第十一話・吹き抜ける冷風





「―――……そっか。良かった。…うん、わかってるよ、また連絡する。…え?……ああ、うん、いいよ、また遊びに来てよ。……うん、じゃあね、安曇ちゃん。」
 安曇ちゃんと連絡を取れるようになってから、二ヶ月。
 ……もう、あの遊園地の一週間から四ヶ月も経ってしまった。
 早いなぁ。あっという間だよ。本当に。
 私―――悠祈紀子―――は、つい先ほど届いたばかりのホットコーヒーをすすりながら、何気なく感慨にふける。
 もう、12月。ふと窓を見遣る。薄暗くなった夕闇の中で、雪がちらついてる。今年の冬は寒くなりそうなんだって。
 そうそう、それで馨ちゃんがボヤいてたっけ。オフィスの更衣室にも暖房入れろ、だって。馨ちゃんらしいなぁ。
 …あの遊園地のことが現実だったっていうのは、もうはっきりした。
 ……でも、他の皆はどうしてるのかな。
 この東京っていう都市に、14人の女性が暮らしてる。
 それぞれ一人一人が、それぞれの生活をしてるのかな。
 …柚ちゃんとか、どうしてるんだろう?大学生だっけ?
 柚ちゃんの私生活って全然想像つかないなぁ。
 …そう言えば、朱雀ちゃんは?
 あの子、頑張ってるのかな?
 ちゃんと…頑張れてるかな?
 …。
 コンコン。
 と響いたノックに、「どうぞ〜」と返事をする。この家でノックしてくるのはアシスタントのユッコしかいないけどね。
「失礼します!」
「ん?」
 ゆっこはタンボールの箱を持って入ってきた。箱からは溢れそうなくらいの、手紙が見える。
「…なに、それ…?」
 その尋常じゃない数に、私は少し驚いた。
「よいしょっと…。あ、ファンレターですよ。今月はすごいですね!」
「…すごい、ってレベルじゃないでしょ、これ…。」
 編集部に送られてくるファンレターを、毎月ユッコが取りに行ってくれるのだが、今までは大体両手に握って丁度良いくらいの数だった。
 だけど今月は、とても両手両足じゃ抱えきれないほどの数。
「何言ってるんですか、単行本の売れ行きすごいじゃないですか!それに比例してるんですよ。」
 ユッコは、まるで自分のことのように喜びながら言う。
「あ…そうだったっけ。」
 先月発売した単行本が、あたしの今までの記録をアッサリ更新して、更に編集部の記録すらも更新するという驚くべき売れ行きらしいのだ。編集部から、エッチシーンを除いた全年齢向けでリニューアルしたらどうかという話も来ている。
 その本のストーリーは、以前に雑誌で連載していたもので、地味な女の子が磨かれ変貌を遂げていくシンデレラストーリー。
 …実は、そのラストらへんは、朱雀ちゃんをモデルにして書いたのである。実はね。
 だから本当は、朱雀ちゃんにモデル代を払わなきゃいけないくらいなのだ。
 …でも、連絡つかないしね…。
 はう、とため息一つ。
「先生、どうしたんですか!こんなすごいファンレター来てるのに、ため息なんて…。」
「え?あ、あぁ、ちょっとね。気にしないで。」
 たはは、と苦笑しつつ、ユッコの持ってきたファンレターの山に手を伸ばす。
「ユッコ、女の子のファンレターだけ分別してもらえる?」
「あはは、いいですよ。」
 “先生らしいなぁ”とか思ってるんだろう、ユッコは笑いながら、山になっているファンレターを分けていく。
 適当なファンレターを読みながら、ユッコの分別を待つ。
 男のファンレターだから嫌だってワケじゃないんだけど、「このシーンはもっと…」とか、「男としては…」とか、偉そうに書いてあるファンレターが結構多い。その点女の子のファンレターは純粋で、単純に喜べるものが多かったりするのだ。
「…あはは、“主人公の子、マジ可愛いッスね!彼女にしてぇ!”…だって。あたしもしてぇ!」
 あたしの言葉にユッコがクスクスと笑う。
 …主人公の子、か。
 あたしの小説にはイラストが入らない分、人物に対する想像が膨らむ。
 いつからか、あたしはこの小説の主人公の女の子が、朱雀ちゃんのイメージと一致してしまって、あたしの頭にすっかり定着している。
 たった一回きりの女の子。
 そんな子沢山いるはずなのに、なぜか朱雀ちゃんだけは忘れられない。
 …なんで、だろ?
「はい、先生。女の子からの分ですっ。」
 ユッコが差し出す全体の五分の一ほどのファンレターを受け取る。
「あ、それと、これなんですけど…」
 受け取ったファンレターの一番上の手紙を、ユッコがひょいと掴み上げた。
「えっと、なんかペンネームみたいな名前なんですよねぇ。字は女の人っぽいんですけど。」
「ふぅん?」
 その手紙を受け取って、どんな名前なのかと裏返す。
 ……―――!
「せ、先生?」
 気づくと、その一枚の手紙以外の全部を下に落としてしまっていた。
「…あ、…あの、手紙全部、持ってっていいよ。…それで、あの、一人にして。」
 言葉が何故か引っかかる。…驚きの、あまり。
「わ、わかりました。」
 ユッコは不思議そうな顔をしながら、全部の手紙をダンボールに詰め直し、部屋を出て行った。
 あたしはストンと、崩れるように椅子に座り落ち、その手紙の差出人の名を凝視した。
――――『加護朱雀』。
 …朱雀…ちゃん…?
 ……。
 …。
 ……。
 …。
 …あれ?
 ふと我に返った。
 その名前を凝視して、何分も経っているような気がする。
 …朱雀、ちゃん。
 その名前を見ただけ、なのに…
 なんであたし、こんなにビックリしてるの?
 ……。
「あ。」
 ふと、手紙を開封していないことに気づいた。っていうかそのことにすら気づかないほどだった。
 真っ白の封筒に、宛先と宛名と切手、裏に差出人の名前と住所。
 その住所は、都内の、車で20分もあれば行ける場所だった。
 机の引き出しからハサミを取り出し、その純白の封筒にハサミを入れる。
 …少し、緊張。
 封筒の中から、便箋を取り出す。
 折りたたまれた其れを静かに開き、あたしはゆっくりと目を走らせた。
『蒼峰遊姫 先生
 突然のお手紙、失礼します。
 先生の作品、全て読ませて頂きました。
 過去の作品では、『ノンフレーム眼鏡』が、個人的には気にいっています。
 ですが、一番心引かれたのは、最新作の『白い路』です。
 つい先ほど文庫本で読み終えたばかりなのですが、その後居ても立ってもいられず、こうしてペンを取っている次第です。
 “シンデレラストーリー”という副題でしたが、まさにそんな印象を受けました。
 地味な女の子が変貌を遂げていく過程がとてもリアルでした。
 そして、最終話はとても感動しました。
 感動した、という表現で正しいのかわかりません。
 観覧車の中で抱かれる、というシーンが、私にとってはとても衝撃的でした。
 …私も、過去にそんな経験があります。
 知り合って間もない女性でしたが、その事が今でも忘れられません。
 地味な女の子が、少し年上の女性に「きれい」と言われるその情景が、私の過去と重なり、まるで昔の自分を見ているような気さえしました。
 勝手にこのような受け止め方をして申し訳ありません。
 私は、先生の作品が大好きです。
 そして、先生のことが
 忘れられません。』
 …。
 手紙は、そこで終わっていた。
 ………。
 ピチャッ、と、小さく音が、した。
 手紙に、小さく染みが出来ていた。
 …泣いてるの、あたし…?
 朱雀…ちゃん…。
 ……あたしも、だよ。
 あたしも朱雀ちゃんのことが…
 忘れられないの。
 なんでかなぁ。
 …会いに行ってもいい?いいよね?
 ………じゃないと、あたし
 …おかしくなっちゃいそう、だよ。
 朱雀ちゃん。





 ピンポーン
「…。」
 部屋に鳴り響いたチャイムの音。
 私―――加護朱雀―――は、ぼんやりと眺めていたTVを消して、立ち上がった。
 ちらりと時計を見上げる。夜七時過ぎ。部屋に訪れるような友達もいない。
 宅配便か何かだろうか。…心当たりはない。
 一応印鑑を探そうかと思って辺りを見渡した、その時。
 ピンポン ピン ピピ…! 
 と、妙なチャイムの音が鳴り響く。
 …れ、連打されてる?
 少し怯えながらも、連打は止めてもらいたいと思って、私は玄関に急いだ。
 チェーンロックを掛けたまま、ドアを開く。
「朱雀ちゃん!!」
 ―――え…?!
 パタン。
 …扉を閉じて、チェーンロックを外し、改めて開いた。
「…朱雀ちゃん!!朱雀ちゃん!!」
 次の瞬間、私は抱き寄せられていた。
 ひんやりと冷たいその身体、コートの所々に雪が付着している。
 けれど、ふわりと伝わってくる、温かいその人の体温。
 覚えてる。
 このぬくもり。この、優しい体温。
 覚えてる、じゃなくて…
 ずっと、忘れられなかったんだ。
「…紀子…さん…」
「う〜…逢いたかった!めちゃくちゃ逢いたかったよ、バカー!」
 バカって…
「…どうしてバカなんですか…意地悪…!」
 思わず私は、そう言い返していた。
 …逢いたかったのは、私だって一緒。
 私だって…!!
「…う、…う〜……!」
 抱き寄せる腕の力がすっと抜け、私は彼女から身体を離す。
 目元を袖でごしごしと拭うその女性は―――見紛うこともない、忘れられないその女性だった。
「ふえっ…今、大丈夫…?」
 涙声で言う紀子さんに、私まで涙腺が緩くなる。
「…ど、どうぞ!」
 玄関先で泣き合うのも変なので、私は涙を飲み込んで紀子さんを部屋に入れた。
 リビングに着いた瞬間、後ろから抱きしめられる。
「…紀子、さん?」
「朱雀ぅ…キレイに、なったね…。」
「え…?」
「眼鏡、ノンフレームだし…。髪の毛、下ろしてるし…。洋服も、可愛いよ…。」
「……。」
 なんて答えればいいのか、わからなかった。
 わからなかったけど、嬉しかった。
 だって、私、紀子さんのために…。
 新しい眼鏡買って…美容室に行って…ファッション雑誌まで買って…。
 …嬉しい…。
「それと…手紙、ありがとう。」
「…。」
「嬉しかった。すごく嬉しかったよ…。」
「…。」
「……あたしも、朱雀ちゃんのこと、忘れられなかった。」
「え…?」
 次の瞬間、私の身体は床に倒れ、そして、紀子さんと唇を重ねていた。
「……大好き。」
 唇を離して、開口一番に紀子さんは言った。あの、あったかくて優しい笑顔で。
 唇が触れた時、紀子さんが笑んだ時、私は、今まで味わったことのないような、歓びを、感じた。
 今なら、言える。
 ……あの時、ちゃんと言えなかったこと。
 …。ちゃんと、言わなきゃ。
 …今なら、言えるよ。
「私…、紀子さんのことが…大好きです…。」
「…ありがとう。」
 紀子さんは、笑ってくれた。
 もう、それだけでも十分なほどに、嬉しかった。
「…シようか?」
 紀子さんが囁く。その手は既に、私の胸元のボタンを外していた。
「……ハイ。」
 私は温かくてやわらかな快楽に、身を委ねた。





「…げ?!…あんたはもしかして…!」
 目標の人物を発見し、あたし―――戸谷紗理奈―――はその人物の進行方向を塞ぐように車を止めて、ザッ!とグラサンなんか光らせつつ、人物の前に降り立った。
 あの時とは明らかに違う服装なあたしなのだが、やはり彼女にはお見通しかぁ。
「よぅ、荊ちゃん!…桐生ちゃんって言った方が良かったかな?」
「………。」
 木枯らし吹き抜ける12月半ば。
 こんな寒い時期にも、荊ちゃんもとい桐生梨花サンのお仕事は見境なくやってくるのである。
 今日はコートを着こんで聞き込みに出かけたと警察署の人が言ってたので、あたしは早速車で街を徘徊した。
 …あ、一人でじゃないよっ。そんな淋しいことしないっ。
「荊さん!…お久しぶりです!」
 助手席から降り立った夜衣子には、荊ちゃんも少し驚いた様子を見せた。
「や、夜衣子ちゃん!?久しぶりね!……って、なんでそんな猫かぶり娘と一緒なワケ?」
「え?なんでって、……なんででしょう?」
 夜衣子は不思議そうに首をかしげた。
「って、をいっ!荊ちゃん!何を隠そう、夜衣子っちはあたしのマイスイートハニーなのよっ!」
「………はぁ?」
 あたしの言葉に、荊ちゃんは、予想通りにものすっごく怪訝な顔をする。
「まぁいいけど。別に。……紗理奈はともかく、夜衣子ちゃん、元気そうで何より。」
 荊ちゃんは、珍しく笑顔を見せて言う。夜衣子にだけ。ともかくって何よ。
「はい!荊さんも元気そうで何よりです!…まさか警察の方だったとはビックリですが!」
「あぁ…夜衣子ちゃんには言ってなかったんだっけ。フフ、まぁね。」
 ほのぼのと会話をする二人にガツンと割り込むあたし!
「で、荊ちゃんっ?」
「何よ?」
「もう12月だよね〜!12月と言えばクリスマス!…さぁて、荊ちゃん、クリスマスを幸せに過ごすお相手とは再会できたのかなぁ?」
 ニヤリと笑んで言うあたしに、荊ちゃんはニヤリと笑み返した。ををっ。
「まぁね。…夜衣子ちゃんに約束したからさ、花月のことは私が幸せにする、って。」
「おぉっ、らぶらぶ〜!」
「……。」
 あたしの冷やかしに、荊ちゃんは苦笑した。ほっぺたがちょっと赤くなってるらへんが可愛い。
「…良かった、です。」
 夜衣子は、荊さんを見上げて小さく頷いた。
「うん。…ところで、夜衣子ちゃんはどうなの?さっきのスイートハニーっての、まさか本気じゃないでしょうね?」
「え?!……」
 荊ちゃんの言葉に、夜衣子はボッと赤くなりつつもオロオロと言葉を返さずに居た。いや、そんな迷うことじゃないのに…。
 不思議そうに夜衣子の言葉を待つ荊ちゃん。
 やがて、夜衣子は小さく、
「…本気、だったり…します。」
 と、言った。宜しい♪
「えっ!?マジで言ってるの?この猫かぶり娘と!?」
「……そう、なんですよ。私も不思議なんですけど…」
「さっきから聞いてりゃ、人のことケチョンケチョンに言いやがってぇ〜」
 あたしはガスッと両手で同時に二人にパンチを繰り出した。
 それを右手であしらいつつ、荊ちゃんは
「…ま、それぞれ幸せならいいんだけどね。」
 と微笑した。
 あたしのパンチをもろにくらいつつ、夜衣子は、
「うぐぅ…、はひ、そうです、幸せだから…」
 と、頬をさすりつつ笑った。
「…っと、いけない。私仕事中なの。また今度改めて連絡頂戴?」
 荊ちゃんは、名刺をあたしと夜衣子にそれぞれ渡して、小さくピシッと敬礼を決めた。
「おう、またね!」
「はい、またです…」
 あたしたちはそれぞれ荊ちゃんに挨拶して、車に乗り込んだ。
 あたしが運転しだしたとき、夜衣子は貰った名刺を眺めながら言った。
「桐生…梨花?荊さんって、桐生さんっていう名前だったんだ?」
「うん、通りで見つかんないワケだよ。でも、やっと発見、だね♪」
 そう、何を隠そう、あたくし紗理奈ちゃんは、あの遊園地での15人全員との再会を目標に日夜活動中なのだっ。あたしの…もとい、あたしのお父さんの情報網は半端じゃない。
 残りの人たちも、なんとなくその存在はつかめてきた。本気になればすぐにでも押しかけられるはずだ。
 …ただ、一人を除いては。
「…問題は柚ちゃん、だよな〜」
 あたしは運転しながら呟く。
「大学生だって言ってたけど…結局どこの大学かもわからないし。」
「うん〜。………柚だけは、本当に夢だったのかもしれないね?」
「………そうかも、しれないね…。」
 でもさ、…だとしたら…。
 瞳子は、悲しすぎるよね…。





「はぁ〜っ…」
 かじかんだ指先。手袋越しに息を吹きかけると、心なしか温かい気もする。
 …けれど、それも一瞬のこと。
 すぐに、止むことを知らぬ冷たい風が、私―――棚次瞳子―――から体温を奪っていく。
 こうして人を待つには、少し辛い季節になってきた。
 …はぁ。
 私は、いつまで待っていればいいんだろう。
 …。
 でも、待つことをやめるわけにはいかないよ。
 冬が過ぎて、春が来ても、夏がきても、二度目の秋が来ても、それでも…
 私は、待ち続けるんだ。
 そんなことを考えながら、すっかり葉を無くしたポプラの木に凭れ、私はずっと、青山学院大学の校門を眺め続けている。
 私の大学がある日は来れないけど、空いてる日は出来るだけ、こうして此処で待っている。
 …私に出来ることは、もうそれしかないような気がして。
 あれから四ヶ月。
 柚さん、どうしているんですか?
 今、どこにいるんですか?
 私のこと、まだ覚えていてくれますか…?
「ねぇ、君。」
 柚さん…。
「君ぃ。」
「…え?」
 ふと、男性の声に私は顔を上げた。
 青学の学生であろう二人の男性が、私を見ていた。
 眼鏡を掛けた知的なタイプの人と、長髪で少し遊び人と感じさせるタイプの人だった。
「な、なんですか?」
 少し驚きながら言うと、
「君さ、もう大分前から、いっつもここにいるよね?俺ら遅く帰る時とかあるんだけど、そん時も見かけるしさ。誰か待ってるみたいだけど、誰待ってんの?」
 と、長髪の男性が言った。
 あ…そっか。私、目障りだったのかな。そうだよね、ずっとずっとこんなところに突っ立ってて、気持ち悪いよね…。
「ごめんなさい…。」
 私が小さく頭を上げると、眼鏡の男性は小さく笑んで、
「いや、謝んなくていいんだよ。誰を待ってるのかなって気になっただけだし。」
 と、優しく言ってくれた。嬉しかった。
 青学の学生は、やっぱり人間的に出来ている人が多いのだろう。
 私は少し躊躇ったが、勇気を出して、言った。
「あの…。…神泉柚さんっていう人、知りませんか?アルビノで、髪の毛とか真っ白の人なんですけど…」
 私の言葉に、男性二人は顔を見合わせる。
「うん、知ってるよ。四年の人だよね?柚先輩、有名人だもん。」
 と、眼鏡の男性が言った言葉に、私は希望を感じた。
「本当ですか!あの、今も在学してるんですよね!?」
「うん、多分…」
「あ、いや…どうだろ…」
 頷く眼鏡の男性の言葉にかぶせるように、首を傾げながら長髪の男性は言った。
「……最近全然見ないし、さ。…それに、俺、噂聞いたんだよ。」
「噂…ですか?」
「うん。…その…」
 長髪の男性は言い難そうに少し口ごもった後、こう言った。
「…事故で、死んだって。」
「………!?」
 その言葉に、私は一瞬視界が白くなるのを感じた。
 …死んだ………?
「あ、待てよ、あくまでも噂だろ?」
 眼鏡の男性は、フォローするようにそう言った。その言葉に長髪の男性も頷き、
「あぁ、確かに噂でしかないから、信じない方がいいと思うけど…」
 と言う。けれどそれだけのフォローで、ショックから抜け出せるほど私の肝は据わっていない。
 …こんな時に限って、嫌なことわざとかが頭に浮かぶ。火のない場所から煙は出ない、かもしれないけど…でもっ…!
「あ、ごめんな、変なこと言って。柚先輩って変な人だから、その内ひょっこり顔出すって。な?」
「……」
 男性の言葉など耳に入らない。
 事故…。死…。
 …そんな、…の……!
「そんなのっ…」
「え?」
「そんなの、信じません…!」
 私は二人の男性の間を割って、駆け出していた。
「あ、ちょっと!」
 後ろで引き止める声が聞えたが、無視した。
 私は、あんなこと聞いて、それでも待っていられるような冷静な人間じゃないから。
 …柚さん…!
 お願い…お願いだから…!
 どうか無事で居てください…!
 柚さん………!!!





 プルルルル プルルルル…
 小さな病院の受付で、電話が鳴る。
 過去に所属していた総合病院のような大きなところなら担当の受付の人物がいるが、こんな小さな病院では、手の空いている者、場合によっては医師が電話を取ることも少なくない。
 小さな事務室で簡単な仕事をしていた私―――宮本マリア―――は、その電話に席を立った。
「ハイ、此方 …、宮本です。」
 病院名の後、名前を名乗る。受話器の向こうから聞えてきたのは、若い女性の声だった。
『あの、すみません!お尋ねしたいことがあるんですけど!』
「はい…なんでしょう?」
 ……?
 その声に、ふと私は首を傾げた。
 …なんだろう、この感じ。
『あのですね、そちらの病院に神泉柚さんっていう方、入院していませんか?あ、あの、それか、もしかしたら死亡―――』
「神泉柚…さん?…ですか?」 
 突然出てきた懐かしい名前に、私は驚きを隠せなかった。
 あ、けれど、偶然かもしれない。“神泉”だって、別の字なのかもしれない。
「えっと、現在の入院患者で…神泉柚さんというお名前の方はいません。死亡者は、…えっと、少々お待ちいただけますか?」
『はいっ。』
 受話器を置いて、私は資料を探した。
 …けれど、もしそのような名前の人物が居たら、私は敏感に気づいていただろう。
 案の定、死亡者リストにそのような名前の人物は居なかった。
「もしもし。死亡者にも、そのようなお名前の方はいらっしゃいません。」
『あ…そうですか!すみません、お手数掛けました、失礼し』
「あ、待って下さい!」
 …普通に切るべきところなのに、私は電話の相手を引きとめていた。
 この感じ。この声。…記憶の片隅に、微かに…。
『あ、ハイ?』
「そちらのお名前を教えていただいても宜しいでしょうか?」
『棚次です。棚次…』
「瞳子……さん…?」
『え…!?』
 ―――――やっぱり…!
「あの、瞳子さんですよね?私、宮本です。宮本マリア。」
『…え…?…マリアさん!?』
「はい!あの…そうです、えっと…」
『マリアさん!』
「はい?」
『柚さん、どこにいるか知りませんか…!?』
 受話器の向こうから聞えた懐かしい声。
 懐かしいその声は、今にも泣き出しそうだった―――。





 トントン。
 ノックの後、私―――姫野忍―――の病室に入ってきたのは、相変わらず出張サービス中の精神科医だった。
「調子はどうですか?」
 女医さんは、私の顔を覗き込むようにしながら問う。
 私はそんな光景をぼんやりと眺めながら、言う。
「死にそうです。」
 半分比喩。半分本当。
 此処一ヶ月程、体調が芳しくない。
 体調…というよりも、精神的なものだろうか。
 何年も落ち着いていた鬱が、再発した。
 鬱だから痛いとか苦しいとかはないけど、なんていうか、唯、だるい。
 生きる気力もない。かといって死ぬ気力もない。死にたいとは思わないけど。
 志乃は…
 どこ、行ったっけ…?
「他の人格は?居ますか?」
「……どう、でしょう?」
 女医さんの問いに、私は首を傾げるだけ。
 志乃。
 …ねぇ、もういなくなっちゃったの?
 志乃、ってば…。
「姫野さん、食事はちゃんと摂れてますか?」
「…とれて、ません。」
「食べなくちゃだめですよ。」
「…だって、入るところなんて、なくて…。」
「何言ってるの。ご飯食べないから、こんなに痩せちゃって…」
 女医さんが私の腕を握る。
 …あ、ほんとうだ。細い。こんなに体重が落ちたのは久しぶり。
 …ヤバイかな。ヤバイだろうな。ヤバイっぽい。
 今の私はとても不健康で、病院のベッドから抜け出せなくて、悲しくて。
 …あぁ、なんでこんなに悲しいんだっけ。
 なーんて…忘れるわけ、ないでしょ。
 ―――マリア。
「あ、姫野さん。」
「…はい?」
 人が感慨に耽ってる時に…。
「今看護婦さんが見えたの。あなた宛に電報みたいよ。」
「電報?」
 女医さんが差し出す物を受け取る。なにやら人気キャラクターのぬいぐるみだった。
 その背中に筒があって、そこに電報が入っているらしい。
 こんなの初めてもらった。
 でも、一体誰から―――?
「自分で読める?」
「…えぇ、なんとか。」
 小さく頷きながら、筒の中から電報を取り出した。
 そこには―――

『姫野忍さま
 やっほ〜〜紗理奈ちゃんだよ〜ん★
 あ、紗理奈ちゃんってわかるよね?あの遊園地で夢の一時を共に過ごした紗理奈ちゃんよっ★ 元気してる?っていうか入院してる時点で元気じゃないのか!?
 とりあえず姫野サンの行方を探ってたんだけど、あーたっ、なんかやたら入退院繰り返してるじゃないっ!?大丈夫なのっ!?
 本当はお見舞いに行くべきなんだけど、愛車が事故ってしまってさぁ!およよよ…。
 とりあえず電報で勘弁してちょ★
 んじゃ!ばっはは〜い!
                戸谷紗理奈★』

「………な、なんじゃこりゃ?」
 思わず目が点になった。
 …紗理奈? ……紗理奈ぁ?
 って、あの色黒のふにふにした子だったよね。
 …え?何?何かあった?世の中知らないうちに変動してる?
「どうかしたの…?」
 私のリアクションに、女医さんが不思議そうな顔で首を傾げる。
「あ、いえ、ちょっと昔の友人から……、…友人…?」
 答えていて、ふと思い返す。
 …友人?
 ………紗理奈、って…存在、してる、んだよね…?
 あぁ、そっか。なんで私こんなに嬉しいんだろう、って。
 …あの世界が現実だったっていう、それだけのことが、…すごく嬉しい、んだ。
「………あ、……眠い……。」
 …安堵感と共に、ふっと眠気が襲ってきた。
 …え?なにこれ、こんないきなりな睡魔とか… 
「…姫野さん?」
 …………
 …………ぁ…
「姫野さん?!…………た、大変!誰か!!誰か!!」
 …………
 ……………。





「…あれ?」
 ふと、あたし―――棚次夕子―――は、立ち止まった。
 渋谷の賑やかな通り。人の群れ。
 そんな流れに乗って一人歩いている時、あたしは見覚えのある顔とすれ違ったような気がした。
「…玲?」
 振り返って見ても、人の群れの中にその姿はなかった。
 ……気のせい、かな?
 いや、多分気のせいじゃないよね。
 …玲、だった、と思う。
 ……玲…?
 皆、一体どうしてるんだろ。
 お姉ちゃんは相変わらず健気に柚を待ってる。
 …でも、まだ再会できないんだって。なんで、なんだろ…。
「おっと!」
「あ…!」
 ドンッ、と衝撃が走り、ちっこいあたしの身体は地面にペタンと落ち込んだ。
「すまない!」
 あたしにぶつかったのであろうオヤジは、急いでるのか謝罪の言葉も早々に消えてしまった。
 座り込んでると回りの人たちの注目を買う。
 あたしはよっこいしょ、っと立ち上がった。
 …ん?
 今、あたしが座り込んだ場所に、一枚の小さな紙が落ちていた。
 何か落としたかな…?
 そう思って紙を拾い上げる。
 ……。
 ―――え?
 その紙に、見覚えはあった。
 見覚えというよりも、忘れたくても忘れられなかった。
 ずっと探した。探してたのに出てこなかった。
 なのに…なんで今ごろ…こんなところで…!?
 その紙には、可愛い文字で『林原弥果』という名前と、11桁の数字が書いてあった。
 弥果、ちゃん…。
 弥果ちゃんの連絡先だ………!
 あたしはその紙を握り締めると、人の波をぬって駆けた。
 山の手線の駅に付いて、人もまばらな場所に来て、あたしはポケットから携帯電話を出した。
 先月に買ってもらったばっかりの新しい携帯。
 小さな紙切れに書いてある大切な大切な番号を、携帯に覚えさせた。
 …ため息。
「弥果、ちゃん…。」
 時刻は夕方…いや、夜の7時過ぎ。
 12月の7時ともなると、辺りも既に暗く、温度もぐんと冷えてくる。
 …あたしは携帯を握りなおし、少し躊躇った後、ポケットに直した。
 まず、一回家に帰ろう、と。
 あたしは駆けるように、電車のホームへ向かった。





「お姉ちゃん?」
「え…?」
 後ろから掛けられた声に、私―――棚次瞳子―――は驚いて振り向く。
「夕?」
 家からの最寄駅、それなりに賑やかな駅前通り。
 駅を出てすぐの公衆電話を出て、ぼんやりとしている時だった。
 振り向くと、見慣れた妹の姿。
「…大変だよ!」
「…大変なの!」
 一拍置いて、私たちは同じタイミングで言った。
「あ、え?夕は何?」
「あ、えと、…あ!そうそう、あのさ、弥果ちゃんの電話番号が出てきたんだよ!」
「…え?今ごろになってなんで?!」
「わかんない、わかんないけど…ほら!」
 夕が、ポケットの中から一枚のレシートを取り出した。
 確かにそこには、『林原弥果』という名前と携帯番号が記してあった。
「そっか…良かった…。」
 私はそれを見て、ほっと温かい気持ちになって小さく笑んだ。
 しかし次の瞬間には我に返った。
「そ、それどころじゃないの!夕!」
「え?それどころじゃないって?な、なに?」
「…柚さんが…死んでる、かも…しれない……。」
「…え…!?」
 私の言葉に、夕が驚く。
 …自分で言って、なんだかとても悲しい気持ちになった。
 でも涙は飲み込んで、更に言った。
「それで、色んな病院に電話してたらマリアさんと話しちゃって!マリアさんも柚さんのこと調べてくれるって言ってくれてそれで…うん…!」
「…マリアさん!?どういう意味!?」
 夕は、また私の言葉に目を丸くする。それはそうだろう。私だって今日一日ワケがわかんなかったもん。
「だから、マリアさん看護婦さんだから、偶然…。」
「すごいよ!…あ、それで、柚は?どうして死んでるなんて…?」
「うん、それが―――。」



「…へ?」
 弥果―――林原弥果―――は、多分生まれて初めての最大規模で呆気にとられたのです。
 家でまったりとしてる時、見知らぬ携帯番号から電話が掛かってきて、ちょっとドキっとして。
 恐る恐る電話に出たら、突然マシンガントークで囃し立てられました。
 一応思い出して再現してみるとですね、
『弥果ちゃんですよね?大変なんですよなんかもうわけわかんないんですけど、柚さんのこととか知りませんか?知りませんよね?でも知ってたら教えて下さい!そもそも柚さんはどこにいるんだろう!?ねぇ…っていうか弥果ちゃんですよね!??』
 …って。え?
 混乱してると、電話の向こうの人がバトンタッチしたみたいでした。
『ご、ごめんなさい!あの、あたし、棚次夕子…横溝夕、です。』
「…夕ちゃん!!!?」
『弥果ちゃんだよね!うわー、久しぶり!!』
 そう、それは私がずっとずっと待ち望んでいた電話でした。
 でした…が、最初のマシンガントークで呆気にとられてしまって再会の感動とかそういうのが吹っ飛んでしまいました。ガーン。
『あ、えっと、今のわけわかんないの、お姉ちゃんだから。』
「え?あ、そうだったの?瞳子さん?」
『うん、そうそう。今ちょっとお姉ちゃん混乱してるみたいで。』
「弥果も混乱してます。」
『何を隠そうあたしも混乱してるよ。』
 ………。
 …えっと?
『あのね、弥果ちゃん。柚さんのこと、知らないかな?』
「え?柚さんのこと、ですか?」
『そう。…まだ、会えないんだ。』
「そうなんですか…。ごめんね、弥果は何も知らないです。」
『そっか。…うん、ごめん、ありがとう。あのさ、近々会えないかな?』
「あ、うん、それはもう是非!」
『うん、それじゃ―――』
 ……。
 柚さん。
 弥果。
 夕ちゃん。
 瞳子さん。
 なんだかよくわからなかったけれど、
 繋がってるのならば。
 弥果たちは、繋がってるのなら
 …それは、それは幸せなこと。
 弥果たちは、繋がってるんだよね?
 …そうだよね、夕ちゃん?
 弥果は、切れた電話を握り締め、ただじっと、考えていました。
 …それは、幸せなこと。
 実感、できるわけ、ないですよ。
 …夕ちゃん、早く、弥果に会いに来て…。





「………。」
 私―――宮本マリア―――は、唯、黙って、その名前をそっと指でなぞった。
 とある総合病院の外科の、入院患者の一覧。
 これは当然一般人が見ることなど出来ないもの。
 こうして個人的に詮索することは、職権乱用という犯罪である。
 …だけど、もう我慢の限界だった。
『お願いします…!柚さんの…柚さんのことっ、調べて下さい!!』
 涙声で必死に懇願されて、私はNoと言えなかった。
 私も彼女の狂おしい気持ちは、悲しいくらいに解るから。
 もう、これがバレて仕事を辞めさせられたって、何も言えない。
 それでもいい。私は仕事よりも…大切なものがあるのだから。
 『姫野忍』。
 その名を目にした時、自然と涙が零れ落ちた。
 狂おしいほど、愛おしいその名。
 私は病院名と病室をメモし、静かに涙を拭った。
 『神泉柚』。
 ……その名は、どこにも見つからない。
 都内に病院は山のようにあって、その患者の中からたった一人を探し出すのは、難しいことだった。
 それは承知で都心付近の病院から捜していった時、忍さんのその名を見つけた。
 同姓同名ということも考えられるが、そんなこと、会いに行ってみなくちゃわからない。
 それから更に様々な病院の資料を当たったが、結局柚さんの名を探し出すことは出来なかった。
『そうですか…わかりました。はい、わざわざすみませんでした…。』
 瞳子さんの声が沈んでいるのは、電話越しでもよくわかった。
 でも、私にはこれ以上できることはない。
 ………。
 なんて。…酷い人。
 もし見つかった名前が“忍”ではなく“柚”だったとしたら、私はこのくらいじゃ諦めなかっただろう。
 ごめんなさい、瞳子さん。
 私が本当に見つけたかった名前は、…一つだけ、なの…。





「さすが紗理奈ちゃん。伊達にお嬢様じゃないわねぇ。」
「お嬢様…似合わん。」
「でしょ!さすがでしょ!いえーい!…って紀子さん、何か物凄く失礼なこと言ってない〜?」
「いやいや、こっちの話。」
 私―――松雪馨―――は、パタパタと手を振る紀子を微笑ましく眺めた。
 クリスマス目前の冬の日。静かな夕暮れ時、都内のとあるカフェで一つのテーブルを囲む四人の女性。
 私と紀子、そして紗理奈ちゃんと、安曇ちゃんだった。
 先月の初め、紀子から連絡が入った。「紗理奈と安曇ちゃん発見!」だって。
 それから集まりたいねって話はしていたんだけど、なかなか時間が合わなくて、ようやく今日こうして一つの机を囲んでいる、というわけ。
「でね、後はね〜…」
 紗理奈ちゃんは、15人の名前を書き出し、それぞれの行方を記していった。
 既に殆どの人物の行方というか、現住所は把握しているらしい。
「ね、玲は?」
 先ほどから安曇ちゃんがウズウズしていたのは、どうやらこれが聞きたかったからなのだろう。
「玲ね★うんとね〜」
 紗理奈ちゃんは携帯をいじって、情報を取り出している様だった。
「よ〜く聞きなさい!」
「はいっ…!」
 偉そうに胸を張って言う紗理奈ちゃんに、素直に頷く安曇ちゃん。
 チラリと紀子を見遣ると、目が合う。“安曇ちゃん可愛いね〜”とでも言いたそうに、紀子の目が笑っていた。
「えっとね、玲は都内の私立桜ヶ丘大学の学生さん。」
「…そうなんだ!それで?」
「それだけ。」
「…え?」
 拍子抜けした様子で、安曇ちゃんは紗理奈ちゃんを見上げる。
「実家の住所はわかるんだけど、玲って一人暮らしみたいなのね。その住所はちょっとわかんなくてさ。」
「そ、そうなんだ…。」
 安曇ちゃんは、残念そうにため息をつく。
「フフッ、恋する乙女のため息ね。」
 私が茶化すと、安曇ちゃんは真っ赤になって、
「こ、恋するって!乙女って!…別にそんなんじゃ…。」
 と、慌てて否定する。真っ赤になって否定するということは肯定するということと同じと捉えて問題ないだろう。
 ふとテーブルのメモ用紙を見遣る。14人のそれぞれの現在地は書かれている。あと一人。
「…ね、柚さんは?」
 私は空欄を指差しで紗理奈ちゃんに問う。
「あ、柚でしょ。…それがさ、あたしの超ハイパーデラックスな情報網を駆使しても、全っ然わかんないの。柚のユの字もないのっ。も〜マジで、ジラレナイシン!」
 紗理奈ちゃんは“む〜っ”と頬を膨らませて言った。ジラレナイシン?
「柚ちゃん、か。あの子は本当に不思議な子だったもんねぇ…。」
 紀子がポツリと言う。
 確かに、その通りだと思う。
 あの子には、“現実感”というものがない。
 まるで夢のような少女。
 ………けれど、そんな女性を待っている人がいると言う。
「…瞳子も、けっこう無謀だよね。」
 紗理奈ちゃんが呟いた言葉に、頷くことは出来なかった。
 今でも、待ち続けている。
 愛しているから。だから、今でも…。





 スッ…。
 背中で、病室の扉が静かに閉まる。
 私―――宮本マリア―――は、その病室を見渡して、脱力感を覚えた。
 ガランとした、静かな部屋。
 ベッドが一つ。
 …誰も居ない、空き部屋だった。
 どうして…なの…。
 忍さんはいつまで、ここに居たの?
 いつ、ここから去ってしまったの?
「…っ!」
 私は踵を返し、その階のナースセンターへ急いだ。
 怖い。
 ―――怖い。
 看護婦だから、よくわかる。
 患者が病室から居なくなるのは、
 退院したか、
 病状が悪化したか、
 それとも、死んだか―――
「っは…!」
 早歩きでナースセンターの近くまで来て、自分の息が酷く切れていることに気づく。
 病院の壁に凭れて、息を整える。
 きゅっと目を瞑って、涙を堪える。
 まだ、泣くには早いでしょう。まだ、わからないでしょう―――?
「どうしました?」
 私はナースセンターの前に立つと、それに気づいた看護婦が笑顔で私に問う。
「あの―――」
 看護婦が、私の言葉に、表情を変えた。
 その一つ一つの筋肉の動きが怖くて、次に何を言われるのか、怖くて―――
 看護婦は「少々お待ち下さい。」と奥へ入っていく。
 …急いで……。私は、こんなに……不安なのだから…お願い、早く―――!
「すみません、お待たせしました。」
「いえ…」
「姫野忍さんですね、ええと―――」
「…。」
 身体中の筋肉が収縮しているような、震えているような、妙な感覚。
 彼女の言葉一つ一つが、私を狂わせる。
 …早く、言って。
「姫野さん、今、地下の集中治療室の方に移ってますね。」
「集中治療室…?どうして?彼女は骨折による入院だったんじゃ…?」
 私が言うと、看護婦は悲しげな笑みを浮かべ、
「それだけじゃなかったんです。…その、精神的な病気で。」
「精神的な…?」
「はい。…あ、集中治療室の方は、ご家族じゃないと入室できないことになってるんですよ。すみません。」
「そうですか…あの、今の病状を知りたいんですけど…。」
「あぁ、今は―――」
 ………
 ………
 病院の外は、すっかり夜の帳が落ちて、冬の夜風が肌寒かった。
 ―――昏睡。
 看護婦はそう言った。
 私は病院の駐車場へ続く歩道を歩きながら、ふと、頬に伝う冷たい水に気づく。
 …そう、さっき、堪えていた涙。
 ………。
 もし、私がもっと早く、忍さんの傍に居られたら…?
 もし、私がもっと早く、こうして行動に出ていたら…!
 ………。
「っ…うっ……」
 とめどなく流れる涙と、冷たい夜風。
 悲しみは、その色を更に濃くして行った。











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