第九話・うつろいゆく現実




「う、ん…」
 やけに眩しい光をまぶたに感じ、私―――神泉柚―――はゆっくりと目を開けた。
 ガタンガタン…ガタンガタン…
 規則的な揺れ。
 ここは…電車の中…?
「柚、おはよ。」
「!」
 かけられた声に少し驚き、私はその声の主を見た。
 …大学の友人だ。
 遊園地に一緒にいった…あの……
 ……え…?
「もうすぐ着くよ。今日はガンガン遊ぼー!」
「…今、何時?」
「今?えーっと…8時50分。」
「何月何日?」
「柚、ボケてんの?8月21日だよ。」
 そうだ…彼女と一緒に遊園地に行ったあの時と一緒。
 …どういうこと……。
「ねぇ、私どのくらい寝てた?」
「ん?5、6分じゃない?」
 …5、6分…!?
 ……どういうこと…。
 わからない…。
 全て、夢だったの…?
 この手に抱きしめた瞳子の感触も…全部…?
『…遊園地前ーお降りの際は忘れ物に気をつけて…』
「さ、行こ。」
「う、うん…」
 休日、遊園地に行く人の波に乗り、電車を降りる。
 周りの人にも注意を配る。…もしかしたら、誰かいるかもしれない……。
 遊園地に入っても、私は辺りを気にしてばかりだった。
 しばらく遊び通し、この遊園地の名物である超回転のジェットコースターに乗ったあとのことだった。
「ゆーず〜、は〜やい〜〜。」
「え……、あ、ごめん…。」
 その声に私が振り返ると、友人は遙か後方でグタリとしている。
 私は友人の傍に戻り、
「ダイジョウブ…?」
 と声をかける。
「大丈夫じゃない…、あ〜キツ。……ていうか、柚、あんなジェットコースター乗って、よく平気でいられるなぁ?」
 彼女の言う、先ほど乗ったばかりのジェットコースターに目を遣る。やたら高い所から急降下していて、乗客の悲鳴がここまで聞こえる。
「別に…、大丈夫だけど…。」
 多少きついといえばきついけれど、ヘタるほどではない。
「柚…、悪い、休憩させて……や、やばい。」
 友人はそう言って、傍のベンチにふらふらと座り込んだ。
 私もその隣に腰を下ろす。
「あー、ごめんね、柚。……退屈じゃない?」
「ん、…少し…」
「遊んできてもいいよ。一人でだけど…」
「そう?………じゃ、行ってくる。」
「いくんかいっ!」
「…すぐ戻るから。」
 私は彼女の肩をぽんぽんっと撫で、そして歩き出した。…ホラーハウスへと。
 …ここからだ…、ここで、黒ずくめの夕にぶつかって…そして……。
 ………。
 しかし夕とぶつかった場所に来ても、夕の影も形もなかった。
 ただ辺りには、カップルや家族連れが楽しげに歩いているだけ…。
 どん。
 後ろから何かがぶつかった感覚に、私は目を見開く。
「あぁ、すいません! こら、ケンタ。危ないだろ?ちゃんと前見て歩けー」
 しかしそこには、一組の親子の姿があるだけだった。
 ………夕…。
 その瞬間、胸が締め付けられるような淋しさが私を襲った。
 瞳子…!
 緩みそうになる涙腺を堪え、唇を噛む。
 そして私はホラーハウスへと入っていった。
 あの時と同じ。
『まもなく、光満ちる世界への出口です…』
 そう、あの時と同じアナウンス…。
 そして……
 ガゴン。
 前にあった扉が開くと、そこにはまたにぎやかな遊園地の景色が広がっていた。
 本当に……夢だったの…かな…。
 私はベンチで待たせてある友人のところに、お詫びとして飲物を買って戻った。
「あ、サンキュ。よっしゃ、これ飲んだら復活するよ〜!」
「うん…。」
 私たちはまた遊園地で遊び、そして夕方には帰路についた。
 帰りの電車の中で、私はぼんやりと景色を眺めながら思った。
 夢だった―――?
 あの、夢のような、一週間。
 全部…夢――――?





「はい、花月ちゃーん、こっちこっち。そうそう、いいねーその表情!」
 今日は青年誌のグアビア撮影。
 少しキュート系の服に身を包み、私―――名村花月―――は笑顔を作る。
「じゃ、ストローに口つけてみようか。それで、ちょっと憂いの感じとかお願いしていいかなー?」
 喫茶店でのロケ。
 カメラマンさんの先生の注文に、憂いの表情を作ってみる。
「うんうん。あぁ、なんていうかな、好きな人を想う切ない表情、みたいな」
 好きな人を想う、なんて。
 …と、今までならば内心で笑っていた。
 しかし、今は……
「…それ…その表情…!すごくイイよ…!」
 シャッターが何度も切られる。
 仕事中にこんなこと考えるなんて……。
 今、私は…愛する人の事を想っていた。
 注文されなくても零れてしまう、憂いの表情。愛する人を想う切ない切ない感情。
 ……愛する人は傍にいない。
「撮影終了でーす!お疲れさまでーす!」
 カメラマンの先生のアシスタントさんの声がして、私は一息ついた。
「花月ちゃん、今日は際立ってたね。恋でもしたんじゃない?」
 からかうように言ってくる先生に、私は言葉が見つからずに微苦笑を浮かべた。
「あ、それよりも先生…、少しお聞きしたいことがあるんですけれど…」
「うん?なんだい?」
「フリージャーナリストで『荊梨花』っていう方、ご存じありません?」
「フリージャーナリストかい?…うーん、それなりに名が知れてる人は大抵わかるんだが…その名前は聞いたことないなぁ。」
「そうですか……すみません。それじゃあ、失礼します。」
「ありがとう、お疲れ様。また機会があったらよろしく頼むよ。」
「はい、こちらこそ。」
 私は先生に深く頭を下げ、マネージャーの車に乗った。
「さっき先生と話してた、なんだっけ、いばら…なんとか?って、なんの人なの?」
 私より4つ上の女性マネージャーは車を運転しながらそう尋ねた。
「あぁ、うん…ちょっと、ね…。」
「ちょっとって何よちょっとって?スキャンダルは御法度だからねー?」
「何言ってるの、その人、女性よぉ?」
「…花月の場合、女性でも危ないわよー。」
「それを言われると辛いんだけど…。……でも、…大丈夫よ。…本当にいるかどうかもわからない人だもの……」
「どういうこと?」
「………なんでもないわ。」
 ―――あの時。
 目が覚めると、私は自宅のベッドの中だった。いつもの目覚め。
 …夢だったのだろうか?
 遊園地には行った。しかしホラーハウスでは何も起こらなかったし、誰に会うこともなかった。
 ……本当に…夢だったの…?
 ねぇ、梨花……。
 梨花は…どこにいるの…?
 …梨花さえも、夢だったというの…?
 微かな絶望感が、常に私を蝕んでいる。
 梨花に会いたい……!!





「ぁ……?」
 あたし―――棚次夕子―――はふっと我に返ったような感覚がして、辺りを見回した。
 腕時計を見ると、朝の9時半過ぎ。
 ……ここは…。
 あたしは前に続く道を眺めた。
 この先に、あたしの母校である中学校がある。…先生の勤める場所。
 …そうか。
 薄手の黒いロングコートに身を包むあたし。
 やはりいくら薄手とはいっても、8月に長袖は暑い…。
 コートのポケットには、細いロープが入っている。
 先生のところに…行く前……?
 …前…なんだ……。
 あたしはポケットにはいったロープを強く握り締めた。





 がらっ!!
 私―――棚次瞳子―――は、職員室の扉を開いた。焦っているせいかやけに荒々しく開いて、注目を買ってしまった。
「………あ、すみませ、……」
 慌てて謝ろうとして、私は視界に入った人物に釘付けになった。
「先生…!」
「瞳…、……棚次さん…?ど、どうしたの?こんな時間に……」
「あ、ご、ごめんなさい!あの、うちの妹…棚次夕子、来ませんでしたか?」
「夕子さん?…来てないけれど…」
「来て…ない…?」
「えぇ。どうかしたの…?」
「…いえ…。」
 私は、飯島先生に促され職員室を出た。
「驚いたわ。久しぶりね、瞳子。」
 人目のつかない場所まで来て、飯島先生……素子さんは、微笑した。
「…はい…」
「…元気にしている?夕子ちゃんが卒業してから瞳子と接点がなくなっちゃったじゃない?だから淋しかったのよ。」
「…センセ…」
 私は彼女の言葉に、涙が溢れた。
 先生とこうして話すことが出来るなんて!
「瞳子…どうしたの…?」
 先生は優しく、私の身体を抱いた。
「…先生っ…、素子、さんっ……!」
 彼女の手が私の頬を撫でる。
 そして、唇がそっと……
 ………!
 とんっ。
 …私は彼女の肩をそっと押し、身体を離した。
 出来ない……私には……
「…瞳子…?」
「…先生…、ごめんなさい…私…。」
「……。」
「飯島せんせいー、お客さんですよー」
「あっ、はい!」
 職員室の方から聞こえた声に、先生は慌てて返事を返した。
「瞳子、また遊びに来てね?待ってるわ。」
 彼女は微笑し、小さく手を振って職員室に戻っていった。
 私は涙を拭いて、踵を返し学校を後にする。
 携帯で家に電話をかけた。
「もしもし、瞳子だけど。お母さん?夕は?」
 そう尋ねた私に返ってきた答えは…
「一度帰ってきたのね?高校、ちゃんと行った?そっか…良かった…。…うん、今日は大学、午後からだから、一旦帰るよ。じゃあね。」
 ピ、と携帯を切ってポケットにしまう。
 …夕…。
 …先生に会えて、夕のことで安心して…そしたら、まだ山積みになってる悩みが襲ってきた。
 とりあえず落ち着こうと、自販機で冷たいミルクティーを購入する。早速それを口にしながら、私は考え始めた。
 そう……柚さんのこと…。
 あの眩しい光に包まれてから、記憶が途切れている。そしてふっと気付いた瞬間、家の階段から落っこちた。
 …夢だったのかな…?
 先生も生きてた。ちゃんと生きてた。
 夕はちゃんと学校に行った。
 …あれは全部夢だったのかな……。
 …確かに、柚さんは夢のような人だった。
 でも…、でも柚さんがただの私の想像だとは思いたくない。
 ……ううん、思えない。
 さっき先生を拒んだのも、柚さんの顔がふっと私の頭を過ったからなんだもん…。
 その時、私は重要なことを思い出した。
 そうだ。柚さんが最後に言った言葉。
『青山学院大学の4年』
 柚さんは確かにそう言っていた。
 …青山学院大学。
 つまり、そこの学生ってことよね?
 柚さんってやっぱり頭いいんだ…。
 青学までは少し距離がある。
 それに今日は私も大学があるし…。
 夜にでも調べてみよう。HPにアクセスするか学生事務にでも尋ねればきっとわかると思う。
 ……柚さん…絶対見つけます…!





 私―――加護朱雀―――は、夜遅くの大型書店で、とあるコーナーにいた。
 …十八禁の小説コーナー。
 絶対周りから見たらおかしいんだろうな…。
 恥ずかしい…。
 そんな羞恥を隠せず赤くなりながらも、私はそのコーナーの作者名を目でたどっていった。
 そして、見つけた。
 『蒼峰遊姫』
 アオミネ…ユウキ……。
 全部で5冊の本が並んでいる。
 それぞれの本のタイトルは、どれもあまり卑猥な感じはしなかった。
 『時の空』『いちごみるく』『ノンフレーム眼鏡』『女の子ごっこ』『朱い色』
 出版社の方針なのか、どれも表紙はシンプルで、タイトルの文字だけ違う、という感じだった。
 …これなら買いやすいかも…。
 私はその五冊を全部購入することにした。
 レジに並ぶ時はかなり緊張する。
 レジに立っていたのは経営者のおじさんらしく、ここも運良く無事通過出来た。
 5冊の本を持って、私は帰路を急ぐ。
 あの遊園地での出来事は、今もよくわからない。夢なのか本当なのか。
 でもこの本を見つけたことで、私は信じてみようという気持ちになった。
 悠祈さん……。
 部屋に戻り、ドアを閉めて狭い居間に座り込むと、私はすぐに本屋の包装紙を剥いだ。
 どの本から読もうか……。
 『朱い色』も気になったが、それ以上に私の気を引いたのは『ノンフレーム眼鏡』。
 少し緊張しながらも、私は本を開いた。
 そして私の目に飛び込んできたのは、
『私は、ノンフレーム眼鏡が好き。
 コンタクトレンズも好き。』
 という文字。
 …………。
 妙に考えさせられた。
 というか私はどっちにも該当していない。
 コンタクトレンズ…。
 なんとなく考えながら、ページをめくる。
 …………
 ………
 ……
 …
 私は、完全に作品に引き込まれていた。
 猥らな中に溢れる、優しく、やわらかい言葉たち。
 活字で描かれた、女性達の群像。
 成年小説云々ではなく、一つの文学として、私の中に入ってくる物語。
 女性らしいあたたかい文章。
 時折覗かせる、微笑ましい笑い。
 その言葉一つ一つの向こうに、一人の女流作家の姿が浮かぶ。
「…っ……、紀子さん……っ…」
 私は小さく彼女の名を呼んだ。
 ……逢いたい。
 絶対、逢うんだ…。
 でも、私は、その前に―――。





「先生!起きてください!締め切りですよぉぉぉぉ!」
「……う…ん?」
 肩を掴まれ、身体を揺さぶられる感覚。
 ……あれ…、ここは…?
 ぼんやりとしたまま、あたし―――悠祈紀子―――を揺さぶる人物の顔を見る。
 …アシスタントの子だ。
 有紀子、通称ユッコっていう可愛い女の子。22歳。
 住み込みアシスタントである。
 ………あれ?
「先生!明日の朝まででしたよね?」
「……あ?え?、今日、何日?」
「何日って、21日です!22日の朝が締め切りです…!」
「…うそ。21日…!?」
「……どうかしたんですか…?」
「…ううん…、そ、そっか、締め切りね。OK。」
 あたしは目をこすりながら、パソコンに向かう。
 ヴン…と低い音を立てて起動する。
 その様子をぼんやりと眺めながら、あたしは考えていた。
 …夢だったのか、と……。
「先生!コーヒーいれましょうか??」
「…あぁ、うん、お願い。」
「はいっ」
 書きかけの小説を立上げる。
 今は、何をしてもダメで自分に自信がない少女が変貌を遂げていくもの。
 連載中で、まもなく最終回なのだが…
 実はラストがまだ決定していない。
「はい、せんせ。」
 コーヒーを持ってきたユッコに小さく礼を言い、あたしはまた集中してパソコンのキーボードを叩いていく。
 何故集中していたのかよくわからないが、あっという間にできあがった。
 できあがった作品をメールで送信しながら、次の最終回のことを考えている。
 どうしよ……。
「先生!お疲れ様ですっ。」
「ん…。」
 後ろから抱きついてくる有紀子。
 あたしは無意識にそれを軽くあしらい、ネットワークに接続した。
 あたしが管理している擬似人生チャットサイト。
 掲示板は前回見た時から、ほとんど書き込みが増えていなかった。
 一週間経っているはずなのに…一日も経っていない……。
 ついさっきまで、みんなと一緒にいたのに。
 …夢だったの…かな…?
 ふと、杏ちゃんの古い書き込みが目に入った。…そうだ。杏ちゃん……。
 …しかしあいにく、あたしは彼女のメールアドレスを知らない。
 いつもチャットで話してばっかりだったからだ。
 チャットを見ても、つい昨日に「Cicco」と「杏」が退室してから誰も入っていない。
 昨日……?一週間前……?
「先生…なんだかいつもと違いませんか?」
 後ろからユッコの声がする。
 軽く椅子を回して彼女を見遣り、あたしは言った。
「…キスしてあげようか?」
「……はい。」
 ユッコはあたしに近づくと、受け身の体勢で待っている。
「…………やっぱやめた。気分が乗らない。」
「えっ、そんなぁ…」
「…そんなにキスしたいの?」
 あたしがいじわるく聞くと、彼女はしばし戸惑ったのちに、
「……したい、です。」
 と零した。
「…じゃ、ユッコからして。あたし何もしないから。」
「…わ、わかりました。」
 有紀子は緊張した面持ちでそう言うと、あたしの頬にそっと手を宛てがう。
「いきます…」
 小さくそう囁き、唇を寄せてきた。
 ちゅっ、と音を鳴らせ、フレンチキスを何度も重ねてくる。
 ……なんだかじれったいなぁ。
 あたしはぐいっと彼女の頭を抱き、彼女の口内に舌を深く差し入れた。
「…ん…ふ……」
 ちゅくちゅくと唾液の絡まる音がする。
 ユッコの柔らかい舌が、おずおずと私の中に忍んで来る。
 深くて長いキス。
 ようやく唇を離すと、彼女は上気した表情で息を漏らした。
「はい、おしまい。」
 あたしはくるりと椅子を回して、またパソコンに向き直る。
「そ、そんな…、先生……」
「何よ…キスって言ったじゃない。他のことは何も言ってないんだけど?」
 HPの裏作業をしつつ、あたしは言う。
「…ぁぅ…。」
 ユッコの困ったような、泣きそうな声が聞こえる。
 ……ユッコはかなりの淫乱ちゃんである。
 あたしがそんなふうに育てちゃったんだけど…。
「………ユッコ、スカート脱ぎなさい。」
 あたしは彼女に見向きもせずに、そう命令した。
 がさごそと衣擦れの音、そして、
「…脱ぎました。」
 という言葉。あたしは更に、
「じゃ、下着も脱いで。」
 と軽く命じる。
「ハイ…」
 …奴隷のような従順さ。
「脱ぎました…」
「…じゃ、寝室から好きなおもちゃ取ってきなさい。」
「…はいっ。」
 嬉しそうに返事をし、彼女が部屋を出ていく気配。私はチラリと後ろを見遣る。そこには脱ぎ捨てたスカートとショーツが落ちていた。
 あたしは立ち上がってショーツを拾うと、布についた染みと液体に気付く。
 指先で液体を掬い、それを舌で嘗めた。
 ユッコの味がする。
 リアリティのありすぎるこの場所。
 そして夢としか思えないあの場所。
 あたしは考えるのも疲れ、ぼんやりとユッコを待っていた―――。





「え?だめなんですか?」
 私―――棚次瞳子―――は、受話器の向こうから聞こえる声に聞き返していた。
「プライバシーですか…。その学生がいるかどうかだけでいいんです。それでも…だめなんですか?」
 そう言っても、青学の学生事務局は取り合ってくれなかった。
「……わかりました。ハイ、すみません。」
 私は学生事務から調べる方法を諦めた。
 電話を切り、ため息をつく。
 友達にも聞いてみようかな、青学の知り合いがいないかどうか。
 ……あとは、最終手段よね。青学まで行って柚さんを探す…。
 とりあえず友人にかけてみようと、電話帳に手を伸ばした時だった。
 ガチャ、と玄関が開く音。
 夕が帰ってきたのかも!
 私は部屋を出て、階段を降りようとスピードをつけ……
 階段を降りようと足を踏み出した瞬間、夕と鉢合わせた。
「きゃぁぁ!」
「わぁ!」
 ドンッ、ドタドタ……
 勢い余って、二人で階段を転がり落ちる。
「い、痛……」
「夕!ごっめん!大丈夫!?」
「う、うん……」
「ちょっとぉ、何やってんの?」
 音を聞いて顔を出したお母さんに、私は笑うしかなかった。





「…あのね、夕……」
 『話がある』とお姉ちゃんに言われ、あたし―――棚次夕子―――はお姉ちゃんの部屋へと入れられた。
 あたしもお姉ちゃんに話があった。
「……私、もしかしたらすっごく変な事言うかもしれないけど…いい?」
「……うん。」
「…あの…ね……なんていうか……、そのぉ……」
 言葉が見つからない様子で考え込むお姉ちゃん。
 ―――多分、だけど、あたしとお姉ちゃんが言いたいことって、同じ、かな。
 あたしも少し躊躇うけど、思い切って言った。
「……お姉ちゃん、飯島先生に会った?」
「え!…なんで、それ…?」
 お姉ちゃんは驚いたように言った。
 …やっぱり、そうなんだよね?
 あたしはポツリと、
「…あたし、殺さなかったから…」
 と零した。
「……!」
 お姉ちゃんは小さく目を見開き、あたしに詰め寄った。
「…夕…、じゃあ、夕もあの……遊園地の夢を……」
「…夢…なのかな?…わからない……」
 小さく首を振ると、お姉ちゃんはペタリと床に座り込んで、泣きそうな顔をした。
「……私も…わからないの…。ねぇ、柚さんも夢だったのかな!?」
「……。弥果ちゃんにもらったケータイの番号を書いてもらった紙が見つからない。ポケットに入れたはずだったのに…なかった…」
 ―――まるで、痕跡が全て消えてしまったように。
 けれど、あたしは黒いロングコートに身を包み、あの道に立っていた。
 あたしはあの後、どうなるか、知っていた。あたしは先生に会って、人気のないところに誘い出し、そして―――殺した。
 けれど、その未来を、あたしは…捻じ曲げたんだ。
「……でも!あの世界にいたのは…本当だよ…きっとね…。だって、夕と私…」
「……うん…。ちゃんと覚えてる…お姉ちゃん、お姉ちゃんも覚えてるよね?」
「もちろんよ…、私の可愛い妹ってね…」
 お姉ちゃんは、あたしを抱き寄せた。
 未来は捻じ曲げた、けど――あの世界は、現実だった。
 あれは未来ではない…あたしたちにとっては、過去なんだ。先生には存在しなかった、過去。
「……ねぇお姉ちゃん。…柚のこと、どうするの?…先生は生きてるし……」
 あたしは、お姉ちゃんの胸の中で顔をあげ、そう聞いた。
 すると、お姉ちゃんは微笑んで、
「……今日、先生に会った。その時に私、ちゃんと言ったよ。…ゴメンナサイ、って」
「…それって…?」
「あたし、先生よりもずっと好きな人がいるの。大好きで大好きで…。…愛してるの。」
 ―――そう、確かな口調で言った。
「……その人の名前、なんて言うの?」
「柚…。神泉柚さん…。夢のように不思議な人で…そんな彼女が大好き……」
「……そっか。…お姉ちゃん、幸せになってよね?…じゃなきゃ…ヤダ…。」
 お姉ちゃんは、そっと優しくあたしの髪を撫でてくれた。
「ありがとう…ゴメンね、夕。」
 …今だけは。
 今だけはあたしが独り占めしたい。
 あたしはお姉ちゃんの胸に顔を埋めた。
「夕…」
 お姉ちゃんは、そっとあたしを抱きしめた。





「ふぇっくしょんっ!」
 私―――姫野忍―――は、病室のベッドの上でくしゃみをし、ティッシュで鼻をかむ。
 …あぁ…情けない……。
 コンコン。
 ノックのあと、病室のドアが開く。
「姫野さん、具合はいかがですか?」
「風邪気味です!」
「だから入院してるんでしょう?そのワリには元気ねぇ。」
 少し年配の看護婦さんはクスクスと笑み、体温と血圧を測る。
 元気じゃないです…!
 あの時。
 眩しい光に包まれたかと思うと、次の瞬間私は自宅にいた。
 自宅のお風呂。
 裸で。
「……くしゅん!」
 思い出すだけでくしゃみが出るほど寒かった記憶がある。
 あれ?って思った瞬間…私はお風呂で倒れたらしい。
 一晩家で寝て、風邪がやけに酷くて近くの総合病院に連れていかれて、そしたら肺炎のなりかけですなんて言われて、入院。
 目まぐるしかった……。
「それじゃあ、安静にしててくださいね。」
「はい!」
 私は、ふっと窓の外に目をやった。
 …何やってるの、私は……。
「………あの、看護婦さん!」
「はい?」
 私は病室を出ていこうとする看護婦さんを引き留めた。
「…あの、新生会病院ってご存じですか?」
「ええ、知っていますよ。麻布の方にある病院ね。」
「…そこって、大きな病院ですか?」
「ここと同じくらい大きいと思うわよ。」
「そうですか……あ、すみません引き留めて」
 看護婦さんは会釈をし、病室を出ていく。
 ……新生会病院……。
 行きたい……。
 …マリアさんに会いたい………。
『しのぶ!』
「は?!」
 唐突に脳裏に響いた声に、私は思わず口で返事をした。
『もぉ、どーなってんのよ!!マリアに会いたい!』
 …私も会いたいわよ…。
『抜けだしゃいいでしょ?ほら、会いに行こうよぉ〜』
 …そうね…抜け出そっか…?
『ね!』
 でも、今は無理だよ…看護婦さんいっぱいいるし…。
『8時にもなりゃ、人も減るしょ?ね?8時に決行!』
 ………わかった。8時に…抜け出す。
 …そして。
 美味しくない夕食を食べ終え、いよいよ時間が近づいてきた。
 服を着替え、バッグにはちゃんとお財布。
 変装したかったけど道具がなかったので、髪を結って眼鏡をつけた。(伊達眼鏡だから、入院中はつけてない。つけなくても大丈夫になった、ってのもあるけど…やっぱりつけると落ち着く)
 そして、こっそりと部屋を抜け出す。
 声は聞こえるが、廊下に人の姿はない。
 なるべく自然に歩く。
 ……幸い、ナースステーションには奥の方に数人の人がいるだけだった。
 あっさり階段へとたどり着き、数階歩いて降りてから、エレベーターに乗り換える。
 堂々と病院玄関から脱出成功。
 病院を出ると、すぐさまタクシーをつかまえた。
「新生会病院まで。」
 ……はぁ…緊張してきた…。
 マリアさん、いるのかな…。
 私のこと、わかるかな…。
 わからなかったらどうしよう…!
 タクシーに揺られること20分ほどで新生会病院に到着した。
 今入院している病院よりも、緑が豊富でキレイな感じがする。
 しかし夜8時半ともなると人の気配もあまりない。
 病院の受付で、看護婦に用があることを告げる。
「すみません、宮本さんとおっしゃる看護婦さんに会いたいんですが…」
「はい、少々お待ち下さい。」
 …ドキドキ…
「宮本マリアですね。3階のエレベーターホールより右手奥のナースステーションに所属しています。」
「ありがとうございます!」
 私は受付の女性に頭を下げ、エレベーターホールに急いだ。
 受付の女性は、宮本マリアという名の看護婦がこの病院に所属していると、そう言った。
 嬉しかった。マリアさんが、この世界に存在しているという事実だけで。
 エレベーターに乗り込み、3階のボタンを押す。
 …2…3!
 エレベーターを降り、右手奥のナースステーションに向かう。心臓が高鳴る…。
 ナースステーションに到着する。
 中には一人の看護婦がいるだけで、彼女の姿はない。
「あの、すみません。」
 看護婦に声をかけた。
「ここに宮本さんをおっしゃる看護婦さんが勤めていると聞いたんですが…」
「宮本さんですか?昨日、転任で他の病院に行っちゃいましたよ?」
「て、転任!?どこに行ったかわかりますか?」
「……えぇと…、少々お待ち下さい。」
 看護婦はナースステーションの奥で入っていく。その時、
 プルルル!プルルル!
 とナースコールが鳴った。
「ハイ?どうしましたかぁ?」
 看護婦は少しの間ナースコールで話したあと、ナースステーションを出ていってしまった。
 …………。
 それから15分ほど待ったが、戻ってくる気配はない。
 もう少し待つと、消灯の音楽が鳴り出す。
 ……。
 私は息をつき、新生会病院を後にした。









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