パタパタパタ… 廊下の方から聞こえてくる慌ただしい足音。次第にこの食堂に近づき… 「お待たせしました、可愛川さんっ」 足音の主は食堂に駆け込むと、明るい第一声を放った。 「うむ。遅かったな、妙花。」 私―――可愛川鈴―――の言葉に、妙花は申し訳なさそうに肩を竦めた。その後、私の座る席にまだ何も置かれていないことに気づいたらしく、 「まだ作ってないんですか?」 と問う。私は席から立ち上がり、妙花を促して食事製造機に向かいながら、 「お前を待って、冷めるのも厭だからな。」 僅かに皮肉とも取れる言葉で返す。妙花は私を見上げ、微苦笑を浮かべた。 「ごめんなさい…。」 そんな妙花を見下ろしながら、先程から思っていたことを口にする。 「妙花、サングラスはどうした?」 「あ…、…えと、外してきちゃいました。」 妙花は少しだけ照れたような表情で笑む。 「そうか…。気分転換か?」 「はい…、あの…変わって見えますか?」 妙花は、私からどう見えるか知りたい様子だった。なんだかいじらしいな。 「サングラスも似合うが、今のお前も魅力的だ。……可愛い。」 最後の一言は余計…、と言うか、言うつもりじゃなかった…。思わず口からこぼれてしまった。不覚…。 ちらりと隣を見やると、隣にいるはずの妙花の姿がなかった。振り向くと、数メートル後ろで立ち止まり、なんとも言えぬ、照れたような表情で私を見つめている。 「…妙花?」 「あ、…あ、……あ、ぁぅ……。」 よくわからない唸り?を口にしながら、妙花は小走りで私に追いつき、少し俯き気味で歩く。 「……どうした…?」 「はうぅ…、…可愛川さんから可愛いなんて云われちゃうとか…そんな……、……ふあああああ…」 ………照れているのか…? 云った私自身、恥ずかしいと云うのに。 料理製造機で各々料理を作成し、テーブルに向かう。ちなみにメニューは、私が和食御膳、妙花が洋食プレートだ。 「いただきますっ。」 「いただきます。」 一緒に手を合わせ、食事開始の挨拶。妙花はマッシュポテトを頬張りながら、妙に幸せそうだった。 「妙花。…その…、そんなに美味いのか?マッシュポテトは?」 「へ?」 きょとんとした表情で私を見る妙花。 「やけに幸せそうに食べているから、そう見える。」 「あ、えと…、…マッシュポテトも美味しいけど…、なんていうか、その…今日のご飯はとっても美味しくなる秘密があるんです。」 「秘密?なんだ、それは?」 「……秘密は秘密です…。」 「勿体振らすな。」 妙花は照れるように上目遣いで私を見つめ、小さく笑んで云った。 「可愛川さんと一緒に食べれるから…美味しいんです。」 「………。」 妙花の言葉に、返す言葉が見つからない。 頬が赤くなっているような気がする。 私はしばし手を止めて困惑していたが、沈黙に耐えられなくなり食事を再開した。 妙花は…、…私のことを…?…それとも、ただからかっているだけなのだろうか…? そんな考えを中断させたのは、妙花だった。 「ねぇ、可愛川さん。あの…、…好きな人とか…いますか?」 啜っていた味噌汁で少し咽る。 「ゲホッ…、な、何を突然……」 「あ、ごめんなさい。………なんとなく気になって。」 妙花はまっすぐに私を見つめていた。サングラスのない、直の瞳。その瞳は、驚くほどに透き通っていて美しかった。 「……そんなこと、聞いてどうする?」 「好奇心です。」 妙花が目線を逸らすことはなかった。 正直に答えるしかあるまい。 「……答えはYesだ。」 「…そうなんですか?誰…なんですか…?」 「…………。」 じっと妙花の瞳を見つめ返す。妙花は一瞬だけ視線を逸らし、、また不安げに瞳をゆらしながら私を見た。言葉もなく、答えを待っているように見える。 …私は小さく笑みをこぼした。 「お前だ。妙花。」 「……え…、…え…!?」 私が云うと、妙花は驚いたように目を見開く。一瞬覗いた歓喜。それを裏切るように…私は続けて云った。 「それから、逢坂。」 「………」 妙花の歓喜が萎えていくのがわかる。 「…好きだぞ。但し…お前の云っている好きとは、若干ニュアンスが違うかもしれん。」 「……なるほど…。」 妙花は少しだけ俯き、小さく呟いた。 そこでまた会話が途切れた。私も妙花も、黙々と食事を続ける。その時だった。 「可愛川さんに…妙花さん。こんにちは。」 そんな声に顔を上げる。…噂をすれば、というやつか。 「逢坂。食事か?」 「いえ、食事はさっき済ませました。えと、デザート食べに…」 逢坂はそう云って、クスリと笑んだ。 「良かったら一緒にどうだ?」 「はい…喜んで。」 私の誘いに逢坂はにっこりと笑み、食事製造機に向かった。 妙花を見ると、どことなく不服そうな表情である。あまり歓迎はしないようだな…。 少しして、盆に三つの器を乗せた逢坂が戻ってきた。 「はいっ、白玉ぜんざいです。抹茶なんですけど…お二人とも、大丈夫ですか?」 「ありがとう。和菓子は好物だ。」 「あ、ありがとうございます……。」 逢坂は器を私と妙花の前に置き、妙花の隣に腰掛けて自分の前にも置いた。 「いただきますっ」 逢坂は手を合わせ、早速ぜんざいにパクついた。私も小さく笑み、ぜんざいにありつくことにした。妙花もちびちびと食べている。三人だけの食堂ではしばらくの間、器に触れるスプーンの金属音だけが響いていた。そんな沈黙がなかなか破れず、二人に狼狽の色が見え始めた。 「…静かだな。」 そんな二人の様子を見て、私は云う。二人は同時に顔を上げ、それぞれ違う反応を取った。逢坂は、微苦笑を浮かべて小首を傾げる。「何か話題はありますか?」と小さく私に返した。一方妙花は、顔を上げるとチラリと逢坂を見遣った。妙花が意図する処がどことなく解る。妙花は、逢坂にあまり好意を抱いていないようだ……。 「話題か。」 私は逢坂からの返事に応える事にした。とは云えすぐに思いつきはしない。しばし腕を抱えて悩んだのち、思いついた。 「では、一つ小話をしてやろう。」 「小話…」 「小話……?」 二人はきょとんとした表情で私を見る。 「私が小話をしては可笑しいか?」 「い、いえ、そういうわけじゃ……」 「な、なんていうか、意外で…」 妙花、逢坂の順で、二人は少しあわてたように首を振った。そんな二人の様子に小さく笑み、私は話し始めた。 「では。ここで陰陽師可愛川鈴の取って置きの小話を吹聴致す。ある時ある街で、ペンギンを散歩させている一般人がおりました。それを目にした警察官は、一般人に云いました。ペンギンは動物園に連れて行きなさい。数日後、警察官はまたも道路でペンギンを散歩させる一般人と遭遇したのです。警察官は問いました。動物園には行ったのか?一般人は答えました。ええ、行きましたとも、すると今度は映画館に行きたいと言うのでね。」 二人は真剣な表情で私を見つめていた。話しのオチがついても尚、私を見つめていた。少しして、逢坂が何か閃いたようにポンッと手を打った。 「なーるほど!……あははは、面白いお話ですね。ちょっと難しかったけど。」 逢坂はようやく物語を理解した様子で、クスクスと笑った。 「……あ、動物園…、……あ、わかった。ああぁ、なるほどぉ……」 妙花も、ようやく理解出来た様子だ。妙花は私を見上げ、クスクスと笑んだ。 妙花と逢坂は、しばしクスクスと笑い続けていた。何が可笑しいのだろう、と言うほど、ひたすら笑っていた。妙花が、「あぁっ…お腹痛い〜…っ…」とこぼしたところで、ようやく二人の笑いは止んだ。目の端に溜まった涙を拭いながら、逢坂が言った。 「可愛川さん…、…ふふ、…面白い小話、ありがとうございました。」 「構わん。」 笑いすぎだ…と付け足したかったが、やめておいた。 「そろそろ行くか。」 私が言うと、二人はうなずいて席を立つ。逢坂が持ってきたお盆を今度は妙花が持ち、空になった器を持っていく。妙花が少し離れている間に、逢坂は私に言った。 「妙花さんと話せて…良かったです。もっと仲良くなりたいです。」 逢坂は照れるように笑み、器を片づける妙花の背中を見遣った。私もつられて目を遣ったが、気は逢坂の方を向いており、その背中に感じる悪意に気づくことが出来なかった。 片づけ終わり、ぱたぱたと私の元に戻ってくる。妙花は私のすぐ傍まで来ると、強引に私の腕を抱いた。 「……妙花?」 「えへへ、だめですか?」 「いや、構わんが……。」 逢坂を見ると、どこか複雑な表情をしていた。そんなことはお構いなしで、妙花は私の腕を引っ張って行く。 「行きましょう、可愛川さんvv……逢坂さん、またね。」 私と逢坂、二人に宛てた言葉は、イントネーションがひどく違った。逢坂への別れの挨拶は、彼女をけなすような冷たい言い方だった。 私は妙花に引っ張られ、食堂を出てからどこかへ引っ張られて行く。 「妙花?一体どうしたと言うのだ…?お前らしくもない!」 「……そうですか?そんなことないですよ。私は私……」 四階にある、奥の小部屋の前にたどり着いた。今まで一度も来たことがない。 「可愛川さん、ここ、とっておきの場所なんですっ!」 妙花は、にっこりと笑んで言った。いつもの妙花に見えた。だから私は安堵した。それこそが間違いだった。 妙花がドアノブを引くと、キィ、と扉が軋んだ。ゆっくりとドアが開く。涼やかな風が流れた。 部屋の中は、まるで異次元だった。 遠い昔の情景。そんなもの知っているはずもないのだが、なぜかわかる。憧憬。 部屋の隅には本棚。ほとんどの背表紙が陽に焼けたようだった。壁には絵画。美しい少年を描いた油絵だ。ベッドは非常に質素なものだが、かけられたシーツは真っ白だった。部屋の真ん中で揺れるロッキングチェア。その向こうにある窓から風が入ってきているようだった。窓の外は、どこか見知らぬ草原が広がっている。 ……そして、部屋の中央にぶさらがったもの。それを見た瞬間、私は凍てついた。 すぐに我に返り、妙花に対し身構えた…否、身構えようとした。しかし私の身体は思うように動かなかった。首を圧迫されていた。首を境に血液に移動が無くなったような感覚。次第に器官も塞がれていく。 「…かは…っ……!」 ほんの一瞬首を締め付ける力が抜けたのち、更に強い力が籠もる。私は身体の力が抜け、地面に崩れ落ちた。そんな私に馬乗り状態になり、妙花は私の首を締めた。 サングラスの無い、真っ直ぐな目が見える。今気づいた。妙花の瞳は、なんて黒いんだろう。真っ黒などという言葉では足りない。そうだ…漆黒だ。妙花の瞳の闇に、悲しみを感じた。……今、私を殺そうとしているのは誰なのだろうか。…悪霊か…、それとも妙花自身なのだろうか……。 意識が消えていく。 『妙花…、…妙花…。』 祝詞など既に忘れていた。 死の傍まで導かれた私に出来ることは、妙花の名を呼ぶことだけだった。私を死へと導いている人間に助けを求めるなんて、私は馬鹿なのだろうか? それでも私は呼び続けた。 『妙花…、妙花……、助けてくれ……。』 コツ…コツ…コツ…コツ… 靴音がすぐ傍を通りすぎていく。寒気が過る。私―――逢坂七緒―――は、廊下の窪みに身を隠し、うずくまっていた。幸い、靴音は遠ざかっていく。そっとそっと身を乗り出して、靴音が遠ざかっていく方の廊下を見た。間違いなく妙花さんだ。……一緒だったはずの可愛川さんはいない。靴音が消えた頃、私は廊下に飛び出してあの小部屋へ向かった。 食堂にいる時、妙花さんが変だった。一緒に笑いあった時まではいつもの妙花さんだった。でもあの時…器を返しに行ってから、何かが違っていた。可愛川さんはそれに気づかなかったのだろうか?なんだか雰囲気も変だったし、それに…何かおかしなものを感じた。戒斗が教えてくれたのね、きっと。妙花さんは、妙花さんじゃなかった。妙花さんはあんな冷たい物言いをする人じゃないもの。だから私は妙花さんと可愛川さんの後をつけた。二人は四階の奥へと向かう。おかしいと思った。やがて、二人は一つのドアの前で立ち止まった。妙花さんが振り向いた気がして、私は慌てて身を隠した。しばらく動けなかった。二人が動く気配もほとんどなかった。ただ一度だけ、どさっ…て、まるで人が倒れるような音がした。飛び出そうと思った。でも万が一の場合……私に危険が降りかかることだってある。私は可愛川さんを助けなきゃ。私が死んだら可愛川さんだって助からない。何かが倒れるような音がしてから数分、妙花さんが部屋から出てきた。……そして今に至る。 小部屋の扉は完全に閉まっていなかった。少しだけ隙間が開いてて、そこから風が流れてきてた。恐怖が襲う。ここを開けたら…何が……。 ………唾を飲み込み、私はドアノブに手をかけた。ゆっくりと手を引く。部屋の情景が視界に入ってくる。…そして… 「…………!」 最悪の情景だった。厭な予感は…的中した。 部屋の上部に取り付けられた電気から、一本のロープがぶら下がっている。そのロープの先には…可愛川さんがいた。力なく…ロープに揺られていた。うそ…、…うそだ…!! 悲鳴を上げそうだったが、それよりも大事なことを思い出した。まだ時間は経ってない。助かるかもしれない! 私は可愛川さんの真下にあるロッキングチェアに乗り、可愛川さんの上にあるロープに手を伸ばした。そう簡単には解けない。何か……何かっ切るもの…!そう思ってポケットに手を伸ばしたその時、私は今自分が一番望んでいるものに触れた。私はそれをポケットから取り出すと、神はまだ私たちを見放してはいないと確信した。私はそれでロープを切った。重力のままに落ちる可愛川さんを庇うように彼女の下になる。その際に肘を強くぶつけたが、そんなのかまわない。 可愛川さんの首にまとわりつく蛇のような邪魔な存在を切り捨てる。首には真赤なロープの跡と、そして手跡。首を締められたあとに…更にこんなことを…!悔しさに歯噛みしながらも、可愛川さんをなるべく楽な姿勢に直した。 動かない…、…、…怖い……っ…。 ……怯えてる場合じゃない。私は可愛川さんの胸に、そっと耳を押しつけた。 ……、……、…………、…………、… …………、… ……僅かに…、ほんの僅かに、聞こえる。 心臓の音、聞こえる…! 私はユビキタスネットワークの装置に手を伸ばした。千景さんに繋ぐ。少しして、ウィンドウが開いた。 『七緒ちゃん?どしたの?』 千景さんの後ろに写る背景は食堂だった。 「ち、千景さん、緊急です!可愛川さんが、首を締められて、今…」 バンッ!! 「……!」 突然…扉が激しい音を立てて開いた。 『七緒ちゃん?ちょ、どういうこと?詳しく言って!』 千景さんの声は、遠いものだった。 私は、目の前にある恐怖に怯えていた。 そこには、酷く冷淡な目をした妙花さんが居た……。彼女はゆっくりと私に近づき、ピッとユビキタスの電源を切った。そして闇色の瞳で私を見据え、言った。 「余計なことしてんじゃないわよ…。」 ゾクン。身体中に悪寒が駆け抜ける。 妙花さんじゃない。この人は妙花さんじゃない…っ…!! 彼女はすっと立ち上がり、容赦なく私に蹴りを入れた。腹部に激痛が走る。 「くっ…!」 私はなんとか彼女から逃げようと後退する。彼女は、そんな私を怯えさせるようにゆっくりと近づいてくる。…まずい、壁際…! 「あんたも死になさい…。あたしの邪魔するやつは、みんな死んじまえ!!」 妙花さんの憎しみの籠もった拳が、顔に当たる。目の回り、鼻、口元、頬。 「やめてっ…!」 私は彼女を突き飛ばした。偶然不意を打った形になったのか、妙花さんは可愛川さんの寝かされたすぐ横に倒れ込んだ。しかしその事で、私は彼女に凶器を持たせることになったのだ…。先ほどロープを切って可愛川さんを救えたのは、鋭利な刃物……剃刀を持っていたからだった。眉剃りをしたいからと言って、冴月ちゃんからもらったものだった。妙花さんは、丁度落ちていた剃刀を握り締め、薄く笑んだ。 「……死ね…、……死ねぇええっっっ!!!」 びゅんっ! 剃刀が振り回される。顔の前で風が唸った。その瞬間には感じなかったが、少しして、頬に焼けるような痛みを感じた。さっきぶたれて腫れた頬から、血が溢れ出る。 先ほどから出血が酷い。殴られた鼻からは鼻血が出るし、口の中も熱くて、血の味がする。目の回りも内出血してるかもしれない。視界がぼんやりしてきた。そんな出血が重なったせいか、ふっと頭から血が抜けるような感覚がした。ベッドに倒れ込む。白いシーツが赤く染まる。 妙花さんは微笑して、私に近づいてきた。 「三つ数える間に天使に会える。」 彼女は薄い笑みを浮かべ、そう囁いた。 「さぁ…目を閉じて…」 私は恐怖で…身体が固まっていた。 「掻き切って…殺してあげる……。」 凍てついた身体。何も考えられない。 唯…妙花さんの笑顔だけが、焼き付いて離れない。 「3…」 息を飲んだ。剃刀の刃が、私の喉に宛てがわれる。 「2…」 すっ、と剃刀が動いた。喉に浅い傷。 …もう駄目…、…。 私は目を閉じた。 「1…」 途中で切れた通信に、尋常ではないものを感じた私―――乾千景―――は、4階にある小部屋へと走ってきた。その時、誰かの声が聞えた。狂気じみた、恐ろしい声が。その声は、誰かに向けて「死」を、命令していた。 そこから部屋の扉までの数十メートルが、酷く長いものに思えた。 バン! 勢いよく扉を開け、室内に銃を突きつける。 …そこは、異様な光景が広がっていた。 部屋の真ん中には、首吊り自殺の時に用いる形のロープがぶら下がっていた。床に横たわった可愛川さんの首には、赤い跡がくっきりと残っている。白いベッドに咲く鮮やかな血痕。ベッドに横たわる七緒ちゃんと、それに覆い被さるような体勢の愛惟ちゃん。 愛惟ちゃんの背中しか見えず、二人の間で何が起こっているか、私にはわからなかった。 「…愛惟ちゃん。手を上げなさい。早く!」 私が強く言うと、愛惟ちゃんは私に背中を向けたままゆっくりと右手を上げた。その手には…血で赤く染まった剃刀。 「……七緒ちゃん…!?」 私は二人に近づいた。七緒ちゃんが無事なのか確かめるため。愛惟ちゃんの奥の七緒ちゃん、その姿をのぞき込むと、虐待された子供のような血に塗れた酷い顔、そして恐怖に震える濡れた瞳があった。その瞳は強く訴えていた。『助けて、助けて…。』と。 「愛惟ちゃん…、…こっち向きなさい…。」 叱るような宥めるような、曖昧な口調で私は言った。今気づいたが、彼女の肩は震えていた。愛惟ちゃんは、ゆっくりと振り向いた。 まず、いつものサングラスがないことに気づいた。濡れた瞳。その瞳は、透き通った黒だった。 「千景…さん……。」 愛惟ちゃんはふらふらと立ち上がった。 右手に持っていた剃刀がするりと手から抜け落ちる。そして…… 「助けて…千景さん……」 どさりと、私に身を託すように倒れ込んできた。私の右手に生暖かい濡れた感触。 愛惟ちゃんを抱きながら、そっと彼女の左手を見た。 ……予想通りだった。 その手首から、真赤な血が溢れていた。 どく、どく…と、心音に合せて流れ落ちる血液に、私は酷い恐怖を覚えた。 医務室には、沈痛な空気が漂っていた。 事件のメインの三人である愛惟さん、七緒さん、鈴さん。それから警察の千景さんと佳乃さんと蓮池さん。看護担当の美憂ちゃん、水散さん、柚里さん、そしてあたし―――水戸部依子―――。 鈴さんは、はっきり言って危険な状態にある。ポッドの性能を信じるしかない。血圧もかなり低いし、心臓の機能の低下してる。美憂ちゃん曰く、もし回復するとしても、二週間は目を覚まさないだろう…とのこと。 七緒さんは、外傷がひどかった。顔を何度も殴られたのがよくわかる。鼻の粘膜をやられてて、鼻血が出てた。それから口の中も切ってる。目の回りも内出血で青丹になってるし、内出血は肘と腹部にもあった。頬は剃刀で切られたらしくて、結構深い傷になってる。一生残るってほどじゃないけど、最低でも一月は消えないだろうね。喉にも剃刀で切られたらしき傷があるけど、これはすごく浅い傷だから大丈夫。骨折だとか、そんな大きな怪我はなかったけど、なんてったって数が多い。しばらくは顔中身体中痛むと思う。 最後に愛惟さん。彼女は七緒さんみたいにたくさん傷があったわけじゃない。一つだけ、深い傷。……手首。自殺の其れと同じである。七緒さんが反撃したわけではないらしい。……本人がやった。つまり…自殺しようとしたってこと…?余りに出血が多いので、今は柚里さんに点滴を差してもらってる。 まったく持って意味がわかんない。一体何なの?これは? 「一応、全員の処置は終わったな。先に失礼する。何かあったら連絡を頼む。」 美憂ちゃんがそう言って、医務室を後にする。おっとっと。 「私も失礼しまーすっ」 美憂ちゃんの後を追って、医務室を後にした。美憂ちゃんは、制御室の扉の前に立っていた。あたしに気づく。 「ハァイ、美憂ちゃん。そんな処に立ってどうかした?」 彼女は少し慌てた様子で言う。 「なんでもない…別に……。」 「もしかして、制御室に入りにくいんじゃない?十六夜さんがいるから。」 「………。」 ほら図星。美憂ちゃんって嘘がつけなくて可愛いのよね。 「ね、あたしと逃飛行しようよ。」 「と……逃飛行…?」 「そ。ほら、千景さんと理生さんがしたみたいなやつ。」 「?」 解ってない。…まいっか。 「とにかく、楽しいことだからっ♪」 あたしは強引に美憂ちゃんの手を取り、駆け出した。 「水戸部っ…!」 「がんばってっ☆」 ……何分くらい走ったか。あたしは暗いじめじめした場所にたどり着く。 「…ボイラー室…?」 美憂ちゃんは息を切らせながら言う。 「そ。こういう暗いとこだと、美憂ちゃんを襲いやすいでしょ?」 「………。」 「冗談よ。」 美憂ちゃんの警戒を感じ、あたしは肩を竦めて言った。 「こっち。」 あたしは美憂ちゃんの手を引いて、ボイラー室の奥へと向かった。そして、人間二人が手を繋いだくらいの大きな管の上に座ると、美憂ちゃんにも手をかして登らせる。美憂ちゃんがそこに腰掛けると、ふんわりとした心地よい風が吹き抜け、美憂ちゃんのしなやかな銀髪を揺らした。 「………これは…」 美憂ちゃんは驚いたように小さく零した。私はクスリと笑み、「すごいでしょ?」と自慢気に言う。 「……自然の匂いがする。」 「…うん。」 管の向こう側には、通風孔がある。そこから香ってくるのが、自然の香り。おそらく、一階の庭園に繋がってるんだと思う。 「気持ち良いでしょ…?」 私はそっと美憂ちゃんの肩に手を回しながら問う。彼女は少しだけ身を固くしたが、観念するように私に寄りかかっていった。 「……すごく…気持ちいい。」 どれくらいそうしていただろうか。次第にあたしの中から色んな欲求が湧いてくる。 美憂ちゃんの顔をそっとのぞき込み、空いた手で頬を撫でた。美憂ちゃんはまた身を固くした。薄暗い中でもなんとなくわかる。頬が赤い。 「可愛いよ…。」 甘い言葉を囁き、顔を近づけていく。 「…や、……水戸部…」 美憂ちゃんは拒否するように、弱々しく首を横に振った。もう遅い。美憂ちゃんをあたしのものにするって、決めたんだから。 あたしは美憂ちゃんの頬を撫でていた手を、そっと首筋に移した。うなじから胸元にかけて緩く触れると、美憂ちゃんは少しだけ熱い吐息を漏らす。 決める。 「……好きよ。」 「…水…戸部…?」 「あたしは…、美憂ちゃんのことが好き…。……本気よ…。」 のぞき込むような体勢のまま、美憂ちゃんの瞳を見つめる。熱く熱く…火傷するくらい。 「…そんなこと…、…言っていなかった…。それにお前は、嘘は…つかないって…」 美憂ちゃんの言葉が途切れる度、動揺が伝わってくる。あたしは更に追い討ちをかける。 「そう…あたしは嘘はつかない。気持ちって、動くもんだよ…、…わかるよね?」 「…でも…、どうして?…なぜ私なんか…」 俯き加減になる美憂ちゃんの頬に手を宛てがい、キス直前の体勢。 「卑下しちゃだめよ。美憂ちゃんはきっと、美憂ちゃん自身が思っているよりもずっと魅力的な女性なんだから。」 「…………。」 「あたしは…美憂ちゃんのことが好きなの…。愛してる…。」 そう口にすると、美憂ちゃんは今日初めて私を真っ直ぐ見てくれた。泣きそうな顔。ここで唇を奪うと…良くないみたいね。 あたしはふっと表情を変えて微笑し、美憂ちゃんを抱き寄せた。 「ふゎ…っ…」 ぎゅむっと胸に押しつけ、優しく髪を撫でる。母親のように、包み込むように…。 「美憂ちゃんが苦しいのはわかってる。美憂ちゃんが十六夜さんのことを愛してるのもよーくわかってる。…あたしがこんなこと言ったら、戸惑うのも…わかってた。」 美憂ちゃんはあたしの胸の中で、まるで小さなウサギのようにじっとしている。 「…あたしは、美憂ちゃんと十六夜さんの仲を引き裂こうなんて思わない…。あたしは…ただ、美憂ちゃんの傍にいれればいい。いっつもじゃなくてもいい。時々こうやって…抱きしめさせてくれればそれでいいの…。」 そっと美憂ちゃんの頬を撫でると、美憂ちゃんはそっと顔を上げ、あたしを見上げた。 「…水戸部…、…お前は…それだけで満足出来るのか…?…私を抱きしめて…何を感じる?」 美憂ちゃんのオブラートに包んだ言葉を、あたしは笑いながら剥き出しにした。 「確かに愛は感じないわね。美憂ちゃんの愛は十六夜さんオンリーでしょ?」 「……。」 「でも、あたしは満足。たくさん感じるわ……美憂ちゃんの依存心。」 「……依存心…?」 「あたしは無償の愛を捧げ続ける。美憂ちゃんは時々、あたしに寄りかかってくれればいいの。ほんの少しの時間だけ、あたしに頼って生きて欲しいの。」 不思議そうにあたしを見上げる美憂ちゃんに、小さく笑みを向ける。 「……水戸部…、…。」 美憂ちゃんは少し頬を赤く染め、目線を逸らした。 あたしは美憂ちゃんに向き直り、言った。 「依子って呼んで欲しいの。呼んでくれたら…、美憂ちゃんの、二人目の恋人になるから…。」 真っ直ぐ、美憂ちゃんを見つめた。美憂ちゃんはしばしあたしの目を見つめ返し、少しして目線を落とした。悩んでいる様だった。でも、これ以上は言うことはない。あたしは、答えを待つだけ…。 「…確認…させて欲しい。私には、十六夜という恋人がいる…。私は彼女を愛しているし、彼女を愛することを止めたくはない。十六夜との関係を、……」 「妨害しない。約束するわ。」 あたしはキッパリと断言した。 美憂ちゃんは少しだけ黙り込み、ほんの一瞬、小さく微笑を零した気がした。 「…依子…。」 …小さな声で、…美憂ちゃんはあたしの名を呼んだ。 「……美憂…」 あたしは美憂ちゃんのあごを引いた。彼女は少し驚いた様子だったが、数秒間真剣な眼差しで見つめると、観念したようだった。美憂ちゃんが、そっと瞳を閉じる。ついに、自分からキスを求めた。 「…愛してる…」 ………もう、誰にも渡さない。十六夜さんとの関係?…そんなの決まってるじゃない。 ズタズタに切り裂いてあげる! 「…ン…、…」 美憂ちゃんとの初めてのキス、交わした。 「……妙花さん…。」 名前を呼ばれて、私は振り向いた。視界が曇ってて見えない。私のすぐ横にいるのは、点滴を差してくれた保科さん。保科さんがポケットから何かを取り出し、それを私の目許に宛てがった。ハンカチだ。…すると、曇っていた視界がクリアになる。…あー、そっか。涙で滲んでたんだ…。 あたしの名前、呼んだのは誰?振り向くと、そこに居たのは…… 「大丈夫ですか…?…手首の傷…。」 ……逢坂さんだ…。 ひどい顔してる…、…あの怪我……全部……あたしが……。…あれれ?また視界が曇ってきたよ…。 逢坂さんは、あたしの隣に腰を下ろした。 「……怖くないの?」 あたしは少し掠れた声で、そう尋ねた。 「妙花さんの方が酷い怪我ですから…。」 ……説明になってない。 「………手首…、…痛いよ…。」 「そうですか…、深い傷みたいですね…。」 「……死に…たかった…。」 「………死んじゃ…だめです。」 あたしと逢坂さんの会話は、中途半端な間だらけの淡々としたものだった。お互いに感情のない声。 「………死にたい。」 「…どうして…?」 「…………あたし…、…最低だ…。」 「………。………どうして…あんなこと…」 「…あたしはあんなこと…したいわけない」 「………それじゃ…、…」 「……わかんない…、でも…あんなこと…」 「…可愛川さんのこと…好きなんですか?」 「そーだよ…、…だから…するわけない…」 「…妙花さん…、別人みたいだった…。」 「……別人?」 「妙花さんじゃない…」 「……じゃ…、…悪霊だ。」 「………そうかもしれませんね。」 「可愛川さんいない…どうしようもないよ」 「………そんなことないです。」 「……なんで?」 「…私がいるもん。」 …今までとは打って変わって、逢坂さんはキッパリとそう言った。 「………。」 あたしは何も返せなかった。 「私が助けてあげる。妙花さんのこと、絶対助けてあげる。」 「……本気なの?」 「勿論。大船に乗った気分で居て下さい。」 逢坂さんは、傷だらけの顔で笑んでみせた。 …その瞬間、心の中で凍りついていた感情が一気に溶け出した。 「あ…、……っ……うあっ……」 涙がどんどん溢れてくる。止め処無く、まるで水道の蛇口をひねったみたいに。 「……妙花さん…」 逢坂さんは、あたしを抱き寄せた。 あたしは彼女の胸に顔を埋め、泣きじゃくりながら何度も繰り返した。 「…ごめんなさい…、…ごめんなさい…!!」 …と。 …壊したのって…全部あたしなんだ…。 可愛川さんも、逢坂さんも、自分自身の傷も…全部。 「…謝ることないです。あなたはちゃんと…止めたじゃないですか…。」 止めた…。 …あたしが…とめた…? 「私を助けてくれたじゃないですか…、あたしの喉に宛てられてた剃刀…もうダメだって思った時…、……あなたは、自分自身の手首を切って…」 ……そ…っか……。 ……そうだ…、……。 知らないあたしが、カウントダウンを始めた。…逢坂さんへの、死のカウントダウン。止めなきゃって…必死で…どうすればいいかわかんなくて……がむしゃらに、…かろうじてできたのが…、切る対象を変えることだったんだ……。 自分の手首を掻き切った時、すべての感覚が蘇ってきた。…自分が戻ってきた。 …そっかぁ……。 「…………妙花さん…今回のことは、悪霊の仕業としか思えません。私に何ができるかわからないけど…できる限りのことは全てやります。どんな苦労も苦しみも厭いません。」 「……っていうか…、」 あたしは顔を上げ、自分の涙を拭いながら言った。 「…逢坂さん…馬鹿だよ…。…あたしとあなたは……、ライバルでしょ…?恋敵だよ?わかってる…?」 「……そうですね。でも、私……妙花さんのことも大好きですから。」 「……そーだったの?」 「ええ!妙花さん、すっごーく可愛いんですもの……。……だから、嫌われててちょっと辛かったです…。」 「…あ、…や、その……」 「………妙花さんが嫌いでも、私は妙花さんのこと好きですから。だから、…どんなことでもしますから…。」 「き、嫌いじゃない!」 「え?」 「………嫌いじゃないよ…、……あたしも好きだって…。……こんなにあたしのこと救ってくれた人、嫌うわけないじゃない…」 ぎゅむ。あたしは逢坂さんに抱きつき、頬を擦り寄せた。逢坂さんは緩くあたしを抱きしめ返し、そしてそっと頬にキスをくれた。 「…戦っていきましょう。妙花さん…、いえ、愛惟さんを蝕む…悪霊と。」 「…がんばるわ…、…ありがとう、七緒。」 不思議な感覚だった。 何度も何度も嫉妬した相手と、抱き合って頬にキスしあうなんて。 でも、今は嫉妬した人なんて概念で彼女を見てはいない。 ……あたしの、大切な人。 「あ、幸織さん。」 私―――悠祈水散―――と命さんで廊下を歩いている時、曲り角でばったりと出くわしたのは…夜久さん。 命さんは足を止め、彼女の名を呼んだ。いつから、ファーストネームで呼ぶようになったんだろう?…私、知らない…。 夜久さんは私たちに気づき、小さく会釈した。…本当に…キレイな人。…嫌みなくらいに。 「あ…、ちょっとゴメン。水散さん、先行っててもらえる?」 命さんの言葉、内心ショックだった。でもそれを表面には出さず、私は小さく笑む。 「わかりました。すぐ終わりますか?」 「あ、わかんないけど…」 「そうですか…。そ、それじゃあ。」 私は小さく頭を下げ、たった今夜久さんが曲がってきた角を一人で曲がった。憮然としながら、そのまま帰ろうと思っていた。曲がったすぐ先にある、とある部屋に気づくまでは…。 「何か用事…?」 夜久さんの声を聞きながら、私は立ち去る振りをして……トイレに滑り込んだ。 「ん…、…えーと…」 廊下で少し響く感じがあるが、二人の声はしっかりと聞こえる。…盗み聞き。こんなの、よくないってわかってるけど…、…けど…。 「特に用事ってわけじゃないんだけど…幸織さんと話したくて。」 …ズキン。命さんの言葉に胸が痛む。 用事がないなら、立ち止まることないじゃない。それってつまり、私より夜久さんと一緒に居たいってこと…? 「さっきの彼女はいいの……?また……嘘をつくの?」 …嘘? ……『また』って? 私、…命さんから嘘をつかれてるの? 「嘘ってほどじゃないよ…ほら、別に何か偽って、ここに残ったわけじゃないじゃない。先に行っててって、そう言っただけだよ。」 「…彼女に、私と何をしていたか聞かれたらどう答えるの?…それでも嘘はつかない?」 「……それは…場合によるけど。」 「唯の友達なら、本当のことを云うものじゃない…?」 二人の口調が、少しずつ強まっていく。言い争い…まではいかないけど…。 「…唯の友達…、…確かに、…なんていうか…水散さんは唯の友達じゃない。恋愛対象として意識したことだって…何度もあるよ。」 ………。 嬉しい…ような…、…複雑な気持ち…。 「じゃあ、なぜ彼女を裏切るの?」 「……わかってよ!…あたしだって複雑なんだよ。水散さんを傷つけなくなんかないよ。でも…っ…」 「……でも…?」 「………幸織さんのこと好きだから…!」 ………っ…。 ………いっちばん…キツイ言葉……。 …そうだよね…、なんとなく気づいてた。 ……でも、言葉にされると… …すごく痛いよ……。 「…好き?…私を?」 「そう…。…まだ出逢って日も浅いし、一緒に過ごした時間だって短いし…変かもしれないけど…、…でもね、幸織さんと一緒にいると、幸織さんの言葉とか仕種とか、姿とか香りとか、全部が…あたしの毛穴とかから入ってきて…あたしを刺激するの。」 「………」 なんて熱い…愛の言葉だろう。 あんなこと云われたら…私だったら、嬉しくて嬉しくて… ………でも…今は辛いよ…。 命さんのあの言葉は…私じゃない人に向けられてる…。 「…いきなりこんなこと云っても…困る?」 「………、…私を好きと云ったのは…あなたを含めて三人。」 「…三人…?」 「一人目は、私の母。…いつも私を優しく抱きしめて…愛している、と…囁いてくれたわ。…でも、私が15の時に他界した。」 「……。」 「……二人目は、研究所の男。」 「研究所…って…?」 「この施設に来る前に、捕われていた場所。男は私を撫で回して…云ったわ。お前は素晴らしい…愛している…。でも、母の時とは違って、男の愛は気色悪いだけだった…」 「……それは…たぶん、愛って云わない。」 「私もそう思う。…そして三人目が貴女。」 「…本当に?」 「……信じられないの?…どうして?」 「いや…、…だって、絶対もてると思ってたから……もっとたくさんの人に言い寄られてると思った。」 「…もてる?…まさか…。…遠巻きに、物珍しそうに私を見る人はいたけれど…、…私に話しかけたのは貴女が初めて。」 「……うそだ…、本当なの…?」 「…本当よ。」 「もったないよ、こんなにキレイなのに!」 「……よくわからないから…、…経験がなくて…」 「……ねえ、あたしじゃだめ?教えてあげるよ。愛し合うこと…、…ね?」 「………水散さんはどうするの?」 「……。」 ………息が苦しくなってきたよ…。 ……涙が止まらないよ…。 命さん…、……あたし…期待してた…。 …シャイなだけで…、心の中では、私のこと好きでいてくれるんだって…思ってた。 勘違いだなんて……最低だ……。 「…あなたは、水散さんのことが好きなんでしょう?」 何云ってるの…。 これ以上あたしを苦しめないでよ。 命さんの気持ち、受けとめてあげてよ。 もう、悪足掻きなんて…… 「……好きだよ…。」 ……え…? …自分の耳、疑った。 …何それ? ………意味わかんない…。 「好きだよ!…好きだけど…、……どうすればいいのよ!?…水散さんのこと、大好きだよ…でも、幸織さんだって大好きだよ。…自分でも気持ちのコントロールが利かない!」 …命さんの声が上擦ってる。涙声。 好き…なんだ…? 命さんは、あたしのこと…… ………好きでいてくれたんだ。 ……っていうか…、あれ? …あたし、なんか変だよ。 自分の気持ち、見るの忘れてた。 ……あたし、命さんのことが好きなんだ。 …大好きで大好きで、おかしくなりそう。 「………あなた自身の問題でもあるし…、…三人の問題でもあると思う。」 「………三人の…?」 「水散さんだって、悩んでいると思う…。好きなんじゃない?…あなたのことが。」 「水散さんが…あたしのこと?…そんな…」 「お互いの状況を理解しあっていないと、傷つけてしまう。命…もう少し大人になりなさい。」 ミコト…。 命…。 「………幸織さんのこと…把握できない。」 「教えてあげる。…私は、貴女のことが好きよ。……水散さんのことも、よく考えて…結論を出しなさい。」 「………はい…。」 「…今は戻ってあげて。今は、私よりもあの子の方が、あなたを必要としているから。」 「…うん…。」 靴音が響いた。 待って…、命さん…、……私は…。 「……命さん…っ…」 「え……!?」 トイレの前の廊下を歩いていた命さんに…私は抱きついた。ある意味不意討ちで、命さんはさぞかし驚いたことだろう。でも、我慢できなくて…。 「ごめんなさい…、盗み聞きしてました。」 「……う、うそ…!?」 「………本当。」 命さんの腕にぎゅーっと抱きついたまま、じろりと命さんを見上げた。なんだか…ちょっと怒ってる…あたし。 「……あの…、…、な、なんていうか…」 「幸織さんのこと、好きだったんですね。」 「…う、…うん。」 ……そうだ。あたし期待してる。 …直接云って…欲しいんだ。 「…他に何か云うことはないんですか?」 「他に?え、ええと…」 「………」 ……あぁぁ…心がぐちゃぐちゃ。 今度は悲しくなってきた。 目に涙が溜まる。じわっ…て。 なんだかもう悔しくって、命さんを睨んだ。 「……怒んないでよ…。」 命さんは、あたしの髪を荒く撫でた。 「何か云うことはっ…」 繰り返す私の唇に、命さんは人差指を押しつけた。そして薄い微笑を浮かべ、云った。 「…好きよ。水散さんのことが大好き。…………そう云って欲しかったんでしょ?」 この悪戯っぽい笑み……。 いつもの命さんだ…。 「………もうぅ、命さんなんて…」 「…うん…?」 「……だいっ…」 「………」 「………すき…。」 ……あたしは、小さな小さな声で云った。 それでも彼女には届いていたようで、命さんはクスクスと笑んでいた。 「…幸織さんになんて渡したくない…私だけの命さんでいて欲しい…、…もっと私のこと…好きになって下さい…愛して下さい…」 私の懇願に、彼女は何も云わなかった。 「……帰ろう。」 ぽつりと命さんは零し、私の肩を抱いて歩き出した。……なんなんだろ、この人。気紛れな猫みたいで、いじわるで、自己中で、ect…!! ……でも…大好きなんだよね……。 傍にいて…もう…離さないで……。 「和葉ちゃん。」 廊下で見かけた、見覚えのある後ろ姿。あたし―――伴都―――は、その姿を見かけるやいなや駆け出し、その後ろ姿の女性に追いついた。ポンッと肩を叩いて名前を呼ぶと、彼女は私に気づき、ぱぁっと嬉しそうな笑みを溢れさせた。 「都さん。」 和葉ちゃんは私を見上げて笑む。言葉こそ少ないものの、彼女の笑みが全てを語っている気がした。 「部屋に戻るところ?」 「いえ、サロンに行こうと思って。誰かいるかなって。」 「奇遇ね。あたしもサロン行く途中だったの。伽世ちゃんと六花ちゃんがいるみたいだから、ギターの演奏でも聞けるかなっと。」 と、ユビキタスの装置を指しながら言った。 「あぁ、あの二人ですか。演奏聞けるといいですね。」 和葉ちゃんは屈託のない笑みで私に言う。それからすぐ、サロンに近づいて来たところで、楽器の奏でる旋律が聞こえてきた。 「聞けるみたいね。」 あたしが小さく笑んで言うと、和葉ちゃんも微笑で返事を返す。 サロンに到着すると、予想通り、伽世ちゃんと六花ちゃんの二人がギターを手にしてメロディを奏でているところだった。今日は、少しミディアムテンポなペーソスな曲。 伽世ちゃんと六花ちゃんの他にも、先客がいた。 「秋巴に箕ナちゃんじゃない。奇遇ね〜。」 運命共同体とでも言うのだろうか。何故か、いつものメンバーが揃ってしまう。そんな時、廊下からパタパタと足音が聞こえてき、杏子までもが姿を現わした……りしたら、笑えるんだけどさすがにそれはなさそう。 「都さん、飲み物は何がいいですか?」 和葉ちゃんが気を利かせてくれる。あたしはそれに甘えることにした。 「モスコミュールお願い。」 和葉ちゃんは注文をとったウエイトレスのような歯切れのいい返事を返し、ドリンクコーナーに向かった。 「昼間っからお酒?」 秋巴がクスクスと笑む。 「そーいう秋巴のグラスに入ってる褐色の液体は何かしら?」 「コーラ。」 「にしては、カルアの香りがするけど?」 「……さすが都。鼻もいいんだね。」 「トーゼン。」 いつもと同じ、テンポのいい漫才みたいな会話を秋巴と交わし、小さく笑い合う。 それから会話も止み、あたしは二人の演奏に耳を傾けた。 「…なんて曲?」 誰にともなく、そう尋ねる。 「nothing or all.」 あたしの問いに答えてくれたのは箕ナちゃんだった。その答えで曲名を知れたことと同時に、箕ナちゃんの見事な発音に感心した。 「伊達にアメリカンじゃないわね。」 「は?」 奏者二人から目を離し、箕ナちゃんはきょとんとあたしを見る。 「発音。日本人じゃ、その発音は無理よ。」 「あぁ…。そりゃ当然。伊達にアメリカンじゃないわ。」 箕ナちゃんはあたしが言った言葉をそっくりそのまま返し、クスリと笑んだ。 「はい、どうぞ。」 あたしと秋巴達が挟んだガラステーブルに、和葉ちゃんが異なる色の赤色の液体が入ったグラスを二つをおいた。そのうちの一つをあたしの前にずらす。 「ありがと。和葉ちゃんのそれは何?」 「カシスソーダですっ。」 和葉ちゃんはそのグラスに一旦口をつけたあと、あたしの問いに答えた。 「なるほど。一口いい?」 「ええ、どうぞ。」 和葉ちゃんからグラスを受け取り、故意に和葉ちゃんが口をつけた部分から飲む。カシスの甘さと、二酸化炭素の泡が混じり、口の中で弾ける。 「ん。おいし。」 あたしは小さく笑んで、グラスを和葉ちゃんに返す。和葉ちゃんも小さく笑み、あたしが口をつけて飲んだところから、液体を啜った。 モスコミュールを飲みながら、再び奏者二人を見遣る。丁度その時、曲は終わりを向かえた。 あたしたち四人は、二人にパチパチと拍手を贈る。 「ありがとうっ。」 伽世ちゃんはにはりと笑み、その後六花ちゃんの言葉を交わした。 「何かリクエストある?」 再びあたしたちの方を向いた伽世ちゃんの言葉に、小さく首を傾げる。他の三人も何やら考えているようだった。 「えっとねー、今みたいなしっとり系の曲お願いします!」 あたしは二人にそう言う。伽世ちゃんは「オッケー」と指でOを作り、六花ちゃんと相談を始めた。 「んじゃ、fetishっていう曲弾きま〜す♪」 伽世ちゃんはそう宣言し、ジャ〜ン…とギターを鳴らした。ギターと言う限られた音源の中で、しかしそんな限界など感じさせないような幅広いメロディが奏でられる。 あたしたちは演奏に耳を傾けていた。 ふと、ちらりと三人を見遣った時、あたしはあることに気づいた。箕ナちゃんがじっと見つめている存在。…彼女の視線の先には、和葉ちゃんがいた。和葉ちゃんと目が合う。和葉ちゃんはあたしを見上げ、目元に笑みを浮かべる。あたしは笑み返し、また二人の演奏する姿を見遣った。 ………箕ナ。 妙に…熱い視線だった。まるで恋慕の…。 ………どうなんだろ。箕ナちゃんって和葉ちゃんの親友だとしか思ってなかったけど…。…まさかね?……ん〜でも気になる…。 「……ねぇ箕ナちゃん。」 あたしは思い切って、箕ナちゃんに声をかけた。 「あ、…はい?」 箕ナちゃんは少し慌てたような、我に返るような調子であたしに返事をする。 「箕ナちゃんって、好きな人いないの?」 「は…?…な、何を唐突に…」 「いや…なんとなく。浮いた噂も聞かないな〜っと思って。」 和葉ちゃんと秋巴も、あたしと箕ナちゃんの会話に注目する。恋話ほど人の注目を集めるもんってないよね〜。 「…別に…、特には…。」 箕ナちゃんは困惑した様子で、小さくそう答えた。……アヤシイ。 「隠す必要ないのよっ。ほれほれ、言うてみっ」 あたしは茶化すように言う。……まぁ、万が一和葉ちゃんが好きだとかだったら、言えるはずもないか。 「そういえば最近、箕ナよくいなくなるよね。ユビキタスの電源切れてること多いし。」 ……ン?和葉ちゃんじゃないのかな? 「あ、いや、それはその…、考え事したりとか、そういう……。」 「……私、知ってるなぁ。箕ナのユビキタスの電源切れてる時、絶対電源切れてる人が一人いるよ。」 「え…!?」 秋巴の言葉に、箕ナちゃんは明らかな動揺をしめした。ふぅん…和葉ちゃんじゃないにしろ、本当に恋人っぽい人っているんだ。 「…で、誰なのよ?」 「えっとね、くぎゅむ。」 箕ナちゃんは秋巴に覆い被さり、その口を手で押さえていた。 「むーむー…」 秋巴がもがく。秋巴を押さえつける箕ナちゃん……真っ赤だった。どっちかっていうと色っぽい感のある箕ナちゃんが動揺して真っ赤になっている様は、妙に可愛らしい。 「隠すことないのにぃ…、…っていうか、言ってくれたらよかったのに…。」 和葉ちゃんがしょぼんとした表情で、小さく言う。あぁ…まぁ親友なのにそういうこと打ち明けてくれないってのはへこむよね。 「くあはっ!くっ…!……ぎゅー!」 秋巴がもがく。箕ナちゃんが必死に押さえつける。……さっきから、秋巴は何かを言おうとしている様子だった。やめてとか苦しいじゃなくて…。その相手の名前? 「ちょ、ちょっと落ち着いて、二人とも。秋巴、言わないでいいから。ね。箕ナちゃんも離してやって。」 「………絶対に言わないなら。」 箕ナちゃんは警戒しつつも、秋巴から手を離した。秋巴も、あたしが釘を差したせいか、さすがにこれ以上言おうとはしなかった。 沈黙が訪れる。 30秒ほどたってか、一番最初に口を開いたのは箕ナちゃんだった。 「……恋人とかじゃ…ないから…。」 ポツリと零したその言葉は妙に重く、悲痛だった。箕ナちゃん…苦しんでる。 あたしはその場から立ち上がり、箕ナちゃんの手を引いた。 「え?…あっ…」 強引にサロンの外まで連れていき、壁際に押しつける。 「……なに…?」 怯えているようにも見える。 「……箕ナ、和葉ちゃんのこと好きなんじゃない?」 あたしは直球ストレートで箕ナにそう問った。 |