「國府田さん?…――國府田さん!」 「…え!?…あ。……何?」 一度その名を呼んでも、彼女はぼんやりと視線を泳がせたまま気づかなかった。もう一度強く呼ぶと、彼女は我に返るように、驚いた様子でこちらを見た。 私―――西野菜花―――は、彼女の様子が少し違っているように見え、そう声を掛けたのだった。 午前中。まだ陽も真上までは来ていない。海から程近い森の中は、微かに風が吹き、すごしやすい。私と國府田さん、そして緋榁さん、田中さん、哀元さんというメンバーが、地域調査隊となった。他のメンバーは、家作りや焚き火の番といった任務に当たっている。 駐留地点から三キロほどのところの小川で、小休止を入れている時のこと。 「――体調、良くないんですか?」 私がそう声を掛けると、 「大丈夫!―――あ、……ごめん、昨日あんまり眠れなくて。」 と、一度は明るく返したものの、國府田さんはふっと苦笑を浮かべ、言った。 「そうでしたか…。無理はよくありません。今からでも戻った方がいいですよ。」 自重するように促す意味も込めてそう言うと、 「でも、みんな働いてるんだし。悪いじゃない?」 と彼女は肩を竦めて言う。よく見ると、顔色もあまり優れないようだ。 「その状態で無理に活動して、倒れてしまった方が皆に迷惑です。」 少し厳しい言い方だが、私は言った。 彼女は少しの間黙っていたが、 「―――ごめんね。…じゃ、お言葉に甘えて休ませてもらう。…本当にごめん。」 と小さく言い、苦笑して立ち上がった。 「國府田さん、お大事に!」 と、田中さんも言う。 國府田さんは私達に軽く手を振り、歩いていった。 ちらりと田中さんを見遣ると丁度目が合う。彼女は心配そうに微笑み、 「何か悩みとか、あるのかもしれないですね。國府田さんにしては、ちょっと元気なかったし。」 と言う。…悩み、か。そこまで気づけなかった。 『―――冷たい人やな。』 そんな言葉が、ふいに思い出される。 ―――彼女の言う通りかもしれない。 子供の頃からずっと勉強ばかりしてきたせいか、私はいつしか人を思いやる心が欠けてしまっている。自覚はしているのだが…治そうとは思っても、そう簡単に治るものではない。 悔しいけれど―――今の私に出来ることは、冷静沈着でいることだけだ。 私は小川の水で手を濡らし、冷えたその手で頬に触れた。 冷静であれ。 いつも私が心がけていること。 それが裏目に出てしまうのかもしれないけれど、今の私は、これしかない。 下手に人のことばかり考えていても、冷静さを見失い、ダメな人間になってしまうだけだ。 今、こんな状況下だからこそ、それだけは避けたい。 「きゃー、菜の花さん、冷たいですよぉっ。」 「あはは。」 水を掛け合いながら、楽しそうに笑う田中さんと哀元さん。 私は彼女達のように、無邪気に笑い合ったりなんか、出来ない―――。 「…行きましょう。」 私は立ち上がり、三人に言った。 戻れ、とは言われても、あたし―――國府田花火―――はどうにも、誰かと顔を合わせることが億劫だった。作り笑いは出来る。…だけど、自分の心を偽ることは、苦しいことだ。 入院していたあの頃、いつもこんな感じだった。お見舞いになんか来ないでよって、内心思いながら、あたしはいつも過ごしていた。 でもいつしか自然と笑えるようになっていた。だけど―――。 人と必要以上に関わりたいと思うようになると、こんな状態に陥ってしまう。 いい加減、治さなくちゃて思ってるんだけど、ね。 彼は今もずっと、あたしのことを見ているような気がして。 誰かと親密になると、彼の視線があたしに向いているような気がして。 焚き火から少し離れたところで、樹に凭れて座り込み、一人ぼんやりと海を眺める。 海しかない海を眺めていると、なんだか色んな事を思い出してしまう。 「…っ…。」 あの情景が目に浮かび、あたしは両手で頭を抱えた。 ぎゅっと握り締めると、髪の毛が引っ張られ、痛む。 それでもまだ足りないような気がして、更に強く引っ張った。 「…ぁ、ぅ…。」 ブチッと嫌な音がして、髪の毛が数本切れ、あたしの手の中にはらりと引っかかる。 それを目にして、更に苦しくなる。 もっと、もっと自分を責めて。 それで、楽になるのなら。 ―――あの頃の記憶が、薄れるなら。 …まだ、縛られている。 あの、三年前の夏の日―――。 じわりと汗ばむ、湿度の高い密室。 ドアも窓も、ガムテープで密封され、部屋の空気が篭りきっていた。 煙草の匂いが充満した、彼の安アパートで。 「花火…本当にいいのか?」 彼は、ポツリと言った。 あたしは最後の煙草を灰皿にもみ消し、言った。 「いいよ。潤也になら、どこまでもついていくって言ったでしょ?」 即答した。それは、とてもとても固い決意だったから。 潤也。あたしが生まれて初めて愛し、そして一生愛し続けることが出来ると確信した人。 「―――花火。」 パイプベッドに腰掛けた潤也は、俯いたまま小さくあたしの名を呼ぶ。 彼にその名前を呼ばれることが、あたしの幸せだった。 「準備、いい?」 あたしはキッチンに立ち、潤也を真っ直ぐ見据え、言った。 潤也は顔を上げ、少しの間あたしを見つめた。 そして―― 「ああ。……いいよ。」 と、微かに震える声で言った。 あたしは一つ頷くと、コンロのコックを捻った。 シュー、とガスが漏れる音。立て付けの悪いコンロは、何度も回さないと火が付かない。 …でも、火を点ける必要はなかった。 ガスが漏れる音を聞きながら、あたしは振り向いた。辺りに漂いだす異臭。 あたしは潤也に歩み寄り、自然に、彼を抱きしめた。 「花火…ごめんな…。…本当にごめん…!!」 あたしの胸に顔を埋め、潤也が言う。そんな潤也を更に強く抱きしめ、 「……なんで謝るの?潤也は何も悪くないよ。」 と、諭すように言った。 潤也は顔を上げ、その澄んだ瞳に涙を溜め、言った。 「俺だけならまだしも…花火が命を落とすことなんて、ないじゃないか…。なぁ、やっぱり…」 そんな潤也の言葉を遮るように、その額にキスを落とす。 「バカ。…潤也の居ない人生なんて、要らない。潤也が死んだら、あたしが生きてる意味なんて一つもないよ。……あたしは、そうと決めたら絶対変えない頑固な女。知ってるでしょ?」 あたしが少し笑んで言うと、潤也もつられるように笑った。 「バカはお前だ。…なんで、俺なんかに惚れるんだよ。」 「そんなのあたしの勝手。」 あたしはそう言って、潤也にキスを落とす。 彼は乾いた唇で、そっと、あたしの唇をついばんだ。 そのままどさりと、二人でベッドに倒れ込んだ。 「…愛してるよ、潤也。」 「あぁ、俺もだ。…花火、愛してる。」 そのまま二人、ベッドで寄り添った。 異臭は既にここまで届き、頭の中がクラクラしてきた。 言葉も出せぬほど意識が侵され、あたしは微かに目を開くことが精一杯だった。 そんな状態で、潤也を見た。 潤也はあたしの視線に気づくと、静かに微笑んだ。 ―――。 その微笑を見て、安心した。あたしはそっと目を閉じ、消えていく意識の中、潤也を想った。 暗転していく。 ――闇の中、潤也の声が微かに響いた。 朦朧とした意識の中では、彼の言葉が理解出来なかった。 そしてあたしは、完全に、その意識を失った。 「…潤也。」 波音に掻き消されるような微かな声で、あたしは呟いた。 心底愛した、男の名前を。 目が覚めると、あたしは病院のベッドに居た。 あたしは、アパートのベランダに寝かされていたらしい。 そして、潤也は死んだ。 あの後、何度も彼の後を追おうと思った。 でも出来なかった。 ―――彼が最後に呟いた言葉、あたしはわかってしまったから。 『…生きろ、花火。』 その言葉がずっと消えなくて、あたしは死ぬことすら出来なかった。 彼の微笑がずっと消えなくて、あたしは誰かを愛することも出来なかった。 唯、彼を想うことしか…許されなかった。 ひどい、よ…。 あのまま彼と一緒に逝くことが出来たら、あたしはどんなに楽だったか。 だけど、彼はあたしの命を、救った。 彼を恨んでいるわけじゃない。 あたしは唯、彼を愛しているだけ。 ―――悔しいのは、彼を裏切ることの出来ない、自分。 「ねーさん、ちょっと来い!」 あたし―――真宮寺芹華―――は、花火さんの腕を掴み、強引に言った。 夕食を終え、それぞれ皆、思い思いに過ごしている夕刻。 朝からずっと、花火さんの様子が妙で、あたしは気にかけていた。 夕食もほとんど口にしない花火さんの様子に、あたしは少し焦り、行動に出たのだった。 「え、ちょっと、何よ!」 不機嫌そうに言う花火さんの腕を、強引に引いた。 「いった…!こら、芹華!!」 「大人しくついて来なさい!これは命令です!」 厳しく言うと、花火さんは憮然とした様子だったが、ようやく重い腰を上げた。 今は火を点していない、少し離れた箇所にある焚き火(あたしが蛇に噛まれた時に寝かされてた所)に、花火さんを連れて行く。 誰もいないそこで、向こうの焚き火から持ってきた種火で、冷えた木々に火を点けた。少しすると、パチパチと燃え出す炎。 砂浜に座り込み、そんな光景を眺めていた花火さんは、ポツリと、 「何よ…何か用事?」 と、不機嫌そうに言う。 あたしは花火さんの隣に腰掛け、 「花火さん、機嫌悪いね?」 と声を掛けた。花火さんはしばし沈黙していたが、 「―――色々と考え込むこともあるのよっ。」 と、はぐらかすように言った。 うーん、まだあたし、あんまり信用されてないのかな…。 「…あのね、もしその不機嫌の理由が、昨日の夜のことだったら謝ろうかと思って。あたし、何か変なこと言っちゃったかな、って。」 と、あたしは言った。昨日の夜から、花火さんは少し様子が違う。だから内心そんな危惧があった。花火さんはそんなあたしをチラリと見遣り、少し黙ってから、 「―――ま、少しはね。でも別に芹華が悪いわけじゃないよ。」 と、小さく言う。 「じゃあ、何?…やっぱ気になるよ。ねーさんには元気でいてほしいってのが、あたしの切実な願いだもん。」 正直に、そう言った。 沈んでる花火さんっていうのは、どうも見ていられない。 「――じゃあ、あたしの切実な願い、教えてあげようか。」 ザザ、と波打って泡立つ海辺を眺めながら、花火さんは言う。 「…うん。」 あたしが頷くと、花火さんは微かに目を細め、 「あんまり、優しくしないで。」 と、低く、だけどはっきりとした口調で言った。 「……。」 ―――そう言われてしまっては、あたしも返す言葉がない。 優しく、しないで? それは彼女の、触れられたくない部分なの? 「でも!…あたし、やっぱり、黙ってられないよ。おせっかいだって言われても仕方ないけど、あたし、ねーさんのこと好きだし…!」 そう言って、ふっと純さんの顔が浮かぶ。 でもすぐに打ち消した。違う、好きっていうのは、ただ単純に、人として好き。 彼女が落ち込んでいる顔なんて見たくない。笑ってて欲しいって、そんな、「好き」。 花火さんは、不思議そうにあたしを見た。 「…好き?何よ、あたしのナイスバディに悩殺された?」 と冗談混じりに言う花火さんに、あたしは少し笑う。 「違う違う。――姉貴として好き。」 誤解のないように、そう説明する。 花火さんは小さく笑って、 「…そういうことか。―――そう、ありがと。あたしもそういう芹華、好……」 と、言いかけ、ふっとその笑顔が消えた。 クッと俯くと、花火さんは微かに眉を顰める。 「………嫌い?」 あたしは小さく問う。彼女の変化、何かおかしい。 花火さんは俯いたままで、 「嫌いじゃないよ。…嫌いじゃない…。……好きに、なりたいよ。」 と、小さく言う。 「…なんで?…好きになれないの?どうして?」 花火さんが悩んでるのは、このへんのことなんじゃないかなって、なんとなく察した。 彼女の思い悩んだ表情が、それを確信に変える。 「ごめん。…こんなこと話せない。……話せないのよ。」 花火さんは、あたしから逃げるように、立ち上がる。 あたしはそれを追うように立ち上がり、彼女の手を取った。 「―――話さなきゃ、苦しいばっかりだよ!…どうしてそんなに苦しむの?ねぇ、あたしだって苦しいんだよ!!」 切実な思いで、そう言った。 花火さんはあたしに背を向けたまま、微かに震えていた。 どのくらい――一分、二分そうしていたか。不意に、あたしが握った彼女の力ない手が、緩く、あたしの手を握り返した。 そして振り向くと、花火さんは小さく笑んだ。 「――芹華、好きよ。……好き、…なの、……。」 震える声で言って、花火さんは崩れ落ちるように、砂浜に座り込んだ。 そしてその手で顔を覆い、微かな涙声で、言った。 「好きに、なりたいの。…ううん、好きなの。……でもそれは、いけないことなのっ。」 「いけないこと―――?」 ……。 座り込んだまま、声を押し殺すように震える花火さん。 そんな彼女の身体を、そっと抱きしめる。 花火さんは、本当は、何かとても重たいものを背負っている人なのかな。 普段は明るく振舞っているけど―――。 「…バカ、みたいでしょ?二十四にもなって、こんなんで…。本当、自分でもヤになる。」 あたしに抱かれたまま、その顔をあたしの肩に置いて、彼女は言った。 そんな彼女の背中を、そっと撫で、あたしは言った。 「ううん…そんなことないよ。悩みとか、誰でも持ってるし。それを見せずに強く生きる人もかっこいいけど、その弱さを見せることも、強さなんじゃないかな。」 …だからあたしは、その弱さすらも見せることの出来ない、弱い人間なんだよ。と、胸の中で続けた。少なくとも今は、あたしの弱さなんか見せる時じゃない。彼女がその弱さを、少しずつ見せようとしてくれているんだから。 「―――芹華、あたしのこと、嫌いにならない?」 小さく言う花火さんに、「うん。」と頷いた。 あたしの肩におでこをくっつけたまま、花火さんは少し笑ったみたいだった。 「……話してもいい?…あたしの、弱さ。」 「いいよ。どんとこい。」 あたしが言うと、花火さんはまた少し笑って、そしてポツリポツリと話し始めた。 彼女の、悲しい過去。 追憶―――。 聞き終えた芹華は、黙ったまま、唯、あたし―――國府田花火―――を抱きしめていてくれた。 「辛かったし、悔しかったよ。…なんで、あたしを助けたの?って…潤也に問いたかった。 でも、その答えは――――あの、呟きに、全部、含まれてたんだよね…。」 洗いざらい話した後、随分気が楽になった。 でもそれと同時に、あの時の苦い思いが蘇ってきて、泣きたくなった。 「…生きろ、花火。」 ポツリと芹華が零した言葉に、あたしは顔を上げた。 そんなあたしに気づいた芹華が、小さく微苦笑を浮かべる。 「―――そうだね。潤也さんの切実な願いは、それだったんだよ。」 「う、ん…。」 小さく頷きながら、あたしは芹華から目が話せなかった。 芹華が言ったその言葉が、声が、…潤也の声と重なって聞こえた。 潤也以外の誰かからその言葉を言われたことが初めてだったからなのかもしれない。 でも、その言葉を彼以外の人から言われることで、彼の気持ちが、彼女の気持ちのようにも見えてしまって―――。 あたしは自分から、芹華の華奢な身体を抱きしめていた。 潤也の代わり、なんて、聞こえが悪いけど―――あたしがこの子に今求めているのは、他に相成らない。彼のような優しい微笑み。あたしを想ってくれる彼の真っ直ぐな気持ち。それを、欲してるんだ。 でも、芹華はそんなあたしの思いを見透かしたように、言った。 「あたしは、潤也さんの代わりにはなれないよ。」 「…。」 「…でもね、気を紛らわせることくらいなら、出来るかもしれない。あたしで良かったら、好きにしていいよ。」 そんな優しい芹華の言葉が、嬉しくて、でも同時に切なかった。 好きにしていい、なんて。恋人持ちが言っちゃだめでしょ……バカね。 「……芹華。」 あたしは彼女の頬に手を沿え、そっとその顔を持ち上げた。 芹華は少し驚いた様子だったが、ふっと目線を逸らし、微笑んだ。 抵抗しなさいよ。ねぇ。あたしの好きになんかさせないで。 ―――じゃなきゃ…。 「ん、…。」 キスを落とした時、芹華の漏らした声が切なかった。 芹華はこんな色っぽい声を出せるような、『女の子』なんだって。 わかってる。潤也の代わりなんていないこと。 わかってる。―――それでも。 あたしはくちづけを重ねた。 潤也の代わりなんかじゃなく、芹華という一人の女の子を―― もっと、好きになりたかった。 「あ、れ?」 その二人の姿が目に入り、あたし―――田中リナ―――は小さく声を上げた。 芹華と、花火さん…だよね。 遠目に見えるのは、焚き火の傍で寝転んだ二人の姿。 そっか、こんなところにいたんだ。 実は、西野さんに二人の姿が見えないから探して来てって言われて来たワケで。 二人の姿が見えたから引き返そっかなって思ったんだけど、ふと、こんなところで寝てると危ないんじゃないかな、と思いついて、あたしは二人の方へ歩きだす。 二人は寝転んだまま、談笑してるみたいだった。 「芹華!は…、こ、國府田さん!」 あ、危な。 思わず國府田さんのファーストネームを呼びそうになり、慌てて言い改める。 「おぅ、リナ。どうした?」 國府田さんが、あたしを見遣り言う。(考える時も花火さんじゃなくて國府田さんにしよう。じゃないと思わず名前呼んじゃいそうだし。) 「えーと、二人の姿が見えなかったから探しに来ました。何やってるんですか?」 とあたしが言うと、芹華はひょいと手を上げ、ひょこひょこと手招きした。 「へ…?」 その妙な手の動きにきょとんとしつつも、手招きされたし、あたしは二人の傍に近づく。 「リナもおいで。こうやって寝転んで空見てると、気持ちいいよ。」 と芹華が言う。あたしは立ったまま空を見上げ、相変わらずすんごい数の星に、少し見惚れた。 その時、手を掴まれてぐいっと引かれ、 「わわっ!」 声を上げつつ、あたしは地面に膝をついていた。 「寝転んで見なさいっつってんの〜。ほれ。」 あたしの腕を掴んだのは國府田さんだった。 「あ、はぁ…。」 渋々、雑草と砂の混じる地面に寝転んだ。 三人で川の字になってなんなんだろ、って思ったけど、こう、顔を動かさないでも目線に星空が飛び込んでくるっていうのは、なんだか気持ちよかった。 時々キラッと、流れ星が流れていく。 「―――流れ星、何かお願い事しました?」 あたしがそう問うと、芹華は 「日本に帰れますよーに。」 と答える。 あ、そりゃそうだよね。 そして國府田さんは、 「……リナに早く恋人ができますよーに。」 と言って、笑う。 「む〜余計なお世話ですぅっ。」 あたしが言うと、二人はクスクスと笑っていた。 恋人って…。そりゃ欲しいけど、こんな女ばっかりじゃ意味ないじゃないっ。 カッコイイ男の人が漂流してくればいいのになぁ。…あ、でもあの船の乗客って女ばっかなんだっけ。 「でも、リナちんは可愛いし、既に誰かに目ぇ付けられてたりして。」 「え?誰か…って?」 芹華の言葉に、聞き返す。すると彼女は、 「唯奈辺りかな〜。あ、それか晶とか。」 などと言う。え?それって… 「何言ってんのよ、晶はミーハーでしょ?」 「あーそっか。舞ちゃんかぁ。」 二人の会話に、あたしはハテナマークを沢山飛ばしていた。 何?? 「―――あ、そっか、リナって普通の女の子だもんねぇ。」 ふと気づいたように、國府田さんが言う。 「普通の女の子って…否定はしませんけど…。」 二人が何を話しているのか理解できずに、あたしは小さく言う。 すると、がばっと芹華が上半身を起こした。 「じゃ、こっちの世界に引きずり込まないと、ね♪」 笑顔で言う芹華……嫌な予感。 「ちょっと、あの、こっちの世界ってどっち?!」 あたしも慌てて上半身を起こし、芹華に言い返す。 しかし突如――― ガバッ。 …と、後ろから羽交い絞めにされる。 「え!?ちょっと、國府田さん!何するんですかー!」 國府田さんに後ろから捕まえられた状態で、もがけど離してくれそうにない。 「芹華、今だ!やっちまえ!」 「ふっふっふ…。」 芹華はニヤリと笑って、あたしに詰め寄った。 う、うわ、ちょっと、待って、何これー!? 芹華の顔が、あたしの顔に近づく。 ―――うっそ!? 何をされるか微妙に察し、思わずきゅっと目を瞑った。 や、や、やややや…。 女の子同士なのに!こ、こんなこと! き、キッ―― ふわっ ―――ス? …じゃなく、本当に微かに、あたしの頬に何がが触れた感触。 「へ…?」 目を開けると、クスクスと笑っている芹華。 と同時に、國府田さんも力を緩めた。 わけがわかんなくて、あたしは今何かが触れた自分の頬に手を当てた。 なんだか火照っている。 「え、えっと…、今の、何…?」 あたしが小さく聞くと、芹華はまたフッと笑って、 「ほっぺにちゅ。」 と答える。 「え…、…えー!!?」 その答えに、あたしは驚きの声を上げた。 だ、だって、唇とは思えないくらい、やわらかくて、優しく、て――。 ―――あ、そっか。 ふと、自分の唇に触れてみる。 …女の子の唇って、やわらかいんだ。 あたしが知っているほっぺにちゅ、とは、随分違う。 男の子の唇はいつもガサガサで、ヒゲがチクチクして。 でも、女の子は、違うんだ…。 「って…か、感心してる場合じゃなくて!もー何するのよぉっ!!」 あたしはふと我に返り、頬を膨らませて芹華に言った。 芹華は楽しそうに笑って、 「リナにも女の子のステキさを教えてあげよーと思っただけ。あたしには純さんが居るから、別に変な意味はないよん。」 とかなんとか言う。 もぉ、変な意味になんて取ってないよーっ。 ついつい紅潮してしまう顔を隠すようにあたしは立ち上がった。 「変なことしないでください!失礼しますーっ!」 ベーッと舌を出した後、二人に背を向けて駆け出す。 あーもう…! …。 何赤くなってるのよぅ、あたし。 は、はずかしー。 「あ、おかえりなさい。二人は居た?」 私―――緋榁成―――は、微笑と共に彼女――田中リナ嬢を迎えた。 「え?えぇ、いました。……楽しそうでしたよ。」 …? 少し様子が違う彼女に、 「何かあったの?」 と私は問う。 すると彼女は、かぁっと頬を赤らめた。 「な、な、なんでもありません!」 ふるふると首を振り、その両手で頬を覆う。 あらあら。何かあったみたいね。 芹華ちゃんと國府田サンじゃ、何か企んでも不思議じゃないでしょうし…。 「はぁ…。」 小さなため息と共に、流木に座り込むリナちゃんに、私は微笑む。 内心―――なんて可愛いのかしら、などと思いながら。 実は私は、彼女に密かな恋心を抱いている。…実は、ね。 出逢った瞬間、まるで電撃が走ったような感覚を感じたの。 カワイイ。―――この普通っぽさ、きっとごく普通の人生を送ってきたであろう少女。 こういう子を、禁断の同性愛に引き入れる楽しさと言ったらもう。 そう。何を隠そう、私はレズビアンである。 男性と付き合った経験がないわけではない。リナちゃんくらいの年齢の頃は、周囲の目もあり、男性と形ばかりの付き合いを経験した。 けれど、本気になれることなど一度もなかった。 そして気づいたの。私は女性しか愛せないのだと。 今でこそ交際している女性は居ないけれど、様々な恋愛を経験してきた。 年上、同じ歳、そして年下。 中でも一番燃えたのは、年下の女の子との恋愛。 慕われる喜び。教える喜び。 “年上のお姉さん”としての自分が、とても自然に思えるのだ。 そしてそんな年上のお姉さんとして、ありとあらゆることを手取り足取り教えてあげたい。 田中リナという少女は、そんなことを私に思わせる。 「…ねぇ、リナちゃん。」 私は、そんな彼女に声を掛けた。 「あ、はい。…なんですか?」 焚き火を見つめ未だに苦悩していた様子の彼女は、私の呼びかけに顔を上げた。 「あのね。…リナって呼んでも、いい?」 そう微笑んで言うと、彼女は小さく笑み、 「はい、いいですよ!」 と元気に答えてくれる。ふふ、可愛い子。 「じゃあ、私のこともファーストネームで呼んでね?」 「わかりました。じゃあ、成さんって呼ばせてもらいますね。」 そんなリナの言葉、私は素直に嬉しかった。 「名前、覚えててくれたのね。」 「当たり前じゃないですかっ。成さんって素敵な名前だし。」 「本当?ありがとう。…リナも、可愛い名前よね。」 「わ、ホントですか!?……嬉しいです。」 ぱぁぁっと明るくなるリナの表情。 喜怒哀楽がストレートに出せること、とても良いことだわ。 リナ。なんて可愛い子。食べてしまいたいくらい。 そんな私の下心にも気づかず、リナは嬉しそうに焚き火に小枝をくべる。 いつか絶対、この手中に入れて見せるわ。 絶対に――ネ。 「あ、あの―――。」 躊躇いがちな声に、私―――西野菜花―――は振り向いた。 焚き火の傍で、ベッド代わりの草を敷き詰めている所だった。 そこに居たのは、草を両手に抱えて、はにかむ女性。…如月さん。 『―――冷たい人やな。』 彼女の言葉が今でも頭の中を巡り、そのせいもあり、私は彼女を直視出来なかった。 目線を逸らすために作業を進めながら、事務的に 「集めてきてくれたんですね。ありがとうございます。その辺に――」 「あ、あのな、ちょっと話聞いてくれんかな?」 …言おうとした。 しかし、顔を合わせずらい――そんな私の思いとは裏腹に、彼女は言った。 ……。 「―――なんですか?」 彼女を見遣り、言う。 焚き火を背にしているため、彼女の顔は影になって見えなかった。 「え、えっと…その、この前、なんか悪いこと言うてしもたかな、と思うて…。」 「そうでしたか?私は記憶にありませんけど――」 思わず、そんなことを口走ってしまう。 悪い癖。話をはぐらかすために、覚えていない振りをする――。 「あ…。」 微かに漏らした彼女の声が、どこか残念そうに聞こえた。 「…そ、それならええんや。…邪魔して、ゴメン。」 彼女は両手いっぱいの草をバサッと地面に落とし、まるで逃げるように、私に背を向けて駆けて行った。 「…ッ…。」 一人、小さく眉を寄せた。 彼女が謝ろうとしていたかもしれないのに。 ―――私は、そんな彼女の誠意を裏切ってしまった…? 「……。」 彼女は焚き火の傍を横切り、森へと入っていってしまった。 また草を探しに行ってくれたのだろうか。 …私の目が届く焚き火の傍には、居ずらかったのだろうか。 ―――。 一人悩んでも仕方がない、と、私は作業を再開した。 「西野さん。」 その時、また私に掛かった声に顔を上げる。 先ほどまで焚き火の傍に居た、悠祈さんだった。 「…はい。」 私が答えると、彼女は微苦笑を浮かべた。 「ごめんなさい、盗み聞きしようと思ったわけではないのですけど…聞こえてしまって。」 「…そう、ですか。」 彼女の言葉に、私は目線を落とした。 「――あの、あくまでも私の推測ですけど……唯奈さん、謝りたかったのではないでしょうか。詳しいことはわかりませんけど、その――」 「わかってます!」 ――、 …あ…。 思わず、彼女の言葉に強く言い返していた。 聞けば不愉快であろう、邪険にするような口調で。 「あ、…ご、ごめんなさい。お節介ですよね。…ごめんなさい。」 目線を落としてそう言う悠祈さんに、私は慌てて、 「い、いえ…こちらこそ、すみません…。つい、その…。」 と、頭を下げる。言葉を濁すようなはっきりしない言い方は嫌いだが、今は、言葉が出ない。 「―――手伝いますね。」 「え…?」 ふっと微笑んで言った彼女に、私は少し驚いた。 怒っても当然の場面なのに、彼女は微笑んでくれた。 彼女が草を均し始めたので、私も作業に戻る。 二人無言で作業を続けていたが、ふと、彼女は小さく言った。 「―――お節介かもしれませんけど、聞いて下さい。」 「…はい。」 私が小さく頷くと、彼女は微笑み、 「唯奈さん、最近少し元気なかったから、もしかしたら西野さんのことを気にしているのかもしれません。―――西野さんから話し掛けてあげたら、少しは違うんじゃないかなって思います。大事なのは、きっかけですから。」 と、言ってくれた。 「……はい。」 胸の奥から何か込み上げてくるような、切ない感情を押し殺し、私は頷いた。 彼女は一つ微笑むと、また、作業を続けた。 ……きっかけ。 如月さんは折角きっかけを作ろうとしてくれたのに、私はそれを拒否してしまった。 私自身、気にしていたはずなのに。 …次は私の番、か。 ―――。 なんだろう、この複雑な感情は。 どんなに勉強が出来たって、自分自身のことが理解出来ていないのでは、何の意味もない。 …ここに居る人々は、それを教えてくれる。 感謝、しなければいけない――。 「………芹華?」 隣で眠る女の子に、あたし―――國府田花火―――は声を掛ける。 返事は無かった。代わりに、規則正しい小さな寝息が聞こえる。 空は微かに白み、まもなく朝の訪れを告げる、そんな時。 結局あたしと芹華は、皆から少し離れた焚き火の傍で眠りについていた。 今はその焚き火も消えてしまって、半そででは少し肌寒い。 暖を取ろうと手で二の腕をさすりながら、何気なく、隣で眠る芹華を見遣る。 ―――あたしの過去を知る、ここでは唯一の人物。 なんて不思議な少女だろう、と、そんなことを考える。 まだ出逢って間もないあたしを、理解しようとしてくれる。 あたしの力になろうとしてくれる。 強い、少女。 …でも、この子にだって何か弱さがあるだろう。 あたしはそれを知りたいと思う。 だって、あたしの弱さは知ってるくせに、自分の弱さを見せないなんて不公平だし。 「芹―――」 小さく名を呼ぼうとして、ふと、気づいた。 芹華の右腕。 七分袖が捲れ、露になった肘より少し上の部分。 あたしはそっと手を伸ばし、袖をめくった。 そして目に入ったそれに、あたしは小さく眉を顰めていた。 古傷――。 しかも、随分生々しい、大きな傷。 刃物か何かで深く傷つけられたような、そんな、傷。 深い傷なのに、縫った跡はない。 これは、一体――? 「…う、…ン…。」 ! 芹華が小さく寝返りを打った瞬間、あたしの指先が、その古傷に触れた。 「―――ッ…」 刹那、芹華が眉を顰める。 「…ぅ…?」 あたしは慌てて手を引いた。 それと同時に、芹華は小さく目を開けた。 不思議そうにあたしを見上げる瞳が、揺れた。 芹華の左手が、その古傷に触れた瞬間、芹華は目を見開く。 「――!」 慌てたように、左手で古傷を覆った。そして、 「……見、た…?」 と、掠れた声で、芹華は小さく言った。 あたしは一瞬迷ったが、ここで嘘が通じるようには思えない。 「うん…。」 頷くと、芹華はあたしから目線を逸らし、困惑したような表情を見せた。 上半身を起こし、右腕の袖を伸ばし、古傷を隠す。 「―――忘れて。」 …芹華はポツリと呟いた。 しかし、そう言われて素直に頷けなかった。 あたしが沈黙していると、 「…お願い、忘れて。」 と、語調を強めて言った。芯の通った、真っ直ぐな口調で。 「…わかった。…でも、話したくなったら、話してよ?…気になるから。」 あたしがそう言うと、芹華はチラッとあたしを見て、自嘲的な笑みを浮かべ、 「話したくなったら、ね。……でも、あんま気にしないで。」 と言う。 あたしには見せたくない、古傷…か。 芹華の様子からして、それは知られたくない過去を背負っているのだろう。 何か深い理由が、刻まれているのだろう。 今はまだあたしの介入を許さない、芹華の過去。 「―――まだ朝日昇ってないじゃん。…寝直すね。」 芹華は欠伸を一つして、コロンと寝転がった。 その左手は、右腕の古傷を庇うように、そこに添えられたままだった。 「ん〜ッ…」 寝転がったまま小さく伸びをし、あたし―――福智晶―――は目を開けた。 直に差す朝日が眩しく、目を細める。 朝。清清しい自然の空気を深く吸い込み、吐き出す。 気持ちいいなぁ。 海から流れる潮風を肌に感じながら、あたしは起き上がった。 横には、まだ眠っている女性達の姿。 あたしは一つ欠伸をして、何気なく焚き火の方を見遣った。 ――あれ? 目に入ったその人物の後ろ姿。 焚き火の傍の流木に腰掛けている。 柔らかそうな茶色の髪、…あれは、悠祈サン、か? 「おはよー。」 あたしは焚き火の傍に歩み寄りつつ、彼女に声を掛けた。 すると、少しの間の後―― 「…あ?…あ、おはようございます。」 寝ぼけ眼で、あたしを見上げて言う彼女に、小さく笑う。 「眠いならもうちょっと寝てたら?小一時間くらい。皆起きるまで時間あるだろうし。」 「…いえ。…大丈夫です。」 そんな微笑み。 …だけど、眺めていて、彼女の様子が尋常じゃないことに気づく。 「目の下、隈、出来てるぞ?……ちゃんと寝た?」 薄っすらとその表情に滲む疲弊の色に、あたしは感づいた。 どことなく顔色も悪いみたい、だし―――。 「…すみません。…先に寝ようかとも思ったんですけど、…もう少し待ってようって思っていたら、いつの間にか朝になっちゃって…。」 「待つ、って…。」 彼女の言葉、少し考えて、ふと気づく。 「もしかして、芹華のこと待ってたのか?」 そう言うと、彼女はふっと俯いた後、苦笑して 「…はい。」 と、小さく答えた。 待ってたって…朝になるまで、ずっと? 寝ずに…!? 彼女の疲弊の理由を理解した時、あたしはなんとも言えない怒りが込み上げた。 無理をして待っていた悠祈さんにではなく、こんな健気な彼女を待たせていた女に、だ。 「芹華、何処行ったんだ?探したのか?」 「…い、いえ。一人で行動するのは少し心許なかったので…。…戻って来るかな、って、思ってたんですけど…。」 ―――ッ、あのヤロー! 「待ってろ。探して来るから。な!」 あたしは彼女にそう言うと、返事も聞かずに駆け出していた。 居るとしたら、向こうの焚き火くらいだろ。 そんな考えがビンゴした。距離にして100メートル弱の場所で、芹華の姿を見つけた。 それと共に、なんだか歯がゆい思いを抱く。 たったこのくらいの距離を、なんで悠祈さんは探さなかったんだ? だった、このくらいの距離で―――。 焚き火の傍で暢気に眠る芹華。 芹華を、たたき起こそうとした、その時。 「…あれ、晶?」 そう掛けられた声に、あたしは森から出てきた人物を見遣った。 國府田さん。 「…芹華と、一緒だったんすか?」 あたしは怒りを抑え、少し低い声で言った。 「うん、まぁね。…あ、心配掛けちゃった?一応リナには言付けたつもりだったんだけど―――。」 彼女の言葉を聞き終える前に、あたしは芹華の腕をグイッと掴み上げた。 あたしは聞きたかったのは、芹華がこの年上の女と一緒に居たのかどうか、それだけだ。 健気な女性を待たせて、こんな――― 「芹華!!」 あたしがそう怒鳴ると、芹華はまるで起きていたような様子で、スッと細めた目であたしを見上げる。 「――お前な、なんでこんなところで寝てんだよ?……しかも、年上の女と二人っきりで、か?!」 「ちょっと、晶!?」 芹華の襟首に手を掛けようとしたあたしを、國府田さんが止める。 「っ!」 衝動に任せて、あたしは腕を思い切り振った。 「っわ……!?」 あたし―――國府田花火―――は、晶に突き飛ばされ、一瞬意識が途切れるような感覚を覚えた。ドンッと背を樹に打ち付け、痛みに眉を顰める。 目に飛び込んできた光景に、あたしは慌てて声を上げた。 「晶!」 芹華の襟首を掴み、険しい表情で芹華を睨む晶。 苦しそうにしながらも、不機嫌そうに晶を見つめ返す芹華。 そんな睨み合いの中、先に声をあげたのは芹華だった。 「痛ッ…、離しなさいよ……」 そう言いながら芹華は、先ほど晶に掴まれた右腕を、左腕で庇うように押さえていた。 右腕――? そうか、さっき晶が掴んだところ、芹華の古傷があるところなんだ…。 「―――今の今まで、寝ずにお前のことを待ってた奴がいるんだ。…誰かわかるか?」 押し殺したような声で、晶が言う。 その言葉に、芹華は小さく目を見開いた。 「――ッ、…」 苦しそうに眉を顰める芹華からようやく手を離した晶は、小さく咳き込む芹華に怒鳴る。 「悠祈純。…お前だって、彼女の気持ち知ってるんだろ!?なのになんで、こんな所で年上の女とイチャイチャしてるんだよ!!ふざけんな!!!」 ――純が…芹華を、待ってたって言うの? ずっと?朝まで――? 「あ、晶!いちゃいちゃなんて、そんな誤解よ!」 あたしは立ち上がって晶の腕を掴んだ。 キッ、とあたしを睨みつける晶。…その瞳の奥に、悲しみを称えて。 「誤解だろーが何だろーが、悠祈さんが待ってたことには違いないんだ!!國府田さんだって、芹華と純がどういう関係か知ってるなら―――!」 晶が不意に言葉を切ったのは、立ち上がった芹華が、そんな晶の襟首を掴んだから、だった。 そして―― パン! と、乾いた音が響いた。 晶の頬を打ったのは、芹華。 驚いた様子で芹華を見下ろしていた晶は、ふと我に返った様子で何か言おうとした。 しかし芹華は被せるように、 「決め付けないで。…―――晶に勝手に介入されると、困るんだよ。」 と、冷たい口調で言う。 あたしは、そんな芹華の言葉が、嬉しくもあり…同時に悲しくもあった。 「純さんには謝るし、みんなに心配掛けたことも悪かったって思ってるけど―――。気安くあたしに触れたり、しないで。」 ―――え? 芹華が不意に零した言葉に、あたしも晶も、一瞬その意味が理解出来なかった。 芹華が晶に対して怒っているのは、あたしを庇ってのことだと思っていた。あたしが芹華を拘束したばかりに芹華は此処で眠ることになって、あたしたちの間に変な意味での関係はなかったっていうことを明らかにしたいのだとばかり。 ――だけど、違う。芹華が怒っているのは、晶があの古傷に、触れたから…? 「―――ごめんね、晶。」 芹華は小さく零し、小走りに駆けて行った。 あたしも晶も、その背中を見つめることしか出来なかった。 少しの間そうしていて、ふとあたしは我に返り、 「あ、あのね晶、芹華は…」 とフォローを入れようとしたが、晶は尚も芹華が駆けて行った場所を見つめていた。 あたしはふと、その様子がおかしいことに気づく。 晶は、何か信じられないものを見ているような、そんな目をしていた。 「…晶?」 その異変に、あたしは晶に声を掛ける。 「あ…?…あ、…あぁ。」 晶はあたしの声に気づきながらも、尚も驚きを隠せない様子だった。 そしてポツリと、こう口にした。 「――芹華の顔、どっかで見たことあると、思ってたんだ…。」 「…え?」 晶は落ち着かない様子で、ギュッと手を握り締め、小さく唇を噛む。 「な、何よ…知り合いなの?」 あたしの言葉に、晶は首を横に振った。 そして、小さな声で、話し出した。 「――二年前、少年法が厳しくなった、だろ?…2003年の、少年法大改革。」 晶が語り出したことに、あたしは小さく眉を顰める。 確かに、少年法大改革は記憶に新しい。 「その発端になった事件、知ってるか…?」 晶は小さく言い、あたしを見遣る。 あたしは少し考えた後、 「……確か、女の子よね。若い女の子が起こした殺人だったと、思うけど…。」 そう自分で言った後、嫌な予感にとらわれた。 「そう。ケンカで相手を殺したってヤツだ。…殺されたやつにも原因があったから、その少女自体の罪はそこまで重くならなかったらしい。―――知ってるか?その少女のプロフィール、ネットで流れてたんだ。」 晶の言葉に、あたしは思わず、芹華が駆けていった方を見遣っていた。 ―――ッ。 「はっきり言って。どういうことなの。」 あたしは再び晶に目線を戻すと、その目を見つめ、強く言った。 晶は躊躇うように口篭っていたが、やがて小さく、ポツリと零した。 「その少女は―――真宮寺芹華、十六歳。」 「クッ……!」 あたし―――真宮寺芹華―――は、ズキンと響いた痛みに足を止めた。 焚き火へと向かっていた足を、森へと向かわせる。 茂みに入ると、あたしはその場でうずくまった。 晶に強く掴まれたことで、痛みが目を覚ましたのだろうか。 ズキン。ズキン。 不意に痛み出す古傷は、きっと一生消えないであろう、大きな傷。 ―――あの女と刺し違えた時の、傷。 服の上から、そっと左手で傷に触れると、その部分だけ酷く熱を持っていることがわかる。 これが痛み出す度に、思い出してしまう。 消してしまいたい過去。 ―――愛していた、女性。 そして一度だけ、心底憎み、その命すら奪ってしまった。 後悔。 愛していた。 だから、許せなかった。 そして彼女も、許してくれなかった。 お互いに、愛しすぎていたから―――。 『私は芹華を殺す。…だから芹華は、私を殺して。』 どうしてあの時、嫌だと言えなかったんだろう。 どうしてあの時、頷いてしまったんだろう。 そしてあたしはどうして、―――死ななかったんだろう。 ズキン。ズキン。 「…ぅ、…」 痛みに、小さく声が漏れる。 きゅっと歯を食いしばり、痛みが引くのを待った。 「――芹華?」 「…!」 突然掛けられた声に、あたしは驚いて顔を上げた。 そこにあったのは、無表情な、遊夢の姿。 「…どうしたの?怪我?」 あたしの姿を見て、即座にそう言う遊夢。 「な、なんでも、ない…」 強がって言うが、それが遊夢に通じるとは思えなかった。 「―――見せて。」 遊夢があたしの傍にしゃがみこんで、そう声を掛ける。 あたしは遊夢の言葉に、首を横に振った。左手で傷を覆ったまま。 見ないで。あたしのこんな傷を、―――誰も、見ないで!! 「見せるんだ。」 遊夢はあたしの右手を握る。 ズキン。 その小さな衝撃で、響き渡るような痛みが生じ、あたしは歯を食いしばったまま、更に首を横に振る。 ダメ、見ないで。見ちゃダメだよ。―――ダメ…! ぐいっ! 「うぁッ…!」 強引にあたしの左手を退ける遊夢。 痛みに、思わず顔を歪ませた。 「―――古傷?」 …! あたしは咄嗟に傷を隠そうとした。 しかしそれより先に、遊夢の手が、あたしの傷に触れていた。 ……冷たい手。 「は、ぁ……」 あたしは左手を落とすと、小さく息をついた。 これ以上無駄な抵抗をしたって、余計痛みが酷くなるだけだと思ったから。 「…待ってて。」 遊夢はそう言い残し、姿を消した。 あたしは樹の幹に背を預け、小さく息をしていた。 ぼんやりと、何も考えないことで痛みをも忘れてしまおうとした。 時間の経過すらも忘れていたので、どのくらいの時間が経ったのかわからない。 再び現れた遊夢に、あたしは小さく目を遣るだけだった。 「安静にしていれば、おそらく沈静化するはず。」 遊夢は淡々とした口調で言い、あたしの傷に冷たい何かを巻きつけた。 一瞬、遊夢と目が合う。 透き通った目。この、無感情な黒い目は、一体何を映しているんだろう。 やがて遊夢は立ち上がり、 「そのまま休んでいればいい。……誰にも言わない。」 と言い、何事もなかったように去っていった。 …誰にも、言わない? ―――遊夢、…ありがと…。 心の中で小さく呟き、あたしは目を閉じた。 |