配役表
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アリス(中谷真苗) 白ウサギ(木滝真紋) アリスの姉(幸坂綾女)
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導きの扉(弓内かのん) 泳いでいるネズミ(田中リナ) ドードー(乾千景) トカゲ(小向佳乃)
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ユッキー(沙粧ゆき) ユーイー(神楽由伊) 青いもむし(横山瑞希) 母鳩(水鳥鏡子)
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いかれた帽子屋(高見沢亜子) 三月ウサギ(渋谷紗悠里) ネムリネズミ(戸谷紗理奈)
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トランプ四人組(望月朔夜・望月真昼・佐久間葵・穂村美咲)
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チェシャー・ネコ(茂木螢子) 女王(闇村真里) 王様(矢沢深雪)
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脚本 : 高村杏子
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 本来の大きさになって森を歩くのはなんだか不思議な気分だった。随分久しぶりにこの大きさになったからだろう、自分の足元に咲く花も、時折頭上を飛んでいる小鳥も、ひらりと舞い落ちてくる葉っぱも、その大きさに違和感を感じてしまうのだ。
「やっぱり瑞希さんの言うことは間違ってるのよ。」
 アリスは自分を納得させるようにそう言っては、うんうん、と自分に頷き返す。幸い今はアリスの言葉に反論する者はいなかったので、アリスは思う存分に自分の言葉に納得することが出来た。
 森の中は、生き物の気配はするものの、今までのようにアリスが小さくないからか声を掛けてくる虫も鳥もいなかった。探し求めているウサギ真紋も見失ってから随分時間が経っているし、先ほどユッキー・ユーイーと会った森とは別の森のような気もする(アリスは様々なことがありすぎて方向感覚を失っていた)。
 次第に森はその深さを増し、辺りは薄暗くて気味が悪い。
「こんな森、早く出なくっちゃ……」
 アリスは足を早め、森の出口へと急いだが、どれほど行けば出口になるのかもわからない。それから二十分程歩いて行くうちに、出口どころか森は更に暗くなり、まるで夜のような闇になってしまった。足元もおぼつかず、アリスは何かにつっかけて転ばないようにゆっくりと歩くようにした。遠くからは不気味な生き物の声が聞こえてくるし、ザワザワと木々が騒ぐ音にも怯えてしまう。アリスは少しだけ、泣き出しそうになっていた。
 その時アリスは、頭上に三日月が出ていることに気付いた。独特のカーヴを描くその月をぼんやりと見つめていると、驚くことに三日月はパッと消えては別のところに現れ、またパッと消えてしまった。
「……う、うわぁん……」
 怪奇現象でも目にしたようにアリスは涙声を漏らし、その場から逃げ出すように駆け出した。
 しかしすぐにふと足を止めたのは、どこからか笑い声が聞こえてきたからだ。
 クスクス。クスクス。アリスを嘲笑うような声は、四方八方から聞こえてきて、アリスは不安げな表情でその場に足を止めることしか出来なかった。
「暗闇の森に迷い込んだ者は、永遠にここを出ることは出来ません。クスクス。」
「あ……あなたは誰なの……?」
 アリスを怖がらせるのは一体誰なのか。アリスは恐る恐る震える声を上げ、辺りを見回した。
 すると先ほどの三日月が見えた。三日月はぼんやりと光を増し、そして浮かび上がったのは大きな猫だ。
 三日月は三日月ではなく、笑みの形に剥き出された白い歯だったのだ。
「なぁんだ……猫さんだったのね。」
 浮かび上がった猫は、尚もクスクスと笑みを漏らしながら木の枝に腰掛け、アリスを見おろしていた。
 猫が突然空中に浮かびあがったり、歯を見せてクスクスと笑っていることも驚くべきことなのだが、アリスは奇妙な出来事に慣れていて、むしろそれが猫だとわかっただけで安堵していた。
「ただの猫ではありませんよ。私はチェシャー・ネコの螢子です。」
「チェシャー・ネコの、螢子……?チェシャーが名前なの?それとも螢子さん?」
「どっちでもお好きな方を。それよりアリス?貴女はどうしてこんなところに迷い込んだのですか?」
 アリスはチェシャー・ネコの言葉に素直に答えようとして、驚いたように顔を上げた。
「わ、私名乗ってないのに!?」
「キャハハハ!!チェシャー・ネコは何でも知ってるんです。」
「こ、怖ぁぃ……」
 絶えずにやにやとした笑みを浮かべるチェシャー・ネコに、アリスは少しだけ怯えていた。会話は成立しているけれど、チェシャー・ネコはどこかふわふわとした印象を受けるのだ。その光のない瞳で全てを見透かしているような、或いは何も見ていないような。
「私は……この森から出て行きたいの。こんな気味の悪い森はもういやよ!」
「アハハハ、素敵な森じゃないですかぁ。昼も夜もなく暗闇に支配され、遠くから不気味な声が聴こえる。足を踏み入れる物全てを地獄に堕とし、時折森には血の香が充満して……」
「もういいわよ!!わかったから出口を教えてよッ!!」
 チェシャー・ネコはアリスを怯えさせるためにあんなことを言っている。アリスはそう思い、チェシャー・ネコの言葉に耳を貸そうとはしなかった。チェシャー・ネコは笑い声を途切れさせ、すっと細めた目でアリスを見る。
「迷路には出口があり、その先は全ての道に繋がっている。出口のない迷路では旅人達が迷い続ける。目的のない旅人は出口という偽りの目的に溺れ、永遠に迷路を彷徨い続けるのです。」
「私には真紋さんに会うっていう目的があるわ。」
「白ウサギは死刑に怯え先を急ぐ。少女になど目もくれず、白ウサギは女王へと向かう。つまり白ウサギは既に女王の物ということですよ。」
「何を言っているの?」
「キャハハハハ!!要するに白ウサギはアリスという少女などに興味を持っていないということです。」
「そんなことないわ!!」
 チェシャー・ネコの言うことは、アリスからしてみれば全く道理に適っていないように思えていた。だからアリスは真っ向からチェシャー・ネコの言葉を否定し、嘘ばかり吐くチェシャー・ネコに怒りを覚えている。チェシャー・ネコはそんなアリスの様子を楽しんでいるようにクスクスと笑みを零しては、ふっとその姿を消した。
「あ!ちょ、ちょっと、行かないでよ!この森から出る方法を教えて!」
 アリスは慌てて辺りを見回すが、暗闇の森は静まり返っていた。結局バカにされただけだったのかと肩を落とした時、アリスの背後からチェシャー・ネコのクスクスという笑い声が聞こえてくる。
「白いウサギに会いたいのならば、いかれた帽子屋に聞くことですね。」
「いかれた帽子屋?また変な人に会えっていうの?」
 アリスが声の方に顔を向けると、チェシャー・ネコはまた白い歯を光らせては姿を消した。
「アリスも気付いているでしょう?ここにいるのは皆おかしな人ばかりです。もちろん私もね。あっちに行けばいかれた帽子屋がティーパーティーを開いていますよ。三月ウサギも一緒になって盛大に盛り上がっていることでしょう。キャハハハハ!!」
 アリスはチェシャー・ネコの姿を見つけることが出来ないので、チェシャー・ネコの言う「あっち」の方向がわからない。諦め混じりの溜息を零しながら、
「いかれた帽子屋さんね……会えれば会ってみる……」
 とだけポツリと言葉を返す。すると今度はチェシャー・ネコはアリスの目の前にアップで現れ、さすがのアリスもそれには驚いた。
「さぁアリス、行きなさい。チェシャー・ネコが見守っていますよ。キャハハハハ!!」
 チェシャー・ネコは優しげな口調で言ったが、狂ったような笑い声だけは忘れない。そしてアリスの視界を覆っていたチェシャー・ネコがパッと姿を消すと、そこは先ほどの暗闇の森とは違い、緑あふれる穏やかな森の情景になっていた。
「……ど、どうなってるのよ。」
 アリスはおかしな出来事にもいい加減慣れて来たらしく、「まぁいっか」と小さく呟いて歩き始めた。
 五分も歩かないうちに森は途切れ、そして前方には「帽予屋、500メートル先↑」と間違った文字で書かれた看板が見えた。その看板の矢印に従って歩いていけば、木で出来たボロボロの家が見えてきた。
「あれがいかれた帽子屋さん……かなぁ。」
 アリスは気が重いといった風に呟いたが、チェシャー・ネコの助言もあり、素直に家へと近づいていく。家の庭から何やら賑やかな声が聞こえてきたので、アリスは玄関ではなく先に庭の方へと向かうことにした。
「アハハハ、あかんやろそれは。紅茶とジャムとトーストとマーガリンは全部混ぜなな!」
「それはもちろんですよ。その中にコーヒーとカスタードクリームを添えたら美味しいんです。」
「なるほどなぁ、通やなぁ三月ウサギは!」
 庭には大きな丸いテーブルがあり、その上には紅茶やコーヒーやケーキや七面鳥など、パーティーに欠かせないものが豪華に揃えられていた。しかし紅茶は半分以上が机の上に零れており、ケーキのクリームもあちこちに散らばっていてひどいありさまだ。そのテーブルを囲んでいるのは、奇妙な帽子を被った人間と、茶色い毛並みをしたウサギだった。この二人がチェシャー・ネコの言っていたいかれた帽子屋と三月ウサギなのだろう。
「あ、あのぉ……」
 アリスは恐る恐るテーブルに近づきながら、二人に声を掛けた。二人はアリスを見ると揃って眼鏡をクイッと上げて、怪訝そうな表情を浮かべる。
「なんやあんたは。招待状なんか出した覚えあらへんで」
「そうですよ。招かれざる客はパーティーの邪魔をしないで下さい。」
 明らかに邪険に扱われ、アリスはそのまま「お邪魔しました」と引き返そうかとも思ったのだが、真紋ウサギに会うためなのだと自分を奮い立たせた。
「突然お邪魔しちゃってごめんなさい。私はアリスっていいます。実は……」
 事情を話そうと口を開きかけたとき、突然ティーポットの蓋が開き、中から茶色いネズミが顔を出した。
「可愛い姉ちゃんじゃないのよコレー」
 ネズミはアリスをまじまじと見てそう言ったが、三月ウサギが思いっきり蓋を上から押したのでまたポットの中に引っ込んだ。
「クリスかドリスか知らへんけど、残念ながら満席なんや。さっさと帰ってくれへん?」
「そうですよ。もうこんなに大勢居て、貴女の座る席はないんです。」
 帽子屋と三月ウサギはそう言って、また揃って眼鏡をクイッと上げる。しかしテーブルを囲む椅子は三つも空いているし、たった二人、ポットの中のネズミを含めても三人しかいないのだから、ちっとも大勢じゃないとアリスは思った。
 けれどアリスはこの二人をこれ以上を怒らせてはいけないと思い直し、得意の営業スマイルを浮かべてこう言った。
「それにしても、お二人とも素敵な眼鏡ですねっ!よくお似合いですぅ」
 両手を胸元に組んで小首を傾げながら相手を誉めるのはアリスの常套手段だった。すると二人は満更でもないようで、顔を見合わせてはにやりと笑う。
「眼鏡を誉められたんは初めてやで。ええ子やなぁ。さぁ座り!三月ウサギ、お茶いれたってや!」
「はい、わかりました。どうぞこちらに。」
 アリスは単純だなぁと思いながらもそれを口にすることはなく、促されるままに二人の間の席に腰を下ろす。
 三月ウサギが入れてくれた紅茶は先ほどのネズミが入っていたポットから注がれたものだったのでアリスは少しだけ抵抗があったのだが、もてなしを断るのも悪いと思ってカップに口をつける。紅茶にネズミの出汁は出ていなかったので、アリスは安心してコクコクと紅茶を飲み干した。
「イヨッ!いい飲みっぷりだね!世界一!」
 またネズミがポットから顔を出して高い声で言うが、すぐさま三月ウサギに押し付けられて引っ込んだ。
「自己紹介がまだやったなぁ。私は世界一の天才帽子屋の亜子やで。あんたの飲みっぷりも世界一かもしれへんけど、私も世界一やからな!!」
「私は三月ウサギの紗悠里です。あぁそれからこのポットに入っているのがネムリネズミの紗理奈。時々出てくる時以外はこのポットの中で眠っています。」
 三月ウサギに説明に合わせてネムリネズミは顔を出そうとしたが、今度は三月ウサギがしっかりとポットの蓋を押さえつけていたのでそれもままならなかった。
 アリスは些か押されがちに「はぁ」と相槌を打ちながら、乱雑としたテーブルを見渡した。
「今日は何のパーティなの?もしかして誰かの誕生日?」
 三月ウサギが注いでくれた紅茶のおかわりを口にしながらアリスは問い掛けた。紅茶を口に含んだところで、どろりとした感触に眉を顰めたが、それがカスタードクリームの味だとわかったのでそのままゴクンと飲み込んだ。
「誕生日やて!?何いうてるんや、この子は頭がおかしぃんとちゃうのん?」
「全くです。誕生日にお祝いをするはずがないでしょう!」
 アリスは自分がおかしな質問をしたつもりが全くなかったので、二人の様子にきょとんとした。
 帽子屋と三月ウサギはカップを手にすると、乾杯をするようにカップを思い切りぶつけ合わせた。ガシャンと大きな音がしてカップは割れ、中に入っていた紅茶やトーストが散らばるが二人は全く気にせずに、声を合わせてこう言った。
『誕生日じゃない日、おめでとう!』
 アリスはしばらく二人の言った言葉が理解できなかった。嬉しそうに「おめでとう!」と連呼する二人を交互に見た後、おずおずと口を開く。
「ねぇ……どうして誕生日じゃない日にお祝いをするの?」
 しかし二人は「おめでとう!」を言うことに夢中で、アリスの言葉を聞いていなかった。
 そこでポットの中から顔を出したネムリネズミがこう言った。
「チッチッチッ!そんな当然のことをこの二人に聞いちゃぁまたバカにされるのがオチなのだ。そこでネムリネズミの紗理奈っちゃんが親切丁寧に教えてやるのだ、心して聞くが良い!!」
「は、はい……お願いします。」
「一年間は365日あるのはバカっぽいお前でも知っていると思うわけよ、だよね?だよね?」
「もちろんです!」
「じゃあさ、その365日のうちに誕生日は何日ある?二日?三日?一ヵ月?ノンノン!たった一日しかないのよコレ!わかるゥ?要するにッッ!!365日のうちの一日をお祝いするよりも、365日のうちの364日をお祝いした方がお得じゃない!ほら!なんてわかりやすい紗理奈ちゃんの説明!!」
「……」
 アリスは先ほど三月ウサギがしていたように、バンッ、とポットの蓋を上から押してネムリネズミを黙らせた。それから、尚も楽しげに「おめでとう!」を繰り返している二人を横目に見ながら考えた。
「私はてっきり誕生日パーティーが年に一度だけあるから嬉しいんだと思ってたけど……でも良く考えたらそうよね、その通りよね。一年に一回よりも、一年中お祝いをしてた方が楽しいに決まってるのよね。うん。そしたら毎日のようにプレゼントがもらえるわけだし、毎日のように豪華な晩御飯を作ってもらえるわけだし、大好きなケーキだって毎日食べられるんだわ!そうよね、どうして今まで誕生日にお祝いなんかしてたのかしら。誕生日じゃない日にお祝いをした方が楽しいに決まっているのに!!」
 アリスの考え事はいつの間にか独り言になっていた。そしてそれを聞いていた帽子屋と三月ウサギは笑顔でうんうんと頷き、新しいカップに三人分の紅茶を注いだ。二人がカップを取ると、アリスも二人を見て笑みを浮かべ、カップを手に取る。そして今度は三人で声を合わせて言ったのだった。
『誕生日じゃない日、おめでとう!!』
 またもカップが割れてぐちゃぐちゃになったテーブルを気にすることもなく、三人は椅子に座りなおした。そして新しいカップにまた紅茶を注ぐと、それぞれ紅茶を一口啜り、そして三人は同時に切り出した。
「やっぱり紅茶にはラー油を一滴入れるんも欠かせへんと思うねんけど」
「ネムリネズミがさっき騒いでいたような気がしたけど……気のせいかな」
「あ、そうだわ、私は真紋さんを探しているんだけど」
 帽子屋、三月ウサギ、アリス。声が被って一時三人は押し黙る。そして最初に言葉を切り出したのは帽子屋だった。
「さぁ、今出たの話題の中から一番場が盛り上がりそうな話題を多数決で選ぼうやないか!!」
 そんな帽子屋の提案にアリスは首を傾げた。三人が別々の話題を言い出したのだし、それは皆その話がしたかったということだから、多数決はバラバラになってしまうのではないかと思ったのだ。この多数決にはネムリネズミの票も含まれるのかとポットを見るが、こういう時に限ってポットは沈黙を守っていた。
 そして多数決の結果は、やはりアリスの予想通りだった。一度ポットが開きかけたが、三月ウサギは問答無用で蓋を押し付け、ネムリネズミに発言権を与えなかった。
「そもそもなぁ、多数決っちゅーのはほんまは不公平なんやで」
「どうして?」
 アリスは帽子屋の言葉を聞き返し、興味津々に続く言葉を待っていた。なぜならアリスの学校ではいつもクラス会議で多数決を使っていたし、生徒会にしても学園ミスコンにしても、全ては多数決だからだ。アリスは多数決ほど公平なものはないと思っていた。
「例えば、宇宙で一番偉いやつを決めようってことになったときに、多数決なんか使こたらどうなると思う?」
「え?いいんじゃない?宇宙で一番人気のある人がなれるんだから」
「人やなんて一言も言うてない。宇宙で一番偉いやつって言うたんや。それはどんな生き物も含まれるし、いや、生き物だけやのうて、土やって岩やって含まれるんやで?」
「でも土も岩も喋れないでしょ?」
「喋れるんやこれが。」
 帽子屋の主張にアリスは反論しようとしたが、ふと口を噤んだ。ここは不思議の国なのだから、土や岩が喋ったって何もおかしくないからだ。「ここまではええな?」と問い掛ける帽子屋にアリスが頷き返せば、帽子屋は更に言葉を続ける。
「さぁ投票や。実際宇宙で何が一番多いかなんて知らんけど、人間やないことは確かやな。ウサギやネズミでもない。」
「宇宙で一番多いのは星じゃない?だって夜空にはあんなにたくさんの星があるもの」
「星は一個やけど、地球っちゅう星の中には人間が何十億もおるやんか。」
「あ……そっか」
 そこでアリスと帽子屋は考え込んでしまった。宇宙で一番何が多いかなんてさっぱりわからなかったのだ。そんな時、ネムリネズミを押さえつけることに必死だった三月ウサギがふと顔を上げた。
「宇宙で一番多いのは水素ですよ。」
 三月ウサギが当然のようにぽつりと言えば、アリスと帽子屋は声を合わせて「それ!」と指を差す。
「ちゅーことで、宇宙で一番偉いやつを決めるために多数決をしたら水素が一番偉いことになるんや。なんやおかしいと思わんか?」
「うぅん……そっか、数が多ければ多い方が勝つのね……」
「せや!!やから、多数決はあかんねん。」
 帽子屋の力説にアリスはすっかり納得してしまっていた。多数決の不公平さを知った今、学校で行なわれる多数決で納得ができるだろうかと不安にも思っていた。
「そういやアリスは、どうしてこんなところにおるんかな?」
 アリスは尚も多数決の不公平さについて考え込んでいたのだが、帽子屋は先ほどの結論が出ただけで満足したようだ。バシャバシャとポットの紅茶を零しながらほんの数滴をカップに注ぎ、それを飲み干してからアリスに問い掛けた。
「え?私?……えっとぉ、私は……」
 突然の問いにアリスはしばし考え込んでいた。なかなか頭の中から多数決の話が出て行かなかったのと、そしてここにいる経緯を説明するために遡っていくうちに、どんどん前のことまで思い出さなくてはならなかったからだ。
「そう、私はね、綾女お姉様と一緒に木陰でお勉強をしていたの。といっても私は全然お勉強に集中出来なくって、なにか面白いものがないか探してたのね。そしたら白いウサギの真紋さんが走っていくところが見えて、私は真紋さんを追いかけたの。」
「ほぉ。面白そうな話やな。続けて続けて。」
 帽子屋は頷きながら、ポットの紅茶をアリスのカップに注いだ。帽子屋はアリスの話を楽しみにしているらしく手元に全く注意を払っていなかったので、ポットから出てくる紅茶はカップではなくテーブルの上に全て零れていく。アリスはそれを気にしながらも、話を続けた。
「真紋さんを追いかけて穴に入ったら、私はどんどん下に下りていっちゃうのね。その時は本当に死ぬかと思ったわ。それで私はお母様やお父様、綾女お姉様にお別れを…ああ、それと成にもね。」
「ふんふん。なるほど。んで、その成っちゅーのは何者や?」
「あぁ、成は私が飼っている可愛い猫で……」
 アリスがそう言ったや否や、突然ガシャンッと大きな音がして、ポットからネムリネズミが飛び出した。あまりに一瞬の出来事で、三月ウサギがポットの蓋を押える暇すらなかった。
「ねねねねねねねね、ネコォォ!!?」
 ネムリネズミは驚愕に歪んだ表情でアリスを見上げた後、金切り声を上げてテーブルの上を暴れ出す。
「いやぁぁッ!猫はイヤァッ!いやだぁぁぁッ!猫はあたしを丸呑みにして、うわーーーーーん!!」
 暴れ出したネムリネズミにアリスはぽかんとするだけだったが、三月ウサギと帽子屋は慣れた調子で役割分担をした。三月ウサギがネムリネズミに飛びついてその身体を取り押さえ、
「早くジャムをネムリネズミの鼻に!」
 と帽子屋を急かす。帽子屋は指先にたっぷりと掬ったジャムを、思い切りネムリネズミの鼻に押し付けると、間もなくしてネムリネズミは暴れるのをやめ、すやすやと眠りについた。
「そっか、ネズミさんは……が苦手なのね。成は可愛い子なのに。」
 アリスは以前に会ったリナネズミのことも思い出し、ネムリネズミが混乱した理由を理解した。またネムリネズミが暴れ出すことのないように、今度は「猫」という言葉は声には出さずに唇だけ動かした。
 静かになったお茶会で三人が椅子に座りなおしていると、どこからかまた賑やかな声が聞こえてきた。
「あーん、もう、遅刻しちゃう!時間がなぁーいっっ!!」
「真紋さんだわ!」
 アリスはガタンと音を立てて椅子を立つと、きょろきょろと辺りを見回して声の主を探す。
 やがていつもの調子で駆けて来た真紋ウサギはお茶会のそばを通りかかると、足を止め一つ礼をした。
「いかれた帽子屋さんに三月ウサギさん、こんにちは。そして私は時間がないからもういかなきゃいけないの、ってことでさようなら!」
 真紋ウサギは慌しく挨拶をして駆け出そうとしたが、アリスがそのベストの裾を掴んでいて、真紋ウサギはその場で思いっきり転んでいた。
「んもぅ、酷いよ真紋さんってば。私もいるでしょ?アリスよ、ア・リ・ス!」
 今度こそは名前を覚えてもらおうと、アリスはしっかりと自分の名前を強調した。真紋ウサギは顔を上げて眼鏡越しにアリスの顔をまじまじと見つめ、コホンと一つ咳払いをする。アリスはまたメアリー・アンと呼ばれてしまわないか不安だったのだが、予想に外れて、真紋ウサギは爽やかな笑顔を向けていた。
「これは可愛らしいお嬢さん、気付かなくて申し訳ない。あいにく私は時間がないので、また次の機会にゆっくりとお茶でもいかがです?」
 真紋ウサギは紳士然とした態度でそう言うと、アリスの手を取ってその手の甲にくちづけを落とした。アリスは思いもよらぬ真紋ウサギの行動に、うっとりとした表情で相手に見惚れるだけだ。
 真紋ウサギはすぐに体勢を立て直し、「それでは」とその場を後にしようとした。しかし、真紋ウサギが手にしていた懐中時計を、三月ウサギがひょいっと取り上げていた。三月ウサギは軽く時計を振った後で耳に宛てて中の音を聞いているようだった。すぐに驚いたような表情で
「大変です。この時計、丁度二日分遅れていますよ。」
 と言って、その時計を帽子屋に放り投げる。真紋ウサギも驚いた表情で帽子屋へと駆け寄り
「二日ぁ!!?うそでしょ、こんなに遅れてるのに、更に二日も遅れてるっていうわけ!?」
 と高い声で問い掛ける。
 帽子屋は至って冷静に時計を耳に押し当て、「なるほど」と小さく頷いた。
「なぁに、私に任しとき!すぐに直したるさかいになっ」
 帽子屋は自信満々にそう言うと、器用に時計のネジを外し、ぱかりと開く。
「あぁもう直さなくてもいいわよ!時間がないのッッ!!」
 真紋ウサギは慌てて手を伸ばすが、三月ウサギが背後からガシッと真紋ウサギを押さえつけているので帽子屋の行動を止めることは出来なかった。帽子屋はここぞとばかりに中の歯車やネジを指でいじり、
「このぐらい、バターとジャムを塗っておけばすぐ直るで。」
 と言って、べちゃべちゃと嫌な音を立てながら時計の内部にバターとジャムを塗りこんでいく。
「やーめーてー!!私の時計を壊さないでーーっっ!!」
「なに言うてるんや。直してやっとるんやで?しかも好意でな?」
 帽子屋は時計の中に紅茶とコーヒーを注ぐと、最後にケーキの生クリームを浮かべて時計の蓋を閉じた。
「よし!これでこの時計は見事新品のようにもと戻……」
 帽子屋が言い終えるか終えないかの時だった。突然時計がジリリリリリ!!とけたたましい音を鳴らしたかと思えば、ボゥン!!!と煙を上げて爆発してしまった。
「あぁぁ……私の時計……。誕生日じゃない日のプレゼントだったのに……」
 真紋ウサギが悲嘆に暮れた声を上げる。帽子屋と三月ウサギはそこで顔を見合わせると、真紋ウサギを左右からがっしりと抱え上げる。そして二人は満面の笑顔を浮かべ、ぽーーん!と真紋ウサギを生垣の外へと放り投げながらこう言った。
『誕生日じゃない日、おめでとう!!』





 アリスにとって、真紋ウサギから貰った手の甲へのキスは至福極まりないものだった。ずっとずっと長い間追い続けていた愛しい人に貰えたキスは何物にも変え難かった。だからアリスは懐中時計が壊される騒動すらも上の空で、ぼんやりと夢の世界に浸っていたのだ。
 ハッと我に返った時には、真紋ウサギが駆けて行く後ろ姿が米粒ほどに見えていた。
「いけない!追いかけなくちゃ!」
 先ほどのお茶会は尚も開かれているらしい。庭からは賑やかな声が聞こえてくる。けれどアリスはもうあの二人に用事はなかったから、躊躇うことなく賑やかな声に背を向けて真紋ウサギを追いかけ出した。
 真紋ウサギは森へと続く道を一目散に駆けて行く。アリスは懸命に真紋ウサギを追いかけるあまり、周りの風景を見ることをすっかり忘れていた。道は徐々に細くなり、獣道になり、終いには草を掻き分けて進まなくてはならなくなってしまった。
「きゃあ!」
 不意に足を蔦に取られ、アリスはその場で転んでしまう。慌てて身体を起こした時には、真紋ウサギの姿は見えなくなってしまっていた。アリスはすぐに追いかけようとしたが、今みたいに蔦に足を引っかけないように慎重になり、とても真紋ウサギに追いつけるほどの速さで走ることは出来ない。
「はぁ……さすがはウサギさんね。なかなか追いつけない。」
 アリスは妙なことに感心しながら、一つ溜息を漏らす。
 その時どこからか、聞き覚えのある笑い声が聞こえてきた。
「キャハハハ!アリスがもう少し体育の成績が良ければ、追いつけたかもしれないのにぃ」
「その声はチェシャー・ネコの螢子さんね?」
 アリスがきょろきょろと見回すと、思ったとおり、三日月形の口がぼんやりと木の枝のところに浮かび上がった。続いてチェシャー・ネコの身体全てが現れ、木の枝の上からアリスを見下ろしている。
「はい、ご名答。愛しの白ウサギにキスを貰った感想はどうですか?」
「それはもう……幸せー」
 アリスはにへらーと表情を緩めるが、すぐにその笑みは消え、不安げに辺りを見渡した。
「幸せなのはいいけど……私はまた真紋さんと会えるかしら?」
 アリスの独り言のような問いを聞いて、チェシャー・ネコは木の枝からトンッと身軽に飛び降りた。そしてゆっくりとした動作でアリスに近づくと、クスクスと笑いながらアリスを見上げる。
「会いたければ会えるでしょう。だけどアリス?そろそろ家に帰って成や綾女お姉さんと一緒にお茶を飲みたくはないですか?」
「え?……それは……」
 チェシャー・ネコの言葉にアリスは迷った。いい加減、この不思議の国で起こる出来事が嫌になってきた部分は否めない。チェシャー・ネコにしても先ほどのおかしなティーパーティーにしても、アリスにとっては不思議すぎて慣れることが出来そうにもなかった。ただアリスの心の支えになっているのは、あの真紋ウサギだけなのだ。
 チェシャー・ネコはクスクスと笑いながら、ふっとその姿を消した。そして次の瞬間には、アリスの足元にいたのはチェシャー・ネコではなく、見慣れた成の姿になっていた。成は可愛らしい声で鳴きながら、甘えるようにアリスの足元に額をすりつけた。この不思議の国の動物達のように喋ることもない。
「成……」
 アリスはその場にしゃがみ込み、そっと成の頭を撫でた。そうしていると、無性に我が家が懐かしくなり、泣き出しそうになるのをぎゅっと堪えた。その時、成の顔だけがあのにやにやとした笑みを浮かべるチェシャー・ネコの顔に変わった。
「キャハハハ!ほら、心が揺れてるんでしょ?これからどうするかはアリス次第ですよ。」
 チェシャー・ネコは狂ったように笑った後、成の身体ごとその姿を消した。チェシャー・ネコがいた場所をぼんやりと見つめていたアリスは、ゆっくりと顔を上げて、今までなかったものがそこにあることに気がついた。
 左右にそびえる大きな木に、それぞれ扉がついているのだ。同じ形の扉だが、プレートに刻まれている文字が違う。一つは「家へ」、そしてもう一つは「女王様のもとへ」。
「……こっちの扉を開ければ家に戻れるのね。そしてこっちは…」
「さっきも言ったでしょう?白ウサギは何のためにあんなに急いでいる?」
「女王様の、ため……?」
「その通りです。この世界の全ての道は女王様のもの!偉大な力を持った女王様の!!恋敵を見ておくぐらいはしておいても良いと思いますけどね!キャハハハハ!!!」
 チェシャー・ネコの言う恋敵という言葉に、アリスは表情を曇らせた。あの真紋ウサギは、女王様とやらの一体何なのだろうか。そう考え始めると、アリスは胸がチクチクするような嫌な感覚を抱いた。
 アリスの周りでは、チェシャー・ネコの三日月形の口が浮かんだり消えたり、点滅を続けていた。
 アリスはしばらく迷った後で、一方の扉のドアノブに手を掛けた。その扉に綴られたプレートには「女王様のもとへ」の文字が刻まれていた。




 扉を開けた先には、手の入った綺麗な庭園が広がっていた。美しい噴水が整備され、アーチには白い薔薇が咲き乱れている。アリスは青々とした芝生を踏みながら、庭園内を歩いて行った。やがて前方に不思議な物を見つけ、アリスは小首を傾げながらそちらへと近づいていく。
 それは物ではなく人なのだろうか。それらはトランプの形をしているのだが、ちゃんと手や足がついている。トランプの彼らは慌てた様子で、白い薔薇をペンキで赤く塗り替えていた。
 アリスは一人のトランプに近づいていった。クローバーの9のトランプで、そのカードの隅に書いてある「真昼」というのはトランプの名前だろうか。
「あのぉ、何をしてるんですか?」
 アリスが声を掛けると、クローバー真昼はちらりとアリスに目を向けて困ったような笑みを向けた後、手を休めることなくこう言った。
「女王様は赤色がお好きなんです。ですが……」
「葵が間違えて白い薔薇を植えてしまったんですよね。」
 クローバー真昼の言葉に続けて言ったのはスペードの5のトランプで、「朔夜」という名前が書いてある。
「あ、あたしが悪いんじゃないですよぉ。そりゃ確認しなかったのは悪かったけど、業者に電話したのは美咲さんですよぉ?」
 どうやらこのハートの2が「葵」らしい。ハート葵は言い訳じみた口調で言って、ちらりとダイヤの6の「美咲」というトランプに目を向ける。
「……今は誰が悪いかを討論している場合じゃないわ。」
 ダイヤ美咲は冷静な口調でぽつりと言った。他の三人はその言葉に頷くと、またせっせと白薔薇を赤く塗り替えて行く。
「あ、私も手伝いますねぇ」
 アリスは余っていたペンキと刷毛を手に取り、手近な白薔薇にペンキを垂らしていった。
「ありがとうございます。人手が足りなくて困っていたの。」
 クローバー真昼はアリスに微笑みかけ、頭を下げた。アリスは礼儀正しいトランプに笑みを返しながら、ぺたぺたとペンキを塗る。ちらりと他のトランプ達に目を向けるが、皆黙々と必死で作業をしているようだ。
「どうしてこんなことをするの?失敗しちゃったのは仕方ないんじゃない?きっと女王様も許してくれるわよ。」
 アリスは不思議そうに問い掛けるが、アリスの言葉に四人のトランプは一斉にピタリと手を止めた。
「と、と、とんでもないですよぉぉ!!」
「許しては……くれないでしょうね。」
 ハート葵とダイヤ美咲がアリスの言葉に切羽詰った、或いは諦めたような言葉を返す。
「あの女王様ですからね……。」
「ええ……。」
 スペード朔夜とクローバー真昼も沈痛な面持ちで、葵や美咲の言葉に同意していた。アリスがきょとんとしていると、そばにいた真昼がそっと耳打ちをする。
「女王様は残酷な方なんです。もしもこのことがばれたら……きっと首をはねられます。」
「ええ!?」 
 アリスは素っ頓狂な声を漏らしていた。首をはねるなど、テレビドラマでちらりと耳にする程度の現実感のない話だ。まさかそれが今耳元で囁かれるなど思ってもいなかった。さすがにそれは避けなければならないと、アリスは必死になって白い薔薇を赤く塗り替えていった。
 そしてようやく周りが赤い薔薇ばかりになって、アリスが最後の薔薇を赤く塗り終えた時、「女王様だ!」とスペード朔夜が四人に聞こえるように声を上げた。
 徐々に近づいて来る行列。ずらりと並んでいるのはいずれもトランプの兵隊だった。整った足取りでアリス達の方へとやってくる。その兵隊の後方に守られるようにして歩いているのは、身長の高い美しい女性だった。女性は豪華な衣服を身に付け、他の者達よりも一段と大きい態度で歩を進めている。アリスはすぐにその女性が女王様なのだとわかった。誰でもその隊列の中から女王を探せと言われれば、すぐにその女性だと言うだろう。それほどに、女王らしいオーラを持った人物だった。その隣には、幾分女王よりも腰の低い感じの男の姿がある。おそらくあれは王様なのだろうが、こうして傍目から見る限りでも女王が実権を握っていることは明らかだ。そして目敏いアリスは、女王と王の後ろに真紋ウサギの姿を見つけた。
 気付けば、先ほどのトランプ四人組はその場で跪き、頭をもたげている。アリスもそうすべきなのか迷ったが、隊列は徐々に近づいてきているし、今から腰を下ろすのも何なので立ったままで隊列を向えた。
「あら、可愛らしい女の子ね。見ない顔だけれど、貴女はだぁれ?」
 女王はアリスのそばまでやってくると、優しげな微笑みを浮かべて問い掛ける。アリスは女王を見て、この人が首をはねるだなんて思えない、と安堵しながら一礼した。
「ごきげんよう女王様。私はアリスと申します。美しいお庭に誘われて、つい足を踏み入れてしまいました。」
「まぁそうだったの。アリスは礼儀正しいわね。」
 女王はアリスの頭を撫で、またにっこりと微笑んだ。
「私はこの国の女王の真里と言うの。隣にいるのは……言わなくてもわかるかもしれないけれど、国王の深雪よ。貴女のような一般人は滅多にお目にかかることができない方だから、無礼のないようにね?」
「はいっ。……あ、あの、女王様?一つだけお聞きしてもいいですか?」
 アリスは女王の後ろにいる真紋ウサギを見つめながら、女王に問い掛ける。真紋ウサギはアリスと目が合うと、どこか慌てたように目を逸らした。
「何かしら。」
「女王様の後ろにいる真紋ウサギさんは、女王様の何なんです?」
 アリスの問いはまるで、恋人の浮気相手に掛ける問いかけのようだった。感情が滲んで、言い方もどこか意地の悪いものになってしまった。女王はアリスの問いにきょとんとして、後ろの真紋ウサギに目を向ける。
「あ、あ、あ、私はそのアリスなんて子は全然知りませんからね?多分その子の人違いです。」
 そして真紋ウサギのそんな返答も、まるで浮気相手と本当の恋人を前にしてうろたえている三角関係の中心人物のようで、アリスからしてみれば気に食わないものだった。
「でもアリスはあなたの名前を知っているわよ。」
 女王はクスッと笑って指摘すると、改めてアリスに向かい、こう言った。
「真紋は私の可愛いペット。それ以上でもそれ以下でもないわ。」
「ペットって……」
 アリスはその答えでは納得出来ず、更に追及しようとした。しかし女王はふと何かに気付いたようにアリスの隣を通り抜け、赤い薔薇のそばに近づいていった。まだペンキを塗ったばかりの赤い薔薇は、太陽の光に照らされてキラキラと光っている。
「……あら、これは良くないわねぇ。」
 女王は悠長な口調で言いながら、薔薇にそっと指先を当てた。指には赤いペンキが付着し、そして薔薇はその部分が剥がれ、元の白色が顔を覗かせてしまったのだ。
「誰かしら?こんなことをしたのは?」
 女王の問いかけは、跪いている四人のトランプたちに向けられたものだった。四人はビクッと身体を竦ませた後、ゆっくりと顔を上げた。
「じょ、女王様……申し訳ありません。これはその……」
「……私は関係ありませんので。」
「わ、わ、み、美咲さんが注文を間違えたみたいでーッ」
「……本来ならば全員で確認をすべきところでしたが……」
 しどろもどろになりながら言葉を返す四人のトランプに、女王はにっこりと笑みを向けた。アリスはその様子を見て、女王は怒らなかったのだと安堵したが、それも束の間。女王が告げた言葉に耳を疑っていた。
「連帯責任ね。みーんな死刑。」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って下さぁい!死刑はないじゃないですかぁっ」
 アリスは慌てて女王に近寄り、そう訴えかけた。女王はきょとんとアリスを見つめた後、「どうして?」と楽しげな笑みをたたえて問い掛ける。
「だって薔薇が赤いか白いかぐらいで……そんなのバカみたい!薔薇なんてそのうち枯れちゃうんだし、どうでもいいじゃないですかぁ。そんなので死刑なんて、女王様おかしいですよぉ」
 アリスは完璧な正論を言っているつもりだった。きっと女王の後ろにいる兵隊達も真紋ウサギも、自分の意見に同意してくれると思っていた。しかしアリスが言葉を言い終えても誰も何も言わず、ただ女王がどうでるかを見守っている様子だった。
 女王は指先をアリスの唇に伸ばすと、
「悪いのはこのお口かしら?それともアリス自身?」
 そう言って、こつんっと長い爪先でアリスの額を小突く。「いたっ」とアリスが声を上げた直後、女王はにっこりと満面の笑みをたたえてこう言った。
「アリスも死刑。」
「ええええええ!?」
 アリスはその時になってようやく気づく。この女王の笑顔は、悪魔の笑顔であるということを。アリスは救いを求めるように真紋ウサギに目を向けるが、真紋ウサギは「残念賞」と苦笑を向けるだけで、アリスを助けようとはしなかった。
「……まぁ待ちなさい。その子はどうやらこの国のこともよく知らないようだし、ついでに可愛いし。私に免じて許してやってくれない?」
 助け舟は意外なところからやってきた。ウェーブヘアを後ろでまとめている、すらっとした長身の好青年。女王に唯一発言権を持っている王様だ。彼が助けてくれた理由にアリスは内心ガッツポーツを決めながら、深雪という名の王様に感謝した。それと同時に、自分を美形に産んでくれた両親にも心から感謝した。
「まぁ、あなたがそう言うなら仕方ないわねぇ。今回だけよ。」
 女王はまたこつんっとアリスの額を小突いた後、跪いたまま打ち震えている四人のトランプ兵に近寄った。
「朔夜、真昼、葵、美咲。あなたたちの死刑はどうしようかしら。」
 まるで焦らすような口調で女王は言う。「火あぶりかしら、射撃の的っていうのもいいわねぇ」と物騒な思案に小首を傾げ、四人の顔をじっくりと見つめている。
「あ、あの、女王様。この四人を死刑にするかどうかを賭けて、何か勝負をしませんか?私が勝ったら死刑はなしで……女王様が勝ったら……えっと……」
 アリスはおずおずと提案するが、女王が勝った場合の条件が思いつかなかった。この四人を死刑にするというだけでは、女王が得をすることが一つもないと思ったからだ。
「私が勝ったら、その四人と真紋を死刑っていうのはどうかしら?」
「ええっ!?」
「なななな、なッ!!?」
 アリスはもちろんのこと、まさか自分の名前が出るとは思わなかった真紋ウサギも驚いたような声を上げた。真紋ウサギはアリスを見つめ、しきりにぶんぶんと首を横に振っているが、アリスが四人のトランプ兵に目を向けると、四人は藁をもすがるような眼差しでアリスを見つめていた。
「わかりました!その勝負受けましょぉ!!」
「受けるなぁーーっっ!!!」
 真紋ウサギの懇願など聞かなかった振りをして、アリスは意気込んだ。二人の様子を微笑ましく見ていた女王は、二人が声を上げなくなったところでポンッと一つ手を打ちこう言った。
「それじゃあ勝負を始めましょう。勝負はクローケーで行なうわ。アリス、クローケーぐらいできるわね?」
「はい、もちろんですっ!」
 明るく頷くアリスの様子に女王はにっこりと笑みを浮かべ、一同はクローケー場へと移動を始めた。





 クローケー場へと向う道中。今までアリスが続けてきた旅に比べれば長い道のりではないのだが、広大な城の領地内を移動するとあって二、三キロは歩かなければならないようだ。女王と王様は専用の小型自動車で先に行ってしまったため、残されたトランプ兵士たちや先ほどのトランプ四人組、そしてアリスと真紋ウサギだけがぞろぞろと徒歩でクローケー場に向かうこととなった。
「真紋さん、真紋さん。」
 アリスは少し前を歩いていた真紋ウサギに追いつくと、くいくい、とベストの裾を引いた。今度は今までのように急いでいない真紋ウサギは、のんびりと振り向くとアリスの姿を目にして、ふっと表情を曇らせた。
「勝手に人を死刑にしかけといて……今更何か用?」
 冷たい口調にアリスはめげそうになるが、なんとか真紋ウサギの隣を陣取り、言葉を返す。
「それは、その……ごめんなさい。でもあの四人を見捨てるわけにはいかないでしょ?」
「……だからって人の命を」
「大丈夫っっ!!」
 アリスは真紋ウサギの言葉を遮ってそう言うと、両手でぎゅっと真紋ウサギの手を包み込む。真紋ウサギはきょとんとした表情でアリスを見た後、「根拠は?」と問い掛けた。
「私は、真紋さんのことを絶対に守ってあげる。勝負で絶対に勝てるっていう自信はないわ、だけど絶対に絶対に真紋さんを死刑になんかしないんだから!もし……もしも真紋さんが死刑になってしまったら、私が身代わりになるから!ね?それならいいでしょう?」
「……身代わり?」
「そう!だから絶対に真紋さんを死なせたりしないの!!」
「バッカみたい。」
 真紋ウサギが冷たく返す言葉に、アリスはきょとんとした後、少し泣きそうになりながら「どうして?」と理由を問う。真紋ウサギはちらりとアリスに目を向け、
「自分の命より他人の命の方が大切なんてありえないでしょ?第一、私とあんたはまだ会ったばっかり。そんなあんたが私のために自分の命を投げ出すわけがないもの。」
 そう言って、アリスの手を振り解こうとした。しかし、アリスは今まで以上にぎゅっと真紋ウサギの手を握り、それを許さなかった。
「違うよ。私は、真紋さんのことをずっと見てたもの。」
「……え?」
「真紋さんは知らないかもしれないけど。穴から飛び込んで、扉がいっぱいある広間を抜けて、回ってる鳥さんたちのところを通って、それからそれから……とにかくずぅっと真紋さんを追いかけて来たんだから!」
「何それ。なんのために?私に用事があったなら最初からそう言えば……」
「用事がなくっちゃ追いかけちゃだめ?」
 潤んだ瞳でアリスに真っ直ぐに見つめられ、真紋ウサギは一瞬言葉を失った。慌ててアリスから目を逸らし、ふっと吐息を零す。その白い頬を僅かに朱に染めていた。
 真紋ウサギは言葉を返すことはなかったが、アリスの手を振り解くこともなかった。
 会話が途切れた後で、アリスはぽつりと告げた。
「私ね。真紋さんのことが……好き、です。」
 やはり真紋ウサギは言葉を返すことはせず、ただ赤くなった顔を隠すようにアリスから顔を背けていた。
 それ以上、会話はなかったけれど、二人が重ねた手が解けることもなかった。





 クローケーとは、ボールを槌で打ちアーチに入れていく、日本で言うゲートボールによく似た競技である。しかしアリス達がこれから行なうクローケーは、アリスの知っているクローケーとは全く違うものだった。基本的なルールは同じなのだが、ボールを打つ槌はなんと生きているフラミンゴで、ボールもやはり生きているハリネズミ。クローケー場もうねや溝がたくさんあり、そしてアーチはトランプの兵隊がその身体を曲げて役目を果す。アリスはクローケー場や用意された生き物達を前に、言葉を失っていた。
「さぁアリス、始めましょうね。」
 女王はにっこりと笑んでフラミンゴの槌を手にすると、丸まったハリネズミをしっかりと見据え、フラミンゴの槌でトランプ兵隊のアーチ目掛けてハリネズミボールを打った。ボールはうねに取られてしまいアーチから逸れてしまう。かと思えば、ハリネズミは身体を伸ばしてとことことアーチの方に歩いて行き、そしてアーチも慌てて移動して、ハリネズミが上手く通過するように場所を変えた。
「うわ……ずるい……」
 死刑と言われてしまうことが怖かったので、アリスは女王に聞こえないように小声で呟いた。もしかしたら自分の時も同じようにしてくれるのだろうかと少しは期待したのだが、アリスの番になって見れば、まず第一にフラミンゴが言うことを聞いてくれない。フラミンゴはしっかりと首を伸ばし、その頭でハリネズミを打たなければならないのだが、アリスがフラミンゴを逆さに持って構えようとすると、フラミンゴはひょこんっと首を曲げてアリスを不思議そうに見つめるのだ。
「もぉ!ちゃんとしてよーっ!」
 アリスは頬を膨らませながらフラミンゴの頭をぺしんっと叩いた。するとフラミンゴは怒ってしまったのか、くねくねと首を動かすばかりでちっとも言うことを聞いてくれなくなってしまった。
「このままじゃ不戦勝かしらねぇ」
 という女王の言葉に焦ったアリスは、フラミンゴを一旦地面に置いて、ぺこぺこと何度も頭を下げて
「お願いだからちゃんと首を真っ直ぐ伸ばして下さいっ!一生のお願い!」
 と懇願し、ようやくフラミンゴの機嫌を直すことに成功した。改めてフラミンゴを構えてハリネズミを打とうとすれば、今度はハリネズミの姿が見当たらない。アリスが慌てて辺りを見回せば、十メートルほど離れたところをとことこと歩いているハリネズミを発見した。
「もぉ!お願ぁい、命がかかってるのぉっ」
 アリスは何度も何度も両手を合わせてハリネズミにも頼み込み、これでようやくフラミンゴとハリネズミの一式が揃ったのだ。アリスが打ち始めるまでに、十五分もかかってしまった。アリスは狙いを定めてアーチを狙い、ハリネズミボールを放った。しかし案の定ボールはうねに呑まれて変な方向へ転がっていくし、今度は女王の時とは違ってハリネズミもアーチもちっとも手を貸そうとしない。
「こんなんで勝てるわけないじゃない……」
 アリスは何度もそんなぼやきを零しながら、ゲームを進めて行った。
 女王との点差が開けば開くほど、アリスは絶望的な気持ちになってくる。このゲームに負ければあのトランプ四人組を助けられないどころか、真紋ウサギの身代わりとなる自分の命すら失われてしまうのだ。こうなったらフェアじゃなくても良いから女王に勝つ術はないかと、腕を組んで考え始めた時だった。
「キャハハハ、面白いことやってますねぇ。調子はどうですかぁー?」
 そんな楽しげな声が聞こえてきて、アリスは表情を明るくして辺りを見渡した。これまで散々バカにされて憤慨してきたチェシャー・ネコの声だということはすぐにわかったのだが、今は誰でも良いから相談相手が欲しかった。
「あぁん、もう散々なの!ありえないわよ、ホント」
「クスクス。わかったでしょう?女王様がどんなお方なのか。」
「そうね……。」
「クスクス。素敵な方でしょう?気に入りました?」
「なわけないでしょ!!」
 アリスはぶんぶん首を横に振り、ありえないとばかりにチェシャー・ネコの言葉を否定した。クスクスと尚も嫌味な笑みを浮かべているチェシャー・ネコの態度も気にすることなく、アリスは愚痴を漏らす。
「あんなッ――」
 言いかけて、ふと背後に気配を感じたアリスは言葉を止めた。振り向くのも怖かったので、
「――お強い方に勝てるわけがないのよ。もうこのまま勝負を続けても意味がないかもね。」
 と言い繕って引きつった笑みを浮かべた。アリスの予想通り、背後にはにっこりと笑みを浮かべた女王の姿があったのだ。
「アリス、一体誰と話しているのかしら?」
 女王は硬直したフラミンゴを肩に引っかけたまま、アリスの顔を覗き込むように軽く屈んだ。アリスはきょとんとして女王を見上げ、
「チェシャー・ネコと……あれ?」
 そう言ってチェシャー・ネコのいた場所を指差したが、既にチェシャー・ネコは姿を消していた。
 アリスがきょろきょろと見回すと、チェシャー・ネコは今度は女王の背後に姿を現した。
「女王様、後ろ!」
 アリスが言うと女王はゆるりと振り向くが、チェシャー・ネコは女王の視界に入る寸前にまた姿を消した。
 女王はにっこりと笑んでアリスに向き直り、
「あんまり冗談が過ぎると、死刑にしちゃうわよ?アリス、気をつけなさい。」
 そう言って、こつんっとアリスの額を小突く。
「……は、はぁい。」
 本当にチェシャー・ネコはいたんだけど、と言いたかったのだが、これ以上女王の笑みを見ているのも怖かったアリスは素直に頷き返した。
「次はアリスの番よ。さぁゲームを進めましょ。」
「はいッ……」
 頼みだったチェシャー・ネコもすぐに消えてしまい、アリスは肩を落としながらフラミンゴを手に取った。
 その時、アリスの耳元にチェシャー・ネコの口だけがぼんやりと浮かび上がったのだ。
「ねぇアリス。私に助けて欲しいんでしょう?キャハハハ!このチェシャー・ネコに!!」
「……うう。今はもう誰でもいいからヘルプミーって感じ。」
「誰でもいいんじゃなくて、この私に、でしょう?」
「そうです、チェシャー・ネコ様に助けて頂きたいですぅー」
 この悪戯な猫に自分の命運すらもかかっているのかと思うとアリスは少し馬鹿馬鹿しい気持ちにもなったのだが、本当に命のかかっている話なのでチェシャー・ネコに頼ることにした。女王はアリスを見つめているので、アリスはフラミンゴで軽く素振りなどしながら、ぼそぼそとチェシャー・ネコとの会話を続ける。
「簡単ですよ。このゲームにどうやって勝つかではなく、このゲームをどうやって終わらせるかを考えればいいんです。アハハ、そのぐらい考えましょうよぉ」
「あ……それもそうね。でもどうやって中止にさせるの?」
「女王様を怒らせればいいんです。」
「そ、それはだめ!!!」
 アリスは思わず大声で言い返してしまったので、女王が不思議そうにアリスのそばに近づいてきた。
 しまった、と思う間もなく、すぐそばから「どうかしたの?」と声を掛けられる。
「な、なんでもないです……」
 アリスが女王に繕った笑みを向けて首を左右に振っていた時、チェシャー・ネコはアリスにだけ聞こえるように小声で囁いた。
「私に任せて下さいね――」
 アリスは反論したかったが、女王がすぐそばにいるのでそれもままならない。
 チェシャー・ネコが一体何をするつもりなのか不安感を感じながらも、女王が急かすままにアリスはフラミンゴを構え、ハリネズミをしかと見据えた。
「えーーい!」
 半分自棄っぱちのような調子で打ったハリネズミは、コロコロと転がってアーチを通過していった。
「ナイスショット。ここから逆転が来るかしら?」
 女王はぱちぱちと拍手をし、アリスに賞賛を送る。けれどアリスはチェシャー・ネコのことで頭がいっぱいで、女王の賞賛にも軽く頭を下げて応えることしかできなかった。
 この女王を怒らせたら、すぐに死刑になるに決まっている。もしかしたらこの国の人が全員殺されてしまって、女王一人だけの国になってしまうかもしれない。アリスはそんなことを考えてぞっとした。
 なるべく女王から離れていようと思ったのだが、女王は微笑んでアリスを手招くものだから、アリスはそれに従わないわけにはいかない。怯えながらも女王の後ろを歩き、女王が打ち始める位置についていった。女王は慣れた手つきでフラミンゴを構えると、ハリネズミボールからアーチまでの距離を目で測る。
 その時だった。アリスの目に、女王の背後に浮かび上がるチェシャー・ネコの姿が映った。
「な、……」
 何をするつもりなの、と問い掛けたかったが、チェシャー・ネコに届く声で言うということは女王にも聞こえてしまうということだ。結局アリスは何も言えずにチェシャー・ネコと女王の距離が縮まっていくのをハラハラしながら見つめていた。
 やがて女王はフラミンゴを振り上げ、すっとしなやかなスィングでハリネズミを打った。と、ほぼ同時だった。チェシャー・ネコが鋭い爪先を女王のドレスの裾に引っかけ、一気に持ち上げたのだ。女王のドレスはふわりと舞い上がり、今まで覆われていた足、太腿、更には下着までが露わになっていた。
「……え?」
 きょとんと目を丸める女王に、アリスは今後を展開を想像して打ち震えていた。チェシャー・ネコはすぐに移動してアリスの耳元にやってくると、「黒でしたね。」とだけ言い残して消えてしまった。女王はすぐに両手でドレスのスカートを押えたが、ぽかんと固まっている周りの兵士達やギャラリーの様子で自分の身に起こったことは理解したらしい。かぁっと顔を赤めるその姿は、冷静で穏やかな女王からは想像もつかなかった。
「……、……ふふ。」
 女王はすぐに冷静さを取り戻したように見えた。小さく笑みを漏らし、ゆるりと辺りを見回しては、アリスに目を止める。女王はゆっくりとした歩調でアリスに歩み寄ると、満面の笑みを向けて言った。
「あーりーすぅー?」
「は、はぇぇ……ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい?今のは私じゃないですよ?本当の本当に私じゃないんですよぉっ!?」
「じゃあ……」
 女王は真っ直ぐにアリスを見つめて笑んでいたが、突如、その笑みを鬼のような形相に変え、
「誰がしたっていうのよ!!!!!」
 と、地響きが起きそうなほどの迫力で怒鳴りつけていた。
 アリスは知った。この女王の悪魔の笑みは恐ろしい。けれど、本当に怒らせた時は更に恐ろしい。
 アリスはあまりの恐ろしさにその場でぺたんと尻餅をついていた。
「誰か!!!この子を今すぐ死刑になさい!!今すぐこの場で殺してしまいなさい!!」
 女王は兵士達に怒鳴りつけた。兵士達も、まずお目にかかることのない女王の鬼の形相に怯えて立ち竦んでいたが、「早く!!!」と急かされて一斉にアリスの元へと駆けつけた。
 アリスは尻餅をついたまま、兵士達に鉄の槍を向けられ身動きが取れなくなってしまう。今にも泣きそうになりながら、鋭く光る槍の切っ先を見つめ身体を震わせた。
「さぁ、やっておしまい。その槍でアリスの身体を突き刺しなさい!!!」
 女王の一喝に、兵士達は槍を振り上げる。
 アリスは死を覚悟して、ぎゅっと目を瞑った。
「待って下さい!!!」
 今まさに兵士が槍を振り下ろそうとした時、凛とした声が響いた。遠くから事を見ていた真紋ウサギが、王様を引っ張って騒動の輪の中へと入ってきたのだ。
「女王様、どうかこの少女に今一度の情けをお与え下さい。お願い致します!」
 真紋ウサギはその場に身体を伏せると、頭を地面につけて土下座した。アリスはその光景を、信じられない気持ちで見つめていた。あの真紋ウサギが自分のために頭を下げてくれるなんて思いもしなかった。
「真紋もアリスの仲間なのね?ふふ、じゃあ真紋も一緒に死刑にしましょうか!!」
 女王はエキサイトした声で言い放つ。しかし、そんな女王へすっと手を差し伸べる人物がいた。
「まぁ落ち着いて。事の顛末はわからないけれど、この子だって悪気があってしたわけじゃない……でしょ?」
 王様だった。王様は同意を求めるようにアリスに目を向ける。アリスはこくこくと何度も頷き、「ごめんなさい」と謝罪を繰り返した。実際にアリスは何もしていないのだが、今は自分どころか真紋ウサギの命すらも奪われかねない状況だ。なんとしてでも、女王の気を治めさせなければならない。
「ほら、この子もこう言っているから。……許せなんて言っても聞かないのはわかってるけど。せめて、裁判を開いてあげたらどう?そうすれば本当にこの子が有罪なのかどうかもはっきりするし、ね?」
「……あなたがそう言うなら……。でも!有罪に決まっているわ!!そうと決まったらさっさと裁判の準備をするわよ!!皆の物、城へ戻って裁判の準備を始めなさい!今すぐよ!!」
 女王の言葉に、アリスを取り囲んでいた兵士達は一斉に城の方へと駆けて行く。残ったのはアリスと真紋ウサギと、そして女王と王様の四人だけになった。
「……アリス。」
 女王はしゃがみ込んでアリスへ手を伸ばすと、その顎を指先で掴み、くっと顔を上げさせた。怯えるような光を宿したアリスの瞳を見つめ、女王はすっと目を細める。
「私をここまで怒らせたのは貴女が初めてよ。……覚悟なさい。」
 脅すように言われ、アリスは身体の震えが止まらなかった。今まで生きてきた中で、一番恐ろしい体験をしていた。女王が離れ、やがて王様と一緒に遠くへ離れていっても、アリスはその場に座り込んだままできゅっと唇を噛むことしか出来ない。
「……バカね。」
 ぽつりと、すぐそばで呟かれた声にアリスは顔を上げた。真紋ウサギがアリスの顔を覗き込み、そしてその手でそっとアリスの目元に触れた。いつの間にか溢れていた涙を拭ってくれたのだった。
「あんたって本当にバカよね。命が惜しくないわけ?」
 真紋ウサギはそう言った後、ふっと弱い笑みを見せた。アリスを落ち着かせるようにぽんぽんと背中を叩けば、アリスは緊張の糸が切れたように泣きじゃくり、真紋ウサギの胸元に飛び込んだ。
「絶対に、守ってくれるんでしょ?」
「……うぅ、ッ、うぇぇん……」
「なら泣き止めッ。……笑ってる方が可愛いっての。」
「…うぇ……?」
 アリスがそっと顔を上げると、真紋ウサギは微苦笑を浮かべてアリスの潤んだ瞳を見つめていた。
 二人は少しの間視線を交わし、そしてアリスは涙を拭った。
「……はいっ。真紋さんのこと、守りますっ。」
 アリスが精一杯の笑みで告げれば、真紋ウサギはほんの一瞬だけ優しげな笑みを見せ、そして触れるような小さなくちづけをアリスの額に落としていた。





 アリスは被告人席に座り、きょろきょろと法廷内を見回していた。ざわざわと賑やかな法廷には見知った人物(もしくは生物)がたくさんいて、この不思議の国での一つ一つの出逢いが思い出された。しかし思い出に浸っている暇もなく、「これより裁判を開始する!」という宣言がなされた。
 裁判長には王様、陪審員には何人かの知り合いも混じった生き物達、原告は勿論女王。そしてアリス側の弁護人席には真紋ウサギが座っている。アリスは本やテレビなどで裁判のなんたるかはそれとなく理解していたが、こうして被告人席に座ることなど当然初めてである。アリスが不安げにきょろきょろと辺りを見回すと、隣にいる真紋ウサギと目が合った。真紋ウサギは小さく笑みを見せて「大丈夫」と声には出さず唇を動かした。アリスはそれで安堵したように、柔らかな笑みを返す。
「えっと……」
 罪状を読み上げるのは、トランプのクローバー9のクローバー真昼だった。巻物を広げると、コホン、と一つ咳払いをした後でよく響く声を上げる。
「被告は女王陛下のドレスの裾を……その、めくったとして?はぁ。」
 書いてあることがあまりにおかしかったからか、クローバー真昼は小首を傾げながらも言葉を続けた。
「悪意を持って女王陛下に嫌がらせをし恥辱したとして、スカート捲りの罪に問われ――」
「ちょっと、そういうこと堂々と言わないでくれる?そこ飛ばしていいから、肝心なところお願いね。」
 女王はばつの悪そうな表情でそう言うと、小さく溜息をついた。クローバー真昼は「肝心なところ」が一体どの辺りなのかわからなかったが、ここで間違ったことを言ってしまって自分が被告人席に座るのも嫌だったので、考えに考え抜いた末に思い当たる部分を小声で告げた。
「じょ、女王様を怒らせたとして……」
「そう!そこよ!!」
 女王の言葉にクローバー真昼は心底安堵した表情を見せた。アリスはそんな様子を眺めながら、あの女王様に仕えるのは大変だろうなぁと他人事のように思っていた。
「まぁそんなわけね。早速判決を言い渡して頂こうかしら?」
 女王は判決などわかりきっていると言わんばかりに、早速裁判長に言い放つ。しかし裁判長である王様は首を横に振り、
「まずは評決が先、というか証人すら出ていない。」
 と、正論を主張した。アリスからしてみればこの国は正論など全く通用しないように思えていたので、王様のように常識に適った人物には非常に好感が持てた。しかしそんな王様ではなく女王が実権を握っている辺りが、この国らしいところなのだろう。
「ではまず最初の証人を!」
 裁判長の言葉に、証人席へと出てきたのは、アリスの見知らぬ人物――否、トカゲだった。
「私、あのトカゲさんには会ったことがないわ?」
 アリスはきょとんとしてトカゲを見る。トカゲはアリスを見て不思議そうな表情を浮かべ、
「あれぇ?前にあった時はモンスターだったのに、今は普通の女の子ですねぇ。」
 と、独特の柔らかい口調で言った。アリスはその声を聞いてようやく理解する。あのトカゲは真紋ウサギの家で大きくなってしまった時、煙突からやってきた佳乃だったのだ。そしてアリスは佳乃の姿を見る前に指で弾いて遠くに飛ばしてしまったので、その姿を知らなくて当然だった。
「んじゃ証人。事件について何か知っていることは?」
 裁判長である王様は軽い口調で問い掛ける。トカゲ佳乃は丸い瞳でじっとアリスを見つめた後、こう切り出した。
「アリスさんは、私がお会いした時はものすごーく大きな怪物だったんですぅ。アリスさんは真紋さんのお家で大きくなっていて、私はアリスさんを追い出そうと思って煙突から家の中に入ろうとしたんですよぉ。そしたら、なんだかわけがわかんないうちに吹っ飛ばされちゃいまして……うーん」
 佳乃は未だに何が起こったのかわかっていない様子で首を捻った。佳乃の証言にざわざわと場内が騒がしくなる。
「それは重大な証言ねぇ。飛ばされたのよ。私のドレスのスカートと同じだわ!」
 女王はそんなことを言って、満足げな表情を浮かべている。アリスは確かにその時はトカゲ佳乃に悪いことをしてしまったと思ったが、今回の女王の事件には全く関係がないような気がした。けれど女王の言葉を受けて陪審員はしきりにペンを動かして書き留めているし、とにかくアリスは首を捻るばかりだ。
 そう言えば弁護人はどうしたのだろうと、隣に座っている真紋ウサギを見た。すると、真紋ウサギは不思議そうな表情でじっとアリスを見つめていた。アリスが首を傾げて見せると、真紋ウサギはアリスを小さく指差して問い掛けた。
「メアリー・アン!?」
「今更何言ってるの!!」
「えぇ?」
 真紋ウサギは怪訝そうな表情を浮かべているが、アリスはこれ以上説明をする気にもなれず、「私はアリスですぅ」とだけ強調してそれ以上は何も言わなかった。
「次の証人!」
 裁判長の声を受けて出てきたのは、ユッキー・ユーイーの二人組みだった。二人は漫才コンビのように「どうもどうもー」とぺこぺこと頭を下げながら場内に入廷すると、早速証言を始めた。
「アリスさんはメロンソーダフロートを選んだんですよーっ」
「ユッキーはジャンケンで買ってコーラフロートを食べたんですよね」
「そうなんですー!そぃで、結局ユーイーは何も食べらんなかったわけなんですー」
「はいーあたしも本音を言えば食べたかったですよぉ?でも……やっぱり」
「ジャンケンで勝負をして勝利を勝ち取ったあたしはともかくとして!ですよ!!」
「アリスさんは何の勝負もせずに……いえ、いいんですけどね……」
「まぁいいんだけどねぇ」
「いいんですけどね……」
 そこから二人は同じことを繰り返し始めたので、裁判長が「もういいです」とあっさり退廷を指示した。ユッキーとユーイーは顔を見合わせた後、
 『ユッキー・ユーイーでしたぁー』
 とペコペコと頭を下げながら退廷して行った。
「実に重要な証言だわ!」
「え?いや、やっぱこれも今回の事件には関係無いような……」
「さぁ陪審員、しっかり書き留めなさい!!」
 女王も他の面々もアリスの指摘にはまったく耳を貸さなかった。弁護人の真紋ウサギはと言えば「私はコーラの方が好きだけどなぁ」と首を傾げていて、アリスはもう言葉をかけることすらしなかった。
「最後の証人!」
 入廷して来たのは、いかれた帽子屋と一緒にティーパーティーを開いていた三月ウサギだった。三月ウサギは手にティーポットを抱え、中からネムリネズミが出てこないかを見張っているようだった。
「三月ウサギ、証言を。」
 三月ウサギはこくんと一つ頷くと、軽く小首を傾げて宙を眺めた。そしてしばらくしてこう言った。
「証言することは、特にありません。」
「特にありませんですって!?」
 女王がそう聞き返したとき、役に立たないから怒っているのだとアリスは思った。しかしどうやら様子が違う。怒っているのではなく、女王は満面の笑みを浮かべていた。
「こんなに重要な証言は聞いたことがないわね!特にないのよ、皆、聞いたかしら?」
 ウキウキと場内を見回す女王もおかしいが、それを必死に書きとめている陪審員はもっとおかしかった。アリスは半分諦めモードで、勝手に進んでいく裁判をぼんやりと眺めていた。
 その時、どこからか聞き覚えのある笑い声が聞こえてきた。
「キャハハハ。キャハハハ!!楽しい裁判ですね。」
「……その声は……」
「いやぁ私もさっきから見せて頂いてましたけど、ユーイーの悲嘆に暮れた様子なんか最高でしたね!」
 チェシャー・ネコの声だ。しかしアリスは辺りを見回せども、その姿を見つけることが出来なかった。
「アリス?何をきょろきょろしているの?裁判に集中して頂戴。」
 女王に指摘されてアリスは慌てて正面を向いた。正面にいる女王の――頭の上に、アリスの探していたチェシャー・ネコの姿はあった。
「見つけた!チェシャー・ネコさん、そんなところにいたら殺されるわ!」
 アリスは女王がこれ以上怒らないように慌ててそう言ったが、トラブルは別の場所で起こった。
「ネネネ、ネネネ、ネ、ね、ね、ね、ネコォッッ!!?」
 三月ウサギの手にしていたポットから勢い良く飛び出したネムリネズミが、興奮して場内を怒涛の勢いで走り出す。しまった、とアリスが肩を落とした頃には、場内は混乱に陥っていた。
「ワァァーー猫いやだぁぁぁぁッッッ!!!」
 ネムリネズミは相手など関係なく人の身体をよじ登ったり下りたりしていった。一度王様の頭まで駆け上がっては駆け下りたが、それは温厚な王様だったから良かったのだ。もし女王に同じことをしてしまえば、きっと女王は怒り心頭だろう。
「ジャムを!!早くジャムを!!」
 三月ウサギが急かすと、陪審員席にいた帽子屋がジャムの瓶を放り投げた。三月ウサギは落ちてくるジャムの瓶をなんとかキャッチしたが、その中身は半分以上が場内に飛び散っていた。それだけならまだ良かった。なんとジャムがべちゃりと、女王の顔についてしまったのだ。
「………うふふ。」
 女王の表情に悪魔の笑みが点る。次第にそれは鬼の形相と化していき、一同は恐ろしさに震え上がったが、我を忘れているネムリネズミだけはその女王の形相にも気がつかなかった。
「キャハハハハ。キャハハハハ!!!」
 混乱に乗じてチェシャー・ネコの高らかな笑い声が聞こえている最中、事は起こった。
 天井まで駆け上がっていたネムリネズミが、空中へとダイブした。そしてその落下地点には女王の姿。ネムリネズミは重力の力も手伝って思いっきり女王の後頭部に激突し、女王はそのまま机に突っ伏してしまった。
「早くそのネズミを黙らせなさい!」
 裁判長である王様はいてもたってもいられず、裁判用の木槌を手に女王の後頭部にいるネズミに近づていく。そして狙いを定め、思い切りその木槌を振り下ろした。
 ネムリネズミは間一髪のところで王様の攻撃を避けていた。すると、木槌はネムリネズミではなく、女王の後頭部に直撃した。
 その瞬間、場内にいる誰もが息を呑んだ。王様は何もなかったような表情で、木槌を三月ウサギに押し付ける。突然冤罪を着せられそうになる三月ウサギは慌てて木槌をアリスに押し付けた。
「私の頭を殴ったのは誰!!!?」
 鬼、いや、すでに大悪魔のような形相で女王は顔を上げた。そしてその視線の先には木槌を持ったアリスの姿。アリスはあまりの展開の速さについていけていなかったのだが、今自分が手にしている物と、そして女王が探している物とが一致していることぐらいは理解した。
「アリスを今すぐ死刑にしなさい!!!!!」
 女王が叫び終えたか終えないか、構えていた兵隊達がその武器をぐっと持ち直すよりもずっと早く、
 真紋ウサギはアリスの手を強く握って駆け出していた。





「真紋さん……このままじゃ、真紋さんも一緒に死刑になっちゃう!!」
「うっさいわね、無駄口は後!今はあいつらから逃げるのよ!」
 真紋ウサギはアリスの手を引いて、生垣の迷路のような庭園を駆けていた。後ろからはトランプの兵隊が大勢やってきて、少しでも足取りを緩めれば追いつかれてしまう。
「ッ、こっち?あー、どっちが出口だったっけかー?」
 真紋ウサギはT字路に来ると、左右を見回して眉を顰めた。その時、左右の道からもトランプの兵隊がやってきて、真紋ウサギとアリスは囲まれてしまった。
「ど、どうしよう!このままじゃ殺されちゃう!」
 三方から迫り来る兵隊達にアリスが情けない声を上げるが、真紋ウサギは軽くウィンクをして
「しっかり掴まってなさい」
 そう言って、アリスをがばっと抱き上げた。アリスを抱いたまま驚くような身のこなしで地面を蹴ると、ふわりと宙に浮くように、二人は舞い上がっていた。そして生垣を越え、すとんっと着地する。アリスはそれまで失念していたが、真紋ウサギはウサギなのだ。そのジャンプ力は人間であるアリスはもちろん、トランプ達にも備わっていないものだった。
 二人はまた互いの手を取って駆け出すと、城の門をくぐり、今までアリスが長い冒険をして来た道を逆戻りしていく。幾分数は減ったもののトランプの兵隊達はまだついてきており、二人は必死で道を駆け抜けた。
 いかれた帽子屋の汚いテーブルを横目に見て、チェシャー・ネコに出会った深い森も通り過ぎ、アリスは気がつかなかったが青いいもむしに助言を貰って手にしたキノコのそばも通り過ぎた。歪んでしまっている真紋ウサギの家にアリスは立ち寄りたいと思ったが、後ろから追いかけてくる兵隊達から逃げなくてはならない。二人は更に先へと駆けて行く。砂浜に出ると、千景ドードーとその仲間達は今も輪になって走り続けていた。
 真紋ウサギはアリスの知らない道を進んでいく。やがて前方に不思議な扉があった。アリスはその扉に見覚えがあった。以前にチェシャー・ネコが二つの扉を見せた、その時の一つだ。プレートには「家へ」という文字が刻まれている。
 真紋ウサギは扉の前で足を止めると、切れ切れの息でアリスに向き直る。
「……これでアリスの長い旅は終わりね。」
「真紋さん、初めて私の名前を呼んでくれた。」
 アリスも息が切れていたが、真紋ウサギが自分の名を呼んでくれたことが嬉しくて、満面の笑みを向ける。
 真紋ウサギはどこか切なげに笑み、そしてそっとアリスの身体を抱きしめた。
「さようならアリス。……ありがとう」
「……真紋さん?もう、真紋さんとは会えないの?」
「…それ、は……」
 真紋ウサギはそっと身体を離すと、じっとアリスの瞳を見つめる。不安げに揺れるアリスの瞳を見て、真紋ウサギはアリスをなだめるようにそっとその髪を撫ぜてやった。
 その時、扉とは反対の方向から、兵隊達の賑やかな足音と「死刑になさい!」という女王の声が聞こえた。
「時間がないわ。」
 真紋ウサギはポツリと呟くと、ふっと優しげな笑みを見せ、そっとアリスの唇に自らの唇を重ねていた。
 突然のことにきょとんとして真紋ウサギを見つめるアリスに、真紋ウサギはクスクスと笑った。
「アリスが大人になった頃、また迎えに行く。その時にゆっくり話しましょう。」
「ぜ、絶対……絶対に来てね!私ッ、待ってるから……!」
 真紋ウサギに促されて扉を開けながら、アリスは尚も名残惜しそうに振り向いた。
 真紋ウサギは確かに頷き返し、そしてそっとアリスの背を押した。
「ずっと、ずっと大好きだから!!」
 アリスのその言葉を耳にし満足げに、真紋ウサギは扉をパタンと閉じる。
 ふっと静寂が訪れる世界で、真紋ウサギはぽつりと呟いた。
「――私を、忘れないで。」





「アリス、起きなさい。いつまでお昼寝しているつもり?」
 耳に馴染んだ優しげな声に、アリスはそっと目を開けた。見慣れた姉の顔と、その向こうで木漏れ日がキラキラと光っている様子が見えた。アリスは目を擦りながら、ゆっくりと身体を起こして辺りを見渡す。
「……ここは?」
「何言ってるの?私が本を読んであげるからって町外れまでやってきたのに、アリスったらちっとも聞かずにお昼寝しているんだもの。……お陰で静かに読書できたから良いけれど」
 綾女は肩を竦め、手にしていた本をバッグに仕舞う。そしてそのバッグを手に立ち上がり、
「そろそろ家に帰りましょう。お母様がアリスのために美味しいケーキを焼いているわ。」
 そう言って微笑み、すっとアリスに手を差し出した。
「今日のケーキは何かしら?……食べたら身体が大きくなってしまうケーキはもういやよ?」
 アリスは綾女の手を取って立ち上がり、そのまま手を繋いで歩き出した。綾女はアリスの言葉にクスクスと控え目に笑って「夢でも見たの?」と問い掛ける。アリスは姉の手を握って歩きながら、少しの間その答えを考えた後、小さく首を横に振った。
「ううん、夢じゃないわ。私は不思議の国で、ウサギさんと恋人になったのよ。」
「まぁ、ウサギと結婚でもするつもり?」
「もちろん!私はもう真紋さん一筋なんだから!!」
「名前までついてるのね。凝った夢だこと……」
「だから夢じゃないんだってばぁ」
 そうして姉妹は帰路についていく。アリスはしきりに不思議の国で起こった出来事を話しては、綾女を不思議がらせていた。二人が次第に家に近づいていくと、ケーキを待ちきれなくなったアリスが綾女より先に駆け出していく。そしてアリスの無邪気な後ろ姿を見つめ、綾女はふっと足を止めた。
「――運命のウサギさん、ね。」
 クスッと小さな笑みを零し、綾女はゆるりと振り向いた。そこにはのどかな風景が広がっているだけで、アリスの言うような不思議な出来事など何一つ存在しない。草がかさかさと音を立てるのは風が吹くからで、池でぴしゃぴしゃと水音が立つのは鯉が泳いでいるからで、時折人間の高い声が聞こえるのは近所の子どもが騒いでいるから。――だけどそんな日常の出来事すらも、不思議な冒険に変えることのできるアリスを、綾女は少しだけ羨望した。それと同時に、もう失ってしまった無垢な心を、アリスには失って欲しくないと希った。

 数年後、大人になったアリスは一人の人物の手を引いて、綾女の前に現れることとなる。
「前に話したウサギさんよ。」
 アリスはそう言って人物を紹介し、幸せそうな笑みを浮かべた。
 ウサギさん。――その人物が真紋ウサギなのかどうか、アリスは知らない。
 その人物もまた、アリスにウサギさんと呼ばれる度に不思議そうな表情を浮かべる。
「なんで私がウサギなの?」
「だってウサギさんみたいなんだもん。」
「でも私、人間よ?わかってる?」
「うん。ウサギさんじゃなくっても、まぁやはまぁやだよ。」
 アリスは、その人物が真紋ウサギかどうかだなんてことは気にしていないのだ。
 ただ、その人物の隣にいる時にいつも、
 ずっと探し続けていた人と巡り会えたような、そんな幸せそうな表情を浮かべてるのだった。
 そんなアリスを見て、アリスは今でも時々あの不思議の国で生きているのだ、と。
 綾女はそう確信したのだった。

「まぁやは、私の大好きなウサギさん。」



 FIN








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