第十四話・白い女、フランスの地





「…行っちゃったのかぁ。」
 あたし―――悠祈紀子―――達、当作戦本部に連絡が入ったのは、瞳子ちゃんがパリに発った数時間後のことだった。
「う…、うぅっ…。」
 ここに来て、その報告をしてからずっと、夕は泣きじゃくっている。
 嬉しくも、淋しくもあるんだろう。
 先ほど家に戻ってきたばっかりの荊ちゃんも含め、現在本部に9名。
 病院支部の二名。本作戦には参加出来なかった安曇ちゃんと玲。
 そして、柚ちゃんの元へと向かった瞳子ちゃん。
 柚捜索隊は、任務完了という素晴らしい結果を収め、解散となった。
 …いや。
 我々柚捜索隊は十四名で終わるものではなく、柚を加入させ、15名になった時点で、ようやく解散が許されるのだ。
 ―――無事でいてよ。柚。瞳子ちゃんを悲しませないでよ。



「…泣くな、バカぁ。」
 夕が泣きじゃくっているのを見てると、あたし―――戸谷紗理奈―――まで、なんか泣きたくなる。別にあたしのパパの情報網が大して役に立たなかったことは気にしてないんだけど、なんでか知らないけど、無性に泣きたいっていうか、わけわかんなくて…!!
 ……。
 …怖いのかな、あたし。
 柚が、元気なのか、どうか。
 あたしまだ、大切な人を失ったことって、一度もないから、
 だから、余計怖くて……。
 お願いだよ柚…元気で居てよ…!!!



「…泣いても、いいよ。」
 俯いて震えている紗理奈を、私―――嶺夜衣子―――はそっと抱き寄せた。
「あ…、夜衣子…?」
「我慢、しなくていいと思うな。私だって、わかんないけど、なんか、泣きたいもん。」
 そう言いながら、涙が滲んできて、なんだか切なくて、紗理奈に抱きついていた。
「………夜衣子。お前が泣いたら、紗理奈が泣けないのだ。」
 紗理奈は少し膨れた様子で言って、手の甲で目の端を拭った。
「じゃ、交代。」
 私は言って、紗理奈を抱き寄せた。



「…ねぇ、梨花?」
「ん?」
 少し甘え猫の混じった口調で話し掛けてきた花月に、私―――荊梨花―――は、今日くらい大目に見るか、という覚悟で返事をした。
「…私たち、幸せよね。」
 しかし花月の言葉は、そんな、たった一言の、確認で終わった。
 …いや、これこそが、今の私たちが何よりも大切にしなければいけないものなのかもしれない。
「そうね。…幸せだわ。」
 ―――此処が悠祈邸ではなかったら、軽くキスの一つでも交わすところだが、残念ながら――
 って、私、最近考えが大胆になって来てる気がする。花月が移ったかぁ?



 梨花が優しい笑顔で答えてくれた。頷いてくれた。それだけで十分―――。
 などと私―――名村花月―――は考えて、ふと思い返した。
 まぁ十分と言えば十分だけど、こういうシーンはやっぱりキスの一つや二つ欲しいわよねぇ。
 ここが紀子サンの家じゃなかったら良かったのにぃ。残念。
 ―――なんて、クールな梨花はそんなこと考えないかな?
 もっと大胆になってくれたら、もっともっと好きになってあげるのにな。
 ねぇ梨花?梨花は私がどうしたら、もっともっと好きになってくれるかな?



「結局、恋人持ちは良いわよねぇ〜…。」
 私―――松雪馨―――は呟いて、ふと、朱雀サンと目が合った。
「…変わったわよね、朱雀サン。」
「え?…そうですか?」
 はにかんで笑む彼女も、あの遊園地で出会った頃の彼女とは随分印象が違う。
「ふふ、紀子の力は偉大よね。」
「え?ど、どういう意味ですかぁ。」
 照れたような朱雀サンの声を聞きながら、私は一時は愛したかもしれない女性を見遣った。
 貴女の心を動かすのは、私じゃなかったのね。
 ………少し、悲しい。でも、いいの。
 貴女がそこに生きて、誰かを愛しているのなら、それでいいわ。



 紀子さんを見つめる松雪さんの表情は、恋慕とかそういうものではないような気がした。
 なんて、私―――加護朱雀―――のような若輩者が偉そうに言えることじゃないけど。
 …今でもなんだか不思議に思う。だってまだ何日かしか経ってない。
 でも私は今、紀子さんの恋人なんだ、って―――。
 あれ―――さっきまで瞳子さんのこと考えて、泣きそうだったのに、今は何考えてるんだろ、私。
 …でも、いいよね?
 私は――紀子さんと出逢えて、本当に良かった…。



「夕ちゃん…。」
 弥果―――林原弥果―――は、ポツリと、今、この胸で泣きじゃくる女の子の名を呼びました。
 クールで、お姉ちゃんよりもお姉ちゃんっぽくて、素直じゃないけど、笑うと可愛くて。
 夕ちゃんは、今でもお姉ちゃんのことを見ているの?
 …ね。お姉ちゃんのこと見る止めたら、次は誰のこと、見るのかな?
 …ね。弥果はね、弥果は―――
 ………弥果は、夕ちゃんのお姉ちゃんになりたい。



「…ひっ、く…。…ぅ〜…」
 こんな、子供みたいに泣きじゃくって、かっこわるい、かな?
 でも、あたし―――棚次夕子―――、ね?
 あたし、素直に、なりたいよ。
 でも、大人にもなりたい。
 お姉ちゃんの前で、悲しい気持ちを見せなかったのは上出来だよね?
 弥果ちゃんの前で、こうやって泣きじゃくっても別にいいよね?
 …あたし、今、悲しいけど…嬉しいよ…。
 お姉ちゃん、幸せになってね……お願いだよ…。



「ねぇ、マリア?何が見える?」
 彼女の声に私―――宮本マリア―――は振り向いた。
「窓の外は、景色じゃなく、ビルがたくさん。」
「そうなんだ。…瞳子ちゃんの乗った飛行機、見えないかな?」
「もう行っちゃってるわ。何時間も前に。」
「あ…そっか。」
 忍が笑う。私も笑う。
 それだけで、幸せだと思う。
 そう、彼女のどこがとか、何がとかそんなことじゃなく。
 変化していく彼女を、全て受け止めることが出来るの。
 ねぇ?私は変わっている?そんな私を、愛してくれる?



「―――今は?調子はどう?」
 私―――姫野忍―――の傍に戻ってきたマリアが、そう問う。
 私は笑顔で、「元気」と答える。
「良かった。」
 マリアは微笑んで頷く。
 ああ、なんて尊い時間だろう。
 なんて大切な時間だろう。
 志乃は、いなくなってしまったけど、
 今は淋しくないよ。
 マリアが、微笑んでくれるから。



「瞳子…頑張れよ…。」
 あたし―――岩崎安曇―――は、勉強机に向かいつつ、顔だけ向けて、部屋の窓から空を見た。あの空は、柚のいるパリとも同じ空なんだよね。あの時、朝陽に向かってダッシュした空とも同じ空なんだよね?
 だから、あたし頑張れる。玲がこの空の下にいるから、だから。
 ……あたし、玲に相応しい女になるよ。
 再会した時、玲がビックリして思わず「可愛い」って言ってくれるような、魅力的な女になるよ。
 協力できなくてごめんね、瞳子。
 今はあたし、頑張らなきゃ―――!!



「…あ、ヒコーキ雲。」
 学校の中庭は、この時期寒いけど、人がいなくて穴場だと気がついた。
 冷たい風に吹かれながら、ボク―――赤倉玲―――は、空を眺めている。
 ぼんやりと、ただ、何も考えないでいると、とても心地良い。
 自然で居られる。自然なボク。男とか女とかじゃない、赤倉玲。
 …ボクは、自然なボクが好きだから。
 それで、いいよね。





「……柚、がんばれよ…。」
 本当は“トーコ”が来るまで開かずの間にしておかなければならなかった柚の部屋。
 でも、あたし―――佐伯由里―――は、植物に埋もれたこの部屋が大好きだった。
 暇な時、考え事がしたい時、あたしはこの部屋を訪れた。
 部屋に寝転んで、窓から見える空を眺めながら、泣いた。
 柚が最後に見せた微笑が、あまりに綺麗で、あまりに儚かったから。
 でも、大丈夫だよね?トーコ、傍に居れば、柚、元気になるよね?
 あたし、ちゃんと植物に水あげながら、待ってるよ。大好きな柚。



「不思議な子だよな。どっちも。」
 乾が零した言葉に、俺―――小向准一―――は小さく笑った。
「まったくだよ。柚先輩も意味わかんなかったけど、瞳子ちゃんもわけわかんなかったな。」
「あぁ。水かけといて、詫びもなしかよ、っつーか?」
「うん。散々待たせといてさ。」
「だな。不思議ちゃんはそれで済まされるからいいよな〜?」
「うん。…でも、可愛かったよ。」
 今は遠い二人。空を眺めて、俺は呟いた。
 毎日毎日、どんなに寒い日も、雨の日でも、ずっと校門の傍のポプラの木の下に立ってた女の子。今でも、校門を出たら探しちゃうんだ。…今日は居ないのかな、って。



「おー、お前どっち派?やっぱ健気な瞳子ちゃん派?」
 小向の零した言葉に、俺―――乾琢磨―――は、敏感に反応してやる。
「う、うるせー。そーいうお前はどっちだよ?」
 図星らしく、ちょびっとどもる小向に笑いながら、俺は二人のことを浮かべた。
 …俺は憧れてたんだぜ、柚先輩。だからあんな噂、信じたくなかった。けど…バカだよな、俺。
 学祭で二つ結びにサングラスかけて変装とか言ってる柚先輩に、俺の青春は攫われたようなもんさ。…ほんっと、可愛かったよ、柚先輩。
「…俺は、あいつ、弥果ちゃん派。あの語尾の伸び具合がたまんねー」
「なんだよ、ほとんど話してないくせに。」
 小向につっこまれ、俺は笑った。泣きたいのを堪えて、笑っていた。
 柚先輩。…頼むからさ、元気に復学してくれよ。





 家でバタバタ詰め込んだ、着替えと簡単な旅行グッツしか入っていないスーツケース。
 お金だけはユーロに換えてきて、交通手段も一応確認したけど、かなり不安だ。
 駅で「フランス語 初級編」を買って飛行機の中で読もうと思ってたのに、柚さんのこと考えて、眠いから寝てたら、そんな暇なくなっちゃってた。
 本当に不安だらけだけど、東京で乗り込んだ飛行機は、私―――棚次瞳子―――をパリまで導いてくれた。
「此処が…パリ、なんだ…。」
 日本とは全く違う雰囲気に圧倒されながら、人の流れのままに空港を進んだ。
 柚さんが手紙に同封してくれていた手紙と交通手段は、簡単なものだった。
 電車で五つ目の駅で降りて、後は駅前でタクシーに乗って地図を見せればわかる、って。
 そ、そんなもんなのかなぁ。
 …かといって、この異国の地、パリで、何か応用して行動しろなんて到底無理な話である。
 言われたとおりに、駅を探した。
 最初は空港から駅に行けるかが既に危うかったのだが、駅は空港と繋がって作られていて、日本と同じようにパリも駅はちゃんと電車のマークが描いてあって、すぐにわかった。
 何番線のどこ行きかも、迷わないようにちゃんと書いてくれていた。
 私はスーツケースを引っ張って、ようやく電車に乗り込んだ。
 人はまばらで、電車の中の雰囲気もなんとなくゆっくりしてる。
 けど、やっぱり日本の電車とは違って、乗っているのはフランス人ばっかり。あ、当たり前と言えば当たり前なんだけど、でも、なんだか不思議。
 私はこんな異国の地へ、日本で出会った不思議な女性に会いに来ている。
 なんて、不思議なことだろう。
 ガタンガタンと定期的な揺れを感じながら、手元の紙と電光表示された駅の名前とを見比べる。
 あと駅二つ。
 ガタンガタン。
 ガタンガタン。
 長いなぁ、と思いながらも、一つ前の駅。
 都会の中だった景色が、いつしか家もまばらな田舎の景色に変わっていた。
 ガタンガタン。
 ガタンガタン。
 ガタンガタン。
 ガタンガタン。
 …こ、こんなに走っていいのかなぁ、と不安に思いながら少し経って、ようやく電車は停止した。
 駅のホームはガランとしていて、人が殆ど居ない。
 今、時間は午後三時。時間のせいかな?
 駅自体は小さな駅みたいで、自動改札を抜けたらすぐに外に出た。そして少し驚いた。
 そこは、とっても静かな、小さな街だったから。
 あんなに賑やかなパリの都から、三十分くらい電車に揺られただけで、こんな所。
 なんていうんだろ…駅前の活気みたいなのがない。
 本当に、私の家の最寄駅よりも絶対寂れてるよ、この駅。
 …でも、それも、なんだか昔ながらな感じがして、気持ちよくもあった。
 タクシー乗り場もないんじゃなかろうかと不安になったけど、キョロキョロ見渡すと大きな欠伸をしつつ、なかなか来ないのであろうお客さんを待つタクシーの姿を見つけた。
 うぅ、直接フランスの人とお話するのは初めてだ。
 少し緊張しながら、タクシーの窓をノックした。
 すると、運転手がサッと降りてきて、後ろの座席のドアをわざわざ開けてくれた。
 わ、なんか自動ドアよりもすごく歓迎されてる感じがする。
「えっと…」
 あ、乗る前に予習しておくんだった、とちょっと後悔しながらも、無言で地図を差し出した。
 すると、運転手さんは指でOKサインを作ってくれた。わ、すごい、これって万国共通なんだ!
 タクシーは、田舎風ののんびりした道を走り出した。
 さっきの駅のあった小さな街を出ると、延々と畑や田んぼ…あ、ちがう、うん、畑だけだよね。が、ずっと広がっていた。なんだか、綺麗だった。すごく、すごく。
 柚さんは、こんな雄大な場所にお家があるんだ。なんか、すごいな…。
 ―――っていうか。
 実感が湧かなかった。私今、フランスにいるんだって。あともう何分もしたら、柚さんのお家に着ちゃうんだって。
 柚さんのお家がフランスにあるっていうことが、既に不思議なんだよ…うん。
 はぁ。考えてるとなんだか緊張してくるので、景色を眺めることにした。
 広い畑。あ、風車小屋も見える。時々お家が見えて、また畑が広がる。
 少し進むと、前の方にお屋敷みたいな大きなお家が見えた。畑の中にドーンとそびえるお屋敷が不思議だった。やっぱりこういう地域でもお金持ちっているんだなぁ…なんて思いながら眺めてたら、驚いたことに、私の乗っているタクシーがそのお屋敷の門のところで停止した。
「え…!?」
「―――。」
 運転手さんは何か言って、料金メーターを指差した。その読み方はわかったので、お札を差し出すと、小銭を返してくれて、その後さっと運転席から降りて、後部座席の扉を開けてくれる。
 嬉しかったけど、今はそれよりもこのお屋敷。ここが…柚さんのお家なの…?
 運転手さんにペコリと頭を下げた後、スーツケースを引いて、お屋敷の入り口を探した。
 大きな門は閉じられているから、横側の人間サイズの入り口を使うのかな。
 えっと、木の扉に鉄のわっかがついてるので、まずはそれでコンコンってノックしてみた。
 でも、こんなお屋敷の人に聞こえるのかな…?
 と思っていたら、その考えを裏切られ、少しして木戸が静かに開いた。
「ボンジュール。」
 出てきたのは年配の執事のような方で、フランスの人みたいだったので、どうすればいいのか迷った。
「あ、あの…えっと…」
 すると、その年配の男性は、
「ニッポン人の方、デスか?」
 と、片言の日本語で言った。
「あ、はい、そうです!あの、こちらに、神泉柚さんって、いらっしゃいますよね?」
 私がそう言うと、男性は少し不思議そうな顔をして、
「失礼デスが、お名前は?」
 と言った。
「棚次瞳子です。」
「…トーコ様、デスね。お待ちしておりました。こちらへどうぞ。」
 名前を出した途端、男性はニッコリと笑んで、私を中へ招き入れた。
 …柚さんが、何かしてくれてるんだ。
 やっぱり、ここに柚さんがいるんだ…。
 門の中から見上げたお屋敷は、やっぱり、とてもとても大きかった。
 …が、そのお屋敷の玄関に、漢字で『神泉』という表札がかかっていた。
 この異国の地で、その日本語を見た時、じわじわと実感が湧いてきたのだった。





「―――不思議な家。」
 待合室で、私は一人呟いた。
 まぁそもそも待合室という部屋が存在する自体日本ではあんまり在り得ないのだが、このお屋敷、見た目は本当にフランスにマッチした洋館なのだが、中に飾ってある絵や花が、どこか日本を香らせているのだ。
 玄関の定番「熊の置物」もあった。
 なんとも言えない雰囲気にソワソワしていると、先ほどの執事さんが現れて、奥へ促された。
 絨毯の敷かれた長い廊下の先に、とっても広いリビングルームが現れた。
 そして、大きな椅子に座って煙草を燻らす中年の男性と、お茶を入れている中年の綺麗な女性。
 …二人の容姿に、私は目を奪われた。
 そう、アルビノ、なのである。
「いらっしゃい。棚次瞳子くんだね。お待ちしていたよ。」
 そう、そのどこか日本人離れした(この地ではそこまで強い違和感のない)男性は、私を見て、優しげな笑みを浮かべて言った。そう、お聞きの通り、流暢な日本語で。
「と、突然お邪魔して、申し訳ありません。」
 私は頭を下げ、我ながら挙動不審に部屋を見渡した。
 そこに、私の知る白色の女性は居なかった。
「柚のことが気になるんだろう?」
「は、はいっ。」
 男性の言葉に、私はコクコクと頷いた。
「まぁ、茶でも一杯飲んで、少し話でも聞いてもらえるかな?」
「はい…。」
 恰幅の良い男性―――柚さんのお父様だろう、彼は、空いたソファに私を促した。
「どうぞ。長旅疲れたでしょう?」
 そして、綺麗な中年の女性―――柚さんのお母様であろう彼女は、私の前のテーブルにお茶を差し出した。そして、その後には羊羹まで。
 お気遣いなのか普段の風習なのかわからないが、出てきたお茶が日本茶だったのが、私はなんだか拍子抜けすると共に、嬉しくもあった。
 お茶を出し終え、奥さんも、私の斜め前にあたるソファに腰掛けた。
「ご察しの通り、私は柚の父親で、これが母親だ。柚はどちらかと言うと母親似かな。」
 お二人を交互に見て、私はそうかも、と同意した。だって、お母様がとても綺麗な方だから。柚さんがあんな綺麗なのも、納得できる。
「で、君が遠路遥々会いに来てくれた柚なんだが…」
 お父様は、お母様と目を見合わせ、少し淋しそうに笑み、
「君も存じていたと思うが、今、病床に伏せている。」
 私はその言葉に、明るい顔を見せてしまった。それにお父様は怪訝な顔をしたが、
「あの…生きてるんですよね?柚さん…生きて…。」
 私の言葉に、お父様は納得した様子で何度も頷き、
「ああ、生きているよ。…そうか、柚は君にそこまで伝えていたのか。なら、あまり包み隠すことも必要ないだろうな。」
 と小さく笑顔を見せ、椅子から立ち上がった。
「…早速、柚とお会いして頂きたいのだが。」
「は、はい!是非!」
 私もお父様の後を追って立ち上がる。
 お父様は、一つ大きく頷いて、長い廊下を歩き出した。
「…君には、感謝しているんだ。柚の、あんなに嬉しそうな顔は初めて見たからな。」
「え…?」
 お父様の表情は見えず、大きな背中だけが、温かそうで、だけどどこか淋しそうにも見えた。
「こっちに着いて、まず柚が言ったことは何だと思うね?ただいまでも、疲れたでもない…
 日本に居る恋人がもし訪れてくれたら、自分がどんな状態でも、もてなしてやってくれ、と…。」
 ……柚、さん…。
 お父様の言葉に、私は内唇をきゅっと噛んだ。
 我慢しないと、今にも泣き出してしまいそうだから。
「ここだ。」
 お父様が止まったある部屋の前。
 その扉には、「fille」(娘)と彫られた金色のプレートが、小さく輝いていた。
 お父様は、コンコンとノックした。
 ………。
 返事は、なかった。
 構わず、扉を開け、部屋に入る。
「どうぞ。」
 お父様に促され、私は…
「……っ…!」
 部屋に入った瞬間、涙が溢れた。
 広い部屋に相応しい大きなベッドの上で、目を瞑る一人の女性。
 真っ白い肌、真っ白い髪をしたその女性。
 私が愛した、何よりも、誰よりも大切な人。
「柚…さん……!!」
 大きなベッドに近寄って、すぐ近くでもう一度、柚さんを見た。
 まるで死んでいるようにも見える、唯、安らかなその顔。
 私は柚さんの長い髪に触れ、頬にそっと触れた。柔らかな髪、冷たくて、でも温かい頬。そのまま抱きしめたくなるのを堪え、お父様を見た。涙を隠すことなど出来なかった。
「……柚は今、昏睡状態にあるんだ。」
「昏睡…状態…?」
「ああ。柚が前々から抱えていた持病は、小康状態にある。今後も定期的に検査をして、安静でいれば完治させることも可能だと医師に言われた。…しかし、その病気のせいもあるだろうが、脳のある器官に、今、支障を来たしているらしいんだ。……目が覚めてしまえば、何事もなかったかのように振舞えるようになるらしいのだがな、目が覚めるのはいつになるかわからない。今日か明日か、それとも一ヵ月後か、一年後か、十年後か…時が来るまで、待つしかない、と。」
「なんだ…。」
 私はポツリと零した。
「そんな…そんなこと…。待っていればいいんですよね?今日、明日、一ヶ月、一年間、十年間…ずっと、待っていれば、いいんですよね…?」
「あぁ、だが…」
 お父様は何かを言いかけて、ふっと口を噤んだ。
「いや。…この家には、君が好きなだけ居てもらって構わない。見ての通り、金には困っておらんから、娘が一人増えたとでも思うよ。……だから、君が居ることの出来る間。柚の傍に居てやれる間、……傍にいてくれればいい。」
「…はい、お世話になります。」
「瞳子…柚を、頼むよ。」
 お父様は、淋しそうに笑って、部屋を出て行った。
 お父様のその笑みが、私も、淋しくさせた。
 でも、振り向けばほら、大好きな人がいるじゃない。
 柚さん。
 柚さん。
「柚さん…。」
 柚さん。
「…柚さん…!」
 ……ねぇ…
「ねぇ、柚さんっ…!」
 柚さん。
「返事を…返事をして下さい……柚さぁん…!!!」
 どんなに、どんなに呼びかけても
 どんなに、どんなにすがりついても
 どんなに、どんなにその頬に触れても
 どんなに、どんなに
 どんなに、その細い身体を抱きしめても。
 眠り姫のように、キスをしても?
 ―――。
 それでも、柚さんは眠ったままだった。
 ずっとずっと。





「ヒッ、…、…ひっく………っく……」
 もうどれくらいの時間が経ったのだろうか―――。
 わからない。
 この、柚さんの眠るベッドに凭れて、少し一緒に眠っていたような気もする。
 わからない。
 ただ、頭が痛くなるくらい泣き続けて、泣き続けて、
 喉がカラカラになるくらい、柚さんの名前を呼んで―――
 コンコン。
 部屋にノックの音が響いた。
 遠くて聞いていたような、近くで聞いていたような。
「瞳子さん。」
 私の名を呼ぶ声に、私はズキズキと痛む重い頭を上げた。
「お母…様…」
 涙でぼやける視界の向こうに見えるのは、柚さんに似た綺麗な白髪の女性。
「あなたが無理をしては、元も子もありません。いいですね…瞳子。」
 お母様は、私の頭を緩く抱いて、優しく、そう言った。
 あぁ…柚さん、あなたのご両親は…なんて素敵な方なんでしょう?
 この方たちのおかげで、私はずっとずっと柚さんのそばにいられるんです。
 感謝しなくちゃ、いけませんね…。
「今夜はもう遅いですから、お風呂に入って、おやすみなさい。あなたのお部屋は、この左隣の部屋だから。…食事もまだだったわね?いらっしゃい。」
「…はい。」
 お母様に連れられて、私はようやくベッドから離れた。
 …離れられなかった。
 こうでもして、誰かに引き剥がされないと、柚さんから離れられなかったんです。
 ああ、でもね、柚さん。
 私が居ない時に、目を覚ましたりしないで。
 私の傍で、目を開けて下さい。
 出来る限り、ずっと一緒に居ますから。





『…そっか。うん、わかった。皆にも伝えておくね。』
 電話の向こうで、いつもの夕の声がする。
 こんな異国の地にいても、まるで家と駅前とで携帯で話してるみたいに、夕の声が傍にある。
 それが、妙に嬉しかった。
「うん…あと、私、もうしばらく、ここに居させてもらおうと思うの。…柚さんの目が、覚めるまで。」
『うう〜、あたしはそりゃもう大応援だけどさ、お母さんがやけに心配してるんだよ。いつ帰って来るの?って。機嫌も悪いしさ。』
「そ、そっか…とりあえず、大学の冬休み中は居ようと思ってるけど…。」
『長いな〜、じゃあ、お母さんに言っとくよ。あたしのとばっちりも心配してよね〜。』
「あはは、ごめんごめん。」
『あ、あと…お姉ちゃん?』
 たしなめるような口調で、夕が言う。
『あの時、姫野さんの病室で聞いたこと、覚えてるよね。具体的な解決法なんかはわかんないけど、だけど、柚は“信じてる”んだ、って。』
「………うん。胸に刻んでおく。ありがとね、夕。」
『いえいえ。じゃあ、変な感染症とかにかかんないようにね〜。』
「え?う、うん、じゃあね。」
 カチャン、とクラシックな電話の受話器を置いて、私は小さく笑った。
 なーにが感染症よっ、偉そうにっ。
 …フフ、夕もなんだかんだで成長してるんだな〜。
 私は、神泉邸の長い廊下を歩きながら、思った。
 『柚は“信じてる”んだ、って。』
 …そう。姫野さんが、眠ってる柚さんから聞いてきてくれたのよね。
 柚さん、信じてくれてありがとう。
 信じてくれたから、私ここまで来れました。
 柚さんの傍まで、来ることが出来ました。
 ……あともう少しですよね?
 柚さん、私は柚さんの傍に居ます。
 傍に居ますから――― 











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