第十五話・その頃、日本では…





 チュンチュン。チュチュン。
 In Japan。
 此処は、都内の某大学。…いや、もうはっきり言ってしまおう。
 私立桜ヶ丘大学の入試試験会場。
 そう、私立だからまだ一月で受験シーズンじゃないだろ!って時に、既にその試験は始まっているのである。
 あたし―――岩崎安曇―――は、クリスマスも正月も関係なく、ひたすら猛勉強に励んでいた。
 そりゃ、瞳子さんからのSOSにはあたしも出動したかったに決まってる!
 ―――でも、だめ。そうやって自分を抑えることで、あたしはよりあたしという人間を高める!
 柚さんは昏睡状態にあるって、紀子さんから電話で聞いた。
 ほっとした。じゃあ、あとは目ぇ覚めるのを待ってるだけだね、って。
 あたしは、あたしは…今、することがある。
 瞳子さんが柚さんを待っていなくてはならないように、あたしはこの大学に受からなければならない!今までないほどに安曇ちゃん超本気モード。
 玲と…玲と同じ大学に受かって!大学の中で偶然会って、ビックリさせちゃうんだから!
 今日のために、血の滲むような努力をしてきた。
 そう、全ては玲のために…!!





「っくちゅん!」
 不意に、身体を襲った寒気に、ボク―――赤倉玲―――はクシャミをする。
「あら?大丈夫?身体、冷えてきたんじゃない?」
 そんなボクに優しく声を掛ける人。
 …ボクの恋人。
「大丈夫。寒さじゃなくて噂だよ。」
 と笑顔で返すと、彼女も微笑んでくれる。
 ―――まぁ、確かに寒いけど。
 布団の中とは言え、真っ裸では布団の隙間から入ってくる風が身体を冷やす。
 でも、こんな気だるい朝にゴソゴソと服を着込むのもめんどくさい。
 ぼ〜んやりとしていると、ふと学校のチャイムの音が聞こえた。
 此処は先生の研究室内の宿直室。チャイムが聞こえること自体はおかしくないのだが、
「あれ?なんで今日チャイム鳴ってるんだっけ?」
 ここは学校内なのでおかしくはないが、今日は大学はお休み中。
 休みの日はチャイムは鳴らないようになってるので、チャイムが聞こえるとどうも焦ってしまう。
「あぁ、これは入試用よ。」
「入試?あ、今日なんだ。」
「去年の今ごろ、受けてたんでしょ?」
「うん、でも一年も経つと忘れちゃうよ。」
 関係ないよね、入試なんて。
 現役大学生は、本日お休みだよ。
 恋人と同じ布団で寝てたって、誰も文句言えない、よね。
 ……ふあぁ、もう一眠り。





 ババババババババババババババ
「むむ〜これは怪しい!!っていうか大スクープの予感〜?
 偵察・諜報・スパイ行為はこのあたくし、戸谷紗理奈にお任せ〜ん★」
 チャラッチャラーチャッ!チャーチャーラチャー!(テーマソング)
 バシュッ!(半身身を乗り出して)
「今日はヘリコプターからこんにちは、なのだ★」
 あ、因みにこの「〜なのだ」口調。大ブームの予感★
 バ○ボンじゃなく、女の子ヴァージョンの「〜なのだ」口調として、あたし―――戸谷紗理奈―――が火付け役よーん★
 …え、何?低俗なゲームソフトのキャラクターの口調なんちゅー意見は容赦なく却下よ〜!
 何よ、なんか展開がギャグだとか言いたいワケ?
 フッ、だってこのあたし紗理奈ちゃんはギャグでしか生きられない女!
 それすら最近立って来た新しい設定だとかそういうツッコミも却下!
 初期は本当に舌ったらずロリ萌え系性格オンリーの予定だったなんてウソ・ウソ・ウッソぷー!
 最近はお涙頂戴系統で頑張ったからたまにはギャグに走ってみたくなった、ハイ、それー!
 紗理奈ちゃんのパパはお金持ちだから色んな無茶が通用するのだ!
 バババババババババババ
「というわけで、只今戸谷紗理奈19歳(フリーター(ぷー子ともいう))、私立桜ヶ丘大学の入試会場を上空から中継中なの、ですガッ!!」
 (そーそー一回“ガッ”でズームアップして、ゆっくり引いてってね〜。)
「ですがですがですがー!入試会場の受験生の出入りなんか見たって全然面白くないじゃん!ってことで、何気に大学の裏口とかぁ、教師用の駐車場とかぁ、そういうスキャンダラスィーなところをクローズアップしてたワ・ケ・★」
 (はい、容疑者の顔写真!赤倉と助教授よ〜!)
「すると!じゃん!なななんと期待にお応えしちゃって、そのスキャンダラスィ〜なスィーンを撮影しちゃったりしちゃったワケよ、これ!ハイ!」
 (ここで、裏口からコソコソ出てくる出てくる二人の動画をバッスィーン★)
「ほら〜見てみて〜これ見様によっちゃ〜手ぇ繋いでるよね?よね?よね?ほらもうこんな上空何メーターかしらねーけど超離れたとこからでもラブラブオーラばっすぃばっすぃ感じちゃうんだからこりゃもう決まりだよね?ね?…え〜まだこれじゃ納得できないぃ〜?キャハ、ダーリンのことだから、言うと思ってたぁ★はい、じゃあいくよ!バッチリ見てね!じゃん!」
 (ハイ、UPUPUP!!キススィーンが超ハッキリ見えちゃってるワケよぉ〜!!)
「キターーー!!!これはもう否定の仕様がないよね!!決まりだね!これがウボボ族の挨拶とかそういう言い訳は明らかに利かなーい!!いや〜ん、紗理奈キススィーンなんて初めて見ちゃったぁ〜てぇ〜れぇ〜るぅ〜〜〜★…ハンッ。」
 (あ、ここ繋ぎね〜安曇入れてあげて、安曇〜〜)
「あいはーい、まどーでもいいんだけどぉ、あのA・Iこと岩倉安曇ちゃん、この大学受けちゃったみたいよぉ〜こんなスキャンダラスィーな大学の何に惹かれたのか〜直撃インタビュ〜!はめんどくさいからぁ、本人が勝手に意気込んでるところを撮影させてもらっちゃいましたぁ。」
 (『安曇ちゃん、超本気モード!(ガスィン!ガスィン!ガコン・ウィー、ヂュッヂュッヂュッ。プィー!・効果音) そう、全ては玲のために…!!(メラメラメラメラ・効果音)』)
「…あら?あら?あらあらあらあらあら!?全ては玲のために、なんちゅーて、その全てを懸けたお人ならたった今裏口から助教授とラブラブモードで出て行きましたってんだ、こんちくしょぅ!きゃー!悲劇だね!いやもう寧ろ喜劇かもぉ?いや、なんつーか、安曇!その恋は多分成就しねーぜこんちくしょー!ま、大学に入れば新しい恋の一つや二つあるかもしれないのだ★(ま、こんだけフォローいれときゃ訴えないでしょ。) おおぉっと!お時間が来ちゃったみたいでぇす★ではベイベーまた来週!世界一ギャクに華を添える女★戸谷紗理奈でしたぁ〜ん★」





「…………。」
「………あ、……えっと、」
「朱雀ちゃん、こういうのには、フォロー入れなくていいからね。」
 ウィー。
 ビデオが自動的に巻き戻しになるなか、ここ、朱雀ちゃん宅では、妙〜に生ぬるい空気が流れているのでした。
 ガチョン。
 あたし―――悠祈紀子―――は、巻き戻しの終わったビデオを取り出すと、一瞬それをマンションのベランダから放り投げたい衝動に駆られたが、なんとかなんとか自制する。
「…なっ、なんぢゃこりゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!!」
 投げたい衝動は自制したが、叫びたい衝動は自制できなかった。
「あ、あ、あ、あ、あの、紀子さん、ここ、マンションなんで、あの、し、静かに…」
「はーっ、はーっ、ゴメンナサイ。っていうか、なによこのビデヲっ!!?」
「わ、私もよくわかりませんが…あの、合成とか、そういうのには、あんまり見えませんでした、よね?」
 朱雀ちゃんはなんだかちょっぴり赤くなって、とっても「見てはいけないものを見てしまった女の顔」をしていたりするわけで、あぁそんな朱雀たん、ハァハァ、とかそんなバカなこと言ってる場合じゃなく、どうでもいいけどあたしも紗理奈のテンション引き継いでない?気のせい?気のせいよね?気のせいだと言って!!!
 パンッ。
 混乱気味のあたしを見てか、朱雀ちゃんはその手を叩き、自分で叩いた音にびっくりしていた。何よこの子。天然入ってる?
「あ、あの、問題です!」
 朱雀ちゃんはワタワタしながら言った。何、天然入ってる?パート2。
「い、今のビデオは何でしょう!?
 1番・合成には見えないけど、合成!
 2番・現実には思いたくないけど、現実!」
 ……………(天然入ってる?パート3。)
「…2番…だと、思うん…だけど、あたし…。」
 ポツリと言うと、朱雀ちゃんも困惑した様子で、小さく頷いた。
 いや、問題にした意味ないだろ。天然入ってる?パート4。
 しばしの静寂。
 ………えっと。
「れ、玲ー!!?」
「じょ、助教授!?」
 ………ん?
「え?朱雀ちゃん、まさかあの助教授の女と知り合いとか?」
「え?いえ、全然。」
「なら… なんで名前叫ぶんじゃボケェー!!!」
 あたしに秘められた関西人の血が滾り、遂にあたしは朱雀ちゃんに鋭くつっこんでいた。
 はぁっ、はぁっ、はぁっ、つっこみって、気持ちエエなぁ!!(爽笑)
「う、…うぐ……、ご、ごめん…なさい…ぅぅ……。」
「あー!ごめん!ごめんなさい!私が悪ぅ御座いました!本当にごめんなさい!!」
 可愛い女の子の涙を見ると勝手に土下座する身体。
 誰か要らない?今なら紗理奈特別編集のスペシャル裏ビデオもおまけするけど。
 とりあえずあたしは、先ほど、寧ろ巴里編までは超真面目だったのに何故今こんな意味不明なテンションになっているかが知りたい。その情報とあたしの「可愛い女の子の涙を見(中略)土下座する身体」を誰か交換して頂戴。新しい身体もおまけしてくれると尚宜しい。
「あの、要約すると、紗理奈ちゃんのノリから紀子さんに持って来たのが、そもそもの間違いだというか…いえ、あの、正直な所、紀子さんは紗理奈ちゃん以上のギャグキャ…ギュッ」
「朱雀ちゃん、何言ってるのかなぁ★(ギュッ)」





「…それで、私が呼び出されたってワケ?」
「うん。暴走旋風にブレーキを。」
「はぁ…。」
 仕事帰りに紀子からの電話。紀子の誘いに、期待しなかったとは言えない。
 私―――松雪馨―――は、紀子の部屋に朱雀サンとユッコちゃんの姿を見た時、小さく落胆した。もういい加減、紀子に期待するのも止すべきなんだけど、未だになかなか気持ちの整理がつかない。
 『馨ちゃん、今夜会えないかな?…待ってるから。』なんて言われたら、そんな、ねぇ?
「で、あたしたちはもう見たんだけどぉ、馨ちゃんと、一応ユッコにも見てもらおっかなって思って。」
 紀子がそう言いながら、ビデオをデッキに挿入する。
「そのビデオって、昨日玄関先に置いてあった奴ですか…?」
「そうそう。新聞と一緒にあった謎のビデオ。」
 ユッコちゃんと紀子の会話に、私は怪訝な顔をする。何。何を言ってるの、この人たちは。
「あ、別に裏ビデオとかじゃな…、ん、裏ビデオかな?」
 紀子が首を傾げる。朱雀さんも小首を傾げている。……裏ビデオ?
「心配しなくても×××が△△△されて○○とか、そんなんじゃ…」
「そんな心配してないわよっ。」
 ひょうひょうと放送禁止用語を口にする紀子に、私は思わず大声で言い返していた。
「まぁ、とりあえず見てみて。」
 と、紀子は再生ボタンを押した。
 画面に映ったのは、
『ババババババババババババババ
「むむ〜これは怪しい!!っていうか大スクープの予感〜?』
 ……さ、紗理奈?
 ………。
 ………。
 ………。
 ………。
『―――来週!世界一ギャクに華を添える女★戸谷紗理奈でしたぁ〜ん★』 
 …ビデオは終わった。
 10分もなかったと思うのだが、やけに長く感じたのは―――
「…玲が…助教授と…?」
 紀子を見る。
「…うーん、合成とか、そんなんには見えないよね?」
 紀子も困った様子で言う。
 ……部屋に流れる沈黙。
「って、大問題じゃない!!」
 私は言った。紀子と朱雀さんは顔を見合わせて、小さく頷く。
 ユッコちゃんだけは、安曇や玲のことを知らないので不思議そうな顔をしているが、
「あ、あの安曇ちゃんって子、可哀想ですよね…?」
 とポツリと言った。そうよ、その通りよ。あのバカ娘は喜劇とか言ってたけれど、悲劇なのよこれは。お昼のメロドラマなんかにありがちな悲劇なのよっ。
「どうするのよ!?あんな頑張って大学を受験して、もし受かったりして、それで感動の再会と思いきや恋人が居ました!?しかも年上の女です?在り得ない!青春ドラマにあってはならない展開よ、それは!!」
「…馨ちゃん、もしかしてドラマ好き?」
「そんなのどうでもいいでしょう!ええ、好きよ、悪い?初々しい恋愛なんて出来ない私は、青春ドラマとか大好きよ!不倫の恋の何が悪いのよ、メロドラマだって嫌いじゃないわよっ。」
 私は一気にまくしたてた後、皆の注目を買っていることに気づく。
「―――コホン。とにかく、このビデオ、安曇ちゃんには絶対見せないよう」
「えっ…?」
 私の言葉に、紀子がはっと顔をあげる。
「…紗理奈のことだから、やりかねん!」
 紀子は慌てて携帯を取り出し、電話を掛ける。
「どういうこと?」
「いや、このビデオ、一本だけじゃ、ないのかも……あ、もしもし?」
 一本だけじゃない?紗理奈のことだから?
 …それって、まさか。
「紗理奈?あのビデオ!……何が良かったでしょ?よ!あのビデオ、あたしの他には配ってないでしょうね!?……え?あと四本!?誰よ!!」
 四本!?
 …ってことは…?
「全部で五本で?で、何、あたしと、荊ちゃんとこと?夕んとこ?…はぁ?病院?バッカじゃないの!?…で?あと一本は?まさか瞳子に送ったとか?」
 ―――そ、それならまだ…。
「…え?今見てた?何、あと一本は紗理奈の手元にあるわけ?」
 と電話をしている紀子、…不意に、その顔から血の気が引いた。
「………嘘、でしょ?」
 …え?
「………あ、安曇ちゃんと、見てる?…い、今ぁ!?…即座に止めなさぁーーーい!!!」
 ――――――遅かった。
 わなわなと身体を震わせながら、紀子は電話を切った。
 ズーン…と、暗いオーラが紀子から発せられる。
 と、その時。
 ピーピ〜ピ〜ピ〜リリリ〜♪
 …鳴りだしたのは、紀子がその手にしている携帯電話である。
 着信メロディが昔の名曲ラブソングだったのは少し意外だった。
「……ぅゎ。」
 紀子は携帯の画面を見て、小さくうめいた。
「安曇ちゃんから…」
 小さく呟いて、紀子は電話に出る。
 あぁ…見てられない…。





『あ…紀子さん…?』
 電話の向こうから聞こえる、安曇ちゃんの声。
 事情を知っているだけに、その声のかすかな震えが痛かった。
「う、うん。…あの、紗理奈、いるんでしょ?」
 あたし―――悠祈紀子―――はなるべく言葉を選んで、言う。
 やっぱりここは本題から外しとくべき…。
『玲、大学の助教授と付き合ってるんだ…』
 ……。
 ど、どーしよー…。
「あ、あの、安曇ちゃん、…なんて、いうか…」
『紀子さんも、あのビデオ見たんでしょ…?』
「う、うん…」
 こういう時に限って、朱雀も馨もユッコもあたしから目を逸らす!バカー!
『あたし、超頑張って勉強して、入試の手ごたえとかバッチリだったのに…一人ではしゃいじゃって、バカみたい…。』 
 ……。
「安曇、ちゃん?…今でも、玲のこと、好きなんだ?」
 ぽつりぽつりと、呟く彼女の声は、恋する女の子の、悲しみの、声。
『…見ての通り。玲のために、クリスマスもお正月も何も無しで、勉強に明け暮れてたんだよ。本当に人生の中で一番頑張ったのに、あたし……あたしっ…。』
「そ、そんな、気を落とさないでよ?奪い返しちゃえばいいじゃない?ね?」
 あたしの声を聴いているのかいないのか、安曇ちゃんはしばし沈黙した。
 ど、どうしよう…ものすごく、落ち込んでる、よね…?
 そう思った、が…
『ふ…ふっ…ふ、ふふふふ……』
 電話の向こうから、含み笑いのような、声が…聞こえる。
「あ、安曇ちゃん?」
『………復讐、してやる★』
 ―――へ?
 今、何て…?
『決めた!あたし、あの助教授の女に復讐しちゃう。っていうか殺――』
「…え?」
『あ――。あ、い、いい。大丈夫。大丈夫だよ。あのくらいで凹んだりしないよ。だってあの頃だって、玲はあたしのことなんかちっとも見てなかったもん。紀子さんのことしか…見てなかった!』
「―――え?」
 …何、それ?
『いいもん。あたし、力ずくで、…力ずくで、玲を手に入れてみせるから。』
 プツッ――
 電話が切れても、携帯を、耳から話せなかった。
 安曇ちゃん、何言ってるの…?
 『紀子さんのことしか…見てなかった!』
 …あたし!?
 ……玲は…あたしを……?
 遠い日のことに思いを馳せる。
 あたし、確か、玲に誘導尋問したんだ。
『その好きな人ってさ。…この十四人の中にいる?』→Yes
『なんかこう、誰かと仲いいから怪しい〜っみたいなのは?』→皆と仲良し
『ねぇ、その人って可愛い??』→Yes
『ねね、その人って明るい感じ??』→Yes
『ねね、その人って天然?』→No
 この全部に当てはまるのは、安曇ちゃんだけだと思ってた。
 けど、けど…!
 皆と仲良しで、超可愛くて、明るく元気で、決して天然ではない……あたし。
 …うっそー…!?
「 りこっ? …ちょっと、紀子?聞いてる?」
 ―――あ?
「あ、な、何?ごめん、ぼーっとしてた。」
 馨ちゃんの声に、我に返る。
「ね、何よ、安曇ちゃん、何て言ってたの?」
「あ、あぁ――。」
 あたし、のことじゃなくて……あぁ、そう、助教授の女のこと。
「復讐…してやる、って…。」
「え…?」 
「力ずくで、玲を手に入れるって…、…殺す、って…?」
「は…?ちょ、ちょっと、何それ!?」
 あたしが最後にポツリと零した言葉は、皆を動揺させるには事足りた。
 でも…言いかけた、よね、安曇ちゃん。
 確かに。
「…や、ヤバイかも…!?」





『紗理奈?バカ紗理奈ー!?』
 携帯の向こうから聞こえるバカでかい声に、あたし―――戸谷紗理奈―――は思わず耳を塞ぐ。紀子さん、今何気にバカって言った…まぁいいけど。
「そんな大声出さなくても聞こえてるって!…何よっ?」
 此処は、A・Iこと岩崎安曇嬢の自室。あたしの部屋とは比べ物になんないくらい狭くて、同じ部屋にいる人物に聞こえないように会話するなど、とても不可能なことだった。
『今、まだ安曇の部屋にいるの?』
「うん、まぁね。ビデオがなかなかに好評で――」
 と、二度目のビデオ再生に、テレビに釘付けになる安曇を見遣る。
 …なんて、洒落言ってる場合じゃないのはなんとなくわかってる。
 さっき、紀子さんとこにかけた電話、あたしも聞いていた。
 『復讐してやる★』なんてほざいてた時の安曇の笑顔は、かなりヤバかった。
 本当に、助教授の女一匹くらい仕留めちゃうぞって感じで…。
『…大丈夫そう?安曇ちゃん、なんかヤバくない?』
「あー…うん、まぁね、ヤバいかもね。」
『ちょっと、しっかりしてよ。こんなビデオ見せたあんたに責任あるんだからね?』
「わかってます。……ちょっと後悔してるよ。」
『紗理奈、今晩安曇ちゃん家に泊まったり出来ない?』
「え?……あたしは大丈夫だけど、安曇は…?」
『聴いてみっ。』
 話しているうちに再生し終えたのだろう、ビデオを巻き戻す安曇に声をかける。
「あのさ、今日泊まっていいかな?」
「え?…あー、別に構わないけど?…明日、学校あるけど、別にいい?」
「う、うん。ありがと。」
 安曇はビデオを見せた後、どうもぼんやりしているようで、心配気味。
 …ふぅ、責任果たさなきゃなぁ。
「ってわけだから。」
 今の会話は聞こえていたであろう紀子さんに言う。
『…そう。…安曇ちゃんのこと、頼むわよ?』
「あいはい…頑張ります…じゃあね。」
『うん…また。』
 電話を切ったあたしを、安曇が眺めている。
 じーっと…
「な、何かな?」
 凝視されても困るので、あたしは尋ねた。
「あのさ、紗理奈。…泊めるから、そのかわり、…教えて欲しいことがあるんだけど、いい?」
「へ?あ、あぁ、いいよ、別に。あたしがわかることなら。」
「うん――じゃ、ご飯、大目に作ってもらうよう、お母さんに言ってくる。たまには、庶民の夕飯もいいでしょ?」
「ご、ごめんね、お世話かけて。」
「いえいえ。」
 安曇は薄く笑って、一軒家の二階にある安曇の部屋を出て、下へ降りてった。
「…はうぅー。」
 あたしは小さくため息をつく。
 …教えて欲しいこと?…何だろう??





 今夜は夕飯、うちで食べていきなよ。…という紀子の言葉に、私―――松雪馨―――は素直に甘えることにした。27にもなって一人で台所に立っていると淋しくもなるものだ。
 たまには、誰かの家で、皆で食卓を囲むのも悪くない。
「じゃあ、作って来ますね。馨さんは、好き嫌いとかないですか?」
 ユッコちゃんの言葉に首を振ると、彼女はニッコリと笑んで部屋を出て行った。
「あ、私もお手伝いしてきていいですか?」
 朱雀サンの言葉に、思わず目が光る。そうしてくれるとありがたい。
「うん、ユッコ朱雀コンビの料理なら美味しいだろうな〜♪」
「あはは、じゃあ、いってきます。」
 望み通り、朱雀サンも部屋を出て行く。
 ―――望み通り、か。
 …さっきも思ったにな、紀子に期待すべきじゃないって。わかってるんだけど…。
「きゃ〜、馨ちゃんと二人っきり!? 襲わちゃったらどーしよっ!」
「…それはこっちの台詞よ。」
 ああいうこと紀子が言うから、私は―――
 ……。
 ビデオデッキに入れてあるビデオを取り出す紀子の後姿を眺めながら、私は思った。
 そうよ…あんなこと言う紀子が…悪いのよ…。
「え…? 馨ちゃん?」
 私は、紀子を後ろから抱きしめていた。
 驚いたように振り向こうとする紀子を、更に強く、つよく、抱きしめる。
「…どうしたの?馨ちゃん、なんか変だよ?」
「変にさせたのは、紀子でしょ?」
「え――?」
 本人に、罪の意識があるわけがないって、そんなことわかってる。
 紀子のそういう発言の殆どが冗談なんだって。
 わかってる、わかってるけど―――。
「……私、変よね。自分でも、おかしいなって、思うの、思うんだけど…。」
「…馨ちゃん…?」
「私、まだ…今でも、紀子のこと、好きなのかも。」
「え?…あ、あたしのこと?まだって、え?前も好きだったの?」
「…知らなかった?」
「あ、当たり前だよ、馨ちゃんは大人の女〜って感じで、こんなあたしを相手にしてくれるような人じゃ…」
 “こんなあたし”?
 紀子の言葉に、私は小さく笑った。
 誰よりも慕われて、誰よりもモテモテで、誰よりも愛されて。
 こんなに魅力的なのに、本人は気づいていないの?
 それとも、気づいていないふりをしているだけなの?
「気づいてくれてもいいと思うな。その大人の女が、勇気を出してクリスマスイヴに誘ったのに。」
「あ…、で、でも、偶然予定がなかった、とか、そんなんだと…」
「紀子が居なかったから、他にだっていくらでも一緒に過ごす相手くらいいるわよ。……いるわよ、そのくらい…。」
「馨、ちゃん…ご、ごめん…。」
 困惑した様子で、小さくそう漏らす紀子が、やけに可愛かった。
「…ね、覚えてる?ラブホで再会して、それから―――」
「…うん…覚えてるよ…。…あんな屈辱、初めてだもん。」
「でも、言ったわよね?……」
「…馨ちゃんの奴隷になります、宣言。」
 ―――覚えてて、くれたんだ。嬉しい。
「まだ、有効?」
 私は、紀子の耳元で囁くように言った。
「……あの、ね?」
 後ろから抱く私を、振り向いて見上げ、少し潤んだ瞳で紀子は言う。
 その表情に、ゾクゾクする。
「あたしはもう、…遊びでしか、エッチができなくなってしまいました。」
「え…?なに、それ?」
「…馨ちゃんと、遊びじゃないエッチは出来ないのです…。」
 改まった口調と、その内容に私は呆気に取られるが、少しして、吹き出した。
「そ、それって…遊びならOKってことよね?」
「うん、そうなりますです…。」
「じゃあいいじゃない。…紀子は遊びでもいいわ。それでも、私は…」
 言いかけて、やめた。
 もう、言葉なんて野暮なものは要らない。
 紀子の頬に手を当て、私の方を向かせる。すっと紀子が目を閉じるのを見て、私は微笑んだ。
 なんて可愛いの。なんて…罪な子。
 2LDKの同じ家の中に、「コイビト」がいるはずなのに、その女の子の目の届かない場所で、年上の女のキスを待つ、この表情。ゾクゾクする。見ているだけで…濡れてきそうよ。
 紀子とそっと唇を重ね、その小さな頭を緩く抱いた。
「…は、…ン…。」
 紀子の躊躇いを感じながらも、私は強引に、その唇を割って、舌を忍ばせる。
 されるままになっていた紀子も少しすると、諦めたのか、やる気になったのかわからないが、その柔らかい舌を動かし、私の唇に触れる。
「…煙草臭いでしょ?ごめんね。」
 キスをやめて囁くと、
「うう、ん…」
 紀子は小さく笑んで、首を横に振る。
 …可愛い。ずっと、ずっとこのまま……。
 トン
 廊下の方から、足音が聞こえた。
「ン…!」
 身を離そうとする紀子を、私は離さなかった。
「馨ちゃ、……!」
 罪な子には、罰を与えなくちゃね。
 私は紀子に、更なるキスを重ねた。彼女はそれを嫌がる。足音が近づいてくる。
 でも、止めてあげない。
 コンコン、とノックの音。
「やっ…!」
 その瞬間、紀子は私を突き飛ばした。
「っ!」
 ガシャン、と音を立てて、テーブルに背中がぶつかる。
 扉が開いて、顔を出したのはユッコちゃんだった。
「あ?…だ、大丈夫ですか?」
 彼女は私の肩を支え、それからテーブルの零れたコーヒーをティッシュで拭く。
 中身の零れたコーヒーカップを持って、「布巾もって来ますね」といって彼女は姿を消した。
「…ご、ごめんなさい、馨ちゃん…。」
 紀子が申し訳なさそうな表情で、俯いていた。
 私は小さく息を吐いて、言った。
「…恋人にバレるのが、そんなに怖い?」
「……ご、ごめん…」
「………。」
 悲しかった。
 彼女の恋人に対する気遣いが。
 …悲しくて、苦しかった。
 今でも唇に残る彼女のぬくもりが、私じゃない誰かのものだということが、
 悲しくて…。
「―――こちらこそ、ごめんなさい。無理矢理、しちゃって。」
 私は微笑して、立ち上がった。
 彼女に背を向け、テーブルの上で転がったコーヒーカップを重ねながら、唇を噛んだ。
 『遊びじゃだめなの。』。
 『奪い去ってやりたい』。
 『紀子を…私のものに…』。
 ―――そんな、醜い感情に、泣きたくなった。





「ごちそうさまでした!美味しかったです!」
 紗理奈がそう言って、お茶碗を重ねて台所に持っていく。
 あたし―――岩崎安曇―――のお母さんが、洗い物をしながら、嬉しそうにしていた。
「これ、洗いますね。えっと」
「あら、いいのよ。置いておいて。」
「あ。すみません、ごちそうさまでした。」
 意外にしっかりしている紗理奈の礼儀に、あたしは少し驚いていた。
 先に食べ終わっていたあたしが、紗理奈を促して二階に上がる。
「…結構、しっかりしてるんだ?」
「え?何が?」
 あたしの言葉に、紗理奈は不思議そうに言う。
「れーぎさほう。庶民の食事なんて美味しくなかっただろうに。」
「何言ってんの。お嬢様だからこそ礼儀作法はうるさくしつけられてるんだよ。」
「ほーぅ。そうは見えなかったけどね〜意外だな〜。」
 からかうように言うと、後ろから階段を上がってくる紗理奈に背中を殴られる。
「全く、お嬢様を甘く見るなよっ。…第一、庶民の食卓というわりには、豪勢だったのだ。」
「あぁ…今日、誕生日だから。」
「え?誰の?」
「…誰でもいいじゃん。」
 あたしは小さく肩を竦めつつ、自室の扉を開いた。
 電気を付けて、ベッドに座る。
「で…寝るまで何すんの?」
 あたしが紗理奈に言うと、「さ〜?」と首を傾げる。
 泊まりたいとか言ってきておいて、何だそりゃ。
 ―――まぁ、別に好きで泊まってるわけじゃ、ないんだろうけど。
「あ、そうそう、安曇さ、何か教えて欲しいとか言ってたじゃん。あれ、何?」
「う〜ん…」
 紗理奈の言葉に小さくうめいて、窓の外を見た。けれど、外は暗く、見えるのは不思議そうにあたしを眺める紗理奈の顔とか、そんな部屋の中の光景だった。
「…なんだよぅ。」
 紗理奈がぼやく。
「…紗理奈って、…経験とか、豊富?」
「へ?何が?」
 窓ガラス越しに、紗理奈を見て、言う。紗理奈は怪訝な顔をした。
「だからさ、…エッチとか。」
 あたしは、直接紗理奈を見遣って、言った。…少し照れる。
「あ、なになに〜安曇ちゃん、そういうのに興味あるんだ〜?」
 茶化すように言う紗理奈に、
「真面目に聞いてるのっ。」
 と頬を膨らませて言う。
 紗理奈は小さく笑って、あたしの隣に座ると、あごのところに手をやって、
「そうだねぇ〜経験、あると言えばあるし、ないと言えばないかなぁ〜」
 と、中途半端な答えを返す。
「何それ?」
 尋ねるあたしに、
「男とはないけど、女となら結構ある、ってこと。」
 と、紗理奈はあっけらかんと答える。…え?
「…それ、おかしくない?」
「まぁね。…いいじゃん別に、ほら、荊ちゃんたちだって、瞳子ちゃんたちだってそうじゃん。別におかしくなんかないんだよ。全然。…第一あーた、安曇だって玲にお熱じゃんよ!」
 ビシッとつっこまれ、納得せざるをえなかった。
「…まぁ、そうなんだよね。玲って女なんだよね、時々忘れる…。」
 あたしが呟くと、紗理奈はケタケタと笑って同意していた。
「で?何、まさか直々に手取り足取りレッスンして欲しいとか言わないよね?」
 紗理奈の言葉に、思わず赤くなる。
「なっ、なわけないじゃん。さ、紗理奈なんかとしたくない、っていうか、あたし初めてだし…」
「…うそ、なに、ハツモノ!?」
「ハツモノって、おやじみたいに言うな!」
「きゃ〜安曇ちゃん、売れるよ〜!絶対!」
「売れるって何処に!?」
「そりゃ闇市場…あぁっと、これはご法度だった。」
 紗理奈はわざとらしく口のところに手をあてる。なに、闇市場って…。
 ケタケタと笑っていた紗理奈は、ふっと、ちょっと優しげな笑みを浮かべ、言う。
「で?…何が聞きたい?答えられることなら、答えてあげるよ?」
 う…こんな表情されると、聞きにくいんだけど…。
 ………でも、こんな機会じゃないと聞けないよね。
 あたし…やんなきゃ…。
「あの、…、、……“襲う”時って…どうすんの?」
「………は?」
 あたしの言葉に、紗理奈は目を点にした。
「ゆっ…許せない女を、殺してやりたいくらい憎い女を、襲うときとかって…!」
「あ、安曇…?」
「ねぇ、教えてよ!」
 あたしは紗理奈の腕をぐいっと掴んで、言った。
「あ…」
 紗理奈が何か言おうとした時、
「安曇ー?」
 と、お母さんの声がする。
 ちょっとビックリしつつ、部屋を出ると、
「はい、これ。紗理奈ちゃんと一緒に。」
 …と、階段を上ってきたところのお母さんに、お盆にのったケーキとコーヒーを差し出された。
「あ…ありがと…。」
 あたしはそれを受け取り、部屋に戻りながら思う。タイミング悪いなぁ。
 部屋に戻って、ベッドに座っていたはずの紗理奈の姿がないことに気づく。
 ん?不審に思いながらも、あたしはケーキとコーヒーの乗ったお盆を勉強机の上に置いた。
 刹那―――
「…!?」
 あたしの両手は後ろから掴まれ、そして気づけば、後ろで縛られていた。
「さ、紗理奈…!?」 
 身体の大きさはあたしと大差ないような、二つ…いや、一つ年上の女は、あたしの身体をベッドに投げ遣った。
 あたしを見下ろす紗理奈の表情は…冷たい。
「…誕生日って、安曇のことだったんだ?」
「…う、…そう、だけど、…それより…っ!!」
 紗理奈はすっとあたしに近づくと、その手をあたしの口元に押しやった。
「あんまり大きな声出さないの。」
 と唇に指を一本当てて微笑み、次の瞬間、あたしの口の中にティッシュペーパーを押し込んだ。
「んぐ…!」
 吐き出そうとすると、紗理奈は更に、口元にガムテープを貼り付けた。
 後ろで手をくくってあるのは、おそらくあたしのベルト。
 全部、あたしの部屋にあったもので、あたしは自由を奪われる。
「ついでに。」
 と、紗理奈は布製のベルトを、あたしの目元に巻きつけた。
「……うん、いい様よ。」
 紗理奈は嬉しそうな声で言う。
 あたしは視界の自由さえも奪われ、紗理奈の姿すらも見えない。
 ツツ…と首筋に触れる感触に、あたしはビクリと身体を震わせた。
「目隠しされてると、怖いでしょ?次、どこを触られるのかなって…。怖いけど、興奮するでしょ?」
 紗理奈が耳元で囁く。…紗理奈の言うとおりだった。突然のことで意味わかんなくて、怖くて、でも…ゾクゾク、する。
 スカートから伸びた太股、頬、首筋、短いTシャツが覆いきれていなかった腹部――
 あたしは身体の色んなところを、紗理奈の指でなぞられて、それだけで、たったそれだけで、あたしは―――
「…とまぁ、こんな感じかな★ 紗理奈ちゃんの、レイプ基礎編、おしまい★」
 突然聞こえた明るい声に、あたしは呆気に取られる。
 な、なにそれ…。
 やがて紗理奈は、口の自由を奪うガムテームと、詰められたティッシュを外して、言った。
「……どうする?」
 と。囁くように、誘いかける、ように…。
 口の自由が与えられても、あたしは何も言えず、沈黙した。
「どうしたの?安曇ぃ?」
 不思議そうに言う紗理奈の声。それが、どこかわざとらしいようにも聞こえる。
「安曇、外してほしいならそう言えばいいのよ。……それとも、まだして欲しい?」
 ドクン。
 心臓が脈打つ。外して…ほしい?…まだ、…欲し…?
「言いなさい。」
 紗理奈が囁く。命令のように。――あたしは…。
「…し、て…ほし、…。もっと……」
 顔から火が出そうなくらい、熱い。
 声が、上手く出ない。
「なぁに?」
 紗理奈の楽しそうな声が、あたしを辱める。
「…もっと、して…、…ねぇ、紗理奈…お願い…。」
「…なにをしてほしいのかな?安曇ちゃん。」
 …意地悪な紗理奈。
 あぁ、あたしは今、そんな紗理奈を……
 ――求めてる。
「…紗理奈…、…して、……、…あたしを、レイプして…っ…!」
 そう言った瞬間、唇に何かが押し当てられた。
 ティッシュでも、ガムテープでもない。
 それは、やわらかくて温かいもの。…唇。
 はぁっ、…って、熱い吐息が、あたしに今くちづけている人から、漏れた。
「安曇…、……すごく、カワイイ…。」
 あたし以上に息の荒い、甘い声は、囁いた。
 あぁ、堕ちていく…堕ちて、行く…。





 “夕ちゃん”宛で、玄関に転がっていたビデオを見終え、感想を一言。
「…なんじゃこりゃ?」
 あたし―――棚次夕子―――は、この一言で全てを完結させた。
 別に完結させても問題ないはず。
 寧ろ関わらせないで欲しい。
「うん。」
 一人納得し、ビデオを取り出して自室に戻る途中。
 ♪プルルルル
 家の電話が鳴る。基本的に家の電話には出たくないのだが、最近はお姉ちゃんからの電話の可能性を期待して、ちょくちょく出るようにしている。
「はい、棚次です。」
『あ…瞳子です、夕だよね?』
「お姉ちゃん!」
 久しぶりに聞く姉の声。あたしは思わず笑顔になっていた。
 いつも一つ屋根の下で、時にはうざったく感じることすらあったけど、あたしはお姉ちゃんっ子で、なんだかんだ言って、お姉ちゃんが大好きなんだ。こうして会えなくなって、ますますそう感じる。
『夕、元気?変わったこととか、ない?』
「うん、あたしは元気。変わったことも―――」
 一瞬、たった今見たばかりのビデオが浮かぶが、いや、あれもきっと他愛のない日常の一つだろう。うん、そうであると信じたい。
「――ないよ、別に。相変わらず。」
『そっかぁ。こっちも特に。柚さんもまだ眠ったままで――あ、しいて言えば、私がこっちに馴染んできちゃってること、かな?』
 お姉ちゃんの言葉に少し笑ったけど、少し淋しかった。でも口にはしなかった。わかってるよね、お姉ちゃん。お姉ちゃんは、棚次家の長女だよ、って。
「そっか。じゃあ、まだしばらくそっちに?」
『…うん、大学始まっちゃったね。でも、私帰れないから。……お母さんに代わってくれるかな?』
「うん。じゃ、待ってて。」
 …嬉しかった。お姉ちゃん、少しも迷わずに言ったね。「帰れない」って。
 もう、覚悟できちゃってるんだね、柚が目を覚ますまでは、絶対帰らないって。
 …あたしはそんなお姉ちゃんを持って、嬉しいよ。
「お母さん、お姉ちゃんから電話。」
 あたしがそう伝えると、お母さんはいつもと少し違う顔で、電話に向かった。
 嬉しそうだった。
 あたしは自室の二階に戻りながら、お母さんも、なんだかんだで心配なんだろうな、とか思ってた。うちの電話は階段から降りたとこにあるので、その声がよく聞こえる。
 お母さんの言葉に、あたしはふと、足をとめた。
「―――瞳子のしたいように、しなさい。瞳子がそこに居るべきなら、居てもいいわ。もうお姉ちゃんは、大人だものね。」
 …お母さん。
 今まではずっと、早く帰ってきなさいとか、迷惑かけないようにとか、そんなことしか言ってなかったのに。……わかってくれたんだね。
「ええ、元気でね。じゃあ、またね。うん。」
 お母さんは電話を切って、少し黙っていた。
 あたしは止めていた足を、静かに動かして、二階に上がる。
「…っ…」
 …お母さんの泣き声。
 わかる。わかってる。家族が一人居ないっていうことが、どんなに淋しいか。
 あたしだって、お姉ちゃんのこと、すごく心配。
 でも今は信じてる。
 信じて、待ってる―――。








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