BATTLE ROYALE 40―――五年後。 あのプロジェクトから長い月日が流れ、あたし―――夕場律子―――は今や…… コホン。未だに、というべきか。 三十三歳、女、OL、……独身、やってます。 プロジェクトの優勝者なんて肩書きは、世間ではちっとも役に立たない。殺し合いやってました、なんてことを人に話したところで信じてもらえないのはわかりきったことだ。だからあたしは、ごくごく普通の一般人として毎日を送っている。 あの後必死で再就職に向けて奮闘し、あたしは小さな会社の事務として雇ってもらえることになった。前に働いていた会社よりもずっと規模は小さくて、給料も少ない。だけど、それなりにやり甲斐のある仕事をこの手にすることが出来た。職場の雰囲気もあたしに合っているようだし。 バリバリのキャリアウーマンとかでもなく、ただのんびりとした職場でのんびりと仕事をこなす。たまに同僚と飲みに行ったり、友達に誘われて遊びに行ったり、そんな普通のOL生活。一つ足りないことと言ったら、恋愛をしていないこと、ぐらい? 「夕場さんってまだ結婚しないんすね」 夕方五時、あたしは五つ年下の同僚の男の子と一緒に、部署を出る。 歩きながら彼が突然口にしたその言葉に、思わず足を止めていた。 「……ほっといて」 「あ、禁句でした?」 ケタケタと楽しげに笑う彼を睨みつけ、はぁ、と溜息一つ。この歳になって結婚をしていないと、向けられる周りの視線は、あたしを「お局様」と言っているようなものだった。 「いいのよッ、あたしは過去の恋愛に生きてるのッ!」 頬を膨らませながら、早足に廊下を進んでいれば、彼は小走りであたしに追いつき、 「過去っすか?なになに、そんなすごい恋愛したんです?」 と興味津々に問い掛けてくる。こいつもなかなか遠慮というものを知らない。 ―――過去の恋愛、か。 今もあたしは、美咲のこと、忘れていない。 忘れちゃいけない。忘れることなんか出来ない。 そうは思っていたけれど、ここ最近は結婚という二文字も結構重たいもので。 友人は今や結婚していない子の方が明らかに少ないし、家族も頻繁にお見合いの話を持ちかける。 「すごい恋愛、ね。……そりゃーもう。」 曖昧に濁せば、彼は「ふぅん?」と不思議そうに相槌を打ちながらあたしの隣を歩く。 やがて建物の外に出て、それぞれ車を止めている駐車場まで向かって行く。 「あのさ、夕場さん。やっぱ俺は、過去の恋愛ってやつはどうかと思いますよ?」 「そうかなぁ。」 「だって永遠に結婚できないし」 あたしの車のそばまで来ると、彼は冗談めかしてクスクスと笑ってから、幾つか離れた場所に止めてある彼の車の方まで歩いて行く。そしてくるりと振り向き、 「そろそろ最後のチャンスでしょう。新しい恋でも探してみたらどうっすか?折角若くてイイ男が近くにいるんだし?」 と、いつもの悪戯っぽい笑みを見せた。 ……ん? 「お疲れ様っす。」 あたしの返答を聞かないうちに、彼は自分の車に乗り込んでエンジンを掛けた。首を捻りつつあたしもマイカーに乗り込み、エンジンを掛けたところでようやく気付く。 今のって、もしかして告白? なわけないか? ……うーん。 先に発進して、駐車場を出て行く彼の車を目で追った。カチカチとウィンカーが瞬き、一旦停止の後で公道に滑り出す彼の車を見送り、ふっと小さく溜息をつく。 「あんな優男より、美咲の方が断然いいもんねー」 皮肉混じりの独り言を零しながら、ラジオのスイッチをカチリと入れて、それからあたしは車を発進させた。 繰り返していく毎日、こうして駐車場を出て、いつもと同じ道を通って家路につく。 最近は思い出すことも少なくなった、あのプロジェクトのこと。――美咲のこと。 ぼんやりと思い出しながら運転し、やがて赤信号で停止した。 「……美咲」 名前を呼んだって、答えてくれる人はいない。 なのにあたしは今でもこの名前を呼び続けている。 あたしはいつまで、美咲という名前を覚えているのだろう。 「結婚なんか、しなくてもいっか」 そんなことを呟いて少し笑って。車のダッシュボードに置いてある煙草に手を伸ばし、火を点けた。 信号が青に変わって、慌ててアクセルを踏むとゆっくりと動き出す車体。ふっと吐き出した紫煙が揺れる車内で、不意に何故か、一人ぼっちのこの現状が無性に寂しくなった。 美咲と離れ、あのプロジェクトが終了して、そしてこの日常に戻って来て。 あたしだって、あれからずっと美咲一筋でいられたわけではなかった。何度か男の子と付き合ったし、一晩だけの関係ってやつもなかったわけではない。――だけど。 満たされることはなかった。美咲と一緒にいたあの頃のように、幸せな気持ちにはなれなかった。 なのに他の人に揺れてしまうのは何故なんだろう。 ……やっぱり、一人ぼっちが、寂しいからか。 『一人が怖くて 過ちを犯したことも あったけれど』 ふっと耳に届いた、声。 あたしの想いにシンクロするように紡がれた言葉。 ラジオから聞こえる歌声。今まで聞き流していた、声。 『あの日のぬくもりは今も 私の中で生きていた』 ……。 ……これは ……この声は、もしかして。 『あの日の場所に連れ戻して あなたの微笑みを 守りたくて』 ド・ソ・ラーって。 遠い昔に聞いた、あの、音階。 あぁ、そうだ。 この音は―― 『あなたは最後の人だから このまま そばにいて』 ……。 この声。あの音。 真紋さんだ……! 『伸ばした指先 ぬくもりのない光で あなたの月明かりで 私を照らして』 「……ッ」 思わず涙ぐみそうになって、あたしは慌てて目を擦り、路肩に寄せて車を停車した。 メロディを、歌声を、もっと確かに聴きたくて。 だけど曲はもう終盤で、やがてMCの声が聞こえてきて、少し落胆する。 『お聞き頂いたのは、キタキマヤで“You're like moon”。彼女は遅咲きのアーティストですね』 『三十歳のシンガーソングライターさんですね。この曲はセカンドマキシのタイトル曲になってますー』 ……アーティスト。 セカンドマキシ。 そっか。真紋さん、ちゃんと活動してるんだ。 ちゃんと。頑張ってるんだ。 ……そっか。 「あ、はは……あたしも頑張んなきゃじゃん……」 涙声でそんな言葉を漏らして、グスンと鼻を啜って。 彼女が電波に乗せて届けてくれた音を、もう一度思い返した。 『あなたは最後の人だから』 きっと真紋さんも、あたしと同じ思いを抱えてる。 でも、あたしよりも先に答えを出したのかもしれないね。 『このまま そばにいて』 彼女だってもう会えない、愛する人と死別して。 それでも、想ってる。 その人じゃないとだめなんだ。 「……最後の人」 ぽつり呟くと、なんだか、すっと心が楽になった。 悩むことなんか、ちっともなかったんじゃないかって、気付いて。 確かに寂しいけど、悲しくもなるけど。 でもやっぱり――美咲はあたしの最後の人なんだ。 死ぬまで変わらない想いなのかなって、少し不思議に思うけれど それならあたしはこの想い、死ぬまでずっと、貫いてやる。 「美咲……聞いてる?」 寂しくて名前を呼んだ。何度も何度も。 だけどそれは独り言だった。 どこかで見守ってくれてる美咲に、こうして言葉をかけるのは随分久々だ。 「あたしさ。やっぱ、美咲のことが好き。……今でもずっと好き。」 これは過去の恋なんかじゃない。 永遠に続く恋。あたしはもう、美咲のことを想い過ぎている。 放てないなら、このままずっと抱えていてもいいよね? 「美咲もどっかで、あたしのことを想ってくれてるって信じても、いいよね?」 答えは返ってこない。 要するにそれは、無言の肯定ってやつだから。 今はまだ結婚なんか出来そうにないよ。もしかしたら死ぬまで独身かもしれないや。 でもあたしは、一人で――だけど美咲と一緒に生きていくから。 「そばにいてね、美咲……」 そう呟いたら、美咲がどこかで、こくんって頷いてくれたような気がして 妙に嬉しくて、嬉しすぎて あたしはまた溢れ出す涙を、止めることが出来なかった。 あなたは最後の人だから――このまま、そばにいて。 「お疲れ様でーす。」 スタッフとすれ違う度に挨拶を交わしながら、私―――木滝真紋―――はスタジオを出た。 はぁ。今日のお仕事も終わり、っと。 ここのところ、新曲の宣伝で色々と周りまくってて超ハードスケジュール。お陰でへとへとだ。 「真紋ちゃん、こっち!」 年上の女性マネージャーが、スタジオの外の駐車場から手を振っていた。少し足を早めて車のそばまで来ると、「お疲れ、マネージャー」と声を掛けつつ車に乗り込んだ。 バンッ、と車の扉が閉じる音二つ。程なくしてエンジンが掛かり、生温かい暖房が流れ出す。 「明日もラジオとか雑誌のインタビューとか入ってるから、頑張ってね?」 「はーい。」 頷きつつ、マネージャーの車のCDの再生ボタンを押す。聞こえてきたのは私の歌声だった。 「うわ。私の曲ですか」 「当然でしょー?オリジナルCD、キタキマヤコンプリートディスクよっ!」 「コンプリートって……」 苦笑しつつ、幾つか曲をスキップすると、何やら懐かしい曲。 これって、例のプロジェクトに参加する前に出してた曲だ。 「こんな古いのも入ってるのね。」 「そりゃそうよ。キタキマヤ秘蔵曲もしっかり入れてあるんだから」 「あはは……本当に秘蔵だもんね……」 乾いた笑みを浮かべつつ、聴こえてくる当時の私の荒っぽい音作りに少し恥ずかしくなる。 あの頃は本当、勢いだけで音楽作ってたもんなぁ。 ――秘蔵、という言葉。 これは本当に言葉通りのことだ。 私は以前、キタキマヤという同じ芸名で音楽活動をしていたけれど、今はその活動遍歴はなかったこととして扱われている。オフィシャルでもマスコミでも、私が以前に活動していたという情報を公にすることはない。だから詳しい音楽ファンならば私が出戻りだってことがわかるだろうけど、新しいファンは、つい最近出回りだした遅咲きのアーティストとして私を見ていることだろう。 曲調も、或いは歌い方もこの数年でかなり変わったし、ぱっと聴いただけじゃ昔の曲と今の曲、同じアーティストが歌っているものとは気付かないかもしれない。 私は別に過去を消したいわけじゃない。あくまでレコード会社の方針で、「過激な活動をしていたことは伏せておいた方が良い」ってことになったわけなのだ。因みに私が「思想犯」として捕えられた事実に関しては、今や知っている人など殆どいないのではないか。警察の幹部辺り、ちょこちょこと記憶にある程度だろうし、そのことを彼らが公にすることも許されていない。あのプロジェクトと同じ扱いだ。絶対に人に話してはならない重大な秘密。話せば自分の地位すら危うくなってしまう、ってね。 このマネージャーも、私が以前に音楽活動をしていたことは知っているけれど、思想犯なんかで捕まったってことは絶対に知らないはず。――当然、あんなプロジェクトに参加していたということも。 「真紋ちゃんって本当に才能あると思うんだけどなぁ。」 「ありがと。……ま、いい加減開花させて見せるわよ。セカンドマキシも初登場で百位以内入ってたでしょ?」 「そうそう!あれは快挙よ!」 「……まだまだね。」 たかが百位で喜んでいるマネージャーに少し笑って、「チッチッ」と指を横に振って見せた。 「目指すは十位以内!いつかはミリオン!」 「キャー真紋ちゃんってば夢が大きいっ!いつか絶対そうなるわ!」 ノリの良いマネージャーは、そんな黄色い声を上げて応援してくれる。 きっと彼女も本気で言ってくれてる。もちろん私だって大本気だ。 いつかは、トップアーティストとして君臨することが今の私の夢なのだ。 「だから、昔みたいな音楽を作るのはやめたの。あんな少数派の意見なんて世の中は構ってくれない。政治家の汚職?それが何?ってね。……人々が求めているのは、もっと純粋な感情なのよ。」 「……純粋な、ね。うん、私もそうだと思う。」 マネージャーは私の言葉に同意するように頷いて、それからカーオーディオのボタンを幾つか押した。流れ出したのは、世の中では私のデビュー曲とされている、私にとっては再スタートとなった曲。 「昔からのファンである私から言わせてもらうと……」 赤信号で車が停止すると、マネージャーはふっと柔らかな笑みを向け、こう続けた。 「以前の曲と、再出発であるこの曲。……その間に、すごく成長したんだなぁって思った。何があったかは知らないけどね」 「……そうね。」 私自身、彼女の言葉にすごく同意する。 プロジェクトが終了してから、私は病院のベッドで色んなことを考えた。音楽室で律子さんに聞かせた最初の三つの音、あの先を更に音にして、世の中に発信しようと思った――けれど。 その時の私では、まだ出来なかった。音を作り出すだけの心の整理、そうすぐに出来るものではなかった。 だからゆっくり、時間を掛けて熟成させようと、そう思って。二十五にもなって親の脛を齧るのも抵抗があったけど、私には時間が必要だったから。いつか必ず恩返しをするからと、そう言って、穏やかな時間を過ごさせてもらった。 そして四年が経った頃に、私は一つの曲を作り上げた。 律子さんに聞かせたあの音は使わずに、全く別の曲を。 「壊れゆくものを引き止めて、祈りを捧げ……回復に尽くす」 スピーカーから流れる音、その歌詞をぽつりと呟いた。 たった一つの曲にするには、あまりに莫大すぎる感情だった。だけど一つ一つの感情を汲み出して、文字にして。そうやって出来上がったのが、『コワレユクモノ』というこの曲。私はこの曲でメジャーデビューして、マイナーアーティストに復帰した。そして最近出したばかりの『You're like moon』……これが、ずっと作りたかった、私のとって渾身の一曲。――真苗に贈る、五年越しの曲。 「……まな、え。」 心底愛した人、彼女に、一体どんな言葉を贈れば良いだろうと。 ずっと考えた。だけど上手くまとまらない想いがもどかしかった。 そんな時、私を照らした月明かり。 あぁそうだ。今の私にとって、真苗はああいう存在だ、と、そう思った。 美しく、儚くて、優しい光で私を照らす。 ぬくもりなど与えない。けれどずっと、私を見守り続ける存在。 「まなえさんって言うの?……真紋ちゃんが好きだった人」 マネージャーは優しげな口調で、私に問い掛ける。 少し気恥ずかしいけど、こくんと頷いて。 「中谷真苗……私の、最後の人。」 「……そう。」 マネージャーは相槌を打った後、何も言わなかった、けれど。 優しげな表情、その横顔があたたかくて、なんだか嬉しかった。 ――この先も私はずっと、真苗をひと時も忘れずに生きていく。 それが、今の私が確信している唯一のこと。 真苗が見守ってくれている。真苗が照らしてくれている。 だから私は、迷わずに歩いていける。 ―――十年後。 そう。十年だ。あのプロジェクトから、もう十年もの月日が流れていた。 長かったような短かったような十年間、思い起こしては、ふっと笑みを漏らして。 私―――宮野水夏―――は、空港の通路を歩いている。ここは日本の空港だ。 私は、十年ぶりに日本に帰って来たんだ。 十八歳だった私も、今では二十八歳。当時のりっちゃんと同い年。 きっと皆も様変わりしていることだろう。人間、十年も経てば大きく変わり行くものだ。 私はといえば、体型はそこまで変わりないものの、昔よりも顔は大人っぽくなっているはずだし――それから、髪が伸びた。伸ばしたというより切る暇がなくて、今は背中の中程まである。 「Suika,How do you feel.」 隣を歩くのは、平和支援活動グループの仲間であるレナード。アメリカ国籍の、私より三つ年下の好青年だ。彼は久々に故郷を訪れた私に、そんな問いを掛けた。 「...what should I say?」 何て言ったら良いのかわからないよ、と冗談めかして返せば、レナードはクスクスと笑って、 「Are you happy?」 と、もっと簡単な問いを掛けて来た。 「Of course. I'm very very very happy.」 そう言うと、レナードは満足げに頷き、「Good smile.」と真っ直ぐな笑みを見せてくれた。レナードこそ良い笑顔だと思いながら「Thanks.」と言葉を返す。彼はすごく良い笑顔を見せる。いや、彼だけじゃない。支援活動をしている人の多くが、こんな純粋で真っ直ぐな笑みを見せてくれるんだ。それは彼らに共通するもの、平和を心から愛する、純粋な思いが滲むものなんだろうな。 支援活動だって、当然嬉しいことばかりではない。私達の力が及ばず、死んでいく人たちだってたくさん目にした。だけど、それよりももっと多くの、人々の笑顔を見た。あぁ私は、この笑顔のために活動をしているんだなと、心から思わされる瞬間だった。 レナードは、日本の支援グループからの助成金を受け取るため、そしてお礼を言うためにこの日本にやってきた。だから彼はハードスケジュールなのだけど、私はたまたま彼と一緒になっただけで、その仕事についていく必要はない。つまり、真っ直ぐに――待ってくれている人たちに、会いに行くことが出来るわけだ。 空港の外に出ると、コート越しにも染み行って来る冬の空気に身を縮めながら辺りを見渡す。懐かしい日本の光景に少しだけ見惚れて、本当に戻って来たんだなと今頃になって実感した。 「I should probably get going.」 レナードは一台の車に気付くと、行かなくちゃ、とそう言って私に握手を求めた。 「O.K. hang in there. see you.」 「Thank you. have a nice holidays.」 私はレナードの手を握り、頑張って、と言葉を掛ける。彼は笑顔で頷き別れの挨拶を告げると、大きな荷物を抱えて早足に車の方へと向かって行った。 レナードとも別れ一人になった私は、重たいスーツケースを引っ張りながらきょろきょろと辺りを見回す。 予定では、空港の前に車で迎えに…… 「水夏」 その時、少し離れた場所から掛けられた声に振り向き、そして一瞬言葉を失った。 懐かしすぎる、その人物の姿。 「や、闇村さん!うっわぁ……お久しぶりです!」 感極まりながら彼女のそばに駆け寄り、ぺこりと頭を下げる。 闇村さんも嬉しそうな笑顔を浮かべ、 「久しぶりね。……元気そうで良かった。おかえりなさい、水夏。」 そう言ってくれた。 あぁ、この言葉。ずっと聴きたかったんだ。 「……ただいま、闇村さん。」 嬉しさで少し言葉に詰まりながらもそう言ったら、闇村さんはまた優しい微笑みを見せてくれた。 それから「行きましょうか」と私を促し、歩き出す。 っていうか。ていうか。闇村さん、十年も経ってるのになんでこんなに綺麗なんだろう。 相変わらず綺麗な黒髪は、あの頃よりも少し短くなっていた。とても三十代後半とは思えない彼女の横顔を見つめていると、闇村さんはクスクス笑いながら言った。 「私なんかに見惚れてる場合じゃないでしょう?霜さんが、待ってるんでしょ?」 「……まだ、待っててくれてますかね。」 「大丈夫よ。」 少し不安で小さく漏らせば、闇村さんはさも当然といった口ぶりでそう言った。 やがて闇村さんの車であろう格好良いスポーツカーに到着し、私の荷物を後ろに積んで、それから私達は座席に乗り込んだ。 「久しぶりの日本はどう?」 闇村さんは車を発進させながら問い掛ける。 その問いに少し悩み、窓から見える景色をきょろきょろと見渡した。 「こんなに発展した国だったかなぁって思います。アメリカも結構なもんでしたけど、日本も凄いなぁ……」 「ふふ、十年間で随分この国も変わったもの。……長いわね、十年って。」 「……はい」 闇村さんの言葉には妙な重みがあって、なんだか不思議な思いに囚われながら頷いた。闇村さんは、あの頃とそう変わっていないような気もするのにな。落ち着いた口ぶりも、どこか悪戯っぽくて、それでいて優しい笑みも。 だけど、彼女にも十年間という長い月日で、色んなことがあったんだろう。 「あの。闇村さんは……」 「うん?」 問いかけようとして、少し躊躇って。だけど、軽い笑みを浮かべちらりとこちらに目を向ける闇村さんに、思い切って言葉を続けた。 「今、幸せですか?」 ――と。 彼女は、どんな十年を過ごしてきたのだろうと、気になって。 三宅さんは今も彼女のそばにいるのだろうか。 或いは、―― 「私は幸せよ。……この十年間、ずっとね。」 私の余計な危惧は無駄に終わった。 彼女は穏やかな口調で言って、静かに笑んだ。 その横顔は、偽りのない、確かなものだった。 「……良かった」 安堵して、そう小さく零すと、闇村さんはクスクスと笑いながら 「第一、この私が幸せになれないはずがないでしょ?私を誰だと思ってるの?」 と、冗談めかした言葉を返す。 それもそうかと、笑いながら同意した。相変わらずだなぁとも思いつつ。 「さてと、水夏はこれからどうするの?どこまで送ったら良いかしら?」 「あー…えっと」 闇村さんの問いに少し悩む。彼女とも積もる話がある、けれど、それよりも…… やっぱり私は、急がなくちゃな。 一刻も早く、待ってくれている人のところに、戻らなきゃ。 「駅まで……東京駅まででいいです。そこからは電車で行きます。」 「つれないわねぇ」 「う、……だ、だって」 「わかってるわよ。水夏は私なんか構ってる暇はないのよねー?」 「だ、だからそういう意味じゃないですってば」 しどろもどろになりつつ言い訳して、少しばつが悪くて目を逸らす。 そんな私に闇村さんは笑って「冗談よ」と言いながら、ぐっとアクセルを踏み込んだ。 「恋人をあんまり待たせるものじゃないわよ。飛ばしてあげる」 加速していく景色を見ながら、少しの不安、そして目一杯の期待を抱いていた。 もうすぐ会える。 十年ぶりに、あの町に帰れるんだ。 「お散歩するには、ちょっと寒いなぁ……スーパーが家の隣に出来たらいいのに……ね?」 閑散とした夕暮れ時の道を歩きながら、そんな独り言を漏らす。 いや、正確には独り言とは少し違うんだけど、ね。 家からスーパーまでの道程は、丁度良いお散歩コースなんだけど、この時期になるとさすがに寒い。歩いて十五分、車を出すほどでもないし、雨や雪が降らない限りはこの道を歩いて行こうと思っている。 この道を歩いていて、いつも懐かしい場所を通りかかることも、ここがお散歩コースとして秀逸な点かもしれない。懐かしい場所――黒照高校。 八年前に卒業した母校であるその高校は、水夏先輩や霜先輩と一緒に過ごした、思い出の詰まった場所。 水夏先輩と離れてからもう十年も経つんだなぁって、この道を通る度にいっつも思って。元気にしてるかなぁって思いながら、通り過ぎていく、そんないつもの道。この道を通るようになってから、かれこれ三年。 不意に、冷たい風が吹き抜けて、少しだけ身を縮める。 「……翠ちゃん、風邪ひかないでよぅ?」 そうして声を掛けるのは――ベビーカーに乗った、可愛い赤ちゃん。 そう。この子は、旦那との間に授かった子ども。 松嶋翠(マツシマ・スイ)、それがこの子の名前。 あたし―――松嶋ゆき―――の、可愛い可愛い一人娘。 旦那と結婚したのは三年前、あたしが二十四歳の時のことだ。そもそも旦那は黒照高校定時制の一学年下の後輩で、付き合いだしたのは八年も前になるわけで。だから結婚したのも自然なこと。この子が生まれたのも自然なこと。――十年前のあたしじゃ、考えられなかったことかもしれないけどね。 高校二年生、あたしは本当に霜先輩に夢中だった。だけど霜先輩は水夏先輩しか見ていない――それは、あのプロジェクトの中で心底痛感したことで。そうすぐに諦められるものでもなかったけど、やっぱり時間の力は偉大だ。高二、高三とフリーで過ごし、そして四年生。あたしは一人の少年に恋をした。 一個下の松嶋くん。お互いに意識しあうようになったのは、あたしが高四になってすぐから、夏の終わりの頃までだろうか。そして二学期に入ってすぐ、彼からの告白にあたしはOKしていた。 子どもっぽい男の子で、あたしだってあんまり人のこと言えない子どもっぽい女の子だったし、霜先輩に報告したら「色んな意味でお似合いだな」だなんて、笑われたんだっけ。 霜先輩にとっても松嶋くんは身近な人。何故かっていうと、実は彼もミス研の部員だったからだ。霜先輩が四年、あたしが三年、そして松嶋くんが二年生になった頃、彼はミス研に入部した。だから実質一年間は、霜先輩とも仲良くやってたわけ。 『先輩、それ僕のチョコレートですよ……!!』 『ふ。後輩が先輩にお菓子を貢ぐのは当然のことだろう!』 『そ、そんなぁ!僕は今日一日、そのチョコが食べれることだけが楽しみで頑張って来たんですよ?!』 『私は松嶋にチョコを貢がれることだけが楽しみだったんだよ』 『嘘ばっかり……ぅぅ。』 ……ミステリー研究部とは名ばかりで、実際はお菓子研究部に改名すべき勢いだった。 そんな十年間。水夏先輩がいなかったのはやっぱり寂しかったけど、結構楽しくやってきた。 そして今や専業主婦となったあたしは、子育てに奮闘中!というわけである。 「翠ちゃんも、大きくなったら黒照高校かなぁ?」 翠はまだ生後六ヶ月、それなのに将来のこととか色々考えちゃうあたしってやっぱり親バカ? でもいいんだっ。翠ちゃんてばママに似て超可愛いんだもんっ。んもぅ、本当カワイ――……あれ? ベビーカーを押しながら歩いていて、あたしはふと、高校の周りのフェンスから中をじっと見つめている奇妙な人物を目に止めた。人物の視線の先には、定時制の校舎であるぼろっちぃ建物と、そして建物の中では授業中、勤勉に――とは言い難く、居眠りしたりラクガキしたりしているのだろう、そんな定時制の生徒達の姿が見える。 妙に不審な人物に少し目を奪われていると、人物はあたしの視線に気付いてか、はっと顔を上げて佇まいを正そうとし―― ……あ……!? 長い髪の女性、だった。辺りの目を遮るように帽子を目深に被っている、けれど。 眼鏡とか、化粧っけのない顔とか――その、雰囲気とか。 「すい、か、先輩……?」 「……?」 女性はきょとんとして顔を上げた後、あたしを真っ直ぐに見つめ、目を見張る。 「ゆき?……ゆきだよな!?」 あぁ、やっぱり! 水夏先輩だ……! 「先輩!!ちょ、な、なに?なんで!?なにやってるんですか!?」 「何やってるって……いや、その……」 互いに距離を縮めながら、あたしは混乱した声を上げる。 未だに、目の前にいる人物が、あの水夏先輩だと信じられなくて。 先輩はあたしのそばに近づくと、ふっと嬉しそうな笑みを点らせた。 「ただいま。……やっと戻って来たよ。」 そう、穏やかに告げられた言葉。ようやくあたしは、実感した。 目の前にいるのは水夏先輩だ。 十年間経って、大人っぽい素敵なお姉さんになっているけれど でも、間違いなく、水夏先輩だ。 「……おかえりなさい、水夏先輩!」 あたしは目一杯の笑みでそう答え、ぺこりと頭を下げてみせた。 水夏先輩はどこか照れくさそうに笑んで、「元気そうだな」と言葉をくれる。 「元気ですよぉっ!水夏先輩も元気そうで良かったです!」 「うん。……っていうか」 水夏先輩は頷いた後、身を屈めてベビーカーの翠に目を向ける。 翠は、その真ん丸な瞳で水夏先輩を見上げては、きゃっきゃと楽しそうに笑っていた。 「誰の子?」 「あたしのです。」 「あぁ、ゆきのか――……って、ええぇ!!?」 予想通りのリアクションだ。 思わずクスクスと笑いながら、「可愛いでしょ?」と首を傾げて見せた。 「確かにお前に似ずに可愛いな……」 「あたしに似て可愛いんですッ!」 相変わらずな水夏先輩にプーッと頬を膨らませるも、水夏先輩はなんだか嬉しそうに翠に指を伸ばしたりしていて、それを見ているとあたしも自然と、笑みが零れていた。 「ってことは、結婚したのか。」 「そうなんです。ほら、あたしの一級下に松嶋くんっていたでしょう?」 「……」 先輩は顎に手をあて、「はて」と考え込んだ後、ぽむっと手を打って顔を上げた。 「そういやいたな!ショタコン受けしそうなやつだろ?」 「し、失礼な……確かに童顔ですけど……。とにかく、あの松嶋くんと結婚したんです。」 「へぇ……じゃあ、今は松嶋ゆき、か。」 「はいっ!」 驚いたような感心したような、それでいて嬉しそうな水夏先輩に大きく頷き返し、「この子は翠ちゃんです」と愛娘の紹介も忘れない。 「ふぅん……ゆきも幸せそうにやってるな。」 「そりゃもう。……でも今この瞬間が一番幸せですよッ。」 「今?」 「だって水夏先輩まで帰って来てくれたんですもんっ」 そう言ったら、水夏先輩はどこかはにかむような笑みを見せ、「さんきゅ」と小さく言った。 その後、ふっと定時制の校舎に目を向けたりしてから、小声でこう言った。 「霜、は?……あいつ、元気にしてる?」 「え?まだ会ってないんですか!?」 「うん。さっき戻ったばっかりだから。」 うわちゃー。なんか抜け駆けしちゃった気分だぁ。 「今から会いに行くんです?」 「そのつもり。まだ実家に住んでる?」 「あ、いえ、霜先輩、今は一人暮らししてますよ。」 慌ててあたしはポケットから携帯を取り出し、ちょこちょこっと操作をして地図機能を開く。 霜先輩の住んでるアパートを教えれば、水夏先輩は「あいつが一人暮らしねぇ」と笑いながらその場所を目で覚えていた。 「……霜は、まだ名字、変わってない?」 ぽつりと、先輩はそんな問いを掛ける。 なんだか不安そうな表情に、あたしは内心嬉しくなりながら「どうでしょうねぇ」と言葉を濁す。 「詳しいことは、本人に聞くのが一番です!」 「そりゃそうだな。……あいつに恋人とかいたら、そんな物好きの顔を見てみた気もするけど」 「まったまたぁ。そんなこと言ったら水夏先輩が一番物好きじゃないですかー」 あたしが軽い口調で言うと、途端に水夏先輩はかぁっと頬を赤くする。やーん、可愛いー。 この様子なら、きっと大丈夫だろう。 水夏先輩には教えてあげない。本当は言いたくて仕方なかったけど、本人から聞くべきだ。 ―――霜先輩は、ずっとずぅっと、水夏先輩のことを待ってたんですよ、ってね。 「さ、こんなところで油売ってないで!霜先輩のとこ行ってあげて下さい!」 「だな。……ありがとうな、ゆき。」 「ううん、あたしは何もしてないですよ。」 水夏先輩は重たそうなスーツケースを手に取り、帽子のつばを下げて。 それからちらりとあたしに目を向け、小さく笑みを見せてくれた。 「待っててくれた。それだけでも十分だよ。……幸せにな?」 「はい!……って、水夏先輩?」 行きかける水夏先輩を慌てて呼びとめ、「ん?」と振り向く水夏先輩に、おずおずと問い掛けた。 「もう、どこにも行きませんよね?もうこの町に……」 「いや。それは出来ないんだ。」 「どして……?」 また先輩に会えなく、なる? それは――寂しいこと、だよ。 「行方不明者って、ある意味お尋ね者みたいなもんだしな。それにまだやることが残ってる。明後日には日本を発つよ。」 「……」 そ、っか。水夏先輩の言うことは間違ってない。 十年も前に行方不明になった人が今頃戻って来たと知れたら、大騒ぎになるのは間違いない。 だけど。 ………水夏先輩。 「ゆきは、わかってるんだろ?……お前はもう幸せを手に入れてる。」 ――その通り、だ。 この十年間という時間は、ある意味残酷でもあった。 長い長い時間で、あたしは――水夏先輩がいないことが、当たり前になっていた。 だから…… 「あたし、ッ……」 そう言いかけた時突然、翠が声をあげて泣き出した。 慌てて抱き上げてあやすと幾分泣きやむけれど、やっぱり悲しげで。 赤ちゃんって本当に、人の気持ちに敏感だ。あたしの気持ち、反映してる。 だけどね。 あたしはもう泣けないよ。 寂しくても、笑うことが出来る。 「水夏先輩ッ、あたしは、先輩達の幸せを祈ってます!」 そう言って、笑顔で見送ることが出来るから。 「……ありがとう。」 水夏先輩は微笑んで、こくんと頷いた。 そしてあたしに背を向け歩き出す。遠ざかっていくその背中。 しばらく眺めた後で、ふっと翠の姿を見れば、翠はすやすやと気持ち良さそうに眠っていた。 「……あ。」 あたし、水夏先輩に一個、言うこと忘れてた。 会ったら絶対言おうと思ってたのに。 ――翠っていう名前は、あたしの恩人の名前から取ったんですよ、って。 「……う、ぇ」 やばい。飲みすぎた。 いっつもこれなんだよなぁ。仕事の後の一杯を誘われるのは良いけれど、下戸もいいとこで。 ウィスキーボンボンとかなら全然いけるんだけどなぁ。あのチョコの甘さの中でピリッと来るウィスキーは堪らない。そんなことを考えながら、私―――田所霜―――は、とぼとぼと帰路についていた。 二十八にもなるとな、誰もいない自室に帰るのもほんのり寂しくなるもんなんだ。 だからつい……誘いに乗ってしまう……のが悪いんだろうなぁ。 毎日毎日事務に奮闘して、この私を癒せるのはやっぱりお菓子だけなんだッ!! というわけで本日も帰りがけにコンビニに寄ってきた。コーヒーゼリーにシュークリーム、ポテチとクッキー、あぁそれから旬のフルーツ盛り沢山ケーキってやつも買った。帰ったらどれから食べようかなぁ。 ……と、こんな生活じゃ体型がやばいんだッ!これも今の私の悩みである。 ちょっと前までは休みにスポーツジムとかに通ったりもしていたんだが、最近はそれすら億劫で……。 「はぁ……きついな……」 元々怠惰な性格だ。生活のために仕事をする、その繰り返しは私には向いていない気がする。 かといって仕事をしないわけにはいかない。生活しなきゃいけないからな。 そんな毎日――……時々、投げ出したくもなる。 ふっと足を止めて、とっくの昔に日の落ちた空を見上げた。綺麗な星も見えずに、視界にはチカチカと点滅する街灯が映っていた。なんとも心許ない光景に、ふっと小さく息を漏らして。 またゆっくりと歩き出し、住んでいるアパートへと向かう。ひと気のない住宅地で、すれ違う人もいない。アパートの前には小さな公園があって、最近そこに痴漢が出るとかなんとかで、結構危うい地帯である。 辺りの静寂が嫌な感じで、私はガサガサとコンビニ袋の音を鳴らしつつ少し足を早めてアパートへと急いだ。やがてアパートが見え、ふっと安堵の混じった吐息を漏らした、その時だった。 公園の入り口のところに、人影が、見えた。 丁度街灯の明りが当たらない場所で、ただ黒っぽく影だけが見える。その人物はどうやら地面に座り込んでいるらしい――っていうか、怖! こういう時に限って痴漢という二文字がドーンと頭の中に広がってくる。いや、私だってそこまで美人だと自負するわけではないけれど、多分こう、痴漢ってのはそこまでターゲットを選ばないものだろう。私に危機が及ばないとは限らない。 「……ッ!」 ここは自室に逃げるが勝ちだ。 私はそこからダッシュして、アパートの入り口へと駆けた。 視界の端で、その人影が立ち上がるのが見える。ほら!ほらやっぱ怖い!狙ってる! 「待ッ……」 微かに背後から掛けられた声は女のものだ。 え?痴漢じゃなくて痴女?でも怖いよやっぱ! 私は一気にアパートの廊下に駆け込み、階段を上ろうとした。 「こら!待てそこのバカ!!!」 「……は、ぇ?」 しかし。 背後から聞こえた声は、痴女とは思えぬ―― というよりも、 ……聞き覚えが、あった。 恐る恐る振り向くと、アパートの薄暗い電気の下で、真っ直ぐに私を見つめる女の姿、が―― 女の―― 「……久しぶり、だな。」 「!?」 「霜。……私のこと、わかる?」 カツカツと靴音を響かせ、その人物は私のそばに歩み寄った。 思わずどさりと、手にしていたバッグとコンビニ袋を落としていたが、そんなことはどうでもいい。 すぐ間近で見る、その顔。 あ……あぁっ――! 「わ、かるに決まってる……」 「……そっか」 「水夏……!!」 ガバッ、と、その人物に――水夏に、抱きついていた。 え、あ……今、私、 ……誰、抱きしめてるっけ? ……水夏? 水夏――? 「逃げたかと思えば抱きついて……」 そっと身体を離すと、水夏はそんな皮肉じみた言葉を漏らしては、小さく笑う。 あぁ、水夏だ。 間違うわけがない。 ずっとずっと。 十年間も待ち続けた人を、間違うわけがない。 ただ、突然過ぎて信じられなくて 本当に目の前にいるのが水夏なんだろうかって もしかして私は夢を見ているんじゃないのかなって そんなことを思って―― 水夏の頬をつねっていた。 「……痛ひんれすけど」 「わ、ごめん。……痛い?じゃあ夢じゃない!?」 「なにバカなこと言ってるんだ。相変わらずだな……」 水夏はクスクスと笑って、それからふっと表情を和らげた。 未だに、信じられない思いに囚われている私に、水夏とは思えないほどの可愛い笑みを見せて。 「ただいま。……ずっと待たせて、ごめん」 そう言って、水夏はぎゅっと私の身体に抱きついていた。 私の身体を包むその温度。 ずっとずっと昔の感触、もう、忘れていたはずなのに どうして覚えてるんだろう。 水夏の温度。 「……おかえり。――っていうか、遅すぎる。」 思わずそんな本音を漏らせば、水夏は身体を離し、不安げな表情を見せた。 「遅すぎ、た?……霜はもう、誰か別の……」 あぁ、そういう意味か。 バカだな。 この私が水夏以外のやつを好きになれるわけ、ないのにな。 この十年、私が何度男を振ったと思ってるんだ。 ……いや、二回だけだけど。 「遅すぎて待ちくたびれたっつーの。お陰で、この歳でもしっかり一人身だよ。水夏が戻ってこなかったら一生一人身でいるところだったしなー。行き遅れた責任は取ってもらうぞ。」 「……あぁ」 水夏も、そういう意味か、とそんな表情で小さく笑んで。 それから、ちゅ、と小さく音を立てて、私の顎に軽いキスをしていた。 うわ、うわわ、どうしよう、可愛い。 「水夏……髪、伸ばしたんだ。」 「ちょっとは女らしい?」 「……黙ってればな。」 どうしてこう、素直になれないかなぁ私は。 もっとこう。 十年間、思ってたこと、一気に口にしたいのに。 出てくるのは皮肉ばっかりで、ちょっと自分でもいやになる。 それなのに水夏は終始嬉しそうな表情で ――あぁ、私だって心底、嬉しいよ。 「……水夏。」 「はい。」 はい、って!はいって言ってる!どうしよう!! あぁ、……なんかこう、 私の気持ち、なにもかも一言で言うには 何て言ったら――― 「――結婚しよう。」 「は?」 「あ?あれ?違うな、そんなんじゃなくて、こう……」 「結婚ってお前なぁ……」 水夏はクスクスと笑って、何かを口にしようとした――けれど ふっと口を閉ざし、私を…… いや、私の背後を見つめていた。 「……ん?」 何だろうと振り向けば、そこには、隣の部屋に住んでいる男性の姿があった。 「コホン」と咳払いなんかして、ああああ、明らかに見られたよな。っていうか聞かれた?! 「ど、どうぞ。……」 慌てて水夏と一緒に進路を開け、ぺこりと頭を下げると、 「――田所ちゃん、知ってる?」 「はい?」 男性は通りすがり、ぽつりと言葉を漏らしていた。 「オランダなら女の子同士でも結婚できるんだよ。」 「マジっすか!?」 「……マジ。」 彼はそんな豆知識を残し、何事もなかったかのように去っていった。 思わず水夏と共に言葉を失い、顔を見合わせて、ほぼ同時にプッと吹き出した。 「結婚するか!オランダで!」 「本気かよ!」 テンションの高い水夏の言葉に、とりあえずビシッとつっこんだ。 けれど水夏は――小さな笑みを浮かべたまま、こう続けた。 「本気だよ。私が連れてってやる。」 「……え、……あッ」 顔に血が集まってくるのがわかる。赤面する私に、水夏はまた顔を近づけ、 「責任取るって言ったろ?」 そう囁いて悪戯な笑みを浮かべていた。 ……アパートの廊下で婚約、ってな。 十年も会ってないはずなのに、私達って相変わらずな関係だなぁとしみじみ思いながらも そんな関係のまま、一生一緒に過ごすのも悪くないとそんなことを思って、また少し笑った。 「結婚します……って。本気!?」 水夏から届いた葉書に書かれた文章に、私―――闇村真里―――は思わず、そう問いかけていた。けれど残念ながら当人はここにはいない。既に二人は日本を発ち、オランダ――ではなく、アメリカに着いた頃だろう。結婚が本気かどうかはわからないけれど、水夏は霜さんを連れ、平和支援グループに戻っていったのだという。『本当は霜を連れて行くつもりじゃなかったのに』……とも、書いてあった。 彼女の躊躇いも理解出来る。霜さんには日本での霜さんの生活があって、それを壊すつもりなど水夏にはなかった。けれど――霜さんには水夏が必要で、そしてきっと水夏も霜さんが必要だった。だから二人が一緒になった。それは、ごく自然なことである。 私とも、同じ。 私はプロジェクトの後で、大きな家を購入した。 広い広いその家に、死ぬ時までずっと住むことを決めた。 仕事があるのでずっと家にいることは出来なかったけれど、時間が空いている限り、私はその家で時を過ごした。理由はただ一つ。愛する人のそばにいるために。 「闇村先輩……」 ぽつりと私を呼ぶ声。愛しいその声に振り向いて、「なぁに?」と問い掛けた。 広いベッドに眠っていた彼女は、上体を起こし、その澄んだ瞳を私に向けていた。 愛しい人。 私の永遠の恋人。 ―――美雨。 十年前のあの日。 美雨は、一命を取り留めていた。 迅速で的確な手術、美雨には及ばないものの、腕の良い医師をプロジェクトスタッフに備えていたことが幸いした。美雨が意識を取り戻す前にプロジェクトは終了し、参加者達はそれぞれの生活に戻って行った。 本当ならば、美雨だって死亡していなければあのプロジェクトは終わらなかった、なのに。 私自身の狡さには我ながら呆れてしまう。このことを参加者達が知れば、きっと私を責めるだろう。――私だって同じ痛みを背負わなければならなかった。木滝さんや律子さんのように、大切な人を失った痛みを。 結局、責められることが怖かっただけなのかもしれない。私は美雨が生きていることを彼女達に伝えなかった。ただ涼子だけに全てを話し、そして謝罪した。 『私が、闇村様と同じ立場ならば、同じことをしたと思います。……管理者だって人間です』 涼子はそう言って、私を許した。 その言葉に、どんなに救われたことだろう。 そして私は誓った。美雨にもう一度、色んなことを教えて行こう、と。 しかし、美雨は意識を取り戻すかどうかすらも危うい状況だった。このまま一生植物人間になるかもしれないと、スタッフだった医師は言った。私は美雨のそばにつきっきりで祈り続けた。どうか美雨が目を覚ますよう。どうかもう一度、私の名を呼んでくれるように。 そしてそれから、半年が経った頃のこと。 遂に彼女は、目を覚ました。 静かにその瞳を開き、やがて私を見て、こう言った。 「――貴女は、誰?」 「え……?」 美雨は、全ての記憶を失っていた。 高校時代に私の恋人であったこと、そして彼女が犯した多くの罪も、プロジェクトのことも、なにもかも。 その時に私は思った。これはチャンスだと。 彼女に一から、全てを教えよう。私が美雨を導いて行こう。 いつか記憶を取り戻す日が来ても、彼女が悲しまないように。 穏やかに過ぎていった十年間。私は美雨と共に時を過ごし、そして様々なことを教えてきた。 記憶を失ったとは言え、言語や計算といった能力が失われたわけではない。会話だって普通に出来たし、IQも以前と同等だった。ただ、元々彼女から抜け落ちている感情は、やはりそこには存在しなかった。 だから私は時間を掛けて、彼女に感情を教え、彼女の表情を少しずつ豊かにして行った。 「怖い夢を見たんです……」 美雨はベッドから降り立つと、窓際に立つ私のそばに歩み寄り、そしてきゅっと抱きついた。 昔の美雨は見せなかった甘えるような行為もまた、この十年で培われてきたもの。 私はそっと美雨の髪を撫ぜながら、「どんな夢?」と問い掛けた。 「周りが、血の海なんです……。人間の――女性の死体がたくさん転がっているの……」 「……そう。それで?」 「私は、銃や刃物……あれはメスかしら……そう、色んな武器を手にしていた……。きっと私が殺したんです。残忍に、躊躇いもなく……。」 その言葉を聞いて、私は不安に囚われた。 美雨が見たその夢は、彼女が失った記憶の一部分を抽象的に表している。 今頃になって突然、夢という形で思い出された。美雨にとっては印象的な夢として。 それは彼女の記憶を蘇らせるきっかけにもなり得るだろう。 「闇村先輩、知っているなら教えて下さい。この夢は私の過去に関係があるのですか?」 美雨は私のそばで目を伏せたまま、淡々と紡ぐ。その細い手は彼女の腹部に触れていた。 美雨の腹部には、葵に撃たれた時の銃創が残っている。彼女はそのことを前に一度だけ私に問うたが、私は何も答えなかった。いや、答えることが出来なかった。 真実を話すことが出来ない。それは今も同じで、美雨の問いに押し黙ってしまう。 「――私は、時々」 ぽつりと切り出しながら、美雨はその手を私の肩に置いた。 悲しげな瞳で私を見上げ、そして言葉を続ける。 「自分がとても怖くなります。私は昔、何かとんでもないことをしてしまったような気がする……。あの夢のような、恐ろしいことを……」 その言葉を耳にして、ふっと息を吸い込んだ。 美雨はもう、薄々勘付いているのではないか。 彼女の見た夢が彼女の記憶だということ。 そしていずれは確信に変わるのではないか。 それならば、私は全てを話すべきなのだろう。 美雨が曖昧な記憶に恐怖するよりも先に、その真実を教えるべきなのだろう。 「お話をしてあげるわ。」 美雨の肩にそっと手を置いて、部屋の片隅にある椅子に彼女を促し、座らせた。 そして私は丸テーブルを挟んで、彼女の向かいに腰を下ろす。 不安の色を覗かせる美雨の瞳を真っ直ぐに見据えて、私は言った。 「――神崎美雨という女性が辿った、数奇な運命のお話を。」 神崎美雨は、裕福な家庭の一人娘としてこの世に生を受けた。 高水準な教育を受け、天性の才能も手伝って、彼女は申し分のない成績を残して行くこととなる。文武両道、才色兼備、まさに非の打ち所がない少女だった。 しかしその影で、美雨の少女時代には暗い背景があった。美雨の両親は共に多忙な人物で、彼女の教育は家政婦に一任されていた。その家政婦は卑屈な人物であり、裕福な美雨の家族に妬みを抱いていた。そして美雨に辛辣な態度を取り、過度なまでの徹底した教育スケジュールという形で美雨を戒めた。課せられる教育を完璧にこなしていった美雨、それは愛を与えぬ両親と、残酷な家政婦に向けた些細な復讐でもあったのかもしれない。 やがて美雨は名門中学を卒業し、私が在学していた名門高校に入学することとなる。難問と言われるハイレベルな入試問題を満点でクリアした。その噂は私も聞き及び、そして美雨と接触した。 私は美雨という少女を見初め、美雨が欲しいと、そう思った。何もかも知っているようで、美雨は何も知らなかった。美雨はその時までに、誰かに心を許したことなど一度もなかったのだ。だから私が掛けた核心的な言葉に、美雨は戸惑いの表情を見せていた。それはきっと、彼女の心に触れようとする私への戸惑い。それと同時に、私に干渉された時の自身の心情に対する戸惑い。 それから私と美雨は、放課後の空き教室で毎日一緒に時を過ごした。会話も少ない空間で、美雨はいつも戸惑っていたように思える。私はといえば、そんな美雨の戸惑う姿が好きだった。冷静な彼女が、ふっとその表情を曇らせる時の様子が。 彼女に会う度、彼女と同じ時間を過ごす度に、私は美雨に惹かれていった。この少女が私を想ってくれるように、様々なことを考えた。そして幾つかの計画を美雨に仕掛け、次第に美雨も私に心を寄せていった。 美雨は拒絶ということをしなかった。だから私は、美雨の想いが固まるより先に、美雨を抱いた。 それからどれほどの時間を過ごした頃か。美雨はやはりいつも戸惑っていたけれど、自信のなさそうな響きで、感情を言葉にすることを覚えていた。「嬉しい」と美雨が言う時、美雨はきっと心の中で「かもしれない」と付け加えていただろう。そんな自信なさ気な様子も余計に可愛かったのだけど。 私もいつしか美雨に深く入れ込んでいた。自分でも驚くほどに、美雨を愛していた。そう、それは昔から気付いていたように、美雨だから愛することが出来たのだ。――彼女が天才だったから? 今考えれば、彼女が天才かどうかではなく、美雨という人物をただ愛していたのではないかと、そう思う。 長い時間を掛けて、少しずつ美雨の心を溶かし、美雨もまた、強い想いを私に抱くようになっていた。しかし時間は残酷に、私達の間を引き裂いていく。私の卒業という形で会う時間が減ってしまう。――その恐怖。 私があそこまで我を忘れたのは初めてのことだった。夢中で、美雨を求めた。その結果、私は美雨に手を掛け、そして美雨は、意識が朦朧とする中で本当の愛、そして本当の幸福に気が付いた。 そう。ただタイミングが悪かっただけ。彼女が幸福を知った瞬間、そのそばには死があった。だから美雨は、幸福と死とを結びつけて考えるようになってしまった。 私が手を放して、美雨が正気に戻った時、美雨は私を拒絶した。ほんの一瞬覚えた幸福を、私が放したことによって見失ってしまったから。教えたのも私、そしてそれを奪ったのもまた、私だった。 美雨は私を突き放した。幸福を奪い去った私に、憎しみすら抱いて、私のそばを離れていった。それでも美雨の拙い心は、懸命に幸福を求めた。その存在すらあやふやで、美雨にとってはどうやって探せば良いのかもわからなかったのだろう。ただその手がかりとなったのは、そばにあった死という存在だ。 美雨は高校を卒業後、医師の道を選び大学の医学部へ進学した。美雨がその職業を選んだのもまた、死と密接な関係にある職業だったからなのだろうか。そうして勉強や研修を積みながら、彼女は一人の患者と出会うこととなる。闇村健司、私の実の父親だ。彼は次第に美雨に強い信頼を抱くようになり、やがて彼は美雨に乞うた。一番幸せな今、自分を殺して欲しいと。美雨がその願いを受けたのは、幸福への追求が関係していたのだろう。彼が願う。自分が求めているものの手がかりがある可能性。美雨にとっては医師としての名声や地位よりも、幸福への追求の方が遥かに重要な課題だった。 美雨は医療ミスに見せかけて彼を殺した。その時、幸福に関しての手がかりを得た。彼の幸福そうな死に顔こそが、その結果。―――そして美雨は、死と幸福との関係を信じて疑わなくなった。 それから美雨は多くの人々を殺めることとなる。社会現象になるほどに、多くの人々を。美雨はただ、自分の求めるものを手に入れたいだけだった。そのために、道徳すらも投げ捨て、追求に没頭した。 やがて、そんな凶悪殺人者である美雨が逮捕される時が来た。三宅美佳子、ごく普通の大学生である彼女を殺そうとし、思わぬ反撃を受けた。美雨は常々、被害者達に愛に似た行動を与え、そして人々は幸福のまま無抵抗に死んでいった。故に美佳子の反撃は、美雨には予想も出来ぬものだったのだろう。――美佳子の抵抗は、私を想うが故のものだった。三宅美佳子は私に愛を誓ったペットであったから。 美雨には死刑判決が下り、処刑される予定だった。しかし、横山瑞希という政治家が秘密裏に催したプロジェクトに、参加することになったのである。それは、死刑判決が下りたものだけが参加する、殺し合いプロジェクト。美雨はプロジェクトの中でも、幾人もの人を殺した。横山の失態によって私が管理者となった後続プロジェクトに於いても、躊躇いなく人を殺す、その姿は残酷そのものだった。 最初は幸福のために殺めていただけだった。けれどそれを繰り返しているうちに、いつしか美雨の中から人を殺めるということに何の躊躇もなくなっていたのだ。 生き残った一名の優勝者には望みを叶える、というプロジェクトの中で、美雨は残り三人というところまで生き残った。―――しかし。 「私が貴女に接触した。……高校時代に別れてから、一度も会っていなかった私がね。貴女に幸福を与え、それと同時に幸福を奪い去った私に、貴女は問い掛けた。――幸福とは一体何なのか、と。」 「……」 「だから私がそれを教えたの……あまりにも簡単なことだった。今の貴女ならわかるはずよ。幸福とは一体何なのか。」 「――はい。」 「けれどその場で、貴女は佐久間葵という少女によって腹部を撃ち抜かれて、重症。――そして長い間眠り続けた後、目を覚ました時には記憶を失っていた。……そこからは、貴女の今の記憶の通りよ。」 長いお話を終えて、私はふっと息を零す。 美雨は神妙な面持ちで目を伏せ、そのまま暫し押し黙っていた。 そうすぐに受け入れられる現実ではないだろう。自分が凶悪な殺人者で、しかもその殺人の目的は余りにも容易すぎた。通常の神経ならば考えられないようなことだ。常識・道徳、その全てを捨ててでも彼女が求めてしまったもの。それが、幸福というものだった。 「……本当に、私が?……私がそんなことを?」 美雨はゆっくりと顔を上げ、信じられない、といった様子で問う。 私は一つ頷き返し、「悲しいけれどね」と小さく言った。 「この手で何人もの人を、殺めて……――」 美雨の震える手が、きゅっと握り締められる。それでも尚震える手を、もう片方の手で押さえつけていた。 私は席を立ち、彼女の後ろに回りこんで、震える身体をそっと抱きしめた。悲しみに直面する美雨に、一体どんな言葉を掛けて良いのかが躊躇われ、私はしばし押し黙ったまま。 「決して許されないことをしてしまった……どんなに多くの人々が私を憎んでいるでしょう……」 ぽつ、と彼女の膝に落ちる雫。 悲しみに震えて、涙を流す。 あの頃の美雨では、ありえなかった、その姿。 「―――そう。確かに今も大勢の人が美雨を憎んでいる。けれどね」 「……」 「貴女を許した人だっているの。」 「え……?」 美雨は小さく身じろいで、その顔を上げた。 私を見上げ、涙の粒を幾つも零しながら、不思議そうに続く言葉を待つ。 そんな美雨に、そっと頬へのキスを落として、私は言った。 「――闇村真里。私が貴女の全てを許し、そして貴女を庇った。だから貴女はこうして生きている。」 「……先、輩」 美雨はそっと身体の向きを変え、ぎゅっと私に抱きついていた。 美雨の肩に額を落としながら、「だけど」と言葉を続ける。 「私がどんなに貴女を守っても、それでも尚、憎しみによって貴女を殺そうとする者がいる。――その人物に許してもらわない限り、貴女は苦しみ続けることになるわ。」 「……それは、一体?」 「美雨、貴女自身よ。」 闇村先輩の話を聞いているうちに、私―――神崎美雨―――の中の記憶が断片的に甦る。 それは彼女の言っている言葉が全て真実だと証拠づけるものでもあった。 夢の中で、周りに点々と転がっていた若い女性の遺体。夢の中で見たのはほんの一瞬だったはずなのに、今こうして頭の中に、その一人一人の女性達の姿が思い浮かぶ。眼鏡を掛けた長い髪の女や、修道服を身につけていた女、幼げな少女の姿もあった。 そしてそれよりももっと昔。私が死刑判決を受けるよりも前に、殺したという人々。思い出したいのに思い出せない、何人もの人たち。私はその全員に、―――謝罪をしなければならない。 私は、あまりにも大きな罪を犯しすぎた。 罪悪感。良心の呵責。それすら、以前の私は知らなかったというのだろうか。 こんなにも大切な、人間として根本的なことを。 その大切なことを教えてくれたのも、闇村先輩だ。 十年間、ずっと私のそばにいてくれた。時には微笑み、時には叱って。 途切れた記憶。突然私の前に現れた女性。 彼女の言葉に従い続けた理由は―― 「……闇村先輩。……私が何故、貴女のことを先輩とお呼びしているかご存知ですか?」 そうぽつりと問いかけると、先輩は不思議そうな表情を浮かべ、 「前に美雨が言っていたのは……私が貴女に色々なことを教えているから、だったわね?」 と答えを返す。その言葉に、私は小さく首を横に振った。 「ごめんなさい、あの時は嘘をついたんです。……自分の記憶に自信がなかったから」 私はそっと先輩から身体を離すと、椅子から立ち上がって、先輩と正面から向かい合う。 もう十年間見続けてきた彼女の姿。だけど、実際はもう二十年以上、彼女と関わっていたことになる。 そして私は何故か、それがごく自然に思えるのだ。 「本当は――殆どの記憶が失われていた、けれど、貴女のことだけは微かに覚えていたんです。私が貴女のことを闇村先輩と呼んでいた、そして貴女が私を美雨と呼んでいた。」 「そうだったの?いつ頃から、そのことを思い出したの?」 「ずっとです。……目が覚めた時から、貴女には見覚えがあった。」 先輩に手を伸ばし、その腕を握った。 洋服越しの、腕の細さも、昔から知っていた。 「そして貴女を愛したこともまた、自然なのだと思いました。……私は以前から、貴女を愛していたような、そんな気がした。」 そう告げてから、先輩の身体に身を寄せた。 彼女に包まれる安堵感。それが、今私がこうして生きてる中で、何よりも大切なもの。 「闇村先輩……何故貴女が私を許したのかを聞かせて頂けますか……」 少し目を伏せてから、すっと彼女を見上げた。 優しい眼差しに、愛しさが込み上げる。 愛している、という、この想い。 「それは……聞いたらがっかりするかもしれないわ」 先輩は微苦笑を浮かべて言うけれど、私は「それでも構いません」と彼女を促した。 もしも彼女が誠実な理由で私を許したとすれば、私は私自身を許す自信がない。 だけど、彼女がそんな人じゃ、なければ―― 「……美雨、貴女を許したのは、自分のためよ。私は愛する人を失うことが怖かった。貴女を失ったら、もう生きていく自信すらなかった。……だから、貴女を許したの。」 ――その返答を聞いて、じわりと涙が溢れ、頬を伝った。 先輩は私の涙の理由がわからない、そんな様子で私を見つめた後、「泣かないで」と瞼にキスをくれる。 愛しい人。 私をこんなにも想ってくれる人。 自分を許したいと思った。――とてもとても、我が侭な理由で。 「私は、闇村先輩のそばにいたい。ずっと貴女を愛し続けたい。」 溢れる涙が止められなくて、彼女の背中に手を回し、彼女に強く抱きついた。 彼女の肩に額を寄せて、何度も言葉に詰まりながら、私は問う。 「……そんな理由で自分を許すことは、罪なことでしょうか?」 少しの沈黙。 やがてふわりと、私の髪を撫ぜた優しい指先の感触。 「そうね。とても罪なことね。……」 やがて髪を撫ぜる手が背中に回され、抱き寄せられていた。 「でも、私だけは許してあげるわ。」 そんな言葉に顔を上げた。 闇村先輩は一筋の涙を流しては、ふっと恥ずかしそうに笑んで。 それから私に、触れるだけのキスを落とした。 「二人で罪に溺れましょう。」 甘美な囁き。 耳に掛かる吐息に、ゾクンと震えた。 それから私達は長いくちづけを交わす。 いつまでもずっと、互いを求め合い、放さない。 このままずっと――罪を、犯し続けたい。 「闇村先輩……お願い、罰を受ける時も、一緒に」 「もちろんよ……いつまでもずっと、永遠に」 愛する人と愛し合うという幸福。 私がずっと求め続けていたものが、今、ここにある。 たくさんの犠牲を生んで、たくさんの悲しみを生んで、手に入れた二人の場所。 罪に塗れた二人は、このままずっと―――。 FIN← Back Back to Contents And "Omake"→ ↑Back to Top |