第十話・夢叶いし君、未だ夢路通う君





「二カ月、か…。」
 私―――松雪馨―――は、バージニアスリムとラークの紫煙が宙で混ざりあう様子を眺めながら呟いた。
「…んぁ?何が?」
 ラークの紫煙を吐く、裸の男。
「…二カ月前に面白い夢を見てね。すごいインパクトの強い夢…夢じゃないみたいな夢なの。」
「レイプとか?」
「バカ…そっちにしか頭が回らないの?」
「うはは。」
 私は煙草を灰皿に揉み消し、ベッドから離れて服を着始める。
「もぉ帰んの?俺、第二ラウンド行けるゼ?」
「仕事があるの。あんたと違って、お姉さんは忙しいのよぉ」
「そかそかぁ。不良OLのクセになぁ」
「うるさいわよ。本気で私を怒らせたら、雑巾の絞り汁入りのお茶が出てくるわよー?」
「げ、タチわりぃ。ほんじゃ、俺は渋谷で第二ラウンドに付き合ってくれる女の子でも探そーっと♪」
「お好きにどうぞ…。」
 彼は私の友人であり、セックスフレンドであり、弟であり兄でもある。
 年齢は3つ下なのだが、スラリと高い身長にアダルティックな顔立ち。カッコイイ部類には入るわね。でもってお金持ちのボンボンで、貢いでくれる。
 別に彼氏にしたいとは思わないし、向こうもそのつもりはないみたい。
 たまに会ってショッピング(全部彼持ち)して食事してラブホでエッチしてバイバイ。
 実に健全な男女交際よね。
 私と彼は服を着て、部屋を出る。
 ドアを閉じて鍵をかける。その時、隣の部屋のドアが開いた。
 こういう場面はたまぁ〜にあるけど、やはりドキドキした。
 隣の部屋から出てきた、まだ幼い感じがする中学生にも見えるくらいの少年。
 そしてその後から、女性…
 ――――!!
 かしゃん。
 私の手にしていた鍵が落ちた音だった。
 その音に、私の連れである彼が、そして隣の部屋から出てきた二人が注目する。
「……え…?……か、馨ちゃん!?」
 その女性、忘れるワケがない…
 私に、女性同士で高め合う心地よいセックスを教えてくれたその人だった。
 そして――幸せな時を共有した、その人。
「……紀子…!」
 私が彼女の名を呼ぶと、彼女は尚も驚いた様子で、
「うそ…本当に馨!?なんで、うわ、こんなとこで会うなんて。…スゴイ偶然?!」
 紀子はそう言い終えて数秒の間を置き…、ぷっ、と吹き出した。
「こんなとこ。…ラブホだっての…」
 私もクスクスと笑う。
 あぁ…紀子だ……。
 変わってない…。
 ………あれは…夢じゃなかったんだ…
「馨ちゃん、お茶しよぉ!」
「ええ、是非。」
 私達四人(男性2人は引いてる)は、いっしょにラブホを出た。
「か、馨。また連絡するわ。んじゃな。」
「えぇ、またね。」
「…あ、あの……ボク、失礼します!」
「バイバーイ。またしようねぇ〜♪」
 そそくさと去っていく男性二人の背中に、私たちはまた笑った。





「ほんっとに…驚いたわよ。おまけにあんな小さい子と一緒だし…。」
 そう言って、馨ちゃんは微苦笑する。
 あたし―――悠祈紀子―――はニヤリと笑んで、
「いや、小さいって言っても高校一年生だよ?童貞だったけど…。めっちゃ可愛かった♪」
「お姉様テクでイかせてあげたんだ?」
「そそ。もうガンガンイっちゃってた。あの子年上キラーだわっ」
「確かに可愛いなぁ〜とは私も思った。」
 馨ちゃんの言葉に私たちは笑った。
「っていうか、馨ちゃんもイイ男連れてたじゃん!かなり釣り合ってたよー?」
「ダメダメ。ルックスはいいけど、頭ん中はエッチばっかりなんだもん。」
「いいじゃん、野性的で♪」
「野性的って。まぁ確かにセックスはイイんだけど」
 馨ちゃん相変わらずだなぁ…。
 いや、前に増して色っぽくなってる気もする。
「失礼します。コーヒーお持ちしました…」
 そう言ってコーヒーを運んできたのはウェイトレス…ではなく、私の奴隷もといアシスタントのユッコだった。お茶しようと言ったが、考えてみればあたしの家から近い場所だったので、うちに招待したのだ。
「ありがとう。…紀子の、恋人?」
 馨ちゃんはユッコに会釈した後、そう尋ねた。
「え、い、いいえ!」
 ユッコはあわてて首を振る。
 あたしは苦笑し、
「アシスタントよ。」
 とフォローを入れる。
「そういえば、小説書いてるとか言ってたっけ?」
「そうそう。書いてるの。そのモデル。」
「…モデル?彼女が?」
「うん。…あたし、普通の小説じゃなくてエロ小説なのよねぇ」
「……へぇ。」
 ちら、と馨ちゃんはユッコを見る。
 ユッコは恥ずかしそうに顔を伏せた。そんなユッコにあたしは悪戯心を芽生えさせ、
「ぶっちゃけ、この子で色んなプレイしてネタにしてます、って感じかな。」
 なんて言ったら、
「ぶっちゃけ過ぎよ…、ほら、赤くなっちゃった。可愛いわね」
 と馨ちゃんはクスクスと笑んでユッコを眺める。
「…さて。ユッコ、ちょっと席外してくれる?二人っきりで話したいことがあるの。」
「あ、はいっ。…失礼します。」
 ユッコは頭を下げ、寝室兼自室であるあたしの部屋から出ていった。
「……二人っきりって?…遊園地のこと?」
 二人きりになったところで馨ちゃんが尋ねる。
「まずはそれかな。…あたし、あれは夢だと思った…だって、そうとしか考えられなくて…。でも、今こうして馨ちゃんと一緒にいるっていうことは…一体どういうことなんだろ…」
「私も同じよぉ…。しばらくはね、忘れられなかったの……。紀子のことも、ね?」
「……ふぇ?」
 少し頬を赤く染めてあたしを見る馨ちゃんに、あたしまで赤くなる。
「紀子とのエッチが忘れられなかったの…。」
「…か、馨ちゃん……」
 そんな台詞言われると…理性が続かなくなっちゃうよ…。
「……なんだったんだろう…わかんない…。ただ、一つ言えることは…」
「…うん…?」
「私は、紀子と会えて良かった。」
「……あ、あたしも…馨ちゃんと会えて…」
 な、なんでこんなに心臓がバクバク…
「…難しいこと考えるのもなんだし、次の話題行ってみようか?」
 馨ちゃんは微笑してそういう。
「…次は…馨ちゃんから。」
「私から?」
「馨ちゃん…なんでもいいよ…。二人っきりだからね……」
 あたしがそう言うと、彼女は考え込むように沈黙した。
 な…なんだろ……。
 まるで初恋のような胸のときめき!
 あたしは今…何を望んでいるんだろう…
「じゃあ、紀子。野球拳しよっか」
 ごん。
 あたしは横にあった本だなに頭を打ち付けた。
「何やってんの…?」
 いぶかしげに言う馨ちゃんに、
「いやむしろ、何いってんの…?と言い返すわっ!」
「えー。だってやりたいんだもん。」
「馨ちゃんって時々意味わかんないよね。」
「自覚してるわ。」
 にっこり。
 この笑顔に弱いかもしんない!
「…よぉぉし、やってるわ!」
 あたしはすくっと立ち上がる。
 馨ちゃんもすっとしなやかに立ち上がった。
 ………。
 普通、野球拳って二人っきりでするもんじゃないよな……。
 まぁ言わないでおこう。
「行くわよ!最初はグゥ!」
 最初はグゥなの?!歌は?!
「ジャンケンポン!」
 馨ちゃんのかけ声と共に二人の手が出される!
 馨ちゃん・パー
 あたし・グー
 ……負けた!
「さ、脱ぎなさい!」
「はぁーい。」
 ちなみに。
 あたしの今日のファッションは、長袖のブラウスにTシャツ。下はジーンズである。
 馨ちゃんは会社帰りの私服って感じで、赤のハイネックに白のジャケット。下はミニスカートである。服に会わせた赤いマニキュアがセクスィー。
 あたしはブラウスを脱ぐ。まだまだぁ!
『最初はぐぅ!ジャンケンポン!』
 馨ちゃん・都会チョキ
 あたし・田舎チョキ
『あいこでしょっ』
 馨ちゃん・都会チョキ
 あたし・パー
「また負けた!」
「うふふ…」
 あたしは長袖Tシャツを脱ぐ!次は下着…と見せかけてキャミソール。ニヤソ。
 …………
 それから数回のジャンケンを重ねた結果、靴下一足ずつ脱ぎ攻撃などという反撃もむなしく…
 あたし、ブラとショーツのみ。
 馨ちゃん、無傷。
「はぁっ……強い!強すぎる!!なんでそんなに強いの!?」
「うふふ。こう見ても、昔からジャンケンの馨ちゃんと恐れられてきたのよ。」
「すごい特技だね…。…で、でも次は負けない!」
『最初はグゥ!ジャンケンポン!』
 馨ちゃん・グゥ
 あたし・田舎チョキ
「…………あぁぁあっ!」
「……ハイ、脱いでねぇ。」
「…うっ…。」
「…私が脱がせてあげようか?」
 そう言ってクス、と笑みを浮かべる馨ちゃん。
「じゃ、お願いします」
 くるっと後ろを向く。
 わかってくれるだろうか…あたしの意図を。
 ふっと背中に触れた手が、すぐに前へと滑ってくる。そう…あたし、今日はフロントホックブラなのだ。
 パチンとホックを外され、あたしの胸が露になる。
 馨ちゃんのブラを取る手が、あたしの胸に直に触れる。
 ぱさ、とブラが床に落とされるが、馨ちゃんはあたしを後ろから緩く抱いたままの体勢で、
「…じゃ、最後のじゃんけんね。」
「…うん…」
「ジャンケン…ポン。」
 あたしはパーを出した。
 馨ちゃんはグゥ。
 …あたしはすぐに、チョキに変えた。
「…今、反則しなかった?」
「してないよ…あたしの負け…」
「…そうね。」
 クス、と耳元で馨ちゃんの悪戯っぽい笑みを感じる。
 そして馨ちゃんはあたしの後ろでしゃがみこむと、後ろからゆっくりとショーツを下ろしていく。
 ―――。
 その後は、馨ちゃんにされるがまま、だった。
 自分でも信じられないくらい、馨ちゃんに手玉に取られるあたし。
 散々焦らされ、弄られ、そして――
「もう、我慢出来ないよ……馨ちゃん、お願い、…お願い、だから……。」
 言うのも恥ずかしいけど、あたしは目隠しをされ、両手の自由すら奪われて、馨ちゃんに全ての権限を握られているようなものだった。身体が言うことを聞かない。唯、貪欲に、快楽を求め続けていた。そんなあたしを嘲笑うかのように、馨ちゃんはあたしを視姦する。
「はぅ…お願い…おかしくなっちゃう…。」
 そう懇願するあたしに、姿の見えぬ権力者は、言った。
「紀子、触ってあげてもいいけど、一つ条件があるわ。」
「なに?なぁに?」
 あたしが急かすように言うと、馨ちゃんはクスクスと笑い、そして、
「私の奴隷になりなさい。」
 ――と、言った。
「え…!?」
「私の奴隷になると誓いなさい。」
「馨ちゃん…」
 彼女の言葉を理解するまでに時間がかかった。
 その間も、馨ちゃんを求め続ける欲求は、加速し続けていく。
 あたしの頭はもうショート寸前で…―――
「なります…。馨ちゃんの奴隷に…!」
「…もっと大きな声で、はっきり言って。」
「馨ちゃんの奴隷になります…!」
 無我夢中で、そう、叫んでいた。
「よく言えたわね。」
 馨ちゃんの優しい声。
 そして、彼女の指が、あたしの淫らな身体を犯していく―――。





「う、ん…」
 小さく唸る声に気づき、私―――松雪馨―――はベッドに眠る紀子を見遣った。
 紀子は小さく身じろぎし、やがて目がゆっくりと開く。
「目が覚めたみたいね。」
 私は小さく言い、紀子のそばに寄った。
「……ぁ…、…馨ちゃん……?」
 ぼんやりとした表情で、私を見つめる。
「…ごめんね紀子。ちょっとやりすぎたわ。」
「…ううん…気持ち良かった…。」
 そう言って薄く笑む紀子に、そっとくちづけを落とす。
「それにね馨ちゃん、あたしは……」
 よいしょ、と上半身を起こす紀子。そしてにはりと笑み、
「あたしは馨ちゃんの奴隷だもの。」
「え…?」
 紀子の言葉、思わず聞き返した。
「言ったじゃん……誓います…って…」
「…な、何言ってるの…あんなの、忘れていいわよ。」
「…やだ。あたし約束は守るもん…」
「……紀子。」
 押し寄せる愛しさの波に、私は彼女を強く抱きしめていた。
「…どしたの?」
「……紀子…、まったく…本当に罪な子。」
「えへへ…」
 次の瞬間、自分でも驚くような言葉が私の口から零れた。
「紀子のこと、好きになってもいいかしら…」
「…え…?」
「…なんてね。…可愛いわ、紀子…」
「…馨ちゃん……」
 この時、確実に紀子に魅かれていく自分に気づいていた。
 紀子が遊びだとしても…
 こんなに愛しい気持ち、初めてなの…。





「弥果ちゃ〜ん!」
「あっ、はいぃっ!」
 弥果―――林原弥果―――は先輩保母さんの声に返事を返して、とててっっと走っていきます。
「桃組の守くんのご両親が見えてるから、お願いね。」
 と、先輩は泣きじゃくる茜ちゃんを抱きながら言ったのです。弥果はコクンと頷き、
「分かりましたぁっ」
 と言いながら桃組の教室に。
 ガララっと扉を開けて、
「守く〜ん?いるかなぁぁ〜??」
「ぅぉ、弥果ちゃんじゃん!」
 教室の奥から走ってくる、ちびっこい男の子。只今4さぁぁいっ!きゃわいいっ!!
「守くんのパパとママがお迎えに来てるよぉー。帰りの支度をしてくださぁいっ」
「はぁーいっっ」
 守くんにはりっと笑んで、自分のお荷物をまとめてかばんを背負うのですっ。
「守くん、バイバーイ!」
「ばいばーい」
 守くんはお友達に手を振って、弥果と一緒に教室を出るのです。
 幼稚園の玄関までの道程――。
「な〜弥果ちゃん。」
「ん?なぁに?」
 つないだ手をぷらんぷらんさせながら、守くんを見遣りました。
「弥果ちゃんって、恋人いんの?」
「ふぇ?」
 突然の問いに弥果はビックリです!
 やっぱり最近の幼稚園生はマセてますよぉぉ……
「いるの?」
「い、いないよぉ〜〜」
「ふぅん…。じゃあさ、俺の恋人にしてやってもいいぜ。」
「!」
 ……うひょー。
 実は守くんって、幼稚園の中ではかなりモテモテくんなのですぅぅ。よく女の子に『好きな人がいるの…』っていう相談を受けるんですがっ、かなりの割合で守くん目当て!
 …そんな守くんにこんなこと言われちゃう弥果って、ラッキーなのかな……
「な、なんだよっビビってんのかぁ〜」
「えっ、い、いや、そ、そのぉぉ…ビックリして!」
「…で?どうすんの?」
「………守くん。弥果と守くんは17歳も離れてるんだよぉぉ…。」
「……17歳?」
「だから、守くんが十八の時には、弥果は、………………」
 頭の中で計算して、一瞬泣きたくなりました。
「なんだよーちゃんと言えよぉ」
「守くんが18歳の時、弥果は…さんじゅーご…歳。」
「……………。」
 いや〜な感じで沈黙。
 な、なんで黙ってるのさぁぁ!
 どーせ弥果はおばさんですよーっだ!
「………ゆまセンセー、40だ!」
 突然言った守くん。その言葉に、弥果は思わず吹き出しましたぁ。
「あってる?弥果ちゃん今、21でしょ?で、ゆまセンセーが26でしょ??35たす5で………」
「守くん、あったまい〜!」
「だろ〜?くもんしきやってるもんっ」
「えら〜い!」
「じゃあさ〜弥果ちゃんが30になって売れ残ってたら、俺が結婚してやるよ!」
「あははは、本当?」
「本当っ!」
「…約束ね。」
「うんっ」
 つないでいた手をほどいて、小指をきゅっと結びました。
 そして二人で笑ったのです…。
 こういう時、保母さんやってて良かったなぁって思うんです。まだ半人前の見習いで、保母さんではないんですけどねぇ。
 幼稚園の玄関に、守くんのご両親がいらしてましたっ。
「どうも、お世話になってます。」
 お母様の方が深々と頭をさげるので、弥果も慌てて頭をさげるのですっ。
「そんな堅苦しくしなくても。ねぇ?見習いの保母さん。あっ、申し遅れました、守の父です。今後ともごひいきに。」
 教養の良さそうなお母様に、爽やかで楽しそうなお父様。
 こういう環境だから、守くんもモテる人格が形成されていくんだろうなぁ…。
「今日は恵子の誕生日なんですよ。だから家族で食事に♪」
「あなたったら…そんなこと言わなくても」
 お父様の言葉に、お母様が照れたように苦笑します。
「ごちそー食べるんだよね♪」
 守くんもはしゃいでご両親を見上げますっ。
 そんな守くんの頭をわしわしと撫でながら、
「それじゃあ、失礼します。」
 とお父様が頭を下げ、その後でお母様が更に深々と頭を下げ、親子は歩いていきました。
 ファミリータイプのワゴン車に乗って、車の中の、とても仲良さげな雰囲気。弥果は、自分の心の中にある『羨望』に気づいていました。
 車の中で、見送っている弥果に気づいた守くんが大きく手を振ってくれます。
 弥果も笑んで、手を振り返しました。
 可愛いよね…守くん……。
 あと10年…待ってみようかなぁぁ…。
 そんなことを思いながら教室の方へ戻る途中、…弥果は思い出したのです。
「…夕ちゃん…」
 人気のない廊下で、ぽつりと呟く。
 ………。
 あれから二カ月過ぎて、季節もすっかり変わってしまいました。
 ……それでも、記憶にしっかりと残ってる。決して消えることはないあの出来事。
 ………夢だったなんて、信じられません。
 弥果は夕ちゃんを待ってなきゃ…。
 夕ちゃんから電話があるはずだよ…
 あのレシートの裏に書いた電話番号。
 …弥果はズボンの後ろポケットにはいった携帯を、緩く握りました。





『杏ちゃん、こんばんは。』
 ……!!
 あたし―――岩崎安曇―――が、Ciccoさんのサイトのチャットに入室して、ぼんやりしていた時だった。
 時間は夜の11時。
 ネット上の動きが一番頻繁になる時刻だ。
 突然の入室者。
 期待していたとは言え、心臓が高鳴った。
 …しばらくの間、Ciccoさんはチャットに現れなかった。
 …あたしも、チャットにあんまり行かなかった。
 なんだか怖くて。
 …あれから二ヶ月とちょっと。
 あの時の出来事は、少しずつ思い出になっていく。
 でもそれじゃダメ。…それじゃ、ダメなんだよ!
 あたしは、Ciccoさんに確認しなくちゃって、ずっとそう思って。
 けど、今夜もCiccoさんは来ないかもしれないけど、とか色々考えながら待ってた。
 …そして、来てくれた。
『こんばんは、Ciccoさん。』
 あたしは、そう打ち込んだ。
『杏ちゃん、聞きたいことがあるんだけど』
 Ciccoさんの打ち込んだ文字に、鼓動が更に早くなる。
『なんですか?』
『杏ちゃんのイニシャルって、A・I?』
 ―――!
 あたしはCiccoさんの発言に驚いた。
 あたしが望んでいた事態。
 そう…あの遊園地の出来事が……
『そうです。なんで、それ…?』
 やっぱり…夢じゃなかったのかな…
『杏ちゃん、私のイニシャル知ってる?』
『N・Y、ですか…?』
『ね、メアド教えて。』
『aplicot@hatmail.com これでいいですか?』
『ありがと。ごめん、急落ち。あとでメール送るから待ってて』
『はい!』
 すぐに、『Ciccoさんが退室しました。』の文字。
 ………な、なななな……。
 あ、あたしも落ちよう!
 心臓がドックンドックン言ってるよ…
 Ciccoさん……本当の本当にCiccoさんなのかな…?
 …紀子さん……なのかな……!?
 ……うあああ……ドキドキする…
 …………メール…早く…届け…!





「花月!!いる!?」
 …と、なにやら騒々しく私―――名村花月―――の部屋に駆け込んで来たのは、私のマネージャーだった。
「ど…どうしたの?」
 彼女の慌てぶりに圧倒されながら、私は問う。
「大ニュース!さっき警察から電話があったの!」
「…警察?」
 その言葉に、私は眉を顰めた。少し狼狽したが、よく考えてみると私は犯罪に触れることなど一切していないはず。
「なんで警察なの?」
 私が問うと、勝手に私の部屋の冷蔵庫からお茶を飲んでいるマネージャーは(随分息が切れていたから走って来たのだろう。今日は大目に見ることにして)、一息ついて言った。
「それがね、モデルで薬やってる子って結構居たじゃない?」
「…はぁ?」
 私は彼女の言葉に、ますます眉を顰めるばかりだった。
「え?…花月知らないの?とにかく、結構居たのよ、ヤク中の子が。その子たちが芋蔓式に捕まっててね…」
「へぇ。…………うっそ?!」
 一旦納得したのはいわゆる条件反射ってやつで、彼女の言葉を理解して初めて私は驚きを露にする。
「嘘じゃないわよ。…花月の知ってる子も何人かいたわよ。」
 そう言って、彼女はいくつかの名前を出した。
 私がプライベードでも仲良くしていた子の名前もあった。
 私はその事実に、ただ愕然とするだけだった。
 …どうして、そんなことに……。
 ………私はもう、大切な人を失ったりしたくないのに。
 …そう、永遠の別れではないと判っていても、私は知ってしまった。
 一時の別れですら、毎日が悲しくて、切なくて、おかしくなってしまいそうになること。
 そう考えて、ふと梨花のことを思い出す。
 いつものこと。何を考えていても、梨花のことが頭に浮かぶ。
 ……一時の別れ?
 私はさっきそう言ったけど、本当はどうなのかわかんない。
 一生会えないかもしれない…?
 …そんなのっ…。
「花月?」
「あ…。」
 マネージャーの声に、私はふと我に返った。
「まぁ、ショックなのはわか」
「ねぇ!」
 彼女の言葉にかぶせて、私は言った。
「ねぇ、フリージャーナリストとか来ないの?」
「は?なんでよ?」
「え?…なんでって、その…スキャンダルだし…。」
「まぁスキャンダルには変わりないけど、花月は関係ないじゃない。」
「うん、そっか…。」
 落胆。
 …ずっと、色んなところからフリージャーナリスト“荊梨花”を探したけど、その名前がヒットすることは全くなかった。
 もうっ、ちょっとくらい有名になっててよ、梨花のバカ…。
「警察の人、15時頃に来るって言ってたから。あと10分くらいね。…花月は、何も知らないなら、そう言えばいいからね?」
「…うん、わかってる。」





「全く、名前も聞かないなんてバカじゃないの?」
「す、すいません…。」
 都内某所にあるマンションのエレベーターの中で、私―――荊梨花―――は部下の警官を叱咤していた。モデルのクスリ中毒の件で、殺人課の私達も駆り出され、更なる検挙を目標に動いているのである。
 モデル事務所から住所を聞き、一軒一軒廻っての聞き込み。モデルの中には、警察の名を出すだけで知っていることを洗いざらい話してくれる者も少なくない。
 そうこうしているうちにエレベーターは目的の階に到着した。ひんやりとした秋風が頬を撫でる。10階建てのマンションの最上階。都内でも比較的中心にあるこの建物の10階からは、東京の町並みがよく見える。
 そんな景色を眺め、私はふと思った。
 この大都会東京のどこかに、花月も居るのだろうか、と…。
 モデルが芋蔓式に検挙されているということを聞いて、私は真っ先に捕まったモデルの名を調べた。そこに花月の名前はなかった。ほっとしたのだが、どこか残念に思う私も居た。
 …残念に思うなんて、ね。花月が薬をやっているなんて、そんな事実信じたくないし、再会が署内や留置所なんて最悪だ。
 あの後、書店で花月の載った雑誌を見かけた。その時はやけに嬉しかったものである。花月が現実に存在しているという事実だけで、その時の私は満たされた。
 けれど、今はそれだけじゃ…足りない。………会いたい。花月に、会いたい。
 花月は有名なモデルで、私はただの刑事。そりゃあ警察の名を出せば花月の住所を調べ上げることも可能かもしれない。けれどそれは許されないことだ。
 …何度も迷った。けれど、…警察である私のプライドが、そんな反則は許さなかった。
「えーと、107…、4,5,6…、あ、此処ですね。…表札、何も書いてないですね。」
「そうね。…まぁ、有名人は普通書かないモンなんじゃないの?」
「そうッスね。」
 などと話しながら、部下はインターフォンを押した。
 少しして、扉が開いた。
「警察の者ですが。」
 部下が警察手帳を見せ、中の女性に言う。
 出てきたのは、モデルにしては見栄えのない女性。
「あ、はいっ。少々お待ち下さい。」
 女性は私にも会釈した後、部屋の奥に消えた。
「…マネージャーさんッスかね?」
「でしょうね。」
 何気なく、玄関を見遣る。
 小さな小瓶に生けられた花。その隣に、月の映ったポストカードが飾ってある。
 …花…、…月?
 …花月…?
 …、なんて…
「お待たせし……」
 その声に、顔を上げた。
 刹那、女性は目を見開き、言葉を切った。
 …それは、私も同じようなものだった。
「花、月…?」
「梨花…!」
 私と、女性の声が重なる。
 …女性、その女性は…
 何度も夢に見て、いつも恋焦がれ、…初めて、心底愛した人。
「…梨花…よね…?…梨花だよね…!?」
 女性―――花月は、まるで幻でも見ているような目で、私を見つめた。
「花月。……華、って呼んだ方が、良かった?」
 そう、“ただの刑事”が知るはずもない、彼女の本名を呼んだ。
 それが、証拠。…私が彼女を知っている証拠。
「う、うぁん…梨花ぁっ…!!」
 かすかに涙声で、花月は私に抱きついてきた。
「…花月…。」
 そう、このぬくもり。この感覚。この、甘い花月の香り。
 …ようやく、実感が湧いてきた。
 …ああ、私は今…
 とても幸福な時を過ごしてるんだ、って。
「…あ、あの…?」
 …邪魔な奴。
 私は仕方なく花月をそっと離し、隣に居る部下を見遣る。
「…コホン。…えっと、花月とは昔の友達なの。…偶然の再会、ってやつよ。」
 極めて冷静を装いながら言うが、花月は既に泣きじゃくっている状態で、とてもこんな嘘が通じるわけがないと、後から気づいた。
「…違うよぅ。梨花と私は…恋人、でしょ?」
 ポロポロと涙を零しながら、花月は少し拗ねたような表情で言った。
 部下は驚いた様子で花月と私を交互に見る。
 …ま、花月があんなはっきり言っちゃどうしようもない、か。
「…このことは…誰にも言っちゃダメよ。いいわね?」
 苦笑を浮かべて言うと、部下は大袈裟に敬礼し、
「ハッ、了解しました!」
 …と、今まで見せたこともないような声でハッキリと言った。ちょっと声が上擦ってるけど。
「…うあ〜ん……。」
 廊下にペタリと座り込んで泣きじゃくる花月。
 私はしゃがみ込んで、花月と同じ目線で、そっと花月の肩を撫でた。
 花月の泣き声が聞えてか、先ほど対応した女性が奥から出てくる。
 でも、今の私の一番の優先事項は、花月を安心させること。
 二人の視線を無視して、花月にそっとキスを落とした。
 一秒だけの小さなキス。
 それだけ、の、些細な確認。
 顔を離した私を、花月は見上げて…ようやく、笑顔を見せてくれた。
 その笑顔は、一生忘れられそうにないほど可愛くて、綺麗で、…愛しかった。
「…もう絶対離れないで。…絶対…!」
「わかってる。…私だって花月を離したくなんかないわ。」
 そう頷いて、そっと花月の耳に顔を寄せ、
「…愛してるわ。」
 と囁いた。
 すると花月は、
「うん…私も愛してる!」
 と大きな声で返す。…耳打ちした意味ないじゃない。バカね。
 傍観者二人の視線に苦笑しながらも、私は…とても幸せ、だった。





『運命って 信じる?』
 …。
 あたし―――悠祈紀子―――は、パチパチとキーボードを叩いて表示された文字を、眺めた。
 メールのタイトル欄に、そう打って、あたしは小さくため息をつく。
 …馨ちゃんと寝た翌日。
 杏ちゃん―――いや、安曇ちゃんと連絡を取るために。
 馨ちゃんとああやって再会するまで、悩んだりはしていた。
 杏ちゃんとの運命的な出会い。
 ……でも、あたしはそれは夢だったんだって、そう考えることにしてた。
 いつの間にか、あの遊園地での一週間を夢だと思うことにしてた。
 …楽しくて、幸せすぎる一週間。夢とでも思わないと…辛かった。
 でも、馨ちゃんと再会して、…あれが夢じゃないって証明されたんだ。
 だからあたしは、チャットで杏ちゃんにメールアドレスを聞いて、そしてこうしてメール作成画面に向かっているワケ。
 イニシャルで確認とかしてみたけど、…もしかしたら偶然、かもしれない。
 わかんない。もっとちゃんと確認した方が良かったのかな。
 …でも、あたしは信じたい。あれが夢じゃなかったって証明されてるんだから。
 杏ちゃんは、安曇ちゃんなんだって。
 あたしは一人で頷いて、キーボードを叩き始めた。
『Ciccoです。突然、メールしたりしてごめんね。
 とっても大事な話です。
 …あ、でも、私が話してることが全然意味わかんなかったら、このメールは迷わず削除しちゃって下さい。なかったことにしてください。

 回りくどいのは苦手なので、単刀直入に言っちゃいます。  
 杏ちゃん…安曇ちゃん。
 あの遊園地でのこと、覚えてる?
 …杏ちゃんの記憶の中に、あの遊園地で私と会ったってこと、存在してる?
 もしかしたら私の夢だったんじゃないかって、何度も思った。
 思ったんだけどね、実は昨日、馨ちゃんと衝撃的な再会を果たしてしまいました。
 馨ちゃんは遊園地のこと、ちゃんと覚えてた。
 確かめ合ったの。あのことは現実だったんだよね、って。
 …それでも、まだ不安。
 確かめなくちゃ。
 ウジウジ考えてるのは性に合わないから、ストレートに聞こうと思って。
 杏ちゃん。杏ちゃんは安曇ちゃんなのかな?』
 …うーん、送信!!
 メールってのは、読み返さない方がいい。
 読み返すと、なんだか恥ずかしくなって送るのやめちゃいたくなるから。
 …あたしはたった今、このメールを送信してしまった。
 …だから、今この瞬間、杏ちゃんのメールアドレスにこのメールが届いてしまった。
 さぁ、あたしが今から出来ることは…待つことだけ!!





『運命って 信じる?』
 ……!
 そんなタイトルと、見知らぬメールアドレス。
 マウスを持つ手が震えた。
 あたし―――岩崎安曇―――は、左手で右手を握った。
 震えを静めて、マウスを動かす。
 カチッカチッ。
 メールを開いて、…また、手が震えた。
 嬉しくて…震えた。
『杏ちゃん。杏ちゃんは安曇ちゃんなのかな?』
 …。
 Ciccoさんは…
 やっぱり…
 あたしは一つ深呼吸して、返事を書く。
『Re:運命って、存在するんですね?!』

『>杏ちゃん。杏ちゃんは安曇ちゃんなのかな?

 そうです。そうです!!安曇です。岩崎安曇です。
 そういうCiccoさんは、紀子さん、なんですよね?悠祈紀子さん、ですよね!?
 …嬉しいです。めちゃくちゃ嬉しいです。
 あたしも、夢だって思ってました。
 そう信じようって、信じ込もうとしてました。
 でも、現実だったんだ!
 …嬉しいです。嬉しいです!!
 紀子さん、あたし、また紀子さんに会いたいです。
 …本当は玲にも、すごく会いたいです。

 携帯の番号、書いておきます。
 良かったら連絡下さい。
 待ってます。
 安曇』
 …メールって、読み返すと恥ずかしくなるんだよね。
 だからあたしは、即行で送信ボタンを押した。
 …紀子さん、紀子さん…!!
 ……夢じゃ…なかったんだね…。
 …玲…、玲もどこかにいるんだよね?
 …ねぇ、玲…。会いたいよ…。



 キィィー!!
「え…!?」
 会社帰りのいつもの道。
 家から徒歩10分の会社まで、私―――嶺夜衣子―――はいつも歩いていく。
 そして歩いて帰る。
 …今日もいつものように、帰路についていた時だった。
 突然、道を塞ぐように私の前に止まった車。
 BMW…?
 窓は黒いフィルムが張ってあって、誰が乗っているのかもわからなかった。
 意味もわからず私が立ちすくんでいると、車の左側の扉が開いて、誰かが下りてきた。
「見つけたのだー!!」
「…え…?!」
 中から出てきたのは、赤いスーツに浅黒い肌色をした女性。
 髪は茶色で、大きなサングラスに赤い口紅。
 …しかしその女性の声は、その外見に似合わぬ幼いものだった。
「夜衣子、でしょ?」
「…あ、は、はい…。…あの、あなたは…?」
 女性は私の名を呼ぶ。
 不安を感じながらそう聞き返すと、女性はクスッと笑った。
「わかんないかな〜あたしだよ、あたし!」
 女性は颯爽とサングラスを外した。
 …って……?!
「夜衣子、久々〜!」
「…さ、紗理奈ちゃん…!?」
「おう!元気してた?」
「………。」
 目の前に立つ女性に、私は絶句した。
 その女性は、私の夢の中に出てきたはずの女の子…だった…のに…?!
「ほら、乗って。積もる話もあるっしょ!」
 紗理奈ちゃんは、そう言って車に乗り込む。
 私は慌てて車の向こう側に走って、左ハンドルの車の助手席に乗り込んだ。
「………えっと?」
 颯爽と車を走らせる紗理奈ちゃんに、私は首をかしげるしかなかった。
「もぅ、探しちゃったよ〜。最初は自力で探そうと思ってたんだけどさ、なんか無理っぽい?とか思って、結局パパに協力してもらっちゃった★」
「……ご、ごめんなさい。状況がよく理解できないんだけど…。」
 明るい様子の彼女に対し、超混乱中の私。
「だーかーらーっ。あたしさ、気づいたら自分の家のマンションにいてね。最初はびっくりしてたんだけど、びっくりしててもどうしようもないじゃん?だから夜衣子のこと探してたわけよ。」
「…どうして、探したの?」
「どうしてって、会いたいからに決まってるじゃん。」
「………私、あのこと、ずっと夢だって…そう思ってたの…だから…。」
 紗理奈ちゃんは、チラリと私を見遣り、笑った。
「そんなのつまんないじゃん。とりあえず調べとけ!って思ってさ♪夢だったら夢だったで見つからないだろーけど、ほら、花月さんとか普通に雑誌載ってるし、夢じゃないだろ!って思って。」
「……そっか。すごいね、そんなふうに思えるなんて。」
「そう?」
「うん。」
 私が頷くと、紗理奈ちゃんは何が可笑しいのか、またケタケタと笑っていた。
「…でも、どうして私のこと?他にも連絡つけやすそうな人、いるんじゃないの?」
「ん?そんなの、夜衣子に会いたかったからに決まってるよ★」
「…わ、私に?どうして?」
「どうしてって、好きだからだよ。」
「…え…?」
「……あれ?夜衣子もしかして恋人できた?」
「…え、ううん、出来てないけど…。」
「じゃあいいじゃん。あたしと付き合おうよ。」
「………はぁ?!」
 混乱から更に混乱。もう意味がわからなくなって、私は大きな声で聞き返していた。
「…もう〜頭悪いな〜。」
「う。」
 紗理奈ちゃんに言われるとちょっと哀しい。
 …ふと気づくと、車は河川敷のようなところの駐車場に止まっていた。
「…?ここに何かあるの?」
 私が問うと、紗理奈ちゃんは首を横に振る。
「なにもないよ。なにもないからいいんだよっ。二人っきりになりたかったのだ!」
「…かったのだ!って言われても…。」
 運転する必要がなくなった紗理奈ちゃんは、ニコニコと笑顔を浮かべて私を見つめている。
 ……。
 …これは、夢のつづき…?
「…頭、悪いなぁ。」
 紗理奈ちゃんはポツリと呟き、すっと右手を伸ばして、私の左手を握った。
 あ…、…あったかい。
「……早く、これが現実だって実感しなよ。ね?」
「…うん…実感、した、かも…。」
 紗理奈ちゃんの手のぬくもりが、伝えてくる。
 これは現実。これは現実。夢なんかじゃないよ、って。
「宜しい★」
 紗理奈ちゃんは満足げに頷くと、私の手を握ったまま、唐突に歌いだした。
「♪あぁ〜神様〜モンキーガールはついに〜 新しい恋に襲われてしまいました〜♪」
「…襲われて…しまいました…。」
 その歌詞を、思い出深いその歌詞を、私は復唱した。
 そんな私を彼女はチラリと見遣り、
「…襲われてみる?」
 …と言った。
「………。」
 私が黙っていると、紗理奈ちゃんは私の肩をクッと抱き寄せた。
 その指が首筋に触れ、すっと落ちる。
 ドクン、と、心臓が音を立てる。
「……黙ってると、襲っちゃうぞ?」
 そう言う彼女を見遣ると、彼女はすっと顔を近づけてきた。
 ……。
 唇が触れ合った瞬間、私はようやく、現実という実感が湧いてきた。
 …。
 ―――嬉しかった。





「……嫌です。」
 たった今、私―――姫野忍―――は生まれて初めて、お医者様に反抗というものをした。
「え…?だけど、あなたの中に宿っている人格は、あってはならないものなのよ。消さなくちゃならないものなの。あなただって、その人格のせいで苦しい思いをしてきたんでしょう?」
 精神科の若い女医さんは、少し驚きながらも、説得するように言う。
 麗かな日差しの差し込む午後。
 私は総合病院のベッドで、精神科のお医者様と話をしている最中。
 …だが、入院している理由は精神的な病ではなく、生まれながらに弱い身体の体調悪化によるものだった。
 二ヶ月前、肺炎で入院して以来、後から後からやってくる病のせいで、私はずっと病院のベッドの上。あの時病院から抜け出して、マリアさんに会いに行った日。結局彼女とは会えず、しかも抜け出したこともバレてしまった。以来、監視の目も厳しくなってしまった。
 しかもその後、カルシウム不足で足を骨折し、今は抜け出すなどとても不可能な状態にある。
 今は骨折と体調不良で入院中で、総合病院内の精神科から、心身症の診察にも出張サービス。
 多重人格…つまり志乃のことで、お医者様と話している時。私は言ったのだ。
「…治さなくて、いいです。」
 治す―――それはつまり、志乃を消すということ。
 私は、それが…嫌だった。
 確かに、以前は志乃のせいで随分と嫌な思いをした。
 頭痛も酷かったし、マリアさんにあんな暴挙をしたのも志乃のせい。
 …けれど、マリアさんに出逢ってから、「恋人」になってから、志乃はその様子をがらりと変えた。
 志乃は「優しさ」を覚えた。それはマリアさんに対してもだが、私に対してもそうだった。
 相変わらず強引な性格ではあるが、…今は、変な話だが、まるで姉妹のような関係なのだ。
 …それになによりも、マリアさんが私に惹かれたのは、私ではなく、志乃がキッカケだった。
 志乃に惹かれたと言い換えても良いくらい。
 ………だから、せめて彼女に出会うまでは、…志乃を消すわけにはいかない。 
「…そうですか。…けれど、最終的にはやはり治療の必要があります。少し考えてみてください。…それでは、失礼します。」
 精神科の女医さんは、そういい残して退室した。
 要するに、頭を冷やせってことなのだろう。
 ………でも、私はこの考えを曲げたくない。
 …ねぇ、志乃?
『…変わったわね、忍。』
 え?…何が?
『何がって、性格が。今まで誰かに「イヤデス」なんて言ったことなかったでしょ?あたし以外の人に。』
 …そう、だったっけ?
『そうよ。………でも、それは、あたしにとっては都合が悪い、かな。』
 え?なんで?
『相変わらずバカね。…あたしは忍と正反対の性格のようなもんでしょ?つまり、忍に欠けてるものをあたしが補ってるのよ。』
 ………。
『あたしも、近々消える運命、かもね。』
 志乃…なんでそんなこと言うの?せっかく私が、志乃のこと…
『必要としてるのに?…そう、必要とするようになった時、あたしは必要なくなるのよ。』
 …。志乃は、マリアさんに会いたくないの?
『会いたいに決まってるでしょ。…でも、あたしは人格でしかないもの。…。』
 ………志乃…。
 …志乃。
 ………志乃?
 …ねぇ、答えてよ。
 何か、言ってよ…。
 消えないって、言ってよ…。
 ……。
「ひっ…く、…。」
 ねぇ、志乃…!
 お願いだから…
 お願いだからっ、
 ……
 消えないって言ってよ!!
 ……
 …
 ねぇ…
 ……
 私を一人にしないでよ…。









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