、男は怒鳴った。 ――今から五つ数える間に、責任者を呼んで来い、と。 困惑した様子で目線を泳がせる受付の女性。そんな彼女に、兵士は銃を突きつけた。 それに釘付けになる、もう一人の兵士。――その時ふっと、女は薄い笑みを浮かべた。 「Five……Four……Three……」 静寂の館内で兵士が漏らすカウントダウンだけが際立っていた。 全員が、その兵士と受付の女性とに注視する。 ――黒髪の女が静かに、懐に手を入れたことすらも、誰も気付かない。 「Two……One――」 そして女は静かに、地を蹴った。 「Ze……」 「死ね!!」 ザムッ、と、肉を切る音が辺りを支配した。すぐさま女は身を翻し、流れるような動作でもう一方の兵士へと向かい、同じ音を鳴らす。たった一撃の、致命傷。 カウントダウンも、銃声も何もかもが消えた。時間が止まったように、沈黙が流れた。 そこには血に塗れた女性が二人。そして、息絶えた兵士の男が二人。 「……きゃああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」 受付の女性は、頭を抱えて悲鳴を上げた。あまりに凄惨な状況に耐えかねたかのように、響かせた悲鳴。 それがきっかけになったように、その場にいた全員がざわざわと騒ぎながら慌てて逃げ出した。 しばらく聞こえていた悲鳴も止んで、いつしかその場には受付の女性と、そしてその騒ぎの原因である女と、二人だけが残される。といっても受付の女性は、既にその場で気を失っているようだ。 「……汚いなぁ」 鮮血のついた黒髪に指先で触れ、舌を出した女。小さく肩を竦めた。 血塗れになって二つの亡き骸を前にしても、別段恐怖も緊迫も感じさせない声色でぼやき、付着した血液を払うようにパタパタと手を振った。 「やっぱナイフの方がいいのかなぁ。」 そう言って、彼女の武器である小さな鎌を手に、バッグを肩にかけて歩いていく。 肩と二の腕の離れた、二つの男の亡骸に目を遣るでもなく――。 地球の人口は、減少の一方だった。世界中で人々が死んでいく。各国で戦争が起こっている時流と共に、地震や火山噴火による被害、そして二次災害である火災や飢饉による被害。人々の心も、そして自然すらも荒んでいるこの世界。人々は互いを傷つけ、自然すらも人間を傷つける。 しかし。死に行く人々の膨大な数の陰で、ほんの少しだけ生まれて来る人々もいる。 未来に繋げるために、子どもを少しでも増やすようにと、世界中で呼びかけられていた。 その命令に従って、むしろその命令を利用して――望まれぬ子供達が生まれてくるのも事実だが。 レイプなどで孕んだ子どもの殆どが、そのまま捨てられてしまう。 親に捨てられた子ども、或いは戦争や災害で親を失った子どもは、世界中に数多くいる。 子ども達は路頭を彷徨い、飢えに苦しみ、敵国の人間に殺されてしまうことも多い。 そんな子ども達を救おうとする心優しい人々もいる。彼らは細々と、子どもを守り続けている。 ランプの光りが微かに辺りを照らす、暗い地下室。いくつもの子供の泣き声が聞こえる。 決して綺麗とはいえないその場所に備えられたベッドに、何人もの赤ん坊が寝かされていた。 慈悲深い人がこうして子ども達を保護しているのだ。但しその肩身は狭く、米軍兵士にでも見つかってしまえば即刻子ども達共々殺されてしまうことだろう。それでも命懸けで子ども達を守ろうとする。 ここにもそんな心優しい人間がいた。年配の女性は修道服に身を包んだシスター。そしてもう一人、若い女性がひっきりなしに室内を移動している。 「うわぁぁぁぁぁん!」 「あっ、ちょ、ちょっと待って!!」 子どもの泣き声が聞こえると、若い女性は慌ただしく赤ん坊のそばに近寄り、小さな身体を抱き上げた。 「え、ええと……、シスター!この子は……」 女性は、また同様に子供達の間を行き来する、シスターへ言葉をかけた。 シスターは幾分子ども達の扱いにも慣れている様子で、落ち着いた声を返す。 「その子は脳に障害を持っているようなの……苦しいでしょうね……」 「障害、ですか。……私はどうしたら」 「私たちに出来ること少ないわ。……撫でてあげなさい。」 「……はい。」 悲しげなシスターの表情に、女性も何か読み取ったのだろうか。小さく頷くと、泣きじゃくっていた子供をそっと、優しく撫でた。暫しの時を経て、徐々に泣き声が小さくなっていった。 「うあぁぁぁん!!」 「あっ……ミルク!」 別のところから泣き声が上がると、女性はまた慌ただしく働き出した。 その若い女性は十代後半か二十代前半ほど。薄茶色のボブヘアに、色素の薄い瞳。真っ白のハイネックと黒色のロングスカートに身を包んでいる。優しげなその表情は、慌しさの中でもふっと微笑みを点していた。それは彼女が望んで、こうして子ども達の世話をしている証拠とも言えるだろう。 暫しの時間が経ち、子供たちも皆眠りについていった。 「水散さん、そろそろ休憩にしましょうか。」 「はい、シスター。」 シスターの言葉で、水散(ミチル)と呼ばれた女性は部屋の隅にある椅子に腰を下ろす。間もなくして、コーヒーをいれたシスターが隣の椅子に腰をおろした。 「ありがとうございます、シスター。」 「いいえ。お礼を言うのはこっちだわ。あなたには本当に感謝しています。」 「ど、どうしたんですか、そんな改まって」 「…………」 水散はコーヒーを受け取りながら、きょとんとした表情でシスターを見る。 シスターは、やけに真面目な表情で口を噤んでいた。 「シスター?」 「……聞いて頂戴。」 「あ……はい」 様子を察し、水散も真剣な眼差しでシスターを見つめる。 「米国軍の侵略が、本格的に始まったそうです。元々彼らの目的はこの国を制圧すること。もし見つかれば、すぐさま殺されてしまうことでしょう。」 「……」 「ここが見つかるのも時間の問題です。」 「……そんな」 水散は戸惑いを隠せない。僅かに目線を落とし、悲しげに唇を噛んだ。 そんな水散の様子に、シスターはふっと弱い笑みを零し、コーヒーを一口飲む。 沈黙の後、シスターは更に言葉を続けた。 「でも、あなたはまだ若い。人生は今からです。」 「え……」 「逃げなさい。私はこの子たちと一緒にいるわ。」 「そ、そんな!シスターや子ども達を置いて逃げるなんて、私……!」 水散は懸命に反論した。しかしシスターはゆっくりと首を左右に振り、悲しげな――しかしどこか優しい眼差しで水散を見つめる。 「あなたには生き抜いてほしいのです。私の分も、この子たちの分も。」 「……」 「あなたは神の子。神から授かった奇跡を無下にはできません。」 「私は……神の子なんかじゃ……」 「それに、あなたの優しさは誰にも負けません。あなたのその優しさを、もっと世の中のために使ってほしい。傷ついた人たちを、癒してほしいのです」 「……私なんかに……」 「私なんか、じゃないでしょう。自分を卑下するのは止めなさい。あなたが赤ん坊の時から、私はあなたを見守っています。私が自信を持って言いましょう、あなたは素晴らしい人間だと」 「……シスター」 水散の瞳から涙が零れた。言葉なく目を伏せて、微かにその身体を震わせて。 彼女の戸惑い、悲しみ、それら全てを理解した上で、シスターは真っ直ぐに告げた。 「行きなさい、水散さん。」 「……はい。」 多くの死を生んでも尚、人の生を望む心があった。 水散自身、シスターや子ども達を置いてここを出て行くことは辛いことだった。 しかし彼女は決断した。もっと多くの人々を、その手で救うために。 シスターが口にした「神の子」という言葉が相応しい。水散はそんな力を秘めた女性なのだ。 悲しい現実にもめげずに、生のために立ち向かっていく人々がいる。 傷ついた人を癒し、或いは戦争そのものを真っ向から否定して―― 「せっ……戦争で傷ついた人々への募金を募っています、ご協力くださいっ」 人がまばらに見える小さな通りで、女性の澄んだ声が辺りに響く。 二十代前半ほどか、日本人らしい綺麗な黒髪のセミロングに、黒く澄んだ瞳。その女性は懸命に人々に呼びかけ、何度も何度も頭を下げる。『戦争反対』のプラカードを下げ、足元にはプラスチックのボールが置いてあった。しかし、ボールの中は空だった。 女性を前を通り過ぎていく人々。興味で女性に目は向けるが、立ち止まる事はない。 「平和のためにっ、どうかご協力くださいっ!」 必死でそう言い続けた。 辺りが徐々に暗くなっていく。人気がなくなっていく。 女性は夕暮れの空を見上げ、小さく息を吐いた。吐息は白い蒸気となり、すぐに消えた。 夕暮れの時刻は酷く冷え込む。元々太陽の光は薄い霧のようなものに遮られてしまっているが、夜ともなれば尚更だ。寒い冬の通りで、女性は小さく震えながら、プラカードをぎゅっと握った。 「……う〜っ……」 微かに喉の奥から声が漏れる。 堪えるように眉を寄せ、きゅっと唇を噛みながら、女性は一筋の涙を流した。 あまりにも残酷な現実。人々は自分が生きていくだけで精一杯で、彼女の言う『平和』のために募金をする余裕などちっともないのだ。彼女が懸命に活動をしようと、その成果など現れない。 しかし女性はすぐに涙を冷たい手で拭い、人がいる場所を求めて歩き出す。 冬の冷たい空気の中で、女性は身体の芯から冷え切っている。暫く歩いて女性は立ち止まり、その手に息を吹きかけた。かたかたと小刻みに震え続ける指先は、とっくに感覚などなくなっていた。 人の気配すら消えた荒涼とした街角でふっと溜息をつく、その時不意に、背後から聞えたエンジンの音に、女性は顔を上げて振り向いた。 薄暗い街角を照らすライトは一個、どうやら近づいてきているのはバイクのようだ。 やがてエンジン音は大きくなり、女性のそばを通り過ぎようとした。しかしバイクに乗っていた人物が女性の姿に気付いたのか、通り過ぎた後でキィィとブレーキを利かせてバイクは停止した。 その白いバイクには、「日本国警察」の文字が見えた。 女性が慌ててバイクに近づくとの、バイクに乗っていた人物がヘルメットを外すのはほぼ同時。バイクの人物はどうやら女性だろう、パサリと黒い長髪が落ちる様子が駆け寄る女性から見て取れた。 「んん?……戦争反対?」 バイクの人物は、先日の大晦日にパトカーの運転をしていた、千景という名の婦警だった。 千景は女性の手にしたプラカードを見て、きょとんとして問いかける。 「は、はいッ!戦争反対の活動をしています。えと、戦争で傷ついた方への募金とか……」 「……集まる?」 女性は千景の言葉に暫し沈黙し、やがて溜息とともに首を横に振った。 千景はふっと苦笑を浮かべ、「でしょうね」と頷く。 「気持ちはわかるけど、もう戦争は始まっちゃってるのよね。一方的に。こんなこと言っちゃ悪いかもしれないけどさ……日本人のあんたが反対したところで、何にもならないと思うよ?」 「……で、でも!!」 反論しかける女性を遮り、千景は何かに気付いたように「あ!」と大声を出した。 「そうそう、無駄話してる暇ないのよ!お嬢さん、死にたくなかったら後ろ乗って!」 「はぇ……?」 「緊急避難令発動中。09(マルキュー)跡地。ここからだとちょっと距離あるし、特別に乗せてくよ?」 「……いいんですか?」 「ほら、早くっ。」 千景はぽんぽんっ、とバイクの後ろを指して言った。女性はきょとんとしながらもこくこくと頷き、 「そ、それじゃあ……お言葉に甘えます。」 そう言ってバイクに乗り込もうとした――が、ふっと千景は怪訝そうな顔をする。 「ちょっと待った。」 「はい?」 「まさか、そのプラカードも持ってく気じゃないでしょうね?」 「持っていきます!……だ、大事なものなので……」 その言葉に、千景は溜息をつかずにはいられなかった。 「わかったわよ。どっちでもいいから、早くしなさい!」 「はい!」 女性はプラカードをしっかりと首にかけ、バイクに乗り込んだのだった。 渋谷709跡地。 千景が言っていた緊急避難令が出されたのは、昨日のことだった。詳細は知らされなかった。ただ、安全を確保できるかもしれない――と、曖昧な語り口の告知だった。突然のことで、しかも米国軍に気付かれないように小規模な告知しか出来なかったのだが、人はぱらぱらと集まっているようだ。それだけ、安全を求めている人々が多いということなのだろう。 709跡地には、ぽつんと建った二階建ての建物があるだけだ。広さはそんなにないように思える。しかしこの建物、地下設備が充実していると言うのだ。 やはりどこか曖昧なその告知に、訝しげな表情を浮かべている人物がいた。隣の廃ビルから、人々が709跡地に集まっていく様子を眺めては「うーん」と首を捻る。その人物とは、インターネットの不法侵入を行なっていた剃刀少女である。今も相変わらずパソコンと剃刀が相棒といった様子だ。赤茶色のボブヘアを軽く掻きながら、しきりに大きな瞳を瞬かせ、人々が避難していく姿を眺めた。 「緊急避難、かぁ……。」 そう呟いて、小さく肩を竦める。 「人を一点に集めるなんて、殺してくれと言ってるよーなモンじゃん……。」 「貴女もそう思う?」 「のぁ!?」 突然背後から聞こえた同意の声に、剃刀少女は驚きながら振り向いた。 「警察のやってることって、なーんかよくわかんないよね。」 そこにいたのは剃刀少女と同世代ほどなのだろうか、セーラー服に身を包んだ少女。色素の薄い髪を後ろで結い、クスッと悪戯っぽい笑みに細める猫のような目。学校で発砲し、あっけらかんと米国兵士を殺した、あの少女だった。 剃刀少女は突然現れた制服少女に少し戸惑いを滲ませながら、再度709跡地の建物に目を向ける。 「……行かない方がいいと思う?」 「うん、行かない方がいいと思う。」 剃刀少女の問いかけに、制服少女は、にこりと笑んでそう答えた。 「そっか」と弱い笑みで剃刀少女が頷くと、制服少女は剃刀少女の横に立って同じ視点から建物を眺めながら、ふっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。 「警察の人間は信用に値しないの。軍人も、公務員も。……っていうか、大部分の大人がね。」 「あぁそれはあたしも同感かなぁ。良い大人なんてほんのちょこっと」 「でしょ?あーやって偉そうなこと言ってるわりに、実際は何もしてくれないんだから」 制服少女が見下ろす眼差しには、どこか馬鹿にしたようなニュアンスが感じられた。剃刀少女はそんな横顔を見つめた後で、「そうだね」と小さな相槌を打つ。 「ふふ。あたしは三宅遼(ミヤケ・ハルカ)っていうんだけど、貴女は?」 制服少女――もとい遼は、ガラスのない窓の桟に肘を置き、頬杖を付いた体勢で剃刀少女を見上げた。 「あ、あたしはセナ……じゃなくて、……蓬莱冴月(ホウライ・サツキ)。」 剃刀少女――もといセナ、もとい冴月。少女は自己紹介を改めながら、そんな言葉を返す。 遼はきょとんとして冴月を見遣り、「セナ?」と不思議そうに問うた。 「う、うん。えっとね、セナはハンドルネームってやつ。……コードネーム?」 「アハ、あだ名にしてもいーい?セナって名前、可愛い。」 遼はクスクスと笑みながら気に入った様子で言っては、「サツキも可愛いけどね」と付け加える。 冴月は幾分照れたようにはにかみ、 「セナでも冴月でも、好きな方でいいよ」 と頬を掻いた。遼はまた小さく笑みを漏らし、「セナちゃんね。セナ。」としきりに名を繰り返す。 二人はおそらく同世代といったところだろう。しかしこうして並べて見れば、遼の方が大人びている雰囲気だ。冴月は遼のペースに巻き込まれているような様子で、照れくさそうに建物へと目を移す。 「遼……ちゃん?同い年ぐらいかな?……なんかね、あたし、年齢近い子とかとあんまり話したことないから」 「ん、遼ちゃんはジューナナ歳。セナは?」 「あ……あたしは十六。一個上なんだね」 年上と知ってか、冴月は引け目を感じたように遼を見遣る。「一年の差かなぁ」などと呟いていることからして、冴月自身も相手の大人っぽい雰囲気を感じているのだろう。 「別に年齢なんて関係ないって。普通に遼って呼んでくれていいし?それにあたしは、変な大人より、純粋無垢な十六歳の方が好き。」 「……じゅ、純粋無垢。」 冴月は複雑そうに遼の言葉を復唱しつつ、うぅん、と少し悩んだ後で 「じゃあ遼って呼ぶ。……宜しくね。」 と、またはにかみながら小首を傾げて見せた。 遼もそれに応えるように軽い笑みを見せ、「ヨロシク」と軽いウィンクを放つ。 その小慣れた仕草にも冴月は内心感心しながら、小さな笑みで頷いた。 十六歳と十七歳。たった一歳違いの二人の、大きな雰囲気の差。 遼に滲む余裕と、冴月に滲む人付き合いに不慣れな仕草。そんな二人は暫しの時間、この廃ビルで時間を共にすることになる。冴月がパソコンを開けば、時刻は午後八時を示していた。 二人はまだ知る由もない。――六時間後に、とんでもない事態になるということなど。 婦人警官千景は、平和活動を行なっていた女性を乗せたバイクを建物のそばに横付けし、エンジンを止めて駐車した。緊急避難令が出てから随分経った今、建物にはそこそこに人が集まってきているようだ。建物内からは「避難で来られた方々は、奥の大広間に進んで下さいー」という、些か頼りない誘導の声も聞こえてきていた。 バイクの後ろに乗っていた女性は、よいしょ、と地に降り立ち、 「ふわぁ……すっごいスリルでした!バイクの後ろに乗ったのなんて初めてなんですっ」 と嬉しそうにそんなことを言って、それから無事に連れてきた『戦争反対』のプレートを軽く撫ぜた。 そんな様子に千景は苦笑しつつヘルメットを外し、バイクの座席に置いた。 「まぁ……私の運転がスリル満点なだけかもしれないけどね」 「あはは、そうなんですかぁ。」 のほほんとした笑みに、千景はつられてふっと弱い笑みを零した後、「中入ろうか」と促して歩き出す。 「そう言えば、名前聞いてなかったわね。私は乾千景(イヌイ・チカゲ)。見ての通りの警官よ」 「あ、私は五十嵐和葉(イガラシ・カズハ)っていうんです。色々お世話になりました」 「いーえ。お世話するのはこれからだし?……和葉ちゃん、家族は?」 「あ……えぇと」 家族のことを問われ、平和活動の女性――もとい和葉は口篭る。その様子を察したか、千景は優しく笑んで見せ、 「もし他にも一緒に連れて来たかった人がいたら言って。一応ここは安全ってことになってるから、ね?」 と言葉を和らげて言った。和葉はすぐに真っ直ぐな笑みを取り戻し「はいっ」と頷いて見せた。 二人は建物の中に入り、荒れた廊下を真っ直ぐに歩いていく。コンクリートの打ちっ放しの建物は、壁面も黒っぽく薄汚れた印象を受ける。米国兵に見つからないためにか、照明も最小限に控えているようだった。幾つか扉があったり階段があったり、そんな廊下を進んでいくと、前方に警察の制服を着た女性の姿があった。大晦日の日に千景と一緒に行動をしていた婦警、佳乃だった。 「佳乃、誘導の方は上手く行ってる?」 千景の声に佳乃はほっと安堵したような表情を見せ、「千景ぇ」と情けない声で相棒の名を呼んだ。 「んもぅ、大変だったんだよぉ一人で誘導するのって!援護も要請してたはずなのに、誰も来てくれないじゃなーいっ!千景がいなくてどんなに心細かったか!」 と当人が言っているように、佳乃は些か警官としては頼りない雰囲気があった。彼女は警官の制服よりも、レースのついたワンピース……のような、令嬢然とした格好の方が似合いそうな女性だ。後ろで結われた長い髪を垂らしながら俯いて「ふぁー」と零す吐息は溜息か。 「はいはい、お疲れ様。それで、今のところは問題はないわね?」 千景は佳乃の言葉をあしらうように言って、「集まってる?」と奥の扉を指差した。千景が指差す扉の奥には、大広間という広いスペースがある。そこに避難者を集めているのだ。 「うんと、今のところは大丈夫だよ。……ただ」 佳乃はふっと表情を曇らせた、けれどその言葉に気付かずか、和葉は佳乃に向けてペコリと礼をし、 「あ、あの!お世話になります!五十嵐和葉と申します!」 と、些か緊張の滲む挨拶をする。佳乃はすぐにふわりと微笑んで、 「あ、私は小向佳乃(コムカイ・ヨシノ)っていうのです。宜しくお願いしますねー」 緊張感の欠けた言葉を返し、ぺこん、と頭を下げて見せた。 そんな二人の様子に苦笑して、千景は和葉を促しながら奥の大広間へと向かって行った。 両開きの扉を開くと、そこには数にして三十人程度の人間がひしめき合っていた。壁際で座り込む者、きょろきょろと室内を見回す者、知り合いと言葉を交わす者――様相は様々だ。目を引く点と言えば、女性が多いことだろうか。 元々、現在の日本国は女性の人口比率が高い。『女は強い』という昔からの言い伝えに乗っ取って、という部分も少なからずあるのだろうが、実情は徴兵によって男性達が集められ、そしてその男性達は既に戦争によって命を落としているのだ。特にこの東京市は、男性の多くが徴兵されている。年齢的には十五歳以上、六十歳以下ならば病気や障害を持っていない限り、ほぼ全員が強制的に兵士にされていた。――それでも運良くというか、命令に背いて兵士にならなかった男性も存在するのだが。 この広間にもそういった類の男性であろう人物が数名見当たった。彼らは女性に囲まれ、いわゆるハーレム状態を楽しんでいるらしい。 「……ったく、暢気なもんね」 千景はしまりのない男性達の表情に、思わず不平を零さずにはいられなかった。兵士として駆り立てられて行った同僚達を思えば、そんな不満を抱くのも当然だろう。 「彼らは彼らなりに、平和のために何かしてらっしゃるのかもしれませんし……」 ぽつりと隣で呟かれた言葉に、千景は怪訝そうな表情で和葉を見遣った。和葉は弱い笑みを浮かべ、「ですよね?」と同意を求めてくる。 「え……そ、うかもしれない、けど」 あまりに純粋な視線を向けられて、千景は返す言葉を持たなかった。内心で、綺麗事だと思ってしまう部分もあったけれど、それを和葉に告げる勇気は持ち合わせていなかった。 千景はばつの悪そうな表情のまま、「しばらく待機しててね」とだけ和葉に言い残し、大広間を後にする。 廊下では相変わらず、「避難の方はこちらへー」と柔らかい口調で案内を続ける佳乃の姿があった。 「ねぇ佳乃。……例の鍵は?」 千景は佳乃に近づくと、声のトーンを落とし、そう問いかける。 その言葉に佳乃は表情を曇らせ、首を横に振った。 「それが、まだ届かないの……。この大広間じゃ安全なんて言えないよね。……どうしたのかなぁ」 焦燥の滲む口調で呟き、はぁ、と溜息を漏らす。 千景も廊下の壁に背を寄せ、「困ったわね」と眉を寄せて焦りを滲ませた。 二人の言う、鍵とは。 実はこの709跡地に建てられた建物は『地下設備』が充実しているのである。つまり、地下への鍵が手に入らない限り、まだこの建物は決して安全とは言えないのだ。この建物自体の入り口には鍵もなにもない、寧ろ危険極まりない場所でもある。 鍵は、すぐに届けられるはずだった。しかしどこかでトラブルが起こったのか、その鍵がなかなか届かない。千景はその場で携帯を取り出して通信を試みるが、長いコール音が続くばかりで通信は繋がらなかった。 「……米国軍さんたちに、見つかりませんように」 佳乃は手を胸元で組み、切実な口調で祈るように呟いた。 ――しかし。二人は知らなかった。 この建物の場所も、そして緊急避難命令も――米国軍は既に、その情報を掴んでいるのだと。 「異常は?」 「今のところなし。……そろそろ避難してくる人も減ったみたい」 潜めた声でのやりとりは、709跡地の建物の隣の廃ビルで行われるものだった。 冴月はお得意のパソコンで米軍の極秘サイトにアクセスを行ないながら、望遠鏡で建物を見張る遼にも時折声を掛ける。遼は終始曇った表情で望遠鏡から見える景色を眺めては、ふ、と溜息を漏らして。 「異常はないけどさ……なんか、物凄く嫌な予感がするんだよね。……あたしの気のせいならいいんだけど」 「うん……サイト上でも特に告知はないんだけど、あたしも嫌な予感がする」 冴月もふっと溜息を零しながら、別のサイトへのアクセスを試みる。 「こんなとこで気が合ってもねぇ?」 遼は皮肉っぽく肩を竦め、ちらりと冴月の姿を見遣った。 冴月も弱い笑みで応えながら、「警戒しようね」とだけ零す。 時刻は深夜午前二時前、辺りは静寂で満ちている。 「とりあえず、そろそろ疲れてきたしぃ。もうちょっとしたら休もっか?こんなコンクリの上で寝るのやだけど」 遼はカツカツと靴で地面を蹴りながら言い、「家帰ろうかなぁ」などと小さく零す。 「……休むのはいいけど。……家?遼には家があるの?」 冴月は問う。どこか羨望の滲む声に気付いたか、遼はふっと口の端を上げた。 「あたし、高校生だよ?このご時世に高校に通わせる馬鹿な親が二匹。……くだらない。」 「いいじゃん、養ってもらえるなんて……羨ましいよ」 「どこが。あんなやつらに食べさせてもらうぐらいなら、万引きでもした方がマシ」 「そんな……ぜぇたく」 不服そうな冴月の様子に、遼は苦笑混じりに口を閉ざす。望遠鏡でまた建物を眺めながら、 「……セナは孤児?」 と小さく問い掛けた。冴月は「そうだよ」と頷きながら、カチカチとマウスをクリックする。 「だったらやっぱり贅沢に見えるかもしれないね。……でも、ね、あいつらはたまたまお金があるからあたしを養ってるだけなんだ。――売春で儲けた金でね」 「……売春?」 「汚れ金ってやつ。だから別に、あたしがいなくなったってどうってことないんだよ」 遼のどこか悲しげな声に、冴月は言葉を失って沈黙した。 カタカタとキーボードを叩く音だけが薄闇の廃ビルに響いていた。 「……遼も行くところがな――」 「あ……!!」 冴月の言葉を遮るように、突如遼が上げた声。冴月はきょとんとして遼を見上げ「どした?」と問う。 遼は望遠鏡でじっと建物を見つめた後、ばっと望遠鏡を外して再度建物へ目を向ける。 望遠鏡がなくてもよく見える、その、多くの人影。 「米国兵……!!」 「うそ!?」 冴月は慌てて立ち上がり、遼の横に立って建物を見下ろす。 そこには確かに、米軍の制服を着込んだ人物の姿が多く見えた。彼らが手にしているのは松明だろうか、その明りによって兵士達の姿を見ることが出来た。 兵士達はおそらく、一斉に建物の中に強襲を掛けたのだろう。突如賑やかしくなったその場に、二人はうろたえながらその場にしゃがみ込む。 「どッ、どうする!?」 「どうするって、どうしよう!?」 やはりそこは十六、十七の女の子でしかないのだろう。嫌な予感は感じていたはずだが、もしその予感が的中した時のことまでは考えていなかったようだ。 二人がおろおろしている間にも、米軍兵の猛攻は進んでいた。微かに悲鳴が耳をつく。 その時だった。 「そこのお嬢さん方!!」 と、凛とした声が突然響き渡ったのだ。 二人はビクゥッと身体を震わせ、声の主を見た。いつしか薄暗い廃ビルの中に一人の人物が立っているではないか。薄暗い室内で人物の姿までは見えないが、シルエットだけがぼんやりと浮かんでいる。 「私は正義の味方Happy!強襲などという卑劣な手段をとる悪人どもを成敗するために参上致した!」 昔話に出てくるような台詞に、その場の状況も忘れて二人はきょとんっと固まっていた。 以前にも米国軍の基地から盗みを働いていたHappyである。……当時は怪盗Happyだったはずだが。 Happyはつかつかと二人に歩み寄り、その口元に笑みを浮かべた。 「さぁ、悪人どもを徹底的にやっつけに行くわよ!準備は良いかしら?可愛らしいお嬢さん方ッ」 皮のつなぎに身を包み、その頭にはゴーグルをつけているのでどのような顔なのかまではわからないが、背格好や声からして、女性であることは確かだろう。 「は、ハッピー?……って、え?」 遼が訝しげな声を上げるが、Happyは「チッチッ」と人差し指を横に振り、 「今は名前なんかに拘ってる場合じゃないわ。二人共武器はある?」 と有無を言わせぬ迫力で問うた。冴月はポケットの中に入れた剃刀数本を確認し、遼は以前に米国兵から奪った拳銃を手に、Happyにコクコクと頷いてみせる。 「O.K.――それじゃあ行くわよ。しっかり掴まってなさい!」 とHappyが高らかに言ったかと思えば、突如二人の身体は宙に浮いていた。 否、Happyが二人を両脇に抱え、窓から飛び出すべく助走を始めた。 「な、なー!!?」 「落ちるって!!」 そんな二人の慌てた声も時既に遅く、三人は窓から飛び出した。 落ちる――!と、二人が目を瞑った、その瞬間、突如三人の身体はふわりと浮いていた。 そしてその直後、ガシャアアアアンッッ!!!と大きな音を立て、709跡地の建物の二階、大きな窓に突っ込んでいた。ガラスに突っ込んだのだから怪我でもしそうな状況だったが、Happyが窓を蹴り割ったのか、不思議と冴月も遼も一切怪我のない状態で、709跡地の建物内に到着した。 三人が到着したのは、ガランとした小部屋だった。人影はなく、先ほどの廃ビルと同じぐらいに荒れ果てている。 目を回している二人をHappyはペシペシと叩き「戦闘準備!」と高らかに言いつけた。 二人は慌てて我に返り、体勢を整えてそれぞれの武器を構える。 窓が割れた騒ぎを聞きつけてか、どたどたと幾つもの足音が聞こえてきた。 「殺していいよねっ?」 冴月は扉の方へ駆け寄ると、「もちろんさ!」と楽しげに答えるHappyの返答を聞きながら、扉のすぐ隣の壁面に背をつけた。程なくして足音は扉の前で止まると、少しの間を置いて、バンッ!と蹴り開けられる。 数にして五人の兵士の姿があった。「余裕のよっちゃんね」というHappyの呟きに聞く耳を持つほどの余裕はこの場の全員が持ち合わせていない。 扉が開いた瞬間、遼が放った銃弾が扉の前の米軍兵士を掠めた。 「ッ!」 押し入ろうとする兵士に、冴月の剃刀が光り、シュッと空を切る音がする。 ――その直後、兵士の手首から大量の血液が噴き出していた。 「ナイッス」 Happyは二人の見事な攻撃に賞賛を送りつつ、トントンッ、と軽いステップを踏み、扉の向こうの兵士を見据える。 冴月の剃刀攻撃によって失血した兵士がどさりと崩れ落ちれば、間髪いれずに後ろの兵士が銃弾を放ってきた。「わっ」と遼は後退るが、その銃弾が微かに手の甲を掠めたようだ。 「ハーイ、煙幕行きまーす!」 ご丁寧に宣言しながら、Happyは爆弾のようなものを投げつける。ボゥンッと低い爆音がして、廊下は白い煙に包まれた。 「味方にも不親切!」 冴月は思わずそんなことを言いながら、一気に間合いを詰めて兵士の懐に飛び込み、剃刀で兵士の首元を掻っ切った。降りかかる血の雨は覚悟していたものの、さすがに気色が悪かったらしく顔を顰めながら後ろに引いて室内に戻る。二人が気付けば、いつしかHappyの姿は室内に見当たらなかった。 Happyはと言うと、廊下の兵士の後ろに回りこみ、細いロープをシュッと兵士の首に掛け、ありったけの力でその首を締め上げる。白目を剥いて兵士がその場に崩れ落ちれば、次の獲物、とHappyは余裕の表情で煙幕の中の気配を探った。 遼は尚も室内からの銃撃を行なおうとしたが、引き金を引いてもカチカチと情けない音がする。 「……っ、やば」 遼がそんな声を漏らした時、煙幕を振り払って一人の兵士が室内に足を踏み入れる。冴月はと言えば次の剃刀を取り出すべくポケットに手を入れていたが、剃刀がポケットの中で引っかかってしまったのか、その手を引き出せずにいた。 「あぁぁぁもうっっ!!!!」 遼は自棄っぱちで手にした弾切れの拳銃を兵士に思いっきり投げつけていた。 兵士もそれは予想外だったか、銃を思いっきり顔面にくらい、どさりとその場に崩れ落ちる。 ――あと一人! 「せッ……えい!?」 Happyは威勢良く最後の兵士に殴りかかろうとしたのだが、兵士も偶然バッと振り向いたタイミングだった。長い銃の先端がHappyの額に思いっきりぶつかって、Happyはそのままどさりと尻餅をついてしまう。 冴月は最後の一撃だとばかり、手にした剃刀を振りかぶり、兵士に切りかかった――が。 ガシッ、と、大きな手が冴月の手首を掴んでいた。 冴月と兵士の目が合う。「……うげ」、冴月は絶体絶命のピンチを迎えていた。 遼は既に銃すら持っていないし、Happyは尻餅をついた時に頭でも打ってしまったのか。 ニヤリと笑みを浮かべ、兵士の銃口が冴月の額を捉えていた。 冴月は恐怖にキュッと目を閉じた。 ―――殺される! そう思った次の瞬間、 「がっ……!」 唸りを上げた兵士は、そのまま床に崩れ落ちていた。 カシャン、と、冴月の前に兵士の銃が落ちる。 助かった――?と、冴月が静かに目を開けた、その視界には 血塗れのナイフが映っていた。 「う、うわぁぁッ!!こ、こ、殺さないで!!!!」 冴月は無我夢中で声を上げたが、ナイフを構えた人物はふっと息をつき 「……殺しゃしねーよ。」 と、冷めた口調で呟いた。 ナイフを手にしているのは、米国兵ではなく――日本人の少女だった。 鋭い眼差しで冴月を見下ろしては、「んな武器で戦うバカがいるか?」と肩を竦める。 「あれぇ?……もしかして不良少女の伊純ちゃん?」 くらくらと眩暈が襲う頭を押えながら立ち上がったHappyは、ナイフを手にした少女に見覚えがあるようだった。不良少女の伊純(イズミ)ちゃん――彼女は、大晦日の日に婦警の千景や佳乃とも顔を合わせた少女であった。 「伊純ちゃんって、な……」 伊純は怪訝そうにHappyを見遣っては、「黙れ」と低い声で言いつける。 「不良少女……?」 遼のきょとんとした問いに、「そうそう」とHappyは頷きながら伊純の肩を取った。 「街で有名な不良よぅ。ほら、この薔薇のタトゥーが目印なの。」 Happyに指を差され、伊純はHappyを振り払いながら左の二の腕のタトゥーを手で覆った。 「今は無駄話してる場合じゃない。下ではまだ戦ってるやつも多いぞ。――死体もゴロゴロしてるけどな」 伊純は冷たく言って、三人を置いて廊下を歩き出す。 「あーん、待ってよぉ。あたしも行くー」 「ちょ、ちょっと待って、遼ちゃんの拳銃は弾が切れちゃったんですけどッ!」 「そういう時は死体の戦利品を掻き集めるのが吉よ!」 冴月と遼とHappyはその場に相応しくないような暢気な口調で言いながら、ばたばたと伊純の後を追った。 ―――しかし三人も、一階に降りればそんな言葉を発することも出来なくなる。 阿鼻叫喚、という言葉が相応しい、鮮血に染まった惨状が広がっていた。 「う、ぇッ……」 壁に凭れ掛けた『戦争反対』のプラカードに寄りかかり、嗚咽とも吐気とも取れぬ声を上げて顔を伏せているのは和葉だった。顔を上げることも出来ず、それでも鼻をつく血の匂いに眉を顰めて。 和葉の他にも、壁に額を寄せて口元を押さえる者やしゃがみ込んで微かに打ち震える、そんな人物の姿が多く見て取れる。それもそのはず。先ほどまで避難者が多く集まっていた大広間は、今や避難者よりも屍の方が多い状態だった。 ハーレム状態とばかりに女に囲まれて表情を緩めていた男達も、身体や頭を銃弾に打ち抜かれ、絶命してその場に倒れ伏せている。 「……酷い、有り様」 血塗れの警官制服姿で佇む佳乃は、呆然と立ち竦み、そんな呟きを漏らしていた。 彼女の服だけではなく、大広間のフロアや壁面、或いはそこに生きている者、死んでいる者――全てが血に染まり、赤い光景が広がっている。 生きている米軍兵の姿は見当たらない。この場に集った猛者達の反撃によって、米軍の者達も全員絶命したようだ。今はただ、沈痛な静けさだけが大広間を支配していた。 「婦警さん。ぼんやりしてる場合じゃないと思うわよ。」 Happyは皮のつなぎに付着した血液を払いながら、佳乃にそう話し掛けた。佳乃は涙を溜めた瞳でHappyを見ると、「うぅ」と唸りながら誰かを探すようにきょろきょろと辺りを見回した。 その時、廊下に続く扉が開かれ、姿を現したのは千景だった。千景は目に入った光景に眉を顰めた後、ふっと息をついて声を張り上げた。 「皆さん、米軍がいつ追撃を掛けてくるかもわかりません。一先ず安全な場所に退避したいと思うん……です、が」 千景が言葉を濁して目を伏せた時、ダンッ、と強く足を踏み出し、千景に詰め寄った人物がいた。 「安全な場所?……そんなところがあったなら、こんなに人が死ぬこともなかったじゃない!!」 長い黒髪を乱しながら女は怒鳴る。黒ずくめの格好に、以前よりも更に大きくなっている鎌を手にした女性。国会議事堂で米軍兵を殺した女だった。 「ご、ごめんなさい……本当にごめんなさい。こんなことになるなんて思わなかった……」 千景は弱い口調で返し、深く頭を下げる。そこにいる面々は何も言えずに、愁傷な警官の姿を見つめていた。やがて千景は顔を上げると、 「安全な場所があることは、あるんです。ただ――……パスワードがわからないの」 そう言って、面々に背を向け「ついて来てください」と、廊下を歩き出した。 「パスワード……?」 訝しげな表情を浮かべながらも血の付いた鎌を直し、女は千景についていく。残った面々も、戸惑いがちに千景達の後を追った。 突然の米軍の猛攻は、多くの命を奪っていった。無力な女性、男性、幼い子どもの姿すらあった。 そんな中で生き残ったのは、十数名。不思議なことに全てが若い女性だった。助太刀のために現れたHappyや冴月や遼。不良少女の伊純も無事だ。大きな怪我をしている人物も特にいないようだった。 ただ、精神的な傷となれば全員が健康ともいかないだろう。生き残った女性達の表情は曇っている――中でも一番重症なのは、婦警の佳乃なのかもしれない。 「……」 最後尾をぽつぽつと狭い歩幅で歩く佳乃に、千景は心配そうな視線を投げ掛けたが、声を掛けることはしなかった。相棒である佳乃のことは心配だった、けれど、今はそれ以上に重要なことがある。 千景は地下に続く階段を降り、更に奥へと進んで行った。すると、今までにない大きくて頑丈な扉が姿を現した。横幅は3メートルほどで、両開きの形になっている。おそらくは強化金属で出来ているのだろう、ちょっとやそっとじゃびくともしそうにない。そして扉の横には、コンピューターの端末装置があった。 「この扉が開けば……良かったの」 千景は悲しげに呟きながら、ポケットから小さなコンピューターを取り出した。PDAと呼ばれる、手の平サイズのコンピューターだ。それを扉の横の端末に接続し、千景は何事かを入力していく。 パソコン関連には目がないらしい冴月は、興味深げに千景の手元を覗き込んだ。 『パスワードを入力してください。』 PDAの画面にチカチカと点滅しながら表示されたメッセージ。千景はPDA本体付属のキーボードを、パチパチと入力した。画面上には『*********************』と暗号化されて表示されたが冴月は見逃さなかった。千景が入力したパスワードは乱数でも何でもない、『Bloody New Year's Eve』。 「血の、大晦日……」 ぽつりと呟く冴月に、千景はちらりと視線を上げ、一つ頷く。 「そう。この扉は、時代を辿る言葉が鍵になってるの。」 ガコン、と音がして、扉のロックは外れたかに思われた。しかし音がしただけで、扉自体は何の変化も見せなかった。 「幾つもの鍵が必要で、ね」 千景はそう説明しながら、次なるパスワードを入力する。 『Calamity』――大災害を意味する言葉だった。 また、ガコン、と音は聞こえるが、やはり扉は開かない。 そこでふっと千景は手を止め、困ったような表情で後ろで待つ女性達に顔を向けた。 「この先。……三つ目のキーワードがわからない。」 沈痛に呟き、ふっと溜息を漏らす。このキーワードさえあれば、扉は開くはずなのに。 女性達は顔を見合わせ、「キーワード?」と小さな会話が交わされた。 「それじゃあ、時代を辿る言葉を入力すれば良いのではない?」 一歩踏み出し、そう意見をしたのは血塗れの白衣を羽織った長身の人物だった。眼鏡越しの切れ長な瞳が千景の手にするPDAに向けられ、「ミステイクは許されるのかしら?」と問い掛ける。 この女性、一人の幼い少女の手を引いていた。女性は暗い研究室でコンピューターに向かっていた人物、そして薄紅の髪を揺らして無言で首を傾げる少女は、管の中で保管されていた人物だった。 「そうね、間違ったキーワードを入れても反応がないだけだと思う。……時代を辿る、言葉?」 例えば?と千景は首を傾げて女性を見上げた。 「……飢饉。famine」 「ファ……?」 どうやら千景は英語が得意ではないようだ。白衣の女性の「代わりましょうか?」との言葉に、千景はすぐに頷いてPDAを手渡した。白衣の女性はfamine、と六文字を入力してEnterを押すが、画面には「パスワードが間違っています」と表示された。しかし女性は気にすることもなく、 「他にも。思い当たるキーワード、全て挙げて頂戴。」 そう言って千景や、不安げな表情を浮かべる女性達に鋭い眼差しを向けた。 「洪水とか?」 「地盤沈下」 「津波……」 「……核、爆弾」 様々な憶測が飛び交い、その一つ一つを入力していくが、適合するものはなかった。 「第一、この建物っていつ建てられたものなの?その時期までに起こった出来事なら」 「限られるわね。」 Happyの言葉に千景は頷き、顎に手を当てて考え込む。暫しの沈黙の後、「二十年」と小さく呟いた。 「そう、丁度二十年前。……血の大晦日の直後、709が崩壊してからすぐに、とある科学者がこの建物を建てたらしいの」 その千景の言葉に、幾人かが訝しげな表情を浮かべた。 二十年前と言えば血の大晦日が起こってすぐ。その直後ならば、大きな出来事などなかったはずだ。 そんな千景たちのやりとりなど聞きもせず、冴月と遼は勝手に次々と憶測を立てて行く。 「電力停止?」 「水不足とかじゃないの?」 「あたし、昔のこと知らないからなぁ」 「遼ちゃんは、ちゃんと学校でお勉強してるよ」 「ホント?じゃあ色々知ってるんでしょ?」 「でも先生に見惚れてて、あんまり授業聞いてなかったし」 「何それ。……『勉強不足』。」 「そんなのキーワードなわけないじゃんっ」 半分雑談混じりになってきて、千景が小さく溜息をついた時だった。 白衣の女性が連れていた、幼げな少女。今まで一言も喋らなかった少女が、ぽつりと口を開く。 「……センソウ。」 「だから、二十年前にはまだ戦争は……」 千景は反論しながら肩を竦めようとした。――しかし。 ガコン。 ――そんな音に、千景はその場で固まって、ゴゴゴゴ、と響く音を背中で聞いた。 「……どうやら子どもの憶測には勝てないようね?」 クスッと艶やかな笑みで白衣の女性は千景を見上げた。 千景がゆっくりと振り向いた、その視界には、大きく口を開けた地下設備への通路があった。 明るい照明に照らされたその通路は――まるで、二十年前にタイムスリップしたようだった。 失われた時代を彷彿させる、文明に満ち溢れた場所がそこにはあった。 平和だった、あの頃の。 「待って、遼ぁっ!そこ何ーっ!?」 冴月と遼のコンビは、地下施設に入るや否や綺麗な廊下を駆け出していた。 背後から千景に引き止められたが、到底そんな声に振り向くようなやわな好奇心ではない。 遼も冴月も、今まで生きてきた中で、一度も目にしたことがない美しい施設内に興奮していた。 それは二十年以上生きている人物ならば知っている、昔の地球のありきたりな光景だ。しかし、十六歳、十七歳の二人にとっては未知の存在に他ならない。――否、遼は高校で昔の文化も多少齧っているようだが。 「えっと、これはね……」 遼は一室の扉を押し開け、更にその室内の扉を開いてようやく足を止めた。 後ろからひょこんっと覗き込む冴月。二畳程度の狭い空間は、完全防水になっている。 「これはシャワーでしょ?こっちは?」 冴月が知っているのは、ホースの先に水が四散する装置がつけられたものだけ。その部屋に作りつけられている、タライを大きくしたような四角い部分が何のためのものなのかはわからなかった。 「これはお風呂……ここにお湯を張って浸かるの」 遼は以前に教科書の片隅で見かけた知識を記憶から掘り起こした。 その言葉に、冴月は「ええ!?」と大袈裟に驚き、 「この中に!?浸かるの!?お湯に!?……な、なんて贅沢な……」 と、感心したような複雑そうな声を上げる。 この時代、水は非常に貴重なものだ。その水をこの大きなタライのような部分目一杯に張るなどと、冴月はとても信じることが出来なかった。 一方、別の場所でも驚きを隠せない人物が二人いた。 冴月と遼を見失ってしまった婦警二人組、千景と佳乃はその足で施設内を探検していた。 すると、二人は広い食堂に辿り着いた。 綺麗なテーブルセットが幾つも並べられ、その奥にはキッチンもある。 佳乃は、キッチンの水道に恐る恐る手を伸ばし、蛇口を捻る。ザァァと勢い良く流れ出したのは浄水だった。その事実に佳乃は目を見張るばかり。ハッと我に返って「勿体ない!」と蛇口を閉めるものの、それも余計な危惧でしかなかった。後々知ることになるだろう。この施設の浄水は、決して尽きることなどない。 そして千景はというと、それ以上に驚くべきものを発見していた。 『食品製造機』――千景がその名称を知っていたか否か。二十年前にも非常に高価な値段で取引されていた究極の機械。その機械が一つあれば、空気からキャベツを作り出すことさえ可能だった。 「……嘘でしょ……」 ボタンを試しに押してみると、機械は低い音を立てて動作し、やがて「ピー」と音を立てて戸が開く。 そこには、ほかほかと湯気が上がるおにぎりが二つ、ちょこんと並んでいたのだ。 それは確かに白米で、貼り付けられているのも確かに海苔だった。千景はそっとおにぎりを手に取り、くんくんと匂いを嗅ぐ。別段怪しい匂いもしないので、思い切って口に含んだ。 「……」 そして言葉を失った。あまりに絶妙な握り具合。あまりに絶妙な塩加減。あまりに美味だった。 もぐもぐと白米の美味しさを痛感しながら、千景はぽつりと呟いた。 「――信じられ、ない……」 『戦争反対』のプレートを引っかけたまま、和葉は不安げな表情でとある一室に足を踏み入れた。 二十年前を知っている人物ならばこう言うだろう。「ホテルみたいな部屋」と。十畳程度の広さの部屋、ダブルベッドが二つと、小さなテーブルセット。その室内にはまた二つの扉があり、それぞれ浴場とトイレが設備されている。遼と冴月が訪れているのは、別の一室。つまり同様の部屋がこの施設内に幾つも存在していることになる。 「……綺、麗」 和葉はまだ精神的ダメージから立ち直っていないようだが、目にしているあまりに綺麗な室内の情景にぽつりと零していた。恐る恐るベッドに近づき、そっと手を近づける。触ったら罠にかかるかもしれない、と、そんな危惧でもしているように怯えた様子だったが、この空間に彼女を脅かすものなどなにもない。 ベッドに触れると、さらりとしたシーツの感触があった。更に強く押すと、程好い弾力を持っていた。 「こんなベッド、初めて見た……」 この時世、新しいベッドは殆ど製造されていない。人々はずっと昔から使い古し、バネが傷んでいるベッドに身を横たえて寝ることが当然だった。むしろ、そんなベッドでもあれば贅沢な方かもしれない。和葉自身、コンクリートや冷たい床に身を横たえることの方が多かった。 和葉はベッドに身を横たえてみたいという衝動に駆られたが、なんとか押し留める。第一に身体が血塗れで、折角ベッドメーキングされた白いシーツや毛布を汚すことが躊躇われた。第二に、この素晴らしい状況を早く他の面々にも報告しなければならないと思った。といっても他の女性達だって、既にこの施設の素晴らしさはしっかり体感しているわけだが。 廊下に戻ろうとして、ふっと和葉は室内を見渡す。驚き続きで今まで気づかなかったのだが、この空間は非常に居心地が良い。その理由は、適温に保たれた室温にあった。 「……嘘みたい。こんな真冬なのに」 いつもカタカタと震えて自由のきかなかった指先も、今はしっかりと自分の意思で動かすことが出来る。 和葉はプレートの端に軽く指先を引っかけ、きゅっと握った。 彼女が訴える『平和』――それが、この建物の中には満ち溢れていた。 この状況に一番驚いているのは、この状況を保つことがどんなに難しいかを知っていた人物だ。 白衣を身に纏い、眼鏡を掛けて知的な雰囲気を滲ませる女性――彼女はその見た目通り、科学者だった。 そんな彼女が一番に足を踏み入れたのは『制御室』というプレートが掛かった一室。 彼女が暮らしていた研究室、今はどこかに置いてきたのだろう少女を管の中に保管し研究を続けていたあの研究室も、この現代からすれば過去の遺産が多く残っている環境と言うことが出来た。 しかし、この施設の制御室には到底敵わない。女性は制御室に足を踏み入れた途端、言葉を失った。 広い部屋いっぱいに組み込まれた機器。様々な制御装置がびっしりと並んでいる。 「……空気清浄機、浄水機、……自家発電装置まで……」 そばの装置を一つ一つ見つめては、その用途を理解しながら奥へ進んでいく。 そして、一番奥に設置されている巨大なコンピューターが目に入った瞬間、女性はふらふらと誘われるようにそのコンピューターに近づいていった。 女性は見つけた。それはこの地下施設の『記憶』だった。 『2081.10.12. AM04:32 01名の退室を確認 現在の在室人数・00名。 施設内の全機能を停止。』 『2101.01.07. AM05:12 01名の入室を確認 現在の在室人数・14名。 施設内の全機能を作動中。』 「こんなことが……」 信じられないといった様子で、女性は呟いた。 そして頭の回転が早い女性は、すぐに確信に至る。 この施設には―――二十年前の文明が、今も尚生きていると。 |