第十二話・彼女達のクリスマス




「お待たせ!ごめんね、遅くなっちゃって…」
 私―――棚次瞳子―――は、駅前でたむろする二人に駆け寄った。
「お姉ちゃん、遅いっ!」
「あはは、そんなに遅れてないですよぉ。」
 ビシッと偉そうにつっこんで来る夕と、フォローするように言う弥果ちゃん。
 そんな二人に、私は小さく笑んで、二人の背中を押した。
「さ、行こ!」
 正午10分過ぎ。“正午丁度に駅前で”と言い出したのは私だったんだけど、ぼんやりしてたら遅くなっちゃって。ま、そんな大した遅刻じゃないよねっ。
 今日は12月24日のクリスマスイブ。
 世の中の女性達は、きっと愛しい恋人と共に時間を過ごすのだろう。
 私だって、クリスマスくらい好きな人と過ごしたい。
 …けど、その“好きな人”は、私の傍にはいない、遠い人。
 だから、こんな日くらい、その人のことを忘れて遊び倒したい!って思った。
 …思ったけど、あんまりそういう具合にはいってない気がするな。
 メンバーは夕と弥果ちゃん。それは良いんだけど、目的地は…あの、思い出深い遊園地。
 あんなとこ行ったら…余計思い出しちゃって辛いかな、って…。
 でも、そんな今更言えないよね。夕も弥果ちゃんも楽しみにしてくれてたみたいだし。
 うん、今日は目一杯遊ぼう!遊び倒すよっ!!





「……あ、ねぇねぇ、アイスクリーム食べません?」
 遊園地に到着し、入園早々、弥果―――林原弥果―――は、一軒のアイスクリーム屋さんを指差しましたっ。
「…あはは、賛成!」
 夕ちゃんが嬉しそうに笑んで言ってくれるのです。そう、このアイスクリーム屋さんは、弥果と夕ちゃんにとっては思い出深い場所だから。
「え?なになに?いいけど…??」
 瞳子さんの不思議そうな顔も、今は気にしないのです♪
 一個200円のアイスクリーム。みんなで小銭を二つずつ置いて、アイスクリームを受け取りますっ。
「食べながら行く?」
 という瞳子さんの言葉に、弥果と夕ちゃんは一緒に首を横に振ったのです!
 そして弥果と夕ちゃんは迷わず、席に座ります。そう、あの時と同じ席に。
「なによ〜二人して〜。私仲間はずれなの?」
 瞳子さんが膨れながら言うので、弥果と夕ちゃんはクスクスと笑ったのです。
「だってお姉ちゃん、酔っ払ってたじゃん。」
「え…?」
 不思議そうにしていた瞳子さんが、席についてしばらくして、ふっと何かに気づいた様子で顔を上げました。
「あ、あの時?!私、酔っ払って本当に記憶なくて…あの時になにかあったんだっ?」
「そう!あの時です!弥果と夕ちゃんのキューピッドさん、丁度瞳子さんと同じところに座ってたんですよぅ♪」
 弥果はクスクスと笑いながら、夕ちゃんと顔を見合わせました。
「え!?なにそれっ?キューピッドって?誰のこと?」
 という瞳子さんの言葉に、一番最初にアイスクリームを食べ終えた夕ちゃんが、ナプキンで手を拭きながら小さく笑って言ったのです。
「お姉ちゃんの好きな人。」
 …と。
 すると、瞳子さんは少し押し黙って、
「…そっか。」
 と小さく頷きました。少し淋しそうな笑顔で…。





 ジェットコースター系の絶叫マシンを一通り遊んだ後、あたし―――棚次夕子―――達は、ある建物の前を通りかかった。
「…ホラーハウス。」
 誰にともなく呟くと、弥果ちゃんとお姉ちゃんは足を止めた。そうだよね、やっぱ気になるよね。
 そう言えば此処。このホラーハウスの前の広場。
 あたし、ここで柚にぶつかったんだ。
 柚のあの白い髪が揺れて、ほんの一瞬だけ見惚れたけど、そんなことしてる場合じゃないって気づいて…。
 …先生を殺したあたしだったけど、今こうしてここにいるのは、先生を殺さなかったあたし。
 ………でも、お姉ちゃんも弥果ちゃんも、先生を殺したあたしを知っている。
 なんだか、よくわかんないよね。そう、謎だらけだよ、あの一週間は。
 けど…とても楽しかった一週間。とても大切な一週間。
「入ろっか。」
 お姉ちゃんの言葉に、あたしと弥果ちゃんが頷く。
 フリーパスを提示して、ホラーハウスの中に入った。
「うわぁっ、暗い!きゃー!」
「や、弥果ちゃん、まだ怖がるところじゃないって…」
「で、でもー!あれ?二人ともどこにいるんですかぁ?置いてかないでくださぁい!」
「あ、ちょっと!弥果ちゃん、置いてってるの弥果ちゃんだって!」
 ちょっぴり暴走気味の弥果ちゃんを追いかけながら、さっきから静かなお姉ちゃんのことも気になる。
 あたしが弥果ちゃんの手をとって、弥果ちゃんがようやくおとなしくなり、あたしはお姉ちゃんに声を掛けた。
「お姉ちゃん?大丈夫?」
「ん…うん。」
 その声は、少し淋しそうな響きがあった。
 お姉ちゃんは、少しの間を置いて、こう言った。
「……この先に、また柚さんがいたらいいのにね。」
 …ポツリと、そう零した。
 その言葉が、とてもとても、重くて、悲しかった。
 あたしたちのその雰囲気を察したのか、
「ごめんね。」
 と、お姉ちゃんは明るく振舞った声で言った。
 お姉ちゃん…―――。





「………困った、な。」
 私―――棚次瞳子―――は、歩きながら小さく言った。
「うん?」
 聞えないように言ったつもりだったのに、私の言葉に夕が振り向く。
 私は笑顔を繕って、
「なんでもないよ。」
 と返した。
 色々遊んで回ったけど、色んなところで柚さんの面影が揺れた。
 レストランで食事した時。
 観覧車に乗った時。
 あの時、柚さんと一緒に歩いた道。
 ……―――もう、我慢できないよ。
 そう思った瞬間、弥果ちゃんの声が私を我に返らせる。
「見て!ほら、スモールワールドですよぅっ!懐かしい〜!」
 小さな小さな建物。
 メルヘンちっくな外装と、意外に広い中。
 スモールワールドに近づいて行く。ふと、私は上を見上げた。
 ―――……。
 大きな月を背に、私を優しい目で見る柚さん。
 屋根の上で一緒に過ごした時。
 柚さん…あの時、言ってくれたよ…。
 『責任取ってあげる。』って。
 …ねぇ、…柚さん…!!
「お姉ちゃん?…大丈夫!?」
「うっ、…っ……!」
 大丈夫なんかじゃないよ。
 私は自分の口元を手で抑えた。
 目を瞑る。瞑っても、その端から零れ落ちる涙。
「ベンチ、座りましょうか。」
 弥果ちゃんに促され、私はベンチに座らされた。
 もう、イヤ。
 もう、こんな場所に居たくない。
 もう、これ以上柚さんのことを…思い出させないで…!
 このベンチだって、あの時、柚さんと一緒に過ごした場所。
 柚さん…柚さん……!!
 どこに、いるの…?
 思い出だけ残して消えるなんて…酷すぎるよ……!





 ピンポーン
 玄関のチャイムに、私―――名村花月―――は、思わず笑みが零れる。
 当然よね?
 クリスマスイヴに恋人を待つこの時間、どんなに待ち遠しいか!
 私は急ぎ足で玄関に向かった。
 チェーンロックを外し、扉を開く。
 バッ!
「え…?!」
 突然、目の前に花畑が現れたようだった。
 大きな花束。
 その向こうから、
「メリークリスマス。」
 という大好きな声が聞えた。
 ……―――。
「びっくりした?」
「うん、すごーくびっくりしたわ!こんな素敵な花束初めてだもん!」
「ふふ、奮発した甲斐があったってもんよ。」
 クールな梨花も、今日はいつも以上に笑顔が多い。梨花が笑顔だと私も嬉しい。
「乾杯しよ♪」
 冷蔵庫で冷やしておいたスパークリングワインとグラスを持って、梨花の座るソファへ向かう。
 ミニテーブルにグラスを二つ置いて、煌めくように泡立つスパークリングワインを注ぐ。
 大切な人と、幸せな時間。
 二人っきりの乾杯―――。
 昔から憧れていた憧憬。
 今までこんなシチュエーションがなかったと言えば嘘になるけど、でもそれはツギハギだらけのハリボテで作られたシチュエーション。
 でも今は違う。今は本当に気持ちのこもった、最高に幸せな時間。
 チン…
 グラスが触れ合って、キレイな音が響く。
「乾杯。」
「うん、乾杯…」
 今思った。二人っきりの乾杯って、なんだかキスみたいね。
 優しくて愛しい、恋人同士の触れ合い。
 ワインを口に含んで、コクンって飲み込む。
 梨花の手が私の素肌の肩に回る。
「…こんな服着てたら、勘違いされるわよ?」
 こんな服―――梨花にして見れば、ちょっと刺激が強い格好なのかな。
 肩から胸元が大きく開いた、セクシーな服。
 こんな露出度高い大胆な服、梨花のためにしか着てあげないんだから。
「勘違いしても、いいわ?」
 私が囁くと、梨花は小さく「バカ」と笑って、私をそっと抱き寄せ、くちづけをくれた。
 今日はおんなじ味。
 甘いワインの味。
 …今夜は二人で酔って、二人で遊ぼう。
 ―――。
 …って、梨花と二人で幸せ絶頂なのに、私はふとある女性のことを頭に浮かべた。
 どうしてなのかな、あの子、別に好きとかそんなんじゃなく、存在が気になるの。
 柚、ちゃん。
 どうしてるのかな。
「ねぇ、梨花?」
「ん…?」
 私の手作りケーキを頬張りながら、梨花は私を見る。
「あのね、二人っきりの時にこんなこと聞いてゴメンね…?」
「何?」
「柚ちゃんのこと。…あの子、どうしてるのかしら?誰も連絡つかないんでしょ?」
 私が言うと、梨花は別に気にした様子もなく、というよりも寧ろ同感といった様子で、
「あぁ…私も気になってるのよね。時々不意に思い出すの。…柚、どうしてるんだろうね。」
「…柚ちゃんのこと、っていうか…ほら、瞳子ちゃん。あの子、柚ちゃんのこと、好き、だったのよね?」
 そう言うと、梨花は小さく頷き、
「…だろうね。」
 と同意する。私は、あの健気な女の子の姿を思い浮かべた。
 柚ちゃんと瞳子ちゃんがレストランのテラスでキスしているのを目撃したこと。
 …よく考えてみれば、それが私と梨花が惹かれ合うキッカケにもなったのだ。
 あの時の、瞳子ちゃんの幸せそうな笑顔が浮かぶ。
「今も待ってるのかしら…?」
「……うん、あの子、そういう子だったもんね。」
 梨花は、少し悲しそうな顔をした。
 …待つことって、とても辛いことだと思うな。
 帰って来るかどうかもわからない人を、いつまでも待つなんて…。
「サンタさんにお願いしよ?」
「へ?」
「私たち、大人だからもうプレゼントはいりません。でもその代わり、瞳子ちゃんに柚ちゃんをプレゼントしてあげてください。…って。」
 梨花は、私のこういう子供じみた思想があんまりよくわからないらしい。
 でも、今日だけは頷いてくれた。
「そうね。柚が、早く瞳子の傍に戻りますように―――」





「それはもう、抽選にするかクジにするかそれとも直感にするか、はたまた一人ジャンケンでもするかっ!?って思ったワケよ、あたしは!!」
 …只今熱弁中の私―――悠祈紀子―――は、そう、とても厳正な審査の末に選び抜いた一人の女の子の隣にいるのである!!
「それで、どうしたんですか?」
「うん。考えたの。誰と一緒に過ごしたいかな、って。…そしたら、朱雀ちゃんだった。」
 あたしはニッコリと笑んで、いつもよりもメイクアップしてきれいな朱雀ちゃんの肩を抱き寄せた。
「…ありがとうございます、紀子さん。嬉しいです。」
 朱雀ちゃんもニッコリと笑んで、言ってくれた。この子はほんまにええ子やのぅ…。
「フッ!そもそもこのあたしとクリスマスを過ごせるなんて超ハッピーなのよっ!馨ちゃん、ユッコ、安曇ちゃん、その他男共などなど!私に迫ってくる魔の手は多い中で、敢えてそれを振り払って朱雀ちゃんを選んだのだから!」
 …ん?なんかあたしバカっぽい?
 とかふと我に返って朱雀ちゃんを見ると、くすぐったそうな笑顔を浮かべていた。
 か、可愛い〜…。
「ゴメン!もう限界です!即行だけど!」
 朱雀ちゃんの素顔に耐えられなくなったあたしは、ぐいっと朱雀ちゃんを抱き寄せ、くちづけた。
「ン、…。」
 朱雀ちゃんは頬を赤らめながら、されるがままになってくれる。
 やがてあたしが唇を離すと、朱雀ちゃんは恥ずかしそうな表情で私を見上げた。
 …くっ…何よこの子…可愛いじゃない…半端じゃなく…。
「あの、紀子さん。」
 今まで私の相槌一方だった朱雀ちゃんが、小さく口を開いた。
「うん?なぁに?」
 小首を傾げて聞き返すと、朱雀ちゃんは少し潤んだ瞳であたしを見上げた。
 ドキキッ。
「あの、私……そのっ…!」
「な、なにかな…」
 あまりの可愛さに、声が上擦る。
「……いえ、…あの…。……紀子さんとクリスマスを一緒に過ごせて…本当に嬉しいです…。」
 何かもっと重大なことを言おうとしたようにも見えたが、朱雀ちゃんが口にしたことだけでも、あたしは十分に嬉しかった。
「あたしも、…あたしなんかと一緒にクリスマスを過ごしてくれて、嬉しい。」
 と、素直に言ったりなんかしちゃったりして、ちょっと照れ隠しに朱雀ちゃんとおでこをひっつけてみたりする。あたしも十分に顔が赤くなってるはずなのだが、朱雀ちゃんのおでこはそれ以上に熱を持っていた。
「…紀子さん…。」
 至近距離で、朱雀ちゃんは恥ずかしそうに囁く。
「……す、好きです!」
「へ…」
 一瞬の告白の直後、あたしは初めて、朱雀ちゃん“から”キスをされた。
 …あ、そっか。
 朱雀ちゃんとあたし、何か足りないなぁって思ってた。
 そーだそーだ。これだ。
 ……。
「ちょ、タンマ!」
 ふっと、あたしの頭に様々な顔が浮かんで、一瞬パニクる。
 待て、そういやあたし、今「恋人」居なかったっけ!
 けど、ユッコとか馨ちゃんとか、あの辺は恋人にしたいほど愛おしい感情を持っていることは実は否定できない!し、しかし!今の朱雀ちゃんは反則!レッドカード並に可愛すぎるのだ!
 ど、どうしよう………!?
 きゃー紀子ちゃん究極にピンチ!人生の分かれ目ッスかー!?
「紀子、さっ…!」
 !
 どさっ、と。
 あたしは、朱雀ちゃんに…押し倒されていた。
 ………。
 真剣なまなざしで、あたしを見つめる朱雀ちゃん。
 少し迷ってから、あたしの頬に、チュッ、と、可愛いキスをくれた。
 この瞬間、あたしの体温は2℃程上昇したような気がする。
「好き、です…。」
 朱雀ちゃんの囁きが頭の中を支配する。
「あ、…あたしも。」
 何も考えずに、そう零していた。
 何も考えずに?
 ―――そう、何も考えずに零れ落ちたこれが、
 …あたしの本音?
 ―――
 ―――――――……。
 一時間後。
 乱れた“勝負服”を直しつつ、あたしは熱い息を吐いた。
 あ、まぁそのなんていうか、この一時間はあたしと朱雀ちゃんだけのシークレットオブマイハート的なラブラブタイム、ゲフンゲフン、もとい、その、なんつーか、秘密のオルゴール的な純愛風でイヤンっつーか、い、いや〜!!もうとにかく放っといて!!!(照)
「はぅ……。」
 相変わらず林檎みたいなほっぺの朱雀ちゃんは、この一時間放置されていたワインに手を伸ばし、コクンと少しだけ飲んでいる。
「………あ、また赤くなっちゃう…。」
 呟いた朱雀ちゃんに、あたしのハートは胸キュンだった。…ええい、うるさい、死語とか言うな。
「朱雀ちゃん。」
 あたしは、ぺたんとソファに手をつく朱雀ちゃんを後ろから抱きしめる。
「ふあ?…紀子さん?」
「………もういい。もう何も考えない。メンドクサイからやめた。」
「え…??」
 とか、そんなバッサリ言いつつも、あたしの胸はうるさいくらいにバクバク鳴る。
 こんな、告白に緊張してるあたし。何十年…、いやいや、十何年…いやいや!“何年ぶり”だ。
 と、とにかく。…あたしは一つ深呼吸して、想いを言葉に乗せた。 
「…あのね、あたしも好きよ、朱雀のこと。」
「!」
「………もう、なんか、朱雀ちゃん可愛すぎるよ。誰にもあげない。朱雀ちゃんはあたしのものなんだからね。」
「は、はい…。」
「……、あ、でも、あたしは朱雀ちゃんのものになれるか些かの不安は残ったりするんだけど。」
「え?な、なんでですかぁ。」
 うーむ。大分前の話だが、私が覚えてるくらいだから馨ちゃんも覚えてるだろう。
 馨ちゃんの奴隷になります宣言。くーっ。なんであんなこと言っちゃったのかなぁあたし。
「…いや、色々と大人の事情が…」
「あ、あげません!」
「え?」
 あたしの背後抱きしめを振りほどいて、ぐいっと振り向いた朱雀ちゃん。
 また、かぁぁっと頬を赤くしながら、朱雀ちゃんはあたしを抱いた。
 ……あ、…コレ、いい。
 あたしの頭が、朱雀ちゃんの胸に抱き寄せられた。
 こんなの、あたしはいっぱいしてあげたことあるけど、こうさせてもらったのは、多分初めて。
 あたしは甘えさせる派だから…こんな気持ちいいの…初めて…。
「……わ、私だって…紀子さんのこと、…独り占め、したい、です。…ですけど…」
 少し弱気に、朱雀ちゃんは言う。
 あたしはあったかい朱雀ちゃんの体温を感じながら、目を瞑って聞いていた。
「…な、なんていうか……、少しは仕方ない、です、けど……けどっ…」
「うん…」
「……愛のあるエッチは、私以外の人と…しないで、ください。…ね?」
 最後に、確認するように言った朱雀ちゃんが、やたら可愛い。
「…わかりました。」
 あたしは朱雀ちゃんの胸に顔を埋めたまま、返事をした。
「…はい、じゃあ、…お願い、します。」
 契約完了、的な感じで朱雀ちゃんは言って、あたしをぎゅっと抱きしめた。
 全くもう……朱雀ちゃんがこんなに可愛いなんて…思わなかったよ…ラブリーベイベー…。





「…あ〜っ…。」
 私―――加護朱雀―――は、朝のベランダで、昨夜の出来事に思いを馳せていた。
 なんていうか、恥ずかしすぎる。
 私も恥ずかしいこと言いすぎだし、紀子さんも恥ずかしいこと言いすぎだし。
 でも嬉しい…。
 ………嬉しいけど、
「…現実、なのかなぁ…?」
 など、ポツリと呟く。
 こんな寒い朝の中、薄着でベランダに立っていると、身がきゅっと引き締まるような感覚がある。
 その感覚は、夢のような出来事を「夢」だと言っているような気がしてくる。
 第一、こんな私に、あんな素敵な紀子さんが釣り合うわけが…
「何が現実なのかな?」
「きゃ!?」
 突然後ろから声を掛けられて、私は驚いて振り返った。
「の、紀子さん!?起きてたんですか!?」
「うん、今起きたら、朱雀ちゃんベランダにいるの見えたから。」
 と、紀子さんは眠そうに目をこすりながらも、“にはり”という明るい笑顔を見せてくれる。
 あぁ、やっぱりこんな素敵な人、私には…
「で?何が現実?何が夢?そういうのは白黒つけとかないとね。」
 笑顔で言う紀子さんに、少し不安になったりする。
「昨夜のこと…です…。」
 そんなことあったっけ?って言われるのが怖くて、私はつい小声になる。
「…昨夜?シンデレラになった夢でも見たのかな?」
「え…?」
 紀子さんの言葉に、不安が走る。
 そんなことに構いもせず、彼女はベランダに出てきて「寒〜い」とか言いつつも、気持ち良さそうに伸びをした。
「…あの、…私…。」
 少し泣きそうになって、紀子さんの服を握ってしまう。
 そんな私に気づいてか、紀子さんは苦笑し、
「そんな顔しないの。…シンデレラの魔法は、朝になっても解けないんだよ。」
 と、言った。
 …それって…。
「………昨夜のことは現実です。」
 紀子さんは微笑して言い、私にそっとキスをくれた。
 …あぁ、もう、意地悪。
「…嬉しいです…。」
 心では皮肉を言いつつも、私の口は素直な言葉しか紡がない。普通逆かな?
 少し肌寒いから、紀子さんの腕に抱きついたりしてみる。
 ドキドキと心臓が鳴る。こんな朝から、健康なのか不健康なのか…。
「…ねぇ、朱雀ちゃん。ちょっと話変わるんだけど、いい?」
 紀子さんは私を抱き寄せつつ、ベランダから見える景色を眺め、言った。
「はい、なんですか?」
「うん、あのね、柚ちゃんのこと。」
「柚さん…?」
 その名前が出たのは、少し意外だった。
 私も、彼女のことはよく思い出す。
 紀子さん以外で、唯一、言ってくれた人。
 唯一、私の外見を嫌わずにいてくれた人。
 『……髪ほどくと、なんだかキレイですね?……眼鏡外したら、もっと良いかな…』
 あの時、表情もなく、小さく言った彼女の言葉。…嬉しかった。
「あ、別に柚ちゃんのこと好きとか、そういうんじゃないよ?」
「はい、わかってます。」
 紀子さんの言葉に頷く。そう、わかっている。紀子さんと柚さんは、まるで姉妹のような関係だった。遠くから、隅っこから、いつも見てたから…。
「…うん。柚ちゃんさ、どうしてるのかな、って、思って。…紗理奈の情報網を使っても、柚ちゃんだけは見つかんないらしいし。」
「不思議な人、でしたよね。…本当にそこに存在してるのか、触れてみたくなるような。」
「うん、そうそう、そんな感じ。あ〜ちゃんと確認しとけば良かったなぁ。」
「ふふっ…」
 紀子さんは小さく笑った後、景色を眺めながら目を細め、言った。
「…あたしね、瞳子ちゃんのことが心配なんだ。あの子、一本気っていうか、一途っていうか…恋人が突然消えたりしたら、戻ってくるまで絶対待ってるタイプだと思うんだよね。」
「…瞳子さん、ですか。」
「うん。……きっとあの子は、こうしてる今も、柚ちゃんのこと待ってるんだと思う。そう考えると、なんか…ね。」
「……そうですね。柚さん、早く瞳子さんと会えるといいんですけど…。」
「だね。…今は、それを祈るだけ、かな。…うん、このこと、朱雀には話しておきたくてね。」
 紀子さんは、小さく伸びをして、私を見て微笑んだ。
 私はその笑みに小さく頷き返し、世田谷の空を眺め、柚さんのことを思っていた。





「赤倉くん、私と付き合ってもらえないかしら…?」
 ――――頭が、真っ白になった。
「…はい…?」
 人間、わからないことが幾つも重なると、混乱状態に陥るものだ。
 今のボク―――赤倉玲―――は、まさにそうだった。
 今日は12月25日。クリスマスだ。
 でもあいにく、ボクは授業の都合で、クリスマスだからといって休みというわけではなかった。
 まぁ別に、一緒に過ごす恋人もいないしね。昨日の夜は、友達と一緒にカラオケで騒いでおしまいだったし。って、そんなことはどうでもいい。
 今。
 12時から13時は学校全体が基本的に昼食時で、教師も学生もランチタイムだ。
 そんな時、ボクは専攻している建築科の助教授の女性の先生から呼び出された。
 先生は、現在二十七歳。大学院から、そのまま助教授になったような人。
 綺麗で優しい女性で、男女問わず学生からの人気は高い。
 携帯で呼び出された時は授業の何かだと思ったんだけど、その割には、中庭のベンチのところと、不思議ではあった。
 で、行ってみたら、先生は少し顔を赤らめて、…言った、のだ。
 え?その、告白?の、言葉、を。
「…あの?先生…?」
 付き合う付き合わない以前に、赤倉“くん”って呼ばれた。
「え?あ、あの、あなたが女の子なのはわかってるのよ。だけどね、なんていうのかしら…性別は関係なく、…素敵だな、って思って…。」
 じゃあ赤倉“くん”って呼ばなくてもいいような気がするけど。
 ……とかなんとか内心思いつつも、正直なところ、嬉しかったりする。
 素敵な人だな、って、ボクも前々から思ってはいた。
 紀子さんというよりは、馨さんタイプの人だけど。
 “大人の女性”というのは、少なからず憧れの対象になるものだ。
 ボクの場合はノンケというよりはどちらかというとバイなので、先生のことを恋愛対象として見たことも何度かあった。
 …けど、いいのかなぁ?
「本当は昨日、一緒に過ごしたかったんだけど……。ね、ダメかしら?」
 先生は少し俯き加減で、けれど目線だけ見上げるように揺らしながら言う。
 その姿に、ボクは思わず、
「…あ、いや、…だめ、じゃない、です。」
 …と口走っていた。
 あ、うーん?えーと。
 こういうのは本心とはまた別に、身体が勝手に反応してしまうものであって、けど、そう言ってしまった以上撤回も出来ないし、先生を振るというのは色々な意味で抵抗があった。
「本当?私なんかで…いいの?」
「は、はい。」
 …まただ。
 あぁ、もうこの際開き直ってしまおう。
「ボクも、前から先生のこといいなって思ってましたから…。」
「嬉しい。じゃあ、今日の夜…一緒に過ごしてもらえる?」
「夜?……え、えぇ、いいですよ。」
 少し疑問が残ったが、とりあえず頷いた。
 夜、って…なんか、妙な響きが…。
「あ、それじゃあ私、授業の準備があるから。あとでまた連絡するわ。」
 先生はにっこりと笑んで、そそくさと校舎へ歩いていってしまった。
 ボクはペタンとベンチに座り込んで、改めて今の状況を再確認した。
 …ボクは、あの先生の恋人になってしまった、らしい。
 …別に、好きな人とかいないから、構わないけれど…。
 …いいの、かな?
 そう考えて、ふと、ある出来事が頭に浮かんだ。
「遊園地…。」
 寒い中庭のベンチで、一人呟く。
 さっきも先生のことを“紀子さんというよりは、馨さんタイプ”などと勝手に言ってしまったが、そう、紀子さんとか馨さんとか、…あと、安曇とか…。
 あれは一体何だったんだろう。あの後、色々考えたし、色々探したけれど、結局何もなかった。
 つまり、あの遊園地の出来事が現実だった証拠がないんだ。
 …あれは、夢だったんだろうな、って、今は思っている。
 でも、夢にしてはあまりにインパクトが強い。忘れられない。あの出来事。
 ………。
 でもきっと、いつか忘れていく。都合が悪いこと、わからないことは、人間、優先して忘れていくものなんだから。
 そうだな、ボクが今考えなきゃいけないことは、過去のわけのわからない記憶ではなく、未来の今夜先生と過ごす時間のことなんだろう。
 ………何故だろう、なんだろう。
 この、心に隙間が空いているような感覚は。
 …ふっとその隙間に、触れていく人。
 名前は、柚といった。
 何故だろう。あの夢の中の出来事の登場人物を、今でも忘れられない。
 柚さん。あなたは一体、何者ですか?





「すみません。こちらの集中治療室に―――」
 集中治療室にはナースセンターも事務室も存在しない。
 私―――宮本マリア―――は集中治療室の前を通りかかった医師に声を掛けた。
 そして私は、思わぬ朗報を聞くこととなったのだ。
「あぁ、彼女なら今日の午後に精神科の方に移りますよ。」
 精神科―――。
「あの、詳しい時間などは?」
「そうですね、担当医のスケジュールに寄るんですが…14時、15時といった所だと思いますよ。」
「あ、ありがとうございます。」
 人気の少ない集中治療室の前の廊下で、私はベンチに座り込んで、小さくため息をついた。
 ほっとした安堵のため息。
 上に戻れるなら、体調も安定したということだろう。
 …しかし、上の外科の看護婦は言っていた。『昏睡状態』。
 上に戻るからと言って、忍さんと話せるとは限らない。
 …けれど、一目見るだけでもいい。彼女に―――会いたい。





『っ…?』
 薄暗い闇の中、私―――姫野忍―――は目を覚ました。
 …目を覚ました?
 いや、それは違うような気がする。
 多分、此処はまだ、“現実”ではない場所。
 どこを見ても薄闇で、自分の身体が見当たらないから。
 …え?まさか死んだりしてないよね?
 ………。
 ……
『死んでは、いないはず。』
 ――!?
 突然聞えた声に、私は辺りを見渡した…つもりだが、その視界は相変わらず薄闇で、見渡すという行為に必要な“身体”がここには存在しない。
 その声に、聞き覚えがあった。
『ここは、長く冷たい世界。貴女は、ここに来てはいけない。』
『ど、どういうことですか?あなたは誰なんですかっ?』
 私の問いかけに、薄闇の中からぼんやりと、人影が浮き出してきた。
 その人影に、私は見覚えがあった。
『柚さん…?』
『お久しぶり、です。』
 薄闇の中に浮かんだ白色の人物は、ペコリと頭を下げた。
『あ、お久しぶりです。…って、えっと、どういうことなんですか?“長く冷たい世界”、って…?』
 先ほどの声しか聞えなかった状況とは違って、今は相手の姿が見える分、気が楽に話せた。何より、相手が知り合いだとわかったのだから。
 私の言葉に、柚さんは少し考えるように沈黙し、言った。
『―――私は、あまり居心地の良くない場所に来てしまった、のです。』
『その場所はどこにあるんですか?…今いる此処とは、違うんですか?』
『ええ、そうなんです、今いる此処がそうなんです。私の姿が見えているなら、完全にこっちに来ちゃっています。』
『え…?』
 あの時と変わらず、柚さんペースのその口調は、どことなく緊張感がない。
 けれど、いつもより少しだけ険しいその表情から、今真面目な話をしているのだということには気づいた。
『忍さん。事故にでも遭いました?』
『え?いえ…病院に入院してて、急に。』
『精神的な病でした?』
『…そう、です。』
 私が小さく頷く(つもりをする)と、柚さんも納得した様子で頷く。
『………此処から抜け出すことは、少し難しいのです。』
 柚さんは言った。
 彼女が難しい、などと言うと、少し妙な感じがした。
『難しいって…どうしたらいいんですか…?』
 私が恐る恐る尋ねると、彼女は首を横に振り、
『どうしようもありません。』
 …と、言った。
『え!?そ、そんな、だって、…そ、そんな!?』
 長く冷たい時間―――?
 柚さんと話せるし、少しなら良い。
 けれど…どうしようもないのならば、寿命が尽きるまで、ずっとずっと此処にいなければいけないということなのだろうか?
 寿命?何の…?嗚呼もう、意味がわからない――!!
『落ち着いて下さい。』
『…はい、頑張ります。』
『―――信じて、下さい。』
 不意に、彼女は私を見つめ、目を細めて言った。
『信じる…?』
 聞き返すと、彼女はコクンと頷いた。
『信じることを止めてしまうと―――お終いです。』
『―――はい。』
 私がコクンと頷くと、彼女もコクンと頷いた。
『………私だって、こんなことをしている場合ではないのです。』
 柚さんは、私から目線を逸らし、ポツリと言う。
『瞳子は…待っているはず…。私は、責任を取らなくては――!!』
 私は、その目にした光景を、忘れない、だろう。
 柚さんは――あの柚さんは、その白い手で、頭を抱え、…嘆いた。
 その白い瞳から涙を零し、嘆いた。
 彼女の涙。
 ―――私はそれを、忘れてはいけないと、思った。
 …刹那。
『…』
 柚さんの声が、遠くに掻き消えた。
 その姿も見えなくなった。
 薄闇が、徐々に、光に満ちてくる。
 ―――…!?





 午後二時。
 私―――宮本マリア―――は、こうまでも「ある時」を心待ちにしたことがあっただろうか。
 幼い頃の誕生日の前日、受験の合格発表、看護婦の初仕事の前の日?
 …どれも違う。この今の感覚は、これまで一度も味わったことのない、複雑な心境。
 楽しみなのかもしれない、けれどどこか怖いのかもしれない。
 わからない。複雑な心境のまま、私はただ待つだけ…。
 集中治療室の前のベンチに座って待っていると、階段から六十過ぎ程と見受けるご夫婦が降りてきた。お二人はどこか疲れた様子で、集中治療室のプレートを見遣る。
 私は四人掛けほどのベンチの隅に寄り、スペースを作った。ご婦人は小さく会釈し、ベンチに腰掛けた。
 落ち着かない様子、というわけでもなく、ただ、時を待っているような様子から見て、治療中ではなく、この集中治療室から出る患者さんを待っているように見えた。
 少し躊躇ったが、思い切って尋ねた。
「あの…失礼ですが、姫野忍さんのご家族の方でしょうか?」
 ご婦人は、私の言葉に少し驚いた様子で、
「ええ、そうです…。あの、忍のお知り合いですか?」
 と答えた。やっぱり、ご両親なんだわ…。
「はい。ふとしたことから忍さんと知り合いまして、仲良くさせて頂いてたんです。」 
 そう微笑して言うと、ご婦人は嬉しそうに微笑み返した。
「そう、あの子にお友達が居たなんて…それも、こんなに綺麗な方。驚いたわ。」
「いえ、そんな…。」
 謙遜しながら、ご婦人の言葉が少し引っかかった。
 “お友達が居たなんて”…と仰った。つまり、ご両親の知る限りでは、彼女に友人は居なかった…?
 …私が知っている彼女は、ほんの数パーセントなのかもしれない。
 だからといって、私の知らない彼女を見て、嫌いになったりはしない。
 ―――もう、引き返せない。
 たったの一週間。その不思議な時間を彼女と過ごし、私は…愛してしまった。
 今だってその想いに何ら変わりない。私は彼女を愛している。それだけ。
 ………。
 ………。
 午後二時三十分。
 階段から、女性の医師が降りてきた。
 忍さんのご両親と二言三言話した後、集中治療室の扉を押して、中に入っていった。
「今から出てくる様です。」
 ご婦人は私にそう声をかけてくれた。
 ベンチから立ち上がる。
 ドクン。
 ―――。
 ドクン。
 ―――。
 ドクン!
 どれだけ、私はこの時間を待ち望んでいたのだろう。
 ギッ、と集中治療室の扉が開く。
 ワゴンに寝かされた女性。
 私は立ち竦む。
 ………。
 忍さん。
 そう、確かにその女性は、私の愛した女性。
 酷く痩せ細って、顔色も悪い。
 その目は閉じられ、決して開こうとはしない。
 …けれど、それでも、それでもいい。
 ここに、私が愛した女性がいる―――その事実。
 ご家族に説明するために停止していたワゴンが、医療用エレベーターに乗せられる。
「良かったらご一緒に…。忍は、起きませんけれど…。」
 ご婦人は、そう言った。私は頷き、エレベーターに同乗する。
 “起きませんけれど…”。
 未だに、昏睡状態なのだろう。
 状態は安定しているので、病室に移される、ということだろう。
 実際、昏睡状態の患者が延々と病室に居続けることは、そこまで珍しくはない。
 …構わない。
 昏睡状態なら、目が覚めるまでずっと傍に居ればいい。
 それだけで、いい。

 ―――。
 彼女が病室に入ってから十五分程。病室の前で待っていると、ご両親とお医者様が病室から出て来られた。
「あら…まだいらっしゃったんですね。すみません。」
 ご婦人の言葉に答えながら、一刻も早く彼女に会いたい気持ちが早まる。
「あの…入室しても、宜しいですか?」
 お医者様とご婦人と交互に見て尋ねると、二人とも首を縦に振ってくれた。
「あ…ありがとうございます。」
 私は深く頭を下げた。
 病室に入り、早足でベッドに駆け寄る。
 静寂の病室。時折点滴が一滴ずつ落ちる音以外、目立った音は無かった。
 それは、数日前、空の病室に入った時の雰囲気にも酷似している。
 けれど今は違う。
 目を開けないけれど、何も言わないけれど、けれど確かに此処にいる。
「…忍、さん。」
 彼女の顔を眺めながら、小さく名を呼ぶ。
 それと同時に、涙が零れ落ちた。
 ……どうして私は、すぐに彼女を探さなかったのだろう。
 どうして私は、ずっと彼女の傍に居られなかったのだろう。
 どうして…!!
「っ…。…ごめんなさい…、ごめんなさい…!!」
 私は彼女の身体にすがるように顔を伏せ、咽び泣いた。
 彼女の身体。
 動かないけれど、だけど…
 温かかった。
 今日はこのまま彼女の傍にいよう。
 飽きるまで?
 帰らなくてはいけなくなるまで?
 ―――ううん、彼女が目を覚ますまで、ずっと。





 柚さんの言っていた事の意味、あの薄闇の場所、そして彼女の居場所。
 ――わかったような気がする。
 私―――姫野忍―――は、帰ってきた。夢の中から、現実へと。
 涙が止まらない。
 涙が全然止まらなくて、度々涙を拭わないと、その愛しい寝顔が見えなくなってしまう。
 不思議だけど、不思議じゃない。いろんなこと。
 ただ、今わかっていることは、ここは現実で。
 …ここは病院のベッドの上で、今日は冬だけど日差しの暖かい日で、そして。
 私のベッドにすがるように、眠っている女性は、私が心から愛している女性、だということ。
 彼女の目元は真っ赤で、その手にはハンカチが握られていて、しっとりと濡れたハンカチからは、沢山の涙を流したということが伝わってくる。私は彼女を悲しませたのだろうか?
 もしそうなら反省しなくてはいけないはずなのに、何故だろう、今は、嬉しくて、幸せな気持ちしか生まれてこない。
 すっかり細くなった手で、金色の彼女の髪に触れた。柔らかくて、優しい綺麗な髪。
 それから、細い指で彼女の頬に触れた。柔らかくて、温かい綺麗な肌。
 …私は、この女性の何もかもを愛しているのだろう。
 そしてこの女性は、私のこと、ほんの少しかもしれないけど、愛してくれているのだろう。
 何故かって、彼女がここにいる。私のそばにいてくれる。それが証拠だ。
 こんなに痩せ衰え、姿すらも変わってしまった私なのに、そんな私を見ても、傍に居てくれる。
 幸福感で胸がいっぱいになる。嬉しいのに、幸せなのに、涙が止まらない。
 少し身を乗り出して、眠っている聖母のような女性、マリアに、もっと触れてみたいと思った。
 その頬に指を滑らせた時、彼女が小さく身じろぎした。
「―――マリア。」
 あぁ…この名を呼ぶのは、この名を口にするのは、何ヶ月ぶりだろう?
 いつも考えていた。いつも頭の中で呼んでいた。けれど、こうして口にしたことは無かった。
 どうしてだろう。こうして名を呼べば、彼女は答えてくれたはずなのに―――。
「…マリア、…マリアっ…!」
 初めて言葉を覚えた幼児のように、私はその名を呼び続けた。
 彼女の目が、静かに開く。
「マリア…。」
 一瞬、驚いたようにその目を大きく開き、彼女は顔を上げた。
 眩しいものでも見るかのように、彼女は目を細め、そして微笑んだ。
 マリアは、そっと唇を震わせ、呼んだ。
「――忍。」
 それは私の名。
 誰よりも呼んでほしい人に、その名を呼ばれた時。
 こんなに幸せな気持ちになるのだと、私はすっかり忘れていた。
 言いたいことは、他にも沢山あったはずなのに。
 何も浮かばない。言葉の代わりに、涙ばかりが溢れた。
「マリア、…マリア…」 
 それでもいい。今は、その名前が呼べれば、それでいい。
「忍…、忍っ…!」
 マリアも、沢山の涙を言葉の代わりに零しながら、私の名を呼んだ。
 どれくらい、名前を呼び合っただろう。
 何度も何度も、お互いの名前を呼び合った後、マリアは立ち上がり、私をそっと抱きしめた。
 私も、力ない手を彼女の背中に回し、抱き返した。
 ―――マリア。
 必要なものなど、こんな些細なことだった。
 でも、こんなに大切なことだった。
 一人の女性がいるということ。
 その女性が私の名を呼び、私がその女性の名を呼ぶ。
 そして抱き寄せ合い、くちづけを交わす。
 他には、何も要らない。
 マリアがいれば、それで良い―――。





 コンコンッ。
 私―――棚次瞳子―――は、都内にある某総合病院の精神科の階にある病室のドアをノックし、扉に手を掛けた。後ろには夕もいる。
「失礼します。」
 言って、病室の中に入ると、ベッドの上の姫野さんと、その傍で付き添うマリアさんが笑顔で迎えてくれた。
 ―――昨日。クリスマス(25日)の夜、私の携帯に電話があった。マリアさんからだった。
 姫野さんが、都内の総合病院に入院中で、姫野さんが私に話したいことがある、ということを聞き、今日こうして出向いてきたわけである。私も夕も冬休みなので、都合が良かった。
「お久しぶりです、瞳子さんと、夕ちゃん。」
「…あの、姫野さん、お体の方は大丈夫なんですか…?」
 笑顔なのだが、姫野さんは見るからに痩せ細っていて、少し驚いた。
 彼女は苦笑し、
「いやぁ、昨日まで昏睡状態だったもんで。」
 と言った。
『はい?』
 私は夕と見事にはもりつつ、彼女に聞き返したのである。
 すると姫野さんは少し真面目な顔をして、
「とりあえず、座って。」
 と、椅子に促した。
「あ、はい。」
 私と夕は言われるままに、椅子に腰掛けて、姫野さんを見る。
 姫野さんは、
「ちょっと変な話をしますけど、聞いて下さいね。」
 と言い、ポツリポツリと話し始めた。
「先ほども言ったように、私は昏睡状態だったわけ…なんですけど…。
 その時、夢のようなものを…見ていました。
 夢、といって良いのかわからないんですが…
 そこで、…柚さんと会いました。」
「――!」
 彼女の言葉に、少し驚いた。
 彼女が私を呼び出したのが、柚さんに関することとは思っていなかったからだ。
「……その、夢の中で…。
 そこは、薄闇の場所で……柚さんが、いました。
 彼女はその場所のことを、『長く冷たい世界』だと…言っていました。
 そして、私がどうすればここから出られるのか、と聞いたところ、彼女は『どうしようもない』と、言いました。」
 彼女の話すその不思議な事が、まるで真実のようにも思え、寓話のようにも思えた。
 ただ、今は、柚さんに関することはどんな些細なことでもいいから、情報として知りたかった。
 姫野さんは、少し悲しげな表情で、
「…柚さんは、悲しんでいました。嘆いて、いました。
 …あの場所から出られずに、凍えていました。」
 そんな…こと、言わないで。
 私も悲しくなる……。
「瞳子さん、しっかり聞いてくださいね。」
「え…、は、はい。」
 姫野さんは先にそう確認し、言った。
 しっかり聞かなくても、耳に焼き付いて離れないような言葉を。
「柚さんは、悲しんでいました。瞳子さんに会えないことを。
 “瞳子は待っているはず。私は、責任を取らなくては…”…と、言っていました。」
「―――っ…!」
 姫野さんが、一つ一つ噛み締めるように言った言葉が、胸に突き刺さるように、痛かった。
 勝手に、涙が零れて、落ちた。
 スッと、目の前に綺麗なハンカチが差し出された。マリアさんだった。
 私はペコリと頭を下げてハンカチを受け取り、目のところに宛がった。
「…変な話、ですよね。けれど、マリアから、瞳子さんが柚さんのことを必死で探しているって聞いたから、参考になるかもしれないと、思いまして。 ―――夢だったとは、思えないんです。あの柚さんの言葉、姿、それは見たことがあるものではなく、初めて見た姿です。……もしかしたら、柚さんは私と同じように…。」
「―――昏睡状態に、ある…?」
 姫野さんの言葉に続けて、私は呟いた。
 ガタン。
 立ち上がる。
 彼女の言葉は、真っ向から否定する要素など全くない。
 ……寧ろ、そうなのだと、そう思いたかった。
「瞳子さん。」
 姫野さんは、私を見つめて言った。
「…きっと、柚さんは待っているはずです。自力では出られないあの場所から、誰かに救われることを。―――柚さん、言っていました。信じることをやめたら、おしまいだって。…きっと、瞳子さんのことを信じて待っているはずです…だから!」 
「…はい!」
 私は強く頷いた。
 彼女の目を見ていると、その言葉は絶対に信じなきゃって、その言葉は全部真実だって、そんな気がしてきたから。
「マリアさん、ハンカチありがとうございました。失礼します!」
 私は夕を急かしながら病室を出ようとした。ふと、忘れ物をして私は姫野さんに向き直った。
「…姫野さん、ありがとうございました!」
「…いえいえ。」
 深く頭を下げる私に、姫野さんはパタパタと手を振りながら言った。
「また来ます。お大事に!」
 小さく頭を下げる夕を連れて、私は病室を出た。
「―――で、どうするの?」
 夕は言った。
 確かに、姫野さんの言ったことは漠然としすぎていて、どこから探して良いかわからない。
「…とりあえず、紗理奈ちゃんの情報網に頼ってみて、同時進行で色々、自分の足で探してみる。」
「そっか。…手伝おっか?」
 見遣ると、ニカッと笑んだ夕の姿。…あぁ、この子、こんなに笑う子だったっけ?
 この子も、柚さんに変えられたんだね、いい意味で。
「…うん、お願い。」
 私は微笑んで、頷いた。
  








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