BATTLE ROYALE 1感情など存在していないような、無機質な空間があった。 コンクリ−トが剥き出しの壁面。薄汚れた鉄の扉。 日光など知りもしない、知っている光と言えば寒々しい蛍光灯の青白い光ぐらいのもの。 閉鎖的な空間には、漂う静寂。 長い間、音を忘れてしまったような雰囲気すら湛えていた。しかし、狭いとは言えそこは廊下だった。ともすれば、忘れかけた頃にはまた人の足音が響き出す。 カッ、カッ、カッ―― 遠く廊下の向こうから響いた静寂を破る音、それは徐々に近づいて大きくなった。堅いゴムがコンクリ−トの床に触れ、音を立てる。一定のリズムを保つ靴音。その音に混じって、細い金属が触れ合うような音がする。 靴音の主は、その場所で定められた制服をピシリと着こなした男だった。帽子を目深に被っておりその顔を確かめることは出来ないが、覗く口元はへの字の形で閉じられている。人間とは歳を追うことに皮膚に弛みが生じて口元も「へ」の字へと変わっていくのだが、その男は見た感じで決して老けた印象は受けない。では何故このような様子なのだろうか。元々そういう顔なのだと言われてしまえばどうしようもない。しかしこういう風に考えられないだろうか。――その場所は、とんでもない緊張感が張りつめているのだ、と。 男の腰元には、金属の輪に連ねられた無数の鍵がある。先ほどから聞こえる金属の触れ合う音はこれだ。やがて男の進む先に鉄格子状の扉があった。男はその鍵穴に合致する鍵を捜し出し、扉を開けた。 しかしその先に、更に頑丈そうな分厚い鉄の扉がある。今度の鍵穴は二つ。男はまた先ほどの鍵の輪の中から合う鍵を二つ見つけ、鍵を開けた。 ギィィ…… 重く耳障りな音、鉄の扉の開く音が静寂の中で鈍く響く。むっとした蒸し暑さが漏れてくる。たった二つの扉を挟んだだけというのに、廊下の雰囲気は様変わりしていた。つい先程までは冷たくて無感情な場所だった、しかし今は暑苦しいと言える程の温度と、そして人間の気配。渦巻いている感情は、悪意と呼べるもの。 そこには幾つもの扉があり、部屋があった。一部屋は僅か四畳半の灰色の小部屋であり、中にあるのは質素で硬いベッドと、簡易トイレくらいのものだ。しかもどの部屋も、重い鉄の扉に閉ざされている。 男が回廊に足を踏み入れたとき、小さく喉を鳴らした。蒸し暑さもあるのだろうが、何か別の汗をかいているようだ。じわりと滲む脂っぽい汗。男は小さく息を吐き、廊下を真っ直ぐに歩いていく。 部屋の小さな窓から視線が飛ぶ。ガッチリとした体型の熊のような男や、刺青だらけの人相の悪い男。彼らは険しい眼差しで男を睨みつける。そんなことは男にとってはもう日常茶飯事だろうか。いや、しかし慣れることなどできるはずがない。あれほどの悪意を受けて平気でいられるはずがない。 ここは留置場である。看守の男が今歩いている区域は、とびっきり極悪な犯罪者を一時的に収容する場所。看守の男は出来るだけ視線を無視しているようだが、その首筋にはどろりとした汗が流れ落ちる。 ――やがて看守の男は、ある独房の扉の前に立った。他の独房の窓から何人ものギャラリ−が看守と、そしてその扉に注目する。 看守は静かに鍵を開け、独房の扉をゆっくりと開いた。 室内が視界に入った瞬間、男は息を飲んだ。しかし咄嗟にそんな姿を隠すかのように、声を張り上げた。 「裁判の時間だ!」 思ったよりも渋いその声は、三十半ばか後半か。それなりのポストにある男であると察する。しかし、そんな男の張り上げた声は――何かに怯えるように上擦っていた。 独房の奥で本を捲っていた人物は、静かに目だけを看守に向けた。 「………早くしろ!」 男は、視線を外さずにはいられなかった。僅かに俯き加減で怒鳴った。 「――わかっているわ。」 その人物は、女だった。 美しい女性。歳の頃は二十代後半であろうか。キリッとした眉が、大人の女性の魅力を香らせる。 赤みがかった髪を肩につかぬほどの長さに流し、切れ長の目をふっと伏せた。 ただ美人なだけならば、看守の男がその姿を見て怯えた様子を見せることはないだろう。 女は、とても冷たかった。 雪のような白い肌。血液が通っていないのではないかと思わせるほど、触れれば溶けてしまいそうなほどに儚い肌。――それと相反するように、全てを見透かすような強い瞳。 冷たい。そんな形容詞が何よりもぴったりとくる女。 女は読んでいた本を閉じ、それを手にしたまま看守に近づいていった。 看守は微かに身を強張らせた。その女にそばに寄られるだけで、意思が怯弱になってゆく。 「さっさと手錠を掛けなさい。」 「……、……わかっている。」 男は女から本を預かり、慌てて手錠を取り出すと、女のか細い手首に拘束具を掛けた。そして男は女を連れ、先ほど来た道を引き返していく。道中、沢山の窓から視線が飛んできていた。男どもの下衆じみた視線。何かとてつもなく物珍しいものを見た時の視線だった。 女はそんな視線を知らずか、それとも単に気にしていないだけなのか、前を見つめ歩きながら看守に話しかける。 「その本は、あの独房に置いていくべきだったとは思わない?」 「え……?あ、あぁ」 看守の男は困惑した様子で同意した。本来なら持ってくる必要などなかったのだが、思わず持ってきてしまった。手にした本をちらりと見遣ってきゅっと口を閉ざす男の姿を見て、女はふっと笑みを浮かべた。冷たい、氷のような薄笑みを。 「あなたに近づきざま、勢いをつけて貴方の顎にこの本を突きつければ、血管諸共貴方の顎は砕け散っていた。人間の顎って……脆いのよ。」 男は思わず、足を止めていた。 「何してるの?」 女は男を一瞥し、小さく呆れたような息をつく。男が手錠から繋がった鎖を握っているので、女も立ち止まることを余儀なくされる。 「………。」 男は無言のまま、また歩きだした。その表情は心なしか青ざめているように見える。 「けれど、ここを出れば更に警備は厳重。さすがにその警備を掻い潜る自信はないもの。」 女は男に対してというよりも独言のように呟く。 全ては計算されている。女は常に、最上の選択肢を選んでいるのだ。 ただ、この刑務所に入れられる経緯を除いては。 「……判決はどうなるかしらね。」 女はポツリと呟いた。 男の脳裏に、女の言葉に対する答えが浮かぶ。判決こそまだだが、その答えはあまりにも容易すぎた。 それ以降、二人は一言も言葉を交わさなかった。 住宅街をパトカーが走っている。サイレンは鳴らされていない。 そのパトカーの中には、運転手、助手席、後部座席にと警官が三人。そして、後部座席には女性が二人。 女性二人は、警察の人間ではない。二人の手に掛けられた手錠が全てを物語っている。 会話のない静寂に包まれたパトカーは、次第に高いビルの立ち並ぶ賑やかな都会へと滑り込んでいく。やがて、大きな建物が見えた。どうやらパトカーはその建物に向かっているらしい。 パトカーが建物の門に近い交差点で赤信号で停止した。建物の門には、『西麻布警察署』という文字が見える。その文字が見えた時、片方の女性が僅かに眉を顰めた。日本人にしては色素が薄い――しかし染めているようにも見えない――黒髪を後ろで結っている。スーツに身を包み、背筋もピンと伸びており、女性の真面目そうな性格を物語っている。それ以上に性格が出ているその顔立ちは、少し切れ長な瞳にきゅっと閉じ合わされた口。すっと伸びた鼻筋で、少しきつい印象さえ与える。 その女性が、隣に座る女性を遠慮がちに見やり、やがて小さく口を開いた。 「……お嬢様、本当にこれで良かったのですか?」 お嬢様、そう呼ばれた女性は、しばしの沈黙を置いて顔を上げた。 「……怒ってるのかと思っていたわ。何も口を聞いてくれないんだもの。」 「あ、……いえ、そんな……」 戸惑う様子を見せる女性に微笑を向け、お嬢様と呼ばれた女性はきっぱりと言った。 「これでいいのよ。どんな極刑を与えられようとも……私は正しいことをしたわ。」 女性の言葉に、隣に座る警官がチラリと女性を見遣るが、口を開くことはなかった。 お嬢様――その呼称がしっくりと来る女性は、そうはいないだろう。しかしこの女性に関しては、お嬢様と呼ばれても何の違和感もない。柔らかな物腰、高級そうなカジュアルドレスを見事に着こなしている様、耳に輝くピアスもそこら辺で売っている安物とは輝き方が違う。隣に座る女性よりも更に色素の薄い髪――こちらは黒髪ではなく茶髪と呼ぶ方が相応しい――を、さらりと流している。背中の中ほどまでの長さの髪は、美しいストレートである。しかし左右に若干ばらつきがあり、向かって右側の前髪がやけに長く、その耳や目を隠していた。常に微笑みを湛えた口元や、少し垂れ目がちな細い目。まさに令嬢といった雰囲気である。 「それよりも……櫪、あなたのことが気がかりです。こんなことに加勢させてしまって……」 櫪(クスギ)と呼ばれた女性は、慌てて首を振った。 「私のことはいいんです。私はお嬢様に忠誠を誓った身。お嬢様だけを罪人にするわけには参りません。」 「……櫪…。」 そうこうしている内に、信号は青に変わり車が動き出す。ゆっくりと警察署の門をくぐり、玄関の真ん前に停車した。すると署の入り口に待機してのであろう警官が数人、車に近寄ってきた。車に同上していた三人の警官は二人の女性を連れて下車。女性二人は直ぐ様、待機していた警官達に囲まれる。 お嬢様と呼ばれた女性が先に連れられていく。彼女は後ろ髪引かれるように振り返り、櫪に向けて言った。 「どこまでも一緒よ、櫪……!」 そんな彼女の肩を一人の警官が押して、早く歩けと促す。その様子に、櫪は悔しそうな表情を見せた。 「地獄の果てまでも…お供致します…!」 忠誠を誓った女性の背中に言葉を放つ。 その言葉を聞いて安心したのか、彼女は落ち着き、警官が促すままに早足に歩いていく。 少しの時間を置いて、櫪も警察署内へと連れていかれた。 やがて、何事もなかったように静まった玄関。一人のガードマンが仁王立ちで立っている。 彼はちらりと署内を見遣り、一人呟いた。 「地獄の果てまでも…か。現代(いま)でもそんな人間(やつ)がいるんだな…。」 「きゃぁっ!もぉ、そんな乱暴にしないでよぉ〜!」 どこからか聞こえてきたそんな黄色い声に、「はて」と顔を上げた女性がいた。 ここは新潟県にある留置所。中でも要警戒人物が入れられるこの区域は、普段から当たり前のように静寂が辺りを包んでいる。行動できるのが独房内だけだから、という理由もあるが、新潟県という温厚な地域では独房に入れなければならないほどの要警戒の犯罪者が少ないのだ。設備も東京にある留置所の同区域より簡単で、廊下の声なら聞こえる。しかも、今聞こえてきたのはやけに高くよく通る声だった。 (女の子がこんな所に来るなんて…珍しい。) 女性は思った。詳しくはわからないが、おそらくこの区域にいる女性は自分だけだろうと思っている。独房生活にも退屈をしていたところ。女性は好奇心に駆られ、読みかけの本を置いてドアの窓に顔を押しつけた。 「あたたっ!痛いってば、そんな乱暴にしなくっても逃げたりしないよ!」 斜め前の部屋らしい。女性看守の後ろ姿が見える。その向こうに、ぴんぴん跳ねた茶色い髪がかろうじて見えるが、声の主である女性(おそらく少女だろう)の顔は看守の陰になって見えない。 女がしばらく眺めていると、看守がドアを開け少女を中へ促す。その瞬間、看守が移動して声の主の姿が見えた。そして目が合った。 「あーっ、ねぇ、あそこにいる人も犯罪者なの?」 少女…予想通りだった。しかしよく考えるとこの留置所は十八歳以上しか収容しないので、それ以上ということになる。十八だとしても幼く見える。 「早く入りなさい!」 看守の叱咤の声が飛ぶ。小窓から覗いていた女性も、とばっちりを避けようと顔を引っ込めようとした。その時、少女がにっこりと笑み、小さく手を振ったのが見えた。すぐに看守に部屋に押し込まれて、少女の姿は見えなくなった。 バタン。鉄の扉が閉まり、少女の黄色い声も聞こえなくなる。看守の女性が扉に鍵をかけると、ツカツカと覗いていた女性の扉に近づいてきた。女性は慌てて身を扉から離すが、時既に遅し。看守の女性が小窓越しに険しい顔を覗かせ、叱咤を飛ばす。 「他の留置者には干渉しないように!奥に行きなさい!」 「干渉……」 ――…干渉って、ただ見ていただけなのに。 女性はその言葉を飲み込み、素直に部屋の奥に戻った。 「まったく……」 看守の女性がぶつぶつ言いながら遠ざかっていく。 女性は先ほどの場所に戻り本を広げるが、少女の顔がちらついて本に集中できなかった。 栗色とでも言うのだろうか。柔らかそうな髪の先端にカールをかけ、肩ほどのところで散らせている。よくよく思い出すと、その髪を二つ結びにしていたような気もする。瞳の色も茶に近かったから、もしかするとハーフだとかクオーターだとかなのかもしれない。いや、最近流行っているカラーコンタクトかも。大きくて、ちょっとだけ切れ長な目。猫目という表現がしっくりくる。それに大きな口。かなり可愛らしい少女だった。 ――それに比べて。 女性は自分の髪に触れ、小さくため息をついた。柔らかくもなく、可愛くもない普通の黒髪。染めたり戻したりを繰り返してたせいで、結構痛んでる。特徴のある顔でもない。チャームポイントといったら、さっきの少女ほどでもないが大きめで奥二重の目くらいか。 「……神様って不公平だよね。」 女性はぽつりと呟くと、本を置いてベッドに寝転んだ。 「……、…」 しかしよく考えると、あの少女も同じ、何かの犯罪を起こしてこの留置所に入れられたのだろう。 一体何を? ――と、そこまで考えたところで、女性はまた深いため息をついた。 自分程バカな犯罪を犯したワケじゃないだろう。単なる青春の過ち? きっと、自分みたいに不幸な犯罪じゃないだろう…。 全てがバカバカしく、空しかった。 女性は何度目かのため息をついた。 「へーぇ。教会のシスターが大量虐殺ねぇ。」 こちらは、九州にある少年留置所。 その一番片隅にある独房では、何部もの新聞が散乱していた。しかし日付は全て同じ。各社の新聞が、この部屋に全て集結している。それを読みふけっているのは、歳の頃なら十六、七か。故意なのか寝癖なのかよくわからないピンピン跳ねた、いかにも染めました、といった茶髪をした少女。大きな目は、先ほどから新聞の文字を追って、止まることを知らない。 「家庭内暴力に疲れたオバハンシスターとかかなぁ。二十六って書いてあるけど……どっちにしてもぶっさいくな女なんだろーなぁ。」 黙っていればクールそうでテレビの子役でも使えそうな少女なのだが、喋ると感じが百八十度変わる。語尾に小さな母音をつける、はっきりしない喋り方をする。 「ふーん……浅田恭子って捕まったんだぁ。まぁクスリやってそうな顔してんもんねぇ。歌はまぁまぁ上手かったからスキだったんだけどー。ざーんねん。」 ちっとも残念そうに聞こえない。 しばらく新聞を読み耽り、やがてそれをパサリと置いて次の新聞に取りかかる。 「……ん?これ、さっき読んだっけぇ?」 新聞を捲りながら、頭をポリポリ掻く。かなり大ざっぱな性格らしい。 「……あ、読んでない。」 少女は、ふと一つの記事に目を止めた。 そこには、先ほどの新聞よりも大きな見出しで『神に仕えるシスター 十九人惨殺』と書かれていた。 「なんだ……キレイな人じゃん。意外〜。」 そこには、警察に連行されるシスターの姿が写ったカラー写真が載っていた。髪型まではわからないのだが、修道服というものは基本的に髪を全て隠さなくてはならない。しかし女性は、赤茶色の前髪を、まるで顔でも隠すかのように垂らしているのだ。それでもシャッタータイミングが良かったのか、上手い具合に髪を避けて写っているその瞳は切れ長で美しい。しかしどこか遠くを見ているような、焦点の合わない目をしている。 「この目、めっちゃイイ!狂気的だねぇ。そそられるよぅ♪」 少女は写真を見つめ、薄い笑みを浮かべる。 厚めの唇には濃い紅色のルージュが引かれていた。その艶具合は写真越しでもはっきりとわかる。 「う−ん、実に色っぽい!こういう犯罪シスターなら歓迎だなぁ。」 どういうふうに歓迎なのかわからないが、少女は嬉々とした声を上げる。 「――…あーでも、まぁ所詮この程度の記事だけどぉ。」 しかし少女はすぐに拍子を変え、嘲るように言った。真意を掴み難い喋り方である。 「あたしなんて一面トップだもんね。…まぁ、経済新聞らへんはわかってないんだけど。」 どうやら一般紙では一面トップ、経済新聞では一面トップにはならなかった、ということらしい。 「……あの人には負けるなぁ。」 少女は肩を竦めると、ベッドの下をごそごそと漁る。すると、一枚の新聞の切れ端が出てきた。 「美雨さんッ」 その切れ端には、一人の女性がカラーで写っている。無表情で、先ほどのシスターと似た少女で言う『狂気的』な目をしている。少女はじっと、その切れ端を見つめていた。 「……こんな人、殺してみたいなぁ。」 いつしか少女も、切れ端の女性とそっくりな瞳になっていた。 「ふぅ。」 ため息をついたのは、若くて可愛らしい女性だった。女性警官に連れられて広い廊下を歩きながら、しきりに不安げな表情を浮かべている。 少し青みがかった綺麗な髪は、少しの束を髪の後ろで結っている。それとなく切れ長で大きな瞳。小さな口とピンクの唇、白い肌。綺麗と可愛いの丁度中間くらいの顔立ちである。 彼女は今から一大イベントを控えていた。 「……無期懲役とかならないですよね?オバサンになっちゃうまで刑務所に入るのもイヤだわ。罰金で済めばいいんだけど。」 女性は警官に話しかけるのだが、警官は何も言わず歩を進める。 「…んもぅ…。」 女性はまたため息をつき、おとなしく歩く。 裁判所の空気は、留置所と違って暖かい感じがする。木製の壁がそうさせているのかもしれないし、床に引かれた絨毯がそうさせるのかもしれない。 「家に帰りたいな……。」 女性はポツリと呟く。彼女にとっては裁判などどうでも良いことだった。こうして警察に捕まって、今の彼女にとっての最大の課題は警察から開放されることなのだ。女性は「裁判ってどうしたら良いのかしら?」と首を傾げたりしながら歩を進めて行く。 その時、廊下の向こうから騒がしい声が聞こえてきた。五、六人はいるだろうか。数日間の留置所生活で人の活気というものにかけ離れていた女性は、その騒ぎに興味を持った。 「どうしてっ!どうして私が……!!」 澄んでいて、よく通る女性の声だ。 「静かにしろ!」 男の怒鳴り声も聞こえる。 「いやぁぁっ!!」 割れるような叫び。 女性と警官は思わず顔を見合わせる。 やがて一行は女性の側にやってきた。 「あっ、申し訳ありません。」 どうやら下級らしい警官が、女性警官に向けて敬礼する。 「助けて!ねぇ、お願い、助けてぇ!!」 男達の中央で、拘束されつつも暴れ、声を上げる女性。童顔で身長も150cmそこそこだが、ある程度の年齢――二十歳は越えているだろう――には達しているように見える。耳にいくつかのピアスをつけ、髪も茶色に染めているのだが、不思議と垢抜けた感じはしなかった。おそらく黙っていれば、綺麗な女性なのだろう。しかし今はその顔は唾液や涙で汚れ、ひどい有り様だった。 「………。」 女性は、何も言えなかった。その姿に圧倒され、壁際で立ちつくすだけだった。 「どうして私がっ…」 女性は何度も叫ぶ。しかし、その先の言葉が出ないらしい。 やがて女性は警官に無理矢理歩かされ、二人とすれ違っていく。 「……さ、行きましょう。」 女性警官に促され、女性は一行に背を向け歩き出す。 その時、 「どうして私が…、…っ…、どうして…、……どうして“死刑”なのぉっ!!」 その叫びに、女性は思わず足を止め振り返る。 「……死刑…?」 警官は悲痛な面持ちで、女性と同じ場所を見つめた。 「可哀相にね……。あんな罪のない子を……。」 「……彼女、何をしたんですか?」 「………。」 警官は何も言わず、女性を促し歩き出す。 やがて耐え切れなくなったのか、警官の女性は小さく口を開いた。 「キタキマヤって、聞いたことない?」 「…え…?」 女性はその名前を聞いたことがあったが、しばらく思い出せなかった。 やがて思い出した時には、裁判の会場の真ん前へとたどり着いていた。 「過激な歌を歌ってた人……反政府の、アーティスト……?」 女性警官は何も言わず、扉に手をかけた。 「…まさか…政府に…?…そんな…。」 ――……。 しかしその後。 女性は皮肉にも、先ほどすれ違った不幸なアーティストと同じ路を辿ることになる。 『…どうして私が…!!』 しかし二人には決定的な違いがあった。 アーティストは、政府の重圧に潰された被害者である。 しかし彼女は、罪重き罪人なのだ。二十五人の命を奪った、加害者なのだ。 『無期懲役とかならないですよね?』 『オバサンになっちゃうまで刑務所に入るのもイヤだわ。』 『罰金で済めばいいんだけど…。』 慈悲深い女性警官の証言から、一時は精神病も疑われた。 しかし、一度出た判決は二度と覆らなかった。 「書換え書換え♪」 深夜。 大阪府のとある一軒家の二階で、一人の女性がパソコンを前に楽しげに笑っている。 照明の落ちた部屋の中、光源となるのはパソコンから放たれる明かりのみだった。ぼんやりと浮かび上がる女性の顔に浮かぶ笑みは、どこか狂気じみて見える。 「ププッ、首相の顔が猿になったぁ」 室内には、とんでもない数のパソコンと周辺機器。それも、デジカメやスキャナーといった一般的な物はごく一部で、殆どは常人には理解出来ない機械ばかりだ。 そんな彼女が向かっているパソコンには、『国会議事堂オフィシャルホ−ムページ』の文字があった。その一ペ−ジである現首相の紹介ペ−ジに掲載されている一枚の写真。それは、人間ではなくどうみても猿である。国会議事堂をバックに、「ウキキ」と歯を見せる猿の写真。 「報告報告♪」 彼女は『お気に入り』の中からとあるUG(アングラ)系のペ−ジを開き、何やら掲示板に書き込み出した。信じられない程のキータッチで、ものの数秒で文章を完成させる。 『皆知ってた?今の日本の首相は猿なんやで!詳しくは議事堂オフィシャルへ。』 という内容。 何度か更新ボタン(Function5)を押すと、すぐにレス(返信)があった。 『さすが暴姫さん!最高!w』 『首相サル!!キタ━━━(゚∀゚)━━━ !!!!!』 『ヤベェ。マジ最高ッス!弟子取ってないんすか?アシスタントとってたら是非俺に手伝わせて下さい!どこまでもついていきますよ!』 形はどうであれ、全てはこのスレッドを立てた人物への賞賛の言葉だった。 女性はそのレスを見て薄い笑みを零す。連なっていくレスを何度か更新して眺めた後、ふっと小さく、 「次は警察のページでもいじるかな。」 と零した。 その時、トントン、とドアをノックする音がした。女性は必要以上に身を強ばらせる。 「あっこちゃん、ママだけど……晩ご飯食べてないでしょう?何か食べたいものが…」 扉の向こうの人物が言い終えるよりも早く、ガシャン!!と激しい音を立てて手元にあったマウスを部屋のドアに投げつけた。 「……。」 ドアの向こうにいる人物は沈黙する。しかし気配は消えない。 「失せろ!クソババァ!!」 女性はあらん限りの声で叫ぶ。 「あ、あっこちゃん……そんな声出しちゃ、ご近所に……」 ガシャアァァァァン!! キーボード、更には使っていないハードディスク。女性は怒りを込め、次々と手当たり次第に物を投げつける。彼女の部屋のドアは、ぼろぼろだった。今日だけではなく、これが日常茶飯事であることを物語っている。 やがてドアの向こうにある気配が消えると、女性は深くため息をつく。パソコン類に埋もれた棚から立て付けの悪い引き出しを力任せに開け、煙草を取り出すと素早い動作で火をつけた。 「……はぁっ…。」 荒い息を落ち着けるように煙草を思いきり吸い、濃い煙を吐き出す。 やがて煙草を吸い終えると、二本目に火をつけ、咥え煙草で機器の山からマウスとキーボードを取り出した。慣れた手つきでそれをパソコンに取付け、何事もなかったかのようにパソコンに向かう。 「……指名手配、か。……これも替えてやろ。」 女性はぽつりと呟き、クラッキングに使用するソフトを起動しようとマウスを滑らせる。 しかしふと、その手を止めた。 「………。」 その指名手配の記事が彼女の気を引いたらしい。 『水鳥鏡子 二十歳 家族及び友人ら 合わせて6人を殺害。 京都、奈良を中心に指名手配中』 という記述と共に、顔写真。 黒髪を短いポニーテールにしている。丸くて黒くて澄んだ瞳。 「こんな子が人を殺すんか……怖い世の中だな。」 独特の関西弁混じりの口調で呟き、女性はしばし写真に見入る。 「……ヤメ。気ぃ乗らない。」 女性は煙草の紫煙を吐き出しながら、ブラウザを閉じた。 「………うざい。」 長く、背中の下の方まである髪を軽く手で結って離す。中途半端なプリン頭。髪で隠れていた耳が露になる。両耳合わせて6個のピアス。 パソコンのディスプレイの光が反射する眼鏡。厚い眼鏡の奥には、鋭く可愛らしい猫目がある。この生活を見た感じでは、いわゆるひきこもりに見えるが、その顔立ちは決して人に非難されるような醜いものではなく、きちんとすれば美人に分類されるだろう。しかし普段の生活が悪いらしく、いくつかのニキビが目立つ。 「あー……うざ。…ペンタゴンでもクラックしたろかな…。」 女性は気怠そうに呟き、一度閉じたブラウザを再度開いた。 彼女の宅に警察が訪ねたのは、その数日後。 クラッカーのカリスマ『暴姫』の、逮捕の時が来たのだった。 「……ふ−ん、そんな大胆なやつがいるの。」 とても豪華な部屋。四十畳は超える広い部屋。 大企業の社長くらいしか使わないような大きなデスクと座り心地の良さそうな深い椅子。 でっぷりと太り腹の出た中年の男が、そこに踏ん反り返っている。しかしス−ツを着こなしているところを見ると、その場にふさわしい地位にある人間なのであろう。 そのデスクの横に置かれたソファに腰掛け、アイスコーヒーをすすりながら男と話している人物は、Tシャツにジーンズという場違いな格好をした若い女性だった。 「まさかウチの幹部をひき逃げとはな。まったく。」 「結構度胸あるねー。まぁ、幹部とは知らずにって感じじゃないの?」 「うむ。いや、しかし既に田中を含めて12人だぞ。ひき逃げでは異例の被害者の数だ……。」 「同じやつって、なんでわかるの?」 「目撃者が多いんだよ。スーパーカブに乗った金髪の女だとな。」 「………はぁ?スーパーカブでひき逃げ?何考えてんの、そいつ。っていうか、なんで新聞配達のバイクでひき逃げとか出来るワケ?」 「改造車だよ。まぁ、カブを改造するなんて単なるバカとしか思えんが。」 「だね。」 女性はごろんとソファに寝転び、軽く目を瞑る。この部屋でこれだけくつろげるのだから、この女性もなかなかのたまである。 「そこでだ、おまえに頼みがあるんだが…」 男がそう言うと、女性はばっと起き上がって目を輝かせる。 「もしかして…!」 「ああ。始末してもらおうと思ってな。」 男の言葉に、女性はぐっと拳を握り、歯を見せて笑う。 「そうこなきゃね!んで、その犯人は当然われてるんだよね?」 「ああ。」 男は女性の様子にニヤリと腹黒そうな笑みを浮かべ、手元にある書類を差し出した。 いかにも危険なことに手をつけて大もうけしている雰囲気の男と、そしてどこか軽い雰囲気の女。一見似合わないにも程がある二人なのだが、女が書類を受け取りながらニッと薄笑みを浮かべる姿を見れば、なんだか納得できてしまうのが不思議である。 「吉沢麗美。帰国子女なんだが、オツムの方は英語以外はさっぱりのようだ。暴力団と絡んでいるらしい。」 「ふーん。24ねぇ。」 女性は男からもらった書類に目を通しながら言う。そこにプリントされた写真を見て、女性は意外そうな顔をした。どうせ汚らしい金髪だろうと思っていたが、その髪は写真で見る限りとても美しいストレートである。切れ長で鋭く、青色の混じった瞳。帰国子女と言っていたが、アメリカ人とのハーフなのだろうか?生粋のアメリカンだと言っても通用しそうなくらいである。 「けっこう可愛いじゃん。こんな顔でひき逃げとはねぇ。」 「おまえも人のことは言えんだろう。」 「そう?あたしこんなに可愛くないし。」 「わしはその女よりよっぽどおまえの方がイイ女だと思うぞ。」 「ハハ。父親にイイ女だなんて言われてもうれしくないよ。」 父親。……父親。 似ても似つかぬ親子である。 女性は伸びかけのショートカットにやや切れ長な瞳。不敵な笑みを浮かべている。アクセサリーはなにもしておらず、ノーメイクのようだが、どことなく遊び人な印象を受ける。 「場所は割れてるの?」 「明後日、族の集会があるらしくてな。おそらくその女も来るだろうから、そこを…」 コンコン 男の話を遮り、部屋にノックの音が響いた。 「入れ。」 「失礼いたします。」 男が言うと、ピシリとスーツを着こなした男が部屋に入ってきた。 「実は例のひき逃げ犯ですが、今日の午後二時に渋谷署に捕らえられたと報告が…」 「えぇ〜っ?!」 男の報告に、女性は至極残念そうな声を上げる。 「うむ、そうか。下がれ。」 「はっ、失礼します!」 長身の男は深々と頭を下げ、退室した。 「残念だったな、千理子。」 千理子と呼ばれた女性は、落胆のため息をつく。 「せっかくこの美貌をダイナシにしてやろーと思ったのになぁ。残念限りなし…。」 「ははは。まぁ、次の仕事もすぐに見つけてやるよ。」 「うん、待ってるよ。すぐ頼むからね!」 「わかっとるよ。」 千理子は、まだ名残惜しそうに書類を眺めながら帰り支度を始める。 「仕事が見つかったら連絡するからな。」 「よろしくー。んじゃね。」 千理子はヒラリと手を振って、部屋を出ていった。 一人残った男は、小さく息をつく。 「……あいつもとんでもない殺人狂になったもんだ。」 そう呟くと、男は携帯電話を取り出して何やら電話をかけ始めた。 「ああ、私だ。千理子の件でな。……ああ。……明日辺り、頼む。うむ。…私か?いや、問題ないよ。うむ。」 男は電話を掛けながら、机の引き出しから一枚の書類を取り出した。それは先ほどの吉沢麗美の書類と同じものだった。違う点は、記入されている事柄が吉沢ではなく……千理子であることだ。 「娘である前に、あいつは罪人だからな。――罪人には罰を与えるのは当然だろう?」 「ねぇ、ちょっと。」 ふと背後から聞こえた声に、看守の男は足を止めた。しかし振り向けど人影はない。 まだ若い男の看守だ。どこか気弱そうな面持ちで、見当たらぬ声の主の姿に男はびくびくと怯えた様子すら見せていた。 「こっちよ。」 まさか幽霊――などと考えていた男は、独房の小窓に女性の顔を見つけた。 安堵と、尚もどこか怯えを交えた表情で、男は小窓の方へと近づいた。 「は、はい。どうかなさいましたか……?」 目深に被った帽子をクッと上げ、男は小窓から顔を覗かせる女性におどおどと返事をする。 「……見ない顔ね。新人?」 「あ、はい。昨日から勤務してます。」 男はペコリと頭を下げ、名を名乗った。窓の向こうの女性は「ふぅん?」と相槌を打ちながら、窓越しにまじまじと男を見つめていた。 「こんなに丁寧な看守は初めて見るわ。」 女性の指摘された言葉に、男はギクリとする。『ここは君が今までいた訓練場とは違う。留置所とは言え、収容されているのは大抵犯罪者だ。厳しくいけよ。』と、ここに来て早々、留置所の所長に言われた言葉だった。昔から気の弱い男は、肝を冷やしっぱなしだった。 「ねぇ、この記事の事件知ってる?」 女は窓越しに新聞紙を広げて見せ、ある記事を細く綺麗な指で示す。 『私立高校崩壊 建物欠陥?』という見出し。よく見ると、その新聞の日付は五日も前の物だった。 男は目を細め、新聞の記事を読む。 「新しい新聞が読みたいって言ったのに、持ってきてくれないのよ。」 女性がぶつくさとぼやく。 「あぁ……!」 その時、男はようやくその記事のことを思い出した。 最近何かと噂になっているニュースだった。 「その学校の女子生徒がやったらしいって、ニュースでやってましたよ。爆弾かなにかだったかな…?」 「へぇ、やっぱり……!」 男の言葉に、女性は嬉しそうに頷く。 「…やっぱり…って?」 「この写真見れば、建物の欠陥じゃないことくらいわかるわ。おそらく、誰かが故意に壊したものだってね。」 女性の言葉に男は感心した。ずいぶん頭の良い人なのだろう。それか、建築に関して詳しいか。 「爆弾ねぇ。で、その女の子の名前は?年齢は?動機は?」 「え、ええと…」 女性の質問責めに、男は頭を抱える。 「なんだったかな。……何とか“サユリ”とかいう名前で、その学校の二年生だったらしいです。」 「動機は?」 「…うーん…、…なんだったか…」 男が頭を抱えているその時、突然叱咤の声が飛んできた。 「何をしているの!」 女性の声――といっても、小窓越しに話している女性より一回りは上だろう――に、男はビクリと身を縮める。 「収容者と看守が世間話なんて、あって良いことではありませんよ!そのくらい常識で考えればわかるでしょう!」 「す、すみません!」 「矢沢さんも、用事以外で看守に話しかけたりしないように!今度このようなことがあったら、上にも報告しますからね!」 「……ハイハイ。」 矢沢と呼ばれた女性は、肩を竦めて嫌々といった様子で返事をする。 (矢沢さんって言うのか……。) 新人看守の男は、小窓の向こうで不貞腐れる女性にしばし見とれた。 小さな顔に、少しツンと尖った切れ長な目。ウェーブのかかった綺麗な黒髪。すらりと伸びた鼻筋。小窓と彼女の顔の位置からして、おそらく身長は高い方だろう。 「行きますよ!」 男の思考は、厳しい女の声で中止された。 「は、はいっ……」 さっさと歩いていく上司に慌ててついて行きながら、男はもう一度だけ女性の独房を見遣った。 しかしそこに彼女の顔はなかった。 「……サユリ、ねぇ。……フフッ…。」 矢沢は独房のベッドに腰掛け、改めて記事を見ながら物思いに耽っている。 「行方不明含め百二十五人か…。なかなかに、将来有望なテロリストになりそうだわ。」 新人看守の男が、上司に矢沢の罪歴を聞いたのは、そのすぐ後のことだった。 「……LosAngelsテロの、……テロリストグループ……?」 「例のプロジェクトの件ですが、反抗勢力の了解を得ました。」 ボッ。 ジッポライターの炎が揺らめき、細長い煙草の先端に赤が点る。 少しの間を置いて、紅い唇から白い煙が吐き出される。 「……で、いくら掛かったの?」 同じ唇から、ハスキーな女性の声が発せられた。 「ハイ……、一億三千で手を打ちました。」 オールバックに眼鏡という出で立ちの細身の男が、言い出しにくそうに小声で言った。 「そう。そのくらいなら安い方ね。……それより加山、そのポマードの匂い、なんとかならないの?」 無機質で薄暗く、狭い部屋。しかし置かれている物はどれも高級そうなものばかりだった。部屋の奥に、部屋には些か大き過ぎるような感じもする木製のデスクセット。そこに鎮座した女は、女と向かい合って直立している男を見上げ小さく笑った。 「申し訳ありません、…その……」 「癖っ毛だから……でしょ?」 女は足を組みなおしながら、クスクスと笑みを深める。歳の頃なら三十そこそこ。けれど老けた感じはなく――若干化粧が厚い気もするが――美貌を保っている。銀縁の眼鏡に、紫色に似た紅の口紅。緩いウェーブのかかった焦茶色の髪。その隙間からのぞく耳に輝くピアスは、おそらくダイヤモンドであろう。くすんだ赤のスーツ上下に、黒のストッキング。エリートと言った雰囲気であるが、若干派手な気もする。学生時代、社会人になっても勤勉にエリート街道を走って来たが、その第一ゴール地点の優遇の良さに考え方が変わった、というパターンだろう。 「それじゃあ例のプロジェクト、早速始動してもらおうかしら。私の予定が空いているのはいつ?」 女性が言うと、加山と呼ばれた男――おそらく女性の秘書なのだろう――は、ポケットから手帳を取り出しパラパラとページを捲った。 「十一月十九日の午前が空いています。」 「十九?二週間以上かかるじゃない。」 「はぁ。しかしその日しか」 「確かあと何日か後にも空いた時間があったでしょ?」 「えぇ……明後日ですか。十一月二日、しかし、ちょっと急ではありませんか?」 加山が困惑して言う。しかし女性は怯むことなく、嬉しそうに深い笑みを浮かべた。 「いいじゃない。参加者は皆国内でしょ?一日あれば集められるわ。会場もいつでも使えるようにしておけって言っていたはずよ。」 「ええ、まぁ、会場は大丈夫ですが……。」 たじたじの加山に、女性は最後の一押し。 「何か他に問題でも?」 「……いえ…、……ありません。」 加山の返答に、女性はにっこりと笑みを浮かべた。 「じゃ、決まりね。加山、参加者についての説明をお願い出来る?」 「…はい。」 加山はやれやれ、といった様子は頷き、手帳をパラパラを捲る。 女性は二本目の煙草に火をつけながら、説明を待つ。 「参加の決定順に説明致します。」 加山の言葉を聞きながら、女性は手元にある書類をパラパラとめくる。 そこには、15人の女性の顔写真の載った書類があった。(書類を見る) 「まず、不知火琴音(シラヌイコトネ)。年齢は二十四。殺害数は九人。不知火グループの会長の長女です。後ほど説明する侍女と共に、不知火グループの関係者…つまり血の繋がりのある者を全員殺害。今、不知火家の血筋で残っているのは彼女だけになります。」 「……一家惨殺。一体何を考えてのことかしらね…。」 「次に、櫪星歌(クスギセイカ)。年齢は二十二。殺害数は七人。不知火琴音の侍女です。不知火琴音と共に不知火の血筋の者を惨殺。彼女は判決では無期懲役になったのですが、留置所内で看守を殺害し再逮捕。再び行なわれた裁判で死刑の判決を受けています。」 「……無期懲役より死刑を選んだ…ってことかしら。」 「茂木螢子(モテギケイコ)。年齢は二十三。殺害数は三十一人。拳銃での殺害や毒物撒布、他にも計画的であり通り魔的犯行……かなり凶悪な事件を多々起こしています。本人はある組織に言われて行なったと供述しているのですが、その組織が存在という証拠もなく、彼女が言う電話番号も住所も全てでたらめでした。」 「もしその子の言うことが本当なら可哀相だけど…仕方ないわね。」 「佐倉莉永(サクラリエ)。年齢は十八歳。殺害数は十七人。中年男性を中心に援助交際を持ちかけ、公園や路地裏で殺害。金品を奪って逃走、というパターンを繰り返していたようです。殺人に手を染める前は、援助交際も行なっていたようです。」 「身体を売るより殺した方が早い…ってことかしらね。」 「八王子智(ハチオウジトモ)。年齢は十六歳。殺害数は三十二人。少年犯罪史上最低の凶悪犯です。都内の公立校に在学していたのですが、学校には滅多に行かず、通り魔的殺人を繰り返していました。前述の佐倉とは違い何も奪わずに逃走する場合が多かったため、かなりの愉快犯と思われます。」 「十六で三十二人も殺してるの…。世も末ね。少年法の改正は間違ってなかったみたいね。」 「幸坂綾女(コウサカアヤメ)。年齢は二十六歳。殺害数は十九人。都内の教会でシスターとして働きながら、教会に訪れた相談者等に個人的な誘いを持ちかけ殺害を繰り返していました。神に使える身で人を殺めるという非人道的な行動から、第一判で死刑が決定しました。」 「綾女…ねぇ。殺女の方がぴったりくるわよね。」 「木滝真紋(キタキマアヤ)。年齢は二十五歳。殺害数は…0。キタキマヤという名で独自で音楽活動をしており、その歌の数々がかなり過激な反政府をテーマにしたものでした。中には、政治家のスキャンダルや犯罪を唱えるものもかなりあったとか。しかしその存在を世間に知られる前に政府から潰され、逮捕。現代では異例の、思想犯としての死刑判決です。」 「説明しなくても知ってるわ。確か、私の歌もあったわよ。…フフッ。」 「中谷真苗(ナカタニマナエ)。年齢は二十歳。殺害数は二十五人。殺害の仕方が共通しており、二十五件全て、性行為中の殺害でした。知能犯的はものは殆どなく、僅か一週間半の期間の間に二十五件の犯罪を起こしています。本人は『何故自分が死刑なのか』という発言を繰り返しており精神病も疑われたのですが、そのIQの低さから単なる非常識だという意見が出され、凶悪な愉快犯により死刑という判決です。」 「へぇ…。何かに取り付かれでもしたのかしらね?」 「高見沢亜子(タカミザワアコ)。年齢は二十七歳。殺害数は0。凶悪なクラッカーで、各国の主要機関にネットワークを介して侵入しては、破壊活動を行なって来ました。彼女のクラッキングによる被害総額は全て合わせて五兆円にものぼるそうです。当人は対人恐怖症でいわゆるひきこもりでして、弁護人にも何も口を開かなかったとか。クラッキングでの死刑は異例なのですが、各国から彼女を死刑にすべきだと言う意見が殺到しており、判決が下りました。」 「その子にしてみれば悪戯半分だったのかもしれないけど…人様の迷惑は考えないと、罪は罰として戻ってくるものね。」 「水鳥鏡子(ミトリキョウコ)。年齢は二十歳。殺害数は六人。肉親と恋人、そして昔の恋人を殺害し、逃亡していたところを逮捕しました。本人の供述から愉快犯であることが発覚し、死刑判決が下りました。昔から万引きや酒や煙草、売春などを行なっており、素行も悪かったそうです。」 「肉親と恋人と元恋人ねぇ。人間不信にでもなってたのかしら…」 「榊千理子(サカキチリコ)。年齢は二十一。殺害数は二十三人。全ては拳銃による犯行で、銃刀法違反でも刑を与えられています。…といっても、殺傷罪だけで十分に死刑判決は下るでしょうが。かなりの愉快犯であり、無差別的な犯行を繰り返していました。それから、榊…」 「ああ、知ってるわ。次の子に行っていいわよ。」 「吉沢麗美(ヨシザワレミ)。年齢は二十四。殺害数は十二人。十二件の内十件がひき逃げです。全て彼女の所有するスーパーカブで行なった犯行だとわかっています。暴力団と接触していた関係で警察の目を掻い潜っていたようです。本人の供述では、ひき逃げ以外の二件は暴力団からの依頼だったそうです。」 「ひき逃げで十人も殺してるの?変わった子ねぇ。」 「矢沢深雪(ヤザワミユキ)。年齢は二十八。殺害数は行方不明も含めて四十一人。学生時代にアメリカに留学し、その時にKINOKHRONIKA(キノフロニカ)という2001年のLos Angelsテロを起こしたテロリストグループに所属。二十四の時にキロフロニカ日本支部を設立し、隠密な破壊活動を行なっていました。二十七の時に起こしたテレビ局テロの際に逮捕。証拠不十分で裁判が長引いていましたが、ようやく死刑が確定しました。」 「テロリストね。アメリカ仕込みじゃ、なかなかやり手なんじゃない?」 「渋谷紗悠里(シブヤサユリ)。年齢は十七。殺害数は行方不明も含め百二十五人です。北海道の私立高校を破壊。本人は犯行を自供し、爆発物を使ったと言っているのですがはっきりした証拠は見つからずじまいです。また彼女の住む住宅とその近隣も同じ手口で破壊されており、同じく爆発物を使用したと供述。こちらも実は証拠は見つかっていないのですが、適当な破片を証拠物品として死刑に漕ぎ着けたそうです。」 「十七で爆弾を扱えるのかしら?…学校を潰すなんて、怖い子ね。」 淡々と話していた加山が、ここで一旦言葉を止めた。 改めて女性を見遣り、言葉を発す。 「最後です。一番最初にプロジェクト参加の検討をされた人物ですが……、結局論議が長引いて、参加決定は一番最後でした。」 「……あの子、ね。」 女性は既に知っているらしく、小さく頷いて見せる。 「説明を。」 「――神崎美雨(カンザキミサメ)。年齢は二十八。殺害数は…推定百人弱。史上最悪の凶悪犯です。東大の医学部を卒業後、都内の国立病院に勤務。医者としての評価はかなり高かったようです。しかし唯一記録として、二年前……2028年4月、医療ミスで患者を死なせています。本人の供述ではそれ以来、犯罪に手を染めたとか。初期は入院患者、それから徐々に一般人など、無差別的な殺害を繰り返しています。動機は、本人の供述では曖昧でして……」 「曖昧?本人は何と言っているの?」 「はい。真実のために、と……」 「真実、ねぇ。…続けて。」 「証拠で立証されているだけで五十。残りは本人の供述に基づいています。内半分ほどは遺体が発見されていますが……」 「……つまり、後二十五件は全て完全犯罪ってこと…。」 「その通りです。逮捕されたのは、都内に住む二十代の学生を殺した時に差し違え、腹部出血の状態で病院に運び込まれて彼女の犯罪が初めて発覚しました。」 「それまで、警察は気づきもしなかったってわけ。」 「はい。それほど巧妙であり……はっきり言って天才としか。」 「なるほどね……。」 「プロジェクトに参加させるかどうか、かなり論議されました。何しろ、他の犯罪者に比べて格が違いすぎまして」 「彼女の圧勝になってしまう可能性がある、と。」 「はい。」 女性は小さく頷くと、何本目かの煙草に火をつけた。 「参加者の説明は以上です。」 加山は手帳を閉じて言うと、次の指示を乞うようにその場に立っていた。 「いいわ。下がって頂戴。」 「はっ。失礼致します。何か御用入りの際はお呼び下さい、――横山様。」 「ええ。」 加山は慣れた様子で綺麗な礼をしてから退室した。 「神崎美雨、か……。」 横山と呼ばれた女性は紫煙の漂う宙を眺めながら、ポツリと呟いた。 「――面白くなりそうね。」 Next → ↑Back to Top |