第十七話・忘れ得ぬ愛





「おはよう、瞳子。」
 朝のリビング。
 柚さんに少し似た、優しい声。
「おはようございます、お母様。」
 私―――棚次瞳子―――は、フランスに来て、一ヶ月と数日目の朝を迎えていた。
 暦は二月。
 だからといって私に何か変化があるわけでもない。
 今日も一日、柚さんと一緒に過ごすだけ。
 こうして、毎食柚さんと一緒に食べる食事を取りに来るのだ。
 執事のジャンさんが、直接持って行くと仰ってくれたのだけど、お父様が少しは動いた方が良いだろうと計らってくれて、こうしてリビングまで、毎回取りに来ることにしている。
「そうそう、瞳子。お父さんと話していたんだけど、今日はあなたのお洋服を買いに行こうと思ってね。お買い物は月に一度まとめて買うようにしているから。」
「あ、そうなんですか、そんな、わざわざいいんですよ。」
「でも、あなたが持ってきたお洋服じゃ、こっちじゃ少し薄いでしょう?」
「え、ええ、まぁ…。」
 確かに、こっちの地方は予想していた以上に気温が低く、私が持ってきた冬服ではしのげない寒さもある。実はその時は柚さんのカーディガンをお借りしていたので、私はそれはそれで幸せだったりもするのだが、借りっぱなしというのも悪いだろう。柚さんが起きた時、羽織るカーディガンもなくなっちゃうし。
「…それじゃあ、カーディガンをお願いしても宜しいですか?」
「ええ、勿論。他には?瞳子はズボンよりスカートの方が好きなのかしら?」
「あ、はい。でも、そんなに沢山は…。」
 私が遠慮すると、お母様は柔らかく笑んで、
「気にしないでいいのよ。私たちが、瞳子に着て欲しいだけなの。あなたは私たちの二人目の娘のようだから…。だから、私たちの我が侭、聞いてくれる?」
 お母様の言葉に、私も笑顔になる。そう思っていただけると、私も嬉しい。
「はい、わかりました、お母様。ありがとうございます。」
 頷きながら、朝食の乗ったトレイを運ぶ。
「瞳子、今日は私たちは街に買い物に出るから、何かあったらジャンにね。」
「はい。いってらっしゃい。」
 お母様の言葉に頷き、私は柚さんの部屋に向かった。
 コンコン。
 ノックの後、部屋に入る。
 …いつも、こうして柚さんの部屋に入る時は、期待してしまう。柚さんが起きていないかって。
 でも、毎回毎回の期待はことごとく裏切られ、柚さんは今も眠ったまま。
 ベッドの傍の机に朝食を置いて、私は改めて柚さんを見た。
「おはようございます、柚さん。」
 そう声を掛けると、「…瞳子、さっきも言った。」なんて言ってくれそうで。
 朝起きてすぐ、この部屋に来て挨拶。
 その後朝食を取りに行って、今、こうして二度目の朝の挨拶。
「いただきます。」
 私が、パンと目玉焼きの朝食を取っている時も、柚さんは、点滴からの栄養だけ。
 なんだか、悲しい。
 でも、いちいち気にしていたら、本当に涙が枯れてしまいそうになるって気づいたから、もう、なるべく気にしないようにしている。そう、ポジティブシンキング。
 朝食を食べ終わったら、そのお皿は入り口のところの棚に置いて、私はお昼の食事を取りに行くまで、柚さんとの時間を過ごす。
 ずっと柚さんのことを眺めていても飽きないけれど、お母様が教えてくださった編物や、フランス語の勉強なんかも少しだけしている。日本のお母さんに、大学のテキストを送ってもらうよう言っておいたから、もう少ししたら日本の大学の勉強も出来るようになるはずだ。大学自体には行けなくて、もしかしたら休学扱いになるかもしれないけど、仕方ない。
 あ、そうそう。そう言えば柚さんの大学に手続きがされていないことをお父様に話したら、慌てて日本の青山学院大学に連絡してた。柚さんが忘れてたんだって。柚さんらしいなぁ。
 青学、かぁ。
 …佐伯さん、今も待っててくれてるかな。
 乾さんと小向さん、まだ私や柚さんのこと、覚えててくれてるかな?
 柚さんを探すのに必死になっていたあの日も、今は懐かしい思い出に変わっていく。
 遊園地のあの日も?
 ―――思い出に、変わっていく。
 でも、最近ふと思うんだ。
 柚さんはまだ、あの遊園地にいるのかもしれない、って。
 どうすれば帰れるのかわからなくて戸惑っていたあの日の私たちのように、出口がわからなくて、今も不安でいるのかな。柚さんのことだから、いつか出口が見つかることはわかってて、それで時が来るのを待ってるのかな。
 わからないけど、きっと、帰って来る。私たちがこうして戻って、そして現実世界で再び出会ったように。
「柚さん。」
 時々、こうして声を掛ける。
 ただ黙って待っているんじゃなく、こうして干渉して、呼びかけたら、柚さんに声が聞こえるかもしれないって思って。
「ねぇ、柚さん。あの遊園地のこと、覚えてますよね。」
 あの日々の柚さんと今の柚さん。
 同じなのに、違う。
 それが悲しくて、ふっと涙が零れる。
「不思議な柚さんに出逢って、一緒に時を過ごして。私、嬉しかったです。すごく楽しかったです。」
 柚さんの手に触れる。冷たいけど、温かい柚さんのこの手、大好きです。
「ねぇ柚さん?たった一週間だったけど、本当に色んなことがありましたよね。」
 遠いあの日に、思いを馳せた。
「初めて出会った時。私、不思議な人だなぁって。第一印象、今でも忘れてません。」
 真っ白い女性。不思議な不思議な女性。
「それから、あの世界の中で、観覧車から降りてきた柚さん。キレイだなぁって思いました。」
 白い髪が風に揺れて、きれいなきれいな女性。
「…夕と喧嘩して、私、混乱してて。でも、そんな私の肩を抱いて歩いてくれましたよね。」
 その白い肌からは予想もつかなかった、ぬくもり。優しい柚さん。
「先生のこと話す私の、つまんない話、傍に座って聞いてくれて、嬉しかったです。」
 白い女性が見せた優しさが、不思議だった。優しい優しい柚さん。
「…ねぇ柚さん。覚えてますか?あの時、柚さんは言ってくれたんですよ。」
 二人っきりの夜のベンチで。街灯の下で。
 柚さんがはじめて見せてくれた優しさと、あたたかさ。
 私はそんな柚さんが上手く感じ取れなくて、なんだか遠くにいるような気がして。
「不安がる私に、言ってくれましたよね。傍にいるよ…って。
 遠くにいるみたいでも、でも、柚さん、言ってくれましたよね。傍に…傍にっ…!」
 とめどなく溢れる涙を堪え切れなくて、何度も目を拭う。
 柚さん。あなたのことを思って、どのくらいの涙を流したでしょう。
 でも、少しも恨んでなんかいません。
「…見つめあって、そして…柚さんは、そっと、キスしてくれましたよねっ…。」
 信じているから。
 今でも、あの温かい柚さん。
 優しいくちづけ。
 触れた瞬間、私は―――
「あなたに、惹かれて行ったんです…柚さん…。」
 言葉を紡ぐことで、柚さんに呼びかけると同時に、
 私自身、確かめたいのかもしれない。
 この、目の前にいる静かな女性への、深い愛情を。
 私と柚さんとの思い出は浅くて、少なくて。
 なのに、どんどん膨れていく想いが、時々怖くなる。
 だから、私は、確かめたいのかもしれない。
 柚さんは、私のように、深い愛情、もってくれるでしょうか?
 私の気持ち、重たいって言われちゃったら、どうしよう?
 ―――。
 それでも、いいです。うん。
 柚さんがいやがるなら、私は何もせず、ただそばにいて、柚さんの存在を確かめましょう。
 そばにいるのもいやならば、遠くにいてもいい。
 あなたが存在していれば、それで…。
 ………なーんて、そんな強がり。
「本当は、不安ですっ。」
 小さく言って、また涙が溢れて来る。
 私は… 
 私は、もっと柚さんと、触れ合いたい。
 柚さんと、たくさんたくさん、愛し合いたい。
 私は、それを、待っている―――。
 もしも、…もしも柚さんが目覚めないで、ずっとこのまま、眠ったままだって言われていたら、私は、どうしたんだろう?
 ―――どうしたんだろう。
 わからないけど…でも、こうして、眠ったままの柚さんのそばに居たのかもしれません。
 それから、自分が納得いったら、日本に帰ったのかもしれません。
 でも、今こうして眠っている柚さんは、目覚めるかもしれない、だから。
 だから、待っています。こうして、いつまでも、ずっと。
 ―――もしも、私の寿命が尽きるまで、あなたが目覚めないとしても、
 それでも私は、待っているでしょう。
 あなたが目覚めるのを、ただ、ひたすら待ち続けて、寿命が来たとしても。
 それでも構わない。
 あなたと共に生涯が尽きるのなら、それでもいい。
 でも、…でも、話がしたいっ…!!
 寄り添ったり、抱き合ったり、くちづけあったりしたい!
 …そうしたいから、待っているのでしょう。
 ねぇ、柚さん。
 柚さん。
「柚さんっ……」
 その口も、その瞳も、開かない―――
「ねぇ柚さん……目を覚まして下さい…!」
 何度も何度も投げかけた言葉。
 今日も、こうして投げかけて、柚さんが帰って来るのを待っている。
 …本当は、
 本当は、怖いのかもしれません。
 待てなく、なるかもしれない、そんな自分が―――
 だから、だから早く…
「柚さん…柚さんっ…!!」
 ………
 ……
 …


 ぎゅっ


 ……
 …!!?

 私の、涙に濡れた手に、触れた、それは
 ―――それは…!!

 私の、その腕を、握って
 微かな力で、握って

「柚…さん…?」

 私は、確かに動いたその手を、そっと、もう一方の手で包み、
 瞑ったままの目を、その静かな表情を、見つめる。

 一分…
 二分…

 時間が経っても、その瞳は開かず
 唇も動かず
 その手も、沈黙を守るまま、だった。

「柚さん。…ねぇ、柚さんっ!…お願い、お願いだから、目を開けて…。」

 その髪を撫でながら、
 私は懇願した。
 どうしたら、目を開けてくれますか?
 柚さん。柚さん…!

 私は静かに、閉じたままの唇に、くちづけた。

 くちづけたまま、じっとしていると、
 ふっと

 触れた唇が、動いたような、感覚が
 私を 


「…トーコ…。」 

 私の、名を…!

「柚さん!?…柚さんっ!!!」

 そう、顔を離すと、微かに開かれた唇。
 確かに、今、柚さんは、私の名前を―――

「…とう、こ…。」

 重い、重いまぶたが、静かに、持ち上がっていく。

「柚さん…!」

 焦点定まらぬ瞳が、揺れ、そして…

「…瞳子…。」

 私を、見る。
 それだけで、
 それだけで…

「柚さん…柚さんっ…!!」

「…あ、……ゴメ、ン…」

「え…!?」

 微かな声で、柚さんが言う。
 心なしか、その表情が、険しくなって、いる。

「医者、を…」

「え…!? 柚さん!?」

「……」

 一度は開き私を見たその目が、再び瞑られる。
 ―――医者?
 …医者!?

 そのまま傍に居たい気持ちを抑えて、私はベッドを離れ、廊下に飛び出していた。

「ジョンさん!!ジョンさん!!!早く!!ジョンさん!!誰か!!早く!!」

 ありったけの声で叫ぶと、間もなくして、ジョンさんが慌てた様子で駆けてきた。

「ジョンさん、柚さんが目を覚まして、でもっ…苦しそうなんです!お医者様を!!出来るだけ急いで下さい!!!」

「ウィ!」

 ジョンさんはしっかり頷き、廊下を駆けていった。
 ―――いいのよね。これで。

 私は一人小さく頷くと、柚さんの元に急いだ。

「…っ、は…」

「!」

 先ほどまで表情のなかったはずの柚さんは、今、眉を顰め、苦しみに満ちた表情で、ベッドに横たわっている。

 嬉しい―――?

 嬉しいはずがない。愛しい人が苦しむ姿なんて!!

「柚さん!頑張って下さい、今、お医者様を呼んでますから!柚さんっ…」

 不安で、怖くて、怖くて
 涙が止まらない。
 柚さんが、どうなってしまうのか、不安で―――!!!

「は、ぅ……」

 ふと、きゅっと瞑られた柚さんの瞳の淵から、雫が零れ落ちるのを、見た。

「柚さんっ…!」

 私は指先でそっと柚さんの、涙を、拭った。

「泣かないで…!」

 悲しいから。悲しくなるから。
 私だって泣いてるけど、でも…泣かないで…!

「…はぁっ…」

 苦しそうに、柚さんが息を吐いた。
 私は、何をすればいいの?
 ねぇ、柚さん。
 柚さんっ…!!





「柚さん…!」
 ―――――――――声が、遠くで、響く。
 私―――神泉柚―――は、再び遠のきそうな意識の中、戦って、いた。
 今、意識を失っては、いけない。
 瞳子が、そばに、いる。
 瞳子が、いてくれる。
 うれしい。うれしい。
 でも、今は、―――命が、何よりも、危険。
 トーコ、呼んで、いて。
 たたかえる、から。
 わたし、は…
 がんばる、から。
 瞳子。―――泣かない、で。





「こ、こっちです!」
 駆けつけたお医者様に、私―――棚次瞳子―――は、言う。
 フランス語でジョンさんにまくし立てながら、柚さんに駆け寄るお医者様。
「瞳子様、柚様が目ヲ覚マサレタは、イツ頃デスか。」
「え、あ、えっと、に、二十分!二十分ほど前です!」
 私が言うと、ジョンさんはフランス語でお医者様にそう伝えているようだった。
 私はお医者様の反対側に回って、柚さんを見つめた。
 先ほどからずっと、苦しそうに息をしながら、眉を顰めている。
 そんな柚さんの様子を見ていると、不安で不安で、涙が止まらない。
 お医者様は柚さんの胸元を開け、聴診器を当てる。
 点滴を外し、それから、目の瞳孔を見たり、それから、色んなことを調べ、
 ジョンさんに、大声で何か言う。
 あぁ、わからない。
 何を言っているの?
 ねぇ。柚さんは、柚さんは大丈夫なの?
 ねぇっ―――!
 ―――その時、お医者様が私を見て、指で「OKサイン」を作った。
 そう、あの時、タクシーの運転手さんがしたように。
 微笑んで、大丈夫だって、そう、言ってくれているみたいで―――!
 私は口元を手で抑え、頷いた。
 …わかりました。今は、今は信じます。
 だからお願いします。
 柚さんを、柚さんを助けて…!!
 ガチャン!
 音がして、部屋の入り口を見遣ると、タンカを担いだ二人の男性がベッドに駆け寄った。
 お医者様も手伝って、柚さんの細い身体は、そのタンカに乗せられる。
「柚さん…っ…」
 タンカで運ばれる柚さんを追った。
「瞳子様!」
 そんな私の傍を一緒に走るジョンさんが、
「私ハ、旦那様と、奥様を、ココ、でお待ち、シマス。柚様を、頼みマス。」
 そう、息を切らしながら言う。
「はい!」
 私は頷いて、運ばれる柚さんの後を追う。
 屋敷の外には、救急車とも言えない、小さな病院のワゴン車が止めてあった。
 後ろは寝かせられるようになっているみたいだが、救急車のように整った設備ではなかった。
 後ろのベッドに柚さんは寝かされ、身体を固定される。
 私は、後ろにある座席を指差され、そこに座った。
 すぐに、車は発車する。
 今は、この畑の広がる景色が悲しかった。早く、早く病院に…!!
「柚さん…!」
 苦しそうな柚さんに話し掛ける。
「柚さんっ…」
 話し掛けていないと、彼女は今にも、死んで、しまいそうなほどに、
 儚い―――。
「柚さん…お願い、死んじゃいやぁっ!!」
 私の呼びかけが聞こえているのかどうか、わからないけど、
 …私はそれでも、呼びかけ続けた。
 そうしないと、消えてしまいそうで、怖かった。





「死んじゃいやぁっ!!」
 ―――瞳子?
 …いけない、少し、意識が
 消えかけて、いた。
 わかる、この感じ。
 意識が消えると同時に、暗い闇に、突き落とされる
 もう、いやだ。
 あんな闇の中は、いや――。
 私―――神泉柚―――は、先ほどと変わらず、
 …いや、先ほど、よりも、更に良くない状況で、
 それでも、戦い続けて、いる。
 負けるわけには、いかない。
 そばに、いてくれる、瞳子の、ため、に…




 ガシャン!!
 扉が閉じて、上の、おそらく「手術室」であろうランプがついた。
 私―――棚次瞳子―――は、もう柚さんの傍にいることもできず、その扉の前で、立ち尽くしていた。
 柚さん。
 柚さん、お願いです。
 お願いだから、お願いだから、
 帰ってきて。
 もう一度私の傍に、帰ってきて、
 名前を、呼んで…!!
 柚さん。柚さん。柚さん―――!!!

 ―――お願いです。

 ―――お願いです。

 ―――お願いです。

 ―――お願い…!!

「もう…居なくならないで…。」
 そう、呟いた私を、撫でる手に、顔を上げた。
「お母様…お父様…。」
 大きなお父様と、私を撫でてくれたお母様の優しい顔を見て、私は、泣き崩れていた。
 柚さんに似た、あたたかい胸に抱かれて、私は、涙を流し続けていた。
 泣いてはいけないと、わかっていても、
 怖くて、怖くて…。
 柚さん……柚さんっ……!!

『……傍に、いるよ…』

『…瞳子…、……私は、此処にいるから…。…………傍に居てあげるから…。』

『逃げないよーに。』

『トーコのそばにいてあげたい。甘えさせてあげたい。…傷ついた心を、これ以上えぐりたくない』

『……トーコは、やっぱり甘えんぼだ。』

『…月がよく見えるから。』

『瞳子って…酒癖悪いよね…』

『………瞳子、笑うようになったね。』

『……あぁ…ごめん…瞳子の方が、手、あったかいや…』

『おはよう、瞳子。』

『………そう。すごく大切な話。』

『瞳子、私の目を見て。お願い。』

『酔った勢いで言った瞳子の言葉。…これは本物?』

『責任取ってあげる。』

『瞳子をここまで本気にさせたのは、私のせいでしょう?』

『……もし私がいなくなれば、瞳子は傷つくでしょう?』

『…だから、傍にいてあげる。瞳子の笑顔が絶対に絶えないように……』


『やっぱり私は 幸せになる資格が ないのかな?』

『でもね、やっぱりいやだ。トーコを置いて、消えるなんていやだ。』

『もうこれ以上トーコを傷つけるなんて できない。』

『生きているか 死んでいるか トーコと話が出来るかどうか わからないけれど』

『来て くれませんか?』

『もしトーコが私に会いたいと 言ってくれるのなら。』

『でもね 私は』

『私は瞳子のことを 愛しています。』

 ―――愛して…います。
 私は、柚さんが言った言葉、柚さんが綴った言葉の一つ一つを思い出し、
 改めて、胸に刻みつけていった。
 柚さんが、手紙の最後に記した言葉。
 愛しています。
 ―――柚さん。
 あなたの口から、その言葉が聞きたいです。
 ねぇ、柚さん。
 ずっと、ずっと会えなくて、私は、
 会えなかったはずなのに、それなのに、
 あなたをどんどん愛していった。
 会えなければ、会えないほど、
 切なさが募り 悲しみとなり、
 けれど、信じようとする想いが
 あなたへの愛に、なっていったのです。
 だから、…だから。
 私は、この愛と、あなたが抱いてくれている愛を、
 つなげたいんです。
 …祈っています。
 …信じています。
 あなたが私に、愛していると、言ってくれることを。
 待っています。
 愛するあなたを、ただ私は、
 待っています。
 柚さん…。





『………あ、……。』
 見覚えのある、この場所。
 私―――神泉柚―――は、悲嘆に暮れた。
 どうして、またここに、戻ってきてしまったのだろう。
 瞳子は、待っていてくれたのに。
 私の傍に来て、くれたのに。
 それなのに何故私は、私は。
 ……。
『瞳子…、っ、……瞳子…!!』
 悔しくて、悲しくて、私は、この、暗い場所で
 いつも、泣いていた。
 ずっと、泣いていた。
 ただ、瞳子のことを想って、
 想っては、
 泣いて、いた。
 一度だけ、この暗い場所に、来客があった。
 それは随分昔のような、つい最近のような、曖昧な時。
 姫野、さん。
 遊園地で、共に時間を過ごした彼女が、さまよっていたとき、私は、警告した。
 けれど彼女は、この暗い場所に、入ってきた。
 私は、少しだけ、彼女と話しをした。
 ほんの少しだけ。
 すぐに、彼女は、消えた。
 私にはわかった。彼女には、出口が、見えたんだって。
 私の出口はどこにあるのだろう、と、ずっと探していた。
 瞳子。
 瞳子のことを想って、泣きながら、探していた。
 信じていた、はずなのに
 いつしか、怖くて、不安で、
 …何も信じられなくなる時もあった。
 それでも、それでも信じて
 瞳子を、…ううん、皆を信じて、
 泣いても、泣いても、涙は枯れなかったけど、
 信じる思いは、いつも枯れそうになった。
 それでも、それでも信じて
 私は出口を探していた。
 ―――けれど、
 …私は、待つということを、しなかったような気がする。
 瞳子が探しに来てくれることを信じて、待っていた…?
 …いや。
 ―――私は、
 私はただ、がむしゃらに、一人で彷徨って、出口を探して、探して、探して
 …見つからず、泣いて、それでも、一人で、探していた。
 待つことなど―――思いつかなかった。
 私は、気づいたのだろうか。待つということに。
 だから、光が見えたのだろうか。そのことに気づく間もなく。
 じゃあ、今度は、待ってみよう。 瞳子。
 少しだけ手を差し伸べてもらえたら、うれしい。
 私は、その手を、―――強く握ろう。





 長い長い時間の終わりを告げるように、手術中のランプが消え、私―――棚次瞳子―――達は、座っていたベンチから立ち上がった。
 ギィ、と手術室の扉が開き、ワゴンに乗せられた柚さんが、出てきた。
「柚さん…!」
 その瞳は、その唇は閉ざされていたけれど、とても、優しい顔をしていた。
 お医者様はフランス語で何かを言う。
 それを聞いたお父様・お母様の表情は―――明るく、晴れた。
 笑顔で、涙を浮かべるお母様は、
「成功したって…」
 そう言った。
 ……良かった…
 ………良かった…
 …良かった…!
 柚さん、よく頑張りましたね。
 …お疲れ様。
 ありがとう。…ありがとう、柚さん!

 ――その後、柚さんは病院の一室に運ばれ、ベッドに移された。
「…瞳子、君が迎えてあげなさい。」
 お父様はそう仰った。
「そんな…でも」
 私の言葉を遮って、お父様は言った。
「誰よりも柚のことを待っていたのは、君だ。そしておそらく、柚が迎えて欲しいのも…君だろう。」
 お父様の瞳には涙が見えた。
 お父様だってお母様だって、待っていた。祈っていた。
 私の知らないところで、たくさん涙を流しただろう。
 でも、そう言ってくれた。
 …嬉しかった。

 ―――そして今。
 柚さんが静かに眠るベッドの傍で、私は立ったまま、ただ、その寝顔を見つめていた。
 今までよりも、ずっと、ずっと安らかな、優しい寝顔。
 私は、改めて、色んなことを想った。
 出逢い、惹かれ、触れ合い、そして、別れ、―――遠く離れても、それでも、愛していた。
 私は、ただ、それだけ。
 眠っている柚さんの傍で色んなことを考えたと思う。
 でもそれも、今は、もう、忘れた。
 私はここにいる柚さんを愛している。
 それだけでいいの。
 私は今、誰よりも愛する、恋人の柚さんと――― 共に在れる、こと。
 愛している。
 彼女を愛している。
 そして、おそらくは、彼女も私を
 愛してくれている。
 ねぇ、柚さん。
 ―――
 そっと、その長い髪をなぞった。
 何度も触れた、柔らかな頬をなぞった。
 何度もくちづけた、愛しい唇をなぞった。
 あぁ、柚さん。
 愛おしい、私の、恋人。
 静かに、その手を取り、柔らかく、握った。
 そして、呼んだ。
「柚さん…、柚さん…!」
 何度呼んでもいい、何度でも口にしたい、
 愛しい、その名を。


 ぎゅっ。


 ――――。
 私が緩く握ったその手が、
 私の手を、握り返す。
 ドクン、と、心臓が高鳴った。
「柚さん。」
 一つ、名を呼ぶ。
「柚さん。」
 もう一つ。
 そして、握られた手を握り返して、
 その顔を見つめた。
 静かに、
 開かれた、
 透明の、美しい瞳。
「柚さん。」
 呼ぶと、答えるように、その瞳は、私を捉える。
「柚さん。」
 すっかり枯れているのか、もう涙は出なかった。
 都合が良かった。
 クリアーな視界に映る、柚さんが、よく見えるから。
「柚さん。」
 呼ぶと、柚さんは優しく、笑ったように見えた。
 そして、小さく、
 でも、確かに、
 ―――呼んだ。

「瞳子。」

 ―――やっぱり、枯れるわけなんてなく、
 涙が、溢れた。
 
「柚さん。」

 その涙を拭うこともせず、ただ、名前を呼んだ。
 そして、握り合った手を、ぎゅっと、また握った。

「おかえりなさい、柚さん。」

 私の言葉に、頷くように
 柚さんは瞬きを一つして、そして、言った。

「ただいま…瞳子。」

 その愛しい声で、
 その愛しい唇で、

 私の言葉に、答えて、くれた。

「あぁ…柚さん…柚さんっ…。」

 嬉しくて、嬉しくて
 ただ、彼女がここにいる、それだけで、
 嬉しくて、嬉しくて。

「瞳子…来て、くれて……うれしい。」

 柚さんの言葉、一つ一つを噛み締め、頷く。
 うれしい?

「…私も、嬉しいです。…柚さんが、ここに、いるだけで。」

 そう言うと、握った手を、柚さんがまたきゅっと握り、
 そしてその表情には、微笑が、浮かんだ。
 …そう、そうだ。この微笑。
 すっかり忘れていた。大切な言葉。
 柚さん。柚さんを、柚さんの全てを。

「愛しています…。」

「愛してる…。」

 …ふっ、と、笑った。
 二人で、一緒に。
 二人で一緒に、愛を告げて、
 二人で一緒に、笑った。

 柚さんが、手を伸ばした。
 私の、頬に触れ、
 涙を、そっと、拭った。

 私も、手を伸ばした。
 柚さんの、頬に触れ、
 涙を、そっと、拭った。

 戻りかけた手が、触れ、
 私はまたその手で、柚さんの頬に触れた。
 不思議そうにしている柚さんに、顔を近づけ、

 そっと、くちづけた。

 唇だけ、触れ合わせて、じっとしていると、
 戻りかけた柚さんの手が、また、私の頬に触れた。

 それぞれの手を、互いの頬に触れさせて
 長い間、ただ、くちづけていた。

 愛しい、想い。
 唇の温度が、心の温度。
 それはとてもとても、あたたかい。
 言葉などなくても、
 分かり合える、温度。

 唇を離すと、

「…キス、上手く、なった?」

 と、柚さんが言う。

「な、何言ってるんですか…そんなわけ、ないです。」

 と、私が言う。

「そう。操は、守っていたのね。…えらい。」

 と、柚さんが言う。

「操って何ですかぁ…もうぅ…。」
 
 と、私が言う。

 ……そして、笑った。

 幸せを、心からの幸せを感じた。
 柚さんという、たった一人の人間に、
 私は振り回されて、
 沢山、泣いて、沢山、苦しかった
 けど、
 けれど、
 私は、信じていた。
 だから、今、此処に居て、
 たった一人の人間が、笑っただけで、話しただけで、
 果てしなく、大きな大きな、
 幸せを、感じた。
 嬉しい。
 嬉しい。
 …大好き。

 そう、それはまるで、幸せを感じ合うように、

 見つめあい、手を握り合ったまま、

 二人で、笑っていた。


 それはとても 幸福な時間だった。

 ずっとずっと続く、忘れ得ぬ、愛という―――幸福。












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