「う、ん……。」 タオルを水で濡らし絞っていると、医務室の奥の簡易ベッドから小さな唸り声が聞こえ、私―――宮本マリア―――は振り向いた。 たった今絞った冷たいタオルを持って、姫野さんの傍に戻る。 姫野さんは先ほどまで苦しそうに顔を顰めていたが、今はそれも随分引いて、落ち着いた様子で目を閉じている。 「…姫野さん、大丈夫ですか?」 そっと彼女の前髪を梳いて、額にタオルを乗せる。 彼女はゆっくりを目を開き、少し眩しそうに目を細めた。 「あ、眼鏡は、枕元に置いてますから。」 そう言って微笑む。 彼女は額のタオルを押さえ、起き上がろうとする。 「あぁ、休んでいてください。ここ、遊園地の医務室ですから。」 私は彼女を安堵させようと、そっと髪を撫でた。 「……マリア、さん」 彼女は少し首を横に振って、身体を横たえたまま小さく口を開く。 その瞳は天井を見つめているのか、それとも何も見ていないのか…焦点が定まっていないような、そんな印象を受けた。 「…なんですか?」 少し心配になって、彼女の傍に立ったまま、そう聞き返す。すると彼女は、 「……その眼鏡、…いらないの…。」 「え…?」 独白のように呟く彼女に、私は聞き返した。 「……見てごらんなさい。度、入ってないのよ」 「あ、はい…。」 言われた通りに彼女の眼鏡を手にとってそれを透かすと、確かに度は入っていない様だった。 「…伊達眼鏡、なんですか…?」 「……そう、…」 「……。」 先ほどとは、なんとなく雰囲気が違って見えた。 意識を取り戻しても、まだ完全にはっきりとはしていないのか、それとも…? 私は一人で小さく首を傾げて、気を取り直し、彼女に話しかける。 「姫野さん、体調はいかがですか?」 「……よくなったみたい。……あ、けど…」 と、姫野さんは、少し私の方を見て、少し眉を顰めた。 「どうかありますか?」 「ねぇ、ここ、見てみてくれない?さっきから痛むのよ、打ったのかしら…?」 と、こめかみの少し上、生え際あたりを指す彼女。 「ここ、ですか?」 私は指先で、彼女の指す所に触れる。 「っ!」 彼女は微かに眉をひそめ、私の指を絡めとった。 「あ、痛かったですか?ごめんなさい…」 そう言いながら、そっと彼女の指をほどく。 ふと、彼女の手がとてもキレイだと思った。すらりと長い指、心地の良い手触り。…ただ、少しだけ冷たかった。 「ちょっと見てみますね…」 そう言って彼女の髪をそっとかきあげながら、顔を近づける。吐息がかからないかと心配しながら、注意深く患部を見るが、外傷は見当たらなかった。 「打身か、それか…」 そう小さく言った、次の瞬間… ――――ぎゅっ。 「……!?」 私の身体は、彼女の身体に密着していた。 背中に回る手。 …私は、抱き寄せられていた。 仰向けの彼女の右頬と、私の右頬がくっついて、 彼女の手が、私の背中に絡みついて、 それで、―――えっと…!? ……… トクン…トクン…トクン… 鼓動が高鳴る。 間を置いて、私は声という存在を思い出した。 「あ、あの…姫野、さん…?」 「…シノ…。私は、志乃よ。」 「…え……?」 シノ…? 思考回路が低下している。 突然の事で、頭が回らなかった。 身を返され、ベッドに押しつけられた事さえ、後になってからしか、気づけなかった。 私に覆い被さる格好になった彼女は、私の瞳を見つめた。驚きと恐怖で、目が離せなかった。 彼女の長い髪、耳にかけた髪がはらりと落ち、私の頬をくすぐる。 「……マリア…」 彼女はそう囁き、鼻先を首筋に押し当てる。 「あっ…、…は、……姫野、サンっ?」 抵抗するが、非力そうな彼女の腕は、私の両手を括って一緒に握ったまま、離さない。非力そうに見えるその手の力が、驚くほどに強くて、驚いて、もがいても、離してくれない。 彼女の手が、私のブラウスのボタンを外していく感触。 な…なに…!?どうして、こんなこと…!? 「やめて…、おねがい、やめて!」 私の願いに、彼女はふっとボタンを外す手を止め、私を見つめた。 その、焦点が定まらないような―――狂気的な、目で。 そして彼女は、ポツリと、 「大人しくしなさい。」 と言った。冷たい口調。まるで別人のようだった。 きゅ、と手首に触れる、彼女の手とは別の感触に、私は目を見開く。頭の上で組まされ、両手首を何かの紐で結ばれた。手の、自由が…! 「姫野さんっ…!やめて下さい!どうして、こんなこと…!」 視界が曇った。涙が溢れてくる。 「大人しくしなさいって、言ってるでしょ?聞こえない?」 「ひっ…!」 口に、何かの布が押し込まれる。 「うっ、ぐ……ううっ、うっ……!」 吐き気がした。何もかも吐き散らしてしまいそうなほどに。けれど、口の中を占領する布は、それすらも許さない。 胸を強く掴む手の平。 そして秘所を探る指先。 もう何も考えられなかった。 誰か、助けて―――!!! 心の中で叫んでも、声はくぐもるばかりだった。 「あ、いやん。そんなトコさわっちゃ……ああん♪」 「ごっ、誤解されるようなこと、い、言わないでくださいっ…。」 焦る朱雀ちゃんにクスクスと笑いながら、 「うそうそ、気持ち良いよん♪あ、感じちゃうっ♪」 「……ぅぅ〜…。」 あたし―――悠祈紀子―――は、エステティシャンの朱雀ちゃんに、マッサージをしてもらっていた。場所は芝生!お天気で気持ちいい〜♪ 「…けっこうこってますね……お仕事、事務職ですか…?」 朱雀ちゃんは、あたしの肩から背中辺りをぎゅっぎゅっと丁度良い力具合で押しては、ふにふにと揉んだりして、こりをほぐしてくれる。 事務職の言葉に、あたしは首を振って、 「おしいっ。いっつもパソコンに向かって文章書いてるのよ。それと、インターネットとかね。」 と解説した。 「はぁ、そうなんですか…。あの、あんまり長時間、ディスプレイに向かってると、視力低下にもつながりますし、その、お肌にも良くないですから、適度な休憩と運動は忘れないように……」 「おお、さすがエステティシャン!」 と言うと、朱雀ちゃんは照れた様子であせあせした。 うーん、本当に腕は完璧で、超納得のテクニシャン。 あたしは彼女のアドバイスに素直に頷き、 「気をつけるわっ、やっぱこの年齢になると、お肌の老化も気になる所だし!」 「…あぁ…そうですね、ええと、毎晩就寝前には、角質を落とす為に、洗顔と、それから美容液を忘れないようにしたら、かなり違います…。」 「はぁ〜い、わかりました、朱雀センセ★」 「せんせ、てそんな、あの、えと…」 朱雀ちゃんは、からかうと非常におもしろいことが判明。 顔だけ振り向いて肩越しに朱雀ちゃんを見ると、赤くなりながら黙々とマッサージを続けてくれる彼女の姿。―――お仕事は完璧だけど、その容姿は、不合格。 それは、生まれつき云々じゃない、朱雀ちゃんは、多分―――。 ――あたしは前々から抱いていた疑問を口にすることとした。 「…ねぇ、朱雀ちゃん?ちょっと聞いてもいい?」 「あ、はい…なんですか…?」 「……ん。」 あたしはコロンと転がり、仰向けになって朱雀ちゃんの顔を見る。彼女は不思議そうにあたしを見つめていた。 「……どーして、眼鏡かけてるの?」 あたしの問いに、朱雀ちゃんは困ったようにあたしから目線を外し、俯いた。 「それは、その、…近眼で……」 という朱雀ちゃんの答えを聞き、あたしは上半身を起こして、更に問う。 「それじゃ、髪はどうして二つ結びなの?」 「え……。……と、特に意味はありませんけど……。」 「じゃあじゃあ、どうしてそんな地味な服装なの?」 「………べ、別に……、そのっ…、…」 彼女は困惑した様子で、途切れ途切れの言葉を返してくる。 あたしは彼女の動揺が益々疑問で、思いきって言った。 「…自分の服装とか、冴えてない事はわかってるんでしょ?」 「…………。」 彼女は小さく俯いて沈黙する。 「ごめんね、こんな失礼なこと言って。ただ、すごく気になって…。 ………眼鏡外したら、もっと可愛いと…」 そう言いながらあたしが朱雀ちゃんの眼鏡に手を伸ばすと、彼女はふるふると首を振ってあたしの手を避けた。 あたしは手を戻し、 「……理由があるんじゃない?」 と、問い掛ける。 朱雀ちゃんはすぐさま顔を横に振って、 「い、いいえっ……。」 と否定し、立ち上がると、あたしから逃げるように、駆けていった。 「――朱雀ちゃん、ねぇ…?」 その小さな呼びかけは、届かなかった。 ―――? 私―――加護朱雀―――は、わずかに聞こえた物音に、立ち止まった。 悠祈さんの所から、思わず逃げて来てしまった。そして、行く場所もなく、事務棟の中を歩いていた。こんなところに何があるわけでもない。ただ、なんとなく。当然、人は一人もいない。 しかし。 人の声?何だろう…? よくわからないが、とにかく物音がした。 こんな所に誰が…? 私は内心怯えながらも、ゆっくりと物音のする方へと近づいていく。 「医務室」というプレートの掛かったドアの奥から、物音は聞こえる。 …ふと、私は先ほどの昼食の事を思い出していた。急に具合の悪くなった様子の姫野さん。彼女に付き添っていったのが、たしか宮本さん。赤倉さんが「休めるところに向かったみたいです。」と言っていたし、多分、あの二人がここにいるのだろう。 ひきかえそうとした、その時だった。 微かに聞こえた衣擦れの音に、私の足は止まる。 ――? 「………姫野、サ……っ」 しばらくの沈黙を置いて、小さく聞こえる声、宮本さんの声だった。 どことなく、焦った様子の、そんな… 「…めて…、おねがい、やめて!」 …!? 涙声。そしてがさがさと衣擦れの音。 ……こ、これは…まさ、か…? 「姫野さんっ…!、やめて!どうして、っこんなこと…!」 …コクン。 小さく喉が鳴った。 ドアを開け、止めるべき、なのか。 それとも、誰かを呼びに行くべきなのか。 ……… ―――あの時、私は――? ……… 私は、動けなかった。 ドアの向こうから聞こえる物音に、耳を澄ます自分が居た。 鼻にかかった声が、小さく漏れる。 口を塞がれているのか、苦しそうな喘ぎ。 時折、サディスティックな嘲笑が聞こえた。 ―――私はその場から、動けなかった。 「っ、ううぅっ!ぐ、……!!」 一人の女性の、くぐもった声。 私にはわかる。絶望、悲しみ、空虚。 その中に微かな、希望を点していること。 わかって、しまう。 「……。」 私はその場から、逃げ出した。 夕方。 暮色に包まれた空を、ぼんやりと見つめていた。 「ゆーう。そんなとこで何やってるの?」 その声に、あたし―――横溝夕―――は振り向く。馨さんだった。 「……もうすぐ、夜が来るな、って…。」 あたしは小さく言った。 けれど、お子様向けのミニ消防車に乗ってじゃ、かっこよくもなんともないと思う。 「……夕は、夜は好きなの?」 「好きだよ。」 即答した。 馨さんは微笑のまま、あたしの乗る消防車に乗り込んだ。子供二人用なので、少しだけ狭い。…馨さんの、香りがした。 「夜っていうと、私の場合はアレね、飲む時間。仕事終わって、クイっと、ね」 そう言って、馨さんはクスクスと笑った。 「馨さん、OLさんだっけ…?」 「そうよ、毎日が退屈で仕方ないOL!」 「…そ、なんだ。」 馨さんがあたしを見て笑むので、あたしも小さく微笑した。 「夕は、夜に何するの?」 「…夜、は…、………勉強、とか。」 「勉強?偉いのね。予習復習、ちゃんとやる方なんだ。」 「うん…欠かさず、やっちゃう方。……」 「ふぅん、私は学生の頃、勉強なんてちゃんとやってなかったな。勉強って、面白い?」 「つまんない。」 とあたしが即答すると、彼女は小さく吹きだした。 「じゃぁどうしてするのぉ?」 「……他に、することないし…。」 「あらあら。」 馨さんは、そっとあたしの髪を撫でた。 「ここにいると楽しいでしょう?いろんな世代の同性が何人もいて、共同生活して。」 「……う、ん…」 「あら、曖昧ね?」 「…アタシは、…普通の、オンナノコじゃ、ないから……」 小さくつぶやくと、馨さんはあたしの肩を抱き寄せた。 「普通じゃなくても構わないわよ。どうして普通じゃなきゃイケナイと思うの?」 「………だって、あたしは犯罪者だよ…?……どうして馨さんは、あたしのそばにいてくれるの?」 不安だった。優しくされればされるだけ、その人が去った時が苦しい。怖い。 「どうして、って…。……そうね、夕が気にかかるから、かしら。」 「………気にかかる…」 「…母性本能かしら。」 馨さんは、クスクスと笑って言った。 あたしも、つられて小さく笑う。 「……それにね、夕がとっても可愛いから」 「え…?」 予想外の言葉に、あたしはきょとん、と彼女を見上げた。 「ほら、赤くなって」 微笑しながら、ふに、とあたしの頬を摘んだ。かぁぁっ、と頬が紅潮するのを感じる。 こんなふうに、年上のお姉さんから、か、可愛がられる?のは、初めてのことで、緊張する。 「今までの生活じゃ、こんな風に、すごく年下の年代とつきあう機会ってなかったのよね。まぁ、テレビやらなんやらでクソ生意気なイメージがあるせいかもしれないけど。」 …それはあたしも思う。同級生とは馴れ合う気にはなれない。あんな低レヴェルの人間。 「…でも夕は違った。確かに15歳なんだけど…なんか、ね。…15歳の子が、こんなに可愛いとは思わなかったわ。」 そう言って、馨さんはあたしを緩く抱きしめた。鼓動が高鳴る。 「か、馨さん……。」 名前を呼ぼうとしても、声が上擦ってしまう。 「………なぁに?」 「…あの、…馨さんは…、……その、恋愛経験とか、豊富なんだよね……?」 質問に、馨さんはあたしを抱いたまま、 「……そうね…、確かに、色んな男と付き合って……たくさん寝たわ。」 と言う。…ちょっとだけ、悲しそうな声で。 …寝た…、って…。 …………。 「高校生の頃、周りに感化されて、ね。…初体験は高2だったかしら。」 彼女の表情は見えなかったが、その言葉は少しだけ寂しげだった。 「……だから、夕は汚したくないのよ。」 「………。」 あたしは押し黙った。 でも彼女の言うことは、子供でいろってことでもある。あたしは、ガキではいたくないのに。 「ただ…本当に人を愛したことが、一度だけあるわ。」 あたしはそっと彼女から離れて、顔を見上げた。目が合うと、彼女は微笑した。 「……会社の上司でね。歳は45。…ふふっ、今でも、どうしてあの人を愛したか、はっきりした理由はわからないの。」 彼女はあたしから目を離すと、少し遠くの空を見上げた。陽はすっかりと暮れ、西の方で僅かに、闇に侵されていくオレンジ色が見えた。 「………愛に、理由なんて無いのかもしれないわ。」 ぽつり、と彼女はつぶやいた。あたしには解からない、大人の言葉だった。 「でも相手は既婚者…。所詮私は、ただの不倫相手。」 言って、寂しげに目線を落とす。 「それでも…そうとわかっていても…、彼の暖かい大きな腕に抱かれるのが大好きだったの…。」 …馨さんの隣のいることが、やけにつらく思えた。それが、彼女の過去の重み? 「結局、1年半くらい前かしら、滋賀に転勤になってね。家族と一緒に引っ越していったわ。……今頃はきっと、幸せに暮らしているはずよ」 そう言って、寂しげに目を細める彼女。 あたしは……、 ……あたしは… 「……、…」 …あたしは彼女の首の後ろに手を回し、そっと、彼女の唇にくちづけた。 不馴れなキス。 ほんの少し唇同士が触れただけで、すぐに恥ずかしくなって唇を離した。 「……夕…」 彼女は優しく笑むと、あたしの額、そして頬にキスを落とした。 やけにくすぐったくて、照れくさくて…。 そして再び触れ合った唇。 今度は、しばらく離れなかった。 互いの体温を感じるように、繋がった唇。 暖かくて、でもほんの少し切なくて……。 あたしは内心、憔悴していた。 いつまで彼女の傍にいられる? 別れが来るのはいつ? …それまでに、あたしが彼女に与えることが出来る物なんて、あるのだろうか、と…。 「朱雀ちゃん!」 「はっ…、…あ………?」 ぼんやりと歩いていた朱雀ちゃんを見かけたあたし―――悠祈紀子―――は、彼女を呼び止めた。朱雀ちゃんは驚いた様子であたしの声に足を止める。 「どしたのっ?」 彼女に歩み寄って、小首を傾げる。 困惑したような、どこか、怯えたような表情で、小さく俯く朱雀ちゃん。 「……何か、あった?」 と、あたしは心配になって尋ねた。 さっきはさっきで、あたしが余計なこと言っちゃってあれだったけど、なんか、今は先程とはまた様子が違って見えた。 「な、…なにもありませ」 「うそ。」 あたしは即座に言った。 彼女はびくんっと身を震わせる。 「…………。」 ただ、その先の言葉が見つからなかった。 無理矢理聞き出す必要があるのだろうか。 …あたしが、聞く権利があるのだろうか。 朱雀ちゃんは俯いたまま、何も言わない。 あたしも困惑し、しばし押し黙っていた。 ふと、視界の隅に入った物…あたしは顔を上げた。 「朱雀ちゃん!」 「は、…はい?」 「観覧車乗ろう!」 「え…?」 「……ほら!付き合ってよ!」 あたしは無理矢理彼女の手を握り、観覧車へと引っ張って行った。 観覧車。十数分の二人きりの空間。 そこで言ってくれないのなら、…あたしは、聞く必要がないってことだ。 ガシャン。観覧車のドアを内側から閉じた。 ゆっくりとゆっくりと、上昇していく。 突然観覧車と言われた時は驚いたけど、彼女なりの心遣いなのだと、思う。 言わなくちゃ。…言えるのは、彼女くらいしか居ないような気がして。 でも、言うべきなのか、どうか―――。 私―――加護朱雀―――は、正面に腰掛けた紀子さんを見た。 彼女は、窓の外の景色を眺めている様だった。 ………。 どうしよう。どう言えばいいんだろう。 観覧車は上がっていく。待ってはくれない。 …言えるのは、きっと今しか……! でも…こんなこと言って、嫌われたりしないだろうか…こんな地味な私を… ううん、こんな、ひどい、私を。 そんな思いを見透かしたように、紀子さんは言った。 「…すーざくちゃん。あたし、何でも聞くからね。……うん。」 彼女は小さく笑んだ。 その微笑が嬉しくて、少しだけ、心がほっとした。 けど同時に、彼女の微笑と今の私があまりに違いすぎて、悲しかった。 私は僅かに俯いて…ゆっくりとしゃべり出した。 「…じ、実は、さっき…」 「……うん?」 恥ずかしくて、彼女の顔が見れなかった。 「……医務室、の前を…通りかかったんです……」 「医務室?…えと、…たしか、忍さんとマリアさんがいるんだっけ?」 「そ、です…。…………いたんです…、…そ、その…声が、して…」 「……」 ―――そして…? ……こんな、こと、…言ったら…。 「…………」 「………言ってごらん。」 私の沈黙に気遣うように、彼女は優しく言った。 私は小さく頷いて、言葉を続けた。 「…最初は普通の会話だったんですけど……途中から、……その……えと……」 言葉が見つからない。なんと説明すればいいんだろう。観覧車は、天辺近くまで来ていた。時間、ないのに…! ぐら と観覧車が揺れた感覚に、私は顔を上げた。 見ると、紀子さんが私の隣に移動してきたのだった。 「………言ってごらん。小さい声でも、大丈夫だから…。」 彼女は微笑し、あたしの顔のそばに、顔を近づける。 心臓の動きが早くなる。それでも私は、言葉を振り絞った。 「……その……、………性、行為…みたいで……」 「……セックス?……忍さんと、マリアさんが?」 紀子さんは驚いた様子で小さく目を見開いた。 「…そ、その…もちろん、その、二人が楽しんでいるんでしたら…まだ、…でもっ…」 「…でも?」 「…中の様子から察して、……その………姫野さんが、一方的に……宮本さんを…」 「一方的?……レイプってこと…‥?」 彼女の瞳が、じっと私の目を見つめる。レイプという言葉に恐怖を感じて、私はまた俯いた。 「そ、そんな……風、で……それで、…私、動けなくて……っ……。助け、なきゃ、いけなかった、のに…なのに、私…!」 微かに声が上擦っていた。緊張と羞恥で、なんだか泣き出しそうだった。 「………。」 紀子さんは、私に顔を向けたまま目線だけを落とし、なにやら考え込んでいた。 観覧車は、4分の3くらい行き、あと数分で終わり…というところまで来ていた。 やっぱり、軽蔑する? そんな現場に居ながら、逃げ出した弱い私のことを、最低な人間だと―― 「ねぇ、朱雀ちゃん。」 「は、はい…。」 唐突に彼女に話しかけられ、私は少し身を固くした。怒られる―――? 「朱雀ちゃん、経験ある…?」 「…………え…?」 …彼女の、予想外の言葉に、私は一瞬固まっていた。 小さく聞き返した後、顔が赤くなっていくのを感じた。 「だから、その…セックスの経験。ある…?」 心臓が早まっていく。 ど、どうしてそんなこと…。 ―――真っ直ぐに、私を見つめる紀子さん。 私の答えを、真っ直ぐに待っている紀子さん。 私は、小さく、 「………あ、……り、ます……」 …と、掠れた声で答えた。 「…何回くらい?」 「…一回……」 「…相手は?…彼氏?」 ふる、と小さくかぶりをふる。 「…じゃあ…友達?」 また小さく首を振る。 「……?……まさか、ウリ…?」 違う…売春なんかじゃない… 私は…… 「…………犯されたんです。」 低く震える声で、私は言った。 忘れもしない、数年前、初春の夜。 4人の男。 紀子さんが小さく息を飲むのが分かった。 目を見開き、私を見つめる。 ガゴン 突如観覧車が揺れた。気づけば、もうすぐ終点、というところだった。 「お、下りましょうか。」 私がそう言って立ち上がる。ギッ、と鉄の音がして、安全用の鍵を外すと、隙間から外の風が吹き込んできた。 「朱雀…。」 ぎゅ… 私は紀子さんに抱きすくめられ、崩れ落ちるように再び椅子へと腰掛けた。 「……それで…、それでわざと、そんな格好なの…?」 私を強く抱きしめたまま、彼女は言った。 私は小さく頷いた。 「……美貌なんて…要らないんです…。…もう、あんな思い、…したくないんです…」 絶望。悲しみ。空虚。そして…その中に希望を点したあの時。 けれど、私の希望は無残に打ち壊された。 誰も、誰も助けてくれなかった。 静かな夜。 ―――私は、どうして、助けなかった? 怖くて、怖くて、…何も出来なかった自分。 とても、悲しい。 紀子さんはそっと腕の力を緩めた。 「……でも朱雀ちゃん……、本当は…、……ホントは、自分に自信がないんじゃなぁい?」 「…え…?…そんな、こと……」 「…ねぇ、お願い……、眼鏡、外してみて…?……髪も、ほどいて…」 ―――私は躊躇った。 怖い。本当の自分を見られるのが怖い。 これは、……自分に自信が無いということ…? 観覧車は再び、上がっていく。 私たちを乗せたまま、またゆっくりゆっくり……。 ギッギッ、と、明け放たれたままの鉄のドアが音を立てる。 紀子さんはそれを閉め、私に向き直った。彼女のやわらかい指が、私の頬をなぞった。 「…本当の朱雀を見てみたいの…。」 彼女は至近距離で、小さく目を細めてみせた。息遣いまでが伝わってくる。心臓が煩いほどに鳴っている。 私はゆっくりと、自分の髪を結うゴムを外した。 ストレートヘアが、はらりと落ちる。 紀子さんの手が、私の頬から静かに上がっていく。そして眼鏡のフレームに触れると、そっとそれを外す。 私は目つぶって、されるがままになっていた。 「目、明けてごらん…?」 紀子さんの優しい呼びかけに、私はそっと目を開いた。怖い。私を見て、彼女はどう思うだろうか。 「……きれい…。」 …と、紀子さんは小さくつぶやいた。 「朱雀ちゃん…、すごく、きれいだよ…。」 その言葉に私は首を振る。 「そんなことないです…そんなこと…」 「あたし、うそはつかないよ…。……ねぇ、朱雀、ちゃん?」 「あっ…」 そして紀子さんは、そっと私にくちづけた。 やわらかい唇が触れる。 観覧車は、ゆっくりと動き続ける。 「あっ…、紀子、さ…っ…」 「カワイイよ…、………昔のことなんて、忘れさせてあげる……」 ……――――――。 「………っ……、うっ……うぅ……」 嗚咽だけが、室内に小さく響いていた。 医務室の簡易ベッド、裸体に薄いシーツをかぶった女性。小さく震える。漏れる嗚咽。 私―――姫野忍―――は既に衣服を整え、そばの椅子に腰掛けて様子を見つめていた。 “忍”?…違う。 私は“志乃”。 『……志乃……いい加減にして…』 …そんな声が頭に響く。 忍が口を開いたのだった。 そこの居心地はいかが? 私は忍に話しかける。 暗くて、寒くて、孤独で。 ただ現実で起こる事だけが見える。 けれど自分が行動することはできないのよ。 すべての決断を下すのは、私じゃない私なんだもの…。 …こんなことしたくなかったでしょ?忍はこんなことする人間じゃないものね。でも私はするわ。そういう性格なの。女の子が泣き叫び、嘆き、落款する姿に、興奮する性格。 まるで、あんたとは違う。 『お願い…もう、やめて。私はこの身体の主なの…あなたは私じゃないの…ここから出てってよ…お願いよ…。』 やーよ。こんなに楽しいの初めて。 『……。』 ね、ところでさ、このマリアさんってカワイイと思わない? 『え…?』 金髪碧眼スタイル抜群!その上聖母マリアのような性格!さっきの嫌がる顔見た?苦痛に歪む顔を見た?…ゾクゾクする。 『いい加減にしなさい!これ以上彼女に手を出さないで…もう誰も傷つけないでよ!』 煩いよ。 私はそう言い放って、シーツにくるまる女性に近づく。 私の気配を察してか、びくっと警戒するように震える。 そっとシーツ越しに身体のラインをなぞり、そしてやわらかい髪を撫でた。 「……、…てっ…」 「…ん?」 「どうして、こんなことするの……?」 彼女はか細い声で言った。 私はクスッ笑んで、シーツを剥がした。 彼女はビクンっと震え、おびえるような目で私を見る。 「…スキ、だからよ。」 その頬に触れながら、私は言った。 「……すき…?」 「そう。…最初は誰でも良かったんだけどね。抱いてみて、すごい可愛かった…。マリア。」 「………」 彼女は押し黙ったまま、目線を伏せる。 私は無理矢理彼女の唇を奪う。 「ンっ…ふ…!」 マリアは小さく目を見開き、身体を震わせた。 「……可愛いわ……、マリア…。」 そっと唇を離してささやいた。 彼女は俯き、表情は見えない。 次の瞬間…―― パシン! 乾いた音が室内に響いた。 同時に鋭い痛みが頬に走る。 私は眉をひそめ、自分の頬に触れた。 血が滲んでいた。平手打ち…その際、彼女の爪が引っ掻いたようだった。 「最低です!どうしてこんなこと…!」 キっと私を睨んだ。その瞳には涙が溜まっている。 「……どうして…、……こんな、こと…っ………うっ、うぅっ…!」 そしてマリアは顔を伏せ、小さく震える。 そんな彼女を、私は見下ろしていた。 「……この事、誰にも言ってはだめよ。言えばその人も犯すわ。そしてあなたも、廃人になるまで犯し続ける。いいわね。」 冷たい口調で言い放った。 「それと、…私の名前は姫野でも忍でもないわ。…志乃よ。」 その言葉に、彼女はゆっくりと顔を上げた。 しばし、濡れた瞳を見つめた。 「……し、の…?」 「……そう。」 私は小さく言って、部屋を後にした。 「柚さん!」 日の暮れた遊園地。二日目の夜。 今日の夕食はなんとも異様なムードだった。 まだ大して知り合った仲でもないので何とも言えないが、とにかく何だか妙に静かだった。 昨日と同じように明るく会話をする人たちもいた、けれど、何人かは、沈黙したまま黙々と食事し、片付けの後、早々にレストランを後にした。 何かあったのだろうか。 そんなことを思いながら寝泊まりしているハウスへと歩いている途中、私―――神泉柚―――は、声をかけられ振り向いた。 小さく息を切らす少女。…といっても、私と一つしか違わないのだが。 弥果ちゃんは私の隣までやってきて、一緒に歩き出す。 「ねね、柚さん……忍さん見ましたかぁ?」 彼女も昨日と変わらず明るい様子だったのだが、今の弥果ちゃんは、なんだか少し不安げな表情で私に話し掛ける。 忍さん。あの眼鏡の人。だけど、今日の夕食の時は眼鏡を掛けていなかった。 「忍さん…?さっき夕食に来てたよね?」 という私の言葉に、弥果ちゃんは小さく頷き、 「うん…でもね、なんか変だったのです!」 と言う。 「変?」 と私が聞き返すと、弥果ちゃんは首を傾げながら、 「うーんん……話しかけてもすんごい素っ気無くて〜〜……。」 という。そこまでは私も見ていなかった。 「そう、なの?……いつもは、あんなテンションなのに?」 「そそ……変ですよねぇぇ、なんか…。」 「…確かに…。」 頷きながら、考える。素っ気無い?昼間に体調が悪そうだったから、そのせいもあるのでは、ないだろうか。 「何かあったのかな〜って思って…柚さん、なんか知りませんかぁ??」 「……しらない。」 「……そぉですか……」 弥果ちゃんは落胆した様子でため息をつく。そしてこう続けた。 「……まるで人が変わったみたいでぇ……、……そりゃ、弥果も忍さんと会ってたったの二日ですから、知ったような事は言えませんけどぉ〜〜…。」 「うーん…、どんなふうに、変わったの?」 と私が尋ねると、弥果ちゃんは不安げに大きな瞳を揺らしながら、 「……なんか、冷たいんです!そぉですね、たとえば返答の仕方とかですが、さっき弥果がね、どうかしたんですか?って聞いたんですよっっ。」 と言う。私は頷きながら、 「うん…それで?」 と話を促した。 「で、いつもの忍さんならきっと「え?ううん、なんでもないですよ!」ってビックリマークとかつけながら言うと思うんです!」 「…うんうん。」 「でも〜今日の忍さんは…「別に?」………って……」 しょぼん、とうなだれる弥果ちゃん。彼女にとって、忍さんというのはお姉さんのような感じなのだろうか。 私は少し考えてから、 「……………言ってみたら?別人じゃないですか?って。」 と言った。不思議に思うことは、聞いてみるのが一番早い、と思う。 「ええっっ??」 「別人だったら、うろたえると思う。」 「そ、それはまぁそうでしょうけど……って、別人ってなんですか一体……」 「双子とか」 「そんなめちゃくちゃな……。」 「接触してみないと。何も、進展しない。」 「……そですね…。」 「探してみようか?」 「……今、ですか?」 「そう。」 と私が頷くと、弥果ちゃんの表情がぱぁぁっと明るくなる。 「はい!柚さんありがとうですぅ!」 弥果ちゃんの笑顔に頷き返し、そして私たちは、忍さんを捜しに歩き出した。 静かな厨房に響く靴音に、私―――宮本マリア―――はシンクを拭く手を止め、身を固くして振り向いた。 「あ、……柚さんに弥果ちゃん…。」 しかし二人の姿に安堵の息をつき、私は微笑してみせる。 「マリアさんではないですか!」 「……あ、れ?……マリアさん、夕食の時いなかった…」 柚さんの言葉にギクッとする。 私は慌てて繕った。 「夕食の時は、少し体調が悪くて…休んでいたの。」 「あっっ、マリアさんって昼間に忍さんに付き添ったよね??」 びくん。 一瞬表情が凍る。平常を繕わなくちゃ、いけない…。 「え、ええ。医務室の方まで行ってたけれど……それがなにか?」 「その時ね、忍さんどんな感じでした?」 弥果ちゃんの言葉に、動揺を隠せなかった。 「え…?」 「なんか変じゃなかったですか?妙に冷たかったりとか、恐かったりとか!」 ど、どういうこと…? なんて答えればいいの?一体…? 「弥果ちゃん。」 その声に私は入り口を見る。二人も振り返って入り口を見た。 そこには… 「私がどうかしましたか?」 と、厨房の入り口で佇む一人の女性。――忍さん、…シノ、さん? 「あ、わわっ……忍さん…!」 弥果ちゃんは狼狽えつつも、忍さんに歩みよった。 「あ、あの…あのあの……」 「なぁに?」 柚さんはただ黙って様子を見ている。 私も、ただ見ているしかできなかった。 ――怖い。 「忍さん、ホントに忍さんですかっっ?」 「…え?」 え…?? 弥果ちゃんが言った言葉に、忍さんは訝しげに聞き返す。私も弥果ちゃんの言葉の意味がよくわからなかった。 「もしかして、双子の姉とか妹とか!」 「はぁ…?何言ってるの?私は私ですよ?」 「……忍さん、なんかす〜んごく変ですよ?……元々、こんなクールな人なんですかぁ?」 「…え?えと…元々こんな感じですよ…。」 「………弥果、もっとステキなお姉さんだと思ってたのに……」 背中しか見えなかったが、弥果ちゃんは震えているように見えた。 少しの間を置いて、弥果ちゃんは駆け出した。 「あっ?ちょっと!」 忍さんは困惑した様子でその背中を見つめていたが、小さく肩を竦めた。 「続きを言わせてもらうとしたら…」 柚さんが口を開く。私も忍さんも彼女に注目した。 「……多重人格、とか。」 そう放って、柚さんは弥果ちゃんの後を追った。 忍さんはまた、その背中を見つめていた。 今度はしばらく振り向かなかった。 私は、動けなかった。 「マリア」 突然、彼女が背を向けたまま私の名を呼んだ。 「あ、は、はい…?」 「…何か言ったの?」 「え?な、何も言ってません!本当です!」 「………そう。」 そして忍さんは、そのまま歩いていった。 一人残された厨房で、ぺたん、と私は座り込んだ。 ……疲れた…。 ……………。 ――――? ……。 ……………!? 「っきゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」 ―――私は、思わず叫んでいた。 厨房の片隅から姿を現した「それ」に、腰を抜かしてしまったように力が入らず、怯える。 「………マリア…?!」 という声、見ると、厨房の入り口から少し驚いた様子で私を見る忍さん。 「あ、…あ、……」 「どうしたの!?」 彼女は私に駆け寄る。 「あっ、……ひっ……!」 私は震える指で、「それ」を指さした。 「え…?………ゴキブリ?」 「……っ〜!!」 そう、彼女の口にした「それ」の名に、私は思わず寒気を感じていた。 ばしん! 忍さんは、傍にあった新聞紙で黒い虫を思いきり叩き潰した。 ―――その、迅速で躊躇いのない行動に、私は驚いた。 「あ…っ…ぅ……」 今だに恐怖で声が出ない…。 「何かと思ったわよ。…こんなことで叫ばないでよね。」 忍さんはその新聞紙をゴミ袋に放り投げ、水道で手を洗う。 尚も私がへたり込んでいると、彼女はすっと私に手を差し伸べる。 私は震えながら手を取り、ゆっくりと立ち上がった。 「うっ…ふぁあっ…。」 ぎゅぅ。 私は彼女に思いきり抱きついていた。 「…ごっ、ゴキブリだけはダメなんです…、うぅっ…ひっく…」 「ふぅん。……可愛いじゃない。」 きゅ、と強く抱きしめられた。 ほんの少しだけ怖かったけど、忍さんの腕の中は、とても暖かかった…。 「…………」 入り口の方で人の気配がした。私の叫び声を聞いてやってきたのだろうか…。 しかし忍さんに抱きしめられているせいで見れない。すぐにその気配は消えた。 「…………マ、リア…。」 忍さんは囁いて、腕を解いた。 「……しの、…さん…」 私がそう呼ぶと、彼女は微笑して私の髪を撫でた。 「…ごめん。」 忍さんは小さく言って、私に背を向ける。 ……『ごめん』…? 遠ざかる靴音、そして私はまた厨房に一人残される。 …今の、ごめんって…? …私を犯したことに対しての謝罪なの? 彼女のことがわからなかった。 そしてそれ以上に、自分の気持ちがわからなかった―――。 「あの、荊さん…。」 「ん?」 事務局から持ってきた毛布をハウスのカーペットに敷きつめている荊さんに、私―――棚次瞳子―――は声をかけた。 「…あの、すみません。少しだけ、お時間をいただいても……いいですか?」 そう言うと、彼女は小首を傾げる。 「いいけど…一体なに?」 私は彼女を促して、ハウスの外へと出た。 まだ夏も暑い時期だが、夜風が涼しくて心地よかった。 「…あの、夕、のことなんですけど…。」 「…夕の?」 私が切り出すと、僅かに眉を顰める荊さん。 私は少し躊躇ったけど、一つ息をしてから、言った。 「あの、驚かないでくださいね…。……実は、私と夕は…姉妹なんです。」 「…え?」 荊さんは、驚いた様子で私を見る。私は言葉を続けた。 「…夕の本当の名前は、棚次夕子…血の繋がった、私の妹なんです。」 「……………本当、なの…?」 「……はい」 信じられない、といった様子で聞き返す荊さんに、私は頷いた。 「……なら、知ってるのね?…夕の、犯した事を。」 「知っています。…あの、荊さんは…誰から聞いたんですか?」 「本人から。」 「え?…夕が?」 今度は私が驚いた。夕が…荊さんに? 「…それで、…夕のお姉さんが、私に何の御用?」 と荊さんが言う。私の言うことを信じてくれたようで安心した。 私は一つ頷いて、 「荊さん、警察の方なんですよね?」 と、彼女の目を見て尋ねた。―――けれど、すぐに、目を逸らした。 「……そこまで知ってるの。」 「はい…柚さんから、聞いて…」 「…なるほどね。」 荊さんは、小さく息をついた。 「あの、それで…いくつか、聞きたいことがあるんです。」 「答えられる範囲なら、どうぞ。」 「…あの…、夕は…。…殺人の罪って、どのくらいの刑になるんですか?」 「殺人罪。夕は15だったわね?…少年院に…2〜3年ってとこかしら…。裁判を通さないと解からないけれど…」 「2〜3年…ですか。」 …多感な時期に、少年院…。 ………仕方、ないのよね…。犯してしまった罪は、拭えないんだから…。 私は少しの間沈黙し、また口を開いた。もう一つの疑問を、口にするべく。 「…あの、荊さん。…夕は、荊さんに対してどんな態度でしたか?」 「え?」 「……どんな、っていうか…その……」 なんと言っていいのかわからなくて口ごもっていると、彼女は、 「そうね、淡々として、…少し怯えるような感じがしたわよ。…元々そういう子なのかと思ったけど。」 荊さんの言葉に、私は少し俯いたまま、首を横に振る。 「……理由があるんです。きっと夕、怖かったんですよ。」 「私が?……どうして?」 私は荊さんを、直視出来なかった。 ……だって…、だって……!! 「…似てるんです…あの人と…。」 「アノ人?」 「……夕が憎んだあの人。……私が愛したあの人に…そっくりなんです…!」 そう言った途端、涙が零れた…。 『あの…桐生さん、被害者の顔見ました?飯島素子(イイジマモトコ)さんって人。』 『え…?見てないけど。』 『なんか、似てたっすよ…、……桐生さんに。』 『…………。』 『まじで、びびりましたもん…一瞬、桐生さんかと思ったくらい似てました。』 『偶然でしょ…。私、姉も妹も従姉妹もいないし。』 『…あれ?桐生さんってお姉さんいるって聞いたような…。』 『……いないっつってんの。』 「…………。」 私―――荊梨花―――は、この遊園地に向かう途中、後輩とのやりとりを思い出していた。 改めて、棚次さんを見やる。小さく震えていた。 …愛していたアノ人……。 「……そんなに、似てるの?」 「………………はい」 彼女は掠れた声で、小さく頷いた。 涙を流す少女を前にして、私ができることは… 「……瞳子…。」 「あ…、……うっ………、素子さん…素子さん…!」 彼女の求める人の、代わりになること。 それで彼女の痛みが少しで癒えるなら、―――これも、警察の仕事でしょ…。 『瞳子、おはよう。』 『…う、…ん…?ほえ…?』 『ふふっ。』 『……え?い、飯島先生?なっ、なんで?あ、あれ!?』 『あら、覚えてないの?昨夜のこと。』 『え、えっと…昨日…、…?』 『「私、先生の事大好きなんです」って、すがりついてくるんだもん。スゴク可愛かったわよぉ。』 『えっ、あ…、……わ、私そんなこと…!?』 『クスクス…可愛いわ…瞳子…。』 『あっ…、や、あ……』 空っぽになったココロに埋めるには、 失った支えを取り戻すには、 襲い来る虚無感に立ち向かうには、 寂しさを紛らわすには、 一体、どうすればいいんでしょうか? ――――もうあの人は、いないのに。 |